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松本さんの絵 第311◎、「野いちご」という映画を見た方が良さそうです。

2013年01月06日 05時57分03秒 | 日記
 

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図415拡大画像  2012年11月14日(水)

                  アイデンティティ

エリクソンが1925年に描いた版画がおもしろいので、アレンジしてイラストにした図柄です。エリクソンは、幼児期をすぎたころ、母と自分だけの世界が確かにあったと記憶しています。この絵は義父と母のハネムーンで船に乗った記憶です。エリクソンは自分の父がだれなのか母に、なんども尋ねますが、母の再婚相手をほんとうの父と言うので、納得できません。母は若くして亡くなり、かれは自分のアイデンティティ探しに、にこだわります。けんめいに捜したものの実の父は見つからず、パリでは、自分の画才で生計は無理とあきらめます。多才なエリクソンですが、さしたる経歴もなく、アメリカに渡ります。人脈に恵まれて、大学講師となり、のちにハーバード大で心理学の教授になります。アイデンティティ、モラトリアム、ライフサイクルなどの現代の人間心理を的確に捉えて、数々のキー概念を生み出した人だと、講演者、翻訳者、やまだようこは言います。

記憶にのこったのは不思議な版画でした。1905年、コペンハーゲン行きの船上で、ハネムーンを楽しむ親を背にして、エリクソンが何か考えているようにみえます。

エリクソンの母は美しい人でした。彼は長身でハンサム、そして彼の話は魅力的で的確で、言葉を宝石に仕上げる表現者でした。人脈は広がり、やがてジョアンと結婚します。たくましい2人の息子と美しい一人娘に恵まれます。しかし秘密があります。わけあって、生まれたときから施設に入れた子供が一人います。エリクソンは、その子と生涯会いませんでした。父となったエリクソン自身もまた、我が子のアイデンティティを否定します。ここから、エリクソンの著名な業績について、やまだようこ教授の講演が本題に入ります。本屋でエリクソンを立ち読みするか、「野いちご」という映画を見た方が良さそうです。きょうも難しい話だね、聞くだけならと、聴講しました。



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2013年01月05日 17時30分41秒 | 日記

 

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◎ 加藤文太郎編 参考:昭和9年の著書(加藤、上高地の主(木村

◎ 老舗料理めぐり

 

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松本さんの絵 第274◎予定どおりの食事会が無事におわりました。大阪、福井、兵庫から京都に来てい

2013年01月05日 17時23分11秒 | 日記

図379   2012年6月19日

        柚(ゆず)や旅館


 ここは静かで、祇園八坂神社の境内に隣接しているとは、おもえません。ふらりと観光客が入ってき来ましたが、受付で一月先の予約という話を聞いています。じかんどおり午後一時に、きたところ、奥のテーブルに案内されました。どのテーブルも満席です。

狭い階段を上ると、玄関につきます。植え込みの樹木の葉が、石畳の通路の上にかぶさって、小雨混じりの天気ですが、雨に濡れませんでした。玄関から奥は土間で、テーブルが10席ほどあって、その奥は旅館の部屋のようです。土間に隣接して男湯、女湯の暖簾がさがっているので、トイレと間違いそうです。規模の大きい京都の町屋の作りを感じます。おくどさんという煮炊きする釜が二つあります。

一泊30000円以上する宿です。ま、雰囲気は昼食で十分味わえました。小鉢は20皿ほどで、お酒の肴にぴったりです。

それを食べおえると、ほうじ茶がでて、それで一休みしてから、柚粥が

きました。4人で食べきれないほどあります。柚の切り口から落とした酸味は、かゆを独特の味にしています。粥の中は鯛のような白身と卵の黄身がはいっていました。ようやく食べ終えると、葛味の和菓子が出てきました。2時間超過しましたが、満足でした。台風4号にめげずに、予定どおりの食事会が無事におわりました。大阪、福井、兵庫から京都に来てくれた、皆々様お疲れでした。ちなみにアレクサンドラトリバネの雄雌の色紙を観てくれた知人は、よろこんで受け取ってくれました。

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松本さんの絵  第187◎昭和9年4月3日、前穂高北尾根第三峰で、暗くなり露営します

2013年01月04日 16時07分41秒 | 日記

 


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図300      加藤文太郎編 その2

 原文をよむと、昭和3年、4年のころにの登山事情が少しわかったような気がします。若くして冬の槍が岳、北鎌尾根で遭難しますが、加藤氏自身の遭難記録はないので、遭難後に発見された当時の状況をもとに、吉田氏と二人の最期の足取りを谷甲州が、解き明かしています。

谷甲州のアラインゲンガーは、読みごたえがありました。加藤氏の原文では、実直な人柄がよくわかります。冬から初春のもっとも厳しい日本アルプスに魅了されますが、父の死を境に、前穂高北尾根、槍北鎌尾根で区切りをつけたかったように感じました。そして、これまでの単独行にこだわらず、前穂高からは吉田氏と二人で冬山に挑みます。以下は記録に残る末期の山行きです。昭和9年4月3日、前穂高北尾根第三峰で、暗くなり露営します。雪崩を警戒して、チムニーの雪をかきだして、穴に入り、一夜を明かします。

 

原文から

 

岩と雪の斜面を登ろうとしたが、雪がひどく降り出して。。。。。とうとう諦めて、このチムニーの雪の孔へ 引き返したのである。チムニーの中に掘ったトンネルは傾斜が急なので、別に水平の孔をチムニーの出口のところへ堀り、やっと二人横になれるほどの大きさに広げ二組のワカンを敷きザイルを広げて床を作った。早速コッヘルを使用して食事をとる。吉田君の持ってきた豆の煮たのをコッヘルであたためて食べたが、これがとてもうまかった。いろいろな物をコッヘルであたためては鱈腹(たらふく)たべたので、持ってきたものを全部着た上、足は靴をはいたままルックザックの中にいれ、頭を奧にして二人は互いに押し合いながら横になった。夜の更けるに従って吹雪はますます勢いをまし、北尾根に当る風の音が物凄く唸り出してきた。

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松本さんの絵  第188◎先に進むつもりが、暗くなり、チムニーの穴に戻って一夜を過ごします。

2013年01月04日 14時35分44秒 | 日記

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図301    加藤文太郎編  その3

             前穂高北尾根第三峰


加藤文太郎とパートナーの吉田は、チムニーの中の雪を掘り出して雪庇の上に出て、先に進むつもりが、暗くなり、チムニーの穴に戻って一夜を過ごします。



 以下原文から


第三峰のチムニーの下へきたときには予想外に、時を経ていた。ここで取り付きやすい左のチムニーに入ったが、これには全部雪が詰まっていて上の方に雪庇さえ懸かっていた。その雪庇を落とすために二、三度努力してみたけれど、ピッケルが思うようにとどかぬので、諦めてその下を斜めに掘り始めた。このトンネル作業はピッケル以外に適当な道具がなかったため実に労が多く、三時間ほどもかかってやっと抜け出すことができた。しかしもうそのときは夕闇がせまり、その上雪まで降り出してきた。そこからしばらく右へ雪の斜面を登ると本尾根へ出ることができた。本尾根は大きな岩のリッジになっているので、少しく右へ下り気味に涸沢側を巻き、そこより真上に岩と雪の斜面を登ろうとしたが、雪がひどく降り出して懐中電灯の光ではコースがよくわからず、とうとう諦めてこのチムニーの雪の孔へ引き返したのである。

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