Michiyo Kamei "Shape of life"いのちのかたち  

画家 亀井三千代 記
「身体曼荼羅」春画と解剖図
michiyokamei diary

美しい虚無

2017年12月22日 23時33分24秒 | おすすめ展覧会


前々から絶体に行こうと思っていたこの展覧会。
「共鳴する魂 関谷富貴と小山田二郎」栃木県立美術館
今日、小旅行。栃木に行ってきました。

上野東京ライナーで宇都宮着の電車に乗る。
2時間近く。
家からこれほど離れるといい加減あきらめがつく。

日常から離れてどこか遠くへ…といった感じ。


明治生まれ。関谷富貴は絵描きの奥さんで
夫を支えるのが仕事、と言っていた人。
そのくせ、もの凄い作品数。
それらは存命中に発表されず死後発見。

オイルパステルと水彩の混合技法で描かれた作品は100点上にのぼる。

その一部、おびただしい数の作品群と今日向き合いました。

もう1点1点がどうの、という世界ではなく
連続した動き。
そして意外とあっけらかんとした印象。
何か虚無すら感じました。

虚無を描こうとすることは無意味に思えるのですが
関谷富貴の場合そうではなくて、
たっぷりした豊かな色彩の中に、何故か虚無を感じるのです。
強い色彩をぐいぐい塗り込み形を変形させていく
その連続した作業の中に造形するピュアな動きが見えてきて
人間の精神性やら内面やら苦悩やらを追及しない
というか、そんなことは追っつかないほどの美しさが画面を充填しています。
精神性を描き出すのだ、といった絵画に対する偏見から
見事に開放されていて、そこに美しい虚無を感じたのかもしれません。





何かを「描こう」とか「表現しよう」なんて
もしかしたら下品なことなんじゃないか、
とすら思えてきます。
いや、実際下品かも。

絵は作家のコントロールを越えてはじめて価値があるように思えます。
自意識を越えたところ。
それは難しくて
無意識的に描こうとすると無意識を意識することになるし
偶然性を取り入れて描こうとするとそれが必然になってしまう。
仕上がりが予期できないような手法をとるならその手法の中に
既に予期が仕組まれているような気がします。
自分の絵でありながら自分を越えるってどんなことなんだろう。
でも人間の仕事の価値は、そこに在るんじゃないかと思う。

それができたら、その平面には宇宙が宿るんじゃないだろうか。

「共鳴する魂 関谷富貴と小山田二郎」栃木県立美術館 ~24日
関谷富貴:http://www.art.pref.tochigi.lg.jp/exhibition/t110423/



最新の画像もっと見る