経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

徳川合理主義、発見日本史(5)

2013-04-29 00:02:21 | Weblog
     徳川合理主義,発見日本史(5)

 徳川幕府が政治を主宰した江戸時代は古い教科書に書かれているのとは全く異なり、極めて合理的制度の時代であったといえます。それを政治経済そして思想などの諸面から考察してみましょう。
① 綱吉-吉宗-意次
 5代将軍徳川綱吉は、生類憐れみの令という悪法(?)のイメ-ジが先行して、犬公方と仇名され、暴君、わがまま将軍のように誤解されますが、実体は徳川幕府の転換期を乗り切った重要な将軍でした。彼の代になって江戸城の金蔵は底をつきます。財政難です。江戸初期の開墾、インフラ投資により庶民は豊かになりましたが、米遣い経済による武士層は流通経済の発展から取り残されて相対的に困窮します。幕府も同様です。そこで綱吉はまず幕府直轄領を治める代官制度を根本的に変えます。それまでは土地の有力者を代官にして農民との仲介役として年貢を取っていましたが、綱吉以後代官を中央政府からの直接派遣として、徴税を合理化し、中間搾取を排除します。この措置は同時に中央集権制の強化です。また貨幣を改鋳します。その際同じ一両小判でも含有される金の量を減らします。減らした分だけ幕府は金量を得するわけです。これを出目と言います。確かに悪鋳ではありますが、この措置は同時に流通貨幣量の増大策でもあります。インフレにはなりましたが、景気もよくなりました。綱吉政権のこの二つの政策は、それまで自然経済とでもいうべきものに任せていた、政治や経済に国家が積極的に介入することを意味します。一つの重要な転機です。綱吉政権で始めて首相という存在が確認されます。勝手係老中(経済専管大臣)の地位の設定です。経済に責任を持つ存在が首相の役目を務めます。政治の合理化です。同じ頃地球の反対側にあるイングランドではウオルポ-ルが現れて、第一大蔵卿となります。彼がイングランドの初代首相です。綱吉の生類憐れみの令が行なわれた背景には綱吉の文治政治があります。彼は動物そして人間の争闘が大嫌いでした。江戸の街中で犬が噛み合い、さらに捨て子が犬に食われる風景に綱吉は我慢できません。人間の争闘に関しても同様です。人間が切りあいして血を流すことを彼は嫌いました。浅野内匠頭 が殿中で刃傷沙汰を起こし、厳刑に処せられたのもこの綱吉の性向と文治主義によるところです。綱吉が47士を切腹させたのも同様です。綱吉のこの処置を積極的に支持したのが次項で述べる荻生徂徠です。ともに文治主義、政治の合理化という点では共通する事項です。
 八代将軍吉宗は、経済政策では前代の新井白石を踏襲し貨幣の中に含有される金銀量を増やしました。貨幣への信頼を取り戻すためです。同時にデフレになり武士も庶民も困窮します。吉宗は武士層の復興を念願としていましたから、米価の低下は困ります。かといって米価が上がると零細庶民が困窮します。江戸市中の米価安定と景気回復の両天秤に苦労した挙句の果てが元文の改鋳です。この時貨幣の中の金銀含有量を引き下げ、その事実を告知するとともに、発行される貨幣量を増加させました。この改鋳にはもう一つの面が含まれています。金銀比価を公定して金に対して実質的には少ない銀量をもって銀貨を発行することです。
 この政策は田沼意次の政権に持ち越されます。意次は明和5モンメ銀、さらに南リョウ二朱判という銀貨を発行し、実質の地金レイトが金銀で9対1のところを12対1で交換させます。このレイトで計りますと金貨で計算した貨幣量は4/3に増えます。この措置は同時に銀経済圏であった大阪の経済を首都である江戸の金経済圏に従属させ、同時に大阪の資本を江戸に吸収する事になります。すでにお解かりのこととは思いますが、この措置は金本位制であります。田沼政権は金本位制を強引に遂行する事により、流通貨幣量を増加させ、幕府財政を強化し、政治が経済に対して持つ統制力を強めました。これは1717年ニュ-トンにより提唱され不完全ながら設置されたイングランドの金本位制につぐ二番目のものになります。少し発想が跳びますが、倒幕と明治維新は江戸幕府により為された金本位制への、大阪及び西日本経済圏の逆襲ともいえます。事実明治政府は維新以後30年間銀本位制を採り続けました。なお意次の時代は蘭学が勃興した時代であり、蝦夷探検も盛んに行われました。意次という人は寛容な人で、他人の意見をよくいれ積極的にそれを実行しました。意次が浅間山の火山爆発で失脚しなければ、千島列島はおろか樺太からカムチャッカ半島まで日本の領土になっていたかも知れません。
② 徂徠-梅岩-尊徳
先項では政治経済の実践者に関して述べました。この項では経済政策の提案者、つまり広義の意味で経済学者といってもいい人の言説を紹介します。まず荻生徂徠。かれは政治経済現象を、朱子学が言うような自然に与えられ、自然に運動する存在としてとらえる態度を排し、政治は作られ変えられるもの、政治は人為であると断定しました。同時に都市を中心とする経済を旅宿の過程ととらえました。旅宿は人間が一定の人為的意図をもってするものです。この比喩は極めて正鵠を射ています。徂徠は、礼法は衆議の束として、衆議制を公認します。さらに百姓町人からの人材登用を強調し、身分制の実質的否定を唱えます。経済行為が円滑に遂行されるための民事法の制定と行政の文書化を提唱します。この提唱は吉宗政権による「お定書百か条」で答えられました。景気回復のために貨幣流通量の増大策を進言し、封建制度のアキレス腱ともいえる土地売買の禁止に反対し、土地の自由売買を提案します。この提案は資本主義の原理そのものです。これらの政策は150年後に明治政府で強力に実施されますが、徂徠は100年-200年先を見通していたことになります。
石田梅岩の思想の最大の眼目は、倹約即契約、という等式です。梅岩は倹約とは単に物金を惜しむことではない、肝心なことは契約を守って物金の円滑な流通を保証することが、真の倹約なのだと言います。こうして梅岩は流通経済を肯定します。のみならず町人は流通経済に積極的に参加して社会の利便を増大させているのだから、武士に劣らずむしろ武士よりもよく社会に貢献しているとして、身分制度を否定しました。さらに朱子学の性理を自性と置き換え、社会は不変の過程ではなく、成員各自が自らの自性でもて積極的に介入すべき過程なのだといいました。そして政治で重要な事は、食い食わせること、として財貨の循環を容認しました。
二宮尊徳は、仕法という民政建て直しの実践活動を進める中で、天禄として人間の欲望を肯定します。この欲望を実現し又一部は抑えるために推譲と分度つまり合意と衆議を勧めます。尊徳は農本主義者ではありますが、貨幣の経済に果す役割を熟知していました。ある地域が災害で荒廃しかけた時、彼は領主に、ともかく仕事を与えて雇用を増やし、そこに金を落せと勧めました。現在の経済学でいう有効需要の創造です。
私は徂徠、梅岩、尊徳という極めて個性のある三人の思想家を挙げました。彼らの考えに共通するものは、徂徠がはっきり提唱する、人為としての政治です。換言すればそれは社会契約説になります。その結果が衆議性です。次にはこの時代の衆議性について論じてみましょう。三人の思想が、西欧のホッブス、ロック、ヒュ-ム、スミス、マルサスなどの考え方の大部分を含んでいることは一目瞭然でしょう。18世紀の英国は合理主義の時代と言われました。日本も同様です。
③ 評定会議と郡中議定
 武士とは本来開発領主であり農民の上層部に属する連中でした。鎌倉時代ころから農民は宮座という集団に結集し事実上の自治組織を立ち上げていました。これを武士層に敷衍したものが鎌倉幕府の評定衆であり、それを保証する法典が貞永式目です。ちなみにこの式目は同時代のイングランドのマグナカルタに内容が酷似しています。江戸時代も同様です。将軍は絶対的権力者ではありますが、幕府政治は基本的には老中と若年寄による7-8名の閣僚の合議制で遂行されました。徳川家の前身は村の土豪つまり庄屋さんですから、日本の農村の自治の伝統を踏まえて形成されているのです。重要事項の決定は、この閣僚に寺社、町、勘定の三奉行と大目付、さらには目付と勘定吟味役、そしてもちろん将軍側近の側衆などが参加する評定会議で決められました。将軍が臨席することもあります。評定会議の成員は大きい規模では30名を超えます。この会議は衆議そのものです。なお幕府のみならず諸藩の政治も同様でした。家老と奉行層、目付、側近による合議制が藩政の基本でした。
 村、農民の世界ではどうでしょうか。18世紀中頃から中間農民層の発言力が増大します。彼らは伝統的に世襲されてきた村の指導層である庄屋名主にいろいろ注文をつけて意見をいうようになります。まず大事なことは年貢の額とその割り振りです。そして農事の遂行、村の治安の確保も重大な事項です。こうして農民は庄屋名主さらにその上に位する幕藩体制に対して自己の利害と権利を主張するようになりました。この事態がもめて紛争化した場合、村方騒動といいます。農民は一村だけで団結するのではなく、一郡さらに一国全体で団結し集会を開き、政治に注文をつけます。一郡でかかる行為が行なわれた場合、それを郡中議定と呼びます。農村の実体はこのようなものでした。農村自治の実行部隊が若者組に属する青年です。彼らの発言力は次第に高まり、結果として村内での休日はどんどん増えました。幕末の時点ではひと月のうち10日くらいの休日と祭礼があったとも言われます。当時の農村には衆議性に基づく自治制度が既に確固として存在しました。
④ 以上、徳川時代の政治経済、思想、衆議性(自治制)について簡単にその特徴を述べてみました。私達が習った日本史では、江戸時代と言えば、武士は切り捨て御免で威張っており、身分の格差は 著しく、農民はゴマのように搾られて年貢を搾取され、最低生活にあえぐ哀れな存在と思われてきましたが、近年続々発見される一次資料からの結論ではかなりあるいは全く違うイメ-ジが当時の社会に付与されつつあるようです。農民の一日のカロリ-摂取量は1700-1800カロリ-、摂取タンパク質量は70グラム前後と推定されています。幕末の長州藩で武士層全体の収入は農民層のそれの約2倍程度です。なお封建制度(フュ-ダリリズム)は民主制の原点です。土地と人格の間に契約を入れて関係を構築する封建制度をくぐってきた日本と西欧においてのみ民主制は展開されました。他の諸地域は未だに実質的には血縁関係を媒介とする部族性を脱していません。
⑤ 江戸時代の科学技術について一言します。数学では18世紀中葉には関孝和、建部賢弘などにより、事実上微積分や行列・行列式に関しての知見は為されていました。これは西欧におけるニュウ-トンやライプニッツとほぼ同時代の業績です。微積分と行列といいますと、無限と変換という高等数学の基本的営為です。自然科学の方では西欧が先行します。18世紀後半に起こる蘭学を通じて日本人はそれを学びました。ただし西欧の自然科学といっても、それは高踏的サロンの一種の出し物でしかありませんでした。自然科学が実際の生産技術と結びつくのは、19世紀後半にドイツを中心に電気化学工業の勃興し第三次産業革命が起こってからです。その頃には日本は開国していますから立場は西欧と同様になります。むしろ日本の方がより積極的に自然科学と工業技術を結びつけたとも言えます。その例証が東京帝大に工学部を作ったことです。当時つまり1985年の時点で、伝統と権威ある総合大学に職人の技術としかみなされなかった工学を正式の学問として設置したのは日本が嚆矢です。
 最期におもしろい併行現象を指摘してみましょう。シャンソンと演歌です。シャンソンはパリコミュ-ンに参加した女子達が歌った「さくらんぼうの実のなる時」が最初だといわれます。日本の演歌は川上乙矢が自由民権運動を支持して歌い広めた「おっぺけぺ-のぺっぽっぽ」が最初です。共に1870年代、当事者が時の政府に対して批判的だったところも共通しています。

川崎重工と三井造船の統合検討に際して、松方幸次郎伝再考

2013-04-27 14:50:23 | Weblog
  松方幸次郎(改訂版)

 数日前の産経新聞の報道によれば、川重工と三井造船が統合を検討しているとのことです。この両者にはかなりの因縁があります。三井造船は三井財閥が作りました。この三井財閥に大正から昭和初期にかけて挑戦したのが、鈴木商店です。金子直吉が主宰する鈴木商店は第一次大戦による好況を踏み台として、特に製造業をどんどん拡張し、企業を立ち上げました。やがて昭和の金融恐慌と続く大恐慌の中で鈴木商店は敗北し解体されますが、その裏には三井財閥(特に物産と銀行)がしかけた巧妙な金融操作があるようです。そして川崎重工の前身である川造船を事実上作ったのが松方幸次郎であり、彼は金子直吉の盟友でした。そして幸次郎も恐慌の中で失脚します。川重工と三井造船の合併統合は約100年前の因縁話を想起させます。こういう観点から、松方幸次郎の生涯を再考してみましょう。日中間に干戈を交えざるを得ないかもしれない今日、両者の合併は歓迎出来る事です。国防産業の充実発展に寄与するでしょう。

 松方幸次郎の人生は華に満ち溢れています。人生の後半では大失敗し、彼が育成してきた川造船を経営危機に追いやり、自らは財界ルンペンと称して、他人の居候になって渡り歩きますが、このすべてに華があります。彼の人生は華麗な御曹司の一生です。かと言って幸次郎が財界の単なる飾り物であったのではありません。
 幸次郎は1865年(慶応1年)に鹿児島で生まれています。父は、後に蔵相になり松方財政で有名な、さらに首相を二度務めた、松方正義です。幸次郎が生まれた時は幕末維新の激変期、正義はここを乗り切り、日田県知事をへて中央政界に乗り出してゆきます。同時に幸次郎も東京に呼ばれます。1875年、9歳、上京。共立学校、大学予備門(後の第一高等学校)とエリ-トの教育課程を進みます。予備門時代、学校当局に反抗してストライキが起こります。幸次郎は最も先鋭な分子の一人でした。放校されます。父親正義の立場(当時蔵相)もあり反省文を父親に書かされ、いやいやながら復学嘆願をおこないますが、帝大総長の加藤弘之に、あんな暴れん坊はごめんだと、却下されます。
父親にねだって海外留学を志します。いかに政府高官とはいえ、既に兄二人を留学させている正義にとって、負担は小さくありません。が、幸次郎はたって留学を希望し実現します。1884年19歳時、米国のラドガ-ズ大学に私費留学します。この時幸次郎はアメリカンフットボ-ルのクラブに入部しています。写真を見ると幸次郎の頭は他の学生の肩ほどにあり、体格の差は歴然としています。普通の日本人なら、このハンディを考慮してアメフトになどに入部はしません。こういう点にも幸次郎の大胆さと積極性が看取されます。ラドガ-ズ大学での授業はどうも理科系であったようで、幸次郎はそれを好みません。エ-ル大学に転校を希望します。エ-ル大学は名門です。ハーヴァ-ド、エ-ル、MITと並び称される名門です。この難関を突破して入学、大学院に進学して、法学博士号をとります。秀才で頑張り屋です。1890年25歳時、帰国します。留学の費用は、川造船所を経営していた川正蔵から出ていました。
1894年(明治27年)29歳の時、幸次郎は日本火災保険の副社長になっています。また灘商業銀行(神戸銀行の前身)や高野鉄道(南海電鉄の前身)などの監査役をしています。30歳になるかならぬかの若造が会社の幹部に簡単になれたのは、現在の常識から考えると不思議です。もちろん親のコネもありますが、当時の洋行帰りは超エリ-トの看板でした。また日本の資本主義が本格的に勃興する時期でもあり、新進エリ-トは官界でも民間でも必要とされていました。
1896年(明治29年)31歳の時、幸次郎は川正蔵に請われ川造船所の初代社長に就任します。資本金200万円、従業員1800人の規模でした。政府は造船奨励法を定め、大鑑建設に非常に積極的になっています。日清戦争に勝ち、次の標的はいやがうえにも、大国ロシアしかいないと仮想敵を定め、海軍の大拡張を行い始めたときでした。ここで川造船の前史について少し語ります。同社の基礎は川正蔵により定められます。川崎は鹿児島県の商人で上京して、東京と神戸に小さな造船所を経営していました。川崎は、石川ショウが作り経営不振のために国営になっていた神戸の加賀製鉄所を払い下げしてもらい、造船所の機能を神戸に集中させます。川には三人の男児がいましたが、みな夭折します。他に芳太郎という養子がいましたが、あえて社長には幸次郎を選びます。(芳太郎は副社長、正蔵は顧問)理由の一つは川も松方(正義)も同じ鹿児島県出身、つまり薩摩閥であること。幸次郎の父親の正義が政界の実力者であること。最後は幸次郎の才能です。華麗な経歴とその積極性は、商人上がりの川には、前進する時代の中にあって、自分にはかけており、将来必ず必要とされるだろう、という読みがあったであろうと思われます。
川造船所社長に就任してからの5年間幸次郎は、乾ドックの建設に務めます。努力し苦労しました。乾ドックとは陸上で造船できる施設です。それも5000トンを超える船を造れる規模のドックが必要です。川のライヴァル三菱造船所はすでにそれを持っていました。川崎造船所のある土地は砂地で水分を多く含み、硬くて安定した地盤が得られません。必要とするドックができなければ、せいぜい数百トンの小型船しか建造できず、正蔵時代と変りのない規模に留まります。底を固めなければ、地下から海水が侵入して、底を吹き飛ばします。ドックに必要な硬くて安定した地盤を作るために、大きい管を敷き内部にコンクリ-トを流します。さらに1万本の松材を打ち込みます。深く打ち込むために、松材を縦に連接させて打ち込みます。こうして乾ドック建造になんとか成功しましたが、失敗の連続で、幸次郎は二度辞表を川に提出しています。川崎は二度とも慰留します。この間旧三田藩主子爵九鬼隆義の娘好子と結婚し、神戸七実業団体連合会の会長におさまります。
乾ドックができてから経営は進展します。軍艦の建造に積極的に乗り出します。まず水雷艇の建造から始めます。明治37年には潜水艦を受注します。潜水艦の試運転中潜水艦が沈み多くの犠牲を出しています。潜水艦建造では二度事故をだします。その度に数十名の犠牲がでました。人命の問題もありますが、潜水艦の事故では、海軍と造船所双方の実験ティ-ムが一挙に失われるので、犠牲の大きさは計り知れないものでした。
1907年(明治40年)日露戦争の戦後不況でやむなく500名解雇します。この解雇は幸次郎に後味の悪さを残しました。
1909年(明治42年)鉄道車両の生産に進出します。後藤新平が鉄道国産を奨励していたのに歩調を合わせます。大正末年(1920年代前半)までに川造船車両部は1000台の機関車を作っています。翌1910年代議士になります。しかし大戦勃発で商売の方が忙しく二期目は立候補していません。
1911年(明治44年)幸次郎は出張先の欧州から、急遽技師12名の欧州派遣を命令します。ドイツから、エア-ポンプと船舶用ディ-ゼルエンジンの技術導入の契約を幸次郎は仕上げていました。背景があります。同年川造船は海軍から超ド級戦艦榛名(27500トン)の注文を受けていました。この大発展に備えるための技術導入です。ちなみに7年前の日露戦争では、日本海軍の主力部隊の艦艇はすべて外国製でした。大型艦艇建造のためにはガントリ-という巨大な鉄製装置が必要です。その中に建造中の艦船を囲い込み、クレ-ンで部品を自由に移動させる装置です。ここでも軟弱な地盤に泣かされます。いくら金がかかってもかまわん、ともかくガントリ-を設置する、という幸次郎の言葉で、しゃにむにガントリ-建造が進められます。製造費用は総計1000万円でした。現在の貨幣価値なら2000倍になります。この時二つの逸話があります。しゃにむに建設を進めて犠牲者が4名出ます。警察から調べられます。ここで幸次郎は工員達にいったん休養を与えます。労働時間を短縮した結果、労働生産性が上がることに気づきます。この経験は後年の組合対策に生かされます。1000万円の建設費用で資金難というより破産の危機に陥ります。幸次郎は海軍を尋ね前代未聞の要求をします。ガントリ-建設費用の一部250万円を海軍から出してほしいと頼みます。海軍はかんかんに怒ります。その時幸次郎が言った文句は、川が潰れれば軍艦はできませんよ、です。海軍は幸次郎の提案を呑みます。このことも後年川造船が最大の経営危機を迎えたとき生かされます。
幸次郎は技師達会社エリ-トだけでなく、ブル-カラ-の教育にも尽力を尽くします。親方連中を欧州に送り込み、エア-ポンプによる鋲打ちの技術を実地見学させます。工員に夜間学校に通うことを勧め、通学して一定の成績をあげたものには賃金に歩合を上乗せします。
1914年(大正3年)第一次世界大戦が勃発します。幸次郎は長期戦争と見極め、日本の輸出が飛躍的に伸びることを予想します。特に船舶の需要増を予想し、鉄の買付けを命じます。船を注文により製造する方式から、ストックボ-トつまりあらかじめ見込み生産する方式に切り替えます。海運景気で船舶の価格は10倍以上に騰がります。幸次郎の見込みは当たります。川造船や鈴木商店の管理職クラスのボ-ナスは100万円近くになりました。2000をかけてください、現在の相場がでます。それほどの好景気でした。しかし好況でも危機はあります。アメリカが参戦し、当然の措置として、鉄の輸出を禁止します。これでは船は造れません。鈴木商店の金子直吉が駐日米大使とじかに交渉し、船と鉄の交換を成り立たせます。幸次郎は、鉄が不足なら製鉄会社を作ろうと、して川造船製鉄部を立ち上げます。後の川製鉄です。またこの間川汽船という運輸会社も作っています。大戦景気で儲かって儲かって仕方のない中、幸次郎はイギリスのポスタ-を見て、絵画の魅力と意義に目ざめます。そしてどしどし名画を購入します。松方コレクションが創始され始めます。
幸次郎の生活は少なくとも外から見る限りは派手でした。豪邸に住み、毎日二頭立ての馬車で通勤します。英語は日本語と同じくらい流暢に話せ、よく海外に出かけます。1年以上も会社をあけたこともあります。会社では超ワンマンで、他の役員は単なる留守番と言われました。
1918年(大正7年)大戦終結。幸次郎は、船価はまだまだ騰がると読みます。戦後復興のために欧州はまだまだ日本の製品を必要とする、と予想します。結果として船価は暴落します。幸次郎はもう一つの予想をしています。戦後労働組合運動は激化すると。この予想は当たります。幸次郎は組合運動の理解者でした。1919年国際労働会議に出席し、そこで8時間労働制を支持する発言をしています。同じく労働組合の理解者であった武藤山治は、8時間労働になったら会社は潰れるといっています。造船と紡績、技術集約型産業と労働集約型産業の違いでしょうか?同年の川造船のストライキに際しての団体交渉で幸次郎は、8時間労働に踏み切っています。賃金は切り下げませんから、残業も入れると実質的には賃上げになります。
八八艦隊という海軍力拡充計画がありました。不況にあえぐ川造船や三菱造船はこの軍需に期待しました。が、1921年のワシントン軍縮条約締結により、この案は葬られます。川崎造船は、戦艦加賀を建造中でした。この戦艦は廃艦になり、以後の注文は取り消されます。
1920年幸次郎は海軍の密名を帯びて、ドイツの最新式潜水艦の設計図の取得を行います。スパイです。川は、ここで海軍と利害は完全に一致するのですが、潜水艦建造に展望を開こうとします。ドイツ人技師を招いて、行う潜水艦建造は二度目の事故で遅れます。幸次郎は不況打開の対策として多角化経営をめざします。飛行機製造部門を作ります。薄鋼板製造を押し進めます。これは将来の自動車製造を見込んでのものです。太平洋戦争中、飛行機製造は、川と三菱と中島の三社が主として行いました。薄鋼板製造も成功しました。造船部門のみが、苦境に立ちます。
不況打開策としての多角化経営には合理的な根拠があります。多角化で成長産業の方にシフトすれば、需要は見込まれるわけです。もう一つ幸次郎は解雇を避け、雇用を促進するためにも多角化経営の方向をとりました。1921年、賀川豊彦の指導下に、川三菱の両造船会社を中心に一大労働争議が持ち上がります。この時ライヴァルの三菱は3000名以上の解雇を断行しましたが、幸次郎は解雇を避けました。結果としてこれも川造船の苦境を促進することになります。
成長産業の方に多角化し、経営を拡大して利益を上げるために必要なものが資金、単純に言えば現金です。つなぎ資金で経営を持続させ、需要の拡大を期待します。資金獲得に際して、この時期不幸が重なりました。1923年(大正12年)関東大震災が起こります。政府は復興に追われます。民間への投資あるいは資金提供は大幅に制限されます。
1928年(昭和2年)金融恐慌が起こります。大震災に際して政府は震災被害にあった企業の手形を割り引いていました。どこの世界にもあることですが、震災とは無関係なのに、震災手形と称して、割引を受けようとする不正行為がはびこります。このことが国会で問題になっていました。幸次郎は国から特別融資を受けようと、その筋に運動していました。ある日国会で審議中、片岡直温蔵相が、渡辺銀行が閉鎖されたと、誤報を報告します。この一言でパニックが起こり、全国で取り付け騒ぎが勃発し、金融機関は一時マヒ状態になります。苦境を財界世話人と言われた郷誠之助が斡旋します。郷の父親純造はかって松方正義の下で大蔵次官を務めた経緯があり、松方家とは浅い関係ではありません。郷の斡旋で、上海と神戸の社有地処分、6割減資、工場を担保に政府融資3000万円、という案が高橋蔵相により了承されていました。この時川造船に銑鉄を収めていた大倉商事と大倉鉱業が、川の造船資材の差し押さえを申告します。それまでに川と大倉は銑鉄の代金支払いでもめていました。この申請で川造船の資産は担保としての価値を失います。幸次郎は万策尽きて辞任します。では会社は潰れたのかと言えば、そうではありあません。海軍としては川造船を潰すわけには参りません。会社の中に、海軍艦政本部臨時艦船建造部という機関がおかれ、一時期海軍が経営を実行する形になります。この時3000名が解雇されました。数年して軍需景気が起こり、会社は再び好景気の時期に入ります。太平洋戦争後、しばらくして川造船から、川崎製鉄が分離します。
辞任した幸次郎は財界ルンペンと称して、あちこちに居候する形の生活を送ります。石油価格高騰に際してソ連製石油を輸入するべくモスクワに飛んだこともあります。1936年(昭和11年)床次竹次郎の地盤を継いで、鹿児島から立候補し代議士になります。国会の廊下で時の東条首相に会い、東条を面罵したこともあります。あんたが首相では国が危ないと、言いました。1950年死去、84歳でした。
松方幸次郎と言えば、松方コレクションが有名です。第一次世界大戦の好況期に幸次郎は大量の美術品を欧州から購入します。約10000点と想定されます。うち9000点は日本に運ばれましたが、その大部分は負債処理のために売却されます。イギリスにあった300点は爆撃で焼かれます。フランスにあった400点余は戦後フランス政府により没収されます。1951年のサンフランシスコ講和会議で、首相の吉田茂が、この400点余の変換をフランス外相に懇請し、フランス政府はそれを受諾します。1959年国立西洋美術館が作られ、そこで371点が展示されました。幸次郎がコレクションに走った意図は、日本の画学生に実物を見せること、さらに西洋美術を国民が鑑賞して、文化の力を体験することにあったといわれております。1930年大原美術館が岡山県倉敷に開設されるまで、日本には西洋美術を体系的に展示する場所はありませんでした。なお幸次郎がコレクション収集に使ったお金は、1000万円とも3000万円とも言われます。もちろん第一次世界大戦当時の物価です。
松方幸次郎の関係する企業で現在でもがんばっているのは、私の知る限りでは川崎製鉄(2003年日本鋼管と合併しJEFスティ-ル)、川重工、川汽船と神戸新聞です。


勧進帳の文化学、発見日本史(4)

2013-04-22 02:31:02 | Weblog
     勧進帳の文化学、発見日本史(4)

 最近安倍首相が歌舞伎「勧進帳」を鑑賞されて日本の文化芸能の底の深さを堪能された由新聞報道にありました。全く同感です。私も1年前からDVDで勧進帳を毎晩鑑賞し楽しんでいます。数枚のDVDを持っていますが、私は特に昭和18年に上演された版を愛好しています。主役の弁慶は7代目松本孝四郎、富樫は市川羽左衛門、義経は尾上菊五郎(いずれも当時)です。荒筋はたいていの方はご存知と思います。源平の争乱が終わった寿永のころ、勝者の源氏内部で武士の棟梁である頼朝と前線指揮官であり平家討滅に大功をたてた義経との間で争いが起こります。義経は挙兵し西国に行こうとしますが嵐のために吹き返され、転々と場所を変えて鎌倉幕府の追討をかわして逃げ隠れます。幕府による必死の追求に追われ、義経主従は奥州の藤原秀衡を頼って日本海周りで逃亡を計ります。義経一行は山伏に姿を変えています。北国第一の関所が安宅の席、そこを護るものが土地の豪族富樫左衛門です。歌舞伎の物語はここから始まります。偽山伏として関所を通過しようとする義経一行と、それを阻止し贋物を見破ろうとする富樫との対決が物語の主軸です。義経は強力(ごうりき、荷物運びの下男)に身をやつしています。弁慶がこの一行の先達指導者です。他に付き従うものは物語の中では4人です。いずれも義経記ではおなじみの名前です。ですから対決は弁慶と富樫の一問一答になります。
 勧進帳の山場は4つあります。まず富樫が勧進帳(東大寺などの大寺院が寄付要請のために発する正式文書)を読むべく要請します。もとより勧進帳はありません。弁慶は適当な巻物を取り出し、そらで勧進帳の内容(らしきもの)を朗々と読み上げます。ここで富樫は一行の通過を許可します。しかし最後に立ち去ろうとする強力(ごうりき)を見咎め、義経に似ている詮議せよと言います。弁慶は強力を、お前のためにいつも疑われ一行は迷惑すると怒り、強力を持っていた杖できつく何度も打ちすえます。ここで富樫は疑を晴らします。富樫のいないところで、義経は弁慶の機略に感謝し、弁慶は義経に非礼、主君を打ち据えた事態の非礼を泣いてわびます。泣きじゃくる弁慶に義経が手を差し出します。驚愕した弁慶はその手を自分の両手でさし頂きます。
富樫が出てきて、詫びの印に酒を振舞います。これは礼なのか罠なのかわかりません。そこの機微を心得た弁慶は差し出された盃が気に入らず、近くに合った箱のふたで鯨飲します。酔ったあるいは酔った振りした弁慶がここで礼の舞を舞います。この舞が絶景です。リズミカルで激しく、舞い(円形に廻る動作)と踊り(垂直方向に飛び上がる動作)が組み合わされ、豪快でありまた艶麗でもあります。弁慶という豪傑がこの舞の中では非常にエロチックに見えます。背後でなる鼓、笛、三味線の音そして長唄の音声もまたなんともいえません。舞の間に弁慶の示唆で一行は関所を立去ります。弁慶も立去ります。この時富樫は右腕を高く上げます。送別の辞です。ここで幕。そして幕の外には弁慶が一人。弁慶はここで関所の方向に一礼します。富樫が見逃してくれたことを知っているからです。そして最後の圧巻六方踏みです。六方の見事さは見ないと解りません。片足を挙げて体のバランスをとり、大またで床を踏みしめて段々速度を上げて花道を駆け込みます。
 以上が勧進帳の荒筋です。まず私が感嘆するのは主役弁慶の芸の見事さです。台詞は極めて多い。覚えるのも一苦労でしょう。舞は型にはまった舞ではありません。演劇の進行と併行し、あるいは演劇の合間にその延長として、演劇では表現できない部分を表現します。相当な時間踊ります。六方も含めて極めて体力の要る仕事です。そして音声(おんじょう)つまり台詞の発生が見事です。マイクなどなし、劇場の隅まで通る声で音吐朗々大声で台詞を述べます。台詞は平叙文ですが韻文です。台詞はバックの長唄と連動しますから、台詞自身がある種の音楽です。演劇は極めて様式化された動作の連続からなります。様式の間に役者の工夫が挿入されます。この様式あるいは形式がまことに美しい。様式の頂点が「見えを切る」です。演劇、物語の要所要所で役者は、動作を固定し大声で台詞を発します。この「見え」は劇の内容の集約点であり、感情表現の頂点です
 こういう複雑な作業を弁慶は一人で演じ行ないます。修行の成果と言えばそれまでですが。勧進帳の弁慶の役はおいそれとは誰でもはできません。演技の奥の深さと複雑さは幼少時からの訓練で鍛えられますが、単に子供の頃からの訓練だけでは足りないでしょう。親あるいはその親のつまり祖先から伝わる家芸家職の伝統の中でのみ伝授され護持されそして発展させられてゆくものでしょう。私は歌舞伎「勧進帳」の中に日本文化の深奥、深さ、豊かさ、強靭さを発見しました。以下ではこの点から勧進帳が内包する文化を考察してゆきましょう。
 勧進帳が始めて上演されたのは天保11年と言われています。1830年前後です。勧進帳の種本は謡曲「安宅」です。謡曲は能楽の一分枝ですから、成立は室町時代に遡ります。当時源義経を主人公とする「義経記」ができていました。京の五条の橋の上で弁慶が牛若丸(義経の幼名)にきりきり舞いさせられ降参して主従の契りを為すというスト-リ-はこの物語で出現しました。源義経という人物は12世紀後半、特に1180年代に彗星のように現れ軍事的天分を遺憾なく発揮し、やがて兄頼朝に殺害されます。源義経は悲劇の主人公となりました。特に彼を中心として団結する弁慶以下の家臣との主従関係は以後武士道の典型美談になってゆきます。この人物群の行為と心情が時代の進展の中で再解釈されて、能楽、謡曲、歌舞伎の中で演じ続けられます。歴史上の義経は決して美男子ではなかったようです。それが現在では義経(判官)役と言えば、美男役者が相場です。
 歌舞伎の源流は能楽にあります。能楽に以後の民間芸能を取り込んで歌舞伎ができました。能楽では未だ演者が神の化身であることを卒業できなかったのに対して、歌舞伎はこの宗教性を排し、可及的に大衆化娯楽化して、誕生しました。お国歌舞伎が歌舞伎の嚆矢です。それに坂田藤十郎や市川団十郎という名優が演劇性を盛りこみ、歌舞伎ができました。歌舞伎には「かぶく、かたむける」の意があります。正式の演劇である能楽を傾けて(変形して)歌舞伎ができたという事です。能楽は平安鎌倉時代の民間芸能である田踊り、そして田楽に起源を持ちます。このように歌舞伎という芸能には日本の芸能の歴史と事跡が埋め込まれ炊き籠められています。
 主役の弁慶について語りましょう。弁慶は実在の人物ではありません。しかし彼に仮託される歴史上の人物はいたようです。弁慶は比叡山延暦寺出身の僧侶とされています。叡山は奈良の興福寺とならぶ僧兵の本拠でした。大衆(正式の僧侶)だけで3000人と言われます。巨大な武力集団でした。僧兵です。僧兵は今までの歴史では悪く書かれてきました。僧侶のくせに刀杖を弄ぶと。しかし日本の仏教が各自その自立を保ちえたのはこの僧兵の存在があったからです。僧兵により寺院の経済的基盤である荘園などの利権は護られました。そもそも僧侶と武士の区別は曖昧です。荘園の下級管理者が武士です。彼らは任務遂行のために武装しました。寺院の僧侶も武装します。それは彼らの経済的基盤である荘園を護り経営するためです。よくよく考えてみれば僧と兵は同じです。僧の方は一応妻帯禁止になっていますが、こんな事を実行している僧なんて、弁慶が活躍したといわれる平安末期にはほとんどいません。そしてなによりも強調すべきことは、叡山はじめ各寺院の僧侶は全員武装しました。ですから非常に学識の高い豪傑もいました。弁慶が山伏修験道のことに詳しく、教理問答で富樫を論破するくらいは可能であったのです。平安末期には中国から渡来した仏教は日本で大いに栄え、次第に日本的仏教が形成されてきます。勧進帳の時代にはすでに法然は布教を開始しており、親鸞は生まれております。鎌倉新仏教といわれるものも既に産声を上げていたのです。
僧は兵(武士)として論旨の発展を武士に限りましょう。武士の淵源は天孫降臨に際してニニギノミコトを護衛した大伴・佐伯の両氏にまで遡れます。律令制解体に伴い、私領である墾田や荘園が発達し、それを根拠とする田堵、名主、土地開発者達が輩出して、彼らの間で上下相互の関係が成立し、武士団が出現します。勧進帳の時代はこの武士が武士専用の政権を確立する時期にありました。まず平氏が台頭し、それに源氏が挑戦して平氏を倒します。源氏の内部でも、義仲、頼朝、義経が覇権を争い、最後の勝者が頼朝、敗者が義経でした。
 勧進帳の世界、主役の弁慶は、以上のような日本の歴史、政治、経済、宗教の歴史展開の丁度頂上で繰り広げられ、活躍します。そういえば保元平治から治承寿永そして承久と続く公武の争いの最終的決着点である承久の乱の直後に日蓮が生まれているのも何かの縁でしょう。日蓮の性格と事跡を詳細の読むとそのイメ-ジは弁慶を髣髴させます。弁慶というキャラクタ-には以上の諸々の契機が集約されています。
 そう言えば山伏という存在にも興味があります。弁慶が富樫に答える問答の中で、山伏とは役行者(えんのぎょうじゃ)を始祖として、それに仏教の森林修行が重なってできたとありますが、まさにそのとおりです。ある意味では世俗性を強調する日本仏教の一つの典型が山伏です。この点でも勧進帳は歴史の集約点になっております。歌舞伎の中で六法踏みという動作がでてきました。叡山の若い僧兵で形成するいわば叡山の突撃隊を六方組といいました。関係があるのでしょうか?
 義経と弁慶の間に繰り広げられる関係は主従関係、つまりご恩と奉公を交換する人格的人間関係、武士道です。義経記の中、衣川の館で義経が自決するまで、弁慶は防戦し立ち往生します。この時弁慶は主君の義経に「親子は一世、主従は二世」と言います。勧進帳が描こうとする世界は武士道の美しさです。
 さて義経と弁慶を、牛若と弁慶に置き換えるとおもしろい事に気付かされます。お稚児さんと成人僧侶との関係、衆道つまり同性愛です。衆道は武士や僧侶の社会では盛んで、武家では小姓、寺院では稚児が衆道の相手でした。私はただ武士や僧侶の間では同性愛が盛んだとだけ述べているのではありません。戦士が戦場に赴くとき、一番頼りになるのは同僚の戦士でした。衆道、同性愛関係をもってしてのみ、死にあえて挑戦する団結意識、同朋意識が維持できたのです。このことはいつの時代どこの世界でも変りませんが、古代ギリシャと日本の武士社会ではまことに盛んでした。ギリシャの重装歩兵、日本の武士は極めて強固な戦闘意識をそなえた存在でした。私は義経と弁慶の美しく悲しく激しい主従の情にそのようなものを見ます。同性愛と言ってはばかりがあれば、男惚れと言い換えてもよろしい。
 勧進帳では、義経主従は苦労難儀して奥州にたどり着いたと描かれていますが、私は全然そうは思いません。鎌倉幕府ができての当初、それほど幕府に治安維持の機構があるはずがありません。せいぜい恩賞でつるくらいです。それに義経を保護する勢力はゴマンといます。朝廷、院、公卿貴族は幕府の存在には批判的敵対的でしたし、何よりも反幕府勢力の中心が比叡山延暦寺でした。弁慶はいはばこの反幕勢力の象徴のようなものです。叡山や他の寺院の荘園はいたるところにあります。危ない場面はあったでしょうが、義経主従は幕府の探索をあざ笑うように畿内各地をするりするりと転々していたと考えられます。そして弁慶も義経もいわゆる悪党悪僧と言われる新興勢力に属しています。ゲリラ戦は得意中の得意技です。また義経がただ単に逃げ回っていたとも思われません。むしろ反撃の機会をねらっていたのではないでしょうか。鎌倉幕府の正史「吾妻鏡」では義経追捕のことに異常なほどのペ-ジが費やされています。それだけ警戒されていたのでしょう。幕府としては義経に畿内近国に居座られることが一番危険だったのです。畿内近国は小領主層を基盤とする悪党の巣窟のようなものでしたから。それらを束ねていたのが叡山という寺院です。ちなみに義経が頼朝と決裂して西走し難破して地下に潜ってから、奥州で自刃するまで4年の時間がたっています。
 勧進帳にはその迫力、美しさ、荘重さにいたく感動させられました。そして勧進帳にはその劇の進行の途中に、しかも極めて肝心なところに適宜チャリ(喜劇)が入ります。そしてこのチャリが勧進帳と言いう劇の迫力を高めています。悲劇は喜劇という要素を欠いては成り立たないのでしょう。日本には狂言、落語、狂歌、川柳などのチャリ文化が豊富にあります。そして演劇でも、雅楽、能楽、歌舞伎、文楽とジャンルは豊富です。こう考えますと現在、ク-ルジャパンと言われているのは当然でしょう。劇画、アニメも正式な芸術文化として認知されました。アメリカや台湾、フランスの子供達はク-ルジャパンに夢中です。いい国に生まれたと、私は日本に生まれたことを感謝しております。

 (付)4月21日の朝日新聞によれば、日教組が高校生の自衛隊に関する意識調査をしました。それによると今回2013年度の調査では、自衛隊が違憲でないという高校生の割合は45.1%となり違憲とする割合を大幅に上回っています。2008年度の同調査では違憲でないとする割合は24.8%でした。日本も段々普通の国になっているようです。日教組や朝日新聞にとってはほろ苦い調査結果でしょう。
 (付)また繰り返します。仙台で国会を開こう。仙台でオリンピックを開催しよう。

コマツと河合良成

2013-04-20 12:06:09 | Weblog
      コマツと河合良成

産経新聞(4-18)の記事より
 コマツ、GPSで建機「無人化」-- 精度数十ミリ単位、中韓に対抗
(本文)衛星利用測位システム(GPS)やセンサ-を搭載し、数十ミリ単位の整地作業を自動でこなす建設機械の開発にコマツが成功した。この自動化ブルド-ザ-を6月に米国で投入するほか、今年度中に油圧ショベルを欧州発売し、日本でも自動化機器を売り出す。低価格を武器に世界市場で攻勢を強める中国韓国製などに対しコマツは「自動化」「無人化」をキ-ワ-ドに、最先端の技術力で挑む。
「通信ネットワ-クの発達はすべての産業をかえようとしている」。ドイツで開かれる建設機械の見本市で16日、コマツの大橋徹二は胸をはった。発表したのがGPSで建機の位置情報を把握し、ブレ-ドやア-ムを動かして自動で整地や掘削をする「ICTブルドーザ-、油圧ショベルだ」。(以下略)
 この記事を見てコマツの事実上の創立者河合良成の人生をもう一度見てみたく思いました。
河合良成は土木建設用機械の製造会社である小松製作所を一流会社に仕上げた人物です。自伝を読んだ限りでは、意志の強い、自己主張のはっきりした戦闘的な人柄を連想させます。良成は1886年(明治19年)に富山県砺波郡福光町(現砺波市))に生まれました。家は代々豪農でしたが、祖父の代に事業をやりすぎ、資産を減らします。父親は汽船運航の会社を経営していました。良成は母親を敬慕し尊敬しています。母親は教育には厳しい人でした。世に出よ、つまり出世しなさいと息子である良成に常に発破をかけます。豊臣秀吉や楠正行の事歴をくりかえし、聞かされたそうです。良成は幼少の頃は温順だったと言います。数学が好きで、将来は科学者になりたいと思っていました。金沢四高に入ります。ここで有名な哲学者西田幾多郎の影響を受けます。西田哲学に魅かれるとは、良成もかなり瞑想的雰囲気を持った人物だったのでしょう。意志の弱さは罪悪、という西田の格律が心に浸みこんだと述懐しています。当時の優等生の公式どおり、東京帝国大学法学部に入ります。途中2年くらい休学かなにかしたようです。本人の語るところでは、神経衰弱でよく追試験をうけたとか。もっとも卒業試験はトップでした。
 明治44年25歳時、東大を卒業し、農商務省に入ります。大正7年臨時外米監理部業務課長になり、米価統制の実務上の責任者になります。本人の口ぶりではかなりな辣腕を振るったようです。本来彼は商務畑でしたが、能力を買われて農務畑で腕をふるい、嫉妬されます。この仕事をしていて一番感じたことは、統制経済のむなしさでした。統制すればするほど物は隠れ、統制を解けば物はでてくる、ことを経験します。この事は彼の将来の経営姿勢に大きく影響したことでしょう。
 米価問題、特に米騒動で寺内内閣が倒れます。良成も農商務省を辞職します。東京証券取引所の理事長郷誠之助に請われ、東証の理事になります。郷が東証をやめると、良成もやめ、大正13年日華生命(第百生命)保険会社に請われて、常務として勤めます。この間に東大の経済学部や農学部で取引所論の講義を行います。昭和14年満州国嘱託、17年東京市助役になります。五島慶太が運輸大臣になると、依頼されて船舶局長になります。終戦、幣原内閣の農林大臣になった松村謙三(同郷の先輩)の懇請で農林次官を勤め、吉田内閣では厚生大臣になります。官僚としては課長、局長、次官、大臣とすべてのクラスを経験したわけです。それもすべて異なる分野で。という事はこの人物の才能の多彩さをしめしています。厚生大臣時代に公職を追放され、大臣を辞任します。
 この間昭和初年に帝人事件なるものにまきこまれます。台湾銀行が20万株の帝人株を生保団に売りました。増資そして株価が上昇します。台湾銀行は背任、生保団は背任協力ということで告発されます。3年に及ぶ裁判が開かれ、良成個人は200日あまり収監されます。留置所で日ごろ食べない麦飯を食わされ下痢して体重は減ります。麦飯だけではなくストレスも強烈だったはずです。監獄になれた犯罪常習者ならともかく、普通の市民生活をしている人がこの種の施設に入ればたいていショックを受けます。拘禁反応も出現します。判決は「証拠不十分ではない 犯罪自体が存在しない」でした。しかし世間の目は厳しく、関係者は冤罪に泣きます。良成は数百ペ-ジにのぼる弁明書を書いて上申します。番町会という会合がありました。財界世話人と言われた郷誠之助の屋敷(番町にあります)に良成や、正力松太郎、渋沢正雄、伊藤忠兵衛、永野護などが集まりいろいろ話しあっていました。この会が裏で動いたといわれました。武藤山治が時事新報に番町会の存在を報じ、帝人株の動きと関係があるような記事を書きます。世間は騒然とします。小林中や良成の伝記では、帝人事件は存在しないとされます。武藤の伝記では、あったと書かれています。武藤が暗殺され、事件を取調べた検事が自殺します。いずれにせよ後味の悪い事件でした。帝人事件なるもの、としか書けない出来事でした。
1947年(昭和22年)、良成は小松製作所の社長に就任するように、当時の社長から懇望されます。同社は資本金3000万円という小規模な地方企業(石川県)でした。大正10年の創立で、戦前はトラクタ-などを造っていました。トラクタ-製造はGHQのある少佐に禁止されます。日本にはトラクタ-が必要ないということでした。当時一少佐や一大佐が日本全体の運命を左右するほどの決定権を持っていました。そして小松製作所では他の会社と同様、ストライキに襲われていました。20年代のストは現在の争議と根本的に違います。当時のストライキは、企業を資本主義という悪の砦とみなし、それを壊滅させることが目的でした。会社は組合によって管理されます。上部団体から派遣されてきたオルグ(組織する者)は従業員である一般組合員を扇動し、洗脳し、会社と幹部への敵意を植えつけます。経営がまともになるためには、このストを解決しなければなりません。  
良成の自伝では3時間で解決したそうです。解決したのは事実ですが、3時間というのは眉唾ものです。しかし一般組合員の説得のやりかたは決まっています。闘争はしんどいだろう、ストして銀行から融資を拒否され給料ももらえないのが良いか、それとも働いて給料をもらう方がいいか、と選択を迫ることです。つまりオルグと一般組合員を分断します。それから経理を話の解る代表に明らかにして、再建の方法を説得することです。時によっては第二組合を作ります。いずれにせよ政治闘争から経済的合理性を踏まえた論争に切り替えさせることが肝要です。たいていの人間は政治闘争など好みません。しかし算盤勘定はわかります。この際重要なことは、決断と計算とそしてなによりも誠意です。ともかく良成の社長就任により争議は解決しました。長引くと数年にもなるようで、戦後最大最悪の争議は東宝のそれでした。再建には資金が要ります。金融機関に頼みにゆくと、人員整理を要求されます。400人自主退職、600人を解雇して3000人にまで人員を圧縮します。過激な連中はこの際すべて解雇しました。今ならこのような指名解雇はなかなかできません。しかし会社が倒産の危機に陥り、再建を目指すとき、解雇、減俸、株式切捨は必然です。これが経済法則の冷酷なところです。経済学を「陰鬱な科学」と言った人もいました。(カ-ライル)
 小松製作所再建の方向は何でゆくのか?良成はブルド-ザ-で行こうと決意します。小松のシェアは国内の60%でした。そして戦後復興は必ず建設ブ-ムを招来するとみます。いい調子で行っていたら昭和24年のドッジラインです。このお蔭で日本中の企業が青息吐息というより壊滅の危機に見舞われました。東北大地震の被害よりはるかに甚大でした。アメリカは自国でできない理想を占領中の日本で実験したきらいがあります。シャウプ税制や農地改革などです。良成はドッジラインを非難し、外車のダッジ(そういう名の車がありました)を見ても腹が立つと述懐しています。
朝鮮戦争が勃発し日本経済は息を吹き返します。小松は旧相模工廠で米軍車両の修理に従事します。あまり儲からないが、技術習得の便があり、また米国流のやり方に詳しくなったのは、将来役にたったとい言われています。米軍は小松に砲弾製造をも要請しました。大阪府の旧枚方工廠を国から払い下げてもらい、そこで砲弾を生産します。砲弾販売総額404億円の40%が小松の生産でした。戦争と言うものはいつまでもは続きません。戦争が終わったとたんに、即日注文はなくなります。戦争終結の潮時を良成は模索します。だいたい彼の推察どおりでした。
ブルド-ザ-のほかにダンプ、トラック、フォ-クリフトの生産も行います。1960年(昭和35年)に、アメリカのキャタピラ-社が三菱と手を組んで日本に合弁工場を作り日本でブルド-ザ-を生産して販売しようという計画が持ち上がります。当時キャタピラ社は世界のブルド-ザ-の50%を製造していました。製品が輸入されるだけなら、日本の低賃金で対抗できる、しかし直接投資でこられると、競争は極めて不利だ、と良成は考えます。販売、価格、生産能力の面では負けない自信はあるが、品質の面では劣る、と踏みます。政府は小松製作所一社を護ってはくれません。降伏か全面対決か?良成は後者を断固選びます。まず自由化反対を声高に叫びます。そのため他業種と連帯して騒ぎたてます。しかしこれは陽動作戦、時間稼ぎです。
品質向上のために、まずQC運動を徹底させます。Quality control(品質管理)です。職場の一作業員にいたるまで、作業、能率、休憩時間、在庫管理などすべての面に渡って、問題点を指摘させます。部品のすべてを点検し、不備なもの不具合なものは改良させます。市場調査も徹底します。販売店や建設会社に技術者を派遣して、不備や不満を積極的に聞きだし、また新しい提案を求めます。出来上がったブルド-ザ-の試験運転を建設会社に依頼します。もちろん小松でも実験は繰り返します。そのために実験部という新組織を作りました。実験の度に訂正を加えます。特に長期間使用に耐えられるか否かの実験は小松が担当します。すべての機種においてこの試験運転を行います。
良成はこの時、コスト無視、JIS否定の原則を徹底しました。コストより品質です。特に実験段階ではコストは高めにでます。将来コストを減らせると見込んで、コスト無視を徹底します。JIS規格はあくまで平均値です。部品はこの平均値を超えることを要請されるかも知れません。良成は最高のものを作ろうとしました。彼は一度戦うとなれば徹底します。そして極めて好戦的な性格です。キャタピラ社に対抗できるこの品質向上の対策を良成はマルA対策と名づけました。マルA対策は昭和36年6月に開始され、昭和37年12月に一応完了し、対策車が完成します。
この間良成はアメリカのカミンズ社と提携して、同社のエンジンの国内生産を始めています。このエンジンは高速も出します。そしてすべてのブルド-ザ-にこのエンジンの搭載を命じます。現場から指令に対して轟々たる反対がおきました。良成はこの時、指令を徹底させる一方、エンジニ-ア(技術者)というものの保守性を実感させられます。そして技術だけではいけない、技術に経営を加味しないと、技術自体が退化すると悟ります。技術プラス経営、これを技術常識と彼は言いました。言葉の選択がよくないようです。技術はそれだけを放置しておくと自然と現状維持に傾きます。そこには経営者の将来への方針、つまり向上と競争への目的意識が要ります。そうした時のみ技術は向上します。このことはマクロの視点においても妥当します。市場の消費性向が製造と技術を牽引します。良成の経営哲学は、リスクのない経営は衰退する、でした。小松製作所社長時代ソ連との貿易の重要性を説き、自ら団体を率いて訪ソし、時の首相フルシチョフと会っています。1964年(昭和39年)社長を辞任、後任は良成の長男良一です。1970年(昭和45年)死去、84歳。
小松製作所は現在でも建設機械の専門メ-カ-です。世界第2位で1位のキャタピラ社を猛追中です。日経新聞の有料ランキング調査では2006年、2007年、トヨタやキャノンを抜いて1位でした。資本金678億円、売上1兆4315億円、純資産8767億円、総資産1兆9590億円、従業員数38000人余(すべて連結)です。

参考文献 歴史を作る人々 河合良成

アベノミクスへの提言

2013-04-14 02:46:42 | Weblog
   アベノミクスへの提言

 安倍政権による新たな経済政策いわゆるアベノミクスで景気は反転上昇しつつある。まず円安により輸出企業が好調となり、株価は13000円を超えた。滑り出しは順調である。私はあるべき経済政策の進路を三段階・二事項に要約してみたい。まず現在行われつつある大幅な金融緩和がある。これは黒田日銀新総裁により大胆に行なわれ、従来禁じ手とされていた日銀引き受けも行なわれた。ある程度のリスクは伴うが、経済再生への常道だ。まず貨幣流通量を増やす。これが第一。そして輸出企業が好調になれば、その成果の半分を雇用と賃上げにまわす。これは必須事項だ。円安で輸入価格は上がりその分物価は上がる。それを賃上げでカヴァ-する。念のために言えば物価が下がって賃金も下がるより、逆に物価は上がるが賃金も上がるという動向のほうが、消費傾向を増大させる。
 第二段階は公共投資だ。為すべきことは山ほどある、東北復興、耐震建築、老朽化したインフラの整備、充分とはいえない道路の増設などが常識として浮かぶところだが、神戸横浜港の大改造そしてハブ港化なども視野に入る。さらにこの両港のみならず全国の港湾を再整備し海上運輸をもっと活発にできないものだろうか。日本は海に囲まれ海岸線が極めて長い。海上交通は陸上交通に匹敵するはずだ。さらに沖縄と北海道には農業中心の再開発を試みるべきだ。また現在は交通革命の時期に入っている。将来、現在使用されている自家用車はなくなるだろう。下駄代わりの運転技術不要の超小型ミニカ-と公共交通機関の時代になるだろう。交通機関は根本的に再整備される。東京大阪間を1・5時間で結ぶリニヤ-モ-タ-カ-はその先駆だ。交通革命とともに都市の設計も大きく変わる。内需に事欠くことはない。
第三段階は福祉工学だ。簡潔に言えば医療と教育と介護の整備だ。大胆な提言をしよう。仮に医療の規模を現在の2倍にしたとする。医師、看護師、そして病院医院の数を倍にする。同時に医療費は無料にする。資金は国家予算か特別の医療債で賄う。つまり借金経営だ。政府公共機関の出費は膨大になる。しかし病院の収入は増え、医師および医療従事者の所得も増える。医療機関に物品を提供する諸種の企業の販売も伸びる。これらはすべて税収として政府の財政に回帰してくる。詳細は省くが若干の留保をつけてもいい。そして何よりも大きなことは国民の健康が増進され、羅病率が減り、結果として医療費は安くなる事だ。保健所、児童福祉施設などの公衆衛生諸機関はもっと整備されていい。
教育でも同様だ。学校数を倍増する。小学校から高校まで約4万校あるが、更に4万校建築する。一校100億円として落ちる資金は400兆円、10年の期間にわたるとすると1年で40兆円の資金投下。教員数は90万人だから、仮に倍化し平均賃金を低めにとって年600万円とすれば、雇用は年5兆4000億円になる。校舎増設により膨大な建築費が建設業界に廻る。教員の雇用による総賃金の増加とあいまってこれらは税収増加として回帰してくる。そして何よりも重要な事は教育機関の増大は個人の労働生産性を高めることだ。つまりそれだけ安く物品やサ-ヴィスを提供できるということだ。介護についても同様の事がいえる。また教育、医療、介護の強化は犯罪率を低下させ、社会の安全性を高める。
そこまで複雑に考えなくても、医療、教育、介護などのサ-ヴィス産業は、サ-ヴィスという価値(commodity)を提供する。その分紙幣の量が増えても総体とすれば需給のバランスは保たれることになる。増えた紙幣で増えた価値・便益を買うのだから。そして一番肝要なことはこれらのサ-ヴィス産業を可及的に製造業と結びつけることだ。医療では既に始まっている。医療の機械化は目覚しい。工学部門は医学部門のニ-ズにひっぱられている形だ。教育介護部門でももっと機械化できるはずだ。こうして内需が増大すればそれはそのまま、内需により育成された技術を、輸出できる。もう一つ肝心な事は産業育成の各段階で必ず雇用と賃金の増加をめざすことだ。皆が潤わなければ消費や需要などあるはずがない。再生医療などの技術を開拓することはもちろん必要だが、その技術を消費してくれるお客がいなければ意味がない。充分に提供し充分に消費することで技術は発展する。なお1年後に予定されている消費増税はキャンセル・反故にすべきだ。経済成長が軌道に乗ってから調整すればいい。
明治時代政府が志向した事はまず内需の拡大だった。紡績と造船そして鉄鋼生産がその代表だ。内需が一定段階に達した時輸出が増加しだした。歴史の教科書では地租改正により零細農民が低賃金で工場に雇われたとか書いてある。これはものの一面を見ているに過ぎない。明治政府は欧米先進諸国に先駆けて、初等教育の普及に尽力した。教育とは何か?価値の個人への付与体化である。こうして優秀な労働力が生産された。これは潜在的賃上げだ。将来の高賃金に直結する。事実第一次産業革命以後賃金は上昇している。
最後の事項は国防だ。日本は敗戦による懲罰のために国防産業は相対的に遅れている。問題はそれだけではない。米軍の保護下に置かれている限りは、経済的主張も米国の意図の枠内でしか行なえない。TPPがどう行なわれるにせよ(あくまで国益は慎重かつ大胆に護らなければならないが)、貿易の活発化は当然諸国との摩擦を招来する。その際最後に勝負の帰趨を決めるものはその国の武力だ。武力を保持するだけで、別に行使しなくとも外交は有利になる。そして外交とは本来ピストルを突きつけあって行なう営為なのだ。他国の保護下にあって外交能力が向上するはずがない。もちろん軍需産業の成長による経済への効果も見逃せない。
ここからくる当然の帰結は憲法改正(九条廃棄)と核武装だ。私は維新の会の政策に全面的に賛成するものではないが、その党綱領の一文には感激した。多分石原氏の意向が盛り込まれているのだろうが、感激した。その一文は「---日本という国家を蔑視と孤立に閉じ込め、絶対平和という共同幻想を国民全体に強いた---」だ。全くそのとおりだ。そして現在でも我我はこの強いられた共同幻想の中にいるのかもしれないのだ。我々は爾来優秀なシェパ-ドとして飼い慣らされてきた。今からは精悍な狼にならなければならないのだ。
私はかなり大胆な経済政策を提言した。できるか?できる。日本ならできる。日本は単に世界一の金持ち(外国にある資産が世界一)であるのみならず、優秀な労働力と人材、そして単一民族ならではの奥深い歴史と文化を持っている。民族の凝集性が高く、政府の了導さえ良ければ、それを理解し一致して遂行に邁進する能力は著しく高いのだ。
私は三段階二事項といった。三段階とは、金融緩和-公共投資-福祉工学だ。二事項とは雇用増大と国防政策だ。国防は経済に密接に結びつくし、適度な賃上げは常に必要だ。

(付)公明党さんよ、いい加減に平和主義の看板を降ろしたらどうか。ある識者の言葉を借りれば貴党の平和主義は念仏論的平和主義だ。平和平和と言っていれば何をしなくても平和が得られる云々の心情だ。マルクスやレーニンは何もしなくても腹いっぱい喰える世界がやってくるとか言った。その影響下に公明党はまだあるのか。だから公明党は与党でありつつ、明確な経済政策も国防政策も提示できていない。政党の名が泣くぞ。それとも中国から何か鼻薬でもかがされているのかな。
(付)憲法の冒頭の文章にはあらためて驚いた。「諸国の正義と公正を信じて」とか書いてあった。過去公正と信義に満ちた国家があっただろうか?国家の目的は常に国民と国家の利益擁護にある。他国のことはその次の次。それが国家理性とかレゾンデタといわれる現実なのだ。
(付)北朝鮮が核つきミサイルをぶっ放すとかいっている。全面的に戦争状態とか叫んでいる。北の崩壊は近いな。

連歌と茶会  発見、日本史(3)

2013-04-07 02:21:13 | Weblog
    連歌と茶会 発見、日本史(3)

 連歌と茶会(飲茶・茶道)は極めて典型的な日本の文化です。両者に共通する特徴は、集団で行う遊びであり文学芸能であることです。連歌も茶会も淵源は平安時代にまで遡れます。連歌が始めて登場するのは白川法皇の命で編纂された5番目の勅撰集、金葉集です。茶は成尋(の弟子達)や栄西など、僧侶によって宋国から日本に将来されました。連歌も茶会も盛大になったのは室町そして戦国時代です。鎌倉時代から室町時代にかけて日本の農村社会は大きく変わります。惣村が出現します。荘園領主の支配とは無関係に、耕作農民は独自の地縁集団を作ります。惣村の農民は村の神社を中心に団結します。これを宮座と言います。都市の商工業者も同様の座を作って団結しました。こういう団結を一揆といいます。連歌と茶会は座と一揆という極めて大衆的な動向から生まれた文化であり芸能です。
 連歌は始めから大衆の生活文化でした。鎌倉時代にも「花の下連歌」と言って、庶民が春の花見時に木の下で一杯やりながらわいわいがやがやと和歌を作りあっているうちに連歌ができました。この極めて大衆的な連歌を芸術文学にまで仕立て上げた人物が二条良基です。彼は準勅撰といえる連歌集「筑波集」を作成し連歌の規則を定めました。連歌は和歌の5-7-5-7-7の語のつながりを上の句の5-7-5と下の句の7-7に分断します。まず上の句を歌い、それに他者が下の句を付けます。さらに第三者がその下の句に新たな上の句を付けます。こうしてどんどん句が連なれてゆきます。だから連歌といいます。会衆は三人以上です。二条良基は連歌に関しては極めて大衆的な人で、連歌作成には身分は関係しないと断言しました。まあそれも当然で連歌自体が花の下連歌から始まっているのですから。二条良基という人は五摂家の当主であり、一流の歌人であり、有職故実の家元であり、同時に北朝の有力な廷臣でした。連歌はさらに一条兼良や心敬をへて宗祇に連なってゆきます。一条兼良は最後の勅撰集「新続古今集」の編纂者です。良基、兼良そして三条西実隆の三人は上層公卿の出身であり、室町戦国時代を通じての貴族文化の保持者であり、そしてこれらの文化を江戸時代の庶民文化に仲介する役割を果たしています。単なる仲介ではありません。彼ら公卿達は江戸時代に貴族文化を家職として受けつぎます。同時にこの家職としての古典文化は江戸時代の庶民文化の背景基軸として重要な役割を果たします。こうして朝廷公卿は武家政治全盛の時代にあっても文化の護持者として生き残り、現在の天皇制の基礎を造っていきます。
 宗祇は1421-1502年にわたって生きました。80年の人生のうちその前半は室町将軍の権勢の盛期、後半は応仁の乱以後の戦国時代の開幕期です。相国寺に入ったと伝えられますが、彼の人生の前半のことは一切不明です。和歌を一条兼良や東常縁に学び古今伝授を受け、連歌界の英才として頭角を表します。彼は西行や芭蕉と同様に終生旅に生き旅に暮らしました。戦国大名の教養指南者であり、また情報提供者でもあったようです。宗祇も二条良基にならい、連歌作成における季節と気分の変化を重視しました。連想の自由を保障するためです。彼が二人の弟子とともに詠んだ「水無瀬三吟何人百韻」のうちから最初の部分を掲載してみます。
   雪ながら山もと霞む夕(ゆうべ)かな        宗祇
      行く水遠く梅にほう春            弟子A
   河原にひと叢(むら)柳春みえて          弟子B
      舟棹す(さす)音も著き(しるき)明方    宗祇
   月やなお霧わたりたる夜に残るらむ         弟子A
微妙なニュアンスの差ですがこの五句の季節は、晩冬か早春-春-晩春か初夏-夏-秋と変化してゆきます。発句は後鳥羽院の
   見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思いけむ
からとられています。新古今集冒頭の歌です。水無瀬には後鳥羽院の離宮がありました。もう少し遡りますと、後鳥羽院のこの和歌は、清少納言の枕草子冒頭の「春はあけぼの、秋は夕暮れ」への反論です。連歌では当然発句つまり最初の第一句が重要視されます。こうして発句だけが独立し俳諧俳句というジャンルができました。江戸時代は俳句全盛の時代です。なお宗祇は「新撰筑波集」という作品を残しています。なお俳諧の諧は諧謔の諧です。
 茶はインドのアッサムから中国の雲南を中心とし四川と湖南の一部を含む照葉樹林帯、いわゆる東亜半月弧といわれる一帯を原産地としています。中国の河北には後漢の時代には持ち込まれていました。演技三国志で主人公の劉備が貧窮の時代、母親になんとかして茶を飲ませてやろうとして黄河を往来する舟を待つくだりがあります。日本には留学僧が平安時代以後持ち込みました。有名なのが栄西です。この頃から茶は寺院特に禅宗の寺院で愛飲されました。禅苑清規と茶令という規則が設けられています。なぜ禅院で愛飲されたかは簡単に解ります。眠気覚ましです。この点ではコ-ヒ-の初期愛飲者がイスラム神秘主義者達であったこととほぼ軌を一にします。禅僧もイスラム神秘主義者も眠けにはなかなか勝てなかったのです。
 茶は鎌倉時代には寺院外でも多くの人に賞味されます。室町時代になるとさらに飲み方が大規模になり、闘茶の大会が開かれます。茶の銘柄を懸物つきで当てる大会です。南北朝期に活躍したバサラ大名佐々木道誉が有名です。この頃にはすでに武士豪商のみならず一般の庶民も飲茶を楽しんでいたと思っていいようです。
 画期は東山文化、八代将軍義政が主宰する銀閣寺を中心として展開された文化の時代です。義政が日本の文化に尽くした貢献には大なるものがあります。建築、作庭、書画、茶道、陶磁器収集鑑定、当然能狂言などなどへの影響は甚大です。失礼ながら政治はおっぽりだして遊びほうけた人ですから。特に茶道への影響は計り知れません。義政は陶磁器それも唐物の収集にふけりました。彼は美意識の強い人でしたから彼が収集鑑定した陶磁器は東山殿御物として権威を持っていました。彼が建てた銀閣寺の東求堂は書院造りの第一号です。書院造と言えば畳の間、書院、床の間があります。これは日本建築の元祖です。書院、畳の間の出現で日本式茶会が中国式茶会から分離独立しました。東求堂同仁斎はまだ単なる書院でしかありませんが、ここから茶室が始まります。
 それまでの茶会はかなりらんちきなパ-ティ-でした。舶来の物品を掛け物とする博打でもあり、最後は酒席になり杯盤狼藉で終わります。村田珠光という人物が出現します。彼は奈良で生まれ興福寺下の称名寺に入っていました。寺務懈怠で追放されます。珠光は京都大徳寺に入り一休宗純のもとで参禅します。ここで彼は、茶湯の中にも仏道があると悟り、従来の茶席を著しく精神化します。茶禅一味です。まず唐物礼賛を控えます。床には唐絵に代り墨蹟をかけます。茶席は四畳半の小座敷で行います。そしてここが肝心なところですが、飲茶を通じて亭主と客人の精神的交流を計るべく務めます。こうして草庵風、山里風、わびさびの世界が開かれました。珠光の事跡はやがて堺の商人武野紹鴎に引き継がれます。紹鴎の弟子が、魚屋の千利休です。利休から和製の陶磁器も名物として尊重されるようになりました。利休も堺の大商人です。茶会茶道発展は堺の商人により了導されました。利休は秀吉の政治的顧問になりました。それが仇となって彼は非命に倒れます。現在の茶道は利休の子孫が運営する裏表両千家の流派、さらに多数の流派があります。
 茶会の精神はまず数寄の精神です。現在ではこの数寄心も多分に精神化されていますが、本来数寄とは「好き、女好き」という意味です。それが茶会の盛行とともに、舶来の中国製製品、特に陶磁器と書画大好きに変わりました。舶来愛好礼賛の風潮です。現在ならグッチのバッグというところでしょうか。この種の陶磁器などには莫大な金銭が使われます。その辺の事情を上手く利用したのが、織田信長です。彼は投降した勢力から服従の証として彼らが一番愛好する茶器を献上させました。また部下の将士にも一定の軍功をあげて一定の地位に就くまでは茶会の開催を認めません。部下操縦の一環として茶会を利用しています。利休が処刑されたのも派手な唐物礼賛の秀吉と、山里風の古雅な和製陶磁器を愛好する利休との趣味の違いが、利休収賄説にまで発展したせいもあります。
珠光、紹鴎、利休と代を重ねて茶会は精神化されてゆきます。紹鴎は数寄心を定義して「数寄者というは隠遁の心第一に侘びて、仏法の意味をも得知り、和歌の情を感じ候へかし」となります。しかし私は数寄という言葉に本来の原意である「好き、女好き」というニュアンスをどうしても感じてしまいます。数寄の発展形態である侘びさびにも、隠された贅沢という逆説と若干の嫌味も感じます。本来共に飲む茶、共同飲茶、茶会とは明るくて楽しいものです。侘びさびにはどこかひねておどけて滑稽なところがあります。侘びかさびかはともかく、飲茶の風習、茶道の盛行により日本料理が発展しました。懐石料理です。これは宮廷や幕府で行われる正式の料理の簡易版です。一汁三菜、酒と菓子、実質的で食べやすい料理です。
 さて茶会の心とは何でしょうか?数寄については既に述べました。数寄・好きの精神をもう少し具体的に考えますと、当座性(座興)、雑談の連鎖そして振舞いになります。茶会の最も重要なイヴェントは会話です。茶と料理などを楽しみつつ、自由な会話をします。つまり雑談、そしてここで肝要なことはこの雑談がとぎれない事です。そのために一定の形式と基軸を定めます。茶礼および茶器の鑑賞です。雑談と言えば軽く聞こえますが、これは自由な連想です。連想の自由は気分の自由につながります。そして振舞い。振舞いとは相手の心境を慮って配慮し行動すること、サ-ヴィスの提供です。茶会のかなり煩瑣な礼式はこのサ-ヴィスを継続的に保証するための装置です。雑談の連鎖、サ-ヴィスの応酬となりますと、当然そこには当座性・即興性という特質が入ってきます。なにせサ-ヴィスと雑談なのですから。これらの特質は最後に集団での遊びにつながります。人為的に行動の形式規範を定め、それを演じることにより即興的に振舞い会話する、つまり遊びです。別の言葉で言えば一座建立、人為的に作られたお芝居です。さらにこれに一会一期が重なります。会うて分かれて分かれて会うて、末は野の風秋の風、一会一期の契りかな、すなわち当座性即興性です。
 数寄についてもう一言。数寄は茶会や連歌に共通の精神ですが、この心は徒然草の吉田兼好、方丈記の鴨長明、そして平安時代の大原三寂、さらに川原院の会合につながります。数寄の原点には明らかに清少納言の枕草子があります。枕草子の主題は「おかし」です。この言葉は、興趣がある、そしておかしい(滑稽だ)という両義を含みます。連歌そして茶会の原点には「おかし」の精神がありその意味の半分は「滑稽である」です。日本の文化は根底にこの滑稽さを内含しています。
 ここで茶会は連歌とつながります。連歌も、集団での掛け合い、言葉の連想、そして即興性と相互の気持ちへの配慮を特徴とします。連歌と茶会は、詩作と飲茶という外面的行為をはずせばその精神は酷似しています。こういうある種の滑稽味を帯びた、集団での遊びを芸術文学にまで高めたところに日本の文化の奥深さと豊かさを感じます。この事は現在日本が圧倒的にリ-ドしているアニメ制作にも通じます。
 最後に茶が世界史に与えた影響に関して一言いたします。中国の宋王朝は北方騎馬民族と交易という名で、所得移転をしてきました。北方の胡族が一番ほしがったものは銀をのぞけば絹と茶でした。北方の民族が健康を維持するためには、繊維質とヴィタミンCの豊かな茶がどうしても必要でした。欧州の18世紀以後茶がアジアから、コ-ヒ-が新大陸から怒涛のように流れ込みます。この種の嗜好品の愛飲により、貨幣流通量が増大し、つまり有効需要が増え、それがイギリスを中心とする産業革命につながります。イギリスなどは中国からの茶の代金を払えないので、苦肉の作として阿片を見返りに輸出しアヘン戦争を引き起こしています。日本では戦国期以後着実に茶の生産が増えます。幕末維新時の輸出品の主力は生糸と茶でした。茶は日本が製造業中心の国家へ離陸するための資本を提供しています。

勅撰和歌集、発見、日本史(2)

2013-04-01 21:41:19 | Weblog
発見、日本史(2)  勅撰和歌集

 日本で最初に編集された和歌集はもちろん万葉集です。総計4500首余、元明天皇の要請とも言われ、正式には753年橘諸兄が孝謙天皇に命ぜられて編纂に着手したともいわれております。実質的な編者は大伴家持です。政変がからみ万葉集が実際に出来上がったのは9世紀前半です。万葉集は準勅撰集とされています。9世紀後半には菅原道真編集の新撰万葉集が造られます。新撰万葉集は万葉仮名から現在我々が使用している仮名への進化途上の作品です。
 905年に醍醐天皇の勅命で古今和歌集が編纂されました。編者は紀貫之、紀友則、壬生忠岑、凡河内ミ恒の4名です。以後1205年に後鳥羽上皇の命で編纂された新古今集までの歌集は和歌の最盛期を体現しており、八代集といわれます。後撰集(村上天皇)、拾遺集(花山法皇)、後拾遺集(白河天皇)、金葉集(白河法皇)、詞歌集(崇徳上皇)、千載集(後白河法皇)新古今集(後鳥羽上皇)です。以後新勅撰和歌集、続後撰集、続古今集、続拾遺集、新後撰集、玉葉集、続千載集、続後拾遺集、風雅集(花園法皇)、新千載集、新拾遺集、新後拾遺集、そして1439年、後花園天皇の時代の新続古今集でもって、勅撰集編纂の幕は閉じられます。また1381年宗良親王(後醍醐天皇の皇子)が編纂した新葉集があります。この新葉集は、風雅集以後の歌集に採録される歌が圧倒的に北朝側の歌人の作品で占められていることへの、宗良親王の反撃そして政治的自己主張です。新葉集を勅撰集に入れても構いません。宗良親王の新葉集編纂の目的は明らかに、南朝の正当性の主張です。
 古今和歌集は醍醐天皇の勅命で作られました。その序に、歌でもって天地の神に訴え、人の心を動かすとあります。序は歌集政策の意図の表明です。勅撰そしてこの序文の意を考えますと、古今集は極めて政治的行為になります。和歌あるいわ言葉でもって帝王は人心と天地万物を支配しようということです。換言すると神としての天皇の統治を正当化し普延するために勅撰和歌集ができました。
 古今和歌集ができた頃、日本語の表記法が確立します。漢文あるいはより面妖な万葉仮名を借りなくても、日本人の心情を言語で表現できるようになりました。古今集ができる20年前に歌教標識という本ができています。これは漢文で書かれた和歌の作り方です。併行して物語が作られてゆきます。竹取物語や伊勢物語は仮名書き文です。古今集の編集者の一人である紀貫之は仮名書きで日記をつけました。自民族の固有言語を持つという事は、政治支配確立の重要な基盤です。このような意義を持った日本語表記発展の画期に古今集の作成があります。
 醍醐天皇の父君である宇多天皇の御代から政治や貴族の生活が儀礼化してきます。儀礼化には政治の形式化という負の側面もありますが、同時に儀礼を共にする共同体形成、そこでの人心交流の円滑化という正の側面もあります。村上天皇の御代から大規模な歌合せが施行されるようになります。これは王権の示威であり、人心の交互応酬であり、男女の協和であり、言語能力の切磋琢磨でもあります。和歌はこうして、貴族のみならず一般庶民も含めて、文化と儀礼のもっとも重要な手段になりました。和歌作成は貴族の必須の教養になります。後続する武士達も自分が野蛮人でないことを証明する為に和歌を学びました。
 古今集で歌われる内容は案外単純です。というより一般に詩というものが、表現できる内容はそんなものです。春夏秋冬の四季、恋、別れ、旅、祝いくらいになります。歌詞、歌枕など定型化された言語が作られます。こうして和歌を介して感情の円滑な交流が可能になりました。なによりも詩作能力は言語能力であり同時に論理形成能力であります。 
 こういう勅撰和歌集が万葉集から新続古今集まで、753年から1439年まで連綿として造られてゆきます。王権の確立期、全盛期のみならずその衰退期においてもつくられ続けられます。南北朝分裂に際しても相互の側で和歌集・和歌作成は尊重されます。勅撰集が700年の長きにわたって作られ続けられるということは、その主催者である天皇家の王統の正当性が訴えられ、またそれが承認されていることの証左です。簡潔にいえば、勅撰和歌集の作成は万世一系の天皇制の明確な証であります。南北朝合同に際して、後小松天皇と後亀山天皇の間の血統は玄孫間以上の隔たりがありますが、両統とも和歌集の作成と言う文化価値を共有し、ですから同族意識を持ち合いました。南北朝の合同など世界の他の歴史にはありません。
 最後の新続古今集以後和歌は衰退したのでしょうか。そうは言えますまい。連歌はあるいわ俳諧俳句は和歌の後身です。宗祇も芭蕉蕪村も一方では漢詩にも歌学にも熟達していした。連歌は千載集にすでに載せられています。新古今和歌集の編者藤原定家は晩年連歌を楽しんだそうです。和歌、連歌、俳句の間には明らかな連続性があります。
 江戸時代に入り禁中公卿諸法度が幕府により作成されます。幕府としては、公卿朝廷は学問技芸に専念されたらよろしいということだったのでしょうが、幕府により設定された公卿家職は江戸時代の庶民文化に甚大な影響をあたえております。このことについては後に取り上げるでしょう。二条、冷泉、飛鳥井、三条西の四家が和歌伝授の家として公認されています。後年本居宣長、さらに明治に入って、正岡子規などにより和歌は民間から復活してまいります。
 和歌、連歌、俳句に関して言うべき重要なことは、詩作が簡単にできることです。一定の教養があれば(多分なくても)和歌や俳句はつくれます。5と7の平仮名でもって字句を作り、それをくっつければいいのですから。私も和歌俳句なら、そのできばえはともかくとして作れます。数度遊びで連歌の会を持ったことがありますが、結構以上に楽しいものでした。和歌の伝統確立により日本人の詩作、したがって言語能力は飛躍的に向上したといえましょう。勅撰集の意義はそこにもあります。
 最後に私の好きな式子内親王の新古今和歌集に採録された歌を披露してみます。
 
山ふかみ春とも知らぬ松の戸に たえだえかかる雪の玉水 (春上 3)
はかなくて過ぎにしかたを数ふれば 花に物思う春ぞ経にける (春下 101)
八重にほふ軒端の桜うつろひぬ 風よりさきに問うふ人もがな (春下 137)
白露のなさけ置きけることの葉や ほのぼの見えし夕顔の花 (夏276)
それながら昔にもあらぬ秋風に いとどながめをしずのおだまき (秋上 368)
跡もなき庭の浅茅にむすぼほれ 露のそこなる松虫のこえ (秋上 474)
松が根のをじまが磯のさ夜枕 いたくな濡れそあまの袖かは (き旅 948)
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば 忍ぶることの弱りもぞする (恋 1034)
わが恋は知る人もなしせく床の なみだもらすな黄楊の小まくら (恋 1036) 
逢ふことを今日まつが枝の手向草 いく世しをるる袖とかは知る (恋 1159
ほととぎすそのかみ山の旅枕 ほのかたらひし空ぞわすれぬ (恋 1484)

(追記)
 優雅な新古今集の歌の次に無粋な記事で申訳ありませんが、いささかの政治的意見を披露させていただきます。数日前の朝日新聞に、ある欧米人の寄稿としてつぎのような意見が掲載されていました。東アジアは火薬庫になったとか。日中間の領土紛争を取り上げているのでしょうが、その際日本は中近東におけるイスラエルのようだ、とありました。この意見あきらかにおかしい。日本という国は1500年以上前から存在します。イスラエルの建国は60年くらい前です。それに日本は中国北朝鮮以外の国とは友好関係にあります。歴史的状況も地理的関係も無視して強引な論理を展開してもらっては困ります。この記事は明らかに日本が中国と話し合え、譲歩しろと言うようにみえました。朝日新聞さん、まず同様の事を中国に言ってください。