経済(学)あれこれ

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   日本史入門(27) 補遺 和宮内親王 

2021-01-20 14:55:06 | Weblog
日本史入門(27) 補遺 和宮内親王

 和宮内親王は1846年5月、仁孝天皇の皇女として生まれています。母方の実家は橋本家、禄500石の名家です。母親の名は経子、典侍です。和宮は幼名で諱は「親子(ちかこ)」と言います。誕生に先立って父帝である仁孝天皇は同年の1月死去されております。同年5月アメリカインド艦隊司令官J・ピッドルは軍艦二隻を率いて浦賀沖に来航し、開国通商を要求しています。朝廷は幕府に、海防を厳重にするべく勅諭を下します。いかにも和宮の将来を暗示する動向です。和宮誕生時、兄の孝明天皇は16歳でした。なお敏宮という18歳上の姉がいました。ともに異腹です。1851年4歳の和宮は有栖川宮家の幟仁(たかひと)親王と婚約されています。
 徳川14代将軍家茂と和宮の結婚の話が公然と持ち上がったのは万延元年(1860年)四月、井伊大老が桜田門外で殺害された直後の事です。ただし井伊大老執政当時から皇女を将軍に降嫁させるという話はありました。井伊死去後幕府の主導権は著しく低下したので、朝幕一和、公武合体で幕府の権威を立て直そうというのが幕閣の意向です。ただしこの婚姻には「攘夷断行」という大きな問題があります。幕府としては朝廷の権威を借りたいし、朝廷(特に孝明天皇)にとって攘夷断行は公武一和の絶対条件でした。結論から言えば「攘夷」などできません。幕府は「するする」と言いつつ違約を繰り返し、最後には孝明天皇の死去により、幕府は攘夷の鎖から解放される結果になりました。攘夷の証しとして和宮は降嫁したのですから、そこに彼女の悲劇といえば悲劇があります。そもそも井伊大老が殺害された最大の原因は、井伊が朝廷の意向を無視していわゆる違勅の日米修好通商条約を結んだことにあります。和宮降嫁は全くの対症療法、時間稼ぎでもありました。孝明天皇はこの幕府による和宮降嫁の請願を拒絶します。しかし天皇の諮問に対して岩倉具視は賛成の意見を具申します。肝心の和宮は降嫁には絶対反対でした。理由はいろいろありますが、京都の公卿世界に慣れた内親王が、異文化(と思えたでしょう)である江戸城中の生活を嫌がったこともあります。もっとも天皇・将軍レベルの人たちにとって政略結婚はあたりまえなのですが。
 1861年4月和宮内親王宣下、諱を「親子」と定められます。翌年1862年文久2年和宮と家茂の婚儀が執り行われます。降嫁に際して天皇は和宮に「将軍に攘夷断行の旨を伝えるように」との内意を示されます。家茂との結婚生活は1862年2月から家茂死去の1866年6月までの4か年半になります。しかし幕府は大変で家茂はその間三度上京しています。徳川将軍が上京するのは三代家光の寛永以来です。ですから和宮と家茂の結婚生活は極めて短いものでした。ただ両者の関係は鴛鴦の契りならずとも円満なものでした。家茂和宮の間の問題は二つあります。一つが前記した攘夷の問題です。幕府は違約を重ねますから、その度に和宮の京都帰りの問題が持ち上がります。特に家茂死去後は和宮の朝幕間における存在意義がなくなりますので京都帰還の問題はきつくなります。もう一つは江戸城内大奥との関係です。当時江戸城の大奥の実権者は天璋院でした。天璋院は薩摩藩主島津斉彬の養女で13代将軍家定の御台所・正妻でした。天璋院も幕府と西南雄藩との結びつきを強化するための政略結婚の当事者でした。和宮と天璋院との関係は下世話に言う嫁姑の関係にあります。両者とも引き連れる侍女の数は300名に及びます。京都と江戸の気分・文化の差もあります。侍女たちの待遇の問題もあります。騒動の種はそこら中に転がっていました。しかし和宮と天璋院の関係は穏当に行きました。原因は両者とも自分の置かれた立場・使命を心得ていたからです。天璋院に関しては逸話があります。明治になり徳川家の台所が苦しくなった時、明治政府の薩摩閥は天璋院に対して実家の薩摩藩から援助しようと言い出します。天璋院は、自分は徳川に嫁いできた者、としてその申し出を断ります。
 家茂が死去し徳川の後嗣を決める時、和宮は夫家茂の遺言である田安亀之助(家達)を退けて、成人し英明の聞こえの高い慶喜を後嗣に挙げ、慶喜の次を家達に決めました。もちろん和宮の単独の意志でそう決められるものではありませんが、そういう確固とした意志を持った人であったようです。家茂死去後、和宮はてい髪し静寛宮と呼ばれるようになります。この頃作った和歌に、
   空蝉の唐織ころもなにかせむ、綾も錦も君ありてこそ
があります。和宮も家茂も結婚時はともに17-18歳でありました。和宮の方が少しだけ姉さん女房であったようです。なお和宮は15代将軍慶喜に攘夷断行を懇請しています。また兵庫を開港した事で幕府も朝廷も共に開国に踏み切ったわけですから、和宮降嫁の意義もなくなります。
 家茂死去後情勢は急変し続けます。孝明天皇の崩御、薩長同盟、第二次長州征伐の失敗、大政奉還、鳥羽伏見の戦いと事件は次々に展開され、15代将軍慶喜は江戸に逃げ帰り朝廷に対して謹慎の姿勢を取り続けます。朝廷の側では、特に西郷隆盛などは慶喜の切腹を要求していました。慶喜から和宮に助命嘆願の訴えが届きます。朝廷の方でも和宮の安否を気遣い、幕府内和平派である大久保一翁や勝海舟に和宮の保護を依頼しています。
 和宮の存在は徳川家存亡の危機においては重要な意味を持ちます。ある意味では彼女は人質でもあります。そして同時に朝廷官軍に対する窓口でもあります。慶喜はまず天璋院に目通りし徳川家と慶喜自身の救済斡旋を依頼します。天璋院の取次で慶喜は和宮にも同様の事を依頼します。和宮は救済の斡旋のみ引き受けます。官軍の鎮撫総督は和宮の母方の実家橋本家の人物ですから、まずそこに侍女を遣わします。さらに京都朝廷に救済依頼の慶喜の手紙を言づてします。和宮は慶喜に手紙を書き替えさせました。和宮の手紙には、仮に徳川家が滅亡すれば朝廷がいかなる措置を施そうとも自分は自害する、という意味の一節があります。天璋院と和宮はこの事態にあって、本来敵側の人物です。このような人物がいて徳川家の為に尽力してくれたことは徳川家のみならず、日本全体の運命にとっても大吉とすべきことです。徳川家と官軍の交渉は後宮のみで為されてわけではありませんが、和宮と天璋院の存在は無視できないでしょう。
 1869年(明治2年)正月、和宮は京都に帰ります。聖護院を住居とします。1874年(明治7年)すでに東京と改名した旧江戸に帰ります。1877年(明治10年)死去、享年32歳です。

[君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行