Michiyo Kamei "Shape of life"いのちのかたち  

画家 亀井三千代 記
「身体曼荼羅」春画と解剖図
michiyokamei diary

亀井三千代 HP/Michiyo Kamei official web site 

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「美術と表現の自由」

2016年07月28日 08時56分32秒 | 日記


美術評論家連盟主催のシンポジウム
「美術と表現の自由」を聞きに行く。

これは、以前お世話になった学芸員の方から
なんとFacebookで招待を受けた。
興味のあるテーマ、私にこれを知らせてくれるとは!



前半はパネリスト5名による講演
林道郎氏:美術と表現の自由(ろくでなし子事件/他)
土屋誠一氏:東京都現代美術館における「規制」の事例(会田家の作品撤去問題/他)
中村史子氏:2014年に起きた鷹野隆大作品の展示変更について
小勝禮子氏:美術と表現の自由ージェンダーの視点から
光田由里氏:大浦信行《遠近を抱えて》(1982-85)をめぐる30年

後半は討論、質疑応答

講演内容は録音をもとに文字に起こされて
後日 国際美術評論家連盟日本支部HP http://aicajapan.com/ にアップされるとのことです。

参加して、美術評論家連盟には「表現」を守るために言葉をつくす努力を惜しまない人が
こんなにも大勢いるのだと言うことを初めて知り、驚いた。
また会場も、補助席が出るほど盛況で、この問題に興味のある人が
こんなに沢山いるとは思ってもみなかった。
私の視野が広がる瞬間だった。





★ノート

①表現の自由を守るのは、
表現することが「善」だからではない、と。
表現する行為は少なからず暴力性をおびていて、
作家の意図に関わらず、誰かを傷つける可能性がある。

②というのも、
表現は、社会一般のノーマルへの異議申し立てであり
一般の意識とは違う。
未来の他者への視点を持ち、
故に現社会に対する変更を要請するものである。

③表現が不快なものであるという前提で
表現の自由を考えなくてはならない。
表現が不快であっても、表現として受け入れ
その上で批判をする。

同時に、表現の自由によって傷つけられる特定の人達への配慮や
歯止めはかけなくてはならない。

④二者択一にはなり得ない。
つまり、矛盾するものの間にいて、言葉をつくさなくてはならない。

ところで、二者択一にはなり得ない、というのは
「この作品は、芸術か?わいせつか?」という議論にもあてはまる。
芸術でもあり、わいせつでもあるという表現は過去沢山ある。
だから、芸術ではないものはわいせつとして取り締まって良いというのは
あまりにも危険である、と。


⑤表現の自由を守るために必要だと私が感じたことは、
まず、美術家が自分の態度を明確にすること。
それを言葉にすること。
その言葉を以て協力者を得て、協力者とともに粘り強く(規制に対して)交渉すること、あきらめないこと。
自由という自明の定義はなく、それは時代や状況に応じて勝ち取っていくものである、ということだった。





ところで、
ここで詳細に触れることができませんが、
光田由里氏の講演、大浦信行《遠近を抱えて》(1982-85)をめぐる30年を聴いて、
現在人人会で議論されていることに対して合点がいった。

また、「美術と表現の自由」というテーマ自体が
私自身の制作に関係することでもあるので、

今後しっかり考えていきたいです。

会場では偶然知り合いの作家さんに会い、
彼が育てたというお野菜を、何故かいただく(@_@;)
ていうか、野菜を持ち歩いているのかしらん…?

でっかいキュウリとツヤツヤのピーマン。
美味しくいただきました。
ごちそうさまです(^_^)!!