(T・ホッブズ)
経済学は18世紀のイギリスで誕生すします。物理学はニュ-トン、経済学はアダム・スミスに始まるとするのが、教科書の一応の常識です。スミスに話が及ぶ前にその前史とも言うべき三人の哲学者ホッブス・ロック・ヒュ-ムの経済学への貢献について考えてみましょう。ホッブスの思想は簡単に言いますと、強力な統一力か無限の内乱か、人民はそのどちらかを選ばねばならない、となります。ホッブスが生きた時代はイギリス革命の真最中でした。革命そして内乱が続きます。
話しは100年前に遡ります。時のイギリス国王ヘンリ-8世は、イギリスの教会をロ-マ法王の支配から切り離してしまいます。これをイギリスの宗教改革といいます。国王が宗教改革に踏み切った理由の一つは財政問題です。国王は修道院領を没収します。もう一つの理由が彼の離婚問題でした。ルタ-やカルヴァンに比べ至って世俗的な理由ですが、こうしてイギリスの教会はロ-マ法王庁という桎梏から解放されました。一度信仰の自由に目覚めると後戻りはできません。ロ-マカトリックに代わり、イギリスの国教となったのは英国聖公会ですが、その教義は限りなくカトリックに近いと言われています。つまりイギリスは人民の信仰心を束ねる綱を失います。そうなりますといかなる信仰が良いのか、各自の判断に任される領域が増大します。こうしてイギリスの信仰に関する意見は百花繚乱の観を呈してゆきます。信仰従って道徳に関してイギリスは一時的にも無政府状態に陥ったわけです。
信仰の自由は当然世俗世界での自由そして平等に繋がります。イギリス国民は政治的自由そして幸福を求めて意見を主張します。16世紀後半イギリスに君臨したエリザベス1世はこの不安定な状況を良く理解して、慎重に狡猾に対処しました。一番賢明な事は予算の無駄遣いをしない事です。彼女には子供が無く、王位は遠縁にあたるスコットランド王に渡ります。ジェ-ムス1世です。彼と彼の子チャ-ルス1世は王権を拡張しようとして増税します。これがきっかけでした。多くの人民(ここには貴族も入ります)は増税に反対しました。こうしてイギリスは内乱に巻き込まれてゆきます。政治的次元では王党派、共和派、民主派、経済的には大貴族と郷紳階層(ジェントリ-)、都市ブルジョア、自作農(ヨ-マン層)、さらに貧困層、宗教的次元では国教徒、非国教徒、カトリック、非国教徒も独立派、長老派、水平派などなどあります。これらの要因が重なり国民間の意見の違いが大きくなり、いたるところで対立が出現しました。1627年から1689年までのイギリスの内乱・革命の要因を摘出する事はなかなか困難らしいのですが、以上に述べたような事情ですから、国論に統一はありません。こうして戦争になりました。
権利の誓願からチャ-ルス一世の処刑、クロムウェルの軍事独裁、王政復古そして国王ジェム-ス2世の追放(名誉革命)と事件は続きます。
ト-マス・ホッブズは1588年に生まれました。スペインの無敵艦隊がイギリスに敗北した年です。89歳まで生き、この歳近くになって大著「レヴァイアサン」を著します。彼は国家や権力を倫理とか神の賜物の観点からではなく、あくまで現実の力・機能として捉えようとします。人は人に対して狼でしかあり得ない、敵対しあう自己中心的な個人が無限の闘争状態から脱出するには、有無を言わせぬ強力な力による統一を承認しなければならない。一度承認してしまえば、人民にはこの統一力・抑圧力を再び改変する資格は無い、とホッブスは言います。彼は人民の革命権を否定しましたが、権力を世俗的見地そのものから導出しました。近代政治学の始祖とされる由縁です。彼の考え方は極めて唯物論的で無神論的です。ホッブズは政治行為を人間の心理から基礎付けようとします。そしてその当時としては極めて斬新な考えですが、人間心理を生理学あるいは生物学でもって説明しようとします。ホッブズを遡る100年前、ヴェッサリウスが西欧で初めて体系的な人体解剖に基づく知見を集成して新しい解剖学を創始します。医学は進歩し始めます。ホッブズもロックもこの医学の知識の影響を大いに受けています。
ホッブズは人間を唯物論的に考え、無神論に近い考えを導入したので王党派や国教会からはにらまれました。また権力の抑圧性を肯定したので革命派からも危険視されます。彼は亡命し、帰国した後はある大貴族の食客として一生を終えました。
革命と内乱の17世紀イギリスに生きたホッブズには個々人の合意により国家が維持できるとは考えられませんでした。しかし何らかの形で合意は要ると考え、それを一回きりの契約に委ねました。
権力が世俗視されれば経済もその観点から見ることができます。権力を世俗的次元の行為とみなせば、権力は利害関係の対立妥協調整の過程であり、結果です。経済はこの観点から考察する事ができます。より精密な考察は次のロックを待たねばなりませんが、ホッブズの世俗国家論がなければ、ロックの考えも以後の経済学も誕生しなかったでしょう。
経済学は18世紀のイギリスで誕生すします。物理学はニュ-トン、経済学はアダム・スミスに始まるとするのが、教科書の一応の常識です。スミスに話が及ぶ前にその前史とも言うべき三人の哲学者ホッブス・ロック・ヒュ-ムの経済学への貢献について考えてみましょう。ホッブスの思想は簡単に言いますと、強力な統一力か無限の内乱か、人民はそのどちらかを選ばねばならない、となります。ホッブスが生きた時代はイギリス革命の真最中でした。革命そして内乱が続きます。
話しは100年前に遡ります。時のイギリス国王ヘンリ-8世は、イギリスの教会をロ-マ法王の支配から切り離してしまいます。これをイギリスの宗教改革といいます。国王が宗教改革に踏み切った理由の一つは財政問題です。国王は修道院領を没収します。もう一つの理由が彼の離婚問題でした。ルタ-やカルヴァンに比べ至って世俗的な理由ですが、こうしてイギリスの教会はロ-マ法王庁という桎梏から解放されました。一度信仰の自由に目覚めると後戻りはできません。ロ-マカトリックに代わり、イギリスの国教となったのは英国聖公会ですが、その教義は限りなくカトリックに近いと言われています。つまりイギリスは人民の信仰心を束ねる綱を失います。そうなりますといかなる信仰が良いのか、各自の判断に任される領域が増大します。こうしてイギリスの信仰に関する意見は百花繚乱の観を呈してゆきます。信仰従って道徳に関してイギリスは一時的にも無政府状態に陥ったわけです。
信仰の自由は当然世俗世界での自由そして平等に繋がります。イギリス国民は政治的自由そして幸福を求めて意見を主張します。16世紀後半イギリスに君臨したエリザベス1世はこの不安定な状況を良く理解して、慎重に狡猾に対処しました。一番賢明な事は予算の無駄遣いをしない事です。彼女には子供が無く、王位は遠縁にあたるスコットランド王に渡ります。ジェ-ムス1世です。彼と彼の子チャ-ルス1世は王権を拡張しようとして増税します。これがきっかけでした。多くの人民(ここには貴族も入ります)は増税に反対しました。こうしてイギリスは内乱に巻き込まれてゆきます。政治的次元では王党派、共和派、民主派、経済的には大貴族と郷紳階層(ジェントリ-)、都市ブルジョア、自作農(ヨ-マン層)、さらに貧困層、宗教的次元では国教徒、非国教徒、カトリック、非国教徒も独立派、長老派、水平派などなどあります。これらの要因が重なり国民間の意見の違いが大きくなり、いたるところで対立が出現しました。1627年から1689年までのイギリスの内乱・革命の要因を摘出する事はなかなか困難らしいのですが、以上に述べたような事情ですから、国論に統一はありません。こうして戦争になりました。
権利の誓願からチャ-ルス一世の処刑、クロムウェルの軍事独裁、王政復古そして国王ジェム-ス2世の追放(名誉革命)と事件は続きます。
ト-マス・ホッブズは1588年に生まれました。スペインの無敵艦隊がイギリスに敗北した年です。89歳まで生き、この歳近くになって大著「レヴァイアサン」を著します。彼は国家や権力を倫理とか神の賜物の観点からではなく、あくまで現実の力・機能として捉えようとします。人は人に対して狼でしかあり得ない、敵対しあう自己中心的な個人が無限の闘争状態から脱出するには、有無を言わせぬ強力な力による統一を承認しなければならない。一度承認してしまえば、人民にはこの統一力・抑圧力を再び改変する資格は無い、とホッブスは言います。彼は人民の革命権を否定しましたが、権力を世俗的見地そのものから導出しました。近代政治学の始祖とされる由縁です。彼の考え方は極めて唯物論的で無神論的です。ホッブズは政治行為を人間の心理から基礎付けようとします。そしてその当時としては極めて斬新な考えですが、人間心理を生理学あるいは生物学でもって説明しようとします。ホッブズを遡る100年前、ヴェッサリウスが西欧で初めて体系的な人体解剖に基づく知見を集成して新しい解剖学を創始します。医学は進歩し始めます。ホッブズもロックもこの医学の知識の影響を大いに受けています。
ホッブズは人間を唯物論的に考え、無神論に近い考えを導入したので王党派や国教会からはにらまれました。また権力の抑圧性を肯定したので革命派からも危険視されます。彼は亡命し、帰国した後はある大貴族の食客として一生を終えました。
革命と内乱の17世紀イギリスに生きたホッブズには個々人の合意により国家が維持できるとは考えられませんでした。しかし何らかの形で合意は要ると考え、それを一回きりの契約に委ねました。
権力が世俗視されれば経済もその観点から見ることができます。権力を世俗的次元の行為とみなせば、権力は利害関係の対立妥協調整の過程であり、結果です。経済はこの観点から考察する事ができます。より精密な考察は次のロックを待たねばなりませんが、ホッブズの世俗国家論がなければ、ロックの考えも以後の経済学も誕生しなかったでしょう。