M文藝春秋、昭和の100人の一人が、元ヤマト運輸社長の
小倉氏。03年日経BP出版。20年先を考えていた。
きょうだいが障碍者で、福祉の道を考えたとある。
本書には書かれていない。
24年東京生まれ。東大経済卒。48年父経営のヤマト運輸に入社。
71年社長。宅急便の開発で運輸省と闘った経験がある。
93年、ヤマトの株、24億でヤマト福祉財団を設立。
本書、当時は財団理事長。無報酬で障碍者福祉支援にあたった。
講演のように読みやすい本、主張がはっきり書かれている。
障碍者月給1万からの脱出。どう経営すれば利益がでるか。
専門的な個所もあるが、障害者に対する思いが強い。
福祉的就労をなくす。給料を10万まで少しずつあげる。
財団で何をしていったらいいか?障碍者の自立とは・
働いて収入を得て生活すること、と定義した。
当時障碍者雇用率は、300人以上の社、1・8%、
今は2・3%くらいか。
罰則がなく一人5万払えばいい。それで終わり。
共同作業所の月給1万は、大半はリサイクル。
缶つぶし、牛乳パックの解体、石鹸を廃油からつくるなど、
儲かっていないことがわかった。
お小遣いでしかなく、そこはデイケアでしかない。
親がなくなれば、どうなるのだろう?それを真剣に考えた。
小倉氏はきょうだいに障碍者がいるが、当然裕福だが
一般の親、障碍者を思った。
どうしたら障碍者を入れ経営ができるか?何をするか?
健常者との比率。ハンセン病差別も書かれている。
4年目に共同作業所の運営者向けセミナー、2泊3日を始めた、
全額無料。食事、交通費、宿泊つき。かえって初めは怪しまれた。
4,50人位が集まる。
小倉の基調講演、障碍者福祉の問題など。
ヤマトを個人宅配に拡大できたノウハウも語る。
全国で開催した。
98年、スワンベーカリーを創業。
パンは経験がない。タカキベーカリーの社長に会う機会があり、
そこからの案だった。
タカキはリトルマーメイド、アンデルセンが有名。
生地を冷凍で店舗へ配送し作る。
スワンベーカリーは私も知っていた。
冷凍から作るのでできそうだ。パン工場で小倉も研修を受けた。
障碍者と健常者の比率は、健常者を多くした。
1号店は99年銀座に開業。現在は地方にもある。
2号店は北区。
ここではパンの宅配も始めた。
小島さんが尽力した。養護学校教諭を38年勤務、
銀座店に教え子を就職させた。フランチャイズ店をと十条に開業。
現在は全国に20店舗くらい。福祉の世界で有名になった。
一部にはカフェも併設した。給料は1万からまず3万、今は10万
支払えている店舗も多い。
小倉氏は05年80歳で死去。バイタリティ溢れる人物だった。
クロネコヤマト、個人宅配への道は次のページに。昔受け取った経験などを。
〇運営目的の主旨は、障害者の雇用と自立支援(従業員の過半数は軽度の障害がある)。
健常者の得る最低賃金支給額より、大幅に安く賃金を支払われることの多い障害者雇用の現状を憂いた「公益財団法人ヤマト福祉財団」理事長に就任していた小倉昌男が、
障害者が適正な収入の確保を得られる技術や、環境を得られるようにヤマト運輸(現在のヤマトホールディングス)とヤマト福祉財団に働きかけ、
「株式会社スワン」を設立。1998年、スワンカフェ銀座店を第1号店として開店した。~~
小倉康臣の次男として代々木に生まれた(長男は早世)[2]。1937年幡代小学校卒業。
同年、当時府立一中を上回る最難関の官立東京高等学校尋常科(現・東京大学教育学部附属中等教育学校)に入学。1943年秋、東京帝国大学経済学部入学。卒業。
1948年9月1日、父・小倉康臣が経営する大和運輸(現・ヤマトホールディングス)に入社[3]。
~~ヤマト運輸が旧運輸省(現・国土交通省)、旧郵政省(現・日本郵政グループ)と対立した際、企業のトップとして先頭に立ち、
官僚を相手に時には過激なまでの意見交換をした。理不尽な要求に毅然として立ち向かう様子は一貫しており、1979年には創業以来の取引先である三越が、
岡田茂社長の就任以後運送費の大幅引き下げ・映画チケットの大量購入など理不尽な要求を繰り返す様子に耐えかね、
同社に対し取引停止を通告した事もある(詳しくは三越事件を参照)。この様子は両社のシンボルマークに引っ掛けて「ネコがライオンにかみついた」として話題となった。
~~1995年6月29日に退任[9]した後は、ヤマト福祉財団理事長として障害者が自立して働く場所作りに取り組んでいた。