mimi-fuku通信

このブログを通して読み手の皆様のmimiにfukuが届けられることを願っています。

舞踏家:大野一雄さん(103歳)死去。

2010-06-03 20:55:55 | 美術・芸術・創造


 鳩山首相の辞任と言う大きなニュースに隠れ、
 大きな話題とはなりませんでしたが、
 舞踏家の大野一雄さんが6月1日:午後4時38分に亡くなりました。

 大野一雄さんついて語る知識は何もありません。
 でも、
 テレビで何回か拝見した大野さんの踊りに衝撃を受けた記憶があります。
 目に映る老いや醜さを包み隠さず表現した陰の舞踏。
 抽象芸術の分類に入るだろう難解な舞踏に心惹かれました。

 103歳という大往生
 最後まで踊り続けた大野さんの人生は、
 求道者を越える深遠の追求者だった。
 そんな思いがします。
 
 下記に自分用のメモとしてWeb読売新聞とWeb東京新聞の記事を記入しました。

 103歳の世界的舞踏家、大野一雄さん呼吸不全で死去。

 日本独特のダンス「舞踏」の創始者の一人で90歳を超えて現役で踊り続けた、
 大野一雄(おおの・かずお)さんが1日午後4時38分。
 呼吸不全のため亡くなった。
 103歳。
 北海道函館市出身。
 1929年にスペインの舞姫:アルヘンチーナの来日公演に衝撃を受け、
 
ダンスを始めた。
 その後召集されて中国・南方戦線で多くの死を目撃。
 「死と再生」は後の主要モチーフとなった。
 復員後49年に初リサイタル。
 50年代後半から前衛舞踊家の土方巽(ひじかたたつみ)と組んで、
 実験的な作品の発表を続け白塗り緩慢な動きすり足などを特色とする、
 舞踏を創出した。
 77年にアルヘンチーナをたたえる「ラ・アルヘンチーナ頌(しょう)」を完成。
 さらに「わたしのお母さん」「死海」「睡蓮(すいれん)」「花鳥風月」などを発表した。
 国際的に認められたのは80年の仏ナンシー国際演劇祭。
 「ラ・アルヘンチーナ頌」を海外初演した。
 当時73歳。
 老醜を表に出して全身に情念をにじませる踊りは、
 外見的な美に重きを置きがちだった西洋のダンス界に衝撃を与えた。
 90歳を超えても欧米各国で公演。
 ドイツのピナ・バウシュ、英国のリンゼイ・ケンプら、
 影響を受けた振付家やアーティストは数多い。
 2000年に腰を痛め自力で立てなくなったが、
 翌年からけいこ場で公演活動を再開。
 大きな手を舞わせて生命などを表現した。
 07年1月の100歳記念公演「百花繚乱(りょうらん)」にも車いすで出演した。
 
~2010年6月2日/読売新聞記事転載。

 世界的に活躍した前衛舞踏家の大野一雄さん(1日死去、享年103)。
 九十歳を超えても車いすで表現を続けるなど、
 強靱(きょうじん)な生命力にあふれた巨人だった。
 大野さんを知る関係者からは死を悼む声が相次いだ。
 日本体育会体操学校(現日本体育大学)在学中、
 二十世紀のスペイン舞踊の革新者ラ・アルヘンチーナの公演に感銘を受け、
 舞踊家の道を目指す。
 モダンダンスを学んだが太平洋戦争で中国、ニューギニアなどに従軍。
 復員後、一九四九年、四十三歳の時、東京・神田共立講堂で初リサイタル。
 その後、
 暗黒舞踏の土方巽さんと出会って舞踏に転換。
 日本人の内面的な身体表現を重視しながら活動を展開。
 「BUTOH(舞踏)」を世界に広めた。
 九九年、米ニューヨークでの公演「20世紀への鎮魂」以後は、
 視力、体力ともに衰退。
 歩けなくなると支えられ、
 立てないときはすわったまま、
 車いすで手だけ、
 踊りへの執念を燃やし続けた。

 国内外で数ある活動の中でも印象的だったのは、
 二〇〇二年、新潟県十日町市の信濃川河川敷で、
 生け花作家・中川幸夫さんが企画した「花狂」。
 ヘリコプターからチューリップ二十万本分の花びらを散らす中、
 すでに足が不自由だった九十五歳の大野さんがいすで舞を披露、
 数千人の観客を魅了して大きな話題となった。

    ◇

 大野さんがたびたび舞台に立った東京・両国の「シアターX(カイ)」。
 芸術監督の上田美佐子さんは、
 「認められたい、喜ばせたいというのが一切ない。
 命への無償の愛情をささげる人だった」
 と振り返る。
 舞台を終えても劇場ロビーで踊り続けた大野さんの姿が忘れられないという。
 観客も皆帰らずシーンとなって見詰め続けた。
 「サービスじゃない。踊ることが本当に好きだった。
 芸術は惜しみないもの。生きものの神髄に触れていた」

 「土方さんとは同志だったけど底流には舞踏にとどまらない広い視野があった」
 とも。
 海外では日本以上に神格化され評価が高かったという。
 同劇場で公演がある際も多くの外国人ファンが訪れた。

 「華やかで色気があってみずみずしい生命力。
 九十歳すぎてもすき焼きと焼き肉がお好きだった」
 という一面も。
 晩年、
 車いすで公演したときは、右手だけで踊り舞台上で眠ったこともあった。
 「大野さんしかできない独自の踊り。踊りながら、踊りたいものが出てくる。
 天に昇られても、限りなく踊っておられるのでは。
 命を踊ること。それは今の若い人にも通じると思う」

    ◇

 二十代のころ初めて大野さんの踊りと出合ったという劇作家の唐十郎さんは、
 「すごいダンサーがいる、というので見に行った。
 白塗りの脚がしなやかでメルヘンを感じた。ただうっとりと見入った」。

 土方さんとは舞台でも付き合いがあった唐さんだが、
 大野さんについては一観客として見守ることが多かったという。
 「土方先生は論客、大野先生は寡黙な方。
 対照的だけどライバル以上の関係だった」
 と話す。

 「どんな空間も踊り場にしてしまった。
 廊下や階段で、あの輪舞をもう一回見てみたい」
 と、“巨人”の死を惜しんだ。
 
~以上2010年6月3日/東京新聞:朝刊記事転載。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 『鳩山由紀夫首相が辞任(201... | トップ | 第94回『日本陸上選手権(20... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

美術・芸術・創造」カテゴリの最新記事