(2)大仏開眼
日本の政治制度の次の転換期は西暦752年の東大寺大仏開眼供養です。大仏開眼についての注目点は四つです。大仏開眼は日本に仏教という高度な世界宗教がだいたい根づいたことの証左です。欽明天皇の御代正式に仏教が日本イ伝わって以来二百年になります。この間日本は急速に仏教を摂取します。蘇我馬子の法興寺と聖徳太子の法隆寺がほぼ最古の寺になります。舒明天皇は皇室の氏寺として百済大寺(大安寺)を建てられ、天武天皇は始めて国立の寺として、薬師寺を建てられました。また経典の輸入も進みます。天平年間で法相、三論、華厳、律、成実、俱舎のいわゆる南都六宗がでそろいだいたい教学の基礎文献が整います。僧綱制が敷かれて僧侶養成も進みます。僧尼令が定められて僧侶の統制も厳重にされます。全国に国分寺と国分尼寺が建てられ地方にも仏教信仰が広められます。こういう事跡の積み重ねの上に大仏開眼が挙行されました。仏教弘布の基礎は整った、ここからは日本の仏教創造の開始だ、というのが開眼供養が明示する意味の第一です。
第二の注目点は、開眼供養における大衆動員です。念のために言いますが、動員と言っても強制動員ではありません。大衆が自主的に開眼供養に参加し寄進したのです。ここで行基という僧侶が登場します。彼は法相宗の僧侶ですが、世俗の福徳と社会的貢献の意義を説いてまわり、社会活動を展開します。彼の活動範囲は広く、貧民救済から溜池や用水路などの灌漑設備の造作、そして田畑の開墾など当時主要産業である農業のインフラをどんどん整備しました。律令制では一人当たりが耕作していい土地の面積は限られていますから、行基の行動は法律違反になります。事実彼は政府から非難されました。もっとも処罰されたとは聞きません。ところでこの行基の活動は当時の民衆の土地私有願望に答えるものだったのです。行基の活動は大衆動員により支えられました。正式な僧侶、正式でない僧侶(私度僧と言われ法律違反の存在です)さらに一般農民を組織し財務や建設の技術を駆使してインフラ開発に邁進しました。当時の僧侶は新来の知識と技術の唯一の所有者です。何分とも法律違反の行為なので政府は始め行基の行動を禁止します。が大勢には勝てず、745年に彼を大僧正に任命します。僧侶の位階では一番上の位です。国家が行基の存在を仏教布教における最高指導者と暗に認めたようなものです。行基菩薩と尊称された彼は7年後の大仏開眼に大衆を率いて参加します。彼が開拓した多くの土地から上がる財富と労働力が寄進されます。大仏開眼は国家の事業ですが、同時に民衆の自発的参加を前提にして、国家と民衆が財富を出しあって行なわれたわけです。このような例は世界史上ありません。地方的地域的範囲でならともかく、国家の存立がかかる宗教施設の建立を国家と民衆が共同で行なう、ということは行基の事跡だけです。極めて日本的な特徴といえます。なお行基に従った人達は後に土地を集積して名主(みょうしゅ)そして武士になって行きます。この点に関しては後に述べます。国家と民衆の協力、これが大仏開眼の第二の意味です。換言すれば日本の民衆は相対的に豊かであり、統治は寛容であり、統治する者とされる者の合意は作られやすかったといえましょう。これも日本の政治の特徴の一つです。
ここで菩薩という存在について一言しておきましょう。菩薩とは大乗仏教独自の概念です。大乗仏教では自分だけ悟ってはいけません。悟りの最終段階に入る一歩手前で反転し世俗の世界に舞い戻って大衆を救わねばなりません。救済は世俗的次元で行なわれます。行基の事例が好例です。行基以後も彼のように社会の中で活躍し、経済活動を促進する僧侶がぞくぞく出現しました。彼らを菩薩僧とよびます。大物では弘法大師空海がいます。菩薩僧という聖俗にまたがって活躍する自主的経済人の存在、これも日本の政治経済の特徴です。後述に待ちますが、後年出現する武士という階層も菩薩僧と同様の存在です。
大仏開眼の第三の意味は聖武天皇の供養での態度です。彼は自らを三宝つまり仏法僧の奴として大仏を拝みました。彼自身が仏弟子になります。ここで聖武天皇は仏教あるいわ仏教教団の下位に自らを位置づけました。同時に彼は開眼供養の主宰者であり仏教教団の統制者です。ここで政治と宗教は相互補完的協力関係を形成します。政治は自らの政治行為を貫徹するためにはどうしても宗教それも多くの人が納得する論理と実践技能を備えた高等宗教を必要とします。なぜなら政治は政治自らの力で指導者をカリスマ化できません。せいぜい一部の人間の親分になるくらいが関の山です。宗教が宗教たる由縁は指導者つまりカリスマが、信者一人一人に直接働きかけえることです。カリスマは宗教信仰の次元においてのみ存在できます。政治の指導者つまり君主はこのカリスマ性を宗教を保護する事で宗教から借りておのれのものにします。逆に宗教はその布教のためには政治の力を必要とします。ばらばらの集団には布教できません。一定の民度を持つ共同体でないと高等宗教は布教できません。ですからあらゆる宗教は政治の保護に頼ります。こうして政治と宗教、君主と宗教カリスマは同盟というより結婚します。日本への仏教伝来は喩えて言えば、釈迦が天照大神に入り婿したようなものです。聖武天皇が大仏を参拝した事はそういう意味を持ちます。こうして大仏開眼に象徴される仏教への帰依、天皇自らそして民衆一般を代表して仏教に帰依することにより、統治する者とされる者の関係は円滑になり納得できるものになります。換言すれば国家とそれが行なう権力の行使は認知されます。行基が民衆を率いて大仏建立に参画した事は、君主と宗教カリスマの同盟の一側面を表しています。
このような宗教と政治の同盟/結婚は他にいくつでも例があります。西暦4世紀前半にロ-マ帝国はそれまで禁圧していたキリスト教を容認します。コンスタンティヌス大帝が自らキリスト教徒になりました。同時に彼は帝国全域にわたるキリスト教の最高指導者になりました。こうしてロ-マ帝国は生きのびます。東の帝国は以後1200年に渡って存続します。西の帝国へ侵入し帝国を滅ぼした蛮族達も彼ら自ら創った王国維持のためにはコンスタンティヌスと同じことをします。8世紀後半フランク王国のカ-ル大帝はロ-マ法皇から加冠され、帝国の合法性を保証されます。現在のイギリス王室の長であるエリザベス二世は英国国教会の首長でもあります。シナでは4世紀に西晋が亡びます。以後激しく変化する国家の興亡の中ですべての国家は仏教を保護しました。隋唐帝国も同様です。
大仏開眼供養には当時の日本の技術が総動員されます。世界であれだけ大きな銅像は奈良の大仏以外にはありません。冶金技術の優秀さを示しています。建築技術も同様です。そして建設に大衆が動員されたことは、これらの技術の民間への浸透を結果します。仏教は世界宗教です。当時日本より先進的であった、インドとシナ更にペルシャや中近東更にはギリシャの文化を包括して、仏教は日本にやってきました。体系的な論理展開と思考法、寺院に典型的に見られる人間の組織と管理の技術、医薬、建設、冶金、工芸、職布、食品加工などの工業技術そして新種の農産物などを、唯一の知識階層である僧侶とともに仏教は日本に持ち込みます。ですから大仏開眼という事業は、技術と知識の集約であり同時にその更なる展開への結節点です。これが大仏開眼の第四の意味です。
私は日本の政治のあり方を叙述するにおいて、聖徳太子と大仏開眼から入りました。これは仏教の受容によって日本の国家が成立したと言おうと思ったからです。先に政治行為が為されるためには宗教は必須だと申しました。ここで政治に対する宗教の関係を考えて見ましょう。宗教はその先祖を遡及すれば魔術か呪術に行き着いてしまいます。原始的な小さい部族集団はその中に必ず呪術師を持っています。小規模の原始的集団は小規模であることにより、自然な連帯感一体性を持っています。彼らは皆同朋です。この一体感を保証ずるのが呪術師です。呪術師は何かに憑依されて、部族の人間を超えた存在の意志を部族に取り次ぎます。これがもう少し発展すれば民族宗教になりますが、この段階の宗教の役割は自らが属する部族民族の特権を保証してもらうことが目的になります。この段階を超えて多部族多民族を包括する集団になりますと、民族宗教ではまとまりがつきません。ここで世界宗教が出現します。世界宗教の特徴は、原始宗教が本来もつ集団内の連帯性を保持しつつ、集団内の個々人の世俗的あり方を無条件に一度否定することです。否定するのはその宗教の創唱者自身です。彼がカリスマになります。具体的に例示すれば釈迦とキリストです。私はこの個の無条件否定を絶対無と名づけます。仏教では無我、キリスト教では原罪という考え方です。世界宗教はこの絶対無で一度否定され解体された個々人を宗教の創唱者であるカリスマに直接結び付けます。カリスマと信者は一対一の関係になります。政治はこの一対一の関係と支配する者のカリスマ性を宗教から借ります。このような意味での世界宗教は歴史において完全なものとしては仏教とキリスト教があるのみです。
日本はそういう世界宗教である仏教を熱心に受容して国づくりに邁進しました。もう少し政治との関連で仏教というものを見てみましょう。仏教は日本に渡来する以前の段階で、三つの段階を経て創造されました。まず釈迦が説く縁起無我です。釈迦はすべての存在は連なりあっており、確実な個我なぞ無いといって苦の存在を否定しました。この考えは極めて豊潤な思考なのですが、難解で加えてともすると虚無に傾くきらいがあります。第二の転機は竜樹の考えです。竜樹は存在と非在は相互にまた同時に転変しあい、確実な存在の把握は流動する全体を決断して捉える主体だけだ、と唱えました。この考え方は論理は明確ですが、非常に不安定です。そこで第三の転機として法華経が登場します。法華経は竜樹が説く決断の主体を、共同体を形成して未来に向けて行動する集団に転化します。同時に万人は救われると、いやすでに救われていると説きます。こうして人間という存在は定立されました。これを往生と言っても宜しいし成道と言ってもあるいわ救済と言っても構いません。そういう仏教を日本は受容しました。ここでも、明るく一緒に人のため、というモット-は繰り返されます。のみならず法華経は集団で未来に戦闘的に挑戦すること非常に重視します。集団とは国家です。法華経が護国の経典と言われるのはこの由縁にあります。
仏教は他の宗教に比べて著しい特徴を持ちます。竜樹を中に挟んで釈迦の無我と法華経の共同体形成が対応しつつ統一されております。ですから仏教は一方では円転滑脱であり融通が利く論理構造を持っています。これは仏教が人間にとって優しい宗教であることを意味します。他方法華経の説くところは集団形成つまり政治行為の重視です。この点では仏教は極めて社会的であり建設的でもあります。虚無という究極の自由に回帰しうると同時に社会建設にも邁進できる論旨を仏教は持っています。
このように仏教は融通無碍な柔軟性を持っているために、そこからある重要な結果を導きだされます。それは仏教が国教とならない、なりえないということです。仏教の教義が非常に柔軟で広括なため、仏教には異端という概念がありません。あるのは異なる宗派だけです。教義を独占できないのですから、国家権力と独占的結びつくことはありません。日本は仏教国ですが、かといって仏教が国教ではありません。日本古来の神道と柔らかく結びつき結構仲良くやっています。仏教が国教になりえないことは逆に国家自体も政治的価値あるいわ権力を独占できないことになります。日本は仏教を受容する事によりその政治体制をきわめて柔軟なものとしました。換言すれば日本の政治体制はきわめて適応力が高いことになります。この点に関して一応他の文明と比較してみます。西欧では長い間キリスト教が国教であり、他は異端として厳しく迫害されてきました。この風潮は現在においても残っています。イスラム諸国では政教一致が原則です。シナは100年前まで儒教が国教でした。小さくもない一つの国に広範に浸透し定着してなお国教でないような宗教は仏教だけです。別言すれば仏教においては宗教戦争は起こりません。
法華経に集約される仏教において非常に特異で重要な救済法あるいわ修行法があります。これが菩薩道です。菩薩とは究極の成道の一歩手前で反転し俗世に降りて衆生救済に励む者です。これが最高の成道とされます。ここで一切の社会的行為は(もちろん善行の方がいいのですが)は成道につながります、というより一切の衆生は既に救済されているのです。非常に楽観的で明るい世界観です。まさしく、明るく一緒に人のため、です。仏教が日本の政治の在り方に導入した思想は繰り返しますがこの、明るく一緒に人のため、加えれば、もう救われているから安心おし、です。このような考えが浸透すると、人々は明るくなり、まとまりやすく何事も話し合いで円満に解決するようになります。集団帰属性の強さと衆議性がここから出てきます。日本は仏教を受容してその政治制度を作りました。ですから日本の政治体制の特徴は、明るく一緒に人のため、まとまって話し合おう、をモット-するようになります。私は日本の政治をやや美化しすぎたきらいがあるかも知れません。しかし大体はそういうところです。詳しくは後述する論理の展開を待って下さい。
ここで仏教に対するよくある誤解を解いておきましょう。仏教は暗い陰気なものと思われがちです。無常とか寂滅とか業と罰とかが仏教倫理としてよく説かれます。業や罰は仏教の本質的概念ではありません。寂滅の対局には菩薩道があります。無常は無我の誤解あるいは濫用です。仏教とは本来明るいものなのです。
私は日本の政治思想を語るにまず仏教から入りました。では仏教以前の日本の政治といいますか社会といいますか、そういう集団における倫理あるいは思想はどんなものだったのでしょうか。
日本の政治制度の次の転換期は西暦752年の東大寺大仏開眼供養です。大仏開眼についての注目点は四つです。大仏開眼は日本に仏教という高度な世界宗教がだいたい根づいたことの証左です。欽明天皇の御代正式に仏教が日本イ伝わって以来二百年になります。この間日本は急速に仏教を摂取します。蘇我馬子の法興寺と聖徳太子の法隆寺がほぼ最古の寺になります。舒明天皇は皇室の氏寺として百済大寺(大安寺)を建てられ、天武天皇は始めて国立の寺として、薬師寺を建てられました。また経典の輸入も進みます。天平年間で法相、三論、華厳、律、成実、俱舎のいわゆる南都六宗がでそろいだいたい教学の基礎文献が整います。僧綱制が敷かれて僧侶養成も進みます。僧尼令が定められて僧侶の統制も厳重にされます。全国に国分寺と国分尼寺が建てられ地方にも仏教信仰が広められます。こういう事跡の積み重ねの上に大仏開眼が挙行されました。仏教弘布の基礎は整った、ここからは日本の仏教創造の開始だ、というのが開眼供養が明示する意味の第一です。
第二の注目点は、開眼供養における大衆動員です。念のために言いますが、動員と言っても強制動員ではありません。大衆が自主的に開眼供養に参加し寄進したのです。ここで行基という僧侶が登場します。彼は法相宗の僧侶ですが、世俗の福徳と社会的貢献の意義を説いてまわり、社会活動を展開します。彼の活動範囲は広く、貧民救済から溜池や用水路などの灌漑設備の造作、そして田畑の開墾など当時主要産業である農業のインフラをどんどん整備しました。律令制では一人当たりが耕作していい土地の面積は限られていますから、行基の行動は法律違反になります。事実彼は政府から非難されました。もっとも処罰されたとは聞きません。ところでこの行基の活動は当時の民衆の土地私有願望に答えるものだったのです。行基の活動は大衆動員により支えられました。正式な僧侶、正式でない僧侶(私度僧と言われ法律違反の存在です)さらに一般農民を組織し財務や建設の技術を駆使してインフラ開発に邁進しました。当時の僧侶は新来の知識と技術の唯一の所有者です。何分とも法律違反の行為なので政府は始め行基の行動を禁止します。が大勢には勝てず、745年に彼を大僧正に任命します。僧侶の位階では一番上の位です。国家が行基の存在を仏教布教における最高指導者と暗に認めたようなものです。行基菩薩と尊称された彼は7年後の大仏開眼に大衆を率いて参加します。彼が開拓した多くの土地から上がる財富と労働力が寄進されます。大仏開眼は国家の事業ですが、同時に民衆の自発的参加を前提にして、国家と民衆が財富を出しあって行なわれたわけです。このような例は世界史上ありません。地方的地域的範囲でならともかく、国家の存立がかかる宗教施設の建立を国家と民衆が共同で行なう、ということは行基の事跡だけです。極めて日本的な特徴といえます。なお行基に従った人達は後に土地を集積して名主(みょうしゅ)そして武士になって行きます。この点に関しては後に述べます。国家と民衆の協力、これが大仏開眼の第二の意味です。換言すれば日本の民衆は相対的に豊かであり、統治は寛容であり、統治する者とされる者の合意は作られやすかったといえましょう。これも日本の政治の特徴の一つです。
ここで菩薩という存在について一言しておきましょう。菩薩とは大乗仏教独自の概念です。大乗仏教では自分だけ悟ってはいけません。悟りの最終段階に入る一歩手前で反転し世俗の世界に舞い戻って大衆を救わねばなりません。救済は世俗的次元で行なわれます。行基の事例が好例です。行基以後も彼のように社会の中で活躍し、経済活動を促進する僧侶がぞくぞく出現しました。彼らを菩薩僧とよびます。大物では弘法大師空海がいます。菩薩僧という聖俗にまたがって活躍する自主的経済人の存在、これも日本の政治経済の特徴です。後述に待ちますが、後年出現する武士という階層も菩薩僧と同様の存在です。
大仏開眼の第三の意味は聖武天皇の供養での態度です。彼は自らを三宝つまり仏法僧の奴として大仏を拝みました。彼自身が仏弟子になります。ここで聖武天皇は仏教あるいわ仏教教団の下位に自らを位置づけました。同時に彼は開眼供養の主宰者であり仏教教団の統制者です。ここで政治と宗教は相互補完的協力関係を形成します。政治は自らの政治行為を貫徹するためにはどうしても宗教それも多くの人が納得する論理と実践技能を備えた高等宗教を必要とします。なぜなら政治は政治自らの力で指導者をカリスマ化できません。せいぜい一部の人間の親分になるくらいが関の山です。宗教が宗教たる由縁は指導者つまりカリスマが、信者一人一人に直接働きかけえることです。カリスマは宗教信仰の次元においてのみ存在できます。政治の指導者つまり君主はこのカリスマ性を宗教を保護する事で宗教から借りておのれのものにします。逆に宗教はその布教のためには政治の力を必要とします。ばらばらの集団には布教できません。一定の民度を持つ共同体でないと高等宗教は布教できません。ですからあらゆる宗教は政治の保護に頼ります。こうして政治と宗教、君主と宗教カリスマは同盟というより結婚します。日本への仏教伝来は喩えて言えば、釈迦が天照大神に入り婿したようなものです。聖武天皇が大仏を参拝した事はそういう意味を持ちます。こうして大仏開眼に象徴される仏教への帰依、天皇自らそして民衆一般を代表して仏教に帰依することにより、統治する者とされる者の関係は円滑になり納得できるものになります。換言すれば国家とそれが行なう権力の行使は認知されます。行基が民衆を率いて大仏建立に参画した事は、君主と宗教カリスマの同盟の一側面を表しています。
このような宗教と政治の同盟/結婚は他にいくつでも例があります。西暦4世紀前半にロ-マ帝国はそれまで禁圧していたキリスト教を容認します。コンスタンティヌス大帝が自らキリスト教徒になりました。同時に彼は帝国全域にわたるキリスト教の最高指導者になりました。こうしてロ-マ帝国は生きのびます。東の帝国は以後1200年に渡って存続します。西の帝国へ侵入し帝国を滅ぼした蛮族達も彼ら自ら創った王国維持のためにはコンスタンティヌスと同じことをします。8世紀後半フランク王国のカ-ル大帝はロ-マ法皇から加冠され、帝国の合法性を保証されます。現在のイギリス王室の長であるエリザベス二世は英国国教会の首長でもあります。シナでは4世紀に西晋が亡びます。以後激しく変化する国家の興亡の中ですべての国家は仏教を保護しました。隋唐帝国も同様です。
大仏開眼供養には当時の日本の技術が総動員されます。世界であれだけ大きな銅像は奈良の大仏以外にはありません。冶金技術の優秀さを示しています。建築技術も同様です。そして建設に大衆が動員されたことは、これらの技術の民間への浸透を結果します。仏教は世界宗教です。当時日本より先進的であった、インドとシナ更にペルシャや中近東更にはギリシャの文化を包括して、仏教は日本にやってきました。体系的な論理展開と思考法、寺院に典型的に見られる人間の組織と管理の技術、医薬、建設、冶金、工芸、職布、食品加工などの工業技術そして新種の農産物などを、唯一の知識階層である僧侶とともに仏教は日本に持ち込みます。ですから大仏開眼という事業は、技術と知識の集約であり同時にその更なる展開への結節点です。これが大仏開眼の第四の意味です。
私は日本の政治のあり方を叙述するにおいて、聖徳太子と大仏開眼から入りました。これは仏教の受容によって日本の国家が成立したと言おうと思ったからです。先に政治行為が為されるためには宗教は必須だと申しました。ここで政治に対する宗教の関係を考えて見ましょう。宗教はその先祖を遡及すれば魔術か呪術に行き着いてしまいます。原始的な小さい部族集団はその中に必ず呪術師を持っています。小規模の原始的集団は小規模であることにより、自然な連帯感一体性を持っています。彼らは皆同朋です。この一体感を保証ずるのが呪術師です。呪術師は何かに憑依されて、部族の人間を超えた存在の意志を部族に取り次ぎます。これがもう少し発展すれば民族宗教になりますが、この段階の宗教の役割は自らが属する部族民族の特権を保証してもらうことが目的になります。この段階を超えて多部族多民族を包括する集団になりますと、民族宗教ではまとまりがつきません。ここで世界宗教が出現します。世界宗教の特徴は、原始宗教が本来もつ集団内の連帯性を保持しつつ、集団内の個々人の世俗的あり方を無条件に一度否定することです。否定するのはその宗教の創唱者自身です。彼がカリスマになります。具体的に例示すれば釈迦とキリストです。私はこの個の無条件否定を絶対無と名づけます。仏教では無我、キリスト教では原罪という考え方です。世界宗教はこの絶対無で一度否定され解体された個々人を宗教の創唱者であるカリスマに直接結び付けます。カリスマと信者は一対一の関係になります。政治はこの一対一の関係と支配する者のカリスマ性を宗教から借ります。このような意味での世界宗教は歴史において完全なものとしては仏教とキリスト教があるのみです。
日本はそういう世界宗教である仏教を熱心に受容して国づくりに邁進しました。もう少し政治との関連で仏教というものを見てみましょう。仏教は日本に渡来する以前の段階で、三つの段階を経て創造されました。まず釈迦が説く縁起無我です。釈迦はすべての存在は連なりあっており、確実な個我なぞ無いといって苦の存在を否定しました。この考えは極めて豊潤な思考なのですが、難解で加えてともすると虚無に傾くきらいがあります。第二の転機は竜樹の考えです。竜樹は存在と非在は相互にまた同時に転変しあい、確実な存在の把握は流動する全体を決断して捉える主体だけだ、と唱えました。この考え方は論理は明確ですが、非常に不安定です。そこで第三の転機として法華経が登場します。法華経は竜樹が説く決断の主体を、共同体を形成して未来に向けて行動する集団に転化します。同時に万人は救われると、いやすでに救われていると説きます。こうして人間という存在は定立されました。これを往生と言っても宜しいし成道と言ってもあるいわ救済と言っても構いません。そういう仏教を日本は受容しました。ここでも、明るく一緒に人のため、というモット-は繰り返されます。のみならず法華経は集団で未来に戦闘的に挑戦すること非常に重視します。集団とは国家です。法華経が護国の経典と言われるのはこの由縁にあります。
仏教は他の宗教に比べて著しい特徴を持ちます。竜樹を中に挟んで釈迦の無我と法華経の共同体形成が対応しつつ統一されております。ですから仏教は一方では円転滑脱であり融通が利く論理構造を持っています。これは仏教が人間にとって優しい宗教であることを意味します。他方法華経の説くところは集団形成つまり政治行為の重視です。この点では仏教は極めて社会的であり建設的でもあります。虚無という究極の自由に回帰しうると同時に社会建設にも邁進できる論旨を仏教は持っています。
このように仏教は融通無碍な柔軟性を持っているために、そこからある重要な結果を導きだされます。それは仏教が国教とならない、なりえないということです。仏教の教義が非常に柔軟で広括なため、仏教には異端という概念がありません。あるのは異なる宗派だけです。教義を独占できないのですから、国家権力と独占的結びつくことはありません。日本は仏教国ですが、かといって仏教が国教ではありません。日本古来の神道と柔らかく結びつき結構仲良くやっています。仏教が国教になりえないことは逆に国家自体も政治的価値あるいわ権力を独占できないことになります。日本は仏教を受容する事によりその政治体制をきわめて柔軟なものとしました。換言すれば日本の政治体制はきわめて適応力が高いことになります。この点に関して一応他の文明と比較してみます。西欧では長い間キリスト教が国教であり、他は異端として厳しく迫害されてきました。この風潮は現在においても残っています。イスラム諸国では政教一致が原則です。シナは100年前まで儒教が国教でした。小さくもない一つの国に広範に浸透し定着してなお国教でないような宗教は仏教だけです。別言すれば仏教においては宗教戦争は起こりません。
法華経に集約される仏教において非常に特異で重要な救済法あるいわ修行法があります。これが菩薩道です。菩薩とは究極の成道の一歩手前で反転し俗世に降りて衆生救済に励む者です。これが最高の成道とされます。ここで一切の社会的行為は(もちろん善行の方がいいのですが)は成道につながります、というより一切の衆生は既に救済されているのです。非常に楽観的で明るい世界観です。まさしく、明るく一緒に人のため、です。仏教が日本の政治の在り方に導入した思想は繰り返しますがこの、明るく一緒に人のため、加えれば、もう救われているから安心おし、です。このような考えが浸透すると、人々は明るくなり、まとまりやすく何事も話し合いで円満に解決するようになります。集団帰属性の強さと衆議性がここから出てきます。日本は仏教を受容してその政治制度を作りました。ですから日本の政治体制の特徴は、明るく一緒に人のため、まとまって話し合おう、をモット-するようになります。私は日本の政治をやや美化しすぎたきらいがあるかも知れません。しかし大体はそういうところです。詳しくは後述する論理の展開を待って下さい。
ここで仏教に対するよくある誤解を解いておきましょう。仏教は暗い陰気なものと思われがちです。無常とか寂滅とか業と罰とかが仏教倫理としてよく説かれます。業や罰は仏教の本質的概念ではありません。寂滅の対局には菩薩道があります。無常は無我の誤解あるいは濫用です。仏教とは本来明るいものなのです。
私は日本の政治思想を語るにまず仏教から入りました。では仏教以前の日本の政治といいますか社会といいますか、そういう集団における倫理あるいは思想はどんなものだったのでしょうか。