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白堊スポーツ - since 2004.09.18

母校・盛岡一高や岩手のスポーツ情報、読書感想、盛岡風景などをお伝えします。

高校野球に寄せて

2011年07月12日 | '11夏チームの球跡
熱があるからと言ってぐだぐだしているわけにも行かないだろうから、ダラダラ高校野球について書いてみようと思う。

前にも何度か書いたが、俺が高校野球を見に行き始めたのは小学校2年から。市営球場や盛鉄球場にオヤジのバイクに乗せられたり、自分で歩いて行ったりした。県営球場が出来てからは歩き、自転車で通った。

その頃、印象に残っている選手といえば、三高の簗場投手。アンダースローで良いピッチャーだった。当時はとにかく、盛岡の高校を友達と大声で応援していたが、毎年文化祭に欠かさず通っていた一高と三高が好きだった。バンカラに憧れたわけではないが、「勉強もして野球も頑張ってる学校!」というイメージだったと思う。

甲子園が始まれば、朝から晩まで夏休み中一日も欠かさず見続けた。
選抜、夏の区別はあやふやだが、箕島の東尾、岡山東商の平松、銚子商の木樽、三池工業の上岡などの名前が懐かしい。名物監督の箕島・尾藤、桐生・稲川も健在だった。三池工業を初出場、初優勝に導いたのは原貢監督。なんだが、「セピア色」の時代だ。

昭和43年盛岡一高ベスト8はテレビで観戦。
沖縄・興南高校への甲子園の大声援が今でも忘れられないし、あの口惜しい思いは死ぬまで忘れないだろうと思う。あと、最近の出来事で「一生許せない岩手県内高校出身選手」は一人いるが今は言わない(たぶん知ってる人は知ってる)。しかし、あの昭和43年夏の県大会の観戦記憶が一つも残っていないのは何故なんだろう?不思議だ。当時は1回戦からのテレビ中継はなかったから(ラジオはあったような・・・)現場に行っただろうとは思うが。だが、決勝はテレビ観戦だった。水沢高校の鮮やか臙脂(えんじ)のヘルメットが記憶にある。

あれから40年。
「白堊スポーツ」なんぞと名乗ってスポーツ新聞を気取ってるおんずさんになってるとは思いもしなかった。調子が悪いと言ってる場合じゃないが、少し気力が萎えている。一高選手の活躍が良薬とは思うが、大丈夫だべがと不安も感じる。

少し前からだが、高校野球は優秀な選手とスタッフだけでは勝てないことを感じてる。チームとして「団結力」「チーム力」「統率力」がないと勝ち進むことはできない。出ている選手だけで勝ち上がれるほど高校野球は甘くないってこった。控え選手の声、コーチング、代打、代走も大事だ。応援団の力も大事だ。俺が若い頃は、「一高を俺達が勝だせる!」と言って県大会の優勝候補にも挙げられた龍澤高校(現・盛岡中央)との地区予選初戦初回から「ピッチャーお代わり来い!お代わり来い!来い!お代わり来い!」の蛮声を内外野応援団がステレオで相手に浴びせて勝利したこともある。怒られるかもしれないが、野球4、応援6と言われたこともあった。

さーっ、間もなく大会が一高十良澤の選手宣誓で始まる。
ここまで強くなると、正直「檄」の飛ばしようがない。細かい点では、不安や不満がないではないが、選手が毎年入れ替わる高校野球で「4強」「準優勝」「4強」「春4強」と歩んで来た盛岡一高野球部指導陣、球親会、選手諸君には頭が下がる。たんだ、たんだ、外からお気楽に母校を応援してる白堊バガが偉そうなことは言えん。一戦一戦大事に戦って一つでも上に行って欲しい。幾万の白堊バガたちを甲子園に連れて行って欲しい。校歌を謳わせて欲しい。と願うのみ。

杉田野球にバントなんか似合わない。
杉田野球を知ってる者なら誰も文句を言わん。ここまで、あの「盛岡最弱」と馬鹿にされた盛岡一高野球部を復活させた杉田さんのやりたいようにやって欲しい。とにかく打って打って打ちまくればいい。走って走って走りまくればいい。試合前の選手の雄叫びなんていらない。試合前のパフォーマンスなんていらない。マウンド上の作り笑いもいらない。

外連味(けれんみ)のない白堊野球で甲子園を目指せ。
盛岡一高硬式野球部。