真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

手治虫ファン大会

2009年11月07日 23時59分34秒 | Weblog
昨日の歩数:20801歩
起床時間:5時20分
血圧  :111  62
脈拍  :68
体温  :35.3℃
体重  :64.6kg
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渋谷シダックスホール手治虫ファン大会
初めて地下鉄で渋谷まで行く。
10時30分には会場に着く。
手塚プロ森室長、田中さん、ファンの大関さんなどに会う。
控え室で既に届いていた「誰も知らない手治虫」の本40冊に小林先生が見える前に自分のサインを入れておく。
11時小林先生見えて本にサインを始める。
河井先輩が見えチョコレートの差し入れ。そしてサインを書いた後の消しゴム入れ。
12時40分柴山先生と石津先生が見える。
13時前に高橋先生も見える。
松谷社長と手塚眞さんご挨拶にお見えになる。
13時受付開始、「誰も知らない手治虫」サインした40冊受付開始前に混乱を避けるため販売、13時5分前には完売してしまう。仕方なく希望者には予約をしていただき後ほどサインをしておわたしすることになる。
13時30分の開会
主催者挨拶は松谷孝征手塚プロダクション代表取締役社長と
手塚 眞取締役、手塚先生ご長男。
そして2分前に控え室に居た我々が呼ばれ舞台袖に控える。
 司会者の紹介。
河井竜さん、小林準治さん、私、の順番で舞台左側のテーブルへ。
磐紀一郎さん、柴山達雄さん、高橋良輔さん、の順番で右側テーブルに座る。

13時45分スペシャルトークショー
「虫プロてんやわんや 誰も知らなかった手治虫」の開始。
「虫プロてんやわんや 誰も知らない手治虫の著者6人(旧虫プロダクションスタッフ)が本では書ききれなかったことについて語ります。
先ずは自己紹介と先生の思い出。を一人一人語る。
司会の砂口譲から河井先輩に質問。そしてゆっくりした喋りでの答え。あくまで自分は悪であった。思わず「違います」かばおうとマイクを掴むと、砂口譲「アオさん、寝てないで何か言って下さい」
暫く間を置き「こうゆうのは、しゃべるより、聞いているほうがいい」と例の口調で、会場はどっと笑い。
 時間が来て「最後に何か遺言を」と、砂口譲、に会場うける。
それに答えて磐さん「遺言ならいいましょう」でまたどっと来る。柴山先生で遺言より時間が無いので何か質問を、と言う事になり、しゃべらないまま14時40分短く感じるほどで無事終了。
休憩室で手塚プロの人たちからご挨拶など受ける。
その後最前列の関係者席に座らせていただき会を見せて頂く。
14時55分からは大坂からお見えの手塚大フアンの田浦紀子さんの研究発表
「手治虫と大坂」
パソコンに画像などやデーターと整理してあり、それを見せながらの研究発表。
 惜しむらくは時間がなさすぎる、時間に追われつい早口に、じっくり聞きたかった内容であった。聞き手として資料室の森晴路室長と田中 創職員、
聞き手と言うより内容で手塚作品についての確認に対して答えるなど。
15時20分からは社員秘話 手塚アニメに纏わる秘話。
 混乱を避けるためそのままの会場とサブステージを別室に設けた。
サブステージは受付時に整理券を受け取った人だけが受講できるシステム。
メインステージは清水義裕著作権事業局局長。
サブステージは久保田 稔制作局局次長
私はそのままメインステージを。
 武蔵野大学での講演会で聞いた内容と大体同じでやはり時間に追われた感じ。
15時45分蔵出し上映
手治虫先生の1985年マンガ家生活40周年展からのアニメにかける姿勢
実験アニメーション「タバコと灰」1965年制作。
しかしこの作品は月岡貞夫さんの作品
手塚先生はお金を出しただけの制作。
1960年 “アニメーション3人の会”を久里洋二先生、真鍋博先生、柳原良平先生が結成、第一回草月アニメーション上映会を開催した
草月アニメーションフェスティバルの活動は多くの現代音楽家、写真家、詩人、俳優、小説家、画家、映画監督との交流を生み、草月会館を砦として久里洋二がアニメーションを芸術とした。1960年代のアニメーション史の記憶に残るものだと思う手塚先生は久里先生などの要請で 1964年9月21日からの第4回草月アニメーション・フェスティバルに「めもりい」「人魚」の実験作品を制作出品している。
翌年1965年の10月1日からの第5回アニメーションフェスティバルでは「しずく」を制作出品した、しかし草月サイドから作品の数で虫プロ(手治虫)から最低2本の出品を要請されていた。しかしもう一本作る時間も暇も無く、広く社員に好きな実験映画を作るよう広報した。もちろん制作費は全て手塚先生が払うと言うことであった。しかし誰も申し込むものはいなかった。
 フェスティバル開催の日にちだけが迫った。
そこで急遽月岡貞夫先生に手塚先生から依頼した。
無理、間に合いっこないスケジュールで作られたのがこの 作品「タバコと灰」 であった。だから撮影は虫プロではなかったと記憶している。そして開催日ぎりぎりで出来上がった。
 だから手塚先生作品ではなく月岡貞夫先生作品である。           ついでに翌年私も関わった短編劇場映画「展覧会の絵」も第6回草月アニメーションフェスティバルに出品した、と思う。
私は久里洋二先生から、あなたのところは良い、大企業だから金がある、だから好きなものだ作れるとよく言われた。久里洋二先生だって1964年から日本テレビの11PMで、週1回、アニメ「ミニミニアニメ」を放送しているじゃないですかと言い返したものだった。司会の大橋巨泉さんが麹町(日本テレビが合った場所)のムジナと呼んでいたのを思い出す。
展覧会の絵は実験映画としては長い作品(劇場としては短編)その年の11月11日虫プロフェスティバルで上映、翌年第21回芸術祭に出品芸術祭奨励賞を取り 第21回毎日映画コンクール 5回目の大藤信郎賞も受賞ブルーリボン賞と軒並み受賞した。
そして 封切館でロードショー封切りされていることを知っているだろうか。
 パンティオン、ミラノ座、セントラル、である。映画「天地創造」だったと思うが2本立てで上映した。
 おまけ
これでお金が入ってきた。喜んだ手塚先生はお祝いにデズニーの「ファンタジア」を社員に見てもらおうと全社員のために切符を買った。その切符を買いに行ったのが私だった。
16時05分研究発表「手塚少女マンガのナゾ」
 発表者扇谷 正敏さん この方とは「広場」関係の行事でお会いしている。
その広場に多くの研究発表をしている手塚フアン。
そして森私領室長と田中さん。
休憩時間に再度、松谷社長とご挨拶。お願い事などする。
手塚先生奥様がお見えになる。ご挨拶とお話し。河井先輩を交えて今後の予定を話す。
16時30分からは社員秘話 手塚マンガにまつわる秘話
 メインステージ   松谷孝征社長
 サブステージ    古徳稔出版局局長
メインステージの話を聞くがどうも奥様が見えられたので言いにくくなったのかお話しの内容を随分と変更されたように見えた。
17時 宝塚観光大使 サファイアの二名が登場
その後手治虫 カルトクイズ大会&大抽選会
手塚先生の作品などに纏わるかなりマニアックなクイズ。しかしフアンの知識ははるかにそれを越え中々3人に絞れない。そして時間がどんどん無くなる。
やっと最後に一人が勝ち残る。3名までの表彰後2名、直前まで3名が残っている。結局じゃんけんで。そしてサファイアから商品が渡される。
 抽選会時間の関係でどんどん亜たち番号がひかれ素晴らしい景品の説明が無いままサファイアから商品が無造作に渡されていく。見ていてもったいない。
古徳局長による閉会挨拶
鉄腕アトム主題歌の大合唱。
18時には無事終了した。
危難写真と撮って貰うに参加。
松谷社長とツーショットで写真を撮って貰うなど。
会終了語河井先輩、柴山先生、石津先生、小林先生、森室長、たちは大坂のグループと2次会へ行かれた。
 私は会を運営したフアンの方々に誘われあつかましくも、そのままシダックスのカラオケへ田中さんと行く。
9時半河井さんたちがこちらにお見えになると言うので1時間半延長する事になる会費が上がるのに皆さん残った。
柴山先生大虎、のりに乗ってカラオケ大会、アニメ主題歌に加山祐三に大いに盛り上がる。
11時お開き、渋谷から池袋へ、最終飯能行きで、小林先生と帰ってくる。
1時帰宅。
風呂に入りメールをチェック。
樋口先生からメール。ジェイコム松井さんにメールを出す。
2時10分寝る
コメント
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