経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

   日本史入門(30) 福沢諭吉と渋沢栄一

2021-01-26 14:50:32 | Weblog
日本史入門(30)福沢諭吉と渋沢栄一

1 福沢諭吉は1835年中津藩士の次男として大阪の蔵屋敷に生れる。父親百助は下級武士、学識ゆえに経済官僚として重用。45歳百助急死、脳卒中、諭吉1歳、一家は九州中津に転居。諭吉の初学は遅れる。14―15歳で漢学を習う。21歳長崎遊学、学費は長崎の地場役人の家事手助けで稼ぐ。非常に有能、養子にと言われる。家老の息子に諭吉の能力が嫉妬され、中津に帰される。諭吉が身分格差を憎み自由平等を主張したのにはこの種の体験も影響。諭吉は江戸大阪で蘭学学習を希望。親戚は猛反対、母親のみが理解者。
2 22歳大阪の緒形洪庵の適塾に入門。あんまをして学費生活費を稼ぐ。威勢のいい若者が集団で住む塾、百鬼夜行、自由。適塾からは幕末維新の人材が輩出。大村益次郎(兵部大輔、日本軍制の創始者)、大鳥圭介(函館で新政府に抗戦、後新政府に出仕、京城公使)、橋本左内(越前藩主松平慶永の参謀、安政の大獄で刑死)、高松凌雲、長与専斎、菊池秋坪、花房元淑。長与と菊池の家系は後々まで学者の家として栄える。
24歳適塾の塾頭に。諭吉の学問の出発は遅かったが、上達は早い。ほとんど独学。適塾の学風は自由で諭吉向き、緒形洪庵にも信頼される。25歳藩命で江戸出府、中津藩士に蘭学教授。深刻な体験。開港地横浜見物、蘭学の腕試しと、オランダ語はどこにもない、さっぱり解らない。世界は英語の時代に、と諭吉は悟る。方向転換も早い。英語を猛勉強。手に入る辞書で独習、簡単な英蘭会話辞典、英語を知るオランダ語通訳に尋ねる。
3 転機、咸臨丸の米渡航。司令官木村喜毅の従僕、咸臨丸に乗り、サンフランシスコへ。ウエブスタ-辞書他2冊の英書を買う。諭吉の英学は進む。この間藩の上士の娘と結婚、多くの子女をもうける、子煩悩、子煩悩ぶりは弟子達にも向けられる。
29歳、遣欧使節に随行欧州に、西洋社会の観察。幕府から与えられた400両の支度金の大部分は英書購入に。本の一部を翻訳して出版。「西洋事情」、「唐人往来」などの本を書き西洋社会を紹介。幕臣に、外国奉行支配翻訳方、扶持米150俵。長州撃滅論を幕府に上申。攘夷はまっぴら、攘夷を唱える長州を討つためには外国に頼ってもいいと。
34歳幕府の軍艦受取委員随員として渡米。5000両の金を集め洋書購入。独断専行、正しいと思えば大胆気まま。謹慎。洋書の翻訳。諭吉の購入量が膨大で、洋書の値崩れが起こる。西洋文明の紹介には大いに寄与。
4 慶応4年(明治元年1868年)私塾を拡張、新銭座に学校開設。慶応義塾大学の濫觴。4年後三田に移動。断髪し刀も処分、読書渡世の一小市民をもって任じ、若者を教育しつつ平民の生活に徹しようと。諭吉は新政府を信用せず、攘夷攘夷といっていた連中に何ができるかと、新政府への出仕は固辞。新政府の方針は文明開化へがらりと変る。諭吉と新政府は協力しあう関係に。
諭吉の方針、文明開化、西洋列強に追いつき追いこせ。西洋の文化や社会組織を日本に紹介輸入し啓蒙教育。明治政府の富国強兵と一致。英語教育、英書学習、翻訳、講演、著述、教育と英学の一手専売。「学問のすすめ」「文明論の概略」は100万部以上売れベストセラ-。稿料は事業経営、義塾運営などの資金に、商売上手。
文明開化は異なる文明の衝突。日本は異文明をどう受け取り、消化しようか必死だった。下手をすれば植民地。外国に行った人間は一握り、なにをしようにも解らない。三度渡米渡欧、英語達者、翻訳能力に優れ、多くの啓蒙書を出し、加えて優秀な門下生の一団を抱える諭吉は貴重な存在。唯一の開明的知的集団。政府も彼に聴く事は多い。一例、東京府の警察制度の基礎は諭吉の考案による。諭吉が特に警察制度に詳しいとはいえないが、洋書のどこかを読めば大体の事は解る。あとは諭吉の頭脳で翻案してゆくだけ。
5 横浜正金銀行と明治生命の設立に寄与。外為銀行と生保会社。貿易にとって外国為替と円の比価を監視介入する金融機関は不可欠。横浜正金銀行は日銀と並び金融機関の基軸。後に東京銀行になり三菱と合併。
保険事業は理解されにくい。なにもなければ騙されたような気分。諭吉は生命保険の必要性を説いてまわる。保険には統計の知識が必要。独立と数理を尊重する諭吉の得意分野。明治生命が設立される。保険金も政府民間の資金に化ける。外為と保険は経済学上の知識を特別に必要とする。諭吉は大隈重信と親しかった、大隈を通じて三菱の岩崎弥太郎とも親交、慶応義塾は三菱の人材補給所に。
6 福沢諭吉の信条は人格の独立と自由、民権論者。彼が書いた「国会論」は国会開設運動の支柱の一つ。民権論と経営の自由は車の両輪。日清戦争を支持、文明と野蛮の戦いとみなす。脱亜入欧。国権拡張も主張。諭吉は他者に縛られるのが大嫌い、彼の心情がそのまま独立自由の信条に。彼は実証性と功利性を好む、実業家向き、企業経営が好きだった。
7 諭吉の歴史的役割は何か。自由平等人格の独立民権論を主張。啓蒙教育。西欧の技術と文化の紹介翻訳。政治経済への提言、企業経営に助言。彼自身も慶応義塾と時事通信を作り経営。慶応義塾で人材を育成、時事通信で世論を指導。啓蒙、教育、助言、世論指導、経営と極めて多彩な活動を民間人として大規模に行い、国家が進む方向に大きく寄与。それをあまり心労とせず明快淡々とやり遂げる。大酒のみ、1901年66歳死去。死因は脳卒中。
8 福沢山脈。彼が育てた財界人は非常に多く明治大正の実業界で活躍、日本経済の背骨を作る。大物は朝吹英二(鐘紡)、中上川彦次郎(三井物産)、荘田平五郎(三菱長崎造船所)、藤山雷太(大日本製糖)、武藤山治(鐘紡)、池田成彬(三井物産)、藤原銀次郎(王子製紙)、阿部房次郎(東洋紡)、小林一三(阪急電鉄)、福沢桃介、松永安左衛門等。

9 渋沢栄一は日本経済、日本の資本主義の生みの親指南役、明治期の経済活動のほとんどに関与。渋沢は1840年埼玉県に生まれる。生家は農耕の他、養蚕や藍玉製造販売も営む豪農。父親は武士になろうと志した人。栄一の環境にあって武士と農民商人の区別は曖昧。武芸を学び漢学を習得、異常ともいえる記憶力と旺盛な知識欲、優れた商才。
 尊皇攘夷運動に魅かれ、横浜の外人居留地焼討ちを計画。周囲に説得され断念、京都へ。一橋慶喜の家臣に。栄一は慶喜の側近になり、経済面で活動、一橋家領の殖産興業や藩札発行に関わる。慶喜は将軍になり、栄一も幕臣に。
10 遣欧使節随員に選ばれる。大使徳川昭武の側近として欧州へ、パリ万博を見、民主主義と資本主義経済の実態に触れる。この経験を土台にして栄一は明治期の経済活動で活躍。滞欧中大政奉還と鳥羽伏見の戦、幕府瓦解、慶喜は静岡の一大名に、栄一も浪人生活。
 30歳、新政府の財務次官大隈重信に懇請され出仕、国税庁長官に。大隈に代わる井上馨の下で当時の経済政策の事実上の立案者遂行者の役を務める。廃藩置県の際の処分案の大綱は彼の作成。渋沢栄一の本来の希望は民間の企業家になること、政府内の対立を機に辞職、以後が彼の活動の本番。
11 第一国立銀行の設立、国立銀行は現在の銀行とは異なる。米国の銀行を模範として作られた発券銀行。政府の保護制限下に、各国立銀行独自の判断で独自の銀行券を発券。銀行券を貸し出しその利子で稼ぐ。預金や為替取扱もするが、現在の普通銀行と決定的に違うのは銀行券発行資格。秩禄処分が行われ、武士大名は金録公債を与えられる。これが銀行資金に。国立銀行は増え、100以上の銀行ができる。国立銀行の発券なども寄与し、通貨が膨張しインフレになり好景気に。反動不況下、国立銀行は潰れるか普通銀行に。渋沢が設立した第一国立銀行は生き残り、第一銀行として発展、現在、安田勧銀とともに瑞穂銀行に。明治30年日本は金本位制に移行、渋沢ははじめあまり賛成ではなかった。
12 手形交換所の設立、手形取引の利点は債務が貨幣に転換する事。手形授受の頻度が大きい分、貨幣流通量が増える。資本主義発展のためには手形取引は絶対必要。西欧では手形取引が発展するにつれ銀行そして金融業務が成長。日本にも手形は以前からあった、大阪堂島の米売買。下地のある日本の経済活動の上により新しい機構を渋沢は導入。手形取引の前提は信用。信用のないところに手形はない、経済行為もない。
13 鉄道敷設、渋沢は明治の鉄道敷設のほとんどに発起人か相談役として関与。鉄道は産業の動脈。
14 紡績業勃興への貢献、渋沢の紡績業への寄与は3つ。インド綿の採用、外国商人による販路独占への対抗戦線結成、そして大阪合同紡績会社の設立。合同紡は1882年設立、日本で始めての大規模工場紡績会社。中小紡績会社は技術の導入に苦労。外国人は技術の肝心なところは教えない。渋沢はロンドンで経済学を学んでいた山辺丈夫に機械工学を学ばせ、帰国後彼を合同紡の技術総責任者に任じ、会社を運営。山辺は一工員としてイギリスの工場にもぐりこみ独力で機械の操作を習得。英国人技師は、日本人だけでは工場は絶対運営できないと主張。山辺ははねつける。大阪合同紡績は合併に合併を重ね、現在では東洋紡績に。紡績業は産業革命の起点発火点。
15 海運業への寄与、海運業の発展は三菱の岩崎弥太郎に始まる。西南戦争で政府の軍需輸送を独占した三菱汽船は一時日本の海運業を独占。対抗して共同運輸設立。渋沢は両者の調停に動く。両社は合併して日本郵船に。海運業と紡績業は密接な関係。輸入するインド綿、輸出する綿糸綿布は船で運ぶ。運送業者は日本人が望ましい。国策紡績業発展に同調、融通はきく、運賃も安くなる。紡績業と郵船の提携を計り促進した人物が渋沢栄一。両産業加えて鉄道は近代日本発展の牽引車。これらの産業は多くの後方関連産業を必要とする。紡績業は機械製造を賦活、運輸は造船を、機械製造造船鉄道は製鉄製鋼業の発展を牽引。
16 商工会議所の設立、設立の趣旨、法案作成および法制度の制定改廃への意見具申。官庁への経済統計の報告、官庁からの諮問に答えること、そして商工業関係者間の紛争の調停等が商工会議所の役割。商工会議所は民間経済を代表し、政府官庁との関係を仲介。商工業者の社会的立場を改善し、官民提携を促進。
17 理化学研究所の設立、1915年タカジャスタ-ゼとアドレナリンの発見者でありアメリカで活躍していた高峰譲吉と渋沢が協力して理化学研究所を創設。当時の日本に研究所はほぼ皆無。創立者の名簿には皇族華族、学界産業界の錚錚たる名が並ぶ。研究所創立の主旨は重化学工業の発展に資すべく民間で研究所を運営すること。研究成果を売って経営。第三代所長大河内正敏の時、研究所は大発展。日本最初のノ-ベル学者湯川英樹と朝永振一郎はこの研究所で育つ。自由な研究ができるという定評。幾多の曲折を経て現在も研究の最前線で活動。
18 渋沢栄一の最も重要な事跡を簡潔に述べた。他にいろいろな文化事業にも関係。渋沢の活動を岩崎弥太郎のそれと比較すると、後者の方がはるかに自己の営利性が目立つ。対して渋沢は個人の事業の発展もさることながら、日本経済全体の起案者、調停者、指導者、世話役になる。渋沢栄一は日本資本主義の産みの親、育ての親。1931年満州事変勃発の年92歳の長い人生を終える。
19 日本は明治維新を遂行、世界史で稀有の事業。より大きな事績がもう一つ。日本は産業革命を自力でやり遂げた唯一の国。産業革命の始まりはイギリス。資本は植民地からの収奪、新大陸からの膨大な銀の輸入、貨幣資本の飛躍的増大、煙草砂糖茶コ-ヒ-など奢侈品の輸入、消費の刺激、貨幣量の増大。イギリスの農業と製造業の革命は新大陸からの収奪物資で遂行された。販路としての植民地加えて奴隷売買、収益は膨大。フランスドイツもイギリスの顰に習う。アメリカは原住民から土地を、黒人奴隷から労働力を奪い、資本はイギリスからの外資で賄う。土地、労働、資本、をただ同然で手に入れアメリカの産業革命は行なわれる。技術や知識の伝播は西欧諸国間では極めて容易。イギリスから独仏蘭へは極めて近距離。アメリカへの渡航も日本より有利。同種の言語同志、意志疎通も容易。
 日本の産業革命は欧米と比べ特異な様相を持つ。奴隷制も植民地も日本にはない。知識と技術の輸入は遠距離と言語障壁のために著しく不利。第一次産業革命が達成され第二次産業革命に突入する1900年前後まで外資を導入せず、自国の資本で産業の近代化を成し遂げる。世界史上稀有な事例。なぜ日本は自力で産業革命へ離陸できたのか。最大の理由は識字率の高さ、人的資本の豊富さ。肝要なものは人材。日本は君民一体の平等な社会。日本一国で独立した文化圏。日本は独自の発展を遂げた、将来も独自の発展をしてゆくだろう。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行