経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人のための政治思想(2) 大仏開眼

2014-05-29 02:37:44 | Weblog
(2)大仏開眼
日本の政治制度の次の転換期は西暦752年の東大寺大仏開眼供養です。大仏開眼についての注目点は四つです。大仏開眼は日本に仏教という高度な世界宗教がだいたい根づいたことの証左です。欽明天皇の御代正式に仏教が日本イ伝わって以来二百年になります。この間日本は急速に仏教を摂取します。蘇我馬子の法興寺と聖徳太子の法隆寺がほぼ最古の寺になります。舒明天皇は皇室の氏寺として百済大寺(大安寺)を建てられ、天武天皇は始めて国立の寺として、薬師寺を建てられました。また経典の輸入も進みます。天平年間で法相、三論、華厳、律、成実、俱舎のいわゆる南都六宗がでそろいだいたい教学の基礎文献が整います。僧綱制が敷かれて僧侶養成も進みます。僧尼令が定められて僧侶の統制も厳重にされます。全国に国分寺と国分尼寺が建てられ地方にも仏教信仰が広められます。こういう事跡の積み重ねの上に大仏開眼が挙行されました。仏教弘布の基礎は整った、ここからは日本の仏教創造の開始だ、というのが開眼供養が明示する意味の第一です。
 第二の注目点は、開眼供養における大衆動員です。念のために言いますが、動員と言っても強制動員ではありません。大衆が自主的に開眼供養に参加し寄進したのです。ここで行基という僧侶が登場します。彼は法相宗の僧侶ですが、世俗の福徳と社会的貢献の意義を説いてまわり、社会活動を展開します。彼の活動範囲は広く、貧民救済から溜池や用水路などの灌漑設備の造作、そして田畑の開墾など当時主要産業である農業のインフラをどんどん整備しました。律令制では一人当たりが耕作していい土地の面積は限られていますから、行基の行動は法律違反になります。事実彼は政府から非難されました。もっとも処罰されたとは聞きません。ところでこの行基の活動は当時の民衆の土地私有願望に答えるものだったのです。行基の活動は大衆動員により支えられました。正式な僧侶、正式でない僧侶(私度僧と言われ法律違反の存在です)さらに一般農民を組織し財務や建設の技術を駆使してインフラ開発に邁進しました。当時の僧侶は新来の知識と技術の唯一の所有者です。何分とも法律違反の行為なので政府は始め行基の行動を禁止します。が大勢には勝てず、745年に彼を大僧正に任命します。僧侶の位階では一番上の位です。国家が行基の存在を仏教布教における最高指導者と暗に認めたようなものです。行基菩薩と尊称された彼は7年後の大仏開眼に大衆を率いて参加します。彼が開拓した多くの土地から上がる財富と労働力が寄進されます。大仏開眼は国家の事業ですが、同時に民衆の自発的参加を前提にして、国家と民衆が財富を出しあって行なわれたわけです。このような例は世界史上ありません。地方的地域的範囲でならともかく、国家の存立がかかる宗教施設の建立を国家と民衆が共同で行なう、ということは行基の事跡だけです。極めて日本的な特徴といえます。なお行基に従った人達は後に土地を集積して名主(みょうしゅ)そして武士になって行きます。この点に関しては後に述べます。国家と民衆の協力、これが大仏開眼の第二の意味です。換言すれば日本の民衆は相対的に豊かであり、統治は寛容であり、統治する者とされる者の合意は作られやすかったといえましょう。これも日本の政治の特徴の一つです。
 ここで菩薩という存在について一言しておきましょう。菩薩とは大乗仏教独自の概念です。大乗仏教では自分だけ悟ってはいけません。悟りの最終段階に入る一歩手前で反転し世俗の世界に舞い戻って大衆を救わねばなりません。救済は世俗的次元で行なわれます。行基の事例が好例です。行基以後も彼のように社会の中で活躍し、経済活動を促進する僧侶がぞくぞく出現しました。彼らを菩薩僧とよびます。大物では弘法大師空海がいます。菩薩僧という聖俗にまたがって活躍する自主的経済人の存在、これも日本の政治経済の特徴です。後述に待ちますが、後年出現する武士という階層も菩薩僧と同様の存在です。
 大仏開眼の第三の意味は聖武天皇の供養での態度です。彼は自らを三宝つまり仏法僧の奴として大仏を拝みました。彼自身が仏弟子になります。ここで聖武天皇は仏教あるいわ仏教教団の下位に自らを位置づけました。同時に彼は開眼供養の主宰者であり仏教教団の統制者です。ここで政治と宗教は相互補完的協力関係を形成します。政治は自らの政治行為を貫徹するためにはどうしても宗教それも多くの人が納得する論理と実践技能を備えた高等宗教を必要とします。なぜなら政治は政治自らの力で指導者をカリスマ化できません。せいぜい一部の人間の親分になるくらいが関の山です。宗教が宗教たる由縁は指導者つまりカリスマが、信者一人一人に直接働きかけえることです。カリスマは宗教信仰の次元においてのみ存在できます。政治の指導者つまり君主はこのカリスマ性を宗教を保護する事で宗教から借りておのれのものにします。逆に宗教はその布教のためには政治の力を必要とします。ばらばらの集団には布教できません。一定の民度を持つ共同体でないと高等宗教は布教できません。ですからあらゆる宗教は政治の保護に頼ります。こうして政治と宗教、君主と宗教カリスマは同盟というより結婚します。日本への仏教伝来は喩えて言えば、釈迦が天照大神に入り婿したようなものです。聖武天皇が大仏を参拝した事はそういう意味を持ちます。こうして大仏開眼に象徴される仏教への帰依、天皇自らそして民衆一般を代表して仏教に帰依することにより、統治する者とされる者の関係は円滑になり納得できるものになります。換言すれば国家とそれが行なう権力の行使は認知されます。行基が民衆を率いて大仏建立に参画した事は、君主と宗教カリスマの同盟の一側面を表しています。
 このような宗教と政治の同盟/結婚は他にいくつでも例があります。西暦4世紀前半にロ-マ帝国はそれまで禁圧していたキリスト教を容認します。コンスタンティヌス大帝が自らキリスト教徒になりました。同時に彼は帝国全域にわたるキリスト教の最高指導者になりました。こうしてロ-マ帝国は生きのびます。東の帝国は以後1200年に渡って存続します。西の帝国へ侵入し帝国を滅ぼした蛮族達も彼ら自ら創った王国維持のためにはコンスタンティヌスと同じことをします。8世紀後半フランク王国のカ-ル大帝はロ-マ法皇から加冠され、帝国の合法性を保証されます。現在のイギリス王室の長であるエリザベス二世は英国国教会の首長でもあります。シナでは4世紀に西晋が亡びます。以後激しく変化する国家の興亡の中ですべての国家は仏教を保護しました。隋唐帝国も同様です。
大仏開眼供養には当時の日本の技術が総動員されます。世界であれだけ大きな銅像は奈良の大仏以外にはありません。冶金技術の優秀さを示しています。建築技術も同様です。そして建設に大衆が動員されたことは、これらの技術の民間への浸透を結果します。仏教は世界宗教です。当時日本より先進的であった、インドとシナ更にペルシャや中近東更にはギリシャの文化を包括して、仏教は日本にやってきました。体系的な論理展開と思考法、寺院に典型的に見られる人間の組織と管理の技術、医薬、建設、冶金、工芸、職布、食品加工などの工業技術そして新種の農産物などを、唯一の知識階層である僧侶とともに仏教は日本に持ち込みます。ですから大仏開眼という事業は、技術と知識の集約であり同時にその更なる展開への結節点です。これが大仏開眼の第四の意味です。
 私は日本の政治のあり方を叙述するにおいて、聖徳太子と大仏開眼から入りました。これは仏教の受容によって日本の国家が成立したと言おうと思ったからです。先に政治行為が為されるためには宗教は必須だと申しました。ここで政治に対する宗教の関係を考えて見ましょう。宗教はその先祖を遡及すれば魔術か呪術に行き着いてしまいます。原始的な小さい部族集団はその中に必ず呪術師を持っています。小規模の原始的集団は小規模であることにより、自然な連帯感一体性を持っています。彼らは皆同朋です。この一体感を保証ずるのが呪術師です。呪術師は何かに憑依されて、部族の人間を超えた存在の意志を部族に取り次ぎます。これがもう少し発展すれば民族宗教になりますが、この段階の宗教の役割は自らが属する部族民族の特権を保証してもらうことが目的になります。この段階を超えて多部族多民族を包括する集団になりますと、民族宗教ではまとまりがつきません。ここで世界宗教が出現します。世界宗教の特徴は、原始宗教が本来もつ集団内の連帯性を保持しつつ、集団内の個々人の世俗的あり方を無条件に一度否定することです。否定するのはその宗教の創唱者自身です。彼がカリスマになります。具体的に例示すれば釈迦とキリストです。私はこの個の無条件否定を絶対無と名づけます。仏教では無我、キリスト教では原罪という考え方です。世界宗教はこの絶対無で一度否定され解体された個々人を宗教の創唱者であるカリスマに直接結び付けます。カリスマと信者は一対一の関係になります。政治はこの一対一の関係と支配する者のカリスマ性を宗教から借ります。このような意味での世界宗教は歴史において完全なものとしては仏教とキリスト教があるのみです。
 日本はそういう世界宗教である仏教を熱心に受容して国づくりに邁進しました。もう少し政治との関連で仏教というものを見てみましょう。仏教は日本に渡来する以前の段階で、三つの段階を経て創造されました。まず釈迦が説く縁起無我です。釈迦はすべての存在は連なりあっており、確実な個我なぞ無いといって苦の存在を否定しました。この考えは極めて豊潤な思考なのですが、難解で加えてともすると虚無に傾くきらいがあります。第二の転機は竜樹の考えです。竜樹は存在と非在は相互にまた同時に転変しあい、確実な存在の把握は流動する全体を決断して捉える主体だけだ、と唱えました。この考え方は論理は明確ですが、非常に不安定です。そこで第三の転機として法華経が登場します。法華経は竜樹が説く決断の主体を、共同体を形成して未来に向けて行動する集団に転化します。同時に万人は救われると、いやすでに救われていると説きます。こうして人間という存在は定立されました。これを往生と言っても宜しいし成道と言ってもあるいわ救済と言っても構いません。そういう仏教を日本は受容しました。ここでも、明るく一緒に人のため、というモット-は繰り返されます。のみならず法華経は集団で未来に戦闘的に挑戦すること非常に重視します。集団とは国家です。法華経が護国の経典と言われるのはこの由縁にあります。
 仏教は他の宗教に比べて著しい特徴を持ちます。竜樹を中に挟んで釈迦の無我と法華経の共同体形成が対応しつつ統一されております。ですから仏教は一方では円転滑脱であり融通が利く論理構造を持っています。これは仏教が人間にとって優しい宗教であることを意味します。他方法華経の説くところは集団形成つまり政治行為の重視です。この点では仏教は極めて社会的であり建設的でもあります。虚無という究極の自由に回帰しうると同時に社会建設にも邁進できる論旨を仏教は持っています。
 このように仏教は融通無碍な柔軟性を持っているために、そこからある重要な結果を導きだされます。それは仏教が国教とならない、なりえないということです。仏教の教義が非常に柔軟で広括なため、仏教には異端という概念がありません。あるのは異なる宗派だけです。教義を独占できないのですから、国家権力と独占的結びつくことはありません。日本は仏教国ですが、かといって仏教が国教ではありません。日本古来の神道と柔らかく結びつき結構仲良くやっています。仏教が国教になりえないことは逆に国家自体も政治的価値あるいわ権力を独占できないことになります。日本は仏教を受容する事によりその政治体制をきわめて柔軟なものとしました。換言すれば日本の政治体制はきわめて適応力が高いことになります。この点に関して一応他の文明と比較してみます。西欧では長い間キリスト教が国教であり、他は異端として厳しく迫害されてきました。この風潮は現在においても残っています。イスラム諸国では政教一致が原則です。シナは100年前まで儒教が国教でした。小さくもない一つの国に広範に浸透し定着してなお国教でないような宗教は仏教だけです。別言すれば仏教においては宗教戦争は起こりません。
法華経に集約される仏教において非常に特異で重要な救済法あるいわ修行法があります。これが菩薩道です。菩薩とは究極の成道の一歩手前で反転し俗世に降りて衆生救済に励む者です。これが最高の成道とされます。ここで一切の社会的行為は(もちろん善行の方がいいのですが)は成道につながります、というより一切の衆生は既に救済されているのです。非常に楽観的で明るい世界観です。まさしく、明るく一緒に人のため、です。仏教が日本の政治の在り方に導入した思想は繰り返しますがこの、明るく一緒に人のため、加えれば、もう救われているから安心おし、です。このような考えが浸透すると、人々は明るくなり、まとまりやすく何事も話し合いで円満に解決するようになります。集団帰属性の強さと衆議性がここから出てきます。日本は仏教を受容してその政治制度を作りました。ですから日本の政治体制の特徴は、明るく一緒に人のため、まとまって話し合おう、をモット-するようになります。私は日本の政治をやや美化しすぎたきらいがあるかも知れません。しかし大体はそういうところです。詳しくは後述する論理の展開を待って下さい。
 ここで仏教に対するよくある誤解を解いておきましょう。仏教は暗い陰気なものと思われがちです。無常とか寂滅とか業と罰とかが仏教倫理としてよく説かれます。業や罰は仏教の本質的概念ではありません。寂滅の対局には菩薩道があります。無常は無我の誤解あるいは濫用です。仏教とは本来明るいものなのです。
 私は日本の政治思想を語るにまず仏教から入りました。では仏教以前の日本の政治といいますか社会といいますか、そういう集団における倫理あるいは思想はどんなものだったのでしょうか。

コリアの船沈没事件に思う-コリアの国家統治能力を問う

2014-05-26 03:06:43 | Weblog
   コリアの船沈没事件に思う-国家運営能力の有無を問う
 先月15日に朝鮮半島南端の海上で修学旅行生を乗せた旅客船が沈没し、数百名の犠牲者がでた。事件処理の推移を見ていて、私はコリアには国家運営能力が欠けているのではないのかと思った。事件への対応の迷走混乱どたばたぶりには眼を覆いたくなる。というより滑稽を通り越して不可解ですらある。この事件に間なする限りコリアは国家の体を為していない。
 最初にビックリしたのは乗組員30名がすべて派遣社員であったことである。せめて船長以下の数名の幹部は正規であるべきだろう。船板一枚底は地獄と言われた船を操縦し人様の命を預かるしごとだ。当然乗組員は一致団結して行動できねばならない。なのに全員派遣とはいかなることか。これでは彼らの行動はばらばらでしかありえない。全員派遣ということはコリアの経済が行き詰まっていることの証左であろう。 
 事実乗組員の行動はばらばらだった。乗組員が真っ先に逃げた。救助活動は遅れに遅れた。救助活動の先導役となるべき乗組員が逃げたのだから当然だろう。救助された船長は始め、自分は船客だと偽ったという。モラル以前の問題だ。海上警察の到着も遅かったし、来てもろくな救助活動ができていない。
 コリア政府発表も大混乱した。最初の発表は全員救助、3時間後の発表では300名以上の行方不明絶望視だった。発表を意図して歪曲し隠蔽した可能性が高い。
 乗客への間違った指示も問題だ。船内放送は船内に留まれと放送している。早く脱出を指示していたらもっと多くの人命が救われたであろう。乗組員が真っ先に逃亡するのでは指示の出しようがない。これ殺人だよ。
 救援活動の主力となる海上警察の活動も鈍い。海上警察から船会社や保険会社に天下った者達の干渉で、加えて贈賄などが絡んで、海上警察は動けないという。あまりにもひどいので海上警察は解体され上級官庁に併合されるという。という事は海上警察という官庁が腐敗していることの証左だ。あるいはそれ以上の腐敗を隠すための方策か。
 首相が辞任し海上警察が解体され大統領が喪章をつけて国民にわびる。一体なんのことか。本来なら直管官庁である海上警察が処理すればいいことではないのか。首相が辞任するとはどういうことか。大体推察がつく。贈賄汚職の当事者が上のほうにもいるので手が付けられないのだろう。一波万波でどこに飛び火するか解らない。
 船会社の実力者である前会長に逮捕状が出た。前会長は逃亡しているらしく、情報に賞金が出ている。この前会長が会社から不当な収益金を吸い上げていたらしい。
 技術的にもまずい、拙劣である。4000トンか5000トンの舟の上部にさらに1000トン分を建築している。不安定になるだろう。コンテナ-はすぐはずれたという。これも舟の沈没を早めている。また法定で定められた以上の積荷をしている。過積重だ。加えて船長は飲酒で出発が3時間遅れ、多分時間を取り戻すために危険な多島海を急いだのだろうとも言われている。この危険な公開を経験1年の三等航海士に任せていたという。舟をしっかり操作しようという気概が全く無い。技術的にも倫理的にも最低だ。儲かれば人の命はどうなってもいいらしい。噂によればコリアの大砲はあたらないし(延坪島での砲撃戦)、安重根とか言うごたいそうな名前を付けられた潜水艦は動かないらしい。技術それ自身と技術を支える倫理を欠くコリアには本当の戦争はできまい。三流国家だ。
 技術と言えば事故勃発の早期に日本やアメリカからクレ-ンやダイヴァ-を招いていれば救出可能だったといわれている。充分な技術が無いのだから人の情けを素直に受けていればいいものを。沈没事件から既に40日経っているが船は引きあげられていない。
 びっくりしたのが救出を待つ家族に届いた偽のメ-ルが。人として出来る事か。
 今回の沈没事件でコリアという国の統治能力の脆弱さを思い知らされた。
 沈没事件はコリアが日本に取る不愉快極まりない問題とも関連する。慰安婦問題と住金日鉄の賠償問題だ。前者は完全な捏造、つまり嘘。この事を今回の沈没事件は明瞭に証明している。双方の問題とも外交の基盤に触れる。50年前の日韓基本条約ですべては解決文句は言わない、としてあるのに蒸し返す。約束を守らない。私は慰安婦の強制連行などないと思っているし、徴用は戦時ではあたり前だと思う。が仮に百歩譲って彼らの言い分に若干の理があったしても外交は外交なのだ。コリア人には私(わたくし)はあっても公(おおやけ)はないようだ。私は住金日鉄の問題が起こった時ブロッグで、コリアには国家運営の能力が無いのではないかと書いた。外交という公と訳の解らない私情が混同されるのだから。日米間にも同様の取り決めの条約がある。アメリカは広島長崎に原爆を落として20万人から30万人の人間を殺害した。人倫に違反する事まことにひどい極悪な行為だ。しかし一度条約を結び、それで解決とした以上は日本何もアメリカに抗議したり訴訟を起こしたはりしない。広島市民もそういうことはしない。もっともどういうわけか広島市民は原爆投下を日本政府の所為にしている嫌いがあるが。これも解らないことだ。





朝日新聞の購読をやめよう

2014-05-23 02:29:14 | Weblog
   朝日新聞の購読をやめよう

 つい最近ある新聞販売店主が言っていた。朝日新聞の購読者が目立て減っていると。朝日の論調ゆえに、そういう理由だけで断わられるケ-スが増えていると。朝日の論調と言えば反原発、安倍首相の靖国参拝批判、そして集団的自衛権反対だ。念のために言えば集団的自衛権とは軍事同盟を結ぶ権利のことだ。現在尖閣諸島で日中が対立している。日本は米国と同盟をしているが米軍が攻撃された時日本の自衛隊はその敵を攻撃してはいけないらしい。そういう矛盾を解消して真に日本の国を護るようにしようということに朝日は反対している。簡単に言えば朝日は、日本は真剣に国防をしてはいけないと言っているのだ。原発反対派の頭脳を私は疑う。エネルギ-量を2/3に減らして日本の経済は成り立つのか。デフレインフレを通り越して日本の経済はアフリカなみになってしまうよ。過去20年間の不況で約20万人の人が自殺した。原発の事故で死んだものはゼロだ。この数字どう思う?単純な印象論に惑わせれるなかれ。国のために戦死した人を祭る靖国神社への参拝に反対する朝日は一体どこの国の新聞なのだ。
 そういえば今日韓両国の懸案となり日本人に日々不快な刺激を与え続けている、慰安婦の強制連行、というでっち上げもそもそも朝日がした報道が起点だ。朝日の記者の義母がコリア人でその話を何の検証もせず一面トップで報じ、それに韓国政府が飛びついいて、慰安婦なるものが日本に押しかけ訴訟を起こした。それをまた朝日が報道する。コリアと朝日のボ-ルの投げ合いで問題は大きくなる。結論から言えば、強制連行などはなく、彼らは単なる戦地売春婦でしかないが、コリアの女大統領は歴史認識の共有などと馬鹿げたことを言って1000年間以上恨むそうだ。ご自由にと言いたいがが、不快である事は事実だ。この問題は日本人の名誉が関わる問題だ。この問題の発火点は朝日だ。
 1937年かいつか日本軍が南京を占領した時30万人の虐殺をやらかしたとかシナは言っている。全くのでたらめであり証拠は皆無なのだが、シナでは虐殺の展示場なるものが開かれているという。これも本多勝一という朝日新聞の記者がシナの旅行中現地の農民の言うことを鵜呑みにしてそれをそのまま朝日新聞に書きまくったのが発端だ。証拠はどこにもない。日本政府は発掘調査をシナ政府に申し入れているがシナ政府は調査を拒否している。これも朝日が火付け役だ。朝日はその内に尖閣諸島はシナ固有の領土だと言うだろう。朝日にとっては日本はすべてダメダメ悪悪悪、中韓は大好き大好き大いに素敵な善玉らしい。はたしてこういう新聞が跳梁してもいいものか。
 こういう報道姿勢ゆえに朝日の購読者は減っている。なら報道姿勢を改めたらどうかと思うが、朝日新聞では編集権が独立していて聖域となり他の部局の意見は社長も含めて影響できないということだ。ここではっと思いついた。現在の朝日新聞は25年前に消えた旧社会党とそっくりだということに気づいた。当時の社会党は、シナとソ連(当時のロシア)は絶対的平和勢力で決して他国を攻撃侵略する事は無いと信じてそれを国民に説きまわっていた。アメリカのヴェトナム派兵には絶対反対で、ソ連のアフガニスタン侵略は黙認だった。戦争は日本や同盟国アメリカが起こすのだと言い張っていた。政府のやることは全て反対、反米国で中ソは大好きだった。浅沼稲次郎という書記長が訪中し帰国したとき、米帝国主義は日中共通の敵とかいっていた。日本を豊かにした池田内閣の高度成長経済路線にも猛反対。なんでも反対、労組の代理勢力ですぐストストストだった。日本に原爆が落とされたのは日本が悪いことをしたせいだとか本末転倒したことを言っていた。こういう政治(とは言えない)姿勢なので20年前に社会党の村山氏が首相となった連立政権では党の論調と現実への対応が一致せず、結果として社会党は壊滅した。現在社民党と名乗る超ミニ政党があるがあれは旧社会党の成れの果てだ。朝日もそうなるよ、きっと。前車の轍を踏みたくなかったらよく現実を見て報道することだな。
 戦後にマッカ-サ-により刷り込まれたままそこから脱却できないで日本ダメ論を展開している点では朝日新聞と旧社会党は同じだ。左翼の特徴はまず、理想をもって現実とみなし、現実を見ようとはしないことだ。ただ批判のみする。批判のための規範を外国に求める。例えば民主主義だとか、社会主義だとかに。そういう主義がそれらの国で現実にどう展開されているのかは一切問わない。だから彼らが主張する理屈はすべてが屁理屈になる。現実を超越してわけの解らない屁理屈を弄ぶ高踏的偽インテリ、国賊が朝日新聞の輩だ。朝日新聞を購読しないようにしよう。

注 博物館で贋物を展示しようと思えばすぐできる。専門家なら見抜くのは簡単だが。
注 朝日の講読者数は800万人とか言われる。実際は600万人にも及ばないらしい。しかし広告料金は800万人を前提として取る。これは一種の詐欺だな。

陰りの見えたアベノミクス

2014-05-19 02:40:27 | Weblog
 陰りの見えたアベノミクス
 日経平均は1年前から14000円台で低迷している。消費増税に対して景気振興策を政府はしようとしているが、肝心の賃金は上昇していない。大企業は申訳程度の小額賃上げ、中小企業はそれも不可能。増税分のみ価格上昇。これでは実質賃金低下だ。本年末時点での景気動向特にGDP前年比が心配だ。そういう心配を抱きつついろいろ多伎に渡って考えてみた。一見無関係に思われる事項もよくよく考えると一本の筋で貫かれている。さて一考二考多考かな。
 まず英語学習。ある高校の英語の先生が言っていた。英語で授業をするように指示というより命令を受けていると。これでは肝心の授業ができないと。加えて生徒との対話に支障を生じると。あたり前だろうな。文法の詳細を機微に渡って解説するためには高度の英語力を必要とする。その先生の話では生徒との会話は英語もどきの会話になると。また大学受験のことを考えると心配でしかたがないと。「小学校英語の危機」という本を読んだ。結論は意味なしだ。小学校から英語もどきの授業をしても中学校1年間で追いつかれてしまうと。著者はNHKの英会話でおなじみの鳥飼氏だ。私は英語あるいはより一般に外国語は、まず文法、ついで長文読解次に作文、最後に会話でいいと思っている。どんなに努力してもネイティヴにわなれないし、なる必要もない。読解力をしっかり鍛えて、必要になればどこかの機関で速成に英会話を学べばいいのだ。英会話は自分の専門分野とごく卑近な日常生活の範囲で役に立てばそれでいい。日本の思想や情緒を外国人に知らせるのは難しい。同様に外国には我々が知り得ないことがいっぱいあるだろう。国が違い言葉が違えば理解には限度があるのだ。小学校から英語を教えて英語ぺらぺらにでもするつもりか。もっともそのぺらぺらの内容が問題だが。日本人は英語が下手だといわれる。それで結構ではないか。逆に言えば日本語が少なくとも我々日本人にとっては極めて充実した言語であるということだ。世界中のいくらの国でプラトンやアリストテレスの全集が翻訳されているのだろうか。フィリピンでは英語が公用語だそうな。これでは文化的従属国だ。英語の早期教育そして英会話云々は、英語以外の他言語を消滅させ世界中を英語一色にするということらしい。これ文化のTPPではないのか。あるいはTPP遂行のための観念操作かな。念のために言うと、歴史で一言語が支配していた時期の文化の発展は遅かった。典型的な例がラテン語が幅を利かせていた中世の欧州だ。国民言語が発展しだしてから発明発見は相ついだ。
 TPPの正体が解ってきた。原則どおり一切の関税非関税障壁をなくし、人物金の移動を完全に自由にすれば、世界のことはいざ知らず日本人は確実に貧しくだから不幸になる。アメリカ基準の交通法規の導入は交通事故を多発させるし、医療の自由診療化は保険医療制度を崩壊させる。安い労働力は日本人の低賃金を招来する。輸出企業にとってはたまらない魅力だろう。結果として輸出企業あるいはグロ-バル企業は儲かり、国内の人間は貧窮化する。いい実例が韓国だ。サムソンと現代のみ儲かり利益は外資に吸い上げられ、新卒の賃金は8万円弱、年金は8千円前後、失業者はあふれ犯罪多発そして売春大国だ。企業が日本に富をもたらす限りは日本企業だがそうでなければ日本企業とは言わない。トヨタの車の2/3は外国で作られている。TPP、グロ-バル化とは、超大企業のみ栄えて国民は貧乏になるということだ。
 よく特区特区と言う。特区で規制緩和を行なって稼ごうという構想らしい。まあ部分的TPPかな。医療特区を作って外国の金持ちを診療して儲けようとか。みみっちい話だ。そんなことより従来の保険制度を充実し、例えば自己負担ゼロとし、た方が景気にも医療技術の発展にもはるかに貢献する。この事についてはすでに別のブログで述べた。大阪でカジノ特区を作るとか。そんなことで大阪が復活するとでも思っているのか。落ちた金は誰がもらうのか。賭博業者か。なら犯罪に資金を提供するに等しい。他の産業が参加するのか。ならその業種の堕落につながる。大阪の復権はあくまで製造業の発展にある。カジノ特区ね、みみっちい。もし日本全体のことを考えるのなら、カジノ特区は沖縄か北海道にもってゆくべきだろうな。賭博とは投機の極限だ。これもTPPにつながるな。いっそ売春特区でも作ったらどうだ。
 農業特区、いい話のようだがそこには落とし穴がある。農業を資本主義化すれば生産力は上がるが、外資が入ってきて日本の農地を買い占めたらどうなる。農村は保守の票田だ。換言すれば政治の安定装置だ。下手に資本主義化はできない。しかし農村のていたらくも問題だ。園芸農業と揶揄され、農業従事者の平均年齢は80歳。これではどうにもなるまい。資本主義化するに際し、所有される田畑の上限を限ることと、参加する企業に山林の保護維持の義務を負わせるべきだろう。観光農業、都市の住民が趣味楽しみで田舎で部分的に農業を営む、という方法ももっと真剣に考えるべきだろう。しかしいずれ農業は工場生産になる。そうなれば局面はがらっと変る。
 移民。大反対。私は性格が保守的なのか外国人と一緒に暮らしたいなどとは思わない。彼らが日本人になるのなら別だが。移民、賃下げ、貧乏、不況となる。移民はシナ人が多くなるそうだ。私シナ人大嫌い。犯罪率は高く薄汚い。意図的にどこかに集住して選挙し、その地域の独立を宣言して住民投票でもされたらどうするのか。チベットやウイグルのようになってもいいのか。左翼は喜ぶだろうな、アサヒ、社民党。共産党は喜ぶだろうな。繰り返す。私シナ人大嫌い。少なくともシナが共産党政権下にある限りは、大嫌い。移民よりも高齢者を活動させ、女性を使い、残りはロボットに頼ればいのだ。現在の日本には単純労働などない。優れた日本人を有効に使えばいいのだ。
 能率給、移民政策、安倍さんの政策も段々変ってきた。アベノミクスも変色か。消費増税決定が転機だろう。これは裏切りだよ。誰かに刷り込まれたか。竹中氏くらいに。輸出競争より内需拡大が第一だ。技術と教育医療介護つまり人への投資が第一だ。充実した、教育、誰でも受けられる医療、安心できる老後、これらは無形だがもちろん価値だ。GDPに換算できるかどうかは知らないが。

日本政治思想史(1)

2014-05-12 01:46:57 | Weblog
(1)聖徳太子
聖徳太子という方がおられました。用明天皇の孫、継体天皇の曾孫、推古天皇の摂政で皇太子にあたられます。文字で書かれた日本の歴史はこの方とともに始まります。西暦600年前後に活躍されたかたです。日本の皇統は神武天皇以後今上陛下まで126代を数えますが、私は事実上の皇統を25代の継体天皇以後にしぼります。それ以前の天皇の存在は口頭伝承と神話によるところが多く、いささか実証性に欠けるきらいは否めません。ただし神話は虚構ではありません。神話は実際の歴史以上に多くを語りえるものでもあります。この事はもう少し後で話させてもらいましょう。
 聖徳太子の政治で肝要なことは三つあります。まず有力豪族蘇我馬子との共同統治です。
太子は推古天皇の代理ですから、ここでは天皇と豪族代表の共同統治、しかも女帝と男性との共同統治、ということになります。権威としての女帝そして権力としての男性による権威と権力の分化は日本の政治の特徴です。この事は有史以前の邪馬台国における卑弥呼と男弟との共同統治に、さらに神話におけるアマテラスオオミカミとスサノオノミコトの共同統治にまで遡ります。飛鳥白鳳天平の時代において、つまり日本という国家の形成期において女帝が多いことも日本の政治史の特徴ですが、万世一系男子継承を原則とする日本の天皇制における天皇には女性的性格が濃厚なことも事実です。一つ例証を挙げましょう。古今和歌集に代表される勅撰集の存在です。平和を寿ぐ英邁な天皇の大きな仕事の一つが女文字(仮名)で書かれた和歌の編集でした。聖徳太子と推古天皇を重ね、それに蘇我馬子を加えれば、日本の政治は男女の共同統治を原則とすることが明らかになります。この原則は以後現代まで継承されてゆきます。
 聖徳太子が為された第二の業績は有名な十七条の憲法です。争いあう豪族達をまとめ新生日本の国づくりに協力させるために、太子はこの憲法を定めました。その骨子は第一条の、和を以って尊しと為す、です。この憲法作成には二つの意義があります。まず主題の「和」です。確かに「和」は「なごむ、仲良くする」という意味で、そう解釈してもいいのですが、より深い意義、仏教の奥義があります。日本の仏教は竜樹を起点とし法華経により大成された大乗仏教です。この竜樹が彼の主著中論で説いた結論が、輪廻つまり世俗生活と涅槃すなわち悟りの境地が同一であるということです。これを竜樹は「衆縁和合」と称しました。ですから「和」とは仏教の奥義中の奥義なのです。日本の政治体制は仏教倫理を基礎として形成されたことは日本という国を知る上で大切なことです。
 十七条の憲法作成におけるもう一つの特徴は、この憲法が事実上太子と豪族達の協議により創られていることです。当時豪族たちは大臣(おおおみ)である馬子を代表として協議し、それを太子に示し、太子と馬子の合意をもって天皇に上申して天皇の裁可を頂くという形で政治を執行してきました。だから憲法も協議の産物です。豪族たちは名の解った氏族だけで十を超えますから、これは現在の憲法と同じ性格を持つことになります。この点に関しては後に幾多の箇所で説明してゆくつもりですが、ここでこの憲法の流れの要点箇所のみを列挙してみましょう。この憲法の合議制は、後に律令制における大臣(だいじん)納言、参議による合議制、摂関政治、院政、鎌倉幕府の評定衆、室町幕府の三管四職による合議制、中世郷村の宮座と一揆、徳川幕府における評定会議、江戸時代の村落の郡中議定などに受けつがれてゆきます。ですから聖徳太子の憲法はその内容においてもまた創られ方においてもまさしく「和」なのです。
 太子の第三の業績は彼が執筆された三経義疏です。三経とは三つの経典、維摩経と勝まん経と法華経です。維摩経は利他行つまり世のため人のために尽くすことを強調します。勝まん経は如来蔵つまり人間には本来如来仏になる資質が潜在している、つまり人間とは必ず成道し救済されるもので、というより既に救済されているものだと、性善説の究極を説きます。まことに明るく楽観的で楽しい思想です。法華経の教えはかなり難しいのですが、簡単に言えば維摩経と勝まん経の統合とも言えます。法華経では人間は本来成道できると説かれます。ただ法華経ではその成道は政治共同体つまり国家を通して、この共同体を常に作り上げ改革してゆく行動と未来志向においてのみ可能だといいます。法華経の最大の特徴は成道にとって必須の方策としての政治と国家の強調です。ですから三経の説くところは、皆人のために良いことをしましょう、本来救われているのですから、それも皆と一緒に共同してね、となります。明るく、一緒に、人のため、というわけです。三経義疏は十七条の憲法の思想的基盤なのです。三経義疏にとかれる、人のため、救われているという明るさ楽観性、皆と一緒という協調性は以後の日本の政治と日本人の性格となってゆきます。太子は仏教伝来の早々に日本人の特性を把握し、それを制度としてまた文化として表されました。彼は日本史上最初の知識人であり思想家であります。聖徳太子は後世の人が彼を尊敬して付けられた呼称であり、太子存命時には厩戸皇子(うまやどのみこ)と申し上げます。
 日本はシナから政治制度として律令制を取り入れました。シナの国教ともいえる思想は儒学ですが、以後の歴史の展開を見てみますと、儒教は意外なほど日本の政治制度に影響を及ぼしていません。理由はあります。律令制は単なる刑法行政制度であることと、儒教という思想の底の浅さです。簡潔に言えば儒教とは漢民族という部族の慣習の集大成です。日本とシナでは国情が違うので、儒学は一時期を除いて日本の政治制度にはほぼ無関係と言ってもいいのです。儒学はその倫理の骨子を、仁義孝礼智信悌、という徳目におきますが、この徳目はおよそ人間社会を形成する以上はあたり前のものです。儒教はこれらの素朴な倫理を支える哲学を持ちえません。あえて言えば陰陽五行という占いの思想がありますが、これは迷信でしかありません。日本の政治の思想と制度は律令制を仏教思想が柔らかく解体し変容させて出来上がりました。日本の政治制度はあくまで仏教に支えられて発展しました。日シ両国を比較するとおもしろいことに気づかされます。同じ律令制から発し、シナでは律令制が硬直した形で継承されるのに対して日本では それがどんどん変化してゆきます。以後の叙述を参考にしてください。
 律令制律令制と言ってきたのでここで日本のそれを簡単に解説しておきます。日本の律令制は合議機関としての左右大臣、大及び中納言と参議総計十数名、行政機構としての中務大蔵民部式部などの八つの部局からなります。そして各部局とも四つの位階を持ちます。地方官も同様です。かみ、すけ、じょう、さかん、の四級体制です。
 古代から現在に至るまで通覧しますと、日本という社会あるいわ制度には外国と比べて著しい特徴があります。外国にあって日本には無いものを五つ上げます。奴隷制度、宦官、異民族支配、ジェノサイドそして酷刑です。日本は異民族に支配されたことも、支配したことも極一時期を除いてありません。ですから当然ジェノサイドとは無関係ですし、異民族の捕虜を取ることもないので奴隷もいません。同じ理由で宦官もいません。同民族ですから刑罰は寛容になります。他国と比較した例を挙げて見ます。イギリスは同じ島国ですが、アングルサクソンの侵入によりできました。それのみならず更に北欧やフランスから何度も侵入を受けました。イギリス史は十一世紀中葉のノルマン征服以後に始まると見ていいのですが、この征服後の二世紀に及ぶ期間公用語書記言語としての英語は存在していません。現在英語が幅をきかせておりますが、よく復活したものだと思います。ロシアは北方モスクワ付近でなんとか生きのびたスラブ人がモンゴルの遊牧帝国と何度も何度も戦争し、侵入し侵入され、その度に相互に奴隷を取り合い、三百年前にやっと国の形ができました。シナ人の遺伝子は秦漢の時代はおろか隋唐の時代のそれと現在のそれを比べても全く異なります。北方遊牧民の侵入の連続がシナ史の特徴です。それに流民の反乱が加わります。その故かこの国の刑罰は酷いのが特徴です。胴斬の刑というのがあります。生きたままの囚人を足の先から一寸づつ徐々に斬ってゆくという酷刑です。生きながら苦しませて殺すのが目的です。他にいろんな酷刑がありますが、例証は省きます。アメリカ合衆国やオ-ストラリアなどは先住民のジェノサイドででき上がった国です。
 なぜ日本という国の歴史はかくも幸せなのか、異民族統治を経験しなかったのかと考えて見ます。はっきりした結論はでません。あえて言えば海でしょう。日本海も玄界灘も東シナ海も荒れます。大軍を海を越えて日本に送り込むのは極めて危険です。また日本は島国のわりには温暖な気候ゆえか生産性が高いのです。当然人口は多くいざとなれば武力動員できます。そして唐帝国が衰亡してシナ国内が動乱に陥った期間に、日本は経済と政治の体制を改め、武士という名誉心溢れる戦闘専門の階層を作り上げました。
 もう一つ日本の社会の特徴があります。それは女性が大事にされていることです。日本では女性を殴ったり殺したりすることは例外的にしかありません。外国ではしょっちゅうあります。欧米渡来のフェミニズムなど女性蔑視の裏返しのようなもので、日本向きではありません。日本における女性尊重に関しては摂関政治のところで述べます。

佐吉と喜一郎

2014-05-06 01:58:53 | Weblog
   佐吉と喜一郎

 豊田佐吉は1867年、幕末維新変革の年に、静岡県吉津村(現在湖西市)で生まれました。父親は若干の農地を持つ農民であり大工でした。当時小中学校など制度としてはありません。父親の後をついで大工になります。そのはずでした。生来の傾向なのか、次第に新しい機械製作に興味を持つようになります。佐吉の故郷遠州(静岡県西部)は三河木綿の延長上にあり紡績織物業の盛んな土地でした。開国と同時に優れた製品が輸入されます。日本には関税自主権はありません。在来の企業は優秀な外国産品に押されて四苦八苦します。佐吉は紡織機械の製作を志します。1885年高橋是清などの努力で専売特許条例が制定されます。政府は新しい技術の開発を奨励します。佐吉の志望にとってこれは追い風です。そのために二度家出しています。父親の懇請で故郷に帰りますが、仕事の傍ら機械の発明に没頭します。佐吉が成功したからいいようなものの、失敗していたら単なる極道親不幸もいいところでしょう。父親の心配はよく解ります。
 24歳、木製力織機を製作します。初めての発明です。さらに改良・発明を重ねて東京に出て機械製作の工場を経営しつつ製作改良に取り組みます。経営と発明の二足のわらじを履きます。26歳結婚、翌年長男喜一郎誕生、しかし最初の妻には逃げられます。佐吉が発明に没頭して家を返り見なかったからです。30歳再婚。二度目の妻の浅子は賢婦人でした。佐吉の片腕になり、工場の庶務総務一切を切り盛りします。金銭に恬淡として経営の念に乏しい佐吉を助けます。30歳長女愛子誕生。佐吉の創業を助けた一族は妻の浅子、長男の喜一郎、愛子の夫利三郎、そして佐吉の弟の佐助です。
 ちょうどこの頃つまり明治30年代は、日清戦争に勝った勢いで日本は第一次産業革命に入り、紡績織布業は躍進します。1897年日本の綿生産額が初めて輸入額を超えます。この追い風に乗って豊田商店も発展しますが、その実際は発明と改良の試行錯誤でした。外国製品に比べた時、日本製品の安さが魅力でした。前者の力織機は800-400円、後者は100-80円です。小規模企業は当然後者を選びます。こういう中で豊田式力織機は少しづつ前進します。
 1899年、豊田式力織機の利点に目をつけた三井物産が、井桁商会を共同で作ります。それは豊田式織機会社に発展します。佐吉は技師長に就任します。飛躍のチャンスですが、彼は営利か発明かの間で悩みます。当時の日本の機械器具製作技術は欧米のそれに比べて貧弱なものでした。佐吉はアメリカ人技師を高給で招聘しますが、社長はいい顔をしません。やむなく給料の半分は佐吉自身の負担になります。また佐吉は会社とは別個に自費で試験場を作ります。あれこれする中経営不振の理由で技師長を辞任させられます。(1910年)取締役としては残っていました。この間1908年初めて鉄製力織機の製作に成功します。また1905年、英米の織布機械と日本のそれとが展示され比較されます。比較可能な水準まで向上したわけです。この時最良とされたのはイギリスのプラット式力織機でした。
 
1929年イギリスのプラット社は豊田から10万ポンドで力織機の特許譲渡に応じます。力織機では世界一だった同社を抜いたことになります。1930年死去、享年64歳、酒とたばこが唯一の趣味であったといわれています。彼豊田佐吉の生活信条は日蓮主義と報徳会でした。報徳会とは二宮尊徳の思想を中心として形成された協会です。尊徳は何かといえば道徳の模範のように固く捉えられがちですが、幕末にあって経済的合理主義を宣揚した人です。ちなみに尊徳も初めの妻にはすぐ逃げられています。理由は佐吉を同じ、仕事中毒です。佐吉の研究態度は独特です。問題の解決に行き詰まると、本や他人の知識に頼らず、じっくり自分の頭で考える事に徹しました。
 喜一郎は佐吉の長男として、1894年に生まれました。出生にはいささかの事情があります。喜一郎の実母たみは佐吉と結婚し、しばらくして家を出ています。一説では終日研究に没頭する佐吉に愛想をつかした、のだとも言われます。実母の事は喜一郎には一切知らされません。喜一郎3歳時、佐吉は浅子と結婚します。浅子は良妻賢母を絵に描いたような人物でした。経営の下手な発明狂佐吉が事業に成功する裏には妻浅子の献身的な努力があります。しかし喜一郎にとって慈母であったかどうかといえば、多分そうではないでしょう。賢い人ですが、勝気で多忙な毎日を送る浅子に、賢母である以上の関心を喜一郎に注ぐ余裕はなかったと思います。そのせいか喜一郎はおとなしい無口な少年でした。
 喜一郎は尋常小学校に通います。当時だれでもが行く平凡な教育コ-スです。特に成績が良いとはいえません。4年生の時、継母浅子の計らいで、名古屋師範付属高等小学校に転校します。父佐吉は喜一郎の教育にそう熱心でもなかったようです。喜一郎は中学校に進みます。佐吉は教育はこの程度でよかろうと、思っていたのですが、再び浅子の強い要請で、仙台の第二高等学校に進学し、そこから東京大学工学部機械学科に進みます。この過程でできた人脈は後年の喜一郎の事業にとって大きな資産になりました。
 浅子には佐吉との間に愛子という女児がいました。喜一郎にとっては唯一の兄弟であり、仲が良かったと伝えられています。愛子は児玉利三郎と結婚し、利三郎は豊田家の養子になります。児玉家については若干の説明が要るでしょう。佐吉の苦闘時代、資金と智恵の両面で、佐吉を応援した人物の一人が、三井物産名古屋支店長の児玉一造でした。利三郎は一造の長男です。利三郎は神戸高商を卒業して、伊藤忠商事のマニラ支配人になっていました。まだ地方企業でしかなかった豊田紡績などに転職する気はなかったのですが、愛子の美貌に一目ぼれして養子縁組を承諾したといわれています。佐吉なき後の豊田は喜一郎と義弟(といっても10歳以上年上ですが)の利三郎が協同で経営する事になります。喜一郎が技術担当、利三郎が経営担当です。もしこの利三郎という人物がいなければ、今日のトヨタはなかったでしょう。ともすれば技術向上一筋に走りがちな喜一郎を適当に押さえ、周囲の反対をなだめて、喜一郎の道楽と言われても仕方のない、自動車製造を後援したのはこの利三郎です。彼は喜一郎に遅れること数ヵ月後に死去しています。また児玉一造に養われて育ち、利三郎の義弟格の人物に石田退三がいます。この人物も喜一郎の事業との関係では無視できない人です。
 1921年27歳時、喜一郎は豊田紡績に入社します。父親佐吉の指示で現場に廻されます。大企業出身の技師連に苛められます。利三郎夫妻と共に欧米旅行します。この時喜一郎は、当時世界一の紡織機械製造会社であるイギリスのプラット社を訪問し、2ヶ月そこに滞在し、この会社の設備等の精細な観察を行い、膨大な資料を持ち帰ります。喜一郎は無口でおとなしい性格でしたが、後年になればなるほど父親佐吉の一徹で頑固な研究開発一本の傾向が顕著になってきます。ある幹部の手記には、二代続けて発明狂はいらないとぼやかれています。佐吉は喜一郎に紡織機製作を指示したことはありません。ある日喜一郎が密かに書いていた設計図を佐吉がふと見て、ウ-ンとうなり声を挙げました。感嘆したのです。喜一郎が機械製作者つまり発明家になってもいい、という佐吉の認可であったとも思われます。佐吉は発明などは才能のある人間にのみ出来る事であって、自分の子といえども才能の有無は解らないから、喜一郎をほっておいたのでしょう。
 1926年それまでのごたごたを解消して、豊田自動織機製作所が設立されます。社長は利三郎、副社長が喜一郎です。佐吉は第一線を退きました。この前後豊田自動織機の特許がプラット社へ10万ポンドで売られました。日本円で100万円、佐吉はこの金で自動車会社を作れと、喜一郎に言ったという話もあります。伝説かも知れません。喜一郎は密かに自動車製造の研究を続けていたようです。始めはスミスモ-タ-という自転車に小型のモ-タ-を取り付けたものを分解して観察していました。この間喜一郎の自動車製造への取り組みは進みます。段々公然化します。1933年研究室を作り、併行して豊田自動織機製作所に自動車部門を設立します。利三郎の内諾を得ていたので公然とはいえないものの、重役会議ではどの役員も賛成ではありませんでした。すでにその段階で数百万円に昇る研究開発資金が投下され、それはすべて自動織機の売り上げと紡績会社の利益で補填されていましたから、重役の反対は当然です。彼らは、御曹司の道楽にも困ったものだ、と思っていました。事実喜一郎の行動には充分その傾向があります。なお1933年、トヨタのライヴァルである日産自動車が鮎川義介により設立されています。当時としてはトヨタと日産では、日産の方がはるかに大きな存在でした。
 1935年第一号車が完成します。伝説があります。社長の利三郎が担当社員に「どうだい、うちの車は動くかい?」ときいたそうです。また喜一郎は展示会に「動かなくても並べろ」といいました。こんな具合ですから第一号車の性能は散々で、すぐ動かなくなる、車軸が折れるなどのトラブル続きです。新聞は「トヨタまた路上で座禅」などと書きたてます。このような不備は徹底したアフタ-ケア-でなんとか乗りこえました。よく乗り越えたなと思います。修理箇所は600箇所に上りました。不備なところはすぐ現場に赴いて、そこで徹底的に調べるのがトヨタの方針です。この間欧米から工作機械を仕入れ、人材を技術と販売の両面において、既成の会社から引き抜きます。トヨタにきたら給料が半分になったと言われるほど当時のトヨタの給料は低いものでしたから、よく人材が集まったと思いますよ。国産車を作るという夢ゆえに人が集まったのでしょうか、解らないところがあります。最初は赤字でした。出費を作業の合理化で補います。これが有名な、just in time あるいはカンバン方式と言われるものの淵源です。在庫を極力減らし、必要な物を必要なだけ現場に供給するのがこの方式のモット-です。
戦争の雲行きになるにつれ米国からの工作機械の輸入は不可能になります。国内産の部品がまだ劣悪であったので、部品を内製化しようと試みます。陸軍の指令も転々とします。陸軍からトラック増産を命じられて、乗用車製造を夢みる喜一郎は滅入ります。資源配分が少なく操業短縮という事態も出現します。本家の豊田紡績の方は自動車会社に合併されます。結果的にはこの事が、トヨタが戦後生き残れた一因になります。なお喜一郎が湯水のように自動車製造に資金を投入できたのは、紡績業の成功にあります。昭和恐慌を脱して以後日本の経済は発展しますが、この発展の資金は軽工業が負担しました。トヨタでも同じです。
 喜一郎は戦後数ヶ月して自動車製造を開始します。工作機械をなんとかし、航空機産業(GHQに禁止されました)から技術者を引き抜きます。しかしこれはと思う作品はできません。この間の資金は合併した紡績業の方が担います。戦後綿布は純綿といって貴重品でした。こちらの方は飛ぶように売れます。喜一郎の自動車製造への熱情はともかくとして、結局トヨタは大赤字になりました。復活再生のためには10億円の資本投下が必要でした。普通なら倒産です。しかし潰すには大きすぎました。潰せば関連会社300社も連鎖倒産で名古屋界隈に限らず、日本全体が恐慌になりかねません。ドッジラインという超緊縮財政の追い討ちが重なります。1600人の解雇が必要になります。大争議が持ち上がります。日銀名古屋支店長の高梨壮夫が各銀行の名古屋支店長を集め、融資団を作り資金融通を図ろうとします。しかし争議が収まらなければ融資は実行されません。非難の中喜一郎は辞職します。後任の社長が豊田自動織機を預かる石田退三です。喜一郎と利三郎の推挙ですが、背後には銀行団の強い圧力がありました。銀行団は喜一郎の技術優先に危惧感を抱き、販売部門出身で経営の実績もあり、すでに自分の部門での争議を解決していた石田の就任を歓迎していたのです。喜一郎は1952年3月持病の高血圧が悪化し脳溢血で死去します、享年57歳。利三郎もその後を追うように同年6月68歳で死去します。
 喜一郎のやり方を見ていますと、父親の佐吉にそっくりです。喜一郎の方が視野が広いのは事実ですが、自動織機と自動車の違いこそあれ、これと決めたら一本道、あらゆる手段を使い、本業で稼いだ資金を惜しげもなく投資し、ただ良い作品の出来上がりを期待して日夜努力する。喜一郎が念願したような自動車は彼の生前にはできませんでしたが、彼の遺志は石田退三や従弟の英二、子供の章一郎達に受け継がれ今日に至り、トヨタは世界一の自動車会社になりました。
 佐吉と喜一郎、トヨタという日本を代表するbig companyの創始者ということになりますが、私はこの二人がよくこんな大企業の基礎を築けたなと思います。二人とも発明狂です。販売に無関心であったとはいえませんが、あくまで技術開発優先です。三井との提携後も商社三井の販売優先との葛藤に佐吉は悩みます。佐吉は若い頃二度家出をし、結婚しては妻に逃げられています。残された子供が喜一郎です。佐吉と喜一郎をつなぐ存在が佐吉の後妻である浅子です。この浅子も尋常の人ではありません。佐吉の経営を請負、庶務万端をきりまわし、嫡男である異腹の喜一郎の教育に責任を持ちます。加えて美貌の持ち主です。浅子は佐吉の死後、経営から手を引き、佐吉の等身大の木像を作り、終生この木像と起居を共にしました。浅子にとって佐吉は神でした。
興味あるのが喜一郎と愛子の関係です。私には兄妹の関係を越えた何かを感じます。異腹だからでしょうか。後年喜一郎の後見者的立場にいた児玉利三郎は愛子の美貌を見て当時地方企業でしかなかったトヨタに就職することになります。愛子をはさんで喜一郎と利三郎は三角関係をなします。そこには嫉妬のようなものは見られません。愛子への愛を共有するがゆえに喜一郎と利三郎は共同できたと考えてもいいでしょう。二人の死がほぼ同時期というのもなにか因縁を感じさせます。
 トヨタは豊田家と児玉家の共同作品だとも言われています。現在でも二つの人脈があるそうです。三井物産名古屋支店長児玉一造が佐吉に資金を提供しました。一造の子供が利三郎、トヨタの事実上の経営者です。喜一郎引退後トヨタを引き継ぎ危機を乗り切り以後の発展の基礎を築いたのが、児玉家に養われていた石田退三です。採算を無視して自動車工業に邁進するトヨタの資金は豊田自動織機がまかなっていました。
 佐吉は喜一郎の教育に積極的な関心は示していません。教育は浅子まかせです。後継者の教育は経営の重要な一環ですから、ここでも浅子の貢献は大きいものです。佐吉は天才です。この種の才能は所詮は本人しだい、教えて解るものではないという態度でした。獅子は子供を千尋の谷底に突き落とす、といういわれがあります。そこから這い上がってきたものだけが、生き残れるとされます。佐吉が喜一郎に対してとった態度はこれに近いのです。そして佐吉は喜一郎の才能を認めていたようです。喜一郎の実母と佐吉の結婚は失敗でした。残された子である喜一郎の心境は、自分の誕生は失敗作品というようなものです。これを取り返すために喜一郎は父親のようになり父親を見返してやろうとしたのではないでしょうか?そこを仲介する縁が異母妹愛子の存在です。義母浅子は完全すぎます。愛子は喜一郎にとって実母の代理でもあったのでしょう。大赤字を覚悟で自動車生産に邁進する喜一郎を佐吉は阻止できません。子供は子供、親は親と割り切ることはできますが、結果として実母取り上げた佐吉は喜一郎の道楽に文句は言えないでしょう。自分も同じ事をしてきているんですから。

参考文献 トヨタを作った男、豊田喜一郎  ワック書店
 豊田佐吉---吉川弘文館、
日本産業史---日経文庫