

細かい目標を掲げることがとても苦手なので、大雑把な方針を漠然とイメージしながら毎日生きています。が、その時々の気分や体調に応じて湧き上がってくる直感や感覚に従って行動するようになってからというものは、感情と思考にがんじがらめになって暮らしていた頃の私とは随分色々な面での見掛けが違ってきているようです。自分では何も変わってはいないと思っているのですが、私の深い部分での価値観の変化に気づいている人たちは、私のことを‘変わった’と言います。以前は、「私には出来ない」とか「私はいいです」とかの発言ばかりだったのだそうです。私にしてみれば、そんなことを通常、口にしている覚えは少しもないのですが、万事に臆病で、すべての物事に対して必要以上に慎重な態度は、人から見れば、ひどくびくびく、おどおどした人間としてしか映っていなかったようです。

私自身は、自分に対して正直で率直なだけを特徴とする人間として生きてきたつもりでしたが、どうも、人と良好に関わるためのパイプを持っていなかったようで、自分の内部で起こることが、全部、外の世界へは拡がっていかず、自分の中で循環し自己完結してしまう閉鎖的なシステムを構築してしまっていたようなのです。

たぶん、今までは、どんなことがあっても、私の自己完結的な構造にひびが入るということはなかったのですが、何かの拍子に風穴が開いたようなのです。それは、何人かの‘宇宙人’との邂逅によるものでした。今では通わなくなってしまった「気功教室」ですが、振り返ってみれば、あそこに、不思議の国への扉のありかがあったということになります。あの場所がワンダーランドへの入り口だったことに気づいて、今さらながら驚いています。無国籍的な独特の雰囲気を持つ空間が、私にとっての通過儀礼が行われる場所だったのです。そこでは、気功を習う以外の何をしたわけでもなかったのですが、あの場所に足を踏み入れただけで、あの場を潜り抜けただけで、気がついたら、結果的には、未知の世界にジャンプあるいはワープしていたということになります。

そこに居た何人かの中国人は、日本という異国で独特の才能と技術を頼りに生きている人たちでした。日本では異邦人である彼らのありようは、日本人でありながら、ある意味、やはり異邦人としてしか生きられない私にじわじわと強い影響力を与えてくれることになったようです。今までの生き方や価値観で、この先もやっていくことには、表現しがたい閉塞感と一歩も前に進めない限界を感じて苦しんでいた私に、一石を投じてくれたのです。彼らは人間としての原始を知っていて、恐ろしく頭が良く智恵が働くのです。私のように鈍重で、まるで牛のような人間に対しても、そののろさを笑うことなく、そのコミュニィティの一員として受け入れてくれるのです。私は彼らから、支配や特別の縛りを一切受けることなく、好きな時にだけ、そこに出入りして気持ちを癒すことが出来るのです。こんなことが可能であるのは、そこが国籍のない空間だからなのでしょう。固定観念や特定の価値観からは自由で、同一の目的や利益のために形成された集団ではないからなのだと思っています。