経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、永野重雄

2011-01-30 03:06:13 | Weblog
   永野重雄

 二種類の経済人があるようです。第一は豊田佐吉、松下幸之助、立石一真、井深大、矢野恒太などのように、独自の企業を創設するタイプです。こちらの方が一般人には人気が高く、立志伝中の人物として知名度は抜群です。第二は小林中、石坂泰三、桜田武、稲山嘉浩のような人物の一群です。後者はサラリ-マン経営者として、前者的なカリスマから事業を引き継ぎ、それを伸ばし、そして財界全体の世話役に押され、あるいは引受、更に政界にも隠然たる力を持ちます。今から語る、永野重雄は後者のタイプです。前者が無学歴であるか、さほど誇るほどのない平凡な学歴を有するのに対し、後者には東大出身者が圧倒的です。後者は官僚的タイプの経済人と言うべきなのでしょうか。永野重雄の6人兄弟は、1人僧職についた例外を除き、5人がすべて東大出身という学歴エリ-トです。
 永野重雄は1900年(明治33年)、松江市に生れました。父親の勤務の都合で島根県出身になりましたが、彼の故郷は広島県、家は代々真言宗のお寺です。父法城は僧職に就く事を嫌い、判事になります。この仕事は地元との癒着を防ぐために、しばしば転勤させられます。従って6人の兄弟の出生地はまちまちです。父親は47歳で死去します。その割には貧窮に陥らず、6人の子息に満足な教育をつけることができました。長兄の護(岸内閣運輸大臣)は、経済界の重鎮渋沢栄一の子息正雄の勉強の相手役をしており、渋沢から破格の金銭を受け取り、それを故郷に送金しています。
重雄は岡山六高から東大法学部に入ります。桜田武の先輩になります。高校と大学ではずっと柔道をしていました。猛者でした。重雄は柔道着を洗濯しないので臭く、寝技に持ち込まれるとその悪臭に相手は気絶しそうになったと言います。旧制高校の柔道は講道館柔道と違い、寝技が主流です。それも気絶するまで戦います。そこで気絶しないような特別訓練が六高では行われました。詳細は省きますが、一つ間違えば確実に窒息死するようなものです。重雄は53歳まで柔道現役でした。国際親善でウィーンを訪問した時、若い三段の大男に練習試合を挑まれ、寝技で勝ちました。重雄はそれを機に現役から引退します。彼は講道館理事も務めています。
 大正13年、23歳時、卒業し浅野物産に入ります。浅野総一郎が経営する会社です。1年後辞職し富士製鋼という会社に入りました。この会社は倒産寸前でした。渋沢が経営に関与していたので、彼の引きによるものです。というより若い腕力のある猛者に経営建て直しを期待したのでしょうか?しかし若干24-5歳の若造に、本気で期待するでしょうか?重雄も危ない橋を渡ったものです。社長兼小使という毎日でした。鉄鋼の売り込みに苦慮します。契約書の価格の欄を空白にして、買手の希望に任せるという戦術も行います。昭和2年、金融恐慌が襲います。得意先に前借払いを懇請します。夜逃げもしました。東京電燈に電気を止められ、営業妨害と叫んで、脅します。戦時景気に向かう時勢のお蔭で、窮境を脱し、借金を返済します。この推移は富士鉄鋼に限りません。高橋財政プラス戦時体制のおかげです。昭和8年取締役、昭和9年合同してできた日本製鉄の富士製鋼所長、更に日鉄理事になります。日鉄から鉄鋼統制会に出張します。終戦、昭和23年日鉄に帰り常務取締役。昭和22年、1億円以上の企業の役員2200名が追放され、追放を免れた次位の者が経営陣の主力になります。この点では奥村綱雄、西山弥太郎、桜田武の境遇と同様です。(各列伝参照)
 永野重雄は経営者としては豪腕の猛者タイプです。しかし富士製鋼建て直し後は、統制経済の中でこれといって目立つ仕事はありません。ただ上の言う事を聞いていれば無難です。重雄の活躍は戦後、ですから彼45歳以後になります。戦後日本製鉄は新しくできた独禁法により解体されます。西の八幡製鉄と東の北日本(富士)製鉄に分割されました。この時問題になったのが、広畑製鉄所の帰趨です。外国に売却するという話も吉田首相から出ます。広畑製鉄所はストリップミルを備えた当時最大の製鉄所でした。これを取られれば富士製鉄は半身不随になります。六高柔道部の後輩である桜田武のボス、宮島清次郎が吉田茂のブレイン(というより経済関係方面の指南者)だったので、この線で外国売却を阻止します。吉田側近だった佐藤栄作も外国売却には反対でした。こうして富士製鉄の危機を重雄は乗り切ります。昭和25年同社の代表取締役社長に就任。
重雄の次の活躍は昭和45年の八幡・富士合併による、新日鉄の誕生です。これは独禁法に触れるとされ、両社の首脳部以外の人は官民あげて反対でした。私にもこの合併の意味は解りかねます。規模で言えばより小さい、神鋼、住金、川鉄、鋼管などは独立してやっています。前三者は関西系企業で独自の方針、日本鋼管も独自路線を追求します。(付、鋼管と川鉄は後に合併)私には新日鉄の成立は、これらの勢いのいい企業の追い上げへの防衛のようにも思えます。ともかく、日本最大の企業が誕生しました。会長は重雄、社長は稲山嘉浩です。詳しくは稲山の列伝で述べました。
 日鉄の分割、新日鉄の誕生のどれをとってもすべて政治絡みです。一私企業のレベルでこなせる問題ではありません。そして重雄の本領は、こういう場面で切れ味よく発揮されます。永野重雄という経済人を語るに、政治は欠かせません。以下彼が関係した主な諸事項を検討してみましょう。彼の経歴には昭和戦後政治史そのものの観があります。
 昭和22年、経済安定本部第一部長に就任します。経済安定本部、通称安本(アンポン)は、戦後経済の建て直しの任を帯びて、特別に創られた組織です。安本長官は閣僚級いやそれ以上の存在でした。安本は傾斜生産方式を取ります。重要な産業特に鉄と石炭に外貨を使わせ、他の不要不急の産業への投資は後回しにしようとします。道理で当時のバナナは高かった。(1本40円)戦時中鉄鋼統制会におり、鉄の専門家であり、富士製鋼建て直しで豪腕をならした、重雄の出番でしょう。乏しい資源を同業者に配分する仕事ですから。
 昭和27年東京商工会議所副会頭に就任します。後に会頭、さらに日本商工会議所会頭になります。重雄の肩書きでは富士製鉄社長に次ぐ重要な肩書きです。商工会議所は中小企業の支援が主任務だそうで、重雄は富士製鋼時代を振り返り、自分には適役だと自認しています。
 昭和35年池田内閣発足。当時財界四天王と呼ばれる人物群がいました。池田総理に親しく、経済関係の顧問のような存在であり、財界と政界を結ぶパイプ役でもありました。小林中、桜田武、水野成夫、そして永野重雄です。
 昭和36年オ-ストラリアとニュ-ジ-ランドの親善使節団長として両国を訪問しています。
 昭和40年は高度成長の中の不況期でした。それまで借金経営で猛進してきた山陽特殊製鋼が破産の危機に襲われます。主力銀行の神戸銀行は救済融資を続行しようとしますが、そのためには富士製鉄の保証が必要です。迷った末重雄は保証を拒否します。山陽特殊製鋼は会社更生法を受けることになります。もし保証していたら富士製鉄も神戸銀行も危なかったろうといわれ、重雄の非情な決断は支持されました。
 このころから万博の計画が具体的になります。佐藤内閣の通産大臣三木武夫は、会長人事に苦慮します。最初住友銀行の堀田庄三、堀田に断られて重雄が候補に上がります。重雄は辞退し石坂泰三を押します。重雄は副会長に収まります。
 昭和47年、太平洋経済委員会が結成され、重雄も深く関与します。日米、オ-ストラリア、ニュ-ジ-ランド、カナダなどが参加国です。
 昭和47年「小企業等経営改善資金融資制度」通称「マル経資金」という制度が設置されます。中小企業に対して、無担保無保証で、運転資金50万円、設備資金100万円までを融資します。好評で10年後の56年、融資残高2兆4800億円、件数は175万件になりました。背景があります。当時共産党指導下に民主商工会という組織があり、この組織が中小企業の節税対策を積極的に支援し、民商に参加する業者が多かったのです。共産党の勢力拡充に危機感を抱いた重雄以下の財界人が音頭を取って、マル経資金を創設したそうです。また中曽根通産相に「商工会議所は旦那衆の集まりではないか」と皮肉を言われ、発奮したとも言われています。
 昭和49年、日ソ経済委員会が設置され、重雄は日ソ間の経済交流に尽力しています。同時に北方領土回復にも熱心でした。蛍の光の歌詞に「千島の奥も、沖縄も、八島のうちの護りなり、いたらん国に、いさおしく、つとめよ、わがせ、つつがなく」があります。もっとも第4番の歌詞ですから、普通は歌われません。この歌詞は明治14年に作られたものです。当時から千島列島は日本国有の領土という通念がありました。日ソあるいは日露関係では、経済問題と領土問題がいつも重畳して二律背反になります。現在でも同様です。この間韓国の経済開発にも協力し、銑鋼一貫製鉄所として浦項製鉄所建設に全面的に協力しています。この製鉄所は韓国の経済発展の原動力になりました。裏話があります。製鉄所開設記念式典が催されます。関係者多数が招待されましたが、日本人は一人も招待されませんでした。
 石油ショックで多くの企業が倒産の危機にみまわれました。特にそれまで順風満帆だった造船業界はどん底にあえぎます。重雄達は造船業救済のために、設備と土地の政府買い上げを提案し実施されます。過剰設備と資金の交換、現在で言えば不良債権の買い上げです。この措置で造船業界は立ち直ります。他に佐世保重工の救済、東洋工業(マツダ)への援助なども重雄の仕事でした。
 以上の事跡はすべて政治絡みですから、政界そのものへの関与も重雄にはあります。こういう裏話の真意は解りませんが、佐藤内閣末期から田中内閣の時期にかけて、重雄は角副提携、田中角栄と福田赳夫の提携により保守政権の安定を計る、ことに熱心だったのは事実です。
 永野重雄という人は夢の多い人です。インド北西部のタ-ル砂漠にヒマラヤの水を引き込む工事も提案しました。実現していませんが、可能なプランのようです。第二パナマ運河の計画も抱きました。現在のパナマ運河の西方15kmのところに、幅200-400m、水深33m、全長98kmの運河を建設します。掘り返される土の量は18億立法メ-トルです。運河だけの総工費は83億ドル、付帯事業を合わせると200億ドルになります。それまでの運河では65000トンまでしか通過できません。大型タンカ-の出現により、30万トン級の船の通過を可能にしようとしました。以上が昭和57年・1982年現在での永野試案ですが、第二パナマ運河は建設されず夢のままに終わりました。現在タンカ-や鉄鉱石輸送船などはマゼラン海峡を廻っているようです。いかにも手狭なので現在の運河の拡張工事が予定されています。しかしこの第二パナマ運河の構想はパナマ国民に歓迎され、計画は成らずとも、提案者である重雄を記念する碑が当地に建てられています。当時の200億ドルを邦貨に換算すると、ドル250円として、5兆円、物価の上昇を計算にいれてもせいぜい10兆円から15兆円、そう高いコストとは思えませんが。なお私の試算では、第二パナマ運河の建設工事の規模は、大阪湾埋め立ての規模に相当します。私は大阪湾を埋め立て、四国と関西を一体化することが関西そして日本の経済の発展に大きく資すると思っています。
 重雄の夢は膨らみます。道州制を提案し、更に世界一国論を提唱します。後者の可否については論評をさけます。私も日米合邦論者ですので、気持ちは解ります。1983年(昭和58年)84歳で死去。勲一等旭日大綬章受賞、功なり名をとげた生涯です。

 参考文献 永野重雄、わが財界人生  ダイヤモンド社

経済人列伝、石黒忠篤

2011-01-26 03:23:51 | Weblog
   石黒忠篤

 石黒忠篤は1984年(明治17年)東京に生れました。忠篤の先祖は戦国時代の上杉氏の家臣まで遡れますが、謙信の死と同時に浪人し越後の国で帰農して、代々豪農として栄えます。忠篤の5代前、信濃川から分水して農地を開墾しようとする試み失敗し、貧乏になります。祖父の代から幕府代官の手代(地方採用の事務員)になります。父親は勤皇の志に燃えて活動します。また佐久間象山の影響を受けて、医師を志望し、江戸医学校(東大医学部の前身)に入り、学問を修めます。明治初期に医療制度創設に尽力して初代軍医総監になり男爵、更に子爵に叙せられます。
 忠篤は華族の子弟としてのんびり育てられました。東京師範学校付属の幼稚園、小中学校とエスカレ-タ-方式で進学し、東京第一高等学校を受験します。当然合格すると思っていたのに不合格、新設された鹿児島第七高等学校に入学します。東京大学法学部に入り、25歳時卒業します。学生時代トルストイと二宮尊徳の影響を受け、自然を相手に労働する素朴な農民生活に共感し、なんとか農民の生活に資する職はないかと模索し、農商務省に入り農政一筋に生きます。
 大正4年32歳、1年間欧州に留学します。大正8年農政課長になります。この頃全国には澎湃として小作争議が勃発していました。政府も対策に本腰を入れます。主務者は農政課長である忠篤です。彼は真剣にまた情熱をもってこの問題に取り組みました。農政課の中に、小作分室を作り、このグル-プで小作問題を検討します。やがて分室は小作課新設に発展し、忠篤は自らこの新しいポストに就きます。忠篤は徹底して実証を重んじました。無類の調査好きです。小作慣行調査を全国において実施し、小作の実態をつかもうとします。こうして小作調停法案、小作法、自作農創設維持規則ができます。彼は「自分は百姓になれなかったので、百姓の世話をすることで、今日に至っている」と常に言っていました。41歳農務局長になります。前後して農商務省から農林部門が分かれ、彼が所属する官庁は農林省になります。大正15年忠篤は、自作農創設事業に取り組みます。全国の小作農に、日歩四分三厘、1年据え置き、24年後元利償還という条件で融資し、小作地の買い取りを援助します。うち一分三厘は国庫が負担します。私の計算では、年利が1%前後になり非常な低利です。さらに年賦償還金が小作料を超える土地には、法を施行しないという条件も付けます。こういう法案を熱心に施行したので忠篤は「アカ、左翼」とみなされたこともあります。
 この間肥料問題に取り組みます。明治末年頃から日本の肥料消費量は飛躍的に増加します。それだけ農業が発展しつつあったということです。忠篤は肥料価格の安定を計り、特に硫安の増産を進めます。昭和5年の時点で硫安の輸入総量を国産総量が上まわりました。蚕糸業にも関心を示します。自ら蚕糸局長になり、品種改良(蚕と桑)、蚕糸技術の改良、蚕糸の価格安定と需給調整、生糸と絹織物の海外宣伝に努めます。当時明治末年から戦後にいたるまで、蚕糸つまり生糸と絹は綿糸・綿布と並んで日本の輸出の花形でした。
 米価調整にも取り組みます。大正10年までの10年間米価は著しい騰落を繰り返し、極めて不安定でした。11年米穀法が施行されやがて米穀統制法、米穀配給統制法、そして昭和17年の食糧管理法に発展してゆきます。忠篤は綿密な調査を行い、統計を駆使しあるいは新しい統計を導入して、生産費調査、農家経済調査、農業経営調査などを行います。彼は基本的には主食である米穀の販売は国家により調整(統制)されるべきだ、という考えの持ち主でした。農家簿記の普及にも尽力します。
 昭和の始めには恐慌が相継ぎました。農村は荒れます。農家の娘の身売りが問題になった時代です。農林省に経済厚生部が設けられます。全国の農村を対象として、毎年1000町村に総額500万円の厚生資金が低利で融資されます。時の大蔵大臣は高橋是清であったのでこの案は日の目を見ます。農村負債整理組合法が創られ、農村厚生協会が創られ、国庫助成で農民の修練道場が創設されます。更に新設された農村自治講習所はやがて加藤完治の指導のもとに日本国民高等学校に発展します。これらの事業のすべてに忠篤は深く関与しています。厚生協会、自治講習所、国民学校などの目的は、農民の農民としての自覚を促し、農業(経営)技術を習得せしめ、併せて農民の団結を促進することにあります。これらの作業の延長上に農民の満州移民があります。忠篤は移民に熱心で何度も満州に渡っています。
 昭和16年(1941年)第二次近衛内閣の農林大臣に就任します。食糧増産を促進し、茨城県内原に20000人の農民を集め、農業増産推進隊を作ります。芋類特にサツマイモの増産を計り、全国の荒蕪地や空き地にサツマイモを栽培させます。単位面積あたりのカロリ-生産量はサツマイモが一番だそうです。
 昭和20年鈴木内閣の農林大臣になります。農村労働力の減少を歎き、国内の食糧の絶対的不足を痛感し終戦のやむなきを説きます。6月忠篤は天皇陛下に拝謁し、食糧の絶対的不足という状況を前提として、「これだけでも戦争をやめる理由は十分にあり、これ以上戦争を続ける理由はなく、国民の生命を損ずる問題は、敵の銃火をまつまでもなく、食糧の不足から生ずる状態が、国内に生ずるのは明白です。これ以上国民を傷めないためにも、戦争をやめるべき時にきていると存じます」と奏上しています。
 敗戦、昭和21年忠篤は追放になります。26年追放解除。ほとんど同時に改進党総裁就任の話がきます。総裁に就任していたら、石黒内閣が誕生していたかもしれないと言われています。特に夫人の反対もあり、この話は断ります。昭和27年参議院議員の静岡県補欠選挙に緑風会から立候補し当選します。緑風会は、貴族院から転じた第二院である参議院の中の会派で、党議拘束なく個々人の判断で行動する議員の集団でした。良識派の牙城と言われました。忠篤はこの緑風会の方針に頑固なまで、やや空想的なまでに、固執し、緑風会の存在を擁護し続けます。彼の努力に反比例して、一時は参院で最大会派だった緑風会は衰勢に向かいます。資金力と動員力に富む団体を背景とする候補がのし上がってきます。参院補選に関してはおもしろい逸話があります。自由党は選挙で緑風会と対立する立場にありましたが、時の総裁吉田茂はあえて静岡県では忠篤を応援しました。
 追放中、忠篤がなんにもしなかったのではありません。かなり野放図にずうずうしく活動しています。戦後復員してきた人口に対する失業計画として、北海道に開拓農民を移住させる方策を検討し発案します。全国の農民に呼びかけて、信州諏訪で全国農民連合会を結成し、食糧増産と農村の経営改善に尽力します。追放解除後の昭和29年、この会の会長に就任しています。昭和24年新穀感謝祭の復活を唱導します。この感謝祭は新嘗祭の全国版であり一般化ですので、神道に警戒的であったGHQの強い反対に会います。忠篤がこの運動を中止したと言う形跡はありません。鷹司信輔明治神宮宮司と協力して、新穀感謝祭の復活を推し進めます。
 昭和35年(1960年)心筋梗塞で急死します。享年77歳でした。忠篤の人生を省みますと、華族の子弟らしい、おおらかさ、お坊ちゃん気質が明白に観取できます。大声で談論風発し、隣室で聞いていると喧嘩と誤解されることもよくありました。事実よく怒り怒鳴りました。部下には、怒るのは私の趣味だと、言ったという噂もあります。彼は二宮尊徳に心酔していました。ですから基本的にはリベラリストです。同時に農本主義者でもあります。その分農政の国家統制を容認しました。彼は、尊徳は倫理道徳の代名詞のように扱われているので、尊徳の偉大さは理解されていないと、言いました。事実その通りです。この列伝でも尊徳を取り上げました。尊徳の「二宮翁夜話」は一読再読三読するに値する傑作です。

  参考文献 石黒忠篤 時事通信社

経済人列伝、永田雅一

2011-01-22 03:22:28 | Weblog
    永田雅一 

 昭和20年代から30年代にかけて、映画界で一世を風靡した映画人永田雅一は、明治39年京都市中京区油小路三条に生れています。父親は染料と友禅を扱う問屋でした。しかし雅一がまだ物心がつくかつかない頃から家業は衰え、7歳時家を売却して移住しています。父親は家業に力を入れることなく、酒びたりのまま、雅一が14歳の時、47歳で死去します。母親は身延に毎年参詣するほどの、熱心な日蓮門徒でした。家業の没落に際して、母親は雅一に熱心に日蓮の教えを説くとともに、家運の再興を彼に託すべく励ましました。日蓮への帰依を、雅一は母親から受けつぎ共有しています。
 高等小学校を卒業した雅一は、母方の伯父を頼って、上京します。伯父の勧めで大倉商業学校に通いますが、家運再興を願う雅一には、通学生活がものたらなく感じられ、中退し家出します。しばらく文房具の行商をし、その間に早稲田の聴講生として講義に連なります。早稲田で聴講するうちに、政治に関心を示すようになり、かなり左傾化します。大震災で京都に帰ります。ぶらぶらしいて母親と衝突し再び家出します。友人のつてで、貨物の荷揚げ人足(仲仕)の元締めをしている、千本組の棟梁の家でごろごろするようになります。小バクチを打ったり、小遣い稼ぎ程度の仕事をしたりして、ごろんぼう生活を送ります。ここではったりとかけひきの交渉術を覚えたかも知れません。雅一が下宿していた、食堂の経営者の夫が、日活の京都撮影所長池永浩久でした。池永のつてで大正14年、雅一は撮影所に入ります。19歳でした。最初は庶務見習い、つまり走り使いの雑用掛でした。ごろんぼう時代の性根を入れ替えて、まじめに出勤し、陰日なたなく働きます。加えて天性の社交好き話好き、皆から「マアチャン、マアチャン」と可愛がられます。そういう性向を見込まれて、池永所長から、撮影所見学者のガイド役に抜擢されます。雅一にとっては適役です。訪問客や見物者には政治家やジャ-ナリストが多く、そこに目をつけた雅一は、彼らに誠心誠意サ-ヴィスをし、そして取り入ります。
 昭和7年26歳時、雅一が飛躍する絶好の機会が訪れます。日活に争議が持ち上がります。当時つまり昭和初年ころ、映画界は一大変革期にさしかかっていました。無声映画からト-キ-への変化です。ト-キ-は無声映画に比べて、はるかに大きな資本を必要とします。雑音が入らないようにするためには、厳重に管理された大きな撮影所が必要です。弁士の語りという補助なく、映像のみで表現するのですから、この映像には写実性が(無声映画に比し)はるかに多く要求されます。フィルムは映像機能のみならず、声や音の録音機能も持たねばなりません。この変革期にあって多くの中小映画会社は潰れました。最初の映画会社であると言ってもいい日活(日本活動写真KK)も変革を消化できたとは言えません。加えて当時は一大不況期です。日活は多くの負債を抱えていました。197名が解雇の通知を受けます。争議が持ち上がりました。ここで雅一が見込まれて、争議団の代表として会社と交渉することになります。雅一は知人の無産党系の代議士に相談し、解雇通知を突っ返させます。とにかく解雇を撤回しろ、と会社に迫り、その前提で話し合おうと提案します。解雇を撤回してくれるのなら、会社が生み出す毎月の赤字13万円程度なら、なんとかできると、言います。これははったりです。しかし時にははったりも必要です。雅一のこの提案により、労使は交渉する気になりました。雅一は一定の退職金を出させるという条件で、自主退職者を募ります。希望者はなんと250名、解雇予定者を上回りました。
裏があるようです。当時の映画会社の給与体系はかなりいい加減なもので、所長の請負制に近い形でした。つまり撮影所長が、人件費、資材やその他の必要経費一切を会社に対して請負い、できた映画を所長が会社に売りつける形の経営でした。だから給与は所長の腹一つできまります。従業員の立場によっては、小遣い銭程度の給与もありました。こういう場合必ず所長を始めとする上級職員によるピンハネがあります。つまり給与は全体とすれば低く不安定です。そいう状況ならちゃんと給料と退職金が出るなら、辞めようかという人達も多かったのです。ですから雅一の提案には給与体系の明確化という意味も見られます。つまり中間搾取をある程度吐き出させてそれを解雇に必要な資金の一部にあてるという事です。こういう現実の機微を見抜くしたたかさを雅一は持っていました。
 争議解決の功績が認められて、中谷専務の信頼を勝ち得ます。総務、脚本、政策三部門の部長を兼ね、撮影所長補佐を兼任します。映画製作の実権を握りました。退職した穴を埋めるために、他社の監督俳優引き抜きに辣腕を振るい、日活に永田ありと恐れられるようになります。中谷専務の意を受けて、横田社長の引退勧告の使者になり、社内ク-デタを行います。
 しばらくして(昭和9年)日活をやめます。雅一に追随してくる多くの人材とともに、第一映画社を設立します。この時雅一は若干28歳でした。酒席で中谷社長にこっぴどく叱責されたのが動機とかいいますが、裏があります。松竹で映画部門を担当していた、白井信太郎(松次郎の末弟で彼の養子)が資金を出します。白井の話では、人材引き抜きの脅威を防止し、雅一を自陣営に取り込んで安心したいという話しですが、それだけではありますまい。松竹は東宝と並ぶ大資本でしたから、苦境の日活(映画界の老舗で配給館の多い)を松竹資本の傘下に取り込むことが、白井の狙いだったのでしょう。第一映画社時代には、溝口健二監督、山田五十鈴主演の「浪華悲歌(エレジ-)」「祇園の姉妹」という名作を残しています。
 昭和11年第一映画社を解散、雅一自身は松竹系の新興キネマの京都撮影所長になります。新興キネマは白井松次郎が手に入れて面倒を見ていた会社ですが、白井ももてあましていました。それほど無配と赤字続きで、松竹の内部からも手放すあるいは廃止するという声が盛んに上がっていました。雅一はこのボロ会社を更正させます。方針は娯楽的要素を重視し、かつ人件費を抑制する、ということです。そこでトリックを使った怪奇物を作ります。皮切りが「児雷也」、そしてヴァンプ型の美人女優鈴木澄子に「佐賀怪猫伝」で化け猫役をやらせます。これは当たりました。シリ-ズが続きます。この種の怪奇物では「四谷怪談」が有名です。また当時人気のあった浪曲の題材を映画化します。広沢虎蔵の出し物「佐渡情話」や「森の石松」などです。雅一はロマンも捨てません。源氏物語を「紫式部」という名で映画化します。ところが皇室内部に話しが及ぶとかいうことで、フィルムは800m削除されます。源氏物語に関しては、戦後もう一度映画化を試み成功します。
 1940年(昭和16年)8月、開戦の4ヶ月前、映画界は一大ショックに襲われます。情報局が「映画にまわすフィルムは無い」と宣言します。戦時体制に備えて、軍部中心に資材が統制されていました。大手五社、つまり松竹、東宝、日活、新興キネマ、大都の幹部が相談を重ねますがショックで結論が出ません。ここで雅一が前面に出て指揮を執ります。雅一には情報局の腹が読めていました。情報局はまず映画会社に雷を落とし、それに会社がどう答えてくるかを、見ているんだと読みます。情報局の腹は、映画界の自主規制です。そこで雅一はまず、重要産業統制令の精神を尊重しそれに準拠する形で、映画統制会のようなものを作り、情報局の反応を待つことにします。映画統制会の下に各映画会社が従属し、統制会の会長は映画界外の人望ある知名人をもってあてるとし、その旨情報局に提案します。
 情報局はすぐ反応します。映画を内容によって、演劇、文化、ニュースの三部門に分けます。演劇部門では映画社は二社として、総計月に4本の製作を許す、とします。演劇部門は年間50本弱の製作を許されたことになります。50本といえば当時一社でそれ以上製作していました。極めて大幅な減量です。余剰人員は失業者になります。雅一は二社案を三社案にすべく交渉し頑張ります。三社にすれば製作本数は1・5倍になります。それだけではありません。二社なら最強力な松竹と東宝がそれを押さえ、日活も新興キネマもその中で従属的な位置に置かれかねません。三社なら残りの一社に松竹東宝以外が、連合して組み込まれ、各社は比較的独立した経営ができます。結果は三社案でした。
 日活、新興キネマ、大都の三社が連合して一社を組むことになります。しかし老舗の日活が大きすぎます。そこで日活の製作部門と配給部門を切り離し、後者を日活の名で残し、前者つまり日活製作部門とキネマ、大都が合体して、大日本映画株式会社、略して大映を作ります。昭和17年、彼36歳の時のことです。
もう少し資本の内容を詳しく話しますと、まず資本金1万円で大日本映画KKを作り、その下に新興キネマ(資本金475万円)、大都(同70万円)が入ります。日活の製作部門の資本を315万円と評価し、うち215万円は現物供与、残り100万円は雅一個人の借り入れとしてこれを手形で支払います。従って大日本映画KKの公称資本は750万円になります。会社には当分社長を置かず、雅一が筆頭専務になります。資本はあっても現金がありません。長瀬徳太郎という大阪の商人が100万円融資してくれます。大映の役員が手分けして40万円かき集め、これを基礎に住友・安田などの銀行から200万円借ります。総計340万円の運転資金をもって映画作成に挑みます。
 大映の強みは日活の誇る有名時代劇俳優である、片岡智恵蔵、坂東妻三郎、嵐寛十郎、市川右太右衛門などを抱えていることです。彼らを使った「伊賀の月影」「新雪」「歌う狸御殿」「三代の盃」「富士に立つ影」などヒット作品になります。この間警察に連行され50日間拘留という経験もします。このような事件の背後はわからないことが多いのですが、若造である雅一が映画界の前面に出て活躍したことへの妬みも原因していたようです。この事に懲りて雅一は自らが社長に就くことなく、有名な作家であり、文芸春秋を立ち上げた、菊池寛に社長に就任してもらいます。経営は順調に進展します。昭和20年の時点で大映は松竹と東宝に総計70万円の援助をしています。大映は黒字、後二社は赤字でした。戦時統制経済のきまりで、儲かった会社は欠損の出た会社に援助金を出す義務を負わされていたのです。このような状況を見て、松竹の白井松次郎は「合併三社の、紙屑のような株券を、天下に立派に通用する黄金に仕上げた腕前には、恐れ入るほかない」と論評しています。
永田雅一が一番冴えたのはこの時期でしょう。日活に永田ありと男が上がったその時、日活から松竹へと鮮やかな転進をします。松竹がもてあましていたボロ会社新興キネマを、松竹の白井がこの会社によほどの未練を抱いている・だから簡単には潰すまい、と読んで引き受けます。情報局を相手に、他の映画人がしり込みし恐れる中、戦時経済というものを見通して当局の腹を読み、一定の方針を持ち、持ち前の雄弁と度胸、はったりと読みの深さ、駆け引きと妥協の上手さ、そしてひとなつっこさで、官僚から一定の譲歩を引き出し、同時に映画界の指導的立場にのし上がります。映画も時代劇中心にし、また国策に沿う内容を盛り込み、あくまで大作主義で名作・ヒット作を飛ばし続けます。雅一の人生の頂点は戦後の20年代から30年代にかけてですが、この時期はむしろ大映創設当時の延長のようにも思えます。彼の映画製作者としての能力は高いものですが、やはり彼を押し上げる事になったのは、争議事件と情報局との対決です。こと政治とか駆け引きが入ってくると、雅一の行動は冴えてきます。かって左翼に傾いた事も、資本家経営者としての現実の読みをより深くしているかも知れません。また日蓮門徒である事、母親の影響も無視できないでしょう。日蓮門徒は、信じると一路前進します。
 戦後になります。雅一は菊池寛に代わり、昭和22年41歳で大映の社長に就任します。戦争直後、時代劇はGHQからすごく弾圧されました。ちゃんばらは暴力、敵討ちや切腹は残酷、主君への忠誠を描くものは封建的、などなどと散々で放映禁止になります。時代劇路線を歩んできた大映には不利です。雅一は素早く視点を変えます。例えば片岡千恵蔵には、多羅尾伴内という探偵役をあてがい、この名探偵シリ-ズで当てます。有名時代劇俳優にもなるべく刀を持たせない役に就かせます。
 大映が戦後映画界でその勢力を伸張させる上で有利な事情がありました。映画界の両雄の一つ東宝の争議が長引きます。東宝、読売そして東芝の三大争議の一つです。仕事ができないので、監督や俳優が他社特に大映に移籍してきます。黒澤明監督もその一人でした。大映でも争議が持ち上がりますが、雅一は上手く納めます。雅一の労組対策は、向こうの言い分以上の条件を出すことです。雅一も追放に会います。しかし解除も速やかに行われました。
こういう有利な条件を彼は生かします。大映の三大路線は、長谷川一夫の時代劇、京マチ子のお色気、そして三益愛子の母物、でした。直営館をやめ、製作と配給のみに会社機能を絞り、製作本数を増やします。どんどん映画を作るわけです。同時に大作、精選された作品の製作も狙います。アメリカから新しい技術を輸入します。色彩映画の技術他、カメラ、録音機、テ-プレコ-ダ-、マイクロフォンなども新しいものに切り替えます。昭和24年訪米した時あちらの映画製作技術の進歩に一驚したのが大きなきっかけですが、雅一の積極性も寄与しています。
 昭和26年「羅生門」がヴェニスの映画祭でグランプリを獲得し、世界的な話題になりました。芥川龍之介原作、黒澤明監督で三船敏郎、京マチ子、森雅之らが出演しました。日本では始めぱっとした人気は無かったのですが、外国で大評判になり、興行収入はうなぎのぼり、諸外国へも輸出されます。当時としては、湯川英樹のノ-ヴェル賞受賞、古河広之進の水泳金メダルと並ぶ快挙で、日本文化が世界に認められたと、言われました。これを機に日本映画を世界に輸出しようとして、雅一は「映画産業合理化促進」を目的に団体を結成し、官庁と掛け合います。これが彼の政界との接触の始まりです。この試みは映画産業の社会的地位の向上をも目指しました。映画は娯楽でしかないとみなされ、その社会的評価は低く、従って銀行融資でも差別されてきました。東南アジア映画祭を催し、海外合作映画にも取り組みます。こうして彼の政界との縁は深くなってゆきますが、結果としてはそれが雅一の命取りになります。
 昭和27年、「源氏物語」が作成され放映されます。大映創立十周年記念作品です。光源氏は長谷川一夫、藤壺が小暮実千代、明石上が京マチ子、紫の上が乙羽信子です。この映画は業界再興の収益を上げました。同年大映の株式配当は60%です。
 昭和29年イ-ストマンカラ-で撮った「地獄門」はカンヌ映画祭でグランプリを獲得します。アカデミ-賞も二つ受賞、特にその色彩の美しさが評価されます。
 この時期、昭和30年前後からしばらくが雅一の絶頂期です。次第に経営に影がさしてきます。映画の観客動員数は昭和35年をピ-クとして落ち始めます。新しい娯楽であるTVが徐々に映画を押しのけてゆきます。東宝が復活し、多くの人材が東宝に復帰します。新しい東映というライヴァルも頭をもたげてきます。確かに大映の映画は大作や問題作が多く、話題を呼びました。東映は徹底的に娯楽時代劇に徹します。同じ時代劇を見ても大映と東映では明らかに格が違います。大映には名作といわれる映画はたくさんありますが、東映映画にはほとんどありません。しかし少年期から思春期にかけて映画を楽しんだ私としては、この東映の時代劇は無条件におもしろかったのです。
 雅一は成功するにつれて、段々独裁的になります。もともとその下地は充分あります。役員が、部課長が知っている情報を知らないことなどしょっちゅうでした。重役会議では雅一が一方的にしゃべり、他の意見を聴こうとはしません。加えて政界への関心です。岸信介、河野一郎、池田勇人、大野伴睦などの政界有力者と盛んに交流し、政界の裏にまで顔を突っ込みます。その分本業への関心は減ります。こうなると自分を超大物と錯覚しがちになります。俳優との衝突も多くなります。山本富士子は雅一が売り出した女優です。山本が大映で出演する本数を減らし、他社の映画にも出させて欲しいと言ったとき、雅一はこの願いを一蹴しています。新興キネマの時代、東宝へ移籍希望の山田五十鈴を、暖かく送り出してやった雅一とは大違いです。加えて盟友といっていい溝口健二が死去します。昭和36年、武州鉄道汚職事件で逮捕されます。不起訴になりますが、この辺から雅一の命運は下降し始めます。例によってこの種の事件の真偽のほどは解りませんが、雅一が政治に顔を突っ込んでいなければ、こんなことにはなっていなかったでしょう。
 私個人として忘れられない事件があります。昭和35年(?)雅一がオ-ナ-である野球チ-ム、大毎オリオンズがパリ-グで優勝し、セリ-グの覇者大洋ホエ-ルズと対戦します。この日本シリ-ズは4連勝で大洋が勝ちます。この時雅一は大毎の監督西本幸雄の作戦に一々口を出し、怒った西本監督は辞任します。雅一の経営はこんな風でもあったのでしょう。大映はその後10年持ちます。1971年(昭和46年)衰勢に勝てず、破産宣告します。以後徳間書店、さらに角川書店が旧大映を踏襲する形で、映画製作を行って今日に至っています。
 永田雅一は一代の風雲児です。彼の能力が最も冴え切れ味が鋭かったのは、情報局相手に渡り合い、映画の危機を救い、同時に大映を立ち上げた数年でしょう。以後の成功はこの延長上にあります。雅一は、良いと信じたら直線的に突っ走る熱血漢です。義理人情に篤い、人情家です。雄弁で陽気な社交家です。交渉ごとが好きで、仲介の労を取らせたら絶妙です。この資質は情報局や労組相手に遺憾なく発揮されます。仇名がラディオのラッパ、一方的にしゃべる、です。この性向は裏を返せば独善的独裁的にもなります。彼の政治好きは、この傾向に拍車をかけました。政界や外国を飛びまわっている間に、映画産業の斜陽化は忍び寄ってきます。早く気がつけば彼の才能なら手を打てたかも、いや攻め一本の彼の性向では守りは無理だったかもしれません。彼の経済人としての経歴を見たとき、二人の人物を思い出します。一人は同じく「ダイエ-」の中内功、もう一人は既に列伝で取り上げた、鈴木商店の金子直吉です。三者とも攻め一方で、その成功はものすごいものです。しかし不況や産業衰退期にも、攻めに徹し破産しています。人は二つの時代には生きられないのかも知れません。1985年(昭和60年)死去、享年79歳。昭和63年野球殿堂入り。
 大映の主な映画作品は以下のようなものです。羅生門、源氏物語、地獄門、雨月物語、新平家物語、婦系図・湯島の白梅、夜の河、赤線地帯、残菊物語、釈迦、破戒、悪名、座頭市、眠狂四郎、氷点、華岡青州の妻、細雪

 参考文献 永田雅一  時事通信社

経済人列伝、大谷竹次郎

2011-01-17 03:34:46 | Weblog
   大谷竹次郎
 
 大谷竹次郎は1877年(明治10年)、京都三条柳馬場に生れます。双子でした。兄松次郎は後に白井家に養子に行きます。祖父森田伝太郎は薩摩藩士市来氏の家臣でした。維新の改革で武士は録を失います。伝太郎の子栄吉は職を転々としつつ、京都の旅館経営者大谷唐兵衛の養子になり、花相撲の興行で細々とした生計を立てます。芝居小屋祇園座の売店の娘しもと栄吉は結婚し、松次郎と竹次郎の双子兄弟を、さらに末弟信太郎を産みます。栄吉としもは営々として小金を貯め、新京極の阪井座の売店を買い、さらに阪井座の金主の一人になります。当時の芝居の経営について一言しておきましょう。経営の実務に当たる人物を仕打と言います。資本は通常複数からなる金主から出されました。もちろん仕打が金主を兼ねることもあります。売店は現在の大相撲の茶屋のように、芝居客に飲食物他を販売しまた、座席を斡旋し、雑用も引き受けます。栄吉は阪井座の金主になるとほとんど同時に座の仕打にもなりました。ここで大谷家の社会的ランクは一段上がるのですが、この営為には栄吉より彼の妻であるしもの尽力が大きかったようです。栄吉しも夫婦はむしろ芝居好きの竹次郎を前面に立て、彼に仕打ちを任せます。竹次郎19歳の時、始めて仕打ち(現在風に言えばproducer)としてデヴュします。演目は「曽我の実録」「乳もらい」、立役者は実川延次郎(後の延若)です。彼と竹次郎兄弟は終生の交わりを続けることになります。兄の松次郎も芝居好きで養家の反対を押しきり、実父の栄吉に頼み込んで芝居のproduceに精を出すことになります。こうして松と竹の双生児コンビは松次郎が死ぬまで、共に芝居そして映画の興行に従事します。
 明治33年祇園座の施設を阪井座に移築し名も歌舞伎座と改めます。併行して常盤座も手に入れ、明治座と改名します。この時兄弟は芝居小屋にすくうダニを退治します。ダニとは地回り・やくざの類です。まあごろつきと変らないでしょう。芝居の興行を保護するという名目で、芝居小屋内外を徘徊し、一定数の座席の売上を権利としてもっていってしまいます。兄弟は劇場主任と協力して彼らをたたき出します。正直命がけの作業です。兄弟は、芝居興行が永続して繁栄するためには、興行に関係の無い部分に利益が流れる事がもっとも障害になると、判断しあくまでこの種のダニを退治しました。先回りして言えば兄弟の事業が成功したのは、名題役者(大看板の役者)が高給を取り、それを弟子である中下級の役者に分配する旧制度を排し、上から下まで階層に応じた給料を支給し、役者の生活を保障するべく務めたからです。この点では吉本せい(列伝参照)も同様でしょう。「松竹」という名の起こりは、明治35年の大阪朝日の劇評に兄弟の事跡が取り上げられ、そこで「松竹」といういわれ方したのに由来します。
 京都で二座を傘下に収めた兄弟は大阪への進出を図ります。当時大阪には、大劇場としては、中座、角座、朝日座、弁天座、浪花座の五座がありました。明治39年松竹は、中村ガン次郎と提携して、大阪の中座を借りて、興行を打ちます。演目は「男しげのい」「鬼あざみ」「播州皿屋敷」です。興行は大成功、この勢いをもって東京に進撃を開始します。前後して京都南座と大阪朝日座を買収します。また不振にあえいでいた大阪の文楽座も傘下に収めます。文楽座の併合はむしろ文化財保護事業のようなものです。
 明治39年10月ガン次郎の東京公演が行われます。演目は「川中島京都錦絵」「双蝶々曲輪日記」「田舎源氏」「心中天の網島」「勢獅子」です。ここで田村成義という辣腕家が松竹の東上阻止に立ち上がり、彼と兄弟は10年以上に渡る抗争を開始します。
 明治43年東京新富座、ついで本郷座を買収します。田村の反撃も行われます。個人的誹謗中傷は始終でした。松竹兄弟の出自(単に庶民階層出身ということだけなのですが)を問題にして、上方贅六に芝居が解るかなどと言われます。兄弟にとって東京の演劇界はすべて敵のようなものでした。東京劇場組合は、田村の指導下に、座に属する俳優は座の許可なく他の座の芝居に出てはいけないと、と言い出します。松竹系の劇場への俳優の出演を禁止ないし妨害するためです。明治44年帝国劇場ができます。顧問に伊藤博文他をそろえ会長は渋沢栄一です。松竹はこの帝劇と手を組みます。劇場組合の通達を両者そろって無視します。
田村は自分の本拠である東京歌舞伎座の資本力を強化するために、藤山雷太他の財界人を役員に迎え入れます。ところがこの役員達はそろって慶応系、そして帝劇の役員も同様でした。同じ慶応系の経済人がたかだか演劇で対立するのは良くないと、藤山達は自己所有の株式を松竹に売却します。まだ手付金の段階だったので、田村は手付金の倍返しを試み、八方から資金を集めて、株式売買の契約破棄を行います。この時松竹は契約金のみ受け取り、他は返却しています。田村が集めた金には田村傘下の俳優の金もありました。こういう事情を考慮して松竹は手付金の倍額受領は謝絶しました。この巧妙な措置で松竹の東京における人気は上がります。田村との抗争は次第に松竹有利に展開します。大正9年田村の死の少し前、田村所有の歌舞伎座の株式は松竹に移ります。ここまで私は松竹と称して兄弟を一括して話してきました。実際には東京進出を担当したのは、初期には松次郎でしたが、彼は東京のストレスのためか病気になり、竹次郎と交代します。以後松竹の関西方面の責任者が松次郎、東京方面の担当者が竹次郎になります。
 竹次郎は脚本の充実を図りました。古典歌舞伎だけでは飽きられます。彼は市川左団次を可愛がりました。左団次は小山内薫と組んで、演劇の革新を試みます。左団次の本拠は東京明治座でした。役者が座を経営すると成功しない事が多いのですが、その例にもれず明治座も経営困難になります。そういう事情もあって左団次は早くから松竹に接近していました。竹次郎は左団次の才能を認め、彼のために、岡本綺堂をして多くの脚本を書いてもらいます。「修禅寺物語」「箕輪心中」「室町御所」「切支丹屋敷」「佐々木高綱」「鳥辺山心中」「尾上伊太八」「播州皿屋敷」などの作品があります。後には真山青果が左団次のために脚本を書きます。「頼山陽」「乃木将軍」「頼朝の死」「江戸城総攻」「大石最後の一日」「元禄忠臣蔵」などの大作があります。
 大正に入ると映画が盛んになり始めます。最初は映画のことを活動写真と言いました。この言葉は私の子供時代にはまだ生きていました。最初の映画のフィルムは2-3分程度の長さでした。そこに活動弁士が付き、語りながら劇場性を盛り上げてゆきます。フィルムがどうしても短いので、連鎖劇という手法も試みられました。映画と舞台の演劇を連鎖させながら、スト-リを展開させてゆく手法です。連鎖劇は関西で始まり、関西で盛況をきたしました。大阪角座ではそのために(連鎖劇という一種の映画を見せるために)平土間にイスを並べて観劇を容易にしました。当時ちゃんとした歌舞伎は値段が高くて(5-10円)一般大衆には無縁でした。歌舞伎を見るのは花柳界とその旦那衆、つまり金権派貴族だけでした。しかし大衆も娯楽には飢えています。大正という時代は都市サラリ-マンという中間階層が進出した時代です。映画はこの時代の要求に答えうる文化でした。
 竹次郎はリプリントされた演劇である映画には、最初疑念を抱いていました。しかしふとしたことから、映画の動員力従って収益可能性の大きさに気付かされます。また彼の出自からいって、大衆娯楽の必要性は充分に解ります。彼は東京で映画興行を成功させる所は浅草以外にないと、判断します。浅草は浅草観音の信仰から発した、門前町型の盛り場です。本尊の観音菩薩像が安置されたのは、伝説によると推古天皇の御代とか。江戸時代には辻講釈、軽業、居合い抜き、音曲などの大道芸人が集まり活況を呈していました。明治になって市区改正後も浅草六区は盛り場として栄え続けます。竹次郎は浅草で日活から借りた第二遊楽館で、二線級の歌舞伎俳優からなる芝居を低価格で上演し成功します。映画に踏み切る準備のようなものです。
 大正9年松竹シネマができます。映画を意味する英語には、cinemaとmovieがあります。前者を採用しました。新しい全く未知の芸能に進出するのですから、原則を固めます。連鎖劇の方式は採用しない。リプリントつまりフィルム一筋で行く。女形は一切使わない。映画には映画専門の俳優を使う。そのために俳優学校をつくり俳優を養成するなどなどの原則です。こうして東京市外の蒲田に9000坪の土地を買い、撮影所を造ります。俳優学校の校長は小山内薫です。しかしアメリカから購入した機械は重くて日本の道路事情に適さない、直流と交流の違いで機械が動かない、フィルムの編集方法が稚拙だ、撮影員たちは議論ばかりしている、などなどで映画が一本も作成されません。ここで竹次郎は野村芳亭という人物に映画を作製させます。野村はあるパタ-ンで映画を作ります。そのパタ-ンは、封建的家族制度の下で生じる悲劇、という型です。少しじめじめした内容ですが、この手法で松竹の映画は初期の危機を脱します。野村はとにかく美人女優を使って大衆に訴えました。
 大正10年火事、歌舞伎座全焼。いまだ復活しない大正12年、関東大震災。松竹の建物は東京における限り全滅同様になります。野村の手法も飽きられてきます。ここで竹次郎は東大法学部卒の城戸四郎を取締役兼東京撮影所長として起用します。城戸は女性を主人公とする映画を沢山作りました。理由は三つあります。女性(あくまで当時の女性ですが)は家族制度の下で拘束されている。だから彼らの生きがいは子供だけ。だから母子間の愛情を称えることは人気を呼ぶ。第二、女性は感情的ないし感傷的。だから煽りやすい。第三、女性は一人では映画館に来ない。必ず連れで来る。だから女性は放っておいても宣伝してくれる、です。城戸は上記の方針のもとに清新なリアリズムの描写に務めます。
 大谷竹次郎はある対談で好きなことは何かと聞かれ、「芝居の出し物を考えて要る時」と答えています。更に「来月はあの座であの役者にあの役を、某座であの脚本と、一人考ええいる時が天国だ」と言います。逆に嫌な事・苦しい事は「重役会議」だと言います。彼は天性のproducerです。なお震災後の4ヶ月間、松竹映画は京都に撮影所を移し、下賀茂で撮影しています。下賀茂撮影所は後に時代劇専門になります。
 昭和3年ソヴィエトを松竹の歌舞伎団が訪問し2週間にわたり公演します。昭和9年、松竹は傘下の劇場と会社をひとまとめにして、松竹株式会社を作ります。トラストです。この組織は今日に至っています。
 1934年(昭和9年)阪急の小林一三が東京宝塚劇場を作ります。これを皮切りに小林の松竹攻撃が始まります。小林は大阪近郊で郊外型住宅地の開発と、それに伴う私鉄とタ-ミナルデパ-トの創設で先駆した事業家です。(列伝参照)彼は元来小説家志望でした。この願望の現われが宝塚少女歌劇の創設です。その頃東京電燈(東京電力の前身)の経営が悪化しており、それを救済するために、東電の役員そして社長として乗り込んでいました。赤字補填の一助として東電が所有する日比谷公園前空地を処分しようと思いますが、良い買い手が見つかりません。やむなく小林自身がそれを買い込み、そこに東京宝塚劇場(東宝)を創りました。彼は松竹批判を繰り広げます。松竹は有閑階級のための娯楽に専念している(歌舞伎のことです)、自分は大衆芸術の発展に尽力する云々の類の言い分です。松竹が大衆芸術に無縁だったとは思えません。しかし松竹にも誤解されやすい点はありました。何分とも竹次郎は親族に恵まれず、心底から相談できる者が少なく、その分竹次郎専制になりやすく、彼を取り巻く側近をも含めて封建的経営と批判されてもやむない傾向はありました。
小林も竹次郎同様、浅草進出を狙い、そこに宝塚劇場を建設しようとします。この意図を察知した竹次郎は、小林の外遊中、所有者である根津嘉一郎からその土地を売ってもらい、そこに国際劇場を建設してしまいます。小林は日本劇場という劇場の買収を狙います。竹次郎が半年年賦で劇場を買っているのを知った小林は、正式契約ではない事につけこみ、東宝を増資しこの増資分で日本劇場を買収します。竹次郎の苦労時代の金策はすべて高利貸しからの借金でした。当時興行師に融資する銀行はありません。松竹が大になってもこのくせは治らず、投資融資は現金でしていました。この点では小林の方が一枚上手です。大谷と小林の虚虚実実の駆け引きは続きます。  
浅草の映画館の多くは日活の影響下にありました。日活(日本活動写真)は日本における映画産業の先駆者です。横浜の吉沢商店を中心に四つの企業が黎明期の映画産業を先導していましたが、この四者が合併して日活ができました。日活は映画の配給館の大半を押さえています。松竹と東宝はこの配給館をめぐって激しい争奪戦を繰り広げます。日活は経営難に陥っていましたから、両社の資金提供と引き換えに配給館への映画配給権を譲らざるを得なかったのです。戦いは結局両社半々の配給権を獲得することで、昭和14年に決着がつきます。既に戦時体制に入りつつあり、映画の配給権云々どころではなかったのでしょう。
 東宝は東宝劇団を作り、当時の人気役者である、エノケンやロッパを擁し、さらに東宝映画ブロックを作って、入江たか子や林長次郎(後の長谷川一夫)などを松竹から引き抜きます。林長次郎の移籍問題はこじれて、林は暴漢に襲われ、顔を切りつけられます。有名な事件です。松竹は他の映画会社と手を組み、東宝の映画を放映した映画館には一切映画を配給しないという手にでます。かって竹次郎の東京進出に際して田村成義が用いた方策と似たりよったりです。立場が変るとやる事も変ります。
 松竹の基幹産業は映画、小林率いる阪急の地盤は郊外型電鉄です。一見すればかなり違うように見えますが、二つの産業の発展は時代の賜物なのです。大正時代に入って、それまでの資本蓄積の結果、中産階級が出現します。彼らは資本家でもなく、明日の糧を求めて働くプロレタリア-トでもありません。彼らは一定の範囲で自らの生活を楽しもうとします。生命保険も映画産業も、郊外住宅と私鉄も、こういう背景下に成長しました。早い話、交通機関が発達しないと映画を見に行くことも不便になります。
 戦争になります。映画産業は戦争向き産業ではないので、放映時間も料金も制限されて、営業を許可されます。敗戦。GHQからいろいろ干渉が入ります。時代劇の多くは、仇討ち、主君への忠誠を宣伝するから封建的であると、批判されます。日本人に一番人気のある忠臣蔵なども放映禁止されかかりました。またその頃の松竹は巨大になっていましたから、分割の命令もでます。兄弟二人一心同体で育ててきた企業だから分割は困ると嘆願し、分割を免れます。昭和26年戦災で焼かれた歌舞伎座が再建されます。総建築費2億6000万円、総建坪3400坪、観客席2400席です。開場狂言は「だんまり」「箕輪の雪」「二条城の清正」「文屋と喜撰」「華競歌舞伎誕生」「二人三番」「籠釣瓶」「戻橋」です。同年白井松次郎が死去しています。享年75歳でした。
 1955年(昭和30年)竹次郎、文化勲章受賞。1969年(昭和44年)死去、享年92歳。
 1930年代から今日に至る松竹の主要作品をピックアップすると以下の通りになります。選択には私の好みも入っています。マダムと女房(国産初のト-キ-)、伊豆の踊子、愛染かつら、君の名は、二十四の瞳、人間の条件、秋津温泉、秋刀魚の味、白日夢、男はつらいよ、砂の器、蒲田行進曲、釣り馬鹿日誌、ゲゲゲの鬼太郎、おくり人、機関戦士ガンダム、武士の家計簿、京都太秦物語。

 参考文献  大谷竹次郎  時事通信社

(付)松竹の現在の、資本金は932億円、総資産1560億円、売上高932億円、従業員数1293人、です。 

経済人列伝、藤原銀次郎

2011-01-13 03:43:05 | Weblog
     藤原銀次郎

 藤原銀次郎は1969年(明治2年)、長野県上水内村安茂里村に生れました。生家は村で一番の長者といわれていました。村の小学校を卒業して漢学塾に通います。地方の名望家の子弟がたどる典型的なコ-スです。父親は分家させて村の中で生活させてやろうと、思っていましたが、銀次郎は上京して更なる学問の研鑽を望みます。医者になるのなら、許すと父親に言われ、医者になるつもりで上京します。同郷の先輩鈴木梅四郎に相談したら、医者になんかなってどうする、と誘導され、結局慶応義塾に入学します。銀次郎が17歳の時のことです。21歳時、慶応を卒業、この間ご他聞にもれず福沢諭吉の影響を受けます。松江日報という地方紙に勤務し、この新聞の経営を引き受けるはめになります。 
4年後松江日報を辞め、やはり鈴木梅四郎の推挙で三井銀行に入ります。ちょうど中上川彦次郎の活躍が始まった時でした。大津支店に1年、そして深川営業所所長に栄転します。ここでの仕事は深川に設立してある多くの倉庫への貸しつけでした。その多くが不良債権化していました。前任者がいい加減な貸付をしていたからです。明治20年代前半までの銀行の貸付なんか、極めていい加減なものでした。銀次郎は、貸付先の物件の換金可能性を三段階に分け、それにより貸付の条件を変えます。こうして債権の回収に成功します。同時に深川地区の状況を考えて、貯蓄部門を創設します。当時の銀行はこういう事も(現在なら当然の事も)していませんでした。月給は中上川の一存で40円から60円に上がります。
次に富岡製糸所に転勤になります。製糸所は政府から三井に払い下げられていました。もちろん赤字経営です。銀次郎はまず女工の給料を能率給に切り替えます。製糸所は士族の子女の授産救済のために設けられた伝統をひきずり、士族と平民では同じ女工でも給料が異なります。この身分制による格差を銀次郎は一気に撤廃します。「天は人の上に人を作らず、人の下に---」と言った福沢の弟子ならではの糊塗です。
富岡製糸所の経営が一段落して、彦次郎は三井物産上海支店の次席になりあます。ここで商業英語、貿易と為替の実務をみっちり勉強します。台湾砂糖調査委員になり、台湾に渡ります。日清戦争で新領土となった台湾の殖産の一環として、総督児玉源太郎は三井に、台湾砂糖の栽培と販売の可能性調査を依頼していました。彦次郎はじっくりと台湾を見て歩き、台湾統治の安定を条件として、更に総督府から営業資金の10%補助も引き出し、砂糖工場の経営に乗り出します。やがて三井物産台湾支店長になります。39歳ご褒美として欧米視察をさせてもらいます。
帰国、木材部長に転任し、経営不振に悩んでいた、北海道の木材買い入れの建て直しに努力します。彦次郎は徹底して現地を調査し、木材の検査員にも現地、つまり森林と木材を知悉する事要求します。それまでの検査員は木材供給者のいう事を真に受けめくら判を押していました。北海道開拓庁時代の旧習が残続しており、検査員と供給者の馴れ合いが酷かったのです。無知な検査員はどんどん解雇しました。冷徹な資本主義の合理性を経営に導入します。アイデアもいろいろ考えます。北海道の木材は建築用材としては柔らかくて不評判でした。厚い板にして販売します。楢(なら)は北海道の山林にたくさん育っていましたが、鉄道の枕木に使われるくらいで、無用物とされていました。楢はオ-クです。西洋では家具の材料として重宝されていました。銀次郎はこれに目を着けて売りさばきます。一番苦心したのは楢材の乾燥法です。西洋では雪の下に埋めて乾燥させることを知り、楢の転用に成功します。楢山は安価であったのでどしどし買い込みます。後に値上がりし、物産は楢山でも稼ぎます。
明治43年、新たに領土となった樺太の平岡長官から三井に、森林資源の調査、厳密には森林資源の収益可能性の調査を依頼されます。三井は銀次郎を送り込みます。銀次郎はパルプ工場設立を提案します。こうして将来王子製紙大泊工場となる設備が作られます。
明治44年、銀次郎42歳時、王子製紙の専務になります。以後30年間銀次郎はこの会社に勤め、後には君臨して、製糸王と言われるまでになります。王子製紙は明治初年、下野した渋沢栄一が三井、小野、島田から資本を出させて、作った会社です。始めは政府発行の紙幣の紙を作るためで、抄紙会社と命名されていました。この経営が上手くゆきません。密から優秀な人材が送られますが赤字経営は治りません。綱紀は弛緩する、金融のめどはつかず借金のみ膨れる状況でした。
王子製紙経営再建のためには、綱紀粛正、節約は当然です。職場で旅行中にも社員をどしどし質問攻めにして能力を計ります。三井銀行に60万円の借入れを願いますが、池田成彬に断られます。やむなく上部組織である三井合名の、従って三井家に属する諸家の保証で、三井銀行から同額の借り入れを行います。払う手形の決済は延長、支払う方は短縮して、現金を蓄積します。言葉の表面だけから見ると、ずいぶん勝手な注文です。王子製紙を潰すわけにはいかなかったのでしょ。また三井合名の保証という錦の御旗もあります。
当時王子製紙には、王子、苫小牧、中部、気田の四工場がありました。中部と気田の二工場を廃止し、資本設備を王子と苫小牧に集中させます。技術革新に取り組みます。多くの欧米人を雇い、最新の設備の運営を始動させます。一部の外国人技術者は帰国した時、王子製紙の顧問として契約し、技術の進歩発展の情報を詳細に伝えさせます。経営が建て直されたとき第一次世界大戦が勃発します。洋紙の輸入はとまり輸出が激増します。王子製紙は大躍進します。銀次郎の運も良かったという事です。三井合名の大泊工場を傘下に収めます。かって銀次郎が樺太を調査して、作るよう進言したパルプ工場です。この時点で王子製紙は三井から資金的にも独立します。三井銀行のみを機関銀行とするのではなく、他の銀行とも付き合います。かって王子製紙建て直しで苦労した時、三井銀行が取った冷淡な仕打ちを覚えており、銀行というものの実態を知っていたからです。
 王子製紙の基礎が定まり、会社が発展する機会を逃さず、新しい会社の設立と同業他社の買収を開始します。大蔵省の印刷抄紙部十条分工場の払い下げてもらい、朝鮮に朝鮮製紙を設立し、有恒社を買収し、そして樺太の野田に新工場を作ります。大川平三郎率いる樺太工業と覇を競い、樺太工業傘下の富士製紙の株を買収して、樺太工業を傘下に収めます。王子、富士、樺太の三大製紙会社を合併して、大王子製紙を作ります。銀次郎は製紙王と呼ばれます。資本金は大正3年に300万円から600万円に増加し、大正7年2500万円、大正9年5000万円と飛躍します。大正9年に社長に就任します。昭和11年(1936年)には資本金は3億円にならいます。
 銀次郎の王子製紙における活躍のあらましはここまでです。以後の彼の活動は政治と社会貢献に費やされます。昭和14年には藤原工業大学を創設します。この大学は後に慶應大学に寄付されて、慶応大学工学部になります。昭和15年米内光政内閣の商工大臣に就任します。石炭統制法の設置に努力し、8000万円の予算を勝ち取り、岸信介次官を驚嘆させます。しかし銀次郎は本来市場経済主義者でした。なにもかも統制という、当時の気風には反対します。例えば魚の販売統制が持ち上がります。彼は官吏や軍人を築地の魚市場に連れて行き、鯛一匹の値段には100円から2円までの幅があり、それも時点時点で変動する事を示し、統制の愚を教えます。高利貸撲滅論が唱えられます。銀次郎は、もし高利貸がいなくなれば、中小企業の金融は逼迫すると説いて、一見高尚な倫理に見える、この法案に反対します。質屋の国営論も出てきます。国でやれるものなら、やってみろ、と開き直り、この愚案を葬ります。
 商工大臣を辞任したあと、内閣顧問に迎えられます。戦時中鉄鋼生産に夕張石炭を使用して、鉄鋼生産を50万トン増加させます。それまではコ-クスには中国の石炭しか使えず、とされていました。夕張石炭の使用法に改革を加えます。飛行機生産における膨大なアルミニュウムの無駄を節約し、飛行機生産をほぼ倍にします。造船では経理面から調査し、無駄を省き、造船量をアップさせます。しばらくして軍需大臣に任命されます。これまで事跡から銀次郎の軍需相就任は適材適所でした。しかし戦局が思わしくなく、米軍機の爆撃で生産施設は甚大な被害を蒙り、加えて軍需相を最高機密会議から締め出すという、軍の無定見な保守性のため、大した活躍はできません。第一次大戦でイギリスはロイド・ジョ-ジを副首相格で起用し、第二次大戦のドイツでは軍需相シュペールがヒットラ-の懐刀として活躍しています。
 やがて敗戦、銀次郎は戦犯の疑いをかけられますが、容疑は晴れます。もっとも他の例を引けば彼が戦犯になっても不思議ではありません。戦犯という概念自体が矛盾していますから。昭和35年、92歳で死去します。

経済人列伝、木川田一隆

2011-01-08 03:19:17 | Weblog
   木川田一隆

 木川田一隆の日本経済への貢献は、現在の九電力体制の確立にあります。この事については既に松永安左衛門の項で少し解説しました。一隆は松永を助け、松永の秘書役のような形で九電力体制確立につくしました。そう言ってしまえばそれまでですが、一隆の努力にはそれなりの背景があります。なお彼は松永とアヴェックを組んだのですが、松永と一隆では、その生い立ちも性格も恐ろしく異なります。
 一隆は1899年(明治34年)に福島県伊達郡山舟入村(現福島県伊達市)に医師木川田一治の三男として生まれました。父一治は仙台藩伊達家の家臣で、維新後東京に出て医学を学び、明治18年に草深い山舟入村にやってきて医療を行っています。一治の医師としての態度は、秋霜のごとく厳しく、病人が出れば自分の体が悪くとも、雪を掻き分けても往診するような気風でした。父親の、仕事へのこのような態度は、一隆の将来に大きな影響を与えます。山舟入は「やまふにゅう」と読みます。阿武隈川の流域にあって、そこから出る木材で舟が作られ、川に入るのでこの名がつけられた由です。
 一隆の小学校での評価は、性質温順、気象快活、言語明瞭、と書かれており、腕白坊主などからは程遠い、平均的定型の人柄でした。中学校に入学しますが、運動を好み、成績はまずまずというところ、それほど目立った秀才ではありません。中学を卒業して、二度陸軍士官学校を受けます。二度とも落第します。陸士を受けたのは、多分家の負担を軽減するためでしょう。父親は医師ですのでそこそこの収入はありましたが、兄二人を東北大医学部、東京商科大学(現一橋大学)に進学させ、教育費の負担は相当なものでした。山形高校を卒業して、東京帝国大学経済学部に入学します。 
東大入学の前後、河合栄二郎を知り、大きな影響を受けます。河合は理想主義的そしてやや急進的なリベラリストで、イギリス労働党のような漸進的社会改革を支持し、労働者の待遇改善をはじめとして、多くの社会問題に関心を持っていました。後に東大経済学部教授になり、その自由主義思想ゆえに講壇を追われます。河合は一方で国家専制を排し、同時にマルクス主義の非人格的な思想にも極めて批判的でした。彼は気骨の激しい人で、多くの弟子がいます。戦後活躍した代表的な人物としては、蠟山政道、猪木正道、土屋清関嘉彦、塩尻公明などが挙げられます。
 河合の影響で一隆は労働問題に関心を持ちます。当時最も過酷な労働を強いられていたのは、鉱山労働者でした。労働問題、つまり労働者の待遇改善を志して、三菱鉱業を受けます。試験委員と論争し落とされます。そこで東京電燈に就職します。1926年(大正15年)、一隆27歳の時のことです。東京電燈では調査、企画、秘書課など徹底して内部の職場を歩きます。こうして電力事業を客観的にまた計数的に把握する態度を身につけます。
 東京電燈は経営危機を迎えていました。当時すなはち昭和初年の電力業界はまさに戦国時代でした。全国に700以上の電力事業者が乱立し、資本の規模によりサ-ヴィス内容が異なります。うち、東京、東邦、大同、宇治川、日本の五代電力会社が有力で過当競争を繰り広げていました。過当競争、料金の不均衡、電力需給のアンバランス、地域間の設備格差などの問題を抱え、消費構造は変化(電燈を灯すのみではなく、産業のエネルギ-としての電力へ)しています。こういう状況の中で、東京電燈は若生ショウ八のワンマン経営がたたり、名古屋の福沢桃介や九州の松永安左衛門達に圧倒されていました。結局若尾社長は退陣し、郷誠之助や小林一三が介入して、経営はなんとか安定します。時は軍国時代に入りつつあり、電気事業も国家の統制に入ります。国家は電力業界の乱立に介入し、先に述べた五大会社を中心にして、国営の日本発送電株式会社を作ります。その下に九つの配電会社をつなぎます。すべて国営です。一隆は、電力業界の乱立・過当競争と国家統制そして発電と送電の分離の弊害を身にしみて体験します。
 昭和20年、1945年の終戦を一隆は東京電燈の秘書課長の地位で迎えます。役員の多くは公職追放のため、彼は1年後には常務取締役に就きます。川造船の西山弥太郎、野村證券の奥村綱雄、あるいは日清紡績の桜田武、と同じコースです。常務になりますが、役員として大変な課題が待ち受けていました。労組との対決です。戦後マッカッサ-の後押しで、続々労組が結成されます。昭和22年には労組員の数は600万人を超えました。電力業界も例外ではなく、日本電気産業労働組合、通称、電産が結成されます。多くの組合には、戦後活動の場を与えられた共産党員がもぐりこんでいます。彼らは労働組合を、経済闘争の場としてではなく、もっぱら政治闘争の手段とみなしていました。つまり、労働者の待遇改善もさることながら、革命、その為には資本主義の牙城である企業の壊滅を計りました。一般の組合員は扇動され、企業の能力を超える要求を突きつけ、上司をつるし上げ、土下座させ、職場の秩序は失われます。
 一隆の立場は鮮明です。労組結成には賛同するが、政治闘争は容認できない、のが彼の基本的立場です。突き詰めて言えば、共産党が金科玉条とするマルクス主義の排撃です。この点では彼は徹底していました。河合栄二郎の薫陶があり、労働問題には積極的な関心があったからです。過激な思想に対決する時には、基礎的な知識と大幅な教養、そしてなによりもその問題に大きな関心を持ち、積極的に対処する態度が必要です。一隆は、河合の教えを介して、労組のあり方、社会主義の多様性、イギリス労働党内閣(マクドナルド)の苦心、マルクス主義の矛盾、などを知り尽くしていた、と言っていいでしょう。彼の行動は二面性を取ります。まず労組との根気のいい話し合いです。一方では過激派を一般労組員から切り離します。具体的にはより穏健な労組の結成です。こうして昭和24年に関東配電労働組合、という企業別組合が作られます。一隆の後輩である平岩外四は、一隆を評して、幅の広い理想主義者、coolな頭とwarmな心の持ち主、言っていますが、労働組合への対応も平岩の資料の中にはあったでしょう。会社を潰して君達はどうして食っていくのか、という、合理的判断の要求と一種の脅し、そして過激派の排除は、この時期荒れ狂った戦闘的労組との対決では、基本的な対応でした。革命ごっこの興奮が冷めれば、誰でも考えいたる道理です。
 もう一つの重大問題が、戦前に作られた国策会社である日本発送電KKをどうするかです。多くの試案があり紛議ありでもめにもめました。一隆は松永安左衛門の片腕、秘書役として活躍します。両者の基本的方針は、発電と送電の統一(同一の会社が発電と送電を扱う)と民営、そして地域独占です。戦前には発電を日本発電KKが国営として独占し、九つの配電会社に電気が送られていました。繰り返しますが紛議紛議でもめにもめました。松永はマッカサ-に直訴し談判し、直接交渉を繰り返します。そして昭和25年(1950年)、マッカッサ-の吉田首相への書簡、いわゆるポツダム政令で、九電力会社への再編成が決まりました。北海道電力、東北電力、東京電力、北陸電力、中部電力、関西電力、中国電力、四国電力、九州電力の九電力会社です。この体制では例えば関西電力は近畿地方の発電と送電を統一して行い、こと送電に関してはその地域の関西電力に任されます。東京電力も中部電力も同様です。関西電力が新たな電力を必要とすれば、北陸電力から買うか、自力でどこかに発電所を造ればいいことになります。始め松永は、東西の二電力会社に分割するつもりでした。九電力会社案を説いたのは一隆です。慎重で緻密な一隆と蛮勇を奮う松永のコンビの勝利です。電力再編成には労組問題も絡んでいます。日本電気産業労組はあくまで国営一社を主張しました。民営でかつ分割されると、労組の団結力がそがれ弱まると主張します。一隆はその辺の事を読みぬいており、あくまで九電力地域独占を主張しました。北海道と東京大阪では電力事情は全く異なります。地域のサ-ヴィスを重視すれば、一隆の案通りになります。もちろん九電力体制は労組の力を削ぐためでもあります。対照が国鉄で、国営一社になりました。強力な労組、生産性の低下、地域への配慮の薄さ、そして決定的な事は大赤字です。国鉄は1970年代に、民営化されやはり地域ごとに分割されました。
 昭和26年一隆は東京電力の取締役、27年常務になります。昭和36年(1961年)松永安左衛門の推しで東京電力社長に就任し、10年後の46年同会長になります。この間経済同友会幹事、更に代表幹事を務めています。一隆は幅の広いリベラリストとして、企業の社会的責任を強調しました。その点では彼には電力会社は向いていたと言えます。自動車産業や証券会社の場合、社会的責任といってもそれはかなりな程度形式的です。しかし電力事業になると社会的責任は実質性を帯びて来ます。電気は産業と市民生活に直結する基礎的エネルギ-です。石油やガスとは比べ物になりません。仮に停電が1日あるいは3日続いたとしましょう。病院の救急医療体制、通信報道機関、治安当局、消防、金融機関のオンラインシステムは大打撃を受け、社会は大混乱に陥ります。電気冷蔵庫の中の食料は1日で腐りますから、食糧不足も招来します。反対に市役所の業務が1日止まっても市民生活には大きな支障はきたしません。交通機関の24時間ストでも通勤者は苦痛ですが、なんとかしのげます。警察消防の機能停止が1日続くと大変は大変ですが、市民が心がけて1日くらいなら自衛手段を講じえます。電気が一日ストップするのと大違いです。民営、地域分割、そして一社独占はそのための方策でした。送配電を統一する方が、効率はよくなります。地域へのサ-ヴィス向上のためには、中央でも一元的統括は不適です。また一地域を一社に独占させて、小資本による劣化をサ-ヴィスを防ぎます。
 一隆は、電気料金は、電力会社と地域住民の利害の一致を基本とする、という考えの持ち主でした。昭和34年(1959年)に電気料金が改訂されます。経済成長に伴い、電力需要は急伸します。発電所を造らねばなりません。膨大な資本が必要です。そのための借金の利払いで電力会社の経営は悪化しました。この年電気料金が13・7%値上げされました。以後昭和49年の石油ショックまで、電力供給は4・5倍になっても、値上げはされていません。この間コ-ヒ-一杯の値段は7倍にはなっていたはずです。電力会社は電力供給を要求されると、配電する義務があります。目下品切れ、と言うわけにはゆきません。その代わり配電にかかる費用は受益者負担が原則です。こういう事情ですから電気料金の価格は供給者と需要者の協議が原則になります。
 一隆は火力発電所による公害にも深い関心を寄せています。東京湾に林立する火力発電所の燃料を、経営と言う立場から反対意見の多い中、あえて高価なLNG(液化天然ガス)に切り替えさせたのは彼でした。
 一隆は社員の研修と能力検定のシステム作りを推進し、専門職の輩出に意を注ぎました。東京学園という学校を作りました。彼は、彼の子供時代、彼よりも優秀な同級生が貧困のために、進学できなかった事をよく覚えていました。配下の社員で同様な体験の持ち主には、向上の機会を与えます。なお能力開発と専門職の育成は、単に一個人一企業の問題に留まりません。それは社会の生産性を促進し、また社会を安定させます。教育の向上はすなわち、中産階級の増加です。一隆がその最も良き例です。
 一隆は政治献金を廃止し(電力業界の)、官僚の天下りを拒否しました。勲章は辞退、アンチゴルフの釣り好きで、三木武夫を例外として、政治家との親密な関係は避けました。
 1977年(昭和52年)脊椎腫瘍のため死去、享年77歳でした。彼の生涯を見ますと、着実な進歩が伺えます。小中学生の頃は神童秀才には程遠く、どこにでもいる普通の生徒でした。陸士に二度落第し、山形高校へ。この頃から英才の芽が出てきます。東京帝大の経済学部へ進学します。生真面目に試験委員とディベイトして三菱鉱業に落ちます。だいたい労働問題に関心を寄せること自体が非秀才的行為です。東京電燈では内勤専門で、電力のことをこつこつ勉強します。内勤のみというのは、幹部候補生として将来を期待されたからなのでしょうか。そうとも取れますが、終戦時の肩書きは秘書課長でした。戦後の公職追放でできた間隙を埋める形ですぐ常務取締役になります。ここから一隆の活躍が始まります。民営と地域独占でもって、電力業界を再編成し、それを公共団体や国家に監視させます。これはある意味で、私と公の妥協でもあります。民営私有を強調しすぎることなく、公共の福祉を考慮して、企業に社会的責任を求めます。いかにも河合栄二郎の弟子らしい、対策です。木川田一隆を社会民主主義者とは呼べません。彼はあくまでリベラリストですが、そこにはいささかの社会民主主義への傾倒もあります。電力という公共性の高い業種は、彼に最も相応しい仕事であったかも知れません。そして彼は自分に与えられた地位と職務に沿う形で、自己の能力を発揮し、高め、成長してゆきました。まことに地位と能力が相応した人物です。

 参考文献  木川田一隆の魅力  同文館

経済人列伝。中部謙吉

2011-01-03 03:37:53 | Weblog
     中部謙吉

 中部謙吉は日本水産業界のトップ、大洋漁業(マルハ)の三代目社長です。謙吉を語る時、父親幾次郎と兄兼市を除外することはできません。マルハ、大洋漁業は幾次郎と兼市・謙吉の兄弟、計三人のトリオで形成され大をなしました。正直創業者である幾次郎の貢献は大きいものです。兄弟二人は父親の事業を継承し発展させます。父親の起業者としての大胆さと切れ味の良さを多分に持っているのは、弟の謙吉の方でしょう。中部家の祖先は兵庫県明石の近傍の林村で漁師をしていました。幾次郎の4代前に明石に移住して、魚商を営みます。近海で獲れた魚を明石へ運び、そこから大市場である大阪へ運搬します。明石では屋号を林屋といい代々の当主が兼松を襲名する事が多かったので、通称を「林兼」と言います。
 幾次郎という人は、極めて積極的で大胆で、斬新なアイデアに富む、優れた起業家でした。まだ手漕ぎの舟で漁をしていた時代、幾次郎は独得の天気予報で同業者に信頼されていました。それも単なる勘でなく、例えば雨が降ればそれを桶で受け止め、現在風に言えば、雨量を測定するなど、実証に基づく予報でした。明石から大阪の市場まで鮮魚を運ばなければなりません。難関は明石海峡です。大阪湾が満潮になれば水は西に流れます。このとき手漕ぎの舟では潮は乗り切れません。しかし海流をよく観察していると、必ず細い反流があります。幾次郎はこの潮目を把握していて、同僚より早く有利に魚を運びました。林兼は四国から北九州方面に進出して、鮮魚を買い付けるようになります。同業他社の中では群を抜きつつありました。こういう父親の次男として謙吉は1893年(明治26年)に明石に出生します。
 幾次郎は魚運搬船にエンジンを取り付けることを考えます。大阪市内の川を運行する船のエンジンを候補にします。それが明治37年に完成します。12t、8馬力、6ノット、幅3m、長さ14m、新生丸と名づけられます。これで明石海峡の満潮も克服できます。新生丸は日本で最初のエンジン付き漁船でした。林兼は明治40年には朝鮮海岸に進出し、そこを主な漁場とします。1910年(明治43年)謙吉は高等小学校を15歳で卒業します。父親は上級の学校への進学を許しましたが、謙吉自身の希望で林兼の下関支店に勤務します。大正2年、本店は明石から下関に移ります。多くの逸話があります。ハモが朝鮮沿岸で大漁しました。下関に運ぶ途中、台風に会います。沈没は免れましたが、ハモのほとんどは水槽から海中に逃げ出します。多くの乗組員は下関に回航して船の修理を進めますが、まだ20歳に足らない謙吉は朝鮮沿岸に引き返すことを決断します。大漁でした。そして台風のため品薄になった大阪の市場にハモを運び、大儲けします。また鯖漁の漁船に対して、一匹一匹鯖を数えて買うのではなく、大体の見当で船ごと買う方式を提案します。船頭の言う数に妥協して買うのですが、鮮度は保証され、結果はこれも大儲けでした。この辺のことになると、仕事や成果は幾次郎のものか、謙吉のものか解りません。ごっちゃになりますが、親子共同の作業として読んでください。板底一枚地獄と言われる大海で仕事をする漁船のこと、他の業種に比べると逸話は多いのです。
 朝鮮沿岸で大漁となり、本土に引き返す直前、朝鮮ではコレラが大流行しました。挑戦で獲れた魚の本土搬入は禁止されます。林兼の乗組員にも患者が出ます。林兼のみ朝鮮沿岸に踏みとどまりました。幾次郎は徹底的な予防対策をほどこします。手足の洗浄は各個人の責任になります。命が大事ならしっかり洗え、ということです。飯はおひつに移さず、釜から直接盛ります。副食は梅干だけです。どんなことがあっても手を口元にはもって行かないよう、厳命されます。こうしてコレラを乗り切り、競争相手のいない海で存分に魚を取り、品不足の本土に持ち帰ります。災い転じて福となります。林兼という企業にはこの種の逆転劇が多いのです。
 林兼は機械船で巾着網漁法を考案しました。巾着とは財布のことです。二隻の和船が網の両端を取り、絞りながら、網の中に魚を追い込みます。これを機械船つまりエンジン・スクリュウ付きの舟でします。機械船は和船に比べて早いので巾着網漁法できないと、思われていました。そこで網の降ろし方を研究し、何度も実験し訓練して、ついに片手回しテ-ブル式漁法なるものを考案します。そうなると速度に優り大きい機械船はより大量の魚を捕獲できます。
 林兼は定置網漁法にも進出します。既に朝鮮沿岸のめぼしい漁場には定置網が張られていました。林兼は不利な漁場に進出します。しかし沿岸に近い定置網周辺は汚れやすく、魚は移動します。少し時間を待っていれば林兼の網にも魚が寄ってくるのです。さらにこの定置網を利用して夏鰤を飼育し油の乗った寒鰤にして市場に出します。
 林兼すなはち幾次郎親子は何事にも新しい考案をほどこします。漁法だけではありません。経営も積極的に拡大します。商事部門を作り、傘下の(林兼に魚を売ってくれる)漁師に漁労用資材や食料・酒・タバコを安く売ります。さらに漁師に漁具や資金を前貸しします。前貸しは単に漁師へのサ-ヴィスとは思えません。漁師や漁船を借金漬けにしてその行動を縛ることもできます。また商事部は石油の取引にも乗り出します。始めは自社船用の石油確保が目的で各地に重油タンクを作っていましたが、次第に石油の取引にも進出するようになります。大正末年の時点で林兼は以下のような部門を擁していました。
鮮魚部(魚の運搬)、漁業部、水産物冷蔵庫部、冷凍・干乾物部、練製品部、製材製罐部、船具魚網部、石油販売部、缶詰工場、精米精塩部、肥料部、農事部、です。これらの部局から子会社が派生してゆき、林兼は次第に水産物コンツエルンになってゆきます。農事部とは朝鮮沿岸で作業する従業員の食糧確保のための部局です。林兼は2000町の未開墾地を購入し水田を造りました。この時点で保有する船舶は、漁運搬船60隻、3600t、漁船180隻、7000t以上、です。この間大正13年、林兼商店は株式会社になり、持株会社である林兼商店KK、と林兼漁業KK、林兼冷蔵KKの三つに分かれます。
 昭和に入って林兼は北洋漁場にも進出を企てます。蟹工船とサケマス漁が狙いです。経営は順調に行きましたが、当時の風潮である国策としての企業合併に抗しきれず、北洋漁業の先輩である、日魯漁業の膝下に屈し、単独営業を諦めます。北洋漁業の利権を売却して得た130万円のうちの50万円を使って南氷洋捕鯨に進出します。これは謙吉の担当でした。林兼は政治との接触を嫌いましたが、統制経済の中では、政府との接触は欠かせません。謙吉は常務として東京在住になります。最初の捕鯨船団は2万トン級の母船1隻、捕鯨船8隻からなります。総工費は750万円でした。川造船が積極的に造船を引き受けます。林兼の経営は信用を得ていたので、融資はスム-スに行きました。捕鯨船のエンジンをディ-ゼルにするかスティ-ムで行くかの問題が出てきます。後者なら速度とスクリュ-の回転を容易に調節でき、その分鯨を追跡しやすくなります。ディ-ゼルだと消費する重油の量はスティ-ムの1/3ですみます。林兼はディ-ゼル方式を採用し、シリンダ-の中に圧縮空気を逆噴射して入れることで、スクリュウ-回転の急停止を可能にします。こうして昭和11年母船日新丸以下の捕鯨船団が南氷洋に派遣されます。途中船団長の急死という不慮の事件がありましたが、捕鯨船団は1116頭の鯨を捕殺し、15280トンの鯨油と187トンの鯨肉を持ち帰ります。大成功でした。林兼は同規模の船団をもう一つ作ります。この船団は出航する前後に、母船が陸軍の上陸作戦で上陸用舟艇運搬に徴用され、30日以上遅れたために十分な成果が得られませんでした。
 戦争になります。二隻の母船はタンカ-として徴用され、米軍の爆撃で撃沈されます。他に多くの舟が徴用され、多くの設備が供出されました。そして敗戦、戦時補償は打ち切られ、林兼の本拠地であった朝鮮の施設はすべて失います。
 昭和20年幾次郎が死去します。長男兼市が社長に就任し、次男の謙吉は副社長になります。戦後すぐ林兼は立ち上がります。何もありませんが、培った技術と信用はあります。トロ-ル船、マグロ船など総計216隻を建造します。この点では占領軍の協力を得られました。当時は深刻な食糧不足でした。魚を取れば売れます。また戦後の虚脱状態の中でも工業資本はかなり残っていました。ただ戦争被害と戦後の混乱の中で、これらの資本は遊んでいたのです。だから林兼に資本がなくても、船団を作ることは可能であったのです。林兼は急いでいたので造船会社に分散発注します。また林兼は戦争中の統制経済に極力反対し、供出した資本のかなりの部分を売却ではなく貸与という形にしていました。敗戦で国家統制が解体すると、他の会社、日魯漁業や日本水産と違い、貸した物を返してもらえばよかったのです。この点で林兼は有利でした。
 小笠原捕鯨も再開します。南氷捕鯨への助走です。余っていた無用の長物である軍艦を旧海軍省にかけあい、貸してもらい、捕鯨船や母船に改造します。母船は2000tでした。昭和21年、南氷洋捕鯨が再開されます。潜水艦を捕鯨船に改造し、タンカ-を母船に転用します。戦争中は逆に母船をタンカ-として海軍に貸していました。この時代肉は極めて貴重品でした。餓死者が1000万人は出ると予想された当時(実際はほぼゼロ)鯨肉は重要な栄養源でした。私も給食で食べた記憶があります。本来鯨肉は美味なのですが、一度冷凍したものを解凍する際にでるある種の脂肪酸のために臭みがあり、あまり美味しいものではありませんでした。しかし南氷洋からもたらされる、鯨油と鯨肉は戦後の国民の重要な栄養源になりました。だから獲れば売れるのです。
 ここまでは林兼と占領軍は友好関係にありました。昭和22年、林兼の役員の大部分が追放になります。理由は多くの傘下子会社を抱え、小規模ながら財閥の体をなしていた事と、日魯、日水と並んで業界ではBIG3の一つ、つまり寡占状態をなしていたからです。占領軍も狡猾です。戦後の混乱期には旧経営陣を利用し、一応混乱が収まると彼らを追放します。理由はなんとでもつきます。林兼は国家統制に反対し自由主義経済を主張しましたが、戦時中のことですから、なんらかの形で戦争遂行に協力はさせられます。3年間徹底した追放解除への嘆願が繰り返されます。昭和25年、兼市、謙吉を含む全役員は追放解除になります。昭和28年(1953年)兼市が死去し、謙吉が社長に就任します。
 昭和27年サンフランシスコ講和条約締結、しばらくしてソ連とも国交が回復されます。北洋漁業が再開されます。今度は国家統制がないので、大洋漁業もオホ-ツク海に進出し好成績を挙げます。とかくソ連がうるさく、沿岸では漁業しにくいので遠洋の流し網でサケマスを獲ります。流し網漁法は大洋漁業の独壇場でした。昭和30年代春4月ともなると、ソ連との漁業交渉が難航し、北海道で交渉妥結を待つ漁船団の姿が新聞に載りました。春の風物詩でした。南氷洋の捕鯨そして北洋でのサケマス漁業の双方で活躍するこの時期、昭和25年から40年は大洋漁業の絶頂期でした。以後は経済水域の設定で遠洋漁業が制限され、規模を縮小します。2006年に宿敵日魯漁業と合併し、マルハ・ニチロ水産になっています。合併当時の資本金は150億円、売上高は2735億円、総資産は1638億円となっています。
 社名について述べますと、本来は林兼商店KKです。昭和11年の南氷洋捕鯨船団結成に際し、捕鯨部門を独立させて、大洋捕鯨KKを作ります。昭和20年敗戦を期に、全漁業部門を大洋漁業KKに統括させます。戦後は大洋漁業あるいはマルハのマ-クでおなじみです。なおこの間昭和24年本社を下関から東京に移転させています。昭和35年現在で大洋漁業の資本金は100億円、日本最大の水産コンツエルンです。
 中部謙吉、1977年(昭和52年)死去、明石名誉市民。謙吉の生涯を振り返ると父親幾次郎の偉大さがいやでも応でも解らされます。ですから謙吉の生涯は父と兄とのトリオでしか語れません。謙吉は兄より父親に似た経営法をとったようです。果敢で大胆なところは父親そっくりです。謙吉が父親から離れて仕事をするのは、国家統制が強化される昭和10年前後、東京に赴任して、東京駐在マルハ大使として、官憲と交渉し、その延長上に南氷洋捕鯨の事実上の総責任者になってかからです。そして昭和28年社長に就任し、南氷洋と北洋の両面で活躍し、さらに諸所に遠洋漁業をを展開し、自ら曰く、世界の中部なる時期が彼の絶頂期でしょう。この絶頂期に大洋漁業は「大洋ホエ-ルズ」という球団を作っています。昭和35年(だったと思います)この球団は、三原脩監督に率いられて日本シリ-ズで優勝し全国制覇をしています。当時私は大学生でしたが、中部社長と三原監督が握手する姿を新聞でみました。
 大洋漁業は幾次郎、兼市、謙吉の親子兄弟の固い団結の下に発展しました。この事情を反映し大洋漁業KKは徹底した同族経営です。昭和32年現在、総株式の 68%を中部一族が握っています。

  参考文献 中部謙吉 時事通信社