

うっかりしていることで失敗したりミスを犯したり、(ちゃんと注意していればこんな面倒にはならなかったのに…)というようなことがよく起こります。些細なことといえば些細なことなのですが、面倒であることには変わらない日常生活上のつまらないやっかいごとです。でも、どんなことでもそれが起こったからこそ、気がついたとか、それが起こる前よりは結果的には良かったとなることが多いものです。よく考えると必ずそうなっています。だからこの頃は、うんざりすることでも、これはもっと‘佳きこと’の前触れとして起こっていることなのだと思うようにしています。‘人生万時塞翁が馬’とか‘人生はあざなう縄の如し’とも言います。正負の法則とも言えますね。良いことも悪いことも流転していきます。

先日、天台宗の住職さんの死生観についてのお話をお聴きする機会がありました。輪廻転生…私たちは必ず生まれ変わって、永遠に生き続けるのでしょうか? 住職さんが幼稚園で、‘地獄’のお話をされたら、園児の父兄から、「そんな現実感を伴わない話しはやめてください!」と言われたそうです。ファンタジーを許さない世の中になってしまっているのでしょうか?それでは、想像力も育ちようがないですね。お食事の前に、手を合わせて「いただきます。」という儀式もやめるべきだという声が上がっているそうです。給食費を払っているのだから、「いただきます。」などという必要はないという発想からだそうです。大いなるものへの感謝の気持ち。生かされているという畏れの心は…これからの時代では失われることが当たり前になっていくのでしょうか?

3日間程、東京を離れて、田舎暮らしをしてきました。大勢の懐かしい人たちと再会し、毎日が宴会のようなお祭りのような日々でした。その時のこともまたおいおい書いていけたらと思っています。
仕事の場でも、生活の場でも、交友関係においても、「相手を思いやる気持ち」って、想像力なくしてありえないものではないでしょうか?
唯物主義が台頭し、精神的なもの(ファンタジー)を否定した時、人という存在は、ただの「もの」に成り果ててしまうものだと思います。
確かに目の前にある食事は、自分がお金を払って手に入れたもので、自分の所有物です。
でも、そのお米は誰が作っているのでしょう?
サラダの野菜は?
魚は、誰が獲った(養殖した)ものでしょう?
お金は介在するもの。
その向こう側にいる人に「いただきます。」って言っているのだと思います。
人は、人の助けなしに生きられません。
そのことを忘れないことが、現代を生きる我々には難しいのでしょう。
でも、ほん少しの想像力があれば・・・きっと。