津々浦々 漂泊の旅

「古絵はがき」 に見える船や港。 そして今、バイクで訪ねた船や港のことなど。       by ななまる

毛馬閘門へ

2013-09-23 | 旅行
八軒家船着場より天神橋筋を北上し、毛馬に向かった。数年前に大阪の川船を撮り歩いた時も、毛馬は訪れ
ていなかった。
1896(M29)制定の河川法に拠り、高水防御を目的に「淀川改良工事」は着手された。淀川放水路(現「淀川」)
を開削すると共に、大阪市内へ流入する水量の調整や土砂堆積を防止する「洗堰」と、河川舟運の航路を確
保するための「閘門」を、旧淀川と中津川の分流する毛馬に築造した。
「旧閘門」は1902(M35).12起工、1907(M40).08竣工し、1976(S51).01まで使用。
「旧洗堰」は1904(M37).12起工、1910(M43).01竣工し、1974(S49).10まで使用。
現役の「毛馬閘門」と区別するため、保存された旧閘門は旧「第一閘門」という。1918(T7)下流側に「第二閘
門」を設けたため「第一」を冠する。「第二閘門」は今は無く、閘室は船溜まりとなっている。
毛馬閘門において記録された外輪汽船絵葉書は2点見つかっている。何れも、汽船通過時を待ち構え、撮影
されたと思われる。





一枚目の絵葉書には押印され、日付はM43.2.?と読める。こちらが古いと判断する根拠に「淀川改修紀功碑」
の有無がある。上の画像には見当たらない。淀川改良工事竣工式は1909(M42).06.01、一部の工事を残し、
毛馬洗堰横の広場において、関係官庁や沿岸住民約1000名参列の下、盛大に挙行された。惜しいことに、
鮮明な画像にもかかわらず、船名は書かれていない。
二枚目の絵葉書には、紀功碑基部が見えている。中央の煙を吐く煙突は、京阪電気鉄道の発電設備として
1907(M40).07.28着工された火力発電所。現在の蕪村公園にあった。煙突に文字が書かれている。前掲は少
し鮮明で、輪郭から「京阪電気鉄道会社」と読めそうだ。発電開始は、電鉄開業1910(M43).04.15の、少し前
と思われる。電鉄開業により旅客は激減し、「曳船専業」になったことを考えると、何とも皮肉な画に見える。
こちらも船名は見当たらない。

『船名録』を見ると、M40版(M39.12.31)~T03版(T02.12.31)の間、「渡邊永助」「中島豊吉」二社体制のまま
推移している。変化はM41「第四長安丸」退役により8→7隻となったこと、同年「第貳此花丸」→「宇治丸」
に更新、T02「第一此花丸」退役と「大正丸」登場程度となり安定している。『M42船名録』(M41.12.31)から
在籍船を拾うと次のとおり。前掲二隻の該当船はこの中にある。
■渡邊永助
  攝津丸 6960 / JCTB、150G/T、木、1893(M26).12、林政七(伏見)
  近畿丸 6961 / JCTD、132G/T、木、1896(M29).12、尼賀又兵衛(大阪)
  近江丸 6970 / JCTK、143G/T、木、1894(M27).10、林政七(伏見)
■中島豊吉
  第三長安丸 4533 / JCPT、133G/T、木、1893(M26).09、林政七(伏見)
  第一此花丸 6963 / JCTG、58G/T、木、1900(M33).12、林政七(伏見)
  長安丸 6971 / JCTL、132G/T、木、1891(M24).08、平野龍太郎(伏見)
  宇治丸 10342 / LBQC、113G/T、木、1907(M40).04、尼賀又兵衛(大阪)





一枚目画像を拡大したところ、この画像に隠されていた重大な情報に気付いた。約60年間の淀川蒸気船リスト
を作成し、初めて思い至ったことでもある。どうも変だな‥と見ていた船首部は、舳先まで甲板室は達してい
たと判った。改めて葭屋橋の船影を眺めると、不思議な形状の船首部を理解出来る。諦めていた煙突マークも
「豊」と読めた。中島豊吉所有船と見て間違いなかろう。実は「第三長安丸」の船影は、絵葉書から船名を読
み取り、特定している。「第一此花丸」は小型に過ぎるし、断定は避けねばならないが、古い形態から「長安
丸」ではなかろうか。どうも二枚目のマークも「豊」に見える。



『件名録』は「第三長安丸」と「近畿丸」に、同じ画像を使用している。前者の退役後に刊行された『明細書』
は、その画像を「近畿丸」としている。この船影は、「近畿丸」と見て良いと思われる。下は『件名録』に掲載
の「大正丸」。甲板室部分を欠き取り、外輪曳船スタイルになっている。





公園には、かつて長柄運河を跨いでいた眼鏡橋を渡って入った。先ず、右手に見えた電気機関車モドキの設
備に気を取られた。一体、これは何だろう。機関車?はレール上にあった。架線も引いてあり、小さなパンタグラフ
まで付いている。レール延長は20m程度か。塗色から近江鉄道の凸型電機ED31形を連想してしまった。
1929(S4)第一閘門に制水扉を設置したと解説板にあった。この設備は、制水扉を動かすための装置か。





閘室に降りてみた。第一閘門の要目は、幅員11.35m、閘室長75.38m、有効長89.85m。かつて、淀川と大
川の水位差は1mあった。曳船は先端まで入れても、曳航してきた荷船を引き込むのは人力に頼ったのか。
通過にはかなりの時間を要したことだろう。実際に、数々の外輪汽船の通過した閘門に立つと感慨は深い。



絵葉書の構図と重ねて見ようと歩き回ったが、埋め立てられて良く判らない。旧洗堰は左手にあり、当時
の総延長は52.72m、10門の水通しを設けてあった。現在は3門を残して撤去される。当初の水量調節は、
角材をクレーンで吊り上げ、溝に落とし込む「角落とし」という方法を用いた。一枚目絵葉書の、丁度、発電
所煙突の基部に見える三角形の設備がこれ。



公園内には「淀川改修紀功碑」(上)と、1917(T6)出水に伴う増補工事に係る「記念碑」がある。前者の周囲
には、「毛馬の残念石」という石材もあった。江戸幕府は、大坂城再築にあたり、廃城となった京都伏見城の
石材をリユースした。これら石材は、運搬途中に船から落下し、淀川改修工事の際に発見されたらしい。大坂築
城に再利用されなかったことから「残念石」と云う。



現在の毛馬閘門は1974(S49)竣工した。第一・第二閘門は1976(S51).01まで使用された後、第一閘門と旧洗
堰一帯は公園化された。「淀川旧分流施設」は、用いた工法や技術が規範を示し、近代史上価値が高いとして
2008(H20).06.09国重要文化財に指定された。
公園内には「工學博士沖野忠雄君之像」と解説碑もあった。豊岡に生まれた沖野忠雄は1881(M14)フランス留学
より帰国し、政府に採用され、1883(M16)より1918(T7)まで土木局や内務省にあり、主要な河川改修や港湾整
備を主導した。特に近畿地方に沖野の関係したプロジェクトは多い。
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