今日は、30分だけ指慣らし。
音楽の次が政治で、読まれる方も大変かな?って、思います。
政治のことはできるだけ避けようと思ってたのですが、う~ん。
色々考え始めるとキリがないし、政治をテーマにし出すと、際限無く書かないといけないし・・・。
別のブログを立ち上げて、堅い話と、柔らかい話を分けることも考えていますが、時間の都合もありますし、どうしたものか?
3月の中旬から、クラシック音楽の番組について、特集のように記事を連続して書きましたが、調べる時間もかかってしまい、多い日は、調べモノ含め、1日3時間ぐらいはパソコンの前に座っていました。
自分のためにパソコンを開く時間は1時間以内と決めていたのに、最近は調べ癖に火がついて長文が多くなっています。
調べ癖と言えば、記事の中の「芸術の統制と退廃音楽」については、書いていて興味深いものになりました。
図書館から専門書を何冊か借りてきて、必要と思われる箇所を取り出しながら、自分の言葉に変えていく作業は、パソコンならではです。
前は、図書館の本は読むだけ。
自分の本は二色鉛筆で、棒線書き。
あるいは、ホントに覚えたい本の内容は、ノートに記帳。
そのようにしていたのが、今では、ノートの変わりにパソコンに打ち込んで、読みたい時に拾い出すことができます。
さらには、自分が一冊の本で感じた部分を打ち込むことによって、不特定多数の読者の方々に読んでもらえ、さらにその部分を引用しながら記事を書くことができる。
「芸術の統制と退廃音楽」を書いているときに、マイルス・デイビスの音楽理論を紹介しながら、シェーンベルクの音楽理論の独創性を肯定的に進めることができたことには、書き手も驚きの発見でした。
「芸術の統制と退廃音楽」の記事の中では紹介できませんでしたが、図書館で借りてきた資料の中で、関楠生さんが書かれた「ヒトラーと退廃芸術」を興味深く読みました。
1992年に2400円で販売された本が、現在、アマゾンの古書市場の中で15700円の価格を付けていますが、内容は<大ドイツ芸術展>と、<退廃芸術展>について、こと細かく記述された専門的な著書で、言語に通じた人でなければ書くことのできない、多くの現地資料を丹念に調べ上げた研究書と言えるでしょう。
関さんがこの本を書こうと思ったきっかけが、エルンスト・バルラハの「再会~キリストとヨハネ」と名の付く彫刻に感銘を受けたことが原因だったそうです。
これほどの素晴らしい作品が、なぜ退廃の烙印を押されてのか?
ひとつの興味が、人の心を動かし、一冊の著書を書き上げるために厖大な資料と格闘させるエネルギーを生み出す。
書き手の思いは、あるいは人間の思いは、読者のために、あるいは自分以外の人々のために、何かを伝え残したいと言う願望を有しているようです。
勿論、自分の知的好奇心を満足させるために、エネルギーを全開させるのですが、その結果は誰かに伝えたいものでしょう。
このことは、もしかして、人間が持つ、あるいは全ての生命体の持つ本能なのかも知れません。
<何かを伝え残す。>
親が子供に対して、想う心(脳の働き)の動きは、現実的に不特定多数にも向けられます。
<何かを伝え残す。>
これは、言葉だけではなく、行動や姿勢の中にも存在しています。
<何かを伝え残す。>
不謹慎ですが、犯罪心理の中にもこのような心の働きが生まれていることは、動きがたい事実のようです。
<不特定多数の方々に、何かを伝え残すこと。>
ブログの持つ有効性は、その点にあります。
しかし、読み手の方が増えれば増えるほど、(ブログをされていない方には、お分かりにならないかも知れませんが、一日の訪問者は、編集画面にカウントされて表示されます。)文書の内容にも責任を持たなければなりません。
で、37分。 ~今日も7分の遅刻。
次回の記事は、何を書こうかな?
もし、リクエストがあれば、変わりに調べてみますよ。
・・・ホント?(嘘かも~エイプリルフールは終わったよ。)
単行本 [ヒトラーと退廃芸術 ]
〈退廃芸術展〉と〈大ドイツ芸術展〉
関 楠生 著 <品切・重版未定>
http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309222349