昨日の上映会で若い藤本さんの映像を見ることが出来た、当時スタジオゼロの1階は喫茶店でそこでドラえもんの放送が始まる頃までよく打ち合わせをしていたが、上梨さんに聞いたところ、彼は1度も藤本先生とお会いした事が無かったと言う。スタジオゼロは虫プロの佐武と市のときに何度か来ていたが、手塚プロでのふしぎなメルモで西出さんに編集を担当してもらいそのことがきっかけでスタジオゼロの2階にはちょくちょく来ていた。3階には藤子両先生の仕事場であったが、雑誌の編集者たちが立ちはだかっていてとても超える事など、不可能であった。結果藤本先生の空いた時間に、タイミングよく打ち合わせをする必要があったが、手塚先生でもっとすごい状態を経験していたので、要領よく合えたものであった。手塚先生よりもっと温和で、やさしい話し方をされていたのが印象深く残っている。
今回の上映会の前に資料を調べていて前年昭和52年の8月号の中で「今度はテレビで会おうね」というような文章があったらしいという情報を得た。パイロットを作ったのが11月ごろと思って、放送が9月ごろ決まったとも思っていたが、その記述が本当だとすれば7月には内定していたはずで、それより前に原作者の了解の交渉が当然あったはずで、思っていたより早くのうちの連載が始まって2年足らずで渡辺、佐々木がドラえもんに、着目し行動していた事が思いがけず判った。
今回の上映会の前に資料を調べていて前年昭和52年の8月号の中で「今度はテレビで会おうね」というような文章があったらしいという情報を得た。パイロットを作ったのが11月ごろと思って、放送が9月ごろ決まったとも思っていたが、その記述が本当だとすれば7月には内定していたはずで、それより前に原作者の了解の交渉が当然あったはずで、思っていたより早くのうちの連載が始まって2年足らずで渡辺、佐々木がドラえもんに、着目し行動していた事が思いがけず判った。
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