経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

コロナ対策でいたずらに菅総理を批判するのはやめよう

2021-01-11 15:17:28 | Weblog
コロナ対策でいたずらに菅総理を非難するのはやめよう

 コロナが蔓延している。感染者は一日5000人台を超えた。メディアの騒ぎが目立つ。菅総理の対策が遅いとか不充分だとか言っている。しかし現在、菅総理を非難するのは慎もう。理由は誰がやっても失敗するだけだからだ。疫病は収まるまで待たねばならない。それしかないのだ。できる事は死者を増やさないことだ。これ以上の対策が必要なら、共産党に統治を任せたらどうか??? 同時に一党独裁で他の政党の存在は禁止する。政府への批判は一切許さない。などとする事だ。要は疫病対策とは同時に人権の制限・治安対策でもあることだ。20年以上前になるが、法定伝染病(赤痢、ペスト、ティフスなど)で強制入院させるのは人権侵害だと騒がれた事がある。厚生省は戦前、内務省(治安と都道府県の行政管理が担当)の一部局だった。アメリカもかってはそうだったはずだ。
 打つ手は充分打ち尽くした。ワクチンだって効果は解らない。騒がず経過を見よう。みなさん死ぬ覚悟をしておくことだな。医療対策より経済対策の方が重要だ。少なくともやりがいはある。子孫に顔向けができる。繰り返す。非常時に指導者への非難は慎もう。日本人らしく腹を決めよう。コンセンサス(集団の合意)がなければアメリカのようになる。
 専門家の意見はあてにならないと思っとけ。私はロックダウンはおろかGO TOトラヴェル中断も反対なのだ。   2021-1-11

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行



日本史入門(20) 調所広郷と村田清風

2021-01-11 14:32:55 | Weblog
日本史入門(20) 調所広郷と村田清風

1 細川重賢と上杉鷹山の藩政改革は江戸時代中期から後半にかけて行なわれた。調所広郷と村田清風の改革は幕末、改革はそのまま倒幕に。
 薩摩藩財政改革者、調所広郷は1776年鹿児島に生まれる。生家は川崎氏、12歳調所家の養子。調所家は藩の茶坊主を職とし、格は小姓組無高の最下級。始め清悦、後に改名して広郷、通称は笑左衛門、酒好きで豪放な人柄。
 藩の実力者隠居島津重豪の側近、江戸へ。1827年52歳重豪の直命で財政改革の総責任者、更に家老に。藩は銀30万貫(600万両)の借金、藩年収の30倍。広郷以前の改革の試みはすべて失敗。誰も薩摩藩には金を貸さず、高利貸に手を出し借金を増大。
2 広郷は役目を断った。財政改革など恩より恨みを多く買う。断れば打首になるような雰囲気の中で改革遂行を引受ける。改革の内容の主たるものは、唐物貿易(密貿易も含む)、砂糖の藩専売制、農政改革、給地高改正、藩政事務と流通機構の改革。広郷は実力者重豪藩主斉興の強力な支持をえて、豪快強引に改革を進める。
3 藩債務を処理。600万両を250年の年賦で償還、利子は払わず、借金の踏み倒し。薩摩藩にも言分はある。160万両だった借金が数年後には600万両に、悪質な高利貸。相手のやり口を見て広郷は強引に出る。公的機関が背負う膨大な借金は踏み倒しが常道。紙幣を大量に発行、インフレにし借金を帳消しにする方法もある。アメリカ独立、フランス革命、明治維新すべてこの手口。新しい貸し手、出雲屋孫兵衛、平野屋彦兵衛などの協力。彼らは薩摩藩の国産物売買に目をつけ、藩政改革に深く食い込む。
4 収入増大策の第一は唐物貿易。中国からの輸入品、生糸綾薬物鼈甲臙脂桂枝沈香などの需要は大。本来中国との貿易は幕府の独占。薩摩藩は属国である琉球を通じて中国との交易があり、幕府も黙認。広郷は貿易を表裏両面で強引に実行。表では幕府に貿易許可項目の増大申請、裏は密貿易。薩摩船は日本海に行き俵物(乾燥したなまこあわび昆布などの海産物)を買う、琉球に運んで売買。表裏の貿易の利潤は莫大。
 財政支出の基本方針。臨時及び緊急の支出は借金で対応、通常の経費は国産物で賄うと。
5 砂糖専売制。奄美大島以下三島にはサトウキビ以外の栽培は不許可。栽培強制、砂糖増産。藩がすべて買い上げ、島民は砂糖の販売消費貯蔵は許されない。違犯者は厳刑、密売は死罪。島内での金銭使用も禁止、島民が必要とする生活物資は藩から直に支給、砂糖との直接交換。砂糖の生産者消費者価格の比率は1対4、流通経費を除外して200%の利潤。10年間で砂糖専売から得た利益は銀6万貫。短気流通手形を発行、砂糖徴収を円滑に。手形は他に流れて貨幣化されないよう3ヶ月で回収。
6 農政改革。検見法を定免法に換え、藩財政が天候に左右されないように。高利貸し禁止、農民への貸付利子を10%切り下げ、貧農からの利子徴収は禁止。投機富くじも禁止、郷士が農民相手に行なう頼母子講は禁止。民間の頼母子講を藩営に、民間の貨幣を藩に吸い上げる。頼母子講の手数料の徴収、頼母子講に集まった金の藩借上げ。薩摩の特産物、蠟菜種ウコン朱粉薬種そして米の栽培法の改善、郡奉行を派遣し指導督励監視。
7 行政事務の能率増進。実務者書役を優遇し、趣法講にまとめ財政責任者直属に。各部局の独立採算制を徹底。金を受け取る側と支払う側の機能を分離。支払い方法の監視の強化、支払いは手形で行い、上部の許可があり次第換金。収納用の秤を統一。農民の利益になり、武士からは恨まれる。枡からこぼれた散落米の意図的増加、役得。この悪習を広郷は排除。
8 軍制改革。高島秋帆に習い洋式軍事技術を導入。武士への給付制度の改正。広郷は武士の給付地売買を制限し一部復元。軍役負担の最低水準が50石、武士達の石高をこの線以上に、50石以下の者には藩から援助金。
9 道路改修、橋梁架橋、河川疎通、新田開発など諸種の公共事業。産業振興。離散した農民の呼び戻し、農業生産力向上のため。出費抑制。隠居の薩摩在住と参勤交代の回数減免を幕府に申請。
10 浄土真宗門徒の弾圧、門徒が本願寺に上納する金銭を奪う。金銀の藩外流出を防止。
11 幕府は貿易を制限し始める、広郷はその分密貿易に傾斜。フランス船が琉球にきて、琉球日本との交易を希望。広郷はこれに乗る。幕府への完全な挑戦、彼の命取り。
12 広郷は隠居重豪藩主斉興の信認を得て20年政権を掌握。末年にはお由羅騒動。斉興の世子斉彬に代わりお由羅の生んだ庶子久光を藩主にする云々の騒動。斉彬が襲封。広郷は斉彬の開明的政策が、財政危機を招くと心配し、斉彬襲封に反対。密輸とお家騒動の二つを斉彬から追及された広郷は1948年江戸藩邸で自殺、73歳。
 広郷は貨幣経済を利用、強権的に掌握、藩への貨幣吸い上げを計る。重商主義。20年で借金ゼロ、備蓄金50万両の成果。幕末薩摩の活躍の基礎を広郷は築く。

14 村田清風、幕末長州藩の財政改革者、彼の藩財政再建が維新回天の事業の基礎。1783年生まれ、この年浅間山が爆発、関東一体に大被害、田沼意次の失脚、松平定信の登場、幕府自身体制の危機を鋭く感じた年。清風の祖父父親も藩経済の実務に携わる中堅官僚、家禄は50石。 
長州藩は以前から財政的に苦しかった。関が原で敗け8カ国120万石から防長2国30万石に減知。上杉藩と同様家臣を解雇せず。藩財政も藩士の家政も1/4に縮小。財政は赤字続き。第7代藩主重就の時、借金は銀3万貫、重就は鋭意改革に取り組む、それなりの成果。清風は正面から考えじっくり取り組むタイプ、頑固者そして自信家。
15 江戸時代の藩財政を考える時重要な点は二つ。江戸時代初期の経済は、農民が米を作り、その一部を武士が取って食う、見返りが治安維持という体制、この段階では貨幣が経済に介入する余地は小さい。農民は米以外の物を作り加工し販売する、農村手工業の発展、藩が介入し藩専売制を計る。利益を誰が取るかが問題。割を食った農民は、最悪の場合一揆。1830年天保年間長州藩内で大一揆が勃発。農民の要求は、田租は4割を原則、畑租も本租だけ、畔に植えた茶や桑は免税、臨時の租税は廃止か減少、郡費超越した時の農民負担は軽く、米麦菜種櫨などの自由販売は認めるなど。税金は安く、行政費用は節約、経営の自由は容認、というところ。一揆は条件闘争。
もう一つは、幕府の大名窮乏化政策。参勤交代、家格と禄高に従い、形式を整える。沿線の住民に落ちる莫大な金。大名の襲封結婚葬式に多額の出費。勝手に簡素なことは不可、家格により決められた形式は遵守。家臣の3-4割は江戸在府、都市生活は金が要る。大名の妻子が住む大奥は奢侈の巣窟。大名は自動的に貧乏に。見方を変えれば需要の喚起、武士階層から町人農民への所得移転。
16 1837年藩主に毛利敬親が就任、大塩平八郎の乱の年。前年に三人の旧藩主が死去、葬式と敬親の襲封で経費は飛躍的増加。長州藩の借銀は9万貫、180万両。清風は一代家老に任命され改革を推進。改革の第一は倹約、奢侈禁止、絹布着用禁止。大奥は猛反発、敬親は清風を断固擁護。
行政機構の改革、人員削減。余剰人員は藩が行う新田開発に。
情報公開の徹底。藩経済の実情を藩士従って庶民にも知らせる。併せて人材登用の手段。計数に明るい中下級武士を財政の実務官僚に取り立てる。家格より実務能力。
17 殖産興業。長州の特産物紙蠟米塩を増産。特権御用商人を抑え、藩の役人との癒着を警戒。豊富な海産物を加工し大阪方面に出荷。
殖産興業ではかって痛い経験、天保の大一揆。手工業から上がる利益を誰が取るかで問題が起こる。清風は一藩単位での重商主義政策を行う。下関は日本海から関門海峡を通って大阪に行く船の中継地点。長州藩はここに倉庫を置き品物を買う。大阪の市況を調べて売りさばき利益を上げる。中継貿易。
18 民間の頼母子講から発した相互扶助組織を充実。困窮者救助、特産振興、土木工事、入植者援助のための頼母子講に藩から補助を与えて奨励。
19 藩士の借金対策。藩士が藩から借りた借金は取り消し、ただし以後藩が貸す事はない。民間から藩士が借りていた場合、藩が肩代わりして利子のみ毎年支払い、元本は37年後に。商人層に人気の悪い施策。商人を苛めすぎると、藩士が借金できない。藩士達からも苦情。清風は第一線を退く。代って坪井九右衛門が商人層に有利な政策を実行するが、藩の借金が増えて坪井は失脚。清風再登場。
20 清風はインフレ防止のため大量の藩札を焼却。思い切った措置。改革が進み藩内部の蓄積に自信を持つ。大操練、銃砲中心の洋式軍隊を用いた訓練の実施。清風は、海に面した長州に生まれ育ち海からの侵入には敏感。ロシアやイギリスの船が日本近海に出没。清風は海防重視を呼号。洋式軍隊保持には莫大な資金が必要。
藩校明倫館を再建、江戸には藩士教育のために有備館を造る。1854年までに9万貫の借金皆済。維新政府樹立時、長州藩は政府に70万両、毛利家に30万両を寄贈。1855年清風死去、享年73歳。
21 調所広郷と村田清風の政策の要約。貿易、藩営銀行業、農村手工業の育成、藩専売制、実務官僚の養成、相互扶助組織の形成、藩札の利用、軍制改革。

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