

「日本サッカーの父」デットマール・クラマーさんが面白いことを語っています。『多くの場合、指導者は自分の願望を選手に投影してしまう。そのため、現実をきちんと分析することができない。そして、誤ったトレーニングを課してしまう。』心理学を学んだ人ならば、この辺の事情のことは理論としては熟知できているはずです。が、心理の専門家には非常に複雑怪奇な特質の持ち主が多いので、理屈は理解できていても、それは教科書上のことであって、生のコミュニケーション場面では、恐らく、目の前の相手を混乱させるような投影をバンバン投げつけていることでしょう。専門家と呼ばれるような人には素直でストレートな人は少なく、理論を学ぶ過程で理論にがんじがらめになって、絡んだ糸をほどけないままに、それが人となりにまで及んでしまっている人も多いと思います。対象から向けられた事柄に対する自分の感情には敏感なくせに、往々にして、対象が抱くであろう心の反応には鈍感で、人を傷つけても、そのことに気づかずに無頓着でいる人も多いような気がします。どの世界でも、専門家が理論を自分のカラダの中に溶け込ませて、理論を超えた地平で勝負ができるようにならなければ、はた迷惑な影響ばかりを撒き散らすことになります。私は心理職ではありませんが専門職として、自分もこのことの例外ではないと思っていますので、極力、人に害を与えるようなことだけは避けようと日々、自戒しているのです。

さて、本題に戻ります。クラマーさんは、68年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得した釜本選手を世界選抜に推薦したことがあるというエピソードを語っています。ところが、試合の日が結婚式と重なっていて、会社をあげてのセレモニーが企画されていた釜本選手は、世界選抜には出場しないという決断を下し、その旨をクラマーさんに伝えます。そのことの判断の是非は、私には分からないことですが、その後の釜本選手は肝炎を患って倒れ、W杯の予選も欠場してしまうという予後を辿ることになります。当時、バイエルン・ミュンヘンやレアル・マドリードなどの世界的なクラブが釜本選手に注目していたそうですから、その実力が飛ぶ鳥を落とす勢いだったことは間違いのないことでしょう。クラマーさんは釜本選手がもし、その時のチャンスを生かしていれば、日本のサッカーは違う歴史を歩んでいただろうとまで言い切っていますので、クラマーさんのこの論調からは、釜本選手は明らかに、一つの大きなチャンスを逃したという(クラマーさんの)判断が読み取れます。

本田健さんは、「ユダヤ人大富豪の教え」の出版が決まった時、プロモーションの準備が持ち上がったのだけれど、夏のその時期は、毎年、2ヶ月ほど家族と共に旅行をする予定と重なってしまっているので、さてどうしたものかと思案に暮れることになったそうです。どちらの行動を取るべきかを悩んだ挙句に、メンターに相談したところ、「家族と楽しい旅行をすることによって生まれたエネルギーが、ベストセラーを作るって考えればいい」との返答を貰ったそうです。頑張らなくちゃ売れない。どちらかを選択しなければいけないと思っていたのは、自分の頭の中にある制限だったことに気づいて、目からウロコの体験だったと振り返っています。

釜本選手の置かれた状況と、本田さんの場合とを比較することは細かい要件があまりにも異なっていますので無理なことですが、訪れたチャンスをどう生かすのか…というテーマを考える上での参考にはなりそうです。公人である場合には、自分の都合を優先させることは倫理上無理なことが多いように思われます。公人であるからこそ、結婚式を延期させてでも、アスリートとしてのアイデンティティを優先させて、世界選抜に出場することを選択することの方が、私には無理がないように思えるのですが、釜本選手は何故か、すでに決まっていた予定(結婚式)を優先させたのです。もし結婚式というような一身上の重大事と重なっていたのでなければ、世界選抜を断るというようなことは釜本選手にもなかったのかもしれません。結婚相手や会社への義理を優先させることが最善の道と判断された結果だったのだと思います。結婚相手と会社の判断がどうだったのかを、私は知る由もありませんが、世界選抜を反故にしてまで結婚式が執り行なわれたことは、私には、ひどくバランスを欠いた成り行きだったのではないかと思われてしまうのです。釜本選手と本田さんの両者を較べた時、本田さんの立場は至極気楽なものです。本田さんは、気楽に生きても誰にも迷惑をかけないで済む仕組みを内包した生き方を作り上げてしまっているからです。(もしかしたら、出版社には少し迷惑だったのかもしれませんが…)

その人に準備が整った時に、師は現れるものだと言いますが、チャンスの女神は、準備ができていない時に、突然、その人の目の前を疾走するもののようです。一瞬でもひるんだら、チャンスはすぐに目の前を通り過ぎてしまいます。しかし、チャンスを掴んでも、それを生かすことができなければ、掴んだ意味自体も失われてしまいます。一旦うまくいけばそれで万事が順当に進んでいくというものでもありません。関門は常に常に目の前に立ちはだかってきます。その謎解きを楽しめるようになれば、人生や運命と呼ばれているものの実態とも仲良しになれて、お付き合いすることがやめられなくなるのかもしれません。