経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済学の夜明け(1)

2009-08-30 23:58:28 | Weblog
   (T・ホッブズ)

 経済学は18世紀のイギリスで誕生すします。物理学はニュ-トン、経済学はアダム・スミスに始まるとするのが、教科書の一応の常識です。スミスに話が及ぶ前にその前史とも言うべき三人の哲学者ホッブス・ロック・ヒュ-ムの経済学への貢献について考えてみましょう。ホッブスの思想は簡単に言いますと、強力な統一力か無限の内乱か、人民はそのどちらかを選ばねばならない、となります。ホッブスが生きた時代はイギリス革命の真最中でした。革命そして内乱が続きます。

 話しは100年前に遡ります。時のイギリス国王ヘンリ-8世は、イギリスの教会をロ-マ法王の支配から切り離してしまいます。これをイギリスの宗教改革といいます。国王が宗教改革に踏み切った理由の一つは財政問題です。国王は修道院領を没収します。もう一つの理由が彼の離婚問題でした。ルタ-やカルヴァンに比べ至って世俗的な理由ですが、こうしてイギリスの教会はロ-マ法王庁という桎梏から解放されました。一度信仰の自由に目覚めると後戻りはできません。ロ-マカトリックに代わり、イギリスの国教となったのは英国聖公会ですが、その教義は限りなくカトリックに近いと言われています。つまりイギリスは人民の信仰心を束ねる綱を失います。そうなりますといかなる信仰が良いのか、各自の判断に任される領域が増大します。こうしてイギリスの信仰に関する意見は百花繚乱の観を呈してゆきます。信仰従って道徳に関してイギリスは一時的にも無政府状態に陥ったわけです。

 信仰の自由は当然世俗世界での自由そして平等に繋がります。イギリス国民は政治的自由そして幸福を求めて意見を主張します。16世紀後半イギリスに君臨したエリザベス1世はこの不安定な状況を良く理解して、慎重に狡猾に対処しました。一番賢明な事は予算の無駄遣いをしない事です。彼女には子供が無く、王位は遠縁にあたるスコットランド王に渡ります。ジェ-ムス1世です。彼と彼の子チャ-ルス1世は王権を拡張しようとして増税します。これがきっかけでした。多くの人民(ここには貴族も入ります)は増税に反対しました。こうしてイギリスは内乱に巻き込まれてゆきます。政治的次元では王党派、共和派、民主派、経済的には大貴族と郷紳階層(ジェントリ-)、都市ブルジョア、自作農(ヨ-マン層)、さらに貧困層、宗教的次元では国教徒、非国教徒、カトリック、非国教徒も独立派、長老派、水平派などなどあります。これらの要因が重なり国民間の意見の違いが大きくなり、いたるところで対立が出現しました。1627年から1689年までのイギリスの内乱・革命の要因を摘出する事はなかなか困難らしいのですが、以上に述べたような事情ですから、国論に統一はありません。こうして戦争になりました。
権利の誓願からチャ-ルス一世の処刑、クロムウェルの軍事独裁、王政復古そして国王ジェム-ス2世の追放(名誉革命)と事件は続きます。

 ト-マス・ホッブズは1588年に生まれました。スペインの無敵艦隊がイギリスに敗北した年です。89歳まで生き、この歳近くになって大著「レヴァイアサン」を著します。彼は国家や権力を倫理とか神の賜物の観点からではなく、あくまで現実の力・機能として捉えようとします。人は人に対して狼でしかあり得ない、敵対しあう自己中心的な個人が無限の闘争状態から脱出するには、有無を言わせぬ強力な力による統一を承認しなければならない。一度承認してしまえば、人民にはこの統一力・抑圧力を再び改変する資格は無い、とホッブスは言います。彼は人民の革命権を否定しましたが、権力を世俗的見地そのものから導出しました。近代政治学の始祖とされる由縁です。彼の考え方は極めて唯物論的で無神論的です。ホッブズは政治行為を人間の心理から基礎付けようとします。そしてその当時としては極めて斬新な考えですが、人間心理を生理学あるいは生物学でもって説明しようとします。ホッブズを遡る100年前、ヴェッサリウスが西欧で初めて体系的な人体解剖に基づく知見を集成して新しい解剖学を創始します。医学は進歩し始めます。ホッブズもロックもこの医学の知識の影響を大いに受けています。

 ホッブズは人間を唯物論的に考え、無神論に近い考えを導入したので王党派や国教会からはにらまれました。また権力の抑圧性を肯定したので革命派からも危険視されます。彼は亡命し、帰国した後はある大貴族の食客として一生を終えました。
革命と内乱の17世紀イギリスに生きたホッブズには個々人の合意により国家が維持できるとは考えられませんでした。しかし何らかの形で合意は要ると考え、それを一回きりの契約に委ねました。

 権力が世俗視されれば経済もその観点から見ることができます。権力を世俗的次元の行為とみなせば、権力は利害関係の対立妥協調整の過程であり、結果です。経済はこの観点から考察する事ができます。より精密な考察は次のロックを待たねばなりませんが、ホッブズの世俗国家論がなければ、ロックの考えも以後の経済学も誕生しなかったでしょう。

民主党に問う

2009-08-27 00:33:42 | Weblog
    民主党に問う

 8月30日は総選挙です。私は兵庫8区(?)尼崎市に住んでいるので、現役の公明党候補と民主党の落下傘候補の間で熾烈な戦いが行われています。ところでなんで民主党がこんなに人気があるのでしょうか?正直解りません。民主党に人気があり、反比例して自民党は不人気です。なら自民党に何らかの失政があったのでしょうか?安部・福田・麻生三代の内閣に特に目立った失政はありません。失言はありますが。昨年9月のリ-マンショックで日本は不景気になりました。しかし現在、先行き油断はならないとしても、数字の上では景気は盛り返しています。これは昨秋以来の麻生内閣の努力の結果ではないのでしょうか?
 世界の他の国と比較すると日本の経済上のポジションは最良です。サブプライムロ-ン事件やリ-マンショックを一番軽くこなしたのは日本です。昨年9月ショック到来と同時に、麻生首相は1000億ドル(10兆円)をぽんとIMFに提供しました。これが世界の不況対策に果たした効果は非常に大きい。そもそも今回の世界的不景気で日本の被害が一番軽かったのは、自民党内閣特に小泉内閣による改革の賜物です。少し過去を振り返ってみましょう。
 日本が平成不況に突入したのは、1992年頃です。その当時の内閣は細川内閣、ついで羽田内閣、そして村山内閣でした。この三つの内閣で1年半の貴重な時間を無駄にしました。この間これらの内閣が不況対策に熱意を示したという記憶は私にはありません。不況と言う認識すらなかったのかも知れません。当時の蔵相武村氏は最低の蔵相でした。これは私の評価ではなく、外国の新聞による評価です。不況対策が本格化したのは橋本内閣からです。私はこの内閣の姿勢を見て、日本の経済状態の深刻さを実感させられました。そして小渕・森・小泉内閣と続きます。日本が苦手とする金融の自由化、企業や産業の効率化(いわゆるリストラ)なども遂行されました。総仕上げが郵政民営化です。このような改革があり、日本が生き残るために必要な製造業が再生したからこそ、日本の経済的ポジションが改善されたのです。その間欧米はマネ-ゲ-ムに狂奔し贋金(フェイクマネ-)で肥えていただけです。その付けが来たのです。
 こういういきさつを知れば現政権が特に悪く言われる筋合いはありません。ではなぜ人気が無いのでしょうか?その前に民主党の公約の二三について考えてみましょう。民主党は、育児手当や高校の学費などを無料化し、高速道路の通行も無料化し、農家に対して補助金を与えると言っています。いい事づくめです。ではこの政策の経費はどこから?民主党は増税も国債発行にもはっきりした事は言及せず、ただ予算を倹約して、とのみ言います。倹約はすべきでしょうが、これは政策といえるほどのものではありません。つまり何の根拠もなく国民の耳に入りやすい事ばかり並べているとしか思えません。民主党の公約乱発に対して政府も同じように、公約を乱発しだしました。これでは福祉という名の乱費の競争をしているようなものです。大衆迎合政策であり愚民化政策です。
 民主党のやり方を見ていると、何かにつけて難癖をつけているようです。そうたいしたことでもない事を取り上げ、閣僚や総理の資質を問う、という風に。資質などどうでもいのです。どだい資質なんか解りません。政策とその効果だけが重要です。阿倍元首相に対する難癖のつけかたは巧妙でした。阿倍氏はそれで参ったようなものです。麻生総理に関しても同様です。政策を正面から取り上げず、個人的な問題を追及し、相手が動揺すると、さらに揺すぶりをかける。それに朝日をはじめとするメディアが同調するなどなど、の手法です。破壊的です。はっきりした予算の裏づけが無いのに、公約をばらまく、これも破壊行為です。
 最後に気になる、というより心配でならないのは、外交です。民主党は社民党と連合するそうですが、外交の一貫性は保てるのですか?ペルシャ湾界隈に出動した海上自衛隊に引き上げを命じ、日本の船舶を海賊の跳梁にまかせるのですか?らっち問題で言を左右にして、誠意を見せず、あまつさえ日本を核ミサイルの標的にしている北朝鮮と友好関係に入るのですか?民主党の友党である社民党はそう主張しています。最後に民主党代表の鳩山氏に質問します。貴方はかって「日本列島は日本人だけのものではない」と発言されたと随所で聞きます。これは将来日本の国土の一部が外国、例えば中国や韓国に譲渡される、と意味なのでしょうか?大事な事なのでお答えを伺いたいと思います。なお民主党はなにかと問い詰められると、国連中心外交云々と遁辞を弄します。国連中心外交とは、外交をしない事と同義です。

(付)
2006年発行の通商白書によれば、
 日本の経常収支は、1658億ドルの黒字
    資本収支は、1276億ドルの赤字
です。この数字は貿易等で黒字を出し、その分を海外へ資本として投資し、将来の収益を期待する事、を意味します。一国でこれほど大規模で健全な通商を営んでいる国は他にありません。以後もこの傾向は変わっていないはずです。ただし昨年は激動の年でしたので、いささかの変動はあるでしょう。しかしまだデ-タがありません。

官僚制擁護論

2009-08-25 00:42:45 | Weblog
         官僚制擁護論

 もうすぐ総選挙が始まります。民主党の公約かマニフェストに官僚制を否定するような項目がありました。日本は官僚制に支配されている云々の由です。事務次官連絡会議を廃止するとかの提案もありました。官僚制がどの程度日本の社会に被害を与えているのか、判然とした事はわかりません。多分だれにもわからないでしょう。
 私は政治制度の急速な改革は歓迎しないので、ここで反対の立場から官僚制を考察してみたいと思います。
 まず最初に認識すべき事は、官僚制は政治にとって必要な存在だという事、それも絶対に必要だという事です。過去の歴史で官僚制度を欠いた制度はありません。また政治行為のみならず、あらゆる組織は運営を能率的にするためには官僚制を必要とします。企業もそうです。企業で少なくとも課長級以上の管理職は企業の官僚です。企業の活力はこの部課長級が握っています。宗教組織も同様です。新興宗教の教団を内側から覗けばすぐ解ります。数十万人あるいは数百万人の信者を一人のカリスマが統率する事はできません。そもそも僧侶とか神官という存在そのものが、既に教団官僚です。国公立大学の教授や準教授も官僚です。学術官僚といってもいいでしょう。私立大学の教授も同様です。自衛隊の佐官以上は軍事官僚です。労組も同じです。医師も考えようによって請負制の官僚です。国家から資格を与えられ、国家が管理する医療基金から、一定の原則に基づいて給付されます。官僚とはなにも上級国家公務員試験を合格した人達だけではないのです。
 次に私が知る範囲で各国の官僚制を比較してみましょう。官僚制の最も完備したといわれる、フランスの官僚制の歴史は中世末まで遡ります。封建領主は絶対王政の末端に連なる事により、繁栄しました。一つの仕事は徴税請負です。もう一つの仕事が中央権力が地方領主にかけてくる負担に抵抗する組織の形成です。これが高等法院といわれるもので。ここの司法官は法服貴族と言われました。フランス思想史を彩る多くの知名人、デカルトやモンテスキュ-やコンディヤックなどはみなこの種の階層の人間です。フランスという国における彼らの勢力は強く、革命後も生き延び、生き延びるどころか、相互に閨閥を重ねて、フランス政界に隠然たる力を持っています。あまり話題にはなりませんが、フランスの第二院は司法関係者の組織と言ってもいいものです。フランスの第三および第四共和制において、政権が不安定であった時、フランスの政治の舵をとり、大過なからしめたのはこの官僚制です。その政治への影響力は日本の官僚制の比ではありません。
 ドイツの官僚制の背景はグ-ツヘルとその後裔であるユンカ-貴族です。ドイツ王権が形成されると併行して、土地領主達は絶対権力の官僚に転進しました。戦後はどうなっているのか知りません。多分伝統は生きていると思います。ロシアの官僚制は不安定でした。革命後旧官僚は一掃されました。代って共産党の上級役職者が官僚化します。ノ-メンクラツ-ルとか言われる彼らは一般人民とはかけ離れた待遇を受けていました。
 官僚制が発達しなかったのはイギリスです。理由はいろいろありますが、その一つは、人民が政府のお役人を信頼できなかったからです。そこで地方の村落では、支配と妥協の産物として、治安判事制ができました。彼らがジェントリ-(ジェントルマン)になり、土地を集積して地主になります。彼らの代表が議会です。こういう事情ですのでイギリスでは土地を持つ地主とそれ以外の階層の差が大きいのです。この影響は現在にも及び、イギリスでは身分差が著しいといわれます。話す英語で階層がわかるそうです。第一次大戦後蔵相のチャ-チルはケインズの反対意見を一顧だにする事なく、金本位制に復帰しました。ここから大英帝国の没落が始まったと言っても過言ではありません。もししっかりした官僚がいたなら、大臣のこのような愚劣な独断専行は不可能だったでしょう。
 アメリカはイギリスの影響を受けて官僚制は未発達だと言われます。しかし連邦職員の数は相当なものです。そしてなによりもロビイストという団体がこの国の名物です。議会と外部社会の利害を取り持つのがこのロビイストですが、その数は十万人を超えます。落選した議員や元閣僚なども有力なロビイストになります。弊害は著しいと言われます。
 中国の王朝の科挙官僚は、地方官に任命されると、一族を多数引き連れて任地に下向し、そこで官僚自ら商行為を平然と行いました。現在の中国共産党の幹部、官僚ですね、も同様です。
 日本の官僚制は明治維新で失業した士族を中心に形成されました。士族あるいは武士は旧幕時代からすでに幕藩官僚でした。明治政府はそれを受けついで磨きをかけただけともいえます。旧武士の伝統をひきずって、日本の官僚の特色は権力と経済力の分離にあります。官僚には強大な権限を持たすが、俸給は低く抑えておく、のが基本方針です。だから他国に比し、清廉であることには違いありません。教養ある戦士階層の後裔である彼らは、優秀です。
 日本の官僚制の優秀さを示すには二つの事実を語れば充分です。太平洋戦争直後、昭和20年の時点で、日本の食糧は絶対的に不足しており1000万人の餓死者が出ると想定されました。例外的ケ-スを除いて餓死者は現れませんでした。食料配分は官僚により厳格に統制されました。現在の時点で振り帰れば驚嘆すべき事です。そしてこの間、高級官僚で食料に関して汚職めいた行為をした人は、私に関する限り聞知しません。この事実も驚嘆すべき事です。逆に配給米だけ食べて餓死した裁判官がいました。もちろん裁判官も検事も警察も官僚です。
 日本は戦後の廃墟から立ち直り、産業の復活に必死に取り組みます。その過程で発揮された通産官僚、多分大蔵官僚もそうだと思いますが、の指導力は見事です。産業復興のためにどうしても必要な、工作機械や外国の特許の輸入などに際し、企業間の利害を調整し、可及的にその効率を上げるべく、通産省は企業を指導しました。この態度はすべての分野に及びました。そしてこの過程でも大きな汚職事件はありません。行政官僚による指導がなければ日本の復興はなかったかも知れません。このような事実は後になり振り返ってやっと解るものです。このような努力の連続で高度成長は成し遂げられたのですが、その恩恵を享受している側にはぴんとこないでしょう。官僚の仕事は地味で地道です。
 官僚は融通が効きません。しかし下手に融通をつける事は汚職への一本道です。官僚は仲間を作り、情報の一部を秘密にします。そして大きな力を持ちます。ある程度は仕方ありません。権力なく指導しろという方が無理です。官僚制に弊害があるのは当たり前です。およそ人間の組織で弊害のない組織などありえません。必要な組織なら、それを温存させ、弊害の目立った部分を押さえればいいのです。民主党の言い方では官僚制絶対悪のように、聞こえます。官僚に代り、政治家主導との事ですが、私にすればこちらの方がずっと危ない。小さい地区の利害に視野の限局された、宣伝と扇動にはたけた、あまり知性を鍛えない(鍛える閑がない)代議士の集団が利害に関する意見を独占したら、結果は眼に見えています。議会制度を否定する気はありませんが、その下部機構として優秀な官僚制を保持する事は絶対に必要です。過激な理想論に走らない限り、そうなります。総選挙に臨み一市井人として一言いわせてもらいました。

 (付)官僚制絶滅というのなら、ものすごい話があります。世紀900年前後唐王朝滅亡の時、黄巣の乱という大農民反乱が起こります。長安に入城した黄巣の軍は、科挙官僚
をすべて殺害して川に放り込んでしまいました。30年前カンボジアを支配したポルポト政権も似たような事をしています。この政権によりカンボジアの人口の1/3、インテリ階層のほとんどが、抹殺されました。まさかこんな事を考えておられるのではないでしょうね?

保守の論理

2009-08-21 23:56:59 | Weblog
   保守の論理

 私は保守主義者です。自民党は保守党であるとみなしているので、私は現在のところは一応自民党支持者です。しかし保守主義とは何でしょうか?あまり明確な答はありません。保守とは、原則として現在の体制と地点を護る態度ですから、保守主義は無内容・定義不可であってもかまわないことになります。しかしやはり保守主義の原点は明確にしておいた方がいいでしょう。そうすることによって、実際の政策の方向と限界を自覚できることになります。
 保守主義の第一原則は既存の婚姻秩序を破壊しない、あるいは大幅に変更しないことです。婚姻秩序とは小家族単婚制、一夫一婦制、そして性別分業です。この体制においてのみ、婚姻の秩序は護られ、親子間の責任は果たされます。相互に唯一の妻あるいは夫とみなすから、その間にできた子供の将来に責任が持てます。また男女の性差を完全に否定すれば、父親母親のあるべき姿が消滅します。男になり女になるための、努力は不必要になります。幼少児を含む低年齢恋愛が多発し、社会は幼弱な成員からなる不安定極まりない存在になります。さらに男女差の完全否定は、同性愛婚という恐ろしい事態を将来します。社会は破局を迎えます。同性同士の婚姻、そして養子制度、こうなると次世代の養育責任はどうなるのか?結果は自明です。私は同性愛そのものを禁止せよ、と言っているのではありません。ただ同性愛関係と婚姻制度は峻別すべきであると言っているのです。
 保守主義の第二原則は私有財産制の厳守です。社会の掟に触れない範囲において財産の私有は肯定されなければなりません。一夫一婦制と私有財産制はあい疎通します。私有財産を自ら管理し、そこから生じる利便を享受できるという期待があるから労働できます。労働技能を修得する期間は性的能力の成熟と平行します。この経験の蓄積が親子間の責任と愛情を育みます。ロシア革命のイデオロ-グであるマルクスは私有財産を完全に否定しました。結果は歴史を見れば明らかです。
保守主義の第三原則は過激な理想主義の拒否です。世界から戦争を完全に追放するとか、万人は平等でなければならないとか、一切のエゴイズムはなくせとかの、空想的なことは考えない。歴史において戦争が無くなったことはありません。みんなが平等になるためには、みんなが飢餓線上に位置するしかありません。私にはエゴイズムを持たない人間なぞ想像すらできません。過激な理想主義は、実現不可能であるだけに、理想の実現を妨げていると想定される、犠牲の山羊を求めます。30年前カンボジアで起きたポルポト政権の行為が何よりの例証です。過激な理想を追求せず、現体制のほころびを適時修理し、革命ではなく改良を志向すべきです。
以上が原則です。以下にこの原則から導き出される系を説明します。
 議会あるいは議院内閣制はそれはそれで結構なものですが、万能ではありません。議会はその本質において、社会各員の利害の計算・商議・妥協のためのシステムです。我々はこの限界を知らなければなりません。利害計算がちゃんと行われると、社会のニ-ズのほとんどは満たされます。それ以上の事柄に議会は踏み込むべきではありません。人は、どうあるべきかとか云々の、倫理や道徳や信仰などに関しての考察は、議会の手に余ります。そのような即物的事項を超える事柄については、どうあるべきでしょうか?現在までに引き継がれてきた状態を肯定して、伝統に任せるのが賢明です。人間にはそれ以上の事はできません。
 特に婚姻と宗教に関しては、そうあるべきです。婚姻と宗教あるいは信仰は無関係ではありません。両者は密接な関係にあります。単婚小家族、一夫一妻制は急に出現したものではなく、その淵源は約1500年前に遡ります。この時点で日本の国は仏教という世界宗教を受け入れました。仏教は土着の宗教的情操を吸収して、神仏習合を為し、今日に至っています。併行して天皇家を先頭とし、一夫一婦制が形成されてゆきます。歴史的に思考すれば、宗教的心情と家族制度の形成は平行し一致します。宗教における掟の最大の関心は、婚姻秩序の維持にあります。以上の事は仏典、バイブル、記紀などを参照すればすぐ解ることです。四書五経を原典とする儒教思想圏においても、コーランを絶対視するイスラム社会においても同様です。
 議会あるいは民主主義を利害計算のシステムと捉えますと、議会の機能は制限されます。国家が国家であるためには、それ以上の存在を必要とします。結論だけ言えば、その為に必要とされる存在が君主です。君主は婚姻と信仰の要に位置します。
 婚姻と経済も密な関係にあります。単婚小家族であるから、つまり自分と自分の直系親族の為と思うから勤労意欲が出ます。労働をするためには、技能の習得が必要です。この間性衝動は集団的に抑制されなければなりません。そして両性がそれなりの技能を獲得し、同時に分娩と育児、すなわち次世代形成の準備ができた時、性衝動の解放が一定の制限下に容認されます。
 男は、女と子供を護る、という自負において生きています。仮に男女の性差が無差別無制限に否定されたら、男は女を保護する義務を放棄できます。結果は性の秩序の破壊です。社会は娼夫と娼婦の絡み合う醜悪な存在になります。旧約聖書が描くソドムとゴモラが出現します。

桓武天皇の同時代人、真備と清麻呂

2009-08-19 00:15:27 | Weblog
  真備と清麻呂

 吉備真備と和気清麻呂は同国(県)人です。ともに備前国(岡山県)出身です。歴史上両人ともに著名人ですが、二人の行為は外から見る限りかなり違います。真備は言われたことを着々と実行し、命令に対してあまり批判をしないテクノクラ-トですが、清麻呂に正義感・熱血漢の趣があります。両者の態度は道鏡政権への対応の差に現れています。真備はかの政権下で右大臣を務め、政権の意向に即して行動します。清麻呂は宇佐大神宮の神託に際して取った行動から見られるように、道鏡政権崩壊のきっかけを作りました。
 吉備真備は695年頃、吉備国の小豪族であり律令制の下級官人である下道朝臣国勝の子として生まれました。生来利発であり、15歳中央の大学に入学を許されます。卒業して従8位下を授けられ、716年22歳、入唐留学生となり、翌年唐に渡ります。同行者としては阿倍仲麻呂や僧玄ボウがいます。
 留学は19年の長きに渡ります。最も当時の留学生としてそれは当たり前のようでした。留学数年にしてさっさと帰国した空海なんかはよほどできて自信家だったのでしょう。真備は主として経史の学、つまり五経や史学を習いました。かれは万学の人で、主たる目標の経史のみならず、名刑、算術、陰陽、暦道、天文、ロウコク(時間の計り方)、漢音、書道、秘術、雑占の類まですべてあちらで習得したようです。祭式、礼法に軍学や築城術も学びました。徹底した実学志向です。逆に詩文の方はお義理程度で、あまり得意ではありません。留学中の真備に関して、伝説があります。彼があまりできるので、唐人が彼に難題を与えて懲らしめようとします。例えば囲碁です。彼には経験がありません。鬼と出会い、鬼に教えられ唐人に勝って面目を失わないで済んだ、とかの事です。これも彼の秀才ぶりを示すための逸話でしょう。
 734年40歳、膨大な漢籍と共に帰国します。留学生にはあちらでなるべく多くの本を買ってくるように、政府から費用を与えられていました。正6位下大学助に任じられます。真備の知識と持ち帰った漢籍により、大学での授業は大いに改革されます。やがて中宮亮になり、同じ留学生仲間の玄ボウと親しくなります。740年乱に際して、広嗣は反乱の理由として「玄ボウ、真備を除く」と言ったほどですから、二人は相当親密であり、また真備も宮廷の奥深くでかなりな影響力をもっていたのでしょう。しかし具体的に真備が何をしたのかは、はっきりしません。常に組織の中にあって、組織の意図する方向に向けて行動するのが真備のやり方のようです。東宮学士(皇太子の師範)、従4位下東宮太夫、右京大夫、749年55歳で従4位上に叙せられます。この時藤原仲麻呂が政権を握りますが、真備は仲麻呂にうとまれ、地方官に左遷されます。58歳遣唐副使として藤原清河や大伴古麻呂など共に再び唐に渡ります。60歳で無事帰国、大宰少弐、やがて大弐になります。やはり仲麻呂ににらまれています。
 ある意味ではこの大宰府時代が真備にとって、一番能力を発揮できたのではあるまいか、と言う学者もいます。唐風の城を築き、武官に孫子などの兵法を教え、軍船の建造計画をたて、兵士や水夫を指揮して軍事演習を行い、兵器を作らせるなど、の作業に専心しました。惜しいかな時代は緊張緩和の方向に向かっており、大宰府での軍事訓練は役に立たなくなります。
764年70歳、造東大寺長官になり中央に復帰します。これは、道鏡政権下においてやがて起こるであろう、恵美押勝(藤原仲麻呂)の反乱への措置です。仲麻呂は反乱を起こします。真備の軍事的才能は遺憾なく発揮されます。仲麻呂は先手を取られ、退路を立たれ包囲され、北近江に追い詰められ斬られます。この手際は鮮やかです。軍事という行為はしてみないと、その才能は解りません。真備は充分な将才を持っていたようです。真備は従3位参議中衛大将に任じられます。中衛府は天皇の親衛隊で後の近衛府に当たります。この職に藤原氏以外で就いたのは真備が初めてでした。よほど道鏡からも、天皇からも信頼されていたのでしょう。72歳右大臣になります。その時称徳天皇は宣命で、朕が太子たりし時よりの師、と言われます。真備の娘由利は典侍従3位として天皇の枕頭に侍りました。彼女のみが天皇の意向を知る事ができたようです。だから天皇の死を真っ先に知ったのは多分真備でしょう。後継者の選定で真備は藤原一族と意見を異にします。彼は天武系皇族を正統とみて文屋浄三を推します。これもただ彼が合理的と信じる判断に従っただけです。皇位は白壁王(光仁天皇)の方に行きます。新政権下の真備な辞職を願いますが、許されません。2年後辞職が許されます。775年死去、享年81歳でした。

和気清麻呂は712年吉備国上津道、旭川と吉井川に挟まれた藤野郡に生まれました。家系は新興の地方豪族です。地方豪族は朝廷に一族を舎人(男子)や采女(女子)として貢進します。清麻呂は右兵衛少尉に叙せられます。天皇の親衛隊です。ほぼ同時に姉の広虫も天皇の侍女になります。姉弟はそろって天皇の私的空間に近侍する身になりました。34歳近衛将監・従5位下になります。
 769年37歳の時、宇佐八幡宮の神託事件が起こります。清麻呂は、称徳天皇の命で真偽を確かめに行き、神託が偽りであると復奏します。女帝と道鏡の怒りを買い、配流されます。やがて道教は失脚し、清麻呂は復位されます。それから約10年の間、清麻呂には活躍の場は与えられず、位階も元のままです。桓武天皇の即位と同時に清麻呂も登用されます。摂津大夫になり、長岡遷都と平安遷都の実質的責任者になります。
 なぜ彼が桓武天皇の時に登用されたのでしょうか?桓武天皇は天智天皇の曹孫であり、天皇の母親は帰化人系です。天皇はそのため、極力平城京を離れようとされます。天武系皇族、大和在来の豪族、南都仏教など、すべてが桓武天皇にとっては、自己の地位を危うくし、またその政策を実施するのに障害になりました。ではなぜ遷都先が長岡であり京都(当時は葛野と言いました)なのでしょうか?両地とも淀川水系に当たります。この水系線上にある摂津・河内・そして山城には多くの帰化系豪族が住んでいました。津、和(やまと)、大江、百済王(くだらのこにしき)、坂上、菅野、そして秦などの氏族です。彼ら帰化系豪族は、技術と財力を持ち、未開地を開拓してその地方で隠然たる力を持っていました。桓武天皇は新都を建設する事により、母系を通じて帰化系豪族を始めとする、新興豪族の力を結集して、政権の推進力にしたかったのです。
和気清麻呂はこの豪族集団の、中心でありまとめ役でした。彼の出身地である吉備地方は早くから開け、そこには帰化系豪族も住んでいました。代表が秦氏です。当時といえば8世紀後半、班田制は徐々に崩れ、豪族の私有地は増えていました。清麻呂が二つの遷都に積極的に関与し、摂津大夫に任命されたのは、彼の出自と彼を取り巻く環境が、桓武政権にとってぴったりだったからです。こうして清麻呂は時代の波に乗り、新興豪族として桓武政権の中枢に入り、新進官僚として活躍します。彼のような立場で当時活躍した人物を二人挙げておきましょう。菅野真道と坂上田村麻呂です。二人は桓武政権の中枢を支える文武の両翼です。
 清麻呂の姉の広虫は孝謙天皇の侍女として後宮に入り、典侍(ないしのすけ、女官次長)になります。清麻呂が活躍できたのも姉が天皇の侍女として近侍していたからでもあります。新興豪族はすべて後宮と結んでいました。その典型が桓武天皇の母親高野新笠の背景である百済王(くだらのこにしき)氏です。この氏族は後宮にその子女を送り込み、政権に大きな影響力を振るいました。
 和気清麻呂のもう一つの功績は新来の仏教の外護者になった事です。最澄は高尾法会が縁で清麻呂と親交し、やがて入唐留学生に推慮れます。最澄の念願である、叡山に大乗戒壇を設置する事は、和気氏の尽力によるところが大きいのです。高尾の神護寺は和気氏の氏寺でした。空海は清麻呂の子、真綱の外護を受けます。平城京では禁止されていた、山林修行が許可されたのも、和気氏の努力が関与しています。
 和気清麻呂は吉備地方の新興豪族として桓武天皇の側近政治家になり、桓武政権の政策を遂行し、同時に平安仏教を外護し、成長を見守りました。宇佐八幡宮の神託復奏は彼の行動の一部です。しかしやはりこの事件の意義は大きく、それは清麻呂の人格を抜きには語れないでしょう。爽やかな人生です。
 和気清麻呂、799年死去、享年67歳。民部卿、中納言、従3位。姉の広虫も同年死没しています。彼の子供、広世、達男、真綱はそれぞれ父親の遺志をついで頑張っています。

 参考文献
  吉備真備
  和気清麻呂
   ともに吉川弘文館、人物叢書

天皇ご紹介、光仁天皇と桓武天皇

2009-08-16 00:28:22 | Weblog
    天皇ご紹介、光仁天皇と桓武天皇

紀元770年称徳天皇は崩御されます。皇嗣は残されません。台閣の首班である左大臣藤原永手は藤原良嗣・百川と協議し、道鏡を下野国に流します。次代の天皇には天智天皇の孫である白壁王を光仁天皇として建てます。この時右大臣吉備真備は天武天皇の孫で臣籍に降った文屋真人浄三(きよみ)を押ししますが、藤原一族の結束力には抗せず、真備は骸骨を乞います。政局は藤原氏、特に北家と式家に牛耳られる事になります。
 48代称徳天皇と49代光仁天皇の間の血統は、親子間を2代として数えれば、9代隔たる事になります。称徳天皇を5代遡れば天武天皇、天皇の父が舒明天皇、その子天智天皇の孫が光仁天皇です。これは外国では通常異なる王朝に数えられます。これほど離れた皇(王)位継承を例示しますと、イギリスにおけるランカスタ-朝からヨ-ク朝への代替わり、フランスにおける第2ブルボン朝からオルレアン朝への推移、そして中国の宋王朝の北宋から南宋への変遷、があります。これらの王朝の変遷にはすべて革命・内乱・外民族の侵入が原因しています。これほど離れた世代間の皇位継承ですから、光仁天皇、特に桓武天皇は自らの正統性を確保するために、大いに苦労されます。逆に言えばこの点を巡って政界の暗部では紛糾が多く、反逆事件も多発し、犠牲者は御霊になります。その最大の事件が早良皇太子事件です。
 孝謙・称徳朝では政争が多く、天武系の皇族はほとんど抹殺されます。白壁王は毎日酒を飲んで酔い、世間の事には関知しない振りをしていたそうです。その割には彼は多くの官職を務め、称徳天皇の代766年には大納言に任じられています。白壁王が擁立された理由の一つは、彼が聖武天皇の子女井上(いのへ)内親王を妻にしていたからです。しかしそれは表向きの話で、実際は天武系皇族間の遺恨因縁を多くの貴族が避けたかったからです。ここで藤原氏が大きく羽翼を伸ばしてきます。
光仁天皇が即位されると、皇后は井上内親王、皇太子は皇后の子12歳の他戸(おさべ)親王になります。しかしどうしたことか翌年皇后母子は幽閉され暫くして死去します。事件は全く謎に包まれています。皇后の不倫説もありますが、後でつけた理由のようです。皇太子には山部親王(桓武天皇)が建てられます。藤原一族特に式家の良嗣・百川が山部親王の器量を評価し、是が非でもこの親王に皇位を継いで欲しかったからとも言われます。この事は本当でしょう。当時の律令制は危機に瀕していました。光仁天皇は即位時にすでに61歳です。いつ亡くなられるか解りません。幼少の他戸皇太子では頼りない、とは言えます。しかしそこには藤原一族の利害打算も大いに絡んでいた事も否定できません。事実光仁天皇は、自分を積極的に推してくれた藤原永手に、太政大臣を贈られています。贈太政大臣とは死後に贈られる官職です。しかし生前であれ死後であれ、太政大臣の地位は特別の意味を持ちます。天皇に代って政務を執行するもの、の意ですから。
 光仁天皇の治世は前代の弊風の矯正が主たるものでした。特に造寺造仏による財政の逼迫をどうするかと言う問題があります。そこで政治はなるべくつつましくすべく意図されました。しかし時代は急を告げています。特に奥州の地で蝦夷人の反乱は頻発し、このままでは政権は鼎の軽重を問われ、国家は瓦解しかねません。ここで桓武天皇の登場になります。
 光仁天皇、第49代、イミナは白壁、在位770-781年、71歳崩御、天智天皇の孫、施基皇子の子。父親である施基皇子には非常に有名な和歌があります。
  はや走る(ばしる) 垂水の上の早蕨の 燃えいずる春に なりにけるかも



桓武天皇、イミナは山部(やまべ)、在位781-806年。天皇は即位の時39歳ですから、男として政治家として最も油ののりきった年齢です。父系に関しては先に述べたとおりですが、母系はかなり特殊です。天皇の母親は高野新笠(にいがさ)、白村江の敗戦に際し日本へ亡命した百済王の子孫と言われています。
天皇の母親が帰化人である事は多くの意味を持ちます。プラスの方で言えば、彼ら帰化人が持つ技術と財力です。多分山部親王は彼ら帰化人の中で彼らに庇護され援助されながら育ったのでしょう。マイナスは母系の血統です。皇族はなるべく内婚(同族内結婚)を心がけます。血統の神聖さを失わないためです。帰化人には外国人という印象は拒めません。これは天皇のコンムレックスになります。
もう一つのコムプレックスが、天皇は天武系ではなく、天智系であるという事です。この劣等感を埋めるために、桓武天皇は漢民族の儀式である郊天祭祀(こうてんさいし)を行われます。これは壇上に火を炊き、それがまっすぐ上がればその王は天から権威を受託されたもの、とみなす儀式です。ここで天皇はその祭文の中で、光仁天皇は神として配せられ、と述べられます。郊天祭祀は易姓革命の儀式ですから、日本の風土には合いません。しかし天皇はあえてこの儀式を施行され、自らの権威の正統性を立証しようとされます。また即位と同時に改元され、年号を延暦(えんれき、暦を延ばす)と改められます。これもある種の呪術です。
帰化人の血に対する劣等感は、摂津河内や山城に多く住む帰化人系の住人に姓(かばね)を与える事でも代償されます。姓を与えられて初めて正式な天朝の民になるわけです。大江、菅原、秋篠などが代表です。大江と菅原は後に菅江二氏と言い、後世の漢学教授の家元になります。菅原道真、菅原孝標の娘(更級日記の著者)、大江匡衡・匡房・広元などはこの帰化人の子孫です。彼らが日本の文化に及ぼした影響は多大です。
しかし光仁桓武朝の血統に対する不信は強く、光仁天皇の代に氷上川継(ひかみのかわつぐ)の陰謀が発覚します。彼は天武天皇の曾孫であり、自分の方が皇位継承者として正統だと主張します。この事件の裾野は広く、藤原魚名(北家)、藤原浜足(京家)、大伴家持など参議以上のトップクラスの貴族が連座しています。この事件で大伴氏はさらに力を失い、藤原4家の一つ京家は没落します。兄魚名に代り弟の内麻呂が北家の主導権を握ります。
桓武朝の主要な課題は軍事でした。奥州北部、特に北上川中流以北の蝦夷が780年反乱します。反乱はこの時期に限った事ではなく、以前から頻発していました。遠征軍5万人は北上川河畔で蝦夷の騎馬戦とゲリラに翻弄され死者千人を出して惨敗します。蝦夷の指導者はアテルイと言います。794年征夷大将軍大伴弟麻呂、副将軍坂上田村麻呂以下10万の軍勢が差し向けられます。胆沢(いざわ)の地を平定します。勝ったとは言われますが、10万の大軍の割には戦果は少なかったようです。797年坂上田村麻呂を大将軍として、4万の軍勢を差し向けアテルイを降伏させ、胆沢の北方、現在の盛岡市付近まで進出します。さらに大規模な遠征が企てられますが、藤原緒嗣の建言で中止されます。緒嗣の言い分は、これ以上民力が持たないという事です。
ちなみに遠征軍に比べれば圧倒的に少ない蝦夷人になかなか勝てなかったのは士気に原因があります。歩兵が必ずしも騎兵に弱いとは言えません。蝦夷人は騎射を得意としますが、歩兵には歩兵の戦術があるのです。遠征軍は農民をむりやり挑発して戦陣に連れてゆくので充分な訓練ができず、士気も低く、原住民の蝦夷人の騎馬戦術にはかないません。田村麻呂の戦略は、まず補給路を確保し、征服地を慰撫しつつ、攻めるという政戦両方を使い分けるやり方のようです。京都市内円山公園の中には坂上田村麻呂の銅像があります。盛岡市内(だったかな?)にはアテルイの像が記念碑として建てられています。なかなか面白いものですね。忠臣蔵に対する播州赤穂市と三河吉良町の、マゼラン遠征に対する西欧とフィリピンの対応の差も同じです。
桓武朝の主要な課題は軍事と造作と言われます。軍事はともかく、造作(ぞうさ)は何のためにでしょうか?桓武天皇は天武系皇族と血統においても婚姻においても全く繋がりがありません。平城京は天武系皇族の作った首都です。天皇は自らの権威を確立するためにもこの地を離れたかったのです。また一国の首都を建設する事は大事業です。建設の直接担当官は大納言以上の位になります。さらに造作は労働力を大量に動員しますから、一種の軍事行為になります。戒厳令がしかれたようなものです。さらにこの種の事業では大貴族より中流の官人の協力が必要です。また彼らも企てに協力する事で政権の一部に加わる事を望みます。またさらに造作には技術が必要です。当時技術は帰化人が最も優れたものを持っていました。天皇の母系を通じて彼らの協力を得、彼らを政権の中に参画させられます。言ってみれば、造作により権力と財富の移転も生じえます。天皇にとっては願ったりかなったりです。
もう一つ桓武天皇が首都移転を企てられたのには、平城京が仏教仏僧と深く結びついていたからです。道鏡事件に懲り、旧来の仏教(これは国家丸抱えの仏教ですが)から離れたい、と願われたのでしょう。道鏡政権下では主要閣僚の半数は僧侶でした。道鏡のみならず文武天皇夫人宮子のうつ病を治した、玄ボウは深く宮廷に食い込み政時に容喙し、藤原広継の反乱の一因になりました。そしてなによりも官寺には費用が要ります。桓武朝頃から、官寺はほとんど立てられなくなり、仏教は民営化します。空海や最澄の作ったお寺はみな私寺で、国家による給付はなく、すべて独立採算制でした。このように桓武朝はどちらかと言うと反仏教的政策に傾きます。その分政治や倫理には儒教の影響が強くなります。それを反映してか、この時代の文学は漢文学が主流になってゆきます。
784年山城国長岡に遷都が宣言されます。すぐ造作が開始され半年で遷都が行われます。猛烈なスピ-ドです。それまで平城・難波の複都制であったのを改め、難波京を解体して、それを淀川上流の長岡に運びました。同時に河内摂津を本願とする官人たちを新都に結集しようとします。長岡京造作の途中、建設責任者である中納言藤原種継が暗殺されます。(785年)実行犯が逮捕され、この事件の背景には皇太子早良親王がいると、されます。早良親王は皇太子を廃せられ、淡路に流されます。親王は無実を主張して、絶食し配流の途上死去します。早良皇太子の東宮太夫であった大伴家持は既に死んでいましたが、処罰され平民に落とされます。母親を同じくする皇太子の死は、天皇に大きなトラウマを与えます。以後天皇は早良親王の御霊に脅え続けられます。事件の数年後、天皇の母親、皇后、さらにもう一人の夫人が相継いで死去します。天皇の長子である安殿(あて)親王(平城天皇)は皇太子になりますが、多病に悩まされます。天皇はこの事を親王の祟りと受け止められます。800年淡路の墓所に勅使が送られ、早良親王に謝罪し、親王に崇道天皇の称号が贈られます。他の関係者もすべて復位復権します。どことなく中世フランスで起こった聖堂騎士団事件に似ています。もっとも残酷さの点では比較になりませんが。
皇太子府が現政権反対派の牙城になりやすい、というのは古今東西変りません。早良親王は以前に東大寺の僧侶であった事があり、奈良の宗教勢力との結びつきが強く、遷都造作に関して疑われやすい立場にはありました。桓武政権はこうして他戸・早良という二人の兄弟の犠牲の上に成立したと言えましょう。次代の天皇である平城天皇は盛んに、平城京への復帰を企て、挙句の果てに薬子事件を引き起こされますが、これも桓武天皇の贖罪感が乗り移った感じで、祟りめいたものを感じさせられます。
桓武天皇は自分の擁立に大功のあった藤原式家から二人、南家から一人娶られています。これは台頭しつつある、藤原氏との提携です。彼らから生まれた親王達、安殿(平城天皇)、神野(嵯峨天皇)、大伴(淳和天皇)には異母妹を配偶させられます。これは血統保全策です。このような過程にあって、一番利を得た者が藤原内麻呂です。彼の兄魚名は氷上川継事件に連座し失脚します。式家の後継者は早死にします。南家は後の伊予親王事件でその勢力は後退します。内麻呂は百済出身の采女永継を妻として真夏・冬嗣の2子を得た後に、この永継を桓武天皇の後宮に送り込みます。永継は天皇との間に良峯安世を生みます。こうして天皇と内麻呂は一人の女性を、従って血統を、共有する立場になりました。内麻呂の次男冬嗣はは娘の順子を仁明天皇の後宮に入れ、息子の良房に嵯峨天皇の子女潔姫を迎えます。こうして藤原北家と天皇家は血統を混ぜあわせてゆきます。結果としてできた制度が摂関制度です。
 桓武政権は奥州二国を除き軍団制度を廃止します。当時中国の唐王朝は衰微し、外圧による緊張は軽減されていました。その分、内で緩んだ律令制、特に最前線にある地方官国司の監督を強めます。国司交代の引継ぎ文書である「解由(げゆ)」を審査する勘解由使という職務を新設します。天皇は「徳政」を始めて自覚された天皇と言われます。徳政には、意味が多々ありますが、突き詰めて言いますと、臣民の福利を考慮する天皇の政策宣言です。ここには臣下の福利と、同時にそれを宣言する天皇の指導性主体性、という二つの意義があります。藤原緒嗣による軍事行動の中止も、それを公開で審議させるのですから、桓武天皇の徳政になります。桓武天皇は清新で果断であり、臣下の意見を聞き入れる英明な天皇という事になります。多分この評価は当たっているでしょう。
桓武天皇は在位25年で806年崩御されます。御歳69歳です。
文献
 平安王朝---中央公論社
 日本通史(4)--岩波書店

天皇ご紹介、神武天皇、及び開化天皇に至る八柱

2009-08-13 00:44:41 | Weblog
  天皇ご紹介 神武天皇、及び開化天皇に至る八柱
   
 日本の皇室の始祖は神武天皇です。しかしこの天皇の実在は実証されていません。神武天皇に関する資料はすべて、記紀、古事記と日本書紀の記載です。これらの記述には神話が混ざりっています。ただし神話はなんらかの歴史的事実を反映します。こういう観点から神武天皇に関して考察してみましょう。
神武天皇は、うがやふきあえずの命の子、ほおりの命(山幸彦)の孫、ににぎの命の曾孫、天照大神の5代の孫にあたられます。うがやふきあえずの命の五柱の皇子の末子です。
(付)天照大神-あめのおしほみみの命-ににぎの命-ほおりの命-うがやふきあえずの命-かむやまといわれひこの命(神武天皇)
神武天皇は日向の高千穂宮におられました。ある時東征を決意され、豊予海峡から瀬戸内海に入り、やがて大阪湾に至り、河内日下郷付近に上陸されます。この間数十年を経ます。日下から生駒金剛山脈を越えて大和の地に入ろうとし、長すね彦に行く手をはばまれ、兄の五瀬命を失なわれます。
五瀬命の「我々は天神の子孫なのに太陽に向かって矢を射るから負けたのだ」という遺言に従われ、攻め口を変えて、紀伊半島南端の熊野地方(現在の新宮市付近)に上陸されます。熊野では大熊に会い、失神されます。そして夢を見られます。夢で神託に会われ、たけみかずちの神から神剣、ふつの御魂を授けられ、敵勢を破って進軍されます。
神から贈られたやたの烏に導かれ、天皇の軍勢は険しい大和南部の山地を踏破し、吉野川上流辺りに出ます。国つ神(土地の豪族)の反抗を受けます、兄猾(えうかし)と弟猾(おとうかし)という豪族がいました。弟猾は天皇に服属を誓いますが、兄の兄猾は姦計を設けて天皇を待ち伏せします。弟猾の密告で兄猾を殺します。多くの猛々しい豪族達(総称して八十建 やそたける)が立ち向かってきます。弟猾の智恵に従い、天香具山の土を採取して神器を作り、神に祈って、大難をのりこえられます。豪族兄磯城(えしき)が反抗します。天皇は弟の弟磯城(おとしき)の降伏を入れ、兄を攻め滅ぼされます。有力者のうち反抗するものは討伐し、服属するものは臣下に治められます。
大和征服の最終戦は長すね彦討伐です。天皇は復讐戦を行われます。戦闘で長すね彦が負けたわけではありません。日本書紀の記述によりますと、この戦闘中長すね彦は疑問を持ち始めます。攻めてくる相手は、天孫と名乗っている。しかしこちらにも天孫はいらっしゃる、どうなっているのか、が、長すね彦の正直な心情です。そこで彼は天皇のもとに使いを出して、天羽羽矢(あまのははや)を自分が天孫の陣営の者だという証拠として提示します。天皇はそれを真実の物と認定されます。長すね彦の側の天孫は、にぎはや日の命、と言い、磐舟に乗って天空から地上に降りてきたのです。にぎはやひの命は長すね彦の妹と結婚していました。この間の事情は曖昧なのですが、このどさくさの中、長すね彦は討伐され殺されます。この戦いの最中一羽の金色の鵄(とび)が天皇の陣営に飛んできて天皇の持たれる弓の尖端にとまります。金色の光に眼がくらんだ敵勢は敗れたと、日本書紀は語ります。にぎはやひの命は天皇の陣営に参加します。にぎはやひ命の子孫が物部氏です。
(付)皇帥ついに長すね彦を撃つ しきりに戦ひて取り勝つこと能はず 時に忽然として天しけて雨氷ふる たちまち金色の霊しき鵄ありて 飛び来たりて皇弓のはずに止まれり その鵄光りてりかがやきて かたちいなびかりの如し 是に由りて 長すね彦の軍卒皆迷いまぎれて また力め戦わず(日本書紀 神武記)
最大の強敵を倒した神武天皇は畝傍山の東南、橿原宮で即位の儀式を取り行われます。
人皇初代、はつくにしらすすめら命、あるいは、かむやまといわれひこの命、神武天皇です。天皇の祖先であるうがやふきあえずの命や、ほおりの命は1万年以上の長寿を保ちます。天皇は127歳で崩御されます。神武天皇の記述から、古事記も日本書紀も人間の世界を描くようになります。天皇は事代主命(ことしろぬしのみこと)の娘、ひめたたら五十鈴ひめの命を正妃に迎えられます。この間多くの地名伝説が残されます。神武天皇の事跡に応じて地名が与えられています 土地に名を与える事は主権者である事を意味します
神武天皇の崩御後、皇太子神沼河耳命(かみぬまのかわみみのみこと)と庶兄たぎしみみの命の間に後継争いが持ち上がります。たぎしみみの命の陰謀を母后から聞いた、神沼河耳命は兄の皇子に反逆者の殺害を頼みます。兄の皇子はしりごみします。やむなく弟の皇子がたぎしみみの命を殺します。兄の皇子は弟の皇子に皇位継承権を譲ります。弟の皇子が即位します。代2代スイゼイ天皇です。スイゼイ天皇以下八柱の天皇記にある具体的な記述はこれだけです。
 神武天皇に関する主な記述は以上の通りです。しかしこの記述は記述以上の事柄を含んでいます。まずなぜ熊野から侵攻したのか、という疑問が湧きます。戦術的には全く無意味です。そして主な戦闘のほとんどが、現在の奈良県桜井市と宇陀市北西方の丘陵地帯、初瀬川及びその支流の流域で行われています。そして大和東方最大の豪族である長すね彦を倒して、奈良盆地の南端橿原で即位、つまり大和征服戦争の完了を告げる儀式が行われます。天皇家あるいはより広く大和王権の故地は初瀬川の中流、現在の天理市南方と桜井市を含む三輪山を中心とする一帯です。歴史的には北方の勢力が、南方の宇陀地方の諸豪族と戦闘を交えつつ、勢力を伸ばし、やがて東方に向かったと考えるべきでしょう。事実大和の東北方は将来葛城氏や平群氏と呼ばれる大豪族の本拠でした。事実はそういうところでしょう。しかし記紀の記載では戦闘の方向が逆になっています。
 長すね彦という人物の存在も独特です。神武東征は事実上長すね彦に破れてから、長すね彦を討ち取るまでが主な内容です。記紀の記載をすなおに読む限り、長すね彦は反逆者ではありません。別の天孫をかついで、つい天皇に反抗し、矛を収められなくなって、とうとう負けた、という次第です。長すね彦に始まり、長すね彦に終わるプロット、換言すれば別の天孫(同族である天孫)との出会い、これは何を意味するのでしょうか?大豪族同士の連合とも取れます。同族の有力者の内輪もめとも取れます。
 神武天皇は事代主神(ことしろぬしのかみ)の娘を正妃に迎えます。事代主神は大国主神の子供です。大国主神は多彩な性格を持つ神様ですが、土着の神、土地開拓神でもあります。という事はこの結婚は土着勢力と天孫勢力の融和あるいは合同とも解釈できます。大和王権出現の聖地である三輪山の主神は大物(大国)主神です。天照大神はここを素通りされて伊勢に向かわれ、そこで祭られます。大国主神と天照大神のこの微妙な関係は、土着勢力あるいは前王朝は後継王朝により完全に打倒され覆滅されたのではなく、むしろ融合し合体されたのだ、という事を暗示します。
 ではなぜ神武東征は高千穂宮から始まり、瀬戸内を東進するという、構想で語られるのでしょうか?古事記・日本書紀とも、神武天皇の項には詳細な記述がありますが、以後のスイゼイ天皇から9代開化天皇にいたるまでの8人の天皇に関しての記載は極めて簡単です。后妃、皇子、そこから分かれた皇別氏族の名前だけが記されるのみです。そして10代崇神天皇になると具体的な記載がぐんと増えます。反乱や戦闘など歴史を彩る記載が増えます。崇神天皇の孫にあたる景行天皇と日本武尊との関係は内紛を暗示します。天命に見放されたような仲哀天皇の短い挿話を挟んで、神功皇后と応神天皇の記述が続きます。応神天皇には大和の東方から来た、別系統の王朝の可能性もあります。
もし応神仁徳朝から大和王権の成立史を書けば、大和国内での統一と西方からの侵攻を一つのものとして書かねばなりません。記紀のような記述が一番無難になります。長すね彦の戴くにぎはやひの命が天皇の陣営に参加するという事は前後の二王朝の合体・融合を意味するのかも知れません。土着の神の代表である大国主神の孫と神武天皇の結婚も同じ意味を示唆します。
 記紀の叙述、特に崇神天皇に至るまでの記載は巧妙に工夫されています。神代記、神々の叙述の大半を占める高天原系神話の骨旨は婚姻秩序の確立過程です。天照・すさのおの命両神による姉弟相姦、秩序の乱れ、天岩戸への主神の引退、主神を引き出すための性的饗宴、天孫降臨、ににぎの命と此花の咲くや姫の相克、ほおりの命(山幸彦)と豊玉姫の相克を経てやっと人間世界の展開が可能になります。これらの過程はまさしく婚姻秩序の展開過程です。詳しくは拙著「天皇制の擁護 第一章」をご覧下さい。
 神武天皇には、王権確立の過程で起こるほぼすべての事跡、崇神朝や応神仁徳朝が行ったであろう、征服戦争のほぼすべてが集約されています。そして以後の8人の天皇の記載はまことに形式的です。こんなはずはありません。以後の天皇の代に政争や戦争が全く無かったというのはおかしい。それが見事に拭い去られています。あたかもスイゼイ天皇から崇神天皇までは何事もなかったかのように。もし応神仁徳朝が崇神朝の事跡も含めて、自己の王朝に有利なように記載しようとすれば、スイゼイ天皇以下の8人の天皇の事跡を丹念に書けば書くほど、自己の王朝にとっては不利になりかねません。つまり正統な後継王朝ではなくて、前代の王朝を実力で圧倒した王権という実態をさらけ出しかねません。
 以下神武天皇から開化天皇に至る九柱の天皇から分流した豪族氏族のうち主なものを挙げてみます。特徴的な事は、神武天皇の代のみ、服属ないし同盟氏族が見え、以後の天皇の記には天皇から分流した氏族のみが記載されていることです。
神武天皇-磯城県主、葛城県主、大伴氏、茨田連、阿蘇君、物部連、穂積臣
スイゼイ天皇
安寧天皇-伊賀稲置他
イ徳天皇-ちぬの別他
孝昭天皇-春日臣、粟田臣、小野臣、柿本臣など
孝安天皇
孝霊天皇-吉備臣他
孝元天皇-阿倍臣、尾張連、建内宿禰、許勢臣、蘇我臣、平群臣、紀臣など
開化天皇-葛野別、息長宿禰王他
 神武天皇は英雄王です。それは幾多の討伐戦、服属した多くの氏族名、地名伝説から容易に理解できます。また神武天皇の像は複合像でもあります。前王朝に投影された後王朝の姿をそこに見る事ができます。記紀の記載は、①宇宙開闢、②婚姻秩序設定、③英雄王の活躍、④血統の分流、そして⑤実証的歴史記述、と続きます。①から⑤までの過程は、国家形成の神話あるいは歴史を記述する順序としてどうしても必要です。こういう時、特定の人物に、建国の作業の大部分を圧縮して担わせるという手法は、歴史記述の必然として採用されます。神武天皇が実在されたか否かは 解りません。しかしこの集合表象を形成する個々の事実は幾多も存在したと思います。
 建国神話はどこの国にもあります。ユダヤ人の王国建設に関して少しだけ。ユダヤ王国はダヴィデにより作られたとされます。ダヴィデがサウルを倒して、と、あくまでユダヤ人内部の騒乱のように書かれています。実態はかなり違います。ダヴィデはユダヤ人居住地の南端に蛮居して、野盗働きをし、ユダヤ人の仇敵とされるペリシテ人へ傭兵として仕えていたようです。サウルの力が衰えた時、ユダヤ人の中に侵攻し、サウル王権を倒し、また同盟してダヴィデの王国ができました。
 
 参考文献
  古事記
  日本書紀

日本は戦後経済の危機をいかにして乗り越えたか?

2009-08-10 17:51:53 | Weblog
 日本は戦後経済の危機をいかにして乗り越えたか?

 ここに書く事は常識の範囲です。種本も明らかにしておきましょう。昭和経済史(全3巻 日経文庫)です。あまり詳しく書いても意味はありません。政治には大胆な展望と臨機応変の直感が必要です。だから理屈は単純明快な方がよろしい。
 昭和20年(1945年)8月(15日降伏)の時点で、戦前(昭和9-11年の平均)との比は
 
 鉱工業生産で  10%
  農業      60%
  実質賃金    30%
  実質消費水準  60%

でした。900万人が家屋を焼失し、保有する船舶は戦前の1/10以下、山野は荒廃し、町には浮浪児があふれていました。一人当たり一日の米配給量は300g弱。(一度それで生活してみてください、如何に空腹になるか解ります)1000万人餓死説もでたほどでした。生産は落ち、戦時に発行した紙幣は膨大ですからインフレはどんどん進行します。当時の政府はどのようにこの危機を乗り越えていったのでしょうか?教科書には財閥解体だ農地改革だとかなんとかは書いてありますが、理想は理想として、現実の政策はどうだったのでしょうか?主たる政策は三つです。箇条書きにしてみましょう。

新円切り替え 預金封鎖 
それまで使っていた円札は使用禁止となり、新しい円札が発行されます。同時に預金が封鎖されて勝手に引き出すことが出来なくなります。家庭の当主は300円、家族一人当たり100円づつ追加、これが引き出し限度です。勤労者の給与も500円以上は支払われません。この政策の意図は多々あったようですが、確実な事は通貨の流通量を減らすことです。もう一つは債務軽減です。物価は上がります。その間預金には手を付けられません。封鎖が解除されたときには貨幣価値は下がります。それまで国は国債を発行し続けてきました。終戦時の国債残高は約1500億円です。貨幣価値が下がった分、政府の債務は減少します。多分1/5-1/10に減ったと思います。銀行も同様です。要は借金棒引きです。一番借金を抱えていたのが政府でした。貸主は国民です。
(付)当時の米の値段は東京で1升(1.5kg)あたり67円です。一家四人とすればどんな生活ができるでしょうか?

戦時補償の打ち切り
被害を蒙ったのは個人だけではありません。企業も同様です。戦争遂行のために企業は政府に協力を強いられました。それには保証がついていました。戦争そのものによる被害は政府が補償すると。典型が船舶です。徴用された船がアメリカの潜水艦によって沈められれば、政府が損害を補償するはずでした。紆余曲折はありましたが、GHQの意向もあり戦時補償は廃止になります。ここでも政府は負債をチャラにしてもらいます。ために大部分の企業は資本の多くを切り捨てます。

傾斜生産方式
闇市の時代です。その市場では消費物資の方が鉄鋼等の生産財より、戦前に比し値上がりしていました。当然です。まず消費しなければ生活できないから、需要はそこに集中します。政府は生産の基礎を固めるために石炭と鉄鋼の増産に有利なように公定物価体系で高く設定します。さらにもし生産費用がそれを超えるなら、政府が補助金を出します。輸入資源の配分は石炭と鉄鋼に優先的にまわす。そういうやり方です。エネルギ-源である石炭が要る。そのためには機械が要る。だから鉄鋼が要る。石炭が増産されれば鉄鋼も増産できる。(当時鉄鉱石はかなりのストックがありました)私はこのやり方に賛成ですが、公平に見れば消費財から生産財への、従って個人から企業への所得移転でありある種の原始的蓄積でもあります。

復興金融公庫
 略して復金です。政権の交代により政策が変らないように、経済安定本部が作られました。平行して復興金融公庫ができます。建前は政府資金の補助のための機関ですが、実際は政府の出す国債を引き受ける機関です。この機関の引き受けで傾斜生産方式などへの資金提供ができました。一方これは貨幣の流通量を増加させるのでインフレを促進します。

戦後の飢餓時代政府がとった政策の大綱はそんなところです。やがてドッジが来て、日本の金融と経済を引き締めます。超緊縮財政です。デフレそして当時の言葉で言う安定恐慌です。こういう場合大企業は有利です。安定恐慌でアップアップしていところに朝鮮特需がきます。これで一息。そして外国技術の導入で各企業は力をつけます。1960年前後から日本の貿易収支は黒字を作り続けてゆきます。

政策は政策です。それより重要なことは、政策遂行に国民が一丸となれるか否かです。傍証をあげてみます。空き腹を抱え続け、食料の大半は政府の配給下にあって、高級官僚の汚職がほとんどありませんでした。私が知る限りではそういうことになります。

(以下私個人の経済私史、昭和20年から35年までのそれを語ります。口調は変ります。)

私個人の生活から見た日本経済の変転を語ってみよう。私は1942年2月25日に神戸に出生。41年12月8日太平洋戦争開始の3ヶ月後だ。父母からの伝聞では新婚旅行に米券を持参しないと食事が出なかったとか。2歳岡山県新見市の親戚に疎開。3歳終戦。記憶は無い。砂糖が配給だったのを覚えている。一人当たり一日何グラムと決められていた。私の家は家族が少なく、砂糖には不自由した。おやつ代わりに砂糖を紙に包んでもらう子がいて、いささか羨ましかった。長いコッペパンが公団と言われた米屋で配給され、人が列を成して並ぶのを記憶している。もらった時は嬉しかったが、食うとまずかった。
進駐軍と言われた米軍が片田舎までやって来る。暗緑色のジ-プで颯爽と。かっこいい。占領政策の成果点検の為だろう。怖いものは警察そしてその上にMP(米軍憲兵)と言われた時代、日本で一番偉いのはまず総理大臣、その上が天皇陛下、更にその上がマッカサ-元帥と大人に教えられる。隣家が宿屋で米軍の宿舎になり、米兵がいかがわしい女性を連れ込んでいた。二階から子供達にキャンデ-やチョコレ-トそしてガムを放り投げてくれた。みな群がった。始めて覚えた英語が、サンキュ-ベルマッチ。おやつがたいていふかし芋だったからサンキュ-は真情。
米穀は供出制度、農家は自家消費分を除いて国家に規程価格で売らねばならない。お百姓が米を隠して連行された話、米屋が麦を横流しして留置された話等、主人公はすべて顔見知りの小父さん。握り飯二つで殺人事件があったとか、闇米を拒否して餓死した裁判官がいたとか。この頃4-5歳。当時の最高額紙幣は百円。聖徳太子の像が描かれており、今の一万円札より大きかったような気がする。暫くしてお年玉を叔父から三千円(記憶錯誤?)もらったようだから、すぐ千円札が出たのか?
6歳で小学校入学。学校給食の洗礼を受ける。始めはパンとミルクのみ、時に乾燥させたりんごか梨、これが楽しみだった。ミルクの半分は粉状でどろどろ、飲むのは苦行。私があまり生活に不自由しなかったのは叔父の家が酒屋だったから。裏話もある。後年母親から聞いた話では、酒を少しだけ水で割る。塵も積もればなんとかで、集めれば相当な量になる。こんな事は皆していた。余った酒を他の物と交換。酒はいつの時代にあっても必需品。だから統制は厳しい。これでは酒屋なんかしていても儲からない。顧客も顧客への販売量も価格も固定され報告を義務づけられていた。酒が酸敗するとその量を報告して廃棄する。勝手に酢にして売ったら手が後ろに廻る。父親が勤務地の大阪からよく来ていた。事情の一つが食料集め。駅でリュック満載の父親が警官に尋問される。叔母が気を利かして警官にごにょごにょ。なぜか素通りだった
京都に一年、そして名古屋に転居。8歳。この頃よく聞く米人の名前がドッジ。父親がドッジの為に不況になる不況になると心配していた。父親は野村證券に勤務、法人部金融法人課長と教わる。だからドッジラインには敏感だったのだろう。子供心にはこの名前は悪人のように響いた。夕食後父母と弟の四人でりんごを一つ食べる。だから四部割り一個しか食べられない。時々弟の分を横取り。どういうわけか毎日りんごを食べた。梨だと大歓迎。そういうわけで今でもりんごは安物に見える。パンに関しても同様。米の不足をパンや麺類で補う。称して代用食。すいとんも同じ。だからいくら高価なパンでも私には豚の餌に見える。米がなによりの時代。称して銀シャリ。滋賀県から来たという闇米売りの訪問を受けたのを覚えている。名古屋でよく見たものは傷痍軍人が軍歌などを演奏して喜捨を求める姿。京都も名古屋も乞食浮浪児が多かった。靴磨きの少年も多かった。宮城真理子の歌が実感をもって響く。名古屋で始めて外食を経験する。明瞭な記憶にある料理屋の体験はここが始めて。とんかつと名古屋コ-チンの水抱きの味は絶妙。デザ-トがメロン、初体験。専門家が作った料理という美味なる物の存在を始めて知る。日本経済の成長も始動開始か。1953年3月24日名古屋を去る。金の鯱矛よさようなら。
 11歳大阪府下の豊中に転居。この頃から日本は豊かになり始めた。父親が新しい物好きで電気洗濯機を買ってきた。現在の洗濯機の機能とは雲泥の差。丸い深いたらいの中でただ洗濯物をがちゃがちゃと揺さぶるだけという感じ。電気洗濯機や電気掃除機等のいわゆる第一次三種の神器を持っていたのはクラスで三人だけ。わざわざ教師が皆に尋ねたので覚えている。ちょっとしたステイタス。小学校では体育用の服は無い。男児は下着のまま運動した。14歳テレビ購入。早川電気の製品。父親の話では技術はシャ-プとか。それまで町内でテレビを持っているのは一軒だけ。大相撲の中継を皆その家に集まって観戦。栃若時代の始まりだった。この頃の食生活には不足感はない。食べ盛りで大いに食う。ついた仇名がブ-チャン。扇風機を使い出したのもこの頃。一度買うとあれよあれよいう間にモデルチェンジして便利になって行く。首の回転、風速の調節、カラフルに、より軽量になる。やがて一人一台。高校2年、日清の即席ラ-メンが出る。ものすごい人気、美味かった。即席ラ-メンと高度経済成長とは明らかに因果関係があるとは、私の直感そして憶測。

経済人列伝、石橋湛山

2009-08-08 02:53:14 | Weblog

    石橋湛山

 石橋湛山の名を知っておられる人は60歳以上の人だけでしょう。彼は昭和31年(1956)に首相になりました。わずか2ヶ月後に辞任します。病気が原因ですが、その潔さは当時の評判でした。私が彼に関して知っていた事はそのくらいでした。最近、なぜ戦後日本から大量の餓死者を出さなかったのかと、考え、また石橋湛山が当時の蔵相である事を知った時、この人物の財政政策に興味が出てきました。
 終戦直後、日本の経済は崩壊します。あるいはそう見えました。この時の財政政策の基本は復興金融金庫(通称フッキン)と傾斜生産方式です。この政策のおかげで戦後猛烈なインフレになります。ところでもしインフレにならなかった(あるいは、しなかったら)どうなっていたでしょうか?私は日本の経済は崩壊し、予想通り1000万人の餓死者がでたのではないかと、思います。インフレになる(する)、と、企業は物を作ります。ともかく作れば売れる、儲かる、となると、物はどんどん作られるでしょう。企業は生き残るために、そこいらじゅうをさがして資源をかき集めて、生産します。眠っていた生産力を復活させます。前大戦でどのくらい日本の工業力が破壊されたかは、人により評価は違います。だからかなりの生産力が遊休状態にあったのかも知れません。復活金融公庫から債権を出させそれを日銀引き受けにして通貨量を増大させて、生産を賦活する方法をとった財政家が石橋湛山です。
 石橋湛山(幼名省三)は明治17年(1884年)、東京に生まれます。父親は後に日蓮宗身延山久遠寺81代法主になった杉田湛誓です。湛山は当時の仏家の習慣に従い、母方の石橋姓を名乗ります。やがて同じ日蓮宗の住職望月日謙の元に預けられ、修業させられます。
 早稲田大学に入学、文学部で哲学を専攻します。彼は大学でクラ-ク博士(札幌農大)の教えやプラグマティズムに興味を持ちます。島田抱月の主宰する早稲田文学にも投稿しています。こういう影響で彼はリベラリストでした。リベラリズムの定義は難しいのですが、ここでは省きます。彼の方向は政治と文学の統合にあったと、言いますから、遠大な抱負を抱いたものです。この間兵営に入隊します。社会主義者と間違われていたらしく、上官からたいそう丁寧な取り扱いを受けたというエピソ-ドがあります。
 1911年27歳、東洋経済新報社に入社、言論人としてのスタ-トを切ります。新報社は「東洋時論」という雑誌を発行しており、湛山はその編集に従事します。当時でだいたい3000-5000部売れていたようです。以後1945年の終戦まで、彼はこの会社に勤めています。1925年、41歳主幹・代表取締役、つまり最高責任者になります。鎌倉町会議員になり、経済倶楽部を作り経済学的思考の普及に努めます。東洋経済新報社は現在も、多くの経済学書を出しており、この分野の出版では一方の雄です。新報社からは、後に高橋亀吉、小浜利得など在野のエコノミストが出ています。私もこの出版社の本は100冊以上読みました。経済に関心を示す者にとって、ここの本は避けられません。そういう会社です。
 前後して湛山は経済学を独学し始めます。セリグマンやミルの本から入ったそうです。以下湛山の言論人としての主張を列記してみましょう。彼の意見は明白で書いたものが残っているので整理し理解しやすいのです。
移民不要論、植民地不要論。当時日本は貧乏国だから移民政策がとられていました。湛山はこれに反対します。論旨は生産力を育て、貿易を活発にすれば、財貨は増え、国は豊かになる、です。貿易して相互に豊になれば植民地は要らないと彼は言います。
 ソ連の革命への肯定。リベラリストとしては当然かも知れません。多くの知識人、特に自由主義者はこの革命にロマンを抱き、またソ連の国家管理経済は不況に悩む国からはある種の憧れをもって見られていました。
ドイツ戦後処理への反対論。周知のように第一次大戦後の連合国によるドイツへの賠償請求は過酷でした。湛山は反対します。この点ケインズも同様でした。
護憲運動。
普選運動。財産による差別のない普通選挙実施を要求します。湛山はこの運動の急先鋒でした。普選運動が始まった当時、日本の人口の3%が投票権を持っていました。
 軍備撤廃論。
 日英同盟の破棄提唱と日米協調。
新平価解禁論。井上蔵相が旧平価(1弗2円)で金解禁をしたのに対して、実際のレイトである、100円=約40ドル、のレイトで解禁しようという事です。日本とイギリスは旧平価でフランス・イタリアは新平価で金を解禁しています。結果は既に述べたとおりです。
 満州国建国反対。植民地不要論から出てくる当然の結論です。かれは広大な中国に先進国の資産と企業力(技術と考えてもいいでしょう)を導入して、中国を開発し、共に豊になろう、と主張します。この主張は現在実現されつつあると言えましょう。
 大東亜共栄圏批判。ともかく封鎖的経済圏はいけないと言います。
日独伊三国同盟反対。湛山の基本的志向は日米協調です。当時の軍部はソ連を目して、同盟を結んだのこうなったのでしょうが、つまらない同盟を結んだものです。
小日本主義。大日本主義に対してこういいます。日本は領土を広げる必要はない、満州などに綿々とせず、古来からの国土の中で、産業を振興して貿易を増大させれば、結局それの方が、得だ、という事です。現在そうなっています。
大戦中湛山は軍部や東条首相から目をつけられていました。会社を田舎に疎開させ細々と経営するうちに終戦を迎えます。敗戦に際して、湛山は「前途洋洋」と言いました。この予言も当たっています。
 昭和21年(1946)衆議院選挙に立候補し落選します。総選挙直後第一次吉田内閣ができます。5月、吉田茂に乞われて、蔵相に就任します。言論人から蔵相になったのも嚆矢ですが、湛山はその時議席をもっていませんでした。蔵相としての湛山の方針は、戦後補償打ち切り、復活金融金庫による債権発行、傾斜生産方式、終戦処理費でした。戦後補償打ち切りとは、戦争に協力した企業が爆撃等で蒙った被害を政府が補償する事です。これを打ち切る事はGHQの意向でもありました。企業や財閥への援助を湛山は打ち切ります。これは彼の、積極経済と経済的自由主義に基づくものです。経済活動はなるべく自由にさせておいた方がいい、政府の援助は有害という発想です。終戦処理は、米軍による勝手な日本の予算消費をやめさせる事です。占領軍の威光を着て、末端の米軍将校までが勝手な建築などに予算を使っていました。日本の国費を用いて、駐留米軍の世話までする必要はないとして、湛山はこの方面の予算を大幅に削ります。これで彼は米軍・GHQににらまれました。当時この終戦処理費は全予算の36%に及びました。米軍としては賠償金のつもりだったのでしょう。極端な一例を挙げます。駐留軍用の野菜を栽培するプ-ル建設が行われていました。日本の野菜は糞尿を肥料とするので汚くて食べられない、とかの理由です。当時の日本人1人の一日分配給米の量は300g弱、一食は軽く茶碗にもって一杯でした。
 傾斜生産方式は、予算(外貨の場合はドル)を重点産業に特に篤く配分する事です。重点産業は石炭と鉄でした。石炭を増産し、列車を動かし、また石炭で鉄を作り、鉄で石炭採掘用の機械を作る、という按配です。最も基礎的な産業に徹底的に投資する、という作戦です。復活金融金庫を通じて債権(復金債)を発券し、それを日銀引き受けにする、言ってみれば新規の貨幣増刷です。
 湛山は、財閥にも米軍にも予算の浪費をやめてもらい、少ない予算と資源を徹底的に基礎産業に投資する。そして復金債でもって企業活動がやりやすいように、経済をインフレ気味にもって行きました。どう放っておいてもインフレは必至です。そうならインフレの波にのって増産すれば良い、とまで考えたのかも知れません。ただこの方向で経済を運営すれば、産業の活動力は最大限引き出せます。そしてインフレは資産移転を伴います。得をするのは、企業と労働者です。産業の基幹部分を優遇しようと考えたのかも知れません。
 GHQの方針はインフレを抑える事に重点が置かれていました。ここでGHQと湛山の方針は対立します。湛山と吉田茂の仲もおかしくなり始めていました。昭和22年(1947)5月湛山はGHQにより公職追放の処分を受け、大臣と議員の職を同時に失います。湛山は戦前の言動に自信をもっていたので、寝耳に水でした。以後の湛山の政治活動で興味を引くのは、吉田政権後できた鳩山政権の後継のイスを巡り、石橋石井の2・3位連合を組み、岸信介に逆転勝利して、首相に就任した事です。しかしこの政権は彼を襲った病魔のために、2ヶ月で終わりになります。
 経済あるいは財政の運営は、拡大か引き締めかのどちらかです。要は状況判断しだいで、どちらが正しい・間違っているというような問題ではありません。戦後1000万人餓死説が出た頃、インフレの波に乗って経済を拡大し、生産力の基礎を造った湛山の財政があったからこそ、我々は生き残り、また以後の経済政策も可能であったのではないのかと、考えています。湛山の思考がすべて首尾一貫しているとは言えませんが、日米独三国の経済提携、ヤルタ・カイロ・ポツダム宣言破棄、ドッジライン廃止、などなど常識に捉われない大胆な発想が興味を引きます。湛山の経済政策は、経済重視、生産第一主義、交易による相互繁栄、従って軍備不要、そしてなによりも楽天主義に特徴があります。1973年(昭和48年)死去 享年88歳

  参考文献
   石橋湛山    中央公論
   昭和経済史   日経文庫


経済人列伝、御木本幸吉

2009-08-04 02:34:55 | Weblog
     御木本幸吉

 御木本真珠店、現ミキモトの創始者であり、養殖真珠を開発し、真珠王と異称を取った、やや怪物めいた実業家です。彼、御木本幸吉は安政5年(1858年)に鳥羽(三重県伊勢市)で生まれました。生家はうどんの製造販売を営む。ほどほどの地方商人です。祖父吉蔵は「後ろに眼がある」とまで言われた機敏な商人であり、一代でかなりの産をなしました。大伝馬船10艘と蔵5棟を所有したと言われます。逆に父親の音吉は、商売より機械の改良開発に熱中し、親の遺産のかなりの部分をなくします。音吉は粉挽機の改良で表象されています。幸吉はこの祖父とこの父双方の才能を受けて生まれました。幼名を吉松と言います。体系的な学習はしていませんが、相当な勉強家です。13歳、家業を手伝いながら、青物の行商を始めます。鳥羽港にイギリスの軍艦が来ました。青物を売りに出ます。他の商人は追い返されましたが、幸吉は小舟の上で得意の足芸を披露します。軍艦の乗務員はこの即興に魅かれ、幸吉を艦上にあげ、商品を全部買ってくれました。この足芸は仰臥して足で傘や球を転がす芸当です。幸吉はこれを鳥羽に来た狂言師から教わりました。単なる余興として教わったのではありますまい。この日のような状況が来る事を予想していたのでしょう。強引で俊敏で抜け目のない人柄を思わせます。足芸は以後の幸吉の人生の様々なところで役に立ちます。明治天皇の前でも披露したそうです。
 明治9年、18歳の時に米穀商を始めます。同年地租改正。米納が金納になります。米の投機の機会が増えました。そこそこの成果はありましたが、小資本なので大きな成功はみこめません。家督を相続し、幼名の吉松を店号である阿波幸から取った、幸吉に改めます。同年横浜・横須賀を見学。ここで中国商人が、干しあわび、干しなまこ、寒天等を大量に買っている光景を見ます。彼らは真珠も商っていました。海の国では海の産物を商うべきだと、幸吉は思います。帰路ちょっとした挿話があります。同行の人が箱根の街道で失神した時、幸吉は持参していた宝丹という薬を与えました。病人は息を吹き返します。この事件を新聞は、人命救助の美談として、大きく取り上げました。その影響で宝丹は一時期販売量を増やします。この時幸吉は宣伝、特に当時新しい宣伝媒体である新聞の、効果を実感します。
 23歳、元鳥羽藩士剣道師範久米盛造の長女うめと結婚します。うめは賢夫人でした。平民であった幸吉が士族と婚姻関係になるという事は、彼の社会的地位を上げました。維新以後間もない頃です。その間町会議員、県商法議員になります。商法議員として幸吉は、直輸出の必要性を説いています。当時、日本産品はすべて中国商人を通して輸出され、甘い汁を吸わていました。幸吉は海産物取引を始めます。
 30歳幸吉の生涯の事業である真珠養殖を始めます。大日本水産会会長であり、海軍少将である柳楢悦と知り合い、彼のつてで神明浦を漁場として借り受け、一定の施術をした貝を養殖します。3年後5個の大きな真珠(半円)が収穫されました。この間鳥羽の近くに小川小太郎という人がいて、真珠養殖に先鞭をつけています。幸吉も師事したらしいのですが、詳細は不明です。35歳、英虞湾の中の無人島田徳島(後に多徳島と改名)に御木本真珠養殖場を造ります。同時に半円真珠の特許を取ります。この特許をめぐって他の業者と紛争が頻発します。38歳真珠の養殖販売に専念すべく、他の商売からは手を引きます。42歳、明治33年時の、売り上げ真珠総数は4200個、金額は8400円でした。
 この間幸吉は養殖した真珠を博覧会に出し、新聞の宣伝も利用します。特に皇族や海外の王族には積極的にプレゼントします。わざわざパリで加工します。パリはこの種の技術の本場でした。彼の経営方式は個人経営でした。銀行から借金は一切しません。この事で大蔵大臣井上準之助から皮肉を言われた事もありました。また商品である真珠は厳選方式で売られます。粗悪品や失敗作はすべて焼却されました。この辺は徹底しています。「養殖真珠」という名称を広めたのは幸吉です。その事により、真珠は御木本、という印象を世間に与えてしまいました。実際、真珠養殖は彼だけの功績ではないのですが、この印象により幸吉は真珠養殖唯一の開拓者であるという名声を獲得します。世界の真珠王と言われるようになります。先にあげた柳楢悦のような政府に直結する人物とは積極的に関係を結びます。特に東大の水産学者グル-プとは親交があつく、技術上の援助を彼らから獲得します。三重県知事等は抱きこんでいた形跡もあります。しかし彼が接触する人物は彼に好意的でした。なによりも養殖真珠は外貨獲得に貢献して、国策に乗っていました。41歳、東京銀座裏に御木本真珠店を開店します。製造のみならず販売にも進出します。さらに御木本金細工場も設置し、欧米の貴金属加工技術も導入します。この辺が幸吉の商売の上手いところです。単に真珠を作って売るだけでなく、それで貴金属で装飾すれば、付加価値は倍増します。このように複数多種の企業を組み合わせる事により経営は安定し、市場占有率は増加します。以後の真珠市場は御木本対反御木本の構図になります。
 真円真珠養殖技術が要望されます。いくら光沢が優れていても半円は半円です。まったき球形の真珠,真円真珠でないと本当の真珠とは言いがたいでしょう。真円真珠の養殖には3名の人物が貢献します。見瀬辰平、西川藤吉、桑原乙吉です。西川は幸吉の女婿、桑原は御木本の社員です。桑原の本職は歯科医師ですが、彼は真珠養殖に興味を抱いた天性の研究者でした。3者の間で、そして御木本と他の業者の間で特許独占を狙って紛争が持ち上がります。幸吉は開拓者のうちの二人を抱えているので、特許独占を謀ります。
 養殖技術について簡単な概略を説明します。技術の基本は「①適当な物質片を②食塩で磨くか濃い食塩水に浸して、③生きた貝の外套膜と貝殻の間に挿入する」事にあります。御木本の特許の基本は以上の通りです。この内②の過程は不要なようです。ですから技術の進歩は、いかなる物質片をいかなる道具を使って挿入するかにあります。
 結局御木本の真珠養殖技術の特許独占は破られました。しかしそれで御木本が特に困ったという事はないようです。技術が公開されると、粗製乱造になりました。こうなると御木本の厳選主義が生きてきます。返って御木本のブランドが上がります。
 御木本幸吉が真珠養殖技術の開拓者かどうかと言えば、若干疑問は残ります。良く言って、幸吉は養殖技術者でありまた商人でした。初期にはともかく、それ以後彼は技術開発そのものにはあまり関係していません。女婿の西川と桑原に任せたきりです。西川はやがて御木本を離れます。最後まで、御木本に貢献したのは桑原乙吉でしょう。私は桑原を天性の研究者と言いましたが、別の表現をすれば彼は技術馬鹿でもあります。彼がいたから御木本は養殖真珠開拓の第一人者という看板を上げ続ける事ができました。桑原に属すべき特許の過半が御木本の名義になっているようです。
 特許独占をめぐっての闘争の傍らでは、漁場独占で周囲の村と御木本は扮装を起こします。真珠貝を養殖する内海を御木本は廉価で借りていました。あくまで漁場を独占しようとする御木本と漁村特に立神村との間で激しい紛争が起こります。結局、御木本は敗退します。
 養殖真珠が欧州に輸出されると、当地の真珠販売業者の利害と衝突します。イギリスとフランスで、養殖真珠は模造品だと言われました。この件に関しては英仏の専門家が養殖ではあるが天然産と品質は変らないと、断言し沙汰やみになります。
 太平洋戦争が始まります。欧米では資産凍結令にあいます。輸出はストップします。国内では奢侈品製造販売制限規則が定められます。真珠などは戦争遂行に最も役に立たないものです。しかし御木本幸吉はこの危局を切り抜けます。貝は食肉用に養殖し、また薬用品製造にも養殖技術を転用します。金細工場の技術は造幣局の下請けに利用されます。養殖場は縮小され細々と営業が続けられました。
 終戦になります。世界の真珠王の名声を博していた幸吉の経営する真珠養殖場にはGI(進駐軍の米兵)が見物に押し寄せます。月平均3000名という事でした。混乱を避けるために、米軍司令部は中尉を長とする3名の軍人を鳥羽に派遣しました。こういう状況は幸吉の出番でしょう。戦後の混乱も収まった昭和29年(1954年)御木本幸吉は96歳で死去します。正四位勲一等瑞宝章を授けられています。
 御木本幸吉に関する逸話は豊富です。ご本人が自己宣伝の大好きな人でしたから。明治38年幸吉は三重県から選ばれ、天皇に拝謁します。この時彼が言った言葉は有名です。「
世界中の女性の首を真珠でしめてみせます」と言いました。この事はほぼ実現します。昭和2年(1927年)幸吉は渡米しました。エジソンとの対話でエジソンは「おれはいろいろな発明をやったが、ダイヤモンドと真珠だけは化学的にできなかった あんたは真珠を動物学で作ったんだから偉い」と言ったという事です。
 御木本幸吉は人前に出る時、山高帽と木綿の羽織袴で通しました。人の意向をついた衣装です。明治天皇の前でも、フロックコ-トに身を固めた貴顕紳士を尻目に、このかっこううで現れ、スピ-チは3分以内という事前の注意もなんのその、17分間滔滔としゃべったそうです。奇行と大言壮語を好む天真爛漫な性格である一方、強引で俊敏で狡猾なところも充分にありました。
 御木本幸吉は商売人でしょうか、それとも発明家でしょうか?どちらでもあります。真珠養殖の初期を除いて彼は直接に技術開発に参加していません。しかし技術が単に技術として開発されただけでは、技術は成立しません。技術を生かす工場組織、関連する技術や企業との連携、なによりも製品の販売、資金の融通などなど、諸々の要素からなる機構が必要です。つまり生産技術は商売・経営の中に納まらなければなりません。このように広く見た時御木本幸吉はやはり養殖真珠の開拓者であります。同時に商売人であり、プランンナ-でありプロモ-タ-でした。
 御木本真珠店は1972年にミキモトと改称します。現在年売上高が305億円、社員総数は596名です。関連会社には御木本真珠島、御木本製薬、御木本化粧品などがあります。
 参考文献
  御木本幸吉---吉川弘文館