経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

   大仏開眼

2020-04-30 16:28:46 | Weblog
大仏開眼について
 大仏開眼は752年ですが、聖武天皇と光明皇后の大仏建立への意図は10年前に遡ります。当時の政治状況はすでに述べました。そして重要な事は、大仏建立に代表される仏教政策は行基の行動に見られるように、国家と農民豪族の協力下に行われた事です。換言すれば当時すでにかかる建築物(なにも東大寺や大仏に限りません)を創るほどの蓄財が民間で為されていたという事です。
 また大仏や寺院を創る技術も蓄積され発達していたと思われます。世界中を見回してもあれだけ大量の銅を使った仏像神像はありません。銅を溶かし型に入れ一定のデザインの下に超大型の像を作り上げる事は大変な技術です。寺院の建築も優れていました。東大寺は世界で一番大きな木造建築です。伊勢神宮の式年遷宮は当時の技術が優れていたから代々伝えられました。当時の技術は今まで考えられて来た以上に優れていたとしか考えられません。こう考えてくると、貨幣経済はかなり進んでいたのではないかと思われます。比較的富裕な農民階層と高度な技術を勘案すると貨幣経済の発展を前提にせざるを得なくなります。
 蓄銭叙位令という制度がありました。和同開珎をして貨幣を発行したものの貨幣を受け取る人がいないので、一定の銭を貯めてそれを政府に献納すれば額に応じて官職官位(地方官、それも外官、せいぜい六位まで)を与えるという制度です。かつては成熟していない経済状況において無理して唐のまねをした愚かな政治だと、歴史家の間では嘲笑の的でした。しかし銭と交換に官位を与えると言う事は、官位に相当する地方支配権具体的には土地開発権を与える事を意味します。開発は富を生みます。結局貨幣が経済を賦活する事に繋がります。当然租税は増えます。つまり銭はかなり有効に使われる可能性もあったはずです。要は生産そして消費を刺激するわけですから、今で言うと国債を発行するようなものです。蓄銭叙位令を嘲笑する人は、経済というものがさっぱり解っていないのです。
 大仏開眼などの公的行事は賦役だけで行われたのでしょうか。私にはそう思えません。行基は民衆を率いて事業に協力し参加しました。この事は既に一定程度の自由な労働力があった事を想像させます。それなら賃金は銭で払われたはずです。その方がずっと効率的ですから。特に労働力は先進地帯の畿内から集められます。この範囲内なら銭は有効に活用できると思います。
 本分で「大仏は新幹線」と言いました。両者は当時の技術の集約であり、また出発点です。技術の発展は技術だけではできません。経済とぎ技術は相たずさえて発展します。大仏開眼にはかかる意味があります。結論から言いますと大仏開眼当時かなりな程度貨幣経済が発展していたのではないかと言う事です。この時代から200年後の平安中期の時点ですでに為替に相当する行為が起こりました。その数十年後宋王朝が発行した宋銭は日本で爆発的に使われました。また日本は何百年も続く企業が多いのです。欧米ではこのような事は起こりません。日本で、従って世界で一番古い企業は大阪の金綱組という建築会社で、天平のころできました
「君民令和、美しい国日本の歴史」



経済人列伝  古川市兵衛(一部付加)

2020-04-30 16:28:46 | Weblog
経済人列伝  古河市兵衛(一部付加)

 旧古河財閥の創業者です。現在活躍している企業で一番知名度の高いのは富士通でしょう。私が今使っているパソコンは富士通製です。古河財閥は鉱山、特に鉱毒事件で有名な足尾鉱山が蓄財の出発点です。
 市兵衛の生涯はかなり屈折に富んでいます。1832年(天保3年)京都黒谷、金戒光明寺の門前で、木村長右衛門と母みよの次男として生まれました。幼名は巳之助と言います。母親は夭折します。当時黒谷は村であり、生家は代々庄屋でしたが、父の放蕩生活で家は零落し、市兵衛生誕当時は豆腐の行商をしていました。京都のある商家に奉公させられますが、待遇が悪くすぐ家に引き取られます。二人目の継母まさの兄である木村理助に従って奥州南部に行きます。この地で幸助と改名します。叔父の斡旋で小野組盛岡支配人古河太郎左衛門の養子になります。この時幸助25歳、古河家代々の由緒ある名、市兵衛を養父から与えられます。小野組と言うのは、当時三井組、島田組と並んで、今で言えば一種の財閥のような全国的企業でした。特に幕府から為替発行権を許されて、金融業、さらに繊維商(主として生糸)、米穀販売などに手広く従事していました。
 小野組の支配人になってから市兵衛はめきめき商才を発揮しだします。開国で生糸貿易は幕府の独占ではなくなり、しかも米欧からの注文が殺到し、値が上がり、どんどん輸出されましたこの機に乗って市兵衛は大商いをして、小野組に稼がせる一方、自分でも一財産作りました。小野組糸方の責任者になります。小野組の事業の半分を担当したようなものです。この間市兵衛は外国商人が、日本産の生糸は太さが不揃いだと、という苦情を聞き、すぐドイツの製糸機械を導入し、築地製糸という会社を立ち上げています。将来の市兵衛のやり方を先取りするものです。小野組は維新政府と密な関係にありました。政府の為替方を担当します。政府の税金を無利子で預かります。政府自身に租税を管理する能力がないので大商人に依頼して代行させていたのです。無利子で預かりそれをあちこちに融資ないし投資します。濡れ手に粟です。この点では三井も島田も同じです。
 明治7年突然特権が剥奪されます。預かった金を数ヶ月以内に返せ、という厳命です。当然そんな事はできないので、小野組は閉店してしまいます。確かに藩閥政府の横暴のように見え、また事実横暴ですが、それまで甘い汁を吸ってきたのも事実です。何よりも当時進行しつつあった地租改正の意味が旧商店には見えていなかったのでしょう。明治政府は必死になって財政制度を確立しようとしていました。結果として小野と島田は潰れます。三井は大番頭の三野村利左衛門の働きでかろうじて生き残り、後の三井財閥の基礎を固めます。島田組は秋田の鉱山問題で長州閥と対立し、潰されます。小野組の本家は潰れましたが、大番頭の古河市兵衛が全くそれまでとは違う新基軸を試みます。この新基軸が鉱山開発です。なお市兵衛は渋沢栄一の第一国立銀行にかなりの額を出資していました。当然それを引き出してもいいのですが、一切手をつけず、渋沢に感謝されています。またこの時、養家の古河家からは絶縁されますが、市兵衛は木村姓には帰らず、従来どおり古河市兵衛で通します。
 明治8年市兵衛43歳時、新潟県の草倉銅山を買います。資本は主として小野組時代に親交のあった家令志賀直道(志賀直哉の祖父)を通じて相馬藩から出してもらいます。やがて渋沢栄一も加わり市兵衛ともで三者の共同経営になります。市兵衛が乗り出すとどういうわけか産出高が増えます。経営はまずまずでした。銅は当時生糸と並んで、日本の輸出品の主力でした。
 明治9年市兵衛に甚大な運命をもたらした足尾銅山を買います。周囲は大反対でした。上杉藩の時代から掘りつくしたと、思われていました。当時足尾銅山だけでもないのでしょうが、銅山経営の実態は各坑夫の請負仕事でした。坑夫が掘ってきた鉱石を坑主が買い取って精錬しています。市兵衛はここを大改革しようとします。従来の掘り方では投下資本量と技術レベルが低すぎます。甥である木村長兵衛を鉱山所長に任命します。基本方針は坑主直轄坑道の開発です。照明は油でとり、手押しポンプを使います。手押しポンプはやがて蒸気ポンプに変わります。坑道にトロッコを引きます。それはインクライン(傾斜鉄道)になります。通風の悪さは坑道を端から端まで貫通する事で解決します。電話を取り付けたのは、ベルが発明した10年後でした。こうしてやっと富鉱である鷹の巣鉱脈を発見します。こうして次々に富鉱を掘り当てますが、増産のためには山を勝手な方向から乱雑に掘るのではなく、一本の基軸となる大坑道(大通洞)を貫通させねばなりません。次々に新技術が導入されます。精錬のためには膨大な薪炭が要ります。その運搬も大変ですが、山が禿山になってしまう可能性もあります。こうして電機製銅法が導入されました。鉱山地区の運搬にはロ-プウエイも設置されました。電力は水力発電所を作って供給します。いずれも当時の日本では新基軸でした。
 この間日本橋瀬戸物町の旧小野組の東京糸店を買い取り、古川鉱業の本店にします。外国からの銅の注文は殺到します。横浜では1トン200円ちょっとでした。市兵衛はジャ-ディン・マセソン商会と長期契約を結びます。一ヶ月600トンを保障するから1トン366円にしてほしいと、要求します。さらに契約保証金25万円を要求し聞き入れられています。マセソン商会の背後にはフランスの銅シンジケ-トが控えていました。市兵衛はシンジケ-トとの契約は断ります。価格が崩れたときシンジケ-トは崩壊しやすく、取引が不安定だからです。当時日本産の銅は70%以上輸出されていました。多分チリと並ぶ最大の産銅国だったのでしょう。
 明治29年念願の大通洞が貫通します。しかしこの時古河鉱業は未曾有の苦難に遭遇する事になります。足尾鉱毒事件です。明治15年ごろから渡良瀬川の魚が減ったとか、田畑の実りが悪くなった、とかの苦情はちらほら出ていました。しかし月産100トン未満の産出量ならそれほどでなくても年産数千トン時には2万トンという量になると、鉱毒の被害は加速されます。周囲の農民が抗議におしかけ、警官が出動する騒ぎも起こります。明治24年衆議院議員田中正造が国会で足尾銅山の鉱毒を弾劾する演説を行います。田中は終生この弾劾をし続けます。田中は明治30年、足尾銅山操業停止請願運動を起こします。同年政府は「鉱毒事件調査委員会」を作り、現地調査に乗り出します。すぐ予防工事命令が出されます。この命令は当時の水準としては世界でも稀なほど良い(経営者にとっては厳しい)ものでした。命令の要点は、大規模な沈殿地と濾過池を数箇所造る事、脱硫装置の導入(結果として煙突は4-5倍の高さになります)、洪水に際して坑内の土砂が周囲に河川に流れ込まないように護岸工事をしっかりする事などです。ただし足尾のような狭隘な高地に大きな池を造るのは危険でしょう。これらの命令はすべて短い期限付きでした。市兵衛は押しかけた農民に、必要な限り予防工事を行います、と言います。事実政府の予防命令はすべて期限内に遂行されました。政府としては輸出の虎の子である銅の増産も欲しいし、一方農民の力も怖いし、というところでしょう。多くの教科書では日本の農民は温順と書かれていますが、彼らは戦国時代以来なまやさしいものではありません。予防工事の効果は5年後から著明に発揮されました。ちなみに足尾事件は有名ですが、鉱毒の被害は足尾と並ぶ愛媛の別子銅山、秋田の小坂鉱山の方がひどかったとも言われています。
 私が古河市兵衛に興味をもったのは、公害事件の元祖として常に悪者視されるこの人物ってどんな人だろう、と思ったからです。市兵衛は鉱山専一主義で他の事業には一切手を出しませんでした。その辺が三井は三菱と違うところです。彼は新聞もあまり読まず、他のことに関しては無知なことが多かったのですが、こと鉱山のことになるとすべてに関して端から端まで頭に入っていたと言われています。私が感嘆する事は当時の世界の先端技術を大胆に取り入れる度胸と進取の気性です。さらに、43歳で再起し日本有数の大企業を作った覇気と粘り(この点は安藤百徳と同様)、そして約束した事は必ず実行する誠意です。酒は飲まないが、女は大好きで、生涯で三人の妻を娶り、10人近い妾をもっていたそうです。子孫に恵まれたとはいえません。陸奥宗光の子供を養子にしましたが、夭折されています。実の男児は虎之助のみですが、彼には男児が生まれていません。
 市兵衛のブランドは頭の上のちょんまげでした。従五位に叙された時井上馨の要請で断髪式が行われています。なお市兵衛は三つの国立大学を作っています(資金を提供しています)。北海道大学と東北大学と九州大学です。
 市兵衛死後、古河鉱業はやはり多角化経営に移ります。主のところで、古河電気工業、富士電機、富士通(注)、日本軽金属、日本ゼオン、旭電化工業、横浜ゴム、朝日生命などです。現在では社名が変わっているかもしれません。
 古河市兵衛、明治36年(1903年)死去、享年71歳。
 
注 富士(フジ)は古河がドイツの企業ジ-メンスと技術提携した時、フルカワの「フ」とジーメスの「ジ」を取り合わせて作った商標です。

   参考文献  運鈍根の男、古河市兵衛の生涯  晶文社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

   弁当をどんどん作って売ろう

2020-04-30 14:12:09 | Weblog
  弁当をどんどん作って売ろう
 飲食店・飲み屋の類が閑古鳥なく有様だと言う。対策として弁当をどんどん作って売ろう。店先で売るのではない。作って希望者に配達するのだ。配達手段としては目下休業中とも言えるタクシ-会社と契約すればいい。タクシ-も急ぎ改造して物品販売用にする。そうたいした手間もかかるまい。飲食店はそれぞれの営業実績に合わせていろいろな弁当を売ればいい。吉兆・灘万などは高級弁当を作ればいい。(間違っても50000円の弁当など作るなよ、せいぜい上限は3500円くらい。)うどん屋やたこ焼き屋もしょせんは食いもの造り。簡便で廉価な弁当は作れるだろう。飲み屋も同様。玄人の味を利かす。日替わりメニュ-も作ればいい。コロナが収まっても経済的低迷は続く。飲食店も生き残りに必死だ。住民は決まりきった日常の食事に飢えている。諸種の変わった弁当は世間を明るくする。総じて飲食店は「弁当託送販売」をしたらどうか。この商売切り替えに伴う費用は国・地方公共団体に援助してもらい、詳細な交渉は地元の議員に頼む。慣れぬことなどで若干価格が上がる。その分も補助してもらえ。また官公庁は意図してこの新興の弁当屋に注文すべきだろう。以上の事を私は提案する。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

三度言う、つくづく馬鹿な事をしたもんだ、議員報酬一部返上

2020-04-30 02:11:56 | Weblog
三度言う、つくづく馬鹿な事を決議したものだ、議員報酬一部返上
 議員報酬の返上は、自らの役割放棄、自らが役にたたない事を認めたに等しい。この事、更に一人も反対するものが無く、全員一致の決議だ。少しは反対する良識派が居てもいいのに。一種のファッショだ。この動きは公務員にも及びつつある。こんな動きが盛んになれば日本の意見は割れる。
 更に賃金の切り下げにもなるので、それでなくとも低迷する景気悪化を促進する。
 確かに目下議員にはそう仕事はないだろう。中央には閣僚や各党の幹部が常駐し、その他の多数の議員は選挙区に帰ってはどうか。そこでする事はいっぱいあるはずだ。選挙区の住民特に大小の企業の内情を聴き調べ中央地方の官僚役人との間のパイプになればいい。そういう事はすでに政府や自治体がしているとは思うが不十分であり実態は形式化しやすい。窮状を具体的に取次、どの程度の・どのような内容の支援が必要かをしらべて官庁に圧力をかけまた協力する。
 このような活動をするのは国会議員だけではない。選挙区の地方議員そしてもちろん秘書連を含めれば一選挙区で相当の人数になる。更に法律経営の専門家として、弁護士、公認会計士、中小企業診断士、税理士などの協力を仰ぐ。彼ら専門家は有給とする。彼らも現在仕事がなくて困っているはずだ。そういう活動の中核を国会議員がすればいいのだ。そのためには資金が要る。その一部を返却してしまうとは。返してもらってもいいのだぜ。
 私は一つの提案をした。ただ時期が時期だけに群れてはいけないだろう。当世スマフォなど便利な道具がある。それを使えば十分だろう。要は地方の振興の中核に議員が成れと言う事だ。
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

経済人列伝 金子直吉(一部付加)

2020-04-29 15:17:32 | Weblog
経済人列伝  金子直吉(一部付加)

 大正から昭和にかけての時代に活躍した一世の梟雄と言ってもいい人物です。直吉は1866年高知県吾川郡名野川村に生まれます。父親が商売に失敗します。母親は「借金で人様に迷惑をかけた人の子を小学校へ送るのは、許されません」と言います。ですから直吉には学歴は全くありません。直吉は10歳を過ぎた頃から、古新聞と古着の行商を始めます。得意先に砂糖商に自店で働くよう勧められ、そこの丁稚になります。なかなか腰は定まりません。乾物商に入り、また元の砂糖商にもどり、質屋にも奉公します。この間勉強は欠かしません。特に質屋の時代に、質物の書物を読むことを主人から許され、濫読します。この時代が一番よかったと懐かしく語ったといわれています。1886年、20歳、神戸に出て鈴木商店に勤めます。この店は主として砂糖と樟脳を扱いました。仕事がきつかったのか、一度店を辞めています。店主夫人のヨネの懇請な手紙で意を翻し、再び鈴木商店に勤めます。
 1894年(明治27年)主人が死去し、未亡人であるヨネから店の番頭として、店を切り回すことを依頼されます。この時同じく経営責任を依頼された兄弟番頭が、直吉の終生の友人・同志となる、柳田富士松です。以後直吉は営業を、柳田は店の内政を分担し、柳田は徹底して直吉の補佐役に徹し続けます。当初直吉は樟脳を柳田は砂糖を分担し、この時点では柳田の成績の方が良かったと言われます。樟脳の空売りで大失敗します。思いあまり、交渉相手のところに、短刀と3500ドルを持参し、これで決着をつけてくれ、出なければ、ここで切腹して死ぬ、と嘆願し(むしろ脅し)危機を切り抜けます。
 直吉の営業の転機は1899年(明治32年)台湾に渡り、民生局長官後藤新平に樟脳の専売を進言し、競争する同業者を丹念に説得して、専売制を実現させた事です。この時台湾産樟脳の65%の販売権を獲得します。直吉の人生に台湾は最初から最後まで影響し続けたようです。1903年(明治37年)大里製糖所を設立し製糖業に乗り出します。2年後小林製鋼所を買収します。現在の神戸製鋼の前身です。1912年(大正1年)帝国麦酒(ビ-ル)設立と事業を広げてゆきます。
 1914年(大正3年)第一次大戦が勃発します。一時戦争の帰結が不安で日本中がむしろ不況に傾く中、直吉は大好況を予想して、あらゆる商品、特に鉄と船を買いまくります。この時飛ばした檄が「ゆけ-、まっしぐらに前進じゃ」です。船を買うのみならず、播磨造船と鳥羽造船を買収し、自社で船舶を造って売ります。大戦前1トンあたりの船の値段は50-60円でした。大戦勃発と同時に600-800円に上がります。船を1-2隻持っているだけで、充分成金に成れたと言います。大正7年の時点で、鈴木商店の年商は15億4000万円、2位の三井物産のそれが、10億9500万円でした。この時直吉は「天下を三井、三菱と三分する」と豪語し社員に発破をかけます。
 直吉の成功の鍵は3つあるでしょう。まず直吉の強気で積極的果敢な商法です。これは天性のもの。この天性が千載一遇と言われるチャンスにぴったり合いました。次が情報網、世界中に設けた支店からの情報を分析します。そして部下への徹底した権限委譲です。各地の支店長は自己の権限で商売できました。当事者の即決即断です。当然そこには支店長や社員個人の思惑買も入ります。事実この時期のロンドン支店長などは王侯のような生活ぶりでした。大戦勃発の年に東京高商(一橋大学)を卒業して鈴木に入社した大屋晋三は新入社員でありながら、樟脳部に配属され「たった数日で100万円儲かる、面白くて面白くて仕方なかった」と述解しています。大屋とともに東京高商から29人同年に入社していると言いますから、直吉の積極姿勢が解ろうというものです。戦争で鉄の輸入が禁止されます。直吉はこの時アメリカ駐日大使モリソンと直談判し、鉄と船の取引をしています。鉄3トンと船1トンのバ-タ-です。大胆さと気転の速さが印象的です。
 大正7年(1918年)8月、鈴木商店は民衆の焼討ちに会います。死者は出ていませんが、神戸の本社は壊滅します。米の買占めという汚名を着せられました。私は直吉に関する伝記を読むまで、鈴木が本当に買占めをしていると思っていました。現在でもかなりの本ではそう書いてあるでしょう。しかしこれは無実の汚名のようです。焼討ちの数年前には米価が下落し、政府は買い上げて輸出を試みました。また米価が高騰すると、逆に外米や朝鮮米の輸出を行います。これらの事業に鈴木は協力させられました。鈴木の社員は、なんのバチでこんな事せなあかんのか、と愚痴をこぼしたといわれます。事実大戦中儲かって儲かって仕方がないのに、安い手数料で政府の協力をしなければなりません。米の買占めを試みる閑など無いはずです。輸入した政府所有の外米が神戸港の倉庫にあったのを、買占めと悪宣伝されます。また丁度その頃、鈴木は英政府の依頼で小麦を買い付けていました。小麦が米と誤解された可能性もあります。それにメディアが加わります。特に大阪朝日の論調は激しく、鈴木の責任を追及します。鈴木が事実無根と抗議しても、報道を変えません。直吉もたかをくくっていたようです。こうして焼討ち事件が持ち上がります。最後は軍隊出動で収まりました。ただこの時期米価が高騰した事は事実です。しかし鈴木商店が買い占めた事実はありません。なぜ米価が上がったのか?諸種の事情が加わった、パニックでしょう。米価が上がった時、買占めだと、事実無根の事を宣伝すれば、米価は上がるでしょう。世間とはそういうものです。当時から朝日新聞内部には左翼系の人が多かったようです。
 焼討ちの3ヵ月後世界大戦は終わります。それ以前に直吉は、商売の手仕舞いを指示し、投機から手数料取得中心の営業への転換と、支店独自の判断による営業禁止を通達しています。しかし焼討ち事件後の多忙のために、充分な措置が取れなかった恨みはあります。
ここで普通の平凡な感覚の者なら、80社近くなった傘下の企業のうち、不採算部門を切り捨て、採算があう部門を残して、経営体のスリム化を計るでしょう。事実鈴木商店内部の大勢、特に学卒派といわれる勢力はこの方針を支持します。直吉は断固逆の積極経営を展開します。多くの企業を買収します。それらはすべて不採算企業でした。そしてまた、すべて製造業、それも当時の日本が第二次産業革命を遂行するのに必要な重化学工業部門でした。
直吉が積極経営を志向した事は事実です。これが彼の体質にあいます。しかし彼が「国益にかなう事業」を起こそうとしたことも否定できません。神戸製鋼を起こし、その経営が軌道に乗るまで、10年以上かかりました。窒素肥料製造のために、クロ-ド式窒素工業を、日本の製油方法発展のために豊年石油を、国産フィラメント製造のために日本冶金を、グリセリンやオレイン油製造のために帝国石油を、化学繊維生産のために帝国人絹を作りました。こうして鈴木商店は直吉の方針で、どんどん傘下企業を広げてゆきます。資金はやむなく銀行から、それも台湾銀行から借ります。台湾銀行からの借入金は増加の一途をたどります。直吉の予想に反して景気は好転しません。直吉は軍備拡充に期待します。戦艦と巡洋艦各八隻という新鋭艦隊造設計画が審議されていました。しかしこれは軍縮条約調印で廃案になります。
 頼るものは政治家です。直吉は浜口雄幸や井上準之助などの政治家を歴訪します。狙いは日銀特融、つまり日銀からの特別融資(日銀券の増刷も含む)で切り抜けようとします。計画は成功しそうになりました。ここで突発事件が持ち上がります。1926年(昭和1年)に震災手形(大震災に際して特別に日銀の割引を受ける手形)をめぐるモラルハザ-ドを武藤山治が追及します。この時片岡蔵相が情報を誤解して、渡辺銀行が閉店したと、口をすべらせます。これでさらに閉店する銀行が続出します。議会は、銀行の経理内容の公開を政府に迫ります。鈴木商店に融資していた台湾銀行は金融市場の短期融資で切り抜けていました。台銀危なしと見たのか、三井銀行は突如短期資金を市場から引き上げます。台湾銀行は鈴木への融資を打ち切ります。鈴木商店は倒産しました。
 倒産した鈴木商店傘下78社の解体作業が始まります。企業を適当に分割して採算部門を他の企業が買収します。最も得をしたのは、三井系でした。三井は製造業に弱いのです。三井は鈴木系統の企業の多くを傘下に収めます。三井、三菱、住友という旧財閥は新しい重化学区工業部門への進出には消極的でした。むしろ金融商事部門に留まろうとします。日本の第二次産業革命に貢献したのは、鈴木商店や、もう少し後に台頭してくる新興財閥(日産、日窒、理研など)です。そして新興財閥系統の企業が行き詰まると、旧財閥が安く叩いて買う、という傾向があります。解体された鈴木系の企業で、現在でも残る有名企業は、帝国人絹、神戸製鉄、豊年製油、日商岩井があります。日清製粉と大日本精糖にも鈴木系企業が含まれています。
 解体された後にも鈴木商店は残ります。直吉は債権者に4/1000の率での返金を申し出ます。事実上の借金帳消しです。
 多くの人は直吉の取った戦略を無謀と言います。勝敗は兵家の常、というべきでしょう。経営の拡大か縮小かは、状況次第です。そして人は状況を読み取りつつ、また自分の性格にあった経営をします。鈴木倒産の5年後に満州事変が始まります。新興財閥はこの機に乗じます。もしそれまで直吉の鈴木が頑張っていたらという予想も可能です。直吉は昭和19年(1944年)に死去します。終戦の1年前です。もし直吉が終戦後も健在なら、どういう商売をしたか、とも予想できます。食うや 食わずの中、多くの製造業が原点に立ち返り横一線に並んで再出発した時代です。そしてこの時代の経済基調はインフレ昂進を前提とする積極経営でした。
 政府がもし鈴木に特別融資をしていれば、台湾銀行にある鈴木の負債2億円強の負担で済んだでしょう。鈴木を潰し、台湾銀行の経営危機を晒した結果、金融界全体がパニックになり、取り付け騒ぎが拡大します。そのために政府は7億円の日銀券発行をしなくてはならなくなりました。若槻内閣は倒れ、代った田中義一内閣に急遽高橋是清が蔵相として入閣し、モラトリアムを発し、日銀券増発をして危機を救います。結果としては高いものにつきました。
 金子直吉の風貌はそう見栄えのするものではありません。浅黒い小男で、強度の近眼です。詰襟の服を着て、よれよれの山折帽を着て闊歩しました。頑固で自分を信じること篤く、他人のいう事は聞かない性格でした。人を解雇するのが苦手で、ために傘下不良企業を切れなかったとも言われています。若い社員が英語の勉強をしたがっているのを知り、会社の金で東京へ留学させたという逸話もあります。銀行は嫌い、株式会社組織には断固反対で通します。時代遅れかも知れません。ただ彼にすれば、株式会社では 決断が遅くなる、という気持ちでした。金融資本を嫌い、産業資本育成に励んだその姿勢には好感をもてます。直吉は倒産後も再建を目指して終生努力します。1944年(昭和19年)死去。享年77歳。直吉の苦境に際し、主人である鈴木ヨネの直吉に対する信頼は絶対でした。直吉の死後調べてみたら、財産と言うほどの物はなく、ほぼ無一物でした。

 参考文献
   行け、まっしぐらじゃ  郁朋社
   20世紀日本の経済人  日経出版
   金子直吉伝 (大阪市立図書館所蔵)

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
 


安倍総理の私生活の報道に思う

2020-04-29 13:25:42 | Weblog
安倍総理の私生活の報道に思う
 想像はつかれると思う。言わずと知れた昭恵夫人の問題である。夫人が旅行をしたとか観桜をしたとか一部マスコミでわいわい言われ、非難されている。国民にお願いして、女房に注意しない(多分外出のことだろう)は為政者としての資格をかくとか。特に婦女子の間でこの非難がかまびすしい。
 ここではっきり論拠を整理しておく。為政者の私生活と公的活動は別次元の問題である。為政者の私生活がたとえ悪徳と羞恥にまみれていても(極端場合)、彼が国民の生活を豊かにすればそれでいい。為政者の私生活(それも微々たる瑕瑾)を取り上げて為政者の資質を論じるなど愚の骨頂である。日本国民はもっと政治的に成長してほしい。
 前の前の前のアメリカ大統領にビル・クリントン氏がいた。彼はホワイトハウスに多くの女を引っ張り込み情事にふけった。大統領官邸職員の間では、眉を顰める行為であったと言われている。しかしアメリカ国民の大多数はクリントン氏を責めなかった。クリントン氏は多くの支持者を得て無事2期8年大統領の職責を全うした。それはクリントン氏が正しい(アメリカ国民にとって正しい)政治を行い、経済を立て直したからだ。ここで「正しい」とは解るな!ここでいう「正しい」とはアメリカ経済の大敵である日本の経済をぶち壊す事だった。この事については後のブログで詳説する。アメリカ国民は賢明だったと言える。
 当然ヒラリ-とビルの間には精神的にも肉体的にも連帯感はない。しかしヒラリ-は夫を応援しまたその逆も成り立った。最近アメリカ大統領選挙でクリントン氏は民主党候補バイデン氏を推している。大統領職を去って20年になるが政治的には健在というわけだ。日本国民よ、もっと賢明になろう。でないと、小さな瑕瑾で為政者をいちいち弾劾していたら国はつぶれるよ。国家にとって他国は潜在的に敵国であり、彼らは自国の利害が第一なのだ。世界市民なんて幻想は持つなよ。おひとよしの日本国民さん。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

Thinking about Taiwan-enrrance problem(rewite)

2020-04-29 12:49:22 | Weblog
Thinking about Taiwan-WHO-entrance-problem(rewrite)
We Japanese should help Taiwan and Taiwanese to enter WHO. From long time ago Taiwan-entrance -WHO has been disturbed and inhibited by red China’power. Red china has been said [BecauseTaiwan is a part of China..、Taiwan-entrance-WHO will not permitted.]
Now new typed corona-virus-pneumonia (so called bukanpnymonia)has been spread over China and invasives neighboring countries.Now corona-pneuminia spread over the world. Taiwaspresident,mis Kai(Sai?) insisted WHO-entrance..If virus invaided Taiwan,many Taiwaneses health and safety will be perished. I think Taiwan-WHO-entrance is Taiwanese right,,the right of right,,the right to live healthy and safe.
In this time point, if red china disturbs Taiwan-WHC right,,many people will say that china negkects and destroies the human being right.Taiwan is one of the best friend for Japan.We Japaneses should loudly insist and protect Taiwan-WHO-entrance right.
2020-february-1,in Japan, from one of the SAMURAI.
2020-april-29,the birith day of Japanese former emperor ,Hirohitotennou,rewrite
Cf [The history of beautiful country Jpan] pubulished by BUNNGEISYA

アベノマスク云々

2020-04-28 17:56:30 | Weblog
 アベノマスク云々
 近日安倍総理が国民全員に配る予定の(配った?)マスクが不良品だったとかで回収するとか言われる。そのことに関して総理は責任を取れとか、失政だなどと、一部のメディアで非難の声が上がっている。喧しい(かまびすしい)よ、五月蠅い(うるさい)よ。過去のブログでも述べたがコロナ対策は拙速を旨とする。素早く対応し、間違いがあれば訂正する。ただそれだけだ。この事態だ。世界中で10万人以上の人間が死んでいる。対策は急がねばならない。途中失敗する事は当然ある。戦争とは失敗の連続でその数の少ない方が勝つ、とも言われる。コロナ対策は戦争なのだ。第二次大戦以来の戦争なのだ。マスク配布をやり直してもかかる費用はせいぜい50億とか500億円とか。安いものだ。政府と日銀はすでに100兆円を超える経費を用意している。(これでは少ないけどね)けちけち言うな。全く前代未聞の事態に対して若干の失敗があった、少し遅れたというような事に対して、小姑じみた非難をし、あまつさえ致命的失敗だと言いつのる。民衆とはそれほど馬鹿で嫉妬深く強欲で傲慢なものか。民衆がこういう態度を取り続けていると、そのうちファシズムになるよ。全知全能のカリスマを要求し、そのような人物を気取る人間が現れてくる。日本の政府の対応が気に入らない人はシナへ行け。そこでは全能の指導者がすべて良きように取り計らってくれる。ただし文句を少しでも言えば殺されるよ。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

経済人列伝 郷誠之助(一部付加)

2020-04-28 15:25:51 | Weblog
   経済人列伝  郷誠之助(一部付加)

 男爵郷誠之助は今日では知る人も少ないと思いますが、明治後半から大正そして昭和戦前期にかけて、財界世話人として経済界の表裏に活躍した人物です。財界の巨頭と言ってもいいし、黒幕とも言えましょう。財界世話人と言いますとなにやら後ろくらい印象をうけますし、またその種の行為が無かったとは思えませんが、財界世話業という稼業は、日清戦争以後の日本資本主義の勃興・発展期にあって、乱立迷走する企業群を金融資本を介して統合し、彼らに一定の秩序を守らせる事を目的とします。実際の事跡としては、経営困難に陥った企業の合理化と減資、救済そして、合併です。誠之助が関連した主な企業はその殆んどが、重化学工業に属するものです。彼が活躍した期間はまさしく重化学工業の発展期に当たっていました。
 郷誠之助は1865年(慶応元年)に父親純造の郷里である美濃国(岐阜県)稲葉郡黒野村で生まれ、すぐ東京の番町に住みます。誠之助を語る前に、父親純造の事跡を語る必要があるでしょう。誠之助はすでに華族となった男爵郷純造の政治的経済的遺産を継承して、財界という舞台に立ちます。純造は美濃黒野村の富農でした。この村で4家ある長百姓(おさびゃくしょう)の1つが郷家です。長百姓の多くは戦国時代の名主(みょうしゅ)つまり地侍の出であり、兵農分離と共に郷村に土着し、村の指導者(名主・庄屋)として村を支配しました。
 純造はよほどやり手であり野心家であったようで、一介の豪農である事には満足せず、武家奉公を志します。幕臣の用人になります。仕える主人を適宜変え、大阪町奉行の家老になります。家老と言っても旗本のそれですから、給付は知れていますし、代々の家柄である必要はありません。しかし二人の大阪町奉行に仕えた事は純造にとって意味があったでしょう。当時政局は京都を中心に廻っていました。幕府の要人の殆んどが京大阪に出張り、朝廷や薩長などの西南雄藩と交渉していました。江戸の残るものはぼんくらが多かったといわれています。純造は江戸に行き、幕臣の株を買って、新たに設立された幕府陸軍撒兵(歩兵)になります。すぐ維新戦争が勃発します。鳥羽伏見の戦に敗れた徳川慶喜の助命嘆願の使いの従者になり、ここで一命をかけた活躍をしたと彼の自記にはあります。その功で大番役をかねて陸軍の士官(指図役)になります。200俵10人扶持と言いますから、立派な旗本です。官軍が江戸に進駐して来た時、純造は兵の動揺を押さえ、民間に隠していた(恐らく反乱防止のためでしょう)新式銃4000挺を官軍に引き渡しています。
 明治元年新政府に出仕し、会計組頭になります。係長クラスというところでしょうか。累進して大蔵少丞、さらに大丞になります。この間戸籍関係の役務もこなし、民部省の役人もしています。明治19年大蔵次官、21年退官。後男爵になり貴族院議員に任命されます。明治43年、純造86歳、死去。
 純造に関しては二つの重要な逸話があります。彼は幕臣渋沢栄一を新政府に推挙します。渋沢は井上馨と組み、以後両者は明治財界の表裏の巨頭になります。渋沢と純造の出自と経歴は似ています。誠之助はこういう非常に貴重な人脈も父親から遺贈されたことになります。
 純造は松方財政に極めて積極的に協力しています。彼の自記や誠之助の自伝によれば、純造が松方財政、特に流通貨幣量削減の提案者になります。明治12年国債局長である純造は大蔵卿松方正義に、貨幣・債権の膨張とその削減(2000万円)のを上申しています。ここで二つの事が考えられます。純造は極めて優れた経済官僚であり、明治20年までの政府財政の事実上の主導者でもあったのではないかという事です。事実日清戦争までの明治政府における技術官僚としての旧幕臣の比重は決して小さいものではなく、彼らなくして政府の運営は不可能であったでしょう。後年誠之助が行う財界世話業の中身は、案外この(父親の起案になる)松方財政と似ています。
 誠之助は銀のスプ-ンをくわえて生まれてきた事になります。慶応元年彼が生まれた時父親純造はすでに44歳、養子として義兄がすでにいました。ですから誠之助は事実上の長男、戸籍では次男になります。
 誠之助は幼少期、番町のガキ大将でした。当時できたばかりの小学校に行きます。そして東京英語学校に進学しますが、遊びが激しくなります。仙台中学校(仙台英語学校改め)に転学しますが、くるわ通いに夢中になります。要するに遊びまくったわけです。しかし成績は悪くはありませんでした。卒業して帰京、英語を学びます。15歳英語教育で定評のある京都の同志社英語学校に学びます。この間無銭旅行をしたり、薬の行商をして、一時期父親から勘当されます。19歳東京に帰り東京帝国大学法科に入学します。誠之助は法学よりむしろ哲学を勉強します。当時の日本には英仏の哲学特に、スペンサ-やルソ-のそれしか紹介されておらす、誠之助は哲学の本場であるドイツで学びたかったようです。
そしてこの時彼の人生を決定しかねない大事件がもちあがります。誠之助は大蔵省銀行局長の岩崎小二郎の姪である中村のぶ子と相思相愛の関係になります。駆け落ちそして結婚まで決意しますが、岩崎は二人の関係に反対し、のぶ子を郷里の佐賀県に帰してしまいます。そしてのぶ子から誠之助にあてた最後の手紙の後、予言どおり服毒自殺を敢行します。以後誠之助は終生正式の結婚をせず人生を送ります。彼の写真を見ると実に良い顔をしており美男子です。特に東京電灯会長時代の写真は威風堂々とした歌舞伎役者も顔負けする容貌であり風采です。
 翌年の明治17年誠之助20歳時、ドイツ留学をします。約8年滞在します。伊藤博文の駐独大使青木周蔵にあてた紹介状付きですから豪華な留学です。ドイツではハイデルベルグを主としハッレやライプチッヒに学びます。心理学のブント、経済学のロッシャ-やクニ-スという現在でも名の残る学者の講義を聴きます。
 27歳、ドイツで博士号を取得して帰国します。陸奥宗光を慕って農商務省の嘱託になりますが、陸奥辞任に伴い、官職をすてて財界に転進します。28歳日本運輸社長に就任、32年日本鉛管製造株式会社、33年入山採炭株式会社、35年王子製紙株式会社を担当します。いずれの場合も社長かそれに準じる役職に就きます。仕事は潰れかかった会社の立て直しです。合併させたり、新技術を導入したり、人事の仲裁をしたりしますが、詳細は解りません。他に日本メリヤス、日本醤油醸造、日本火災保険株式会社などに関係しています。ここで疑問が湧きます。若干28歳で、なんの経験もない若造に中小とは言え、会社再建をおいそれと任せるものでしょうか?一応理由と背景を考えて見ましょう。まず当時父親純造はまだ存命でした。この七光の影響は?また父親の人脈も重要です。特に潰れかかって、こじれた企業の再建には。洋行帰りというブランドの価値もある?などが考えられます。当時洋行帰りはそれだけで優秀とされました。また企業再建という仕事は、誠之助のような極道っぽい経歴のある人間には向いていたのかもしれません。こうして潰れかかった会社を再建しつつ、誠之助は段々頭角を現わしてゆきます。
 明治43年47歳時、東京証券取引所理事長に就任します。周囲の人はこの就任を彼のために喜ばなかったそうです。証券取引所における株の売買は、一種の賭博であり虚業とみなされる傾向がありました。誠之助はこのような偏見を廃して、断固引き受けます。明治7年東京と大阪に一箇所づつ証券取引所が設けられます。取引所の始めの役割は金録公債(武士の扶持を金券に変えて与える債権)を始めとする公債の売買でした。公債はその良否によりその実価格が違ってきます。だから何かの仲介機関がないと公債は売れません。この機能から証券取引所は出発します。これは私の憶測ですが、取引所が最初に扱ったのは、公債だけとは限りません。明治7年と言えば、いろんな種類の紙幣が民間に溢れていました。これらの紙幣にはすべて正負のプレミアがつきます。これも売買の対象になるはずです。
 松方財政が一段落すると、日本は企業の勃興期を迎えます。そして日清戦争の勝利で、外資も導入され、拍車がかかります。株式会社が雨後のたけのこのように出現します。証券株も増加します。株式の売買が成立しないと、資本はできないのですから、取引所は絶対必要でした。しかし多くの人、財界人すら、株の売買には偏見と言うより嫌悪感を持っていました。誠之助は取引所理事長就任を喜んで引き受けます。彼が株式売買の意義を知り抜いていたからです。ドイツ留学の体験も重要でした。彼が留学した頃(1884-92年)のドイツは産業興隆期でした。その少し前から経済は過熱気味であり、泡沫会社が乱立され、成長と混乱そしてそれへの対処にドイツ政府は追われ、経験を積んでいた頃です。誠之助はここから多くの事を学んだはずです。
 証券取引所の役目は、少なくとも最初は政府と仲買人(証券会社に発展)との仲介でした。政府はお高くとまり、実態を知りません。仲買人の道徳は決して高いとはいえません。不正事件がよく起きます。不正事件の温床は小口落しという手口です。仲買人は投資者から金を預かり、売買を仲介します。本来なら客の意見を聞いて判断すべきですが、それをしていてはチャンスを逸するので、仲買人は自分の判断で株を売買する事が多くなります。勢い客(投資者)の金を動かして、売買差額を着服する事も生じます。政府や世間が嫌ったのは、この小口落しという手法でした。政府はこれを禁止しようとします。誠之助は小口落しの手法を守ります。株式や貨幣の信用より、その流動性を重視したわけです。貨幣や株式の動きが止められれば、経済は死滅します。彼にはここのところがよく解っていました。
 同時に仲買人の権利も掣肘します。彼らが会員制度を主張して、取引所を彼らの自治に任せようとする動きを封じます。株の売買では時々ガラ(大暴落)が来ます。どうしてもという時、誠之助は日銀に頼み、株式売買の重要性を説いて、融資を取りもちます。彼の在任14年間の間に取引所の資本は2・5倍になりました。
 60歳、東京証券取引所理事長辞任。これ以後財界世話業と言われる仕事が始まります。財界世話人の第一号は渋沢栄一でしょう。そして次が彼郷誠之助、他に和田豊治や井上順之助がいます。経済官庁や民間で活躍し多方面に人脈を持つ人達が世話人でした。ここで井上馨は省きます。彼は世話人という以上に明治期財界の黒幕でした。財界世話人の役割は、既に述べたように、金融資本を介して、特に重化学工業の企業群を整理し統合する事でした。誠之助が関わった仕事の主なものを見てゆきましょう。まず日本郵船と東洋汽船の合併があります。サンフランシスコ航路を主とする東洋汽船は、アメリカの新しい船舶に負け続けます。誠之助は渋沢や井上と協同して、結局東洋汽船の株式を1/10に減資し、縮小した経営を軌道に乗せてから、これを郵船に合併させます。帝国製麻と日本製麻の合併も同様の手法でした。経営状態の悪い日本製麻を前社に合併させます。
 第十五銀行と川崎造船の再建には誠之助も苦労します。第十五銀行は松方幸次郎(正義の子)を始めとする松方一族が経営に関与し、さらにその創立資金は華族の出資によります。当時としては特別扱いにしなければならない事情があったようです。川崎造船にも松方一族が絡みます。さらに川崎造船は昭和恐慌の台風の眼である台湾銀行とも深い関係にありました。誠之助の提案の骨旨は減資です。減資により株式未払い金という債務は斬り捨てられます。残った株式を資本に新株を発行し、優先株として債権者に与えるなどの手法も用いられています。基本はそういうところです。
 他に北洋漁業に関与した事もあります。当時でも北洋漁業は日ソの懸案事項でした。日本のある企業が漁業権をソ連から破格の値段で購入します。日本国内の漁業の秩序を乱すとして介入し、撤回させます。
 誠之助が対象とした主な企業は重化学工業です。日本は重化学工業を育成しなければなりませんでした。巨大な資本が必要です。しかしこの間の日本経済は不況の連続でした。資本は容易には集まりません。なるべく効果的に資本を用いる必要があります。ここに財界世話人といわれる人達の出番があります。日経連や経済同友会のような経営者の団体はまだありません。世話人は顔とコネを生かして、企業群に関与し調停します。その手法は減資と合併による、業界全体としての規模縮小と、大企業の育成による競争力の強化でした。カルテルと同様のやり方です。ここでも誠之助のドイツ留学体験は生きているのでしょう。
 誠之助が関与した仕事の中で最大のものは日本製鉄の設立です。大正期の極めて短い間に20を超える製鉄会社ができました。群小乱立です。憂慮した財界の一部は東洋製鉄という会社を大正5年に作り、群小の会社を統合しようといます。結局この業界における鶏群の一鶴である八幡製鉄に合併吸収されて日本製鉄ができました。
 もう一つ彼が関与した事業には5大電力会社の合併があります。最大の東京電燈は経営危機でした。彼は社長に就任し、例のやり方で会社の経営を一部改善しておいて、他の4社東邦電力、大同電力、日本電力、宇治川電気と合併させます。
 郷誠之助は大正6年に結成された日本工業倶楽部(クラブ)の専務理事になっています。彼が関与してきた事業、つまり日本の重化学工業育成という観点からみれば、当然でしょう。昭和6年には東京商工会議所会頭に就任します。ここで彼は大企業中心の経営を進めるべく舵をとります。
 68歳日本経済連盟会会長に就任。この間貴族院議員、男爵を襲封。昭和17年78歳死去。

  参考文献  男爵郷誠之助君伝  大空社、郷男爵記念会編 大阪市立図書館蔵

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

素敵な江戸時代-日本の原点

2020-04-28 13:28:19 | Weblog
素敵な江戸時代-日本の原点

我々の世代は、江戸時代とは封建制度で侍が威張り百姓町人が搾取されている暗い時代のように習いました。確かにそういう傾向もありますが、他国の歴史と比較しつつ考察しますと非常に素晴らしい時代であり、現在の日本の土台が形成された時代であることが解ります。
 まず戦争がありません。外戦はもちろん内戦もありません。1600年から1870年までの270年間全く戦争はありませんでした。(注)非常に平和な時代でした。欧州ではしょっちゅう戦争をしていました。17世紀のイギリスやフランスは内乱状態でした。30年戦争、清教徒革命、フロンドの乱、ルイ14世の侵略戦争、スペイン王位継承戦争、北方戦争、オ-ストリア王位継承戦争、アメリカの独立戦争そしてフランス革命とナポレオン戦争など戦争の繰り返しです。ロシアは南方のクリミヤ汗国とその背後のトルコ帝国と食うか食われるかの戦争をしていました。お隣のシナでは清王朝が北方のモンゴルのジュンガル部と長い間戦争し、ジュンガル部を降したら回教徒や白蓮教の反乱、そしてアヘン戦争と太平天国の乱と騒乱続きでした。このような外国に比べて約300年間全く戦争のない平和な時代であった江戸時代は世界史でも例外中の例外です。よくローマの平和に例えられて徳川の平和といわれます。しかしロ-マ帝国では結構戦争をしていたのです。日本の江戸時代は奇跡ともいえる例外です。
 もともと日本の国土は温暖で多雨ですから地味(土地の生産性)は高く他国に対して豊かでした。そこへ金銀の大量生産という事態が訪れます。特に銀は世界の総生産額の1/3を占めていました。マルコポ-ロが黄金の国ジパングと言ったのもあながち誇張ではないのです。大体コロンブスの航海の一つの動機はこの黄金の国を発見しようということでした。(全く別の土地に彼は到着し黄金の国をみつけます)金銀が大量に出回るということはまず海外の製品(特にシナの陶器と絹布生糸)を購入できます。こうして技術が輸入されます。さらに金銀貨幣の発行は国内での貨幣流通量を飛躍的に増大させますから民間の需要を牽引します。こうして農業革命が起こりました。日本独自の農法の開発です。それまでの木灰などの肥料に変えて(加えて)日本海岸で大量に捕れるイワシやニシンを乾燥させて粉末にして施肥する農法です。贅沢な農法ですがこれで土地生産性は飛躍的に上がりました。金で買う肥料なので金肥と言いました。そうなると農民は米より他の商品作物を作ります。金になりますから。木綿、酒米、菜種、藍、紅花、塩などです。こうして生活は豊かなものになりました。比較するとイギリスでは18世紀中頃に農業革命が起こっています。クロ-バなどを植えて空気中の窒素を固定させる方法ですが、日本の金肥の方が効率的です。この日本の農業革命は17世紀の中ごろからですからイギリスに比べて1世紀先行しているわけです。産業革命の基盤は農業生産性の上昇にありますから日本は産業革命に飛躍する条件を早くから持っていたことになります。
 農業生産性が上昇すると当然人口は増えます。人口が増え生活程度が上がると相対的に物が不足します。そこで行われたのが幕政藩政改革です。上杉鷹山、細川重賢、村田清風、調所博郷、そして徳川吉宗、田沼意次くらいの名をあげて置きましょう。私は一部の有名人のみを挙げましたが江戸時代中期以降ほとんどの藩が経済制度改革に取り組みました。私は日本人だから当然日本の歴史の方に詳しく外国の情報には相対的に疎くなります。それを差し引いても日本の藩政幕政改革は群を抜いて熱心であり緻密です。欧州を例にとりますとイギリスでは経済は民間に投げっぱなし、フランスでは大雑把な重商主義というところです。彼らは内政改革をするより他国の領土を奪って豊かになる方を選びます。政治が良かったのでしょう、飢饉はありましたが他国のような大量餓死はほとんどありません。加えて島国ですので疫病の流行も限られていました。
 内政改革の展開に伴って経済制度も整い発展してゆきます。紙幣は藩札といって各藩内で発行されていました。大都市間の決済は事実上ほとんが手形で行われます。藩によっては自藩の特産品を抵当にして各種の切符(手形)が発行されていました。手形は一種の貨幣です。吉宗政権や田沼政権での試行錯誤を経て貨幣流通量の増大の必要性は認識されていました。上杉鷹山や二宮尊徳はすでに有効需要が経済に与える意義を認識しておりケインズの先を言っていました。銀は元来重量で切り売りする不定量貨幣でしたが。田沼政権の時金と銀を一定比価に固定する試みが行われます。金本位制への試行です。この際銀安にしますので金の価値が増大します。江戸は金つかい大阪は銀つかいですので、江戸の経済が有利になります。経済の中央集権化が計られました。
 幸か不幸か日本は周囲を海に囲まれ相対的に安全です。逆に言えば外延的に領土を広げて富を収奪するには不適当な地勢にあります。だから人口が増え生活程度が上がって競争が激しくなると内政改革に勤めなくてはならなくなります。江戸時代の270年間為政者は必死になって経済改革をしてきたことは日本人の心性に大きな影響をあたえております。
 なぜ日本が外部から侵攻されず安全であったのか考えてみましょう。最初に日本へ来たスペイン人やポルトガル人は日本を一目見て征服は無理と悟りました。武士団がいたからです。鉄砲の製法をマスタ-した日本の武士団の武力は多分世界でも最高であったでしょう。そのうち欧州は仲間内で戦闘にあけくれます。英仏両国が欧州の大国となり植民地獲得のために日本にやってきたころはすでに日本も産業革命に離陸できる状態にありました。
 日本の政治制度の特徴は衆議性にあります。古くは聖徳太子の憲法、さらに貞永式目評定衆などに起源をもとめることができます。私はあえて衆議性と言いましたがこれは民主制と言い換えてもいいのです。外観が違うので別の用語をつかっただけです。江戸時代本当に将軍親政をしたのは初代の家康のみです。この家康でも徳川の家風として常に部下の意見を聴き取り入れていました。あとの14代の将軍の政治はすべて老中と若年寄総計7-8名による衆議で決められます。時代が下ると諸種の専門官僚がこの衆議に加わりました。三奉行、勘定吟味役、目付大目付などです。彼らが評定会議を開いて決めました。総計で30人を超える数でした。一種の議会に相当します。幕末に黒船が来たとき時の老中阿部正弘は全国の武士たちに(郷士も含む)に意見を求めましたがこれは衆議の典型です。念のために言いますと江戸時代全期を通じて老中若年寄という政権幹部で刑死した人はいません。将軍の代替わりも平穏に行われています。衆議を前提にするからこういう平和な政権移行が可能になるのです。
 上が上なら下も同様です。農民は村単位郡単位にまとまりました。何のためにまとまるかと言えば生活防衛、特に年貢の額の交渉のためです。大名や幕府の代官と農民代表が年貢の額を巡って交渉しました。農民代表も農民に監視され交渉過程はすべて公開され文書として保管されました。最初は村単位のまとまりが、群そして国の規模のまとまりになります。この状況を見誤ると一揆になりますから為政者はその事態を恐れ真剣に交渉しました。この典型的な例が明治初年の地租改正にともなう一揆と税率の引き下げです。こういう村の群の農民の為政者との交渉を村方騒動という泥臭い名称で呼びます。これは農民の側、被支配者の側での衆議性つまり民主主義です。都市住民も同様です。農民と武士層における衆議性、これは実質的な民主主義ではないでしょうか。
 学術も発展します。家康は学問尊重の人でした。林羅山を幕府の学頭に任命して儒学の発展を図ります。しかし日本の儒学は江戸時代に入るや否やどんどん自由に展開してゆきます。この点では科挙制度に縛られて訓詁注釈と模倣祖述に明け暮れたシナの儒学とは異なった展開を見せてゆきます。中江藤樹や熊沢蕃山の陽明学、実証史学を展開させた新井白石、幕藩体制を根本から変えかねない意見を開陳する荻生徂徠の学説。徂徠は国家体制は基本的に変更可能であると言い、身分制度を否定し、衆議を重んじ、政治を経済行為から捉えなおし、民事法制定の要を説き、耕地の自由売買を主張しました。経済という用語は徂徠の弟子である太宰春タイによりつくられました。石田梅岩の思想には一種の人民主権説が含まれています。二宮尊徳は有効需要と経済における貨幣量の意義を説いています。農本主義に徹し農民主権説を説いた安藤昌益。海保青陵は重商主義を説いて藩政改革を促進するべく世論を領導しました。他に三浦梅園、本多利明、貝原益軒など多士済々です。
 ここまでは儒学系統の学問の展開です。違った系譜としては国学と蘭学があります。国学は漢意を廃して日本人の素直な心を重んじその所説を展開します。国学は主として上層農民の間に広がり日本人の知性を高めると同時に農民の政治意識をも鼓舞しました。蘭学は田沼政権の時発展します。その成果の代表が「解体新書」です。日本人は珍しいもの好きで多くの人が蘭学を学びました。このことは幕末維新における新国家建設の基盤になります。
 江戸時代の文化の特徴は大衆文化が栄えたことです。代表が歌舞伎と浮世絵です。勧進帳は圧巻ですし、私はモナリザより歌麿の美人画の方が好きです。他に合本や黄表紙などの大衆文学が発展します。加えて狂歌川柳落語などなどそして茶道華道などの習い事。民衆はそういう芸事を積極的に摂取しました。
 幕末の日本人の識字率はどのくらいであったでしょうか。私は男女そろって100%だったと思っています。根拠をあげます。まず前述した村方騒動。農民は年貢や村方費用などをすべてチェックしていました。女性も同様でした。また江戸時代後半には農村で歌舞伎が盛んに催されました。そして都市住民の大衆文化。こういう事は文字を知らなくてはできません。幕末における一人当たり平均栄養値は、1700カロリ-、たんぱく質70グラムという報告があります。十分に生命を維持できる数値です。玄米と大豆とイワシを食っていればこの数値は維持できます。
 トマ・ピケッティ氏は近著で日米英仏独の五か国を富裕先進国としています。この五か国の生活水準はほぼ等しいのですが日本と他の四か国では発展に基本的な違いがあります。日本以外の国はすべて発展の原資を奴隷労働からの収奪に依存しています。奴隷制度によらず原資を蓄ええたのは日本だけです。この基礎は江戸時代に築かれました。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行