大仏開眼について
大仏開眼は752年ですが、聖武天皇と光明皇后の大仏建立への意図は10年前に遡ります。当時の政治状況はすでに述べました。そして重要な事は、大仏建立に代表される仏教政策は行基の行動に見られるように、国家と農民豪族の協力下に行われた事です。換言すれば当時すでにかかる建築物(なにも東大寺や大仏に限りません)を創るほどの蓄財が民間で為されていたという事です。
また大仏や寺院を創る技術も蓄積され発達していたと思われます。世界中を見回してもあれだけ大量の銅を使った仏像神像はありません。銅を溶かし型に入れ一定のデザインの下に超大型の像を作り上げる事は大変な技術です。寺院の建築も優れていました。東大寺は世界で一番大きな木造建築です。伊勢神宮の式年遷宮は当時の技術が優れていたから代々伝えられました。当時の技術は今まで考えられて来た以上に優れていたとしか考えられません。こう考えてくると、貨幣経済はかなり進んでいたのではないかと思われます。比較的富裕な農民階層と高度な技術を勘案すると貨幣経済の発展を前提にせざるを得なくなります。
蓄銭叙位令という制度がありました。和同開珎をして貨幣を発行したものの貨幣を受け取る人がいないので、一定の銭を貯めてそれを政府に献納すれば額に応じて官職官位(地方官、それも外官、せいぜい六位まで)を与えるという制度です。かつては成熟していない経済状況において無理して唐のまねをした愚かな政治だと、歴史家の間では嘲笑の的でした。しかし銭と交換に官位を与えると言う事は、官位に相当する地方支配権具体的には土地開発権を与える事を意味します。開発は富を生みます。結局貨幣が経済を賦活する事に繋がります。当然租税は増えます。つまり銭はかなり有効に使われる可能性もあったはずです。要は生産そして消費を刺激するわけですから、今で言うと国債を発行するようなものです。蓄銭叙位令を嘲笑する人は、経済というものがさっぱり解っていないのです。
大仏開眼などの公的行事は賦役だけで行われたのでしょうか。私にはそう思えません。行基は民衆を率いて事業に協力し参加しました。この事は既に一定程度の自由な労働力があった事を想像させます。それなら賃金は銭で払われたはずです。その方がずっと効率的ですから。特に労働力は先進地帯の畿内から集められます。この範囲内なら銭は有効に活用できると思います。
本分で「大仏は新幹線」と言いました。両者は当時の技術の集約であり、また出発点です。技術の発展は技術だけではできません。経済とぎ技術は相たずさえて発展します。大仏開眼にはかかる意味があります。結論から言いますと大仏開眼当時かなりな程度貨幣経済が発展していたのではないかと言う事です。この時代から200年後の平安中期の時点ですでに為替に相当する行為が起こりました。その数十年後宋王朝が発行した宋銭は日本で爆発的に使われました。また日本は何百年も続く企業が多いのです。欧米ではこのような事は起こりません。日本で、従って世界で一番古い企業は大阪の金綱組という建築会社で、天平のころできました
「君民令和、美しい国日本の歴史」
大仏開眼は752年ですが、聖武天皇と光明皇后の大仏建立への意図は10年前に遡ります。当時の政治状況はすでに述べました。そして重要な事は、大仏建立に代表される仏教政策は行基の行動に見られるように、国家と農民豪族の協力下に行われた事です。換言すれば当時すでにかかる建築物(なにも東大寺や大仏に限りません)を創るほどの蓄財が民間で為されていたという事です。
また大仏や寺院を創る技術も蓄積され発達していたと思われます。世界中を見回してもあれだけ大量の銅を使った仏像神像はありません。銅を溶かし型に入れ一定のデザインの下に超大型の像を作り上げる事は大変な技術です。寺院の建築も優れていました。東大寺は世界で一番大きな木造建築です。伊勢神宮の式年遷宮は当時の技術が優れていたから代々伝えられました。当時の技術は今まで考えられて来た以上に優れていたとしか考えられません。こう考えてくると、貨幣経済はかなり進んでいたのではないかと思われます。比較的富裕な農民階層と高度な技術を勘案すると貨幣経済の発展を前提にせざるを得なくなります。
蓄銭叙位令という制度がありました。和同開珎をして貨幣を発行したものの貨幣を受け取る人がいないので、一定の銭を貯めてそれを政府に献納すれば額に応じて官職官位(地方官、それも外官、せいぜい六位まで)を与えるという制度です。かつては成熟していない経済状況において無理して唐のまねをした愚かな政治だと、歴史家の間では嘲笑の的でした。しかし銭と交換に官位を与えると言う事は、官位に相当する地方支配権具体的には土地開発権を与える事を意味します。開発は富を生みます。結局貨幣が経済を賦活する事に繋がります。当然租税は増えます。つまり銭はかなり有効に使われる可能性もあったはずです。要は生産そして消費を刺激するわけですから、今で言うと国債を発行するようなものです。蓄銭叙位令を嘲笑する人は、経済というものがさっぱり解っていないのです。
大仏開眼などの公的行事は賦役だけで行われたのでしょうか。私にはそう思えません。行基は民衆を率いて事業に協力し参加しました。この事は既に一定程度の自由な労働力があった事を想像させます。それなら賃金は銭で払われたはずです。その方がずっと効率的ですから。特に労働力は先進地帯の畿内から集められます。この範囲内なら銭は有効に活用できると思います。
本分で「大仏は新幹線」と言いました。両者は当時の技術の集約であり、また出発点です。技術の発展は技術だけではできません。経済とぎ技術は相たずさえて発展します。大仏開眼にはかかる意味があります。結論から言いますと大仏開眼当時かなりな程度貨幣経済が発展していたのではないかと言う事です。この時代から200年後の平安中期の時点ですでに為替に相当する行為が起こりました。その数十年後宋王朝が発行した宋銭は日本で爆発的に使われました。また日本は何百年も続く企業が多いのです。欧米ではこのような事は起こりません。日本で、従って世界で一番古い企業は大阪の金綱組という建築会社で、天平のころできました
「君民令和、美しい国日本の歴史」