語りあう建物と街並み このシリーズ企画は極上。
第2回 戦前と戦後 <比較編> edohaku-culture
米山勇×五十嵐太郎
それぞれ肩書きの建築史家と建築批評家は当然ながら同じではない。
(五十嵐さんは両方を名乗られているが。)
五十嵐さん既にブログに日記がアップされている。ハヤイ→50s THUNDERSTORM
日本国内、ときには世界を飛び回り、膨大な仕事をこなす速さは確かにスゴイ。
3人は同世代、米山先生は東京杉並・高円寺生まれ。
五十嵐さんはフランス・パリ生まれ。
(ちなみにワタクシ、母がお里帰りしていた日赤和歌山生まれ。
地方出身の田舎娘がこの同じ場に居合わせられて、いゃーんカンゲキ★)
同世代ということで、話は通じやすいよ、負けたくないよの気持ち理解できる。
思ったよりは静かなる闘い(笑)が展開された。
テーマは東京建築~11×2の傑作・問題作・都市の風景~
お互い手の内を明かさずに本番で勝負。いやはや何が飛び出すか楽しみだった。
私の感想なども交えて振り返りたい。
建築作品として、あるいは建築家として、
渡辺仁、レーモンド、前川國男、メタボリズム・黒川紀章などは
それぞれ登場するテーマが違えども、どこかで必ず取り上げられていた。
それだけやはり人物にも作品にも意味深きものがあるのだろうと感じた。
特に渡辺仁はかなりの技量の持ち主で、日比谷の第一生命館、
銀座の日劇、和光、上野には東京国立博物館、東京に風景をつくっている。
米山先生が日劇のなかに第一生命館をみつけだしたのはほほえましく面白かった。
先生方お二人とも、どちらもズバリ見事にが一致したのは、
集合住宅の傑作のセレクト、戦前の同潤会と戦後の槇さんのヒルサイドテラス。
どちらも街の顔として風景をつくる。みんなが愛している(た)風景。
五十嵐さんは「新しい表参道ヒルズには時間が経ってからの変化に興味がある。」
米山先生は、商業空間と住まいがはっきりと分かれてしまっているのは
つまらない。また、街にアピールし、空間に楽しみを与えていくものとして
バブル期の建築として残すべきものは集合住宅であると話された。
参考→住宅情報・都心に住む3/2006 ヴィンテージマンション読本
バブル期のポストモダンといえば、やはりすぐに思い浮かぶのがM2。
マツダのセクションツー。イオニア式の太い列柱を模したエレベーターシャフト。
ストリートに刺激を与える突出したもの。
隈さんらしい引用の作品だが、その後、作風が劇的に変化する。
昨年、隈さんの講演会で、私がご本人自ら語り、耳にしたのは、
そのバブル期の過去には触れてほしくない・・みたいな発言だった。
時代の流れと共に人間も建築作品も変化して当然だと私は思う。
写真で見ただけだが、長崎県美術館も美しいし、
近々東京ではサントリー美術館のお目見えも楽しみである。
現在の隈さんには、建物にルーバーを多用したイメージがつづく。
隈さんは建築家・原広司さんの教え子である。
原さんは1960代後半「均質空間論」と題した論文を発表する。、
「近代建築のスタイルは世界中どこであっても同一となる単純な箱である」と
指摘し、これを越えるものを求めて集落の調査を始めた。
この世界の辺境地の調査に隈さんは同行した。
建築にしかできないもの、巨大でありながら密度の濃い建物。
層が重ね合わさったヤマトインターナショナル。
これには'86年当時、多感な建築学生だった米山先生が勇気を与えられたそうだ。
「京都駅の内部空間に次世代の新人類、原さんの未来を見ている感じがする。」
とは、五十嵐さんらしいコメント。
確かに谷底にみたてられた吹き抜け空間の階段にしぜんと腰かけている
若者たちは今どきのニュータイプかもしれない。
現代を代表する建築家として、伊東豊雄さんはやはりハズせないようだ。
五十嵐さん曰く、構造と装飾の一体化した表現の先頭を走っている。
途中から作風が変わった。
本人の風貌、ファッションも以前と比較すると、ずいぶんとスタイリッシュに
その作品と同じくいわばモダニズムに変化したとの話を耳にしたことがある。
そうだ新しいリアル、見逃してはならない。オペラシティー展覧会に行かねば。
米山先生が伊東さんについて記述されている。(私は読めていない)
→建築ジャーナル7月号/2006
「伊東豊雄の立ち位置 70年代以降の建築状況と伊東豊雄」
「今度はモダニズムを内から壊そうとかかっているのではないか。」
そこのところが興味深くもっと詳しくじっくりと聞きたかった。
伊東さんに少なからず影響を受けたらしい西沢立衛さんも同世代。
今後、その作品と共に重要マーク人物。
ソロで建てた森山邸のいくつも分離した白いキューブに注目が集まる。
五十嵐さんセレクト、 戦前の議論を巻き起こした問題作には
帝国議会議事堂とバラック装飾社。
このバラック装飾社は今和次郎らが1923(大正12)関東大震災後、設立した。
建築にいまひとつフィードバックしていないところがわかりぬくさに
つながっていると、以前、倉方先生は講義のなかで話された。
堀口捨己の岡田邸には和と洋の混在が見受けられ、
モダニズムと日本的な物を融合させた。
この岡田邸1934を例に挙げられたのはシブイ、五十嵐さん。
米山先生セレクト、基本は夫婦のための住宅゛スカイハウス゛菊竹さん。
50年代とは思えない斬新さ。
(コルビジェセンターとの関連云々、なんで怒られたの?気になる。)
村野藤吾はワタシ個人的にも興味が深く外せない。
→批判精神、問題精神をを持った人、連続唐破風パロディ大阪新歌舞伎座。
次回の建築家シリーズ講座へとぜひつなげてほしい。
丹下さんのお話や磯崎さんに関するお話もなるほどすごく面白かった。
同じテーマだけれど、共通している部分もありながら、
それぞれにとらえどころピックアップされる視点が違っていたり、
すごく面白かった。
しかし、さすがに米山、五十嵐どちらの先生も深くよく考えているなぁ、
と感じた。
今回ゲストの五十嵐太郎さんの雰囲気は、いつもとてもカジュアルで、
サブカルチャーオタク的要素(もちろん悪い意味ではない)を持ち合わせており、
(゛ガンダム゛や゛めぞん一刻゛などが例に出てくるし。)
五十嵐テイストが確かに存在する。
飛ぶ鳥落とす勢いと紹介されていたが、まさしく特に現代建築においては
明快に読み解き明かす現代進行形のトップランナーなのだろうと感じる。
慌てて用意したらしいピンぼけ写真も杉本博司さん風だと、
タダのピンぼけではないとのさりげない主張。(米山先生のフォローあり)
今回は、お得意のカタカナ用語言葉があまり出てこなかったが、
語り出すとさすがに口なめらかだった。
戦後の都市風景の象徴的な日本橋においての首都高問題についての見解は
とても説得力があった。思わず聞き入った。
このことについて、米山先生も考えをあらたにし、素直に「やられた」と
おっしゃっていたが、問題点に挙げられた3ポイントはなるほど納得である。
現都庁が3つ分、五千億円もの莫大な資金を必要とすること。
特に首都高そのものが知恵とテクノロジーで一生懸命つくったもの、
人工的な構築物として優れたデザインであること、
そしてそこに関わった人々の物語を忘れてはいけないということ。
歴史的なる時間の重層性の意味合いにもうなづけた。
明治の日本橋に、昭和の高速道路が覆う、それを醜い景観だとらえるかどうか。
やはりしっかりと考える必要がある。しかし、もう取り壊しが動かせぬのなら、
それならそれで別の見解を提示したいと五十嵐さんはおっしゃった。
日本橋、単なるウォーターフロントの再開発になってしまってはよくない。
五十嵐さんの最新著作は「美しい都市、醜い都市」
売りきれ店続出で、早くも重版になっている。
私は図書館で予約しいる。近々手元に届くので読むのを楽しみにしている。
ところで、上の首都高やっぱりイヤ? 妻木頼黄になんとなく聞いてみたい。
私の場合、建築についての学習はとても興味がありながら、
まだまだ深い考察にまでいたらず、表層的な点でしかとらえられていないことは
否めない。認めるところ。しかし、点が線となって面となってつながり、
立体へと出来上がるわけだから、今はその一点一点を大事にしたい。
なるべく多くの点を自ら知り得て獲得したい。そう思っている。
このテーマのセレクトには随所に米山先生らしさが表れていた。
それはいわゆる単なる批評だけではないのだ。
たとえばモダニズムの原邦造邸には、近代建築・コルビジェも
ミースもバウハウスも取り入れられている。
そして何よりあの住まいには施主の夫人である奥さまの夢が詰まっていたのだ。
建物とそこにまつわる物語的な部分を見逃さず大事にする。語る。
先生ご本人の史眼の確かさのなかには、ハートフルなあたたかさがある。
それは大切なものだと思う。気づきのよさがある。そこも魅力のひとつ。
受け手側にもにもきちんと伝わる。
建物そのものやそれを建てた建築家に思いを馳せるよろこび、
そこしれぬ魅力に私はとらわれたのだ。
東京の街並みはどう変化するだろうか。
建築に関わる同世代の人たち、その目は何を見て語るのだろう。
10年後も20年後も楽しみだ。
第2回 戦前と戦後 <比較編> edohaku-culture
米山勇×五十嵐太郎
それぞれ肩書きの建築史家と建築批評家は当然ながら同じではない。
(五十嵐さんは両方を名乗られているが。)
五十嵐さん既にブログに日記がアップされている。ハヤイ→50s THUNDERSTORM
日本国内、ときには世界を飛び回り、膨大な仕事をこなす速さは確かにスゴイ。
3人は同世代、米山先生は東京杉並・高円寺生まれ。
五十嵐さんはフランス・パリ生まれ。
(ちなみにワタクシ、母がお里帰りしていた日赤和歌山生まれ。
地方出身の田舎娘がこの同じ場に居合わせられて、いゃーんカンゲキ★)
同世代ということで、話は通じやすいよ、負けたくないよの気持ち理解できる。
思ったよりは静かなる闘い(笑)が展開された。
テーマは東京建築~11×2の傑作・問題作・都市の風景~
お互い手の内を明かさずに本番で勝負。いやはや何が飛び出すか楽しみだった。
私の感想なども交えて振り返りたい。
建築作品として、あるいは建築家として、
渡辺仁、レーモンド、前川國男、メタボリズム・黒川紀章などは
それぞれ登場するテーマが違えども、どこかで必ず取り上げられていた。
それだけやはり人物にも作品にも意味深きものがあるのだろうと感じた。
特に渡辺仁はかなりの技量の持ち主で、日比谷の第一生命館、
銀座の日劇、和光、上野には東京国立博物館、東京に風景をつくっている。
米山先生が日劇のなかに第一生命館をみつけだしたのはほほえましく面白かった。
先生方お二人とも、どちらもズバリ見事にが一致したのは、
集合住宅の傑作のセレクト、戦前の同潤会と戦後の槇さんのヒルサイドテラス。
どちらも街の顔として風景をつくる。みんなが愛している(た)風景。
五十嵐さんは「新しい表参道ヒルズには時間が経ってからの変化に興味がある。」
米山先生は、商業空間と住まいがはっきりと分かれてしまっているのは
つまらない。また、街にアピールし、空間に楽しみを与えていくものとして
バブル期の建築として残すべきものは集合住宅であると話された。
参考→住宅情報・都心に住む3/2006 ヴィンテージマンション読本
バブル期のポストモダンといえば、やはりすぐに思い浮かぶのがM2。
マツダのセクションツー。イオニア式の太い列柱を模したエレベーターシャフト。
ストリートに刺激を与える突出したもの。
隈さんらしい引用の作品だが、その後、作風が劇的に変化する。
昨年、隈さんの講演会で、私がご本人自ら語り、耳にしたのは、
そのバブル期の過去には触れてほしくない・・みたいな発言だった。
時代の流れと共に人間も建築作品も変化して当然だと私は思う。
写真で見ただけだが、長崎県美術館も美しいし、
近々東京ではサントリー美術館のお目見えも楽しみである。
現在の隈さんには、建物にルーバーを多用したイメージがつづく。
隈さんは建築家・原広司さんの教え子である。
原さんは1960代後半「均質空間論」と題した論文を発表する。、
「近代建築のスタイルは世界中どこであっても同一となる単純な箱である」と
指摘し、これを越えるものを求めて集落の調査を始めた。
この世界の辺境地の調査に隈さんは同行した。
建築にしかできないもの、巨大でありながら密度の濃い建物。
層が重ね合わさったヤマトインターナショナル。
これには'86年当時、多感な建築学生だった米山先生が勇気を与えられたそうだ。
「京都駅の内部空間に次世代の新人類、原さんの未来を見ている感じがする。」
とは、五十嵐さんらしいコメント。
確かに谷底にみたてられた吹き抜け空間の階段にしぜんと腰かけている
若者たちは今どきのニュータイプかもしれない。
現代を代表する建築家として、伊東豊雄さんはやはりハズせないようだ。
五十嵐さん曰く、構造と装飾の一体化した表現の先頭を走っている。
途中から作風が変わった。
本人の風貌、ファッションも以前と比較すると、ずいぶんとスタイリッシュに
その作品と同じくいわばモダニズムに変化したとの話を耳にしたことがある。
そうだ新しいリアル、見逃してはならない。オペラシティー展覧会に行かねば。
米山先生が伊東さんについて記述されている。(私は読めていない)
→建築ジャーナル7月号/2006
「伊東豊雄の立ち位置 70年代以降の建築状況と伊東豊雄」
「今度はモダニズムを内から壊そうとかかっているのではないか。」
そこのところが興味深くもっと詳しくじっくりと聞きたかった。
伊東さんに少なからず影響を受けたらしい西沢立衛さんも同世代。
今後、その作品と共に重要マーク人物。
ソロで建てた森山邸のいくつも分離した白いキューブに注目が集まる。
五十嵐さんセレクト、 戦前の議論を巻き起こした問題作には
帝国議会議事堂とバラック装飾社。
このバラック装飾社は今和次郎らが1923(大正12)関東大震災後、設立した。
建築にいまひとつフィードバックしていないところがわかりぬくさに
つながっていると、以前、倉方先生は講義のなかで話された。
堀口捨己の岡田邸には和と洋の混在が見受けられ、
モダニズムと日本的な物を融合させた。
この岡田邸1934を例に挙げられたのはシブイ、五十嵐さん。
米山先生セレクト、基本は夫婦のための住宅゛スカイハウス゛菊竹さん。
50年代とは思えない斬新さ。
(コルビジェセンターとの関連云々、なんで怒られたの?気になる。)
村野藤吾はワタシ個人的にも興味が深く外せない。
→批判精神、問題精神をを持った人、連続唐破風パロディ大阪新歌舞伎座。
次回の建築家シリーズ講座へとぜひつなげてほしい。
丹下さんのお話や磯崎さんに関するお話もなるほどすごく面白かった。
同じテーマだけれど、共通している部分もありながら、
それぞれにとらえどころピックアップされる視点が違っていたり、
すごく面白かった。
しかし、さすがに米山、五十嵐どちらの先生も深くよく考えているなぁ、
と感じた。
今回ゲストの五十嵐太郎さんの雰囲気は、いつもとてもカジュアルで、
サブカルチャーオタク的要素(もちろん悪い意味ではない)を持ち合わせており、
(゛ガンダム゛や゛めぞん一刻゛などが例に出てくるし。)
五十嵐テイストが確かに存在する。
飛ぶ鳥落とす勢いと紹介されていたが、まさしく特に現代建築においては
明快に読み解き明かす現代進行形のトップランナーなのだろうと感じる。
慌てて用意したらしいピンぼけ写真も杉本博司さん風だと、
タダのピンぼけではないとのさりげない主張。(米山先生のフォローあり)
今回は、お得意のカタカナ用語言葉があまり出てこなかったが、
語り出すとさすがに口なめらかだった。
戦後の都市風景の象徴的な日本橋においての首都高問題についての見解は
とても説得力があった。思わず聞き入った。
このことについて、米山先生も考えをあらたにし、素直に「やられた」と
おっしゃっていたが、問題点に挙げられた3ポイントはなるほど納得である。
現都庁が3つ分、五千億円もの莫大な資金を必要とすること。
特に首都高そのものが知恵とテクノロジーで一生懸命つくったもの、
人工的な構築物として優れたデザインであること、
そしてそこに関わった人々の物語を忘れてはいけないということ。
歴史的なる時間の重層性の意味合いにもうなづけた。
明治の日本橋に、昭和の高速道路が覆う、それを醜い景観だとらえるかどうか。
やはりしっかりと考える必要がある。しかし、もう取り壊しが動かせぬのなら、
それならそれで別の見解を提示したいと五十嵐さんはおっしゃった。
日本橋、単なるウォーターフロントの再開発になってしまってはよくない。
五十嵐さんの最新著作は「美しい都市、醜い都市」
売りきれ店続出で、早くも重版になっている。
私は図書館で予約しいる。近々手元に届くので読むのを楽しみにしている。
ところで、上の首都高やっぱりイヤ? 妻木頼黄になんとなく聞いてみたい。
私の場合、建築についての学習はとても興味がありながら、
まだまだ深い考察にまでいたらず、表層的な点でしかとらえられていないことは
否めない。認めるところ。しかし、点が線となって面となってつながり、
立体へと出来上がるわけだから、今はその一点一点を大事にしたい。
なるべく多くの点を自ら知り得て獲得したい。そう思っている。
このテーマのセレクトには随所に米山先生らしさが表れていた。
それはいわゆる単なる批評だけではないのだ。
たとえばモダニズムの原邦造邸には、近代建築・コルビジェも
ミースもバウハウスも取り入れられている。
そして何よりあの住まいには施主の夫人である奥さまの夢が詰まっていたのだ。
建物とそこにまつわる物語的な部分を見逃さず大事にする。語る。
先生ご本人の史眼の確かさのなかには、ハートフルなあたたかさがある。
それは大切なものだと思う。気づきのよさがある。そこも魅力のひとつ。
受け手側にもにもきちんと伝わる。
建物そのものやそれを建てた建築家に思いを馳せるよろこび、
そこしれぬ魅力に私はとらわれたのだ。
東京の街並みはどう変化するだろうか。
建築に関わる同世代の人たち、その目は何を見て語るのだろう。
10年後も20年後も楽しみだ。