魅惑の曲線

2007-10-14 00:22:26 | ・とにかくラブリ~☆
資生堂デザイナー山名文夫です。
アールヌーボーとか、ビアズリーとか、確かに感じさせる。

左・「資生堂新聞広告(原画)」1959年
右・「資生堂香水」新聞広告イラストレーション原画 1960年

゛ドルックス゛は、むかーし、おばあちゃんやお母さんが使っていたわ。
今もありますね。資生堂チェインストアみたいな商店街の小さなお店には。
コールドクリームの語感もなんとなく懐かしい。

成城のアトリエ空間が再現されていました。
ステキ、設計したのはどなたかしら。
大きな姿見、鏡があったわ、そのサイズがモダン。

きみ 永遠

2007-10-14 00:11:27 | ・アート・展覧会
★資生堂ビジュアルポスターがいっぱい。
「淡い雪、とけてゆく音」1981
山口小夜子さん、この夏に帰らぬ人となりましたが、
いえいえ色鮮やかにいまも生きてらっしゃいますよ。
これはモノクロですが・・。

切れ長の涼しい目 艶やかなボブカット 永遠。

ご友人松岡正剛さんのお別れのことば→天衣の面影 さよなら小夜子

資生堂で黒川さん

2007-10-13 23:37:49 | ・アート・展覧会
今日は偶然のできごとでカンゲキすることがあって身体が震えて泣きそうになった。それは世田谷美術館で開催中の゛福原信三と美術と資生堂展゛でのこと、゛ リッチでスマートでモダンで ゛という展覧会小見出しキッャチの通り、とても魅惑的な構成できらめく展示物がたくさん並んでいた。私は心をときめかせながらそれらに吸い込まれるように見入っていた。だから、気づくのにずいぶんと遅れたのだけれど、目線を下にやると広くて四角い展示室の足下の壁を取り囲むようにぐるりと低い位置に薄いグリーンの紙がつながって貼られていた。何かと思って近づいたら文字がびっしりと書いてある。どうやら資生堂ギャラリー開設当時1919年から現在に至るまで催された展覧会内容の年表のようだ。さすがに歴史があるから展示室から展示室へどこまでも横に続いて年表は長いのだ。

私はなにげに自分の誕生年を探した。見つけるまで今いる場所からそう動かなかった。そして、腰をかがめながら読み進めていくと、なんとそこには黒川紀章の文字があるではないか。驚いた。資生堂ギャラリーに建築家の黒川さんがどうして、しかも、昨日の訃報から今日のことなのでこの偶然に私はとても驚いた。その名前のひとつ前には谷口吉郎と記されている。こちらは資生堂に所縁がある建築家だ。連翹会第三回展とはいったい何だろう。そしてもうひとつ次の年にも目を向けるとやはり同じく連翹会第四回展に今度は白井晟一・黒川紀章と書かれていた。白井さんは私にとってはとても気になる建築家のひとりだ。東京であれば渋谷の松濤美術館や東京タワー近くの飯倉の交差点にそびえ立つノア・ビル(竹中工務店と共同)を建てた人だ。また文学者である山本有三の『真実一路』や「中公新書」の装幀をも手がけた。

このとき私は連翹があの黄色い花のれんぎょうを意味するとはまだ気づいていなかった。とにかくこれは何のグループ展であろうかと不思議に思っていた。二人の他にも何人かメンバーがいる。しかし、黒川さんといっしょに名前が並んでいた谷口さんと白井さんはどちらも同い年の1905年生まれであり、やはり建築家の前川國男も同年だと記憶する。前川さんは2年前に生誕100年を記念して偉業を振りかえる展覧会が開かれた。昨日亡くなった黒川さんは73歳だった。谷口さんも白井さんも黒川さんとは30歳近く年齢が離れた年上の大先輩なのである。黒川さんの師匠が世界的な建築家の丹下健三であり、そのまた師匠が前川國男なのである。しかし、私が生まれた昭和の年に、正確にはこの世に生まれるちょうど半年前に先輩と肩を並べてまだ若かりし黒川さんは既に黒川紀章として資生堂ギャラリーで何かをやっていたわけだ。この年表には名前が掲載されていただけで詳しい内容はそれ以上わからなかった。しかし、昨日その生涯を閉じたひとりの人間・黒川紀章さんの確かな存在を再びここで自分の胸に感じて、私はまた思いがめぐったのである。目が潤んで資生堂のかぐわしい香り放つステキな広告ポスターや香水瓶などがしばらくにじんでぼやけていた。黒川さん、昨日の今日で、こんなこともあるのだな、私はひとり心のなかでそうつぶやいた。

黒川紀章さん

2007-10-12 23:53:03 | ・大好き☆建築あれこれ
友人に電話をかけたら、私も今かけようと思っていたのよって。黒川さん、亡くなってしまったね。私たち、最晩年に会えてヨカッタねって。気軽に皆のサインにも応じてくださった。そこには建築家としての姿があったし、またひとりの人間としての姿もあった。そのときはまさかそれが最晩年の姿になろうとは思ってもいなかった。電話で話す私たちは涙声になって、もう泣いていた。特別なファンとか、そんな話じゃなくて、ただ一度だけ本人に会った、話を聞いた、ただそれだけなのに心に残っている。訃報は信じられない、黒川さん、まだまだ元気にバリバリやってほしかった。選挙に出て変に有名になったけれど、身体に負担がかかったのかなぁ。奥様の若尾文子さんも突然のことでおつらいでしょう。やっぱりまだまだ本業の建築分野でがんばっていただきたかった。「コルビジェ、私はあなたを越えたい。」と、はっきり堂々と強気でおっしゃっていたのに。さみしい、残念に思います。ご冥福を心からお祈りいたします。遺された黒川さんの建物、空間、いろいろこれからも味わいます。

→★倉方先生の黒川さん追悼記事が載っています。
★麻布タウンハウス 1974 黒川紀章
 「住居と都市を繋ぐ中間域として、街の余剰スペースとしての
「路地」の意味を再考し、建築的に組み入れている。
内部で4層のヴォリュームを持つ各ユニットは、
さながら立体的な町屋のように3次元的にこの動線に連なる。」 

東京建築ガイドマップ(エクスナレッジ)より

冬が来る。

2007-10-12 23:45:11 | ・子どもの世界
今日から地元のにぎやかなお祭り。
ななこちゃん、参加するから学童さんはお休みだった。
(→ナナカマドの実 ちょっぴり頑固なななちゃんと掛けて。)
とにかく張り切ってた。兄貴は太鼓をたたくそうだ。

お会式が済むと冬がやってくると、昔から地元では言われているそうだ。
とにかく長い歴史がある。

そう言えば、建築家の今井兼次さんがどこかの日蓮聖人の銅像の台座を
確か設計したと、もっと調べればきっとおもしろいに違いない。
→◎追記・銅像の台座の設計案であって、実際に作ったかどうかは不明ですぅ。 

クライマックスシリーズ★

2007-10-10 23:45:21 | ・子どもの世界
けんちゃんとゆうきくんとりくくんと
カッキーン~(イメージ音) ベースボ~ル 野球

星飛雄馬の大リークボールとか 
♪小さな巨人里中くんとか
番場蛮のえび投げハイジャンプぅー 王者の星が俺をよぶぅ~♪
魔球まで出したのにぜんぶ打たれちまったよミッチのコース甘かったね。

校庭にはキンモクセイがあって香りが漂う。
やっぱ苦手なんだけど・・遊んでいたら気にはならない。
っていうか、秋モードの雰囲気でそれもいい感じとしよう。
みんな長袖になった、だんだん秋も深まってくるね。
そろそろおやつに゛にくまん゛←リクエスト でるかなぁ~。

野宮

2007-10-10 23:20:51 | ・アート・展覧会
なぜだろうとずっと考えていた。
よっぽどのインスピレーションがあったのか。
なぜに゛ 野宮 ゛なのか。

野島康三(1989-1964)は
日本の近代写真の有力な推進者の一人であった。
画廊経営など大正美術界全体にパトロン的な役目をも果たした。

1920年 東京麹町九段に野々宮写真館を開設(設計・土浦亀城)
゛野宮゛からピンと来て、自分の写真館に野々宮と名付けた。

野宮=神域=嵯峨=性=女? 

祖母が宝生家の出身だ。なるほど。身近に能があったわけか。

★題名不詳(女の肖像)1930年 →

最後に心を通わした、別れ。

2007-10-10 00:38:15 | ・読書・新聞・メモノート
はるけき野辺を分け入りたまふよりいとものあはれなり。
秋の花みなおとろへつつ、浅茅が原もかれがれなる虫の音に、
松風すごく拭きあはせて、そのこととも聞き分かれぬほどに、
物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと艶なり。

めづらしき御対面の昔おぼえたるに、あはれと思し乱るること限りなし。
来し方行く先思しつづけられて、心弱く泣きたまひぬ。
月も入りぬるにや、あはれなる空をながめつつ、恨みきこえたまふに、
ここら思ひあつめたまへるつらさも消えぬべし。
やうやう今はと思ひ離れたまへるに、さればよと、なかなか心動きて思し乱る。

思ほし残すことなき御仲らひに、聞こえかはしたまふことども、
まねびやらむ方なし。
やうやう明けゆく空のけしき、ことさらに作り出でたらむやうなり。

 源氏 あかつきの別れはいつも露けきをこは世に知らぬ秋の空かな 

出でがてに、御手をとらへてやすらひたまへる、いみじうなつかし。
風いと冷ややかに吹きて、松虫の鳴きからしたる声も、おり知り顔なるを、

 御息所 おほかたの秋の別れもかなしきに鳴く音な添へそ野辺の松虫  

★「源氏物語・賢木」より

葵上 あふひのうへ

2007-10-09 22:45:01 | ・読書・新聞・メモノート
六条康子。若林光。看護婦。

深夜病院の一室。下手に大きな窓。カーテンがかけてある。
奥にベッド。葵が寝ている。上手にドア。

  夜の空気は共謀してゐるんだわ。憎しみは愛と。苦しみは喜びと。
  何もかもが、夜の空気の中で手を握るの。
 
  いろんな感情の中に、同時にあたくしが居ます。
  いろんな存在の中に、同時にあたくしが居たつて、ふしぎではないでせう。

★三島由紀夫「近代能楽集・葵上」より 

 台詞には、無韻の詩が流れていてほしいし、
 舞台には詩的情緒の醸成のもうひとつ奥に、硬い単純な形而上学的主題が、
 夜霧を透かしてみえる公園の彫像のように、確乎として存在しなければならない。
★三島由紀夫「芝居の媚薬」より

真の花

2007-10-09 00:43:36 | ・読書・新聞・メモノート
一枚の葉書にはこう綴られている。

   顧みますと、三十七年の入社以来、記者生活は丸二十年間・・・・
  思い出のつきぬ歳月ではあります。その間、親しくお付き合いいただき、
  何かとご支援願ったこと感謝の気持ちでいっぱいでございます。

  退職後は、亡父の家業(観世流=梅若六郎家=能楽師)を継ぐべく、
  修行の道でございます。初心に帰って精進致しますので
  何卒よろしく、お願い申し上げます。


゛初心忘るべからず゛とは言わずとしれた世阿弥の言葉である。この文をしたためた葉書の主は修行の道をそのまま励まれていれば既に25年の歳月を重ねていることになる。今頃は老骨に残りし花たる立派な能楽師となられているのだろうか。きっとそうちがいないと私は思う。この葉書を受け取った主(この文庫本の以前の持ち主だろう)はお元気だろうか。地元らしき池上本門寺の御会式には毎年出かけているのだろうか。もうすぐ今年もその季節がめぐってくる。想いは駆けめぐる。

私が手にした文庫本『男性的人生論』(角川文庫)のなかで、立原正秋は、立合能におけるシテとワキの関係は、茶席における主客の応対と同じで、ともに一期一会の応酬である点、世阿弥も宗易も最後までこれを忽せにしなかったと述べている。世阿弥は中世の能の大成者であり、千宗易は安土桃山時代に侘茶を完成させた人である。この二人の天才の生涯は実によく似ており、晩年に政治と芸術との抗争ににまきこまれ、宗易は自刃、世阿弥は佐渡に流されるのだ。能を道にまでたかめた中世の一天才の反骨と自覚のたしかさが、政治権力と闘い、権力には敗れながら、しかし能というまぎれもない容を残した華美な勇気は、その後、千宗易が出るまで彼一人のものであった。彼は<風姿花伝書>に「此道に至らんと思はん者は、非道を行ずべからず」と述べている。芸を道とよび、事実道にまで高めたのは彼だけであると、立原正秋は世阿弥を勇者そのものであったと表現してもよいと綴っている。

本に挟まれていた一枚の葉書に想いを馳せ、綴られていた本の内容とあわさってよりいっそう味わい深いものとなった。その巡り合わせの不思議さと歓びを感じられずにはいられなかった。そして、私の辿り着くところ゛真に得たりし花なるが故に花は散らで残りしなり。゛やはり世阿弥なのである。つまりは時が去っても萎れることなく自分らしく咲いている真の花、そうありたいと改めて思うのである。