経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

東京裁判史観に思う

2013-03-27 02:50:08 | Weblog
東京裁判史観に思う

 3月13日の毎日新聞朝刊に安倍首相が、日本の戦後史は東京裁判により大きく規定されているむねの発言をされていた。毎日新聞の意図としては、この発言を日本のいわゆる右傾化の兆候の一つとして宣伝したいのだろうが、私は安倍首相の慎重な発言を惻隠して、この主張に賛同する。
 東京裁判はドイツでのニュ-ルンベルク裁判と並び、第二次大戦の総責任を日独両国に一方的に押し付け、両国を道徳的に断罪した裁判である。ここでドイツのことはさておく。東京裁判は敗戦と共にその作業が行われ、昭和23年までに、A級「戦犯」7名、BC級「戦犯」1000名以上が処刑された。処刑以下の懲罰を受けた者は無数に及ぶ。A級被処刑者(私は戦犯と言う言葉が嫌いであり、この言葉が語義矛盾を含んでいるので、被処刑者あるいは被懲罰者という言葉を使う)は東条英機、木村兵太郎、土肥原賢治、板垣征四郎、松井石根、武藤章、広田弘毅氏達7名である。フィリピンや中国などの現地において処刑された将領も多い。米軍捕虜に善意で牛蒡を食べさせただけで、木の根を与えられたといわれて処刑された下級軍人もいる。
そもそも「戦争犯罪」という概念が滑稽である。戦争とは政治の延長であり、利害関係清算の手段だ。その手段は暴力行使である。そしてこの暴力行使には原則として制限がない。捕虜を取るか否かは現地の指揮官に任される。作戦の都合上捕虜が殺害されたことは枢軸連合両陣営において頻繁に起こっている。暴力行使、施設破壊、人名殺傷を本来の目的とする戦争なる行為において、何をもって犯罪と言うのか。この曖昧な語義しか含まない「戦争犯罪」なる概念によって何を、そして誰を裁こうというのか。米軍による広島長崎への原爆投下は正当な軍事行為なのか、それとも戦争犯罪なのか、どうとでも言える。
敗戦後しばらくの間の米軍による日本統治の原則は明確である。日本を非工業化し、日本のエリ-トを抹殺することを目的にしていた。軍事行為に対する処罰のみならず、経済行為に対してもすべて戦争協力の名の下に多くの人士が追放された。若干の例を挙げれば日立の小平民平、中島飛行機の中島知久平、三菱の岩崎小弥太、TV開発者の高柳賢三、そして松下の松下幸之助などなどがいる。松下などは軽電機機械専門で全く非軍事的産業だ。しかし軍事技術に役立たない工業は無い。高柳賢三は一介の工学技術者でTV開発の先駆者だった。その技術が敵機探索に利用されただけだ。本来日本は戦争をしていた。それも総力戦だった。戦争を行っている国家が持てる技術を総動員するのはあたりまえだろう。その伝でゆけば日本国民全体が「戦犯」になってしまう。事実日本の大企業の役員層は総入れ替えになった。追放は下部末端に及び、町内会長から憲兵の下級士官までが公職追放の憂き目にあった。占領当初における米軍の目的は明らかに日本の統治と経済そして文化の壊滅にあった。この事実にまちがいはない。小日本主義を唱え帝国主義的膨張を批判し、戦争反対であった石橋湛山を追放にしたにいたっては茶番でしかない。自国の利害優先がすけて見える。繰り返すが戦争は政治の延長であり利害関係の清算手段なのだ。国内の犯罪なら公平な裁判官はいるが、国際間の紛争にはそんなものはない。だから戦争が終結したら条約を結び賠償・領土割譲などで利害を調整する。これでおしまい。国際間の紛争に倫理道徳の入る余地はない。仮に敗戦後日本国民が戦争指導者を裁くのなら、もしそうなら戦争犯罪という概念は妥当なものになる。
よほど我々日本人は戦争への贖罪感を刷り込まれたらしい。敗戦で日本的なものはすべて悪となった。歌舞伎や時代劇は禁止され、歴史という科目はなくなった。日本史を公然と教えてはいけなかった。だから敗戦以前の歴史、武家政権も律令制も摂関政治もすべて劣悪ないし、邪悪なものとされた。自国を護ってはいけない、そのために他国と攻守同盟を結んではいけない、という世界史上にも稀で珍奇な平和憲法なるものを持たされ、日本人は世界の政治現象(そこには争乱と戦闘が満ち溢れている)から隔離されたガラスの箱の中に置かれた。未だに国家のために散華した軍人を祭る靖国神社への首相参拝は妨害されている。妨害するのは中韓という反日諸国のみならず、一部の左翼インテリたちだ。
アメリカの元大統領ブッシュ氏(息子のほう)は聡明な頭脳の持ち主とは聞いていない。だから彼のいう事は彼の無知からくるのかもしれないが、イラク侵攻のおり「日本に民主主義を教えたように、イラクにも教えてやる」と豪語し暴言を吐いた。日本は敗戦後10年で完全に立ち直った。イラクでは未だ戦闘が絶えず、貧窮化したままだ。この違いはどこから来るのか?ブッシュ氏などに教わらなくても、日本には民主主義(民意を円滑に政治に反映させる機構とくらいにとっておこう)はあった。戦前からのみならず、維新以前からあった。現在日本史でそういうことがどんどん明らかにされてきている。そもそも米軍のイラク侵攻自体に正当性はない。イラクでどんな政治が行われていようと、それはイラク国民の選択の結果であり、米軍が四の五のいうべき事柄ではない。
現在日本の政治は一大転機を迎えている。TPPなる問題にしても、これは単なる経済問題ではない。安倍総理はTPPに積極的に参加すると宣言された。問題はこれからだ。国民皆保険制度、簡保、ISD条項などなど、非関税障壁でいちゃもんをつけられそうなことは限りなくある。40兆円規模の日本の医療資本は米国のハゲタカ金融機関にとって垂涎の的だろう。ゲリラ的に対応しあくまで聖域は護ろう
TPP問題は日本の外交の在り方にとって転機になる。外交とは力だ。外交の背景には経済力のみならず軍事力も必要だ。外交とは本来ピストルを相互に構えあって行うものだ。今の日本にはこの力、意気、必要性の認識がない。尖閣問題でアメリカが最後まで日本の利益に忠実になってくれると思うのは大間違いだ。早急に憲法を改正し、核武装して軍事力を充実し、対等な立場でアメリカと同盟を結ぶべきだ。軍事力をおろそかにし、日本の防衛を米軍に任せている限り、外交は敗北する。TPP問題はいい転機なのだ。
(注)第二次大戦中ソ連軍によりポ-ランド軍将校数千名が虐殺されカチンの森に埋められた。これは否定しようのない事実なのだが、ソ連あるいはロシアはこの件で一切謝罪はしていない。松井石根大将はいわれなき南京事件で絞首刑になった。これが勝者と敗者の差というものだ。
(注) 日本を占領した連合国軍総司令官マッカ-サ-陸軍元帥は太平洋戦争初頭、日本軍によりフィリピンから追い出されている。米軍(GHQ)の総司令官としての彼の対日占領政策には、この敗退の苦い記憶が反映されているようだ。東京裁判にはマ-カ-サ-の個人的報復という臭いも多分にある。東京裁判における米軍側の司法官達はどうみても米国本土の一流の人材にはみえない。マッカ-サ-のポケットマネ-で雇われたという印象すら抱く。

(追記)
産経新聞(21日)の報道によれば、海上保安庁は、日本領海内で操業する日本漁船に対し、中国の公船が日本領海内に入ってきた場合領海外に退去するべく指示し、漁船もこの指示に従っているとのことだ。理由は中国の公船が日本領海内で日本漁船を逮捕することにより、尖閣周辺の日本領海を中国政府の権利行使の場となすことによって、中国領海として事実上支配した実績を造る事にあるという。もしかかる行動が中国により為されたならば、日本政府も抗議のみならず、同様の措置を中国漁船に対して行えばいい。つまり日本領海内で操業するか許可なく侵入した中国艦船を即逮捕して日本国の法規で裁けばいいのだ。目には目を歯には歯、これが原則だ。

(追記)ロシアと中国が領土問題で核心的利益云々を確認しあったという報道があった。(23日付けの多分産経だろう)尖閣と北方領土のことだが、他国の領土問題には口を出さないのが、自国の利益なのだ。素人の強盗外交だな。ロシアもこんな愚かなことをあえてするとなると、北方領土問題で自信が持てないのだな。中国も同じ。かの国に敵は多い。領海問題だけでも、インド、フィリピン、ヴェトナム、米国そして日本だ

(追記)海上保安庁で巡視艇が足りないという。海上自衛隊が引退する軍艦を提供とか。基準と操船法が違うのでありがた迷惑とも。海上保安庁さん、贅沢いいなさんな。改造して使えばいいではないのか。500トン級の快速船を借り上げて使う方法もある。正式でないものは、すべて補助艦艇として使えばいい。前大戦時米軍は貨物船を改造して護衛専用の空母にした。これが結構役にたった。なんなら海上自衛隊員に一時軍籍をぬいてもらって海上保安庁嘱託にしたらどうか?

発見、日本史(1)  万葉集と日記

2013-03-21 02:24:27 | Weblog
  発見、日本史(1) 万葉集と日記

 我々日本人は敗戦以後、自己の歴史に関してあまり良い印象の記載を学んできてはません。理由は三つあります。まず敗戦への自己反省、これは過剰でした。次に日本人独得のまじめで精緻な実証性。この態度を貫き過ぎますと、ある種の無関心さが出てきます。歴史特に自己の国家の歴史に当然持つべきロマン性がなくなります。最後に、明治維新以来我々の価値観を拘束し了導した二つのイデオロギ-、民主主義とマルクス主義です。後者がある種の神話であることは、まともに物を考える人達の間では常識です。民主主義も絶対ではありません。この二つのイデオロギ-についてはいずれ解説することになるでしょう。以下「発見、日本史」として一連のシリ-ズを適時語ってゆきたいと思います。シリ-ズの第一号は「万葉集と日記」と題して昨今の歴史学会で話題になっている事項を取り上げます。
 万葉集は元明天皇の要請がきっかけで作成されました。最終的には大伴家持が編纂したようです。彼の死後すぐ早良親王の事件があり、家持は処罰されているので、万葉集が公然たるものになったのは、彼が無実であることが立証され名誉が回復された9世紀前半だろうと推定されます。万葉集は万葉仮名という独特の字体で書かれています。その点では古事記あるいは日本書紀と並んで、日本の書記言語が形成される過程の産物であり、同時にこれらの作品形成を通じて日本語が形成されたともいえます。万葉集に採録されている和歌は長短歌、旋頭歌など併せて4500首以上です。後の古今集以下の勅撰集は大体1000首前後の和歌を採録していますから、万葉集の内容は跳びぬけて膨大です。私はここで万葉集の内容を云々しようとは思いません。私が強調したいのは作者の多彩さです。天皇・皇族・貴族・官僚から、郡司・豪族・有力農民そしてどう見ても一介の庶民農民としか言えない人々の歌が収録されています。防人の歌、東歌といわれる和歌の作者のかなりの部分が、ただの農民です。それもちゃんと固有名詞つまり名前がわかった形で収録されています。収録したのはもっと上部の階層の連中かもしれませんが、作者の中にかなりな部分ただの農民がいたことは事実です。防人は農民ですから。こういう詩集が他の国の古代にあったでしょうか?ありません。個人の文章ならあります。私が知る限りでは古代ギリシャのヘシオドスの神統記です。中国の詩経は日本の万葉集に並ぶかの国の古典ですが、作者はすべて不明です。欧米などは論外です。万葉集という作品は全階層を貫く作者の作品の採録です。これは二つの事を意味します。まず階層分化が比較的均一平等であることです。もう一つは庶民でも作歌できること、つまり識字率の高さです。万葉集の内容に関して一言すれば率直で素朴敢為そして雄渾であることです。もし私が兵役にとられただ一冊だけ、本を所持していいといわれれば文句なしに万葉集をもっていきます。古今集以下の歌集もいいのですが、これら勅撰集といわれる歌集を万葉集と比較すれば、ケーキとビフテキくらいの差があります。戦前台湾は日本の植民地でした、そこの住民、彼らは本来福建系統の漢語を使います、彼らが日本語教育を受ける中で、彼ら自身が「台湾万葉集」という歌集を作りました。それほど万葉集には人の心をうつものがあっようです。
私は万葉集を素材として、当時の人間の詩作能力に言及しました。詩作能力は言語能力でありそして論理構成の能力でもあり、他者との交流の能力でもあります。日本人の社会は古代から比較的平等で、凝集性が高いとはいえましょう。
 日記というと土佐日記、蜻蛉日記などの平安女流文学を彩る仮名日記が有名ですが、ここでは文学の話をしているのではないので、それは取り上げません。私が注目するのは平安中期頃から漢文で書かれた貴族男性の手による日記です。平安中期以後政治は儀礼化されます。宇多天皇の御代藤原基経が年中行事表を屏風として献上します。政治は儀礼化ないし年中行事化します。こうなると貴族はこの儀礼をちゃんと務めなければなりませんので、毎日日記をつけ始めます。代表的なものを挙げますと、権記(藤原行成)小右記(同実資)御堂関白日記(同道長)下って台記(同頼長)などが有名です。宇多天皇ご自身も、道長の先祖になる忠平、師輔、実頼なども日記をつけていました。政治に関係する者のほとんどはこの種の日記をつけています。そしてこの積み重ねられた日記の集成はその家の財産になります。つまり日記を所持する流れがその家系の嫡流になるわけです。道長の六代後の忠通の子供の代で摂関家は分流します。この時近衛家と九条家の争いがありましたが、結局代々の当主の日記を持つ近衛家が嫡流つまり御摂家必頭になりました。日本史の専門家は、他国に比べてこの時代の日本の文献資料は非常に多く研究しやすいそうです。日記には嘘は書きにくいので、日記は歴史学で言う典型的な一次資料です。
 日記というともっと膨大な日記の記録があります。江戸時代後半、18世紀中頃から幕末までの時期農村には一大変革が訪れます。村方騒動です。それまで農村の指導者だった庄屋名主層に対して一般農民が権利主張をはじめます。それまでの指導層はただ単に領主(幕府・大名)の課す租税(年貢)の貢納を農民に取り次ぐだけよかったのですが、農民は納税額を問題にし始めます。こうなりますと仲介者である庄屋名主の執務量は飛躍的に増えます。納税に関して農民に納得してもらわなければならないし、領主とも交渉しなければなりません。そしてこの交渉過程は誤解を招かないために、きっちり記録しておかねばなりません。自分の子孫が名主庄屋の職を継いだ時、執務に支障なきように記録を保管しておきます。さらにこの交渉過程は全農民に公開されます。農民の代表も交渉に参加し、また記録を検査します。仕事は単に納税に関することのみではありません。農事一般、農民の福祉、祭礼執行、金銭貸借に関しても農村全体で取り組み、独自の予算を持ち、その執務過程は上記のように一般公開されます。名主庄屋は農村のインテリです。彼らは漢文の日本語版である候文を使います。漢字は頻繁に出てきます。候文を読めば解りますが。殆んどが漢字です。以上の事情を斟酌しますと、一般農民の大多数ほぼ100%は男女を問わず字が読めたことになります。今まで明治維新時での識字率は男90%、女50%と言われてきました。これだけでも世界一なのですが、しかし上記の事情を勘案しますと識字率はほぼ100%だったとしか思えません。我々が中学高校で習った日本史では江戸時代と言えば、領主の苛斂誅求に泣く無力な農民と思われてきました。実態は違います。農村では若者組が実行部隊になります。この若者組の発言力はどんどん増します。そうして祭礼の頻度も彼らの要求で増加しました。祭礼が増えることは休日が増えることです。幕末の時点でひと月に10日くらいの休みがあったとも言われております。以上の内容を参考にして考えますと、維新以前に日本にはすでに地方自治が確立していたことになります。言い忘れましたが農民は村の中だけで運動しているのではありません。村を越えて一郡全体で代表者の集会を行います。これを郡中議定と言います。郡を越えて一国全体に広がることもありました。ある歴史家はこういう計算をしています。一郡15村、一国10郡、日本全国で60カ国、一村に数名の指導層がおり彼らがおのおの1000点の反故を残したとすれば、全体で約数千万いな、多分一億をこえる反故(文献資料)があるのであろうと。また他の歴史家は、庄屋名主層の旧家に残る反故の量に圧倒されると、言っております。
 私は古代の万葉集と近世の農村に関して若干の考察をしてきました。これらの事項を勘案しますと、日本という国、日本人社会は非常に高度な知性と平等な階層構造をもった社会であることがわかります。明治維新の時の改革の素早さ、敗戦後の立ち直りのスピ-ドはこういう民度の例証です。こういう民度と社会は大きな財産になります。

(付)
 日本は欧米に先駆けて初等教育を実施し充実したようです。少なくとも彼らより遅いということはありません。教育制度に関してはまた後に取り上げます。
(付)18世紀後半か19世紀初頭のころ俳句の懸賞大会が為されました。俳句を出展した人間の数は10万人でした。当時の人口は2500万人です。非常に多くの人々が、俳句を作り詩作にふけっていたことになります。
(付)これはある外大の先生から聞いたのですが、日本の翻訳は世界一だそうです。欧米より翻訳されている書籍の数量が多く、翻訳の内容も精密です。アジア諸国の人達は日本に来ると、日本語で世界中の主な書籍が読めるので便利だといっています。日本は現代のアレキサンドリアになりつつあるという話です。古代、ギリシャそしてロ-マが地中海世界に覇権を競い誇っていたころ、アレクサンドロス大王が作ったアレキサンドリアという都市には、ギリシャ、ラテン、そして他のセム語系の言語で書かれた書籍が集められ、古代文化の成果を誇っていました。

朝鮮半島の方々へ

2013-03-17 02:33:08 | Weblog
    朝鮮半島の方々へ

① 韓国では朴新大統領が着任しました。歴史問題を避けて通れない由なので寸言いたします。韓国がいうところの従軍慰安婦(日本軍が強制的に狩り集めて連行したというような)は慰安婦は存在しません。韓国の団体が提起しているこの問題は実証されていません。旧日本陸軍が金銭で契約雇用したこの種の女性はいます。ただそれだけです。詳しくは秦郁彦氏の「慰安婦と戦場の性」(新潮社)を見てください。
② 現大統領の父君朴大統領の時代に一部の被差別階級の女性を集めて外国人相手に性サ-ヴィスを提供した妓生(キ-セン)の存在は事実です。外貨稼ぎのための作業の一環です。人は自分がしたように他人もすると思いがちです。丁度いい本が手元にありました。「腐食する社会-公害と妓生観光」(晩声社1980年)です。参考にしてください。李氏朝鮮時代には半島の女性を中国の皇帝に献納する行いがあったそうです。また最近韓国では売春婦の人達が、性労働の自由を求めてデモをしたとか、確か朝鮮日報に載っていました。わが国では考えられない事態です。わが国にも20万人に上る韓国女性が滞在しています。彼らの一部か大部分かは知りませんが、彼らが経営従事するサウナ、マッサ-ジ、そして飲食店の大部分が隠れた売春行為をしていると言われております。日本の警察はその辺の事情をはっきりしてもらいたいものです。もっともそういう事をしたら朝日新聞あたりが騒ぐでしょうが。
③ 日韓合併は合邦だという人もいます。問題の起こりは当時の李氏朝鮮王朝の政権がだらしがなかったからです。日中露の三国の間でうろうろし、最後に日本に泣きついてきたというのが真相です。李完用や金玉均という人達が主導しました。彼らは韓国では国賊とされています。まあそう言わずに歴史の真実に向かい合いましょう。日韓併合当時、朝鮮の経済は完全に崩壊していました。現在でもそうですが、朝鮮半島が揺れると日中露の政情も不安定になります。冷静に考えて見ましょう。半島が日本の植民地になるかロシアのそれになるか、どちらが良いでしょうか?ポ-ランドの運命と現在の状況を比べてごらんなさい。
④ 日本政府は合併した朝鮮半島住民にも選挙権を与えました。内地とは異なる形ですが。もう一つ重要なことは、両班(ヤンパン)をトップとする階級差別が日本の統治下でなくなったことです。
⑤ 日本は朝鮮から農地を取り上げたと非難されます。取り上げたのではなく新しく開発したのです。人口は日本統治の35年間で1000万人から2500万人に増えています。韓国が工業化されるための基礎投資はすべて日本が行っています。鉄道、道路、橋梁、河川改修、教育と医療制度などなど数え上げたらきりがありません。帝国大学にしても京城帝大(現ソウル大学)は日本の阪大、名大、北大などの帝国大学より先に建てられています。一例を挙げましょう。半島北部に赳戦江、長津江などの川があります。鴨緑江の支流です日本窒素の野口遵はここに一大水力発電所を作りました。この規模の発電所は当時日本国内にはありません。興南という都市は現在でも人口10万人以上の町ですが、この町は日本窒素が一寒村から作り上げた町です。多分、ソ連が戦後この施設を接収しロシアに持っていっていなければ、現在北朝鮮でも使用されていると思います。世界の学会で、韓国産業化の基礎投資は日本が行ったというのは、常識です。
⑥ 現在韓国で使用している文字、ハングル(諺文)は李氏朝鮮時代に作成されました。漢文の補注用として。しかし多くの両班貴族たちはこの文字を使いせん。日本の総督府が半島住民の教育のために積極的にハングルを採用して今日に至っています。漢文のみでは初等中等教育は不可能です。総督府は35年の統治の間に少なくとも1000校以上の小学校を造っています。それがどこをどう間違ったのか、日本が朝鮮民族からハングルを取り上げたなどのお話が韓国では通用しているようです。
⑦ 創氏改名のことがよく取り上げられます。日本が半島の住民から本来の姓を奪い、日本名に改姓させたとか。改姓を言い出したのは朝鮮の人達です。日本はそれに同調しただけです。また改名は義務ではありません。旧日本陸軍に三人の朝鮮出身の将軍がいます。三人とも朝鮮名です。うちの一人に浩という名の中将がいます。敗戦後フィリピンでの軍事裁判で処刑されています。住民虐待とかで。評判のいい人でした。現大統領の父君朴元大統領は日本統治時代には日本陸軍の少佐でした。もちろん「朴」という朝鮮名のままで、一個大体約1000名の長になれる陸軍少佐でした。
⑧ 朝鮮半島経営のために日本は膨大な資本を投下しています。35年の間半島経営で総督府の予算が黒字になったことはありません。すべて日本国内からの持ち出しです。その額は日本の予算の10%以上でした。1965年日韓基本条約を結んだ時、日本が半島から持ち帰った資産と日本が半島に投下した資本を計算したら、3億から4億ドルの赤字(日本にとっての)でした。にもかかわらず日本はこの条約で有償無償併せて6.5億ドルのしなくてもいい賠償をしています。イギリスがインドに、アメリカがフィリピンに、オランダがインドネシアに、フランスがヴェトナムに賠償をしているのでしょうか?
⑨ 伊藤博文は朝鮮合併には反対でした。彼は初代の朝鮮総監ですが、着任時に100万円を日本政府に申請して半島にもっていっています。ご挨拶のティップであり、早急の臨時予算でもあります。そういう伊藤博文を暗殺するとは愚かにもほどがあります。犯人の安重根は韓国では英雄です。テロリストを英雄視するなんてモラルが低すぎます。モラルといえば、半島に住む人達の宗教倫理の頻繁な変更には驚かされます。高麗時代は仏教、李氏朝鮮では大廃仏をして儒教に転換、第二次大戦後はキリスト教だとか。欧州、アラブ諸国、ロシア、そして日本ではそれぞれ宗教は違いますが、皆一貫しています。半島の人達のモラルはよほど不安定とみてもいいようです。
⑩ 北朝鮮について。かの国がミサイルを持ち、核武装するのは、北朝鮮が独立国であるかぎり当然の権利です。韓国も見習いなさい。日本も持てる国力を利して核武装します。私が日本国の首相だったら竹島には軍事行動を起こします。これは日本の当然の権利です。
⑪ 長崎県対馬と福井県で国宝級の仏像が韓国人により盗まれました。日本はこの仏像の返還を求めていますが、韓国の司法当局は返還を認めません。福井県の仏像は400年以上前に大谷吉継が文禄慶長の役で半島から持ち帰ったものです。戦利品でしょう。対馬の仏像の由来は解りません。仮に戦利品であるとしても400年以上日本にある以上日本のものです。ル-ブル美術館や大英博物館にはギリシャやエジプトからの出土品がゴマンとあります。英仏はこれをギリシャ・エジプトに返還するべきでしょうか?否定する理由は二つあります。一つは文化財はその価値を認める人々によって保存されればいいのです。もう一つは時効です。1000年前に北欧諸国の民はしばしばブリテン島に侵入し、膨大な財貨と人間を連れ去りました。英国は北欧諸国に損害賠償を請求するべきでしょうか。英国も時代が変われば同じようなことをしています。時効という概念を無視すれば人間関係も国家間の関係もそれこそ無限の泥沼に陥ります。日本の知的財産侵害の二大常習国家は中国と韓国です。半島の住民には、窃盗強盗は悪いう事だというモラルも国際常識もないようです。
⑫ 慰安婦に関して私は最近BLOGを出しています。英文と和文の双方で出しています。よろしければご照覧下さい。以下に英文の一部を掲載します。
                                     ---------
The respectable President of USA, I propose and recommend of the [comfort woman system]. We Japanese want to help, but we can not help. In the second world war, Japanese army assembled these women not only from Japanese inland but also from the Korea peninsula which was Japanese colony. The story of this work has been distorted by malignant will. Most of Korean people believe that Japanese army forced Korean women to get comfort women. This story is not the truth. It is entirely the product of malignant will and Korean egocentric fantasy. We Japanese are very unpleasant when we hear this story, so we can not help your country perform the plan that I mentioned . We can only advise and teach the fact of having been of these system.
-----------

何ゆえ物価は上がるのか・上がらなければならないのか?

2013-03-11 02:18:15 | Weblog
  何ゆえ物価は上がるのか・上がらなければならないのか?

(1)物価とは一体何なのか?考えれば考えるほど解らなくなる。仮に最貧国の一つであるミャンマ-で米価が日本の1/50だったとする。ミャンマ―の一人当たりGDPは日本の1/50だ。もし米価を標準にとれば、ミャンマ-の貨幣の購買力は日本の50倍になり、日本とミャンマ-の生活程度の差はなしになる。この結論は実体としては矛盾だろう。1960年(昭和35年)当時の大学生の生活費は現在の1/15くらいだった。これを標準とすれば現在の物価は1960年当時のそれの15倍になる。では本当に物価が上がったことになるのか?当時と現在では、生活のコモディティ-(財貨、便益くらいに考えておこう)の量が格段に違う。現在ほとんどの人は自前の家を持っている。当時自家用車を所持している家は100軒に1軒もなかった。家電製品の所有量も全く違う。道路は見違えるように整備された。当時の郊外では雨がふればぬかるみだった。提供される医療の質も量も格段に違う。1960年当時の機械による医学検査は、単純レントゲン撮影と、尿検査それにせいぜい赤白の血球数くらいだった。この間平均寿命は約15歳伸びた。(ちなみに1950年の平均寿命は50歳前後)現在動物蛋白摂取に不自由する人はいない。1960年、野党の社会党が掲げた政策の一つが、国民一人当たり牛乳摂取量を一合(180cc)に、ということだった。私が言いたいことは、確かに名目上の生活費(必要とする1万円札の数)は15倍になったかも知れないが、それで購入できるコモディティ-の量も飛躍的に増大したということだ。果たして物価は上がっているのか下がっているのか、決定できない。カレ-ライスや理容の値段を購買力の標準にとれば、物価はあがり、米価を基準にすれば、信じられないことだが、あまり変らず、TVを基準にとれば下がっている。昭和27年だったか始めて発売されたモノクロのTVの価格は約20万円、現在は2万円で買える、もちろんパナカラ-だ。
(2)要は名目の物価ではなく、貨幣量と提供されるコモディティ-の量の関係だ。ここで貨幣とは、単に現金のことだけではない、当座預金、小切手、手形、債権、株式など、譲渡できる価値の表象をすべて含む。話を単純にしてみる。ある閉鎖された経済圏を想定する。一定のコモディティ-と貨幣量があるとする。ここでイノヴェ-ションが起こり、あるAと仮称される新たなアイテム(生産物)が生産されるとする。それは綿織物でも、陶磁器でも、機械でもかまわない。アイテムAが着想されて、生産、販売されるためには、当然資本つまりお金が要る。またアイテムAが購入されるためにもお金がいる。そもそも生産と消費は常に併行して増減するものであり、あるアイテムが生産されるということは、そのアイテムが消費されるということなのだ。もし貨幣量が増大しなければ、Aを生産販売するための資本の獲得は、他の生産に向けられていた部分から強引に引きはがしてくるのだから、相当の抵抗に遭遇しなければならなくなる。つまり利息がものすごく上がる。またAというアイテム生産に向けられる貨幣量はそれまでの流通機構から引き揚げられるのだから、既存の財貨を買うための貨幣は減り、物価は下がる。Aは売れにくい環境と戦わねばならなくなる。Aを購入するためには他のアイテムの購入を減らさなければならないのだから、購入もそう簡単にはいかなくなる。非常に長期的展望に立てば、Aというアイテムがコモディティ-に付加され、コモディティ-総量は増し、貨幣量は変らずだから、物価はその分低下する。そしてAというアイテムがその経済圏で消費の対象としての地位を確立するためには、非常に長い時間が経過しなければならない。イノヴェ-ションはなかなかはかどらない。成長は遅延する。
(3)逆にAというアイテムを生産販売するために、なんらかのからくりで貨幣量が増加したとする。A生産の企業化は容易になり、またその購入も容易になる。貨幣供給量がAの生産販売と購入つまり企業化に必要なだけなら、貨幣の増加とコモディティ-の増加が比例するわけだから、物価は上がらない。Aの生産販売そして購入に必要以上の貨幣が供給されたら、名目上の物価は上がる。インフレだ。貨幣の供給がそううまく調節されるわけではないので、Aの生産が企業化されるためには、真に(実質的に)必要な貨幣量(真に必要な貨幣量など決定できるわけがない、永遠に未知なのだが)以上の貨幣が供給されなければならない。だからイノヴェ-ションが成功するためには、常に実質価値相当以上の、換言すればインフレを引き起こす貨幣量の供給が必要だ。一つのイノヴェ-ションだけなら余分な貨幣量は僅かかも知れないが、イノヴェ-ションは当然複数そして無数に起こる。これらのイノヴェ-ションは生産と消費を通じて連動し相乗しあう。従って余分な貨幣量は幾何級数的に増加する。この増加がなければイノヴェ-ションつまり経済成長は起こらない。換言すれば一定の経済成長を維持するためには、常に余分の貨幣供給が必要になる。この過剰な貨幣供給で維持される価格が名目価格だ。
(4)ではどういう相乗作用が起こるのか?原則は生産と消費の間の相乗作用だ。生産者は同時に消費者だ。もちろん複数の産業を想定してのお話。生産と消費の間に雇用が入る。雇用を介して生産と消費は相乗作用を起こす。生産が増える、雇用が増える、だから消費も増えるとなる。消費が増えれば当然生産も増える。この循環が繰り返される。この循環が円滑に持続されるためには、上記した過剰な貨幣が、本当の事は解らないぴったり必要な貨幣量以上の貨幣が必要とされる。生産と消費の間に諸々の流通過程や、下請け企業が入る。これらの中間過程同志もやはり生産と消費の関係にある。産業にはいろいろある。異種産業との提携は当然必要だ。トヨタの自動車生産に必要とされる鋼板は多分新日鉄住金かJFEあたりから買っているのだろう。両社の関係も生産と消費の関係になる。これらのまことに多岐な連鎖の中でイノヴェ-ションはしょっちゅう起こっている。経済あるいはビジネスの世界は生産と消費のからまり・かたまりであり、イノヴェ-ションのからまり・かたまりなのだ。生産と消費の相乗作用が起こるためにはイノヴェ-ションが必要だ。そうであるためには過剰な貨幣の供給は必至だ。生産と消費、雇用、イノヴェ-ションそして貨幣量の間には密接な関係がある。
(5)若干例を挙げよう。新大陸が発見されて、欧州に金銀特に銀が流れ込んだ。価格革命という現象が起こり、価格は上昇した。これが17世紀後半以降のオランダやイギリスの経済発展の背景になっている。日本では戦国末期以後金銀の生産が急増した。世界銀生産量の1/3は日本産の銀だった。この貨幣量増加が、江戸時代の経済発展を支えた。元禄文化はその花だ。人口は幕末までに2倍近くのびた。お隣の中国は日本産銀と日本から輸入した銅が貨幣の素材となり、やはり経済は発展した。人口は明末から清末までに2.5倍から3倍になった。人頭税を廃止してすべて生産量に基づく税制、一条辮法の成立はその結果だ。
(6)生産と消費の交互関係つまり交換の基軸はサ-ヴィスだ。サ-ヴィスとは交換する二者の関係をいかに滑らかに、楽しくするかの技術だ。飾り、誉め、慰め、酔い酔わせ、いちゃつけあう技術だ。交換は悦楽の量を増やそうとする。交換により生じる悦楽は、性関係における悦楽と同質だ。結局交換は生殖に結びつく。当然だろうな。この種の悦楽には限界は無い。
 交換、悦楽の交換は単なる現在における二者間の交換ではない。こう断定して人間の個を現在に局限するところが経済学の限界だ。悦楽の交換は、交換する両者の相互の過去をも荷い、反映させる。それは代償であり、自慰であり、復讐であり、達成であり、顕示であり、陶酔であり、勝ち鬨、雄たけびでもある。交換、悦楽の交換は、こういうすべてを、両当事者が荷い、抱く過去から現在に至るすべてを反映させる。交換は快楽の交換だ。快楽は無限に膨張しようとする。だから交換は、経済行為はいささかは媚薬・麻薬に似る。
 交換を通じて悦楽は無限なものになる。経済行為において貨幣量は増大しなければならず、物価は上昇しなければならない。逆に言えば不景気は悦楽の量を減らす。不況(depression)は抑鬱状態(depression)なのだ。
trong>

快楽と経済

2013-03-05 02:06:04 | Weblog
    快楽と経済

 安倍新政権になって積極的拡大型経済が志向されている。歓迎すべきことだ。今までの経済政策は財政赤字を減少させるために、予算を均衡させ、あるいはできれば緊縮させる経済を目指してきた。アベノミクスと従来の政策の違いは、簡潔にいえば、赤字国債覚悟の積極財政か、国債発行を避ける均衡予算かの選択であった。成長か安定かの選択である。後者のポリシ-を貫くために、日銀の独立性が強調された。成長と安定の問題は、経済政策が意識して遂行され、また経済学なる学問が出現して以来、永遠に繰り返されている、対立であり、選択の可否であり、論争である。ここで少し過去に遡ってこの論争を考えてみよう。
 経済政策を意図して自覚的に行った嚆矢は多分重商主義であろう。このポリシ-によれば、ともかく国家主導で、国内生産を増加して輸出し、国内に金銀をしっかり溜め込むことが目的とされた。これは拡張型経済政策と言っていい。ケインズは重商主義を高く評価している。ケインズの考え方ではむべなるかなだ。彼は経済における成長と、そのための国家による介入容認を唱えるのだから。
 重商主義を批判する立場で、ヒュ-ムが登場する。彼の経済学への主要な貢献は、貨幣数量説だ。金銀を貯めれば、国内での金銀の価値は下がり(だから物価が上がり)、輸入が増える。この過程が進行すれば、国内での金銀は減り、金銀の価値は上がり、物価は下がり、輸入が増え、云々となる。ヒュ-ムは金本位制のメカニズムに一定の説明を与えた。同時に金本位制を正当化する理論的根拠をも与えた。安定成長路線の推奨者といっていい。
 ヒュ-ムの影響を多大に受けつつアダムスミスが登場する。スミスの見解は多岐にわたり、簡単に結論を下すことはできない。換言すればやや混乱しているということだ。スミスは重商主義の批判から始める。彼は重商主義に必然として伴う、国家の経済への干渉を嫌った。同時に重商主義の商業重視を否定した。だから彼は逆に、生産、特に工業も含めた生産を重視した。ここで生産行為の根源を為す労働の意義が評価される。労働価値説が誕生する。
(なお労働と生産の重視は、フランスのフィジオクラット-重農主義という誤訳でわが国に紹介されている-が起源であり、スミスはこの学派に影響を受けている。ただフィジオクラットは生産行為は農業だけとしたために、彼らが描く経済は永遠の循環(拡大も縮小もしない)となった。スミスとフィジオクラットの違いは、彼らの母国であるフランスとイギリスの経済発展の差にあるだろう。イギリスの農業は進歩的であり常に増産し続けていた。それを基盤として工業生産も増加していた。スミスの「諸国民の富」は産業革命の直前に発行された)
スミスの第三の貢献は分業の重視である。分業により工業生産は飛躍的に向上すると説く。重商主義と国家管理経済の否定は、自由経済の提唱につながる。有名な、神の見えざる手、は自由経済の標語となった。分業と工業生産の重視、労働価値説は成長路線につながる。労働すれば、工業生産を増せば、経済は成長するのだから。スミスの時代には、自由経済は必ずしも成長とは矛盾しなかった。競争により生産能率は向上し、経済は成長するのだから。経済学の創始者はスミスとされるから、自由経済はだんだん神話化されてゆく。当然の事だが自由経済は競争そして需要と供給という概念設定を含む。需要と供給など、考えてみればあたりまえのことだが、それを自覚的な命題と為すためには、自由経済という基盤が必要だったのだろう。スミスはもともと倫理学者であった。彼は人間間における共感(sympathy)を強調し、その延長線上に交換を解釈した。ここには当時のイギリス社会における進歩と楽観がある。共感するが故に、集団労働は可能となり、共感ゆえに安定した交換が可能となる。交換を重視しすぎれば競争至上主義になるし、労働を重視しすぎれば、無限の成長というこれまた超楽観的な神話になる。マルクスの路線である。スミスの学説はまことに多岐で豊富で含蓄に富んでいる。
 ズミスに続いてリカルドが登場する。彼はスミスのかなり乱雑な思考を整理する。整理はできたが、矛盾は残った。労働価値説は踏襲する。しかしリカルドの考え方はかなり酷薄である。労働者が得る賃金は、彼らの肉体を維持する程度で結構だ、つまりその日のパン代が、労働者の正当な取り分とされた。これを賃金基金説という。地主の権益は差額地代説により天賦のものとして擁護される。この説によると、肥沃な土地を持つ地主の余剰は当然の取り分つまり地代となる。ある土地で3石の米が取れ、3石で農民の生存がぎりぎり可能になるとする。同様の規模の他の土地で5石の米が取れるとする。5-3=2石という差額が地代となる。地代にせよ賃金にせよ、そういう説明しかできなかったのだから仕方がないといえば仕方がない。こうして経済行為の三大要素とされるうちの二つ、つまり賃金(労働)と地代(土地)の説明は済んだ。一応ではあるけれど。
生産活動から上がる収益のうち、地代と賃金を差し引いた残りが資本、厳密には資本収益である。正直資本の定義ほどやっかいなものはない。現在でも経済学において納得行く資本の定義はない。賃金と地代はことリカルドに関する限り、物理学的に決まる。では資本は?賃金基金説と差額地代説のみなら、資本の入る余地はない。封建時代なら領主と農民の関係のみだからそれでいいのだが。リカルドの時代は産業革命の真最中だから、どうしても資本の存在は肯定されなければならない。資本という概念創造のためには、労働から取るか、地代を削るかしかない。物理的に説明のつかないものは、流動過程に任せるしかない。ここで需要と供給、という概念が躍り出る。需要と供給の一致で価格が決まる。販売価格により得られる差額が利益そして資本収益であるとされる。リカルドはそう説いた。この考えでは労価値説は否定ないし無視される。労働価値説では利益・交換により得られる利益が説明できないのだ。そこでリカルド以後の経済学者は「価値」というややこしいものを脇において、「価格」という日常卑近な解りやすい概念を正面に建てた。
 リカルドに胚胎する、交換による利益、需要と供給で決まる利益(profit)という考え方を突き詰めて、限界効用という考えが登場する。資本の価値はどこで決まるか?資本を次々に積み重ね投資していって、それ以上に利益のでなくなる限界で、必要とされる資本の量、最大の利益を生む資本の量が決まるということだ。喫茶店を営むのに数千万円程度の資本なら投資価値はあるかも知れないが、数十億の投資は無駄だということだ。労働に関しても同様に考える。労働力を積み重ねていって、これ以上の労働力は不要というところで必要な労働力がきまる。利益が限界に達した地点で賃金も決まる。最大の利益を生む賃金が正当で合理的な賃金とされる。需要と供給も限界効用論で説明がつく。需要と供給の差がある限りどちらかが増しあるいは減り、差額ゼロで価格が決まるとなる。
このような考え方を限界効用論という。19世紀の半ば以後、経済学で言う限界革命なるものがおこった。ワルラス(仏)、メンガ-(独・墺)、ジェヴォンズ(英)の三人が有名で彼らはほぼ同時に独立に同じような学説を説いた。ただし限界効用論の原点はフランスのク-ルノ-の「富の理論の数学的原理に関する研究」にある。1838年出版。この本では事態を著しく単純化し、美味な水の泉を発見した男がそれを独占し販売する時、どこで利益の増加が止むかと、問題を設定し、簡単な微分方程式と初等幾何学を用いて、解説している。論理と概念は極めて明確であり、解りやすい。以後の限界学派はすべてク-ルノ-に習う。均衡は微分を、変数の操作変換は行列を必要とする。こうして以後の経済学者はほとんどすべて、数学中毒になった。単純にいえば限界効用学派には、需要と供給(の均衡)という考え方しかない。理論の多くはその数学的衒学だ。シュンペ-タ-の最晩年の著作に「経済学の歴史」という本がある。薀蓄を極め、衒学趣味丸出しの邦訳7巻、推定2600ペ-ジにわたる大著だが、その結論は、均衡つまり需要と供給のみだ。
限界効用学派から経済的リベラリズムが発生する。彼らの思考はともかく均衡にある。均衡、均衡、ともかく均衡、大不況にあっても均衡、需要と供給の均衡だ。均衡を維持すれば経済は自動的に安定する。潰れるものは潰れて、新たな企業が出現し云々となる。神の手のお導きに、迂愚なる人間が口と手をさしはさむなどとはもってのほか、となる。ここで批判すべき重要な点は、限界学派・均衡論者達の発想には、成長という観点がないことだ。数学は等式を前提とする。すべてイコ-ルなら変化と成長はない。前世紀の後半ケインズの学説を批判して登場した、フリ-ドマンやル-カスのマネタリスト(新自由主義)の主張は限界学派の延長上にあり、その再版といっていい。シュンペ-タ-の名誉のために補足する。彼の経済学への最も重大な貢献はイノヴェ-ションにある。政策という次元で見るかぎり、政府がとれる方法としては、利子と貨幣流通量の調節、有効需要の喚起、そしてイノヴェ-ションの促進しかない。
 均衡主義の対局に位置する経済学派がいわゆる制度学派といわれる人達だ。彼らは反数学派といっていよい。制度学派は文字通り経済学における制度つまり政治の影響力を重視する。勢い経済史を尊重する。(反対に限界学派には経済史を無視する傾向がある)固有名詞を挙げると、マルクス、ウェブレン、ケインズが代表的だが、前記したシュンペ-タ-のイノヴェ-ションもその範疇に入る。経済学では無視されがちだが、M・ウェーバ-も入れていいだろう。経済現象に与える宗教の影響を詳細に記述した功績は大きい。マルクスは労働価値説に基づき論を進める。労働をすべての経済的価値の源泉とみなし、だから労働者の労働がすべてだとする。彼の学説では資本自身の価値は考察されない。結果として、労働(者)は常に搾取されていることになる。既に述べた如く、利益・資本収益は定義しにくい。利益が確定されないのなら、搾取の額も同様に不明だ。マルクスの論理は、始めに搾取ありきで論点を先取している。この矛盾はヘ-ゲル由来の弁証法で覆い隠される。こうしてプロレタリア革命の必然性と、遊んで暮らせる理想社会という予言が為される。マルクス主義が一種の宗教といわれる由縁はこの辺にある。
 「顕示的消費」で当時のアメリカ上流社会の金ぴか趣味をからかった、ウェブレンは19世紀末にから20世紀初頭にかけて活躍した。彼が金ぴかム-ドを批判したのには、それなりの時代環境がある。1880年前後の約20年間は、アメリカ社会の混乱期でもあった。要は金本位制をめぐる争闘である。金本位制論者と金銀複本位制を唱える者との間の討論を通りこした争闘があった。金本位制は富める国そして金持ちに非常に有利な制度なのだ。逆に銀を本位貨幣に加えると貨幣量が飛躍的に増加する。そうなると新規の起業が為しやすくなり、貧乏人も努力すれば経済的に向上できることになる。結果は周知の如く金本位制になり、それまでに金を溜め込んだ連中はいよいよ富裕になって、生活を謳歌した。この矛盾を金本位制に批判的なウェブレンは皮肉った。ヴェブレンの皮肉は1929年の大恐慌の形で現実化する。ちなみにこの種の問題は現在のわが国の経済状況にも関係する。貨幣量が少ない状態、つまりデフレでは、金持ちはほっておいても儲かり、雇用者労働者の賃金は低下し収入は増えない。
 ケインズは典型的な進歩的エリ-ト、そして主流経済学の中核ともいっていい家系の中に生まれた。多彩な才能の持ち主だ。男好き女好きの両刀使い、ギャンブルの才能は抜群、事業経営にも切れ味の良さをみせる。彼は学者とはいえない。彼の行動の一部が経済学への関心だ。若くして政府代表の一人として国際舞台で活動している。彼の経済学はこういう実践から生まれた。彼も恩師マ-シャルや彼の父親(も経済学者)の影響を受けて、始めは主流の限界学派だった。第一次大戦後のヴェルサイユ会議で影響を受ける。さらに大恐慌の影響。こういう情勢の下で彼の考え方は変ってゆく。一世を風靡し、現在でも強力な影響力を持つ、主流派経済学(限界効用論、均衡主義、自由主義経済)からの離脱は簡単にはできない。だから彼の学説の変化を「貨幣論」から「一般理論」にかけて追求するのは結構骨が折れる。論旨が首尾一貫しているとも言い難い。結論を簡潔に言えば、有効需要の重視である。ケインズは供給は需要の関数だと断言する。需要と供給は均衡するのみならず両者は相互に影響を与えつつ増大する、と彼は言う。ケインズはそれまで非難され歴史の遺物視されていた、重商主義を再評価する。重商主義に内在する、成長の重視、国家の経済への関与の必要性をここから学ぶ。それまで無視されてきたマルサスの経済学にある有効需要も再評価する。反対にリカルドの経済学には批判的だ。ケインズの言わんとする事は、経済成長の鍵は需要にあるという事だ。換言すればけちけちせずに金を使え、遊べ、さすれば経済は成長する、となる。彼は景気の気分を重視した。株で大儲けしたくらいの人物だから気分を重視する。ところで4年前、時の麻生首相が提唱した、アニメ会館の構想、は典型的なケインズ型の発想だ。アニメで日本が稼ぐ以上にこの試みは日本を明るくする。
 マルクス、ヴェブレン、ケインズと並べてきて、共通する特徴がある。彼ら三人はすべて快楽主義者だ。マルクスは労働者の天国、遊んで暮らせる理想郷を夢想するくらいだから快楽主義者だ。彼は古代ロ-マの快楽主義哲学者エピクロスを賞賛している。マルクスはエピキュリアンだ。ヴェブレンは女にもててもてて困ったらしい。醜聞になるので、学長に注意されると、好きになってくる女を断れというのですか、と開き直ったくらいだ。ケインズに関しては既にのべた。若くして才能ある画家と断袖の契りをなし、30歳代では方向転じて、ロシアのプリマドンナと熱愛し結婚している。因果の故か子供はいない。シュンペ-タ-もなかなかのもの、快楽志向は大きい。馬術に長じ、美女と結婚し、世界一の経済学者になることが念願だった。その願いはかなえられたらしいが、いざ結婚するとかみさんに頭があがらなかったようだ。
 私が言いたいことは、成長を重視する、反主流派の経済学者には快楽主義者が多いということだ。ここで快楽と経済について別の角度から考察してみよう。
 人間のみにできて他の動物にはできない事が三つある。労働と遊びと快楽追求だ。虎狼の捕食活動は労働とは言わない。他の哺乳類も一部遊びを行えるが、人間の比ではない。生殖行為に快楽が伴うのは人間だけ、だから人間は生殖を目的とする事なしに、性行為を楽しめる。猿に近かった我々人間の祖先は森林に住んでいたらしい。そこの方が食物が多いからだ。氷河期に入り森林が後退し草原が広がる。人間はやむなく草原に進出する。草原には虎や獅子などの大型肉食獣がうようよしている。直立歩行をする人間の女の産道は小さくなっている。だから人間の赤ちゃんは幼態生殖をすることになる。つまり不完全なままで生まれてくる。だから生まれてから一人前になるまでの時間がかかる。直立歩行であるからなおさらそうなる。子供連れの雌の人間を草原で一緒に連れ歩くのは危険だ。どこか安全なところに基地を造り、そこに婦女子を置いて、安全を計ることになる。こうして基地キャンプが出現する。一定の場所に集住し、そこで時間をかけて哺乳し保育する。この過程がスム-スに進行するためには遊びが必要になる。母子間の遊び、乳房と口唇の接触、肌と肌のふれあい、排泄器官の世話などを軸とする遊びが発生する。つまり母子間のいちゃつきが遊びの原点なのだ。性感帯が出現する。この遊びは集団全体に広がり、遊びの効果を促進倍加する。こうして生殖行為は快楽に接続することになる。遊びを介して共感(sympathy)の感情が生まれる。共感は遊びの延長上にある。アダムスミスに始まる経済学の原点はこの共感であった。
 では経済行為とは何か?経済行為の究極的な目的は個体の再生産にある。自分と自分の子孫の個体を維持し成長させ、天寿を全うさせることにある。経済行為の具体的な作業が労働だ。だから労働は生殖という快楽を原点に持ち、快楽の追求のために行われる。労働と快楽はあらゆる意味で深く結合している。労働は哺乳と保育を通して快楽に結びつく。だから労働には快楽が随伴する必要があるしまた必ず随伴する。労働が快楽だから、労働が可能になる。単なる苦役などは絶対に存在しない。労働は快楽であり、快楽を根底に持ち、快楽を随伴し、快楽を追及する。労働における・随伴する快楽が遊びとお祭りだ。歴史を遡るほど、労働と祭り・遊びの区別は曖昧になる。
 経済は快楽と深く結びついている。そして経済の究極目標が生殖であり快楽である以上、経済行為の射程は無限になる。換言すれば経済は成長しなければならない。経済は快楽を原点とし、同時に快楽を追求しなければならない。仮に人間が快楽なく経済行為を為すとしたら(そんな事はありえないのだが)経済は一定範囲内で安定するであろう。これが均衡経済だ。だが人間は快楽なくしては生きられない。経済は成長しなければならないのだ。
おもしろい数値を提示する。明治元年つまり維新当初の日本国の総予算は3000万円くらいだった。今年2013年度の予算は100兆円だ。ざっと300万倍になっている。米価は明治元年で一石(150kg)1円、現在3万円から8万円程度。もっとも現在の米価は政治的に保護されているから自由経済下ではせいぜい5千円から1万円くらいだろう。つまり明治元年の5千倍から1万倍だ。生活費は、生存ぎりぎりのところから300倍から600倍に膨張し、その分我々の生活は豊かになっている。人口は4倍に増えているから、それを考慮しても100倍は豊かになっている。これが成長というものだ。付言すれば豊かさとは必ずしも機械装置の増産ではない。制度の生産創造という観点もある。私は日本の学校を10年以内に倍2にすればいいと思っている。病院に関しても然りだ。妄言だろうか?

体罰は絶対悪か?

2013-03-03 02:22:18 | Weblog
  体罰は絶対悪か?

 周知のように大阪市立桜宮高校のバスケット部員が自殺したことが大きな話題になっている。体罰は良くないことであり、極力避けるべきであるが、この問題の処理に関して、私は大きな疑問を抱く。
 体罰は絶対悪であり絶対にしてはならないことなのだろうか?どこまでを体罰と規定するのかが、定かではない。仮に教師が生徒の体または頭を軽く叩いたとする。これは体罰に該当するのか。理屈から言えば体罰になる。2月26日の読売新聞では、一切の身体に触れるような行為は体罰である、と書いてあった。体罰をこのように解釈し、それを絶対悪として禁止してしまえば、教育は成り立つのか?疑問に思えてならない。簡潔に言えば教師は生徒を叱れなくなる。生徒は絶対善ではない。教師を愚弄し、時として暴力をふるい、学業をさぼり、他の生徒を扇動して授業を阻害する生徒はゴマンといる。このような生徒に対して、極めて厳密に体罰を規定し、そしてそれを全面的に禁止すれば、生徒は教師に何をしてもいいことになる。これでは教育は崩壊する。中学や高校の教師がいかに問題生徒への対応に苦慮し、時間外労働を強いられているかを、どれだけの人が理解しているのだろうか。実際この事件以来、一部の学校では生徒が、教師の処罰に対して、体罰や体罰や訴えてやるといって、教師を揶揄し反抗する場面が増えている。
 加えてモンスタ-ピアレンツの問題もある。体罰絶対禁止で生徒を甘やかせば、一部の親はそれにつけこんでくるだろう。ある私立高校で教師が、生徒の問題行動(校則違反と授業妨害)を指摘して口頭で注意したところ、生徒は反抗し、その親が学校に対して、人権侵害と教師によるいじめ、を理由にこの教師を担任からはずし解雇するべく圧力をかけた。学校は親の意見に押されて、教師を事実上解雇した。同様のケ-スで、ある公立小学校では、教師が転勤させられた。
 教育とは生徒と教師の間の葛藤(摩擦と対立)の過程でもある。一定の時間に登校し出席し、好きとは限らない勉強を強いられ、教室という狭い場所に軟禁されて、教育が行われてゆく。こうして将来を背負う人材が養成されるのだから、この葛藤は不可避必然そして必要不可欠なものだ。教師も生徒もこの葛藤に常にさらされていることは、教育関係者以外の人間も理解しておくべきだ。そして生徒教師間の葛藤は生徒の家庭と親子関係のあり方、ここから出てくる親子関係上の葛藤と密に関連している。モンスタ-ピアレントといわれる人種は、自らの家庭内の問題を教育の現場に転嫁していることが多いのだ。
第二に、問題の教師であるバスケット部顧問の処罰の仕方に疑問がある。懲戒免職だという。原則として懲戒免職は刑事事件に相当する行為に対して、与えられる処罰のはずである。はっきり言って厳しすぎる。教師にも生活がある、今までいろいろ問題はあったのだろうが、一挙に懲戒免とは驚きだ。停職処分にして、後はなんらかの形の学習過程を経験させてもいいのだ。それがダメなら依願退職処分という方法もある。依願退職でも厳しい。懲戒免となるとなおさらだ。その人物の今後の生活を一挙に破壊してしまう。解雇覚悟で生徒に厳しく対する教師がどの程度いるだろうか?今回の懲罰はマスコミの扇動に乗った(あるいは利用した)責任者(具体的には橋下大阪市長)の感情的そして政治的な行為に思えてならない。橋下市長にとっては今回の事件は渡りに船でもあったろう。
 体罰と自殺の因果関係が立証されたとある記事に書いてあった。この種の因果関係は絶対に立証できない。推測できるだけだ。自殺という現象に一番頻繁に遭遇するのは、精神科医であろうが、この体験を通して、この種の因果関係判断の難しさは実感している。自殺の背景には多くの因子がある。この事件の場合、生徒と教師の人間関係、練習のさせ方、学校の方針などのみならず、生徒の家庭内での人間関係(親子関係)や本人の素質も関係してくる。練習のさせ方と体罰に問題があったのだろうが、これだけで自殺の原因とは即断できない。因果関係が確定されたと言われた時点で、判定者の過誤と傲慢さを看取せざるをえない。一個の人格が自らの意志で死を選ぶ時、疑問は多いのだ。
 懲戒免職の処分を受けた教師は自己の全生活をかけて、処分撤回の提訴をなすべきだ。労組は何をしているのか?世論が怖いのか?私は日教組なんか、大嫌いだが、この際労組は処分された教師を全面的に支援すべきだろう。できないなら何のために労組はあるのか、鼎の軽重が問われる。
 私は体罰を容認しているのではない。体罰は極力さけるべきであろう。体育の授業や部活の練習といえども原則的には体罰なしで行えると思う。私個人中学一年生の時、担任の教師から頻回にわたり強い体罰を蒙った。現在でもなぜ殴られなければいけなかったのか解らない。体罰は不快だった。
 が、あえて主張する。体罰は絶対悪なのかと!