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 アーカイブ  第283 ◎ 毎年、梅雨があけると、新穂高温泉に行きます。

2019年05月31日 07時29分10秒 | 日記

図388   120724

 7 月の夏休み前は、オートキャンプの車は少なくて、混雑しません。小中高学生の声が聞こえないのはさみしいですが、露天風呂はすいています。曇り空で、雨が降り出したので、傘をさして温泉に入ることにしました。

 男湯はだれもいないので専用風呂です。女湯との間に板の塀で仕切った垣根がありますが、今年は板の一部が破れていてます。昨日の深夜2時頃は、若い女性が2,3人垣根の外を回わって男湯にきていましたから、混浴ありかもしれません。また破れた穴は修復していません。看板はのぞき禁止など、ものものし いのですが。そもそも新穂高周辺の露天風呂は混浴の習慣があります。その一方で、水着着用の禁止などと看板があります。のぞき禁止の看板がある場所では、注意書きに従えばいいのかなあ。

 久しぶりの荒神の湯にいると携帯の電話がかかってきました。昨晩世話になった福井の知人の家が土砂崩れで、床下浸水しているとのことでした。新穂高温泉も、はげしい雨がやまず引き揚げることにしました。せっかく来たので、平湯に移動して民族歴史館の露天風呂も行きました。 ここは温度が高く39度ほど有ります。鉄分のため赤い色の湯です。無料の露天風呂に、何度か入って満足したので、富山 経由で福井に出るか、九頭竜湖 経由で行くか、考えました、土砂崩れによる通行止めを警戒して、富山経由で無事に福井に着きました。途中でモスバーガーに立ちより、チリソース味のウインナーバーガーとホットコーヒーを注文して知人を訪ねました。


 アーカイブ 第96◎ 中村楼は八坂神社の老舗料理店です。

2019年05月31日 07時29分10秒 | 日記

 

 

図186    祇園中村楼   

     4月は祇園中村楼で食事をしようと4人が集まりました。中村楼は老舗だけあり、枯山水の庭を見ながら食事ができます昼の懐石にしました。食べ歩きたいのは日本料理です。古い料亭は、食材や、味、器、もてなしの雰囲気など、いろいろなところで伝統を感じます。がっかりした事はあまりありません。食事のあとは、四条河原町の古い喫茶店、木曜社に行くつもりでした。しかし岡崎を散策していてUCCの阿蘭陀コーヒーという店がよさそうなので、熱いコーヒーを注文しました。ここは平安神宮のそばで疎水に沿ってツタの葉が茂るレンガの壁の店で以前から行ってみたかった。熱めのカップに濃いコーヒーでした。

円山公園のしだれ桜は枝が刈り込まれて桜の花が少ない。 知恩院の大クスの木の下を抜けて、白川疎水に向かいました。京都はクスの大木が多くあります。ここの木は500年です。大きさに圧倒されます。 疎水沿いを散策しました。三条までタクシーで戻り先斗町を散策したあと、祇園石段下までもどり、鍵善良房に、くずきりを食べに行った。黒蜜と葛の不思議な食感は、何にたとえるべきだろうか。祇園は歌舞練場で京舞の季節です


アーカイブ 第2続き ◎ 記憶

2019年05月14日 21時59分09秒 | 日記

図4  鶏とひよこ

  このカラーのパステル画は弘が1928年に描きました。写真はタバコ缶です。1945年、敗戦になり近くの赤十字病院が米軍に接収されました。そのときに ビクター軍曹は二度、三度我が家に遊びに来た。

父は英語が少し話せたから、近所のおばさんが覗きに来たそうです。父は着物と交換に砂糖とタバコを取引した。ビクター君は Kentucky Club のタバコ、塩缶やコーヒー豆、コーヒーミルなどを持ってきた。コミック本もあった、ミッキーマウスの漫画は戦争ものや、銀行強盗ものが描かれていた。ハーシーチョコレートは分厚い板のような四角い固まりのままで油紙に包んで持ってきた。クリネックス ティシューもくれたが、使わなかった。そのころ アメリカ人は使っていたんだ。

当時 ビクター君と呼んでいたが、名前としては、なにか変です? 父が名前を尋ねたときに勝利者だと軍曹が答えたからだろうか。職業を尋ねるとシカゴでヤクザな仕事をしていたそうです。1973年、アメリカみやげにタバコ缶を数缶買いました。父の思い出に。

写真 Kentucky Club のタバコ缶、パイプ


アーカイブ 第191◎避難小屋のかわりに横尾谷の岩小屋で寝泊まりできたころの話です。

2019年05月13日 22時56分49秒 | 日記

 

 

図305    加藤文太郎編 その1     旦夕って?


 穂高の屏風岩を登る人やハイカーが、避難小屋のかわりに横尾谷の岩小屋で寝泊まりできたころの話です。私が10代の頃は、その岩小屋に泊まれましたが、いまは土砂で埋まっています。加藤文太郎は、昭和8年前後に、岩小屋を何度か利用したようです。単独行から雪と岩に魅せられたころで、吹雪のなかを前穂高の北尾根に登り、チムニーで夜を明かして、仲間(吉田)が凍傷にかかります。その後、再び訪れた岩小屋で、知人から 旦夕(たんせき) という言葉を耳にします。その数年後に槍ヶ岳北鎌尾根で、仲間と共に、雪の中を千丈谷に転落、旦夕の予言どおりになってしまいます。

以下は原文から

昨年の三月私は横尾谷にある松商の岩小屋をおとずれたことがある。ちょうどその年の一月屏風岩を登った中村氏らがいて非常に歓待してくれた。そのとき私は入り口においてある大きな白樺の木へ腰をおろして焚き火にあたっていた。ところが中村氏は私にむかって「君の生命は旦夕にせまっている」というのである。それはどうしてだと聞いてみると、実は去年の今ごろ、今は亡き神戸の三谷氏が友達と二人で君と同じように飄然とここへやってきたが、そのとき三谷氏は現在君のいるところへ全く同じようにそこへ腰をかけていたし、また同じく神戸の金光氏および有明の案内塚田君もやっぱり同じようにそこへ腰をかけていたのだ。だから君ももう長くはないというのである. cf.参考図書 単独行 加藤文太郎 昭和15年6版 (京都府立図書館) つづく>>