今日は、ちょぴっとばかし重い話。
時々わたしの側にやってきて戸惑わせるもの。それは、「孤独」ということ。今日も、ふいにやってきて、私は応えられなかった…。
こころに支えのないひととは、なんとかよわいものか。
帰り道、駅でごそごそかばんの中の財布を探していると、「よお」と、ふいに嬉しそうな声。あれ、とみると、いつも貸し鉢をお届けにいく病院の入院病棟の患者のおじさん。顔をあわせる度に「花屋さんこんにちは!」と声をかけてくださる。お出かけですか?と訪ねると、今日はたまのおうちに帰る日だとのこと。「やっぱりおうちがほっとするでしょう。」と言うと、「帰っても誰もいないんだよ。ひとり暮しなもんでね。食事も自分ではちっとも作らないや。」とおっしゃる。電車の中で私の造園仕事の話なんかで盛り上がりましたが、電車をおりる時、ちょっとさみしそうな顔をされていたのが痛ましい。私も一人暮らしが長かったけれど、支えとなってくれるものに恵まれていた。
病棟では、私が行くといつももうひとりのおじさんと共に、しばしの花談義。鉢に関心を持って、私のいない時も水が切れてないか、植物がぐったりしていないか、お二人で(時に気にかけ過ぎるほどに)気にかけてくださる。鉢は観葉植物なので、基本的に葉っぱものしかないのですが、先日,赤い花のついたアナナス(エクメア・チランジオイデスAechmea tillandsioides)を持っていったら、「わあ、お花!」と、女性の入院患者さん達も顔をほころばせました。それ以外はみな、いつ来るともしれない「お見舞い」を待ち続けて、窓の外を見続けている…。
「たすけてせらぴーず~~~!」と、フラワーセラピー3人組のことを思うのはこんなとき。花だけじゃ人の心は助けられない、とはいえ、「本当に助ける」となったら、自分の生活を何もかも全て投げ出してマザーテレサになるしかない。丁稚奉公の身では仕事の自由も聞かないし、お花の説明くらいが関の山。体力も精神力もお金もない。いつも、ごめんなさい、わたしができるのはここまでです、と心の中で謝っている。早く自分で活躍できるようにならなくっちゃ。
それよりもっと前、国際会館駅のバス停。「国際会館駅」は、宝が池の大きな美しい公園の端にあり、デザイン的にも美しいところです。で、そこの、私が乗るバス停のベンチの周りを毎朝ホームレスのおじさんが占拠していた。ちょっと挙動不振なところもあり、バスが来るまで離れて待っている私。あるときふといなくなってしまった。複雑な気持ちながらもちょっと心配。
そこで物思い。今までの経験から言って、居心地のよい公園ほど、というか、だからこそ「弱者」が集まるのですよね。たとえば、ホームレスの方だったり、例えば、一昔前の上野公園の不法就労の外国の人たちだったり、精神的に不自由な方だったり…。でも、自分を含む「強者」はそれを追い出してしまう。「公園はみんなのもの」は、そこでカッコ付きになってしまう。「外にベンチをつけると、変な人が住み着いてしまうから寝そべるようなところは作らないように」なんて、言われたこともあった。さあ、自分は永久に強者でいられるのでしょうか?
折しも、NHKスペシャルでは「中年孤独死」。他人事ではありません。家族も親戚も、一旦関わるとなったらすべてを投げ出さなければならないので、手を引っ込めざるを得ない。当事者が、全て、ではなく、社会、地域全体が、みんなでほんのちょっとずつ、という関わり方が可能ならば。負担に思う気持ちはずいぶん軽くなるはず。
たくさんの孤独な人たち。マザーテレサは、途上国の命の沙漠だけではなく、先進国の心の沙漠も憂えられていた。別にキリスト教徒ではないけれど。他の国々では宗教がそういった人々を救いあげるシステムをもっている。でも、宗教色の薄い日本ではそれはほとんど機能していない。むしろ、地域や社会の閉鎖性がそういった人を閉め出してしまう。ユニバーサルデザインというけれど、さらにもう一歩踏み込んで、何か、そういう人々を救うシステムを、緑、庭、まちづくりの中に作っていけないものか、というのが、わたしのかねてからの懸案です。すごく大きな意味で、ガーデンデザインと、人の命は、直結している。大げさですが、そう思っています。
☆今日のちび庭気温 22~29℃ 曇り~晴 今日はとってもいい気候でしたね。ほんのちょっとイチョウもヤマボウシも色付いた枝が出てきたように思います。今年の紅葉はどうかな?わくわく!(^_^)
時々わたしの側にやってきて戸惑わせるもの。それは、「孤独」ということ。今日も、ふいにやってきて、私は応えられなかった…。
こころに支えのないひととは、なんとかよわいものか。
帰り道、駅でごそごそかばんの中の財布を探していると、「よお」と、ふいに嬉しそうな声。あれ、とみると、いつも貸し鉢をお届けにいく病院の入院病棟の患者のおじさん。顔をあわせる度に「花屋さんこんにちは!」と声をかけてくださる。お出かけですか?と訪ねると、今日はたまのおうちに帰る日だとのこと。「やっぱりおうちがほっとするでしょう。」と言うと、「帰っても誰もいないんだよ。ひとり暮しなもんでね。食事も自分ではちっとも作らないや。」とおっしゃる。電車の中で私の造園仕事の話なんかで盛り上がりましたが、電車をおりる時、ちょっとさみしそうな顔をされていたのが痛ましい。私も一人暮らしが長かったけれど、支えとなってくれるものに恵まれていた。
病棟では、私が行くといつももうひとりのおじさんと共に、しばしの花談義。鉢に関心を持って、私のいない時も水が切れてないか、植物がぐったりしていないか、お二人で(時に気にかけ過ぎるほどに)気にかけてくださる。鉢は観葉植物なので、基本的に葉っぱものしかないのですが、先日,赤い花のついたアナナス(エクメア・チランジオイデスAechmea tillandsioides)を持っていったら、「わあ、お花!」と、女性の入院患者さん達も顔をほころばせました。それ以外はみな、いつ来るともしれない「お見舞い」を待ち続けて、窓の外を見続けている…。
「たすけてせらぴーず~~~!」と、フラワーセラピー3人組のことを思うのはこんなとき。花だけじゃ人の心は助けられない、とはいえ、「本当に助ける」となったら、自分の生活を何もかも全て投げ出してマザーテレサになるしかない。丁稚奉公の身では仕事の自由も聞かないし、お花の説明くらいが関の山。体力も精神力もお金もない。いつも、ごめんなさい、わたしができるのはここまでです、と心の中で謝っている。早く自分で活躍できるようにならなくっちゃ。
それよりもっと前、国際会館駅のバス停。「国際会館駅」は、宝が池の大きな美しい公園の端にあり、デザイン的にも美しいところです。で、そこの、私が乗るバス停のベンチの周りを毎朝ホームレスのおじさんが占拠していた。ちょっと挙動不振なところもあり、バスが来るまで離れて待っている私。あるときふといなくなってしまった。複雑な気持ちながらもちょっと心配。
そこで物思い。今までの経験から言って、居心地のよい公園ほど、というか、だからこそ「弱者」が集まるのですよね。たとえば、ホームレスの方だったり、例えば、一昔前の上野公園の不法就労の外国の人たちだったり、精神的に不自由な方だったり…。でも、自分を含む「強者」はそれを追い出してしまう。「公園はみんなのもの」は、そこでカッコ付きになってしまう。「外にベンチをつけると、変な人が住み着いてしまうから寝そべるようなところは作らないように」なんて、言われたこともあった。さあ、自分は永久に強者でいられるのでしょうか?
折しも、NHKスペシャルでは「中年孤独死」。他人事ではありません。家族も親戚も、一旦関わるとなったらすべてを投げ出さなければならないので、手を引っ込めざるを得ない。当事者が、全て、ではなく、社会、地域全体が、みんなでほんのちょっとずつ、という関わり方が可能ならば。負担に思う気持ちはずいぶん軽くなるはず。
たくさんの孤独な人たち。マザーテレサは、途上国の命の沙漠だけではなく、先進国の心の沙漠も憂えられていた。別にキリスト教徒ではないけれど。他の国々では宗教がそういった人々を救いあげるシステムをもっている。でも、宗教色の薄い日本ではそれはほとんど機能していない。むしろ、地域や社会の閉鎖性がそういった人を閉め出してしまう。ユニバーサルデザインというけれど、さらにもう一歩踏み込んで、何か、そういう人々を救うシステムを、緑、庭、まちづくりの中に作っていけないものか、というのが、わたしのかねてからの懸案です。すごく大きな意味で、ガーデンデザインと、人の命は、直結している。大げさですが、そう思っています。
☆今日のちび庭気温 22~29℃ 曇り~晴 今日はとってもいい気候でしたね。ほんのちょっとイチョウもヤマボウシも色付いた枝が出てきたように思います。今年の紅葉はどうかな?わくわく!(^_^)