経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

 経済人列伝 鴻池善右御門

2009-07-29 00:54:55 | Weblog
   鴻池善右衛門

 鴻池と言えば大阪では知られた金融資本です。精確には、でした、と言うべきでしょう。幕末までは日本一の金持ちと言ってもさしつかえない商人でした。鴻池家は4代目から当主は隠居するまでは「善右衛門」を名乗ります。ですからここで鴻池善右衛門と言う場合は、個人と言うよりむしろ集合名詞を意味しています。
 鴻池家の先祖は戦国時代の豪傑山中鹿之助幸盛に遡ります。山中家は宇多天皇を始祖とする源氏です。まあこの系譜は三井家のそれよりは確かでしょう。鹿之助は山陰の雄尼子氏の家老でした。尼子と毛利が中国地方の覇権をかけて争い、尼子は敗れます。鹿之助は主家の再興を願って東奔西走します。1577年上月城で毛利の大軍に囲まれ、同盟軍である羽柴秀吉からは見捨てられ、尼子勝久は自刃し、降伏した山中鹿之助は謀殺されます。
 鹿之助の長男、新六幸元は摂津伊丹在の鴻池に住み、酒造業を営みます。武士から商人に転向しました。鴻池は「国府の池(こふのいけ)」というくらいの意味で、律令制の頃には攝津国府が置かれていました。私はそこから近いところに住んでいますが、六甲山系に西端にあり六甲水が出て酒造りにはいいところです。鴻池の酒が清酒の元祖だとも言います。それまではみな、濁酒を飲んでいました。評判が良いので酒を江戸に送ります。はじめは陸路、馬の背で、やがて海路を取るようになります。現在の大阪市内九条あたりから自前の船で運びます。帰りの船にも荷物を積む事が多く、海運業にも進出します。主として西国の大名の藩米を運んでいました。畿内の酒を関東に送ったのも、鴻池の酒が濫觴(もの事の始まり)だともいわれています。ともかく鴻池の酒は非常に美味くて評判が良かったのでしょう。
 新六幸元の子が善右衛門正成です。彼を鴻池の初代とし、幸元を始祖とします。この前後から両替にも進出します。両替商の方が儲かるのでしょう、段々海運業からは手を引きます。正成の子の代には両替一筋になりました。大資本の両替商は本両替と言いました。仕事は、金銀売買、貸付、為替取り組み、手形振り出し、預金などです。金銀売買は金貨と銀貨の交換です。大阪商人は江戸へ商品を送り、江戸から金貨(小判)で支払いを受けます。大阪では金貨はあまり通用しません。銀貨(丁銀、五モンメ銀)と交換します。この時金1両を銀に換金する手数料が、1モンメでした。金1両は銀50-60モンメに相当します。(付 1モンメは3.75グラム)ぼろい儲けです。
 貸付には大名貸しと商人貸しがあります。両者とも年利はだいたい10%前後以上でした。大名貸しは踏み倒しの危険があり、リスクの高いものです。潰された商人も沢山います。金額が大きいので利も大きい、一種の賭博でした。こういう中鴻池は生き残るどころか、繁栄します。大きいところは潰せません。現在で言う、too big to fail,です。江戸中期、融通した藩は32藩になります。苗字帯刀と殿様へのお目見えを許され、町役を免除され、扶持米ももらいます。鴻池本家だけで合計1万石を扶持されていたと言いますから、小大名並みです。大名貸しでは元本を返してもらおうと、貸す方は思いません。ずっと利子だけ頂くのです。10年すれば元は取れます。経済学で言うコンソル公債みたいなものです。
 商人貸しもしました。大阪の商人は余った金は必ず両替商に預けました。信用を得るためです。そして預金には利子はつきません。借りると利子を取られます。1704年、鴻池の貸付残高は約15000貫(17-20を掛ければ小判の数が出ます)、内大名貸しは74%でした。
 手形には預かり手形と振り出し手形がありました。預かり手形は預金の証明書で、これはそのまま貨幣として流通しました。大資本の両替商への信用がものを言いました。ある商人が物を売ったとします。その代金を両替商が支払い、商人はその旨の手形を出します。当時(江戸時代中期以後)事実上の手形交換機能はありましたから、両替商はこれを江戸からの手形と相殺すればいい事になります。
 鴻池は十人両替に任命されていました。お上が信用できる大資本の両替商です。彼らは大阪にある諸藩の蔵屋敷の蔵元になり、藩米の売買を代行しました。江戸からの為替(商品の支払い)は(藩米を売った)金の送金用の為替で相殺されます。三井の場合と同じです。三井は幕領の米を主として取り扱い、鴻池は諸藩の米を取り扱っただけの違いです。大阪の経済力と江戸の政治力の交換とも言えます。
 以上の作業は両替商個人の商いですが、両替商はもっと公的な機能も果たしていました。果たすべく強制されたと言う方正しいかもしれません。まず新旧金銀の引き換えがあります。これらはすべて巨額な資本を持つ両替商を介して行われました。金銀市価の調整もあります。金の価値が下がりすぎると、両替商の集団が金を買うのです。現在中央銀行がする為替価格への介入と同じです。事実当時の大阪と江戸は、一種の外国貿易を営んでいたようなものでした。さらに米価超調節もさせられます。米価が下がれば米を買えばいいのです。そして最後が御用金です。これには2種ありました。直接なんぼなんぼと指名される御用金と御買米といって、市価より高く米を買わされる仕事もありました。これで得た金を幕府は困窮した諸藩への財政援助にしたわけです。まあ所得移転です。天保14年ですから1840年前後、水野忠邦の改革の時、大阪商人は総額114万両の御用金をおおせつかります。内10万両が鴻池本家の負担分です。御用金はいやですが、皆が御用金を課されているのに、一部の商人が免れる事を免れた商人達は、御用金を支払う以上におそれました。あそかは、支払い能力が無いとお上が認めたようなものですから。信用不安に繋がります。幕末大阪商人が新撰組に支払った御用金は銀6600貫です。当時の新撰組はすでに藩のようなものでしたから。
 鴻池は徹底して金融資本に留まり続けますが、その中でやや異色な事は新田開発です。1704年から3年がかりで、中河内郡の湿地を開拓します。開発した総面積は約120町(ヘクタ-ル)、内田は36町、畑が81町、屋敷地が2町弱でした。分配は肥料代を収穫高の30%とし、残り70%のさらに30%を小作取り分、とします。総計で小作と地主である鴻池は51対49の比率になりました。鴻池はこの中から年貢を払います。残りが年の利潤になります。封建時代、産業の進展が抑えられると資本はどうしても土地と農業に向かいます。これを資本の脂肪化と言う学者もいます。
 1829年の富豪番付では東の大関が鴻池善右衛門、西の大関が加島屋久右衛門でした。当時の相撲では大関が最高位でした。鴻池は大阪一多分日本一の金持ちと民衆から認知された事になります。
 明治になり庶民にも苗字が許されます。この時鴻池は今橋と和泉町の2家のみ、鴻池の姓を許し、他の同族には山中氏を名乗らせました。維新後の明治10年鴻池は第13銀行を作ります。大正8年株式会社に組織変えして鴻池銀行になります。やがて他の銀行と合併して、三和銀行になり、平成不況でさらに東京三菱銀行に吸収合併されました。維新の時、藩が出していた債権は、例えば無利子で50年年賦で償還、というような具合にされました。これは事実上の借金取り消しです。この時72の藩に金を貸したいたのですから、鴻池としては大打撃です。また鴻池は金融(利食い)資本一本できました。三井のように呉服商」をするでもなく、住友のように銅山を経営するでもありません。金融以外の商業や産業への経験がなかったのです。また人材にも事欠きました。住友の広瀬宰平、三井の三野村利左衛門、益田孝、中上川彦次郎のような人材が輩出しませんでした。こうして鴻池は金融資本の名門というある種の貴族になり、経済への影響力を失ってゆきます。しかし資本が生き残るのは簡単ではありません。大阪には住友や鴻池の他、加島屋、平野屋、天王寺屋などの富豪がありました。また東京には三井以外に小野組、島田組などの資本がありました。しかし彼らは没落します。私が属している参議院選挙区から鴻池の名称を持つ人が参議院議員として出ておられます。多分鴻池家の方だろうと、思っています。

 参考文献
  鴻池善右御門   吉川弘文館

経済人列伝、三井高利

2009-07-26 00:24:51 | Weblog
   三井高利

 昭和の恐慌で中小銀行は潰れ、金融界は三井、三菱、住友、安田、第一の5大銀行中心に編成されました。三菱は岩崎弥太郎、安田は安田善次郎、第一は渋沢栄一の創立になります。では三井や住友の創立はいつか、と質問したくなります。彼らは江戸時代から両替商という金融業(だけではありませんが)に従事してきました。今回は三井財閥の始祖、三井高利についてお話しましょう。時代は200-300年遡ります。
 三井高利は1622(元和8)年伊勢松阪に生まれました。大阪夏の陣が終わり、豊臣氏は滅び、徳川幕府の権威が確立しようとする時期にあたります。高利が生まれた年から、死去する1694(元禄7)年の70年間は、日本の経済の大きな転換点になります。幕藩体制は当初、300有余の大名が領地を経営し、そこから上がる年貢米を大阪に回航させ、換金し江戸在住の費用にあてるとともに、領地に諸商品を持ち帰って、農民に販売する、というシステムでした。当然そこには領主である将軍や大名と結託した御用商人が介在します。これを領主的商品経済と言います。大名あるいは御用商人が大名城下町と大阪に介在し、同時に大名領では城下町と農村の間に商取引が行われていました。平和が続きますと、農民の生産性が上がってきます。米より収益の高い商品作物(木綿、養蚕、菜種、藍や紅花など)を栽培します。大阪周辺のような先進遅滞では農民は幕府の禁令にも関わらず、菜種や木綿を栽培しました。農民の生産性が上がると、商品の量は飛躍的に増えます。従来の御用商人ではさばき切れません。加えて彼らは大名と結託しているので、農民にすれば安心できません。独占団体ですから買い叩かれます。生産量を把握されて領主に通報されれば、年貢はきっちり取られます。農村経済を基盤とする、領主から独立した新興商人層が台頭してきます。三井高利はそういう新興商人であり、時代の変化を鋭く読んで、新しい経営を開拓しました。
(付)特権的御用商人としては、幕府に限れば茶屋氏と後藤氏が代表的です。彼らは帯刀と将軍にお目見えを許されました。ご奉公はなかなか大変でした。見返りが幕府独占事業への参入です。金銀座、外国貿易、鉱山経営などが主な事業です。また紀伊国屋文左衛門、淀屋辰五郎、奈良屋茂左衛門などもこの範疇に入ります。

 三井家の先祖は御堂関白藤原道長で、戦国の豪族の子孫だと言いますが、そうかどうか?蒲生氏郷と関係があった事は確かです。先祖は近江出身という事になります。高利の生家は父高俊の代には松阪でほどほどの商人でした。質屋をしながら、味噌醤油を商っていました。母親の殊法がやり手でした。14歳高利は江戸へ出て、長兄俊次の店に手代奉公します。掛け金取りが抜群に上手く、商才にたけ、10年で兄の身上を10倍にさせます。兄は高利の商才を恐れて、松阪に追い返します。この時高利はすでに銀で200貫(金換算では3000両以上でしょう 私なら以後は遊んで暮らします)の財産を所有していました。   
 松阪で商売を始めます。主として金融業です。このやり方がなかなか面白い。貸す相手の主だったところは、大名と農村です。前者を大名貸し、後者を郷貸しと言います。利回りは年で大体、13-14%くらい、大名貸しには担保なし、郷貸しには担保ありです。郷貸しができたのは、そのくらい農民経済が発達してきたからです。特に松阪は木綿の生産地として裕福でした。もう少し後に現れる、本居宣長の生家は木綿問屋です。米貸しという手法も高利は使います。金で貸して、米で返してもらいます。米の値段の変化を読めば投機で儲かります。分貸しというやり方も使います。出資者を分散する手法です。さらに現在で言えば当座貸越しのような事もしていました。貨幣を預かります、そしてコ-ルオ-ヴァ-もOKです。これはお客へのサ-ヴィスのようですが、これでお客は資金繰りを円滑にできます。貨幣流通領を増やすのですから。ともかく高利は、彼の人生では比較的不遇だったこの時期、いろいろ発案しながら商売をしています。
 1673年高利52歳の時、眼の上のこぶであった長兄俊次が死去します。以後の20年間、高利は大活躍します。彼はすぐ江戸本町一丁目に呉服屋を開きます。彼自身が経営するのではなく、長男高平に経営させます。店名は「越後屋八郎右衛門店」です。同時に京都に仕入れ店を始めます。これも子供に経営させます。当時の呉服の生産地は京都です。最大の消費地が江戸です。京都で仕入れ江戸で販売します。だから江戸店持京商人(えどだなもちきょうあきんど)が呉服商の理想でした。そうでないと面白い商いはできません。
 この間高利は本拠地である松阪に在住し、手紙で指図し、時々江戸へ出向いては直接指示しています。当時の呉服屋の商いは、得意先を回って注文を聞いて後に品物を持参する見せ物売りと屋敷へ直接品物を持ち込んで売る屋敷売りの、二種類ありました。いずれも盆と暮れの二節季払い、つまり掛売りです。この商法は、資金の回転が遅いのと、掛け金の取りそこねが頻発するので、リスクが大きく、従って売る方も高く値をつけます。
 高利は色々な商い方を考案しました。主として奥州方面に売りさばく小売商人に品物を渡して売らします。この点では高利は卸売り商になります。諸国商人売り、と言います。店頭で顧客に直接販売する、店前売り(みせさきうり)、顧客の注文に併せて、小さい布の断片を売る、切り売りもします。すべて現金掛け値なしをモット-にします。顧客に商品の説明を懇切にする事も忘れません。こうして越後屋の商品は低廉な価格になりました。商売は大繁盛です。店規と符牒も定められます。後者は商取引上の秘密を保持するためです。店規では特に、賭博・遊女買い、掛売り、金銭の貸借、喧嘩と徒党を組む事などが厳しく禁止されています。衣服はすべて木綿でした。これは高利の縁戚も同様です。また使用人の採用にはすべて請け人が必要とされました。他の業者から妨害が入ります。新しい商法をする時どこも同じです。さらに他の兄弟の店と区別するためか、それまでの家紋を改めます。現在三井のシンボルになっている、「井」の中に「三」を入れた通称イゲタサン、という家紋が定められました。この間に剃髪して法名を宗寿と名乗ります。
 62歳火災を機に江戸店を駿河町に移します。正札販売の広告を江戸市内に出します。これも当時としては斬新な手法でした。店頭で即仕立てして売るという方法も考案します。当時店員は約70名くらい、店内分業のシステムも整います。高利が死去して数年後の駿河町越後屋の年間総売り上げは、銀で7000-8000貫、これに17-20を掛けると小判の数が出てきます。京都にも第2号店を出します。越後屋が特に商っていた商品は、西陣織りと唐物(中国産製品)でした。西陣の直買権を手に入れます。江戸では本店の向かいに第2号店を設けます。ここでは京呉服より廉価な商品、つまり桐生足利など関東産の絹織物と木綿製品を販売します。この間幕府の御納戸用達に任命されます。特権商人への仲間入りです。しかし高利はあまり気乗りしませんでした。幕府御用の方はあまり儲からなかったようです。高利の方針は、御用達しの方は適当に、商売を犠牲にしてまではするな、儲かる限りやれ、でした。しかし幕府御用をおおせつかった事は別の点で高利に大きな営利の機会を当たえます。
 1686年65歳、高利は本拠を松阪から京都に移し両替商を始めます。両替商の仕事は、文字通り取れば、金銀銭三貨制の当時にあたって、三貨を日日の時価に即して交換し、手数料を取る事です。高利のように大きな資本を持つ者は荷為替を扱います。当時江戸大阪間の商取引では金銀を直送しません。為替にします。その手数料と利回りが、両替商の収入でした。しかし江戸は商品の受け手、大阪は送り手では金銀は江戸から大阪に来るだけで、これでは為替業務は不十分です。ここで大きなチャンスがやってきます。高利は大阪御金蔵金銀御為替御用をおおせつかります。もちろん彼一人ではありませんが。幕領や各藩の米は大阪に廻されます。ここで売りさばき換金して金を江戸に送ります。この時米を取り扱う大阪商人に為替を作らせそれで支払いにあてさせます。為替(一片の紙切れですが)は江戸に廻され、大阪からの商品を受け取った江戸商人が為替を金に変えます。こうすれば江戸大阪間の商品と金銭の流通は極めてスム-スに行くことになります。高利はこれで大いに儲けました。為替の実質的利回りはだいたい13-16%でした。お上の米や金銀を扱うのですから、安全確実です。この方法は、大名・幕府、江戸大阪の商人には大きな便益を与えました。しかし一番喜んだのは街道沿いの農民でした。重い荷物が行き来すると、何かと賦役に狩り出されるのが当時の習いでしたから。
 1694年73歳で死去。彼が生前愛した風景に近い京都真如堂に葬られています。高利は大名貸しを子孫に厳しく禁じました。高利在世中も、紀州藩と牧野成貞という特殊な関係のある大名を除いては、大名への貸付はしていまさせん。また相場、鉱山経営、新田開発、土木事業などリスクの高い仕事には手を出さない事、政権には近づかない事などを子孫に命じています。それはそれで結構ですが、この家訓が維新の時、新しい産業にあまり手を出さず、あくまで金融と商業を主にして、製造業で三菱に遅れを取った遠因かもしれません。
 三井と越後屋の店員は、主人、元締、支配人、組頭、手代、丁稚という階層システムに組み込まれていました。賞与制を考え出したのも高利だといわれています。
 しかし資産は徹底した同族結合による管理下に置かれました。総資産は一括して共同で所有され共同で管理されます。両替と呉服商いから上がる利益は資産の中に組み込まれます。その内から定められた配分率に従って、利潤が分配されました。大元方の中で経験と年齢に従って、指導者を選出します。指導者は親分と呼ばれました。高利の長男高平の家系が本家です。本家の長は代々「八郎右衛門」と名乗ります。現在でもこの名称の人物はおられるはずです。三井はやがて主人層より、番頭が経営する体制になってゆきます。幕末の波乱に際して三井を存亡の危機から護り、三井財閥の基礎を気づいた三野村利左衛門などが代表です。高利の子供は男女・嫡庶・養子をあわせると、18人に及びます。この内嫡出男子6人を大元方として、彼らが資産を所有します。以後この六家は長子相続になります。維新以後六家は合名会社を作ります。次男以下は別家を作り、女子は連家として、一定の配分に預かりました。しかし財産を外に散らさないようにするために、なるべく同族同士の近親結婚が奨励されました。

  参考文献
    三井高利  吉川弘文館

経済人列伝、岩崎小弥太

2009-07-22 23:52:14 | Weblog
   岩崎小弥太

 三菱財閥岩崎家の4代目社長岩崎小弥太の名前を知らない人は多いと思います。典型的な2(4)代目経営者です。三菱の創業者は弥太郎、彼の死後は弥太郎の弟弥之助、3代目が弥太郎の息である久弥、そして4代目が弥之助の息、従って弥太郎の甥である小弥太です。2代目の弥之助くらいまでが、創業者世代でしょう。弥之助は日銀総裁も務め、男爵に叙せられ、没後正5位を授けられていますから、彼はすでに財界の巨頭の一人でした。小弥太は1879年(明治12年)に生まれています。母親は後藤象二郎の娘、早苗です。岩崎弥太郎と後藤象二郎は土佐藩時代から懇意でした。土佐藩の所有する汽船を借金ごと弥太郎が払い下げられたのが、三菱の起点です。払い下げは土佐藩の実力者だった、後藤を介してですから、弥之助と早苗の結婚は理の当然になります。後藤象二郎という人は政治家としての直観力には鋭いものがありますが、経済観念の全くといっていいほどない人で、会社を経営すればすべて失敗し倒産しています。後藤の遊興費も含めて、尻ぬぐいは弥太郎がしていました。さすがの弥太郎も後藤の不経済の後始末には音を上げていたといわれます。しかし三菱財閥の基幹産業の一つである、三菱鉱山は、元々後藤が払い下げられた高島炭鉱の経営に行きづまり、それを三菱が買い取ったものですから、後藤と三菱は持ちつ持たれつでしょう。三菱にすれば安い買物だったです。

 岩崎小弥太は学習院から一高、東大と進学し、24歳の時、イギリスのケンブリッジ大学ペンブロ-ク・カレッジに留学します。大いに勉強し大いに遊び、青春時代を楽しんで、1905年の27歳、卒業します。前年に日露戦争が勃発しています。イギリス滞在中、フェビアン社会主義に深い関心を示しています。この思想は後年、小弥太の経営に影響を及ぼしたかもしれません。帰国してすぐ、28歳結婚、相手は島津孝子、薩摩の殿様の縁戚の女性です。母といい妻といい、小弥太を巡る結婚は典型的な閥族結婚です。以後10年は従兄である久弥社長が三菱の総帥を勤めます。日露戦争後政府は重化学工業発展に力を入れます。特に兵器の国産は重要な課題でした。三菱と川崎造船には注文が殺到します。両造船所は戦艦霧島と榛名を建造します。ともに3万トンに近い巨艦で、この戦艦建造でもって、日本の造船技術は独立したと言えましょう。久弥社長時代のもう一つの重大事業は朝鮮巻二浦に製鉄所を作った事です。

 1916年、38歳、岩崎小弥太は久弥の後を受けて三菱合資会社の社長に就任します。合資会社の社員は2人、久弥と小弥太、資本金は500万円、二人で半々でした。

 小弥太社長の経営の特徴は先代からの方針である重化学工業化をより大規模に進めた事にあります。それまで三菱合資の各部局に所属する形であった事業を株式会社として独立させます。三菱造船、三菱鉱業、三菱製鉄、三菱商事そして三菱銀行です。後に三菱地所が加わり、三菱財閥の基幹部を構成します。これらの会社は本社に対し分系会社と言われました。本社は10名内外の理事からなり、持株会社として機能します。コンツェルン方式です。次に株式を公開します。まず縁故特に他の一族、そして分系会社の社員達さらに外部と言う具合にゆっくりとですが。
株式公開に踏み切ってゆく理由の一つは資本を外部から集めるためですが、他にも理由はありました。昭和恐慌に際しテロが起こります。経済人では三井合名の理事長壇琢磨が暗殺されます。岩崎小弥太もリストアップされていました。非難の矛先を避けるためでもあります。同じ理由で分系会社への権限委譲も進められます。三菱は堅実な経営が社風です。昭和金融恐慌で主犯の鈴木商店と台湾銀行に一銭も融資しなかったのですからさすがです。これで三菱銀行の信用はぐんと高まりました。小弥太社長はこの方針を推し進めます。事業企画調査を実施し、世界各地に調査員を派遣して、事業になる資源や情報を集め、当時アメリカで発案されたテ-ラ-方式を勉強して、作業に要する時間を節約し、さらに標準原価制度を採用して、会計・経理の基を引き締めます。

 昭和12年、丸ビルが建てられました。総工費900万円、9階建てです。アメリカのフラ-建築会社と三菱地所の提携で行われました。蒸気式杭打機や自走式起重機が駆使されます。丸ビルの建築で、丸の内は開発されます。のみならずこの建設は日本の建築技術に新基軸を持ち込みます。小弥太社長時代の最大の産物は三菱重工業株式会社の設立です。軍部は兵器生産を症例していました。トヨタ織機には自動車生産を強制しました。三菱は航空機生産を開始します。三菱航空ができました。特に名古屋工場が有名です。三菱航空はそれまでの三菱造船と合併して三菱重工業になりました。飛行機と船、換言すれば戦闘・爆撃機と軍艦の製造に専念するのですから、巨大な軍需産業です。当時他に飛行機生産では、中島飛行機と川崎航空機が、造船では川崎造船がライヴァルでした。三菱は日本タ-ルという会社を作ります。石炭から諸々の化学物質を製造します。これにアンモニア製造機能も加えて三菱化成が作られました。これで三菱は、鉱業、製鉄、機械、化学、という日本の重化学工業を押さえた形になりました。昭和9年。それまでの6つの製鉄所は合併され日本製鉄が作られます。国策です。

 ここまでの記述では三菱が重化学工業の尖端を切っていたような印象を与えますが、先に鮎川義介の項でのべたように、重化学工業は日産・日窒・理研などの新興財閥がまず手がけており、三井三菱などの旧財閥は消極的でした。その中では三菱が一番先進的であったと言えましょう。三井は伝統的に商業金融を重視する社風で、その分製造業では三菱に遅れをとりました。このように時代の先を読んで、遅れないように大規模に起業するところが小弥太社長の識見です。彼は三菱技術協議会を作り、先進的技術の取得を奨励しました。

 1937(昭和12)年三菱合資会社は三菱社と改名され、株式会社になります。資本金は1億2000万円です。貨幣価値を考慮する必要がありますが、小弥太が社長に就任した時の500万円と比べるとえらい成長です。また満州国ができた時、満州国政府紙幣発行の準備金として、三井と三菱の両財閥に総計2000万円が要請されました。一種の御用金です。ちゃんと返済されましたが。

 1945(昭和20)年敗戦。財閥は解体されます。持株会社は禁止されます。三菱の解体に際して小弥太社長は徹底抗戦し、あくまで自発的解散を拒否します。当時彼はすでに病床に伏せっていました。連合軍も手を焼き、日本政府が仲にはいります。小弥太社長は「自分は国策に従い、国民のためを思って全力を尽くしてきた 省みて恥ずべきところは何も無い」と言ったそうです。彼の経営指針は、「私は国家から生産の委託を受けて経営している」でした。前後の行動から見て、嘘ではないでしょう。創業者である叔父の岩崎弥太郎とはずいぶん違います。これが2代目の良いところでしょう。 岩崎小弥太は身長180cm、体重130kg、大変な巨漢でした。しかし風貌は優しく、度量があって寛容な人柄だったと伝えられます。大酒家でした。彼は元来経営は嫌いだったと言われます。嫌いな事をまじめにやりすぎたのか、不眠症に悩まされます。

 日本の経済は財閥解体で、米国が望んだのとは逆の方向に発展します。旧経営者はほとんど排除されましたから、40歳代前後の部長級が経営のトップに押し上げられます。いい意味での世代交代です。また日本の三井三菱住友安田とアメリカのモルガンやロックフェラ-とどこが違うのでしょうか?ダブルスタンダ-ドもいいところです。連合軍は財閥の中で三井物産と三菱商事を眼の仇にしました。総合商社というのは欧米にはありません。これらの商事会社が日本株式会社の尖兵です。特に日本にほとんどすべての点で抜かれたイギリスの嫉妬と不安は大きかったようです。物産はイゲタサン、商事はスリ-ダイヤの通称で世界中を駆け回りました。私の同級生二人が両社に入社しました。二人の鼻息が荒かったのを覚えています。

 ここまで書いてきて、私は岩崎小弥太という人に密かな同情も抱きます。創業者ならいくらでも書くことはあります。それだけエピソ-ドに富み、個人の人格を物語る話が多いのです。しかし2あるいは4代目の後継者となると、硬い大きな組織の中でのみ個人は機能しており、いかに大社長といえどもこの殻を破ったお話はあまりありません。親あるいは先祖の家業を継ぐという事は大変な事です。私は職業柄、このような2代目の苦労を見ていますので、小弥太社長の気持ちの奥が想像できます。昭和20年67歳で死去。死因は腹部大動脈瘤と静脈血栓でした。俳人高浜虚子に師事し俳句をよく作りました。私なりの評価では上手なそして実感を感じさせてくれる俳句です。一つだけ挙げておきましょう。木炭自動車で佐与の中山を越えるときの句(昭和20年5月)です。

    夏山を再び越える命かな

中山は有名な歌枕です。この句は西行の和歌の本歌取りの形になっています。

 参考文献
  岩崎小弥太 --- 中央公論社
  昭和経済史(中)--- 日経文庫

日経を読む、日本の株式市場

2009-07-19 23:53:36 | Weblog
  「日経」を読む、日本の株式市場

 7月12日付の日経朝刊の一面に「マネ-転変、ぜい弱な基盤浮き彫り、手を引く外国人」とありました。米投資ファンドのスティ-ル・パ-トナ-ズの東京証券取引所での扱い額が、昨年9月のリ-マンショック以来1/3になったという事です。記事は日本の株式市場に関して悲観的な論調でした。特に上海総合指数が6割強上昇した事、従って中国の株式市場が好調である、という事との対比において論じられていました。また日本人が個人として保有する現金と預金は740兆円に及ぶのに、日本では個人投資家が増えないとも、書いてありました。

 私は少し違う考え方をします。直接投資である株式資本の繁栄は好ましい事です。しかし米国でリ-マンショックが起こったのは、米国では製造業などの実物産業が衰え、それを回復させようと努力する事なく、世界中の金を集めて金融業に投資し、マネ-ゲ-ムに浮身をやつしていたからではないでしょうか?いわば虚業で実業をカバ-していたようなものです。今回のショックに際し、日本が軽微な傷で済んだのは、平成不況そしてその前のバブル経済を反省して、いたずらに金融ゲ-ムに深入りしなかったからです。それでいいのではないかと思います。

 ファンドは、羽のはえた金、を追い求めます。日本よりこの種のゲ-ムの好きな中国に飛んで行っただけです。中国にはそうしなければいけない事情があると憶測されます。中国は日本よりはるかに、輸出依存度が高く、従って今回のショックの影響も深いはずです。中国経済における外資の比重は過大です。外資を引き止め導入し続ける必要があります。さらに内陸や異民族の問題を抱え内部は不安定です。国家を安定させるためには、外見だけでも経済が好調という印象を内外に与えなければなりません。この事情は、次元は違いますが、20年前の米国と似ています。中国は知ってか知らずか、米国の二の舞を演じようとしています。私にはそう映ります。

 本来株価は物価により規定されます。そのはずです。株価は景気つまり産業全体の活動のレベルを反映します。産業活動が活発になれば、財貨は増え、また相応して価格は上がります。価格が一定あるいは低下しつつ、産業が活発になるという事は理論においても現実においてもありえません。産業活動を規定する大きな要因は人件費です。これは即物価に反映されます。もう一度言えば、株価は物価と正の関係にあります。物価に規定される部分と、その時時の気分やム-ドを反映する部分から株価はなります。前者を投資、後者を投機と言ってもいいでしょう。これに金利や流動性などが加味されて株価が決まります。もし物価と株価が比例関係にあるとすれば、現在の株価でも高すぎるといえましょう。昭和33年前後の日経平均は250円以下でした。それから50年間の間に、物価は20倍になりました。比例するとすれば、株価はせいぜい5000円前後です。

 株価が厳密な意味での投資行為によってだけ規定される事はありえません。儲けたいという衝動とユ-フォリア(陶酔)は経済行為において絶対必要です。現在の株価は10000円を越えています。その差額5000円は株式市場に必要な投機精神あるいは稼得衝動を越えているのか、どうでしょうか?
株式市場が国際的になったのは、35年前のニクソンショックとそれに続く変動相場制に起因します。金本位制が崩壊して、各国の貨幣は国境を越えて動けるようになりました。貨幣の国際的流動性が高まれば、貨幣と債権株式の間の垣根も取り払わなければならなくなります。貨幣と株式の移動性が高まれば、リスクそれ自体が取引の対象になります。こうして金融工学なるものが出現しました。この種の取引の根は単純ですが、やり方次第ではとんでもないことが起こります。M&Aなど序の口です。最近私が知った二つの手口を紹介します。

 一つはMBO(management by out)です。企業の経営陣(managers)が共謀して、企業の資産を担保として、借金し企業の株を買占め、経営陣が企業を乗っ取る行為です。こんな事をしてどうなるのかと思います。結局借りた金を返さなくてはいけないので、企業の各部門を売るそうです。その間に共謀した経営陣は甘い汁を吸うという事です。やり口の詳細はいろいろあると思います。読者の方で考えて下さい。MBOは4半世紀前ごろから起こっています。

 もう一つは7月12日の日経の3面に載ったCDS(credit default swap)です。1993年ごろ登場した由です。社債などの債権が破綻した時のために保険をかけます。この保険を逆用して、会社を破産させて、儲けます。

 繰り返しますが、直接投資、株式によつ資本の獲得は、産業が繁栄するために絶対必要です。カジノ資本主義とかペ-パ-エコノミ-とか言われても、これ無しには経済は存在できません。しかしこの種の投資への過大な信頼依存は経済全体を破綻させます。そのくらいの事は知っておくべきでしょう。リーマンショックからの回復もまだであり、しかるべき対策も見出せない中、中国の株式市場が好況だからと言って、それを過大に評価するのは軽率の謗りを免れません。むしろ中国経済の全体を俯瞰して、警鐘を鳴らすべきではないでしょうか。日本のメディアにはどうやらマゾヒズムの傾向があるようです。

 なお中国と日本の外国に対する違いは150年前の開国前後の時期にまで遡ります。両国ともいやいやながら開国を強いられました。外人(欧米人)の住む場所をどうするか?日本は、居留地を作り整備して、外人をそこに住まわせました。しかし国内での経済行為は厳しく制限しました。中国は外人の居留地を、少なくとも安全な場所としては提供しませんでした。しかたなく外人たちは、無用の土地を借り受け、そこを開拓して自分達の居住地にしました。香港のみならず、上海も青島もそうしてできた土地です。換言すれば、外資で三大都市ができたようなものです。日本は日清戦争勝利で自信がつくまで、外資導入は避けました。大隈重信が明治14年の政変で追放された一因は、大隈が外資導入に積極的になったからでもあります。中国は外国から借金しまくりました、返済できず誠意ある解答がなかったので戦争が起こりました。天津条約や北京条約はその産物です。

天皇ご紹介、孝謙(称徳)天皇と淳仁天皇(2)

2009-07-18 00:37:53 | Weblog

   (道鏡 )

 道鏡は8世紀初頭に河内国で生まれます。姓は弓削氏、小さな氏族です。生年は解りません。僧侶としての履歴は明らかではありまがせんが、山林修行で鍛えた事は事実です。当時の仏教の主流である唯識学を修め、梵字も読めたと言われます。山林修行は当時政府によって禁じられていました。律令政府は仏教や仏僧をあくまで政府機構の中で掌握しようとして、僧侶が寺の外で学んだり、説教したり、修行してはいけないと、しました。僧侶は寺内で勉強だけしていれば宜しい、経典だけを読みなさい、読むだけで良い・解らなくてもありがたい呪文を唱えていれば宜しい、国家のために、が律令政府の仏教政策の本音であり基本でした。こういう制度は長く続きません。真摯な僧達は修行の場を人里離れた山林に求め、そこで修行しました。禅定と苦行が主になります。こういう修行に耐えると精神は強くなります。霊力がつくと言われます。道鏡のみならず、最澄も空海も山林修行で自己の宗教観を育てました。最澄が弟子に与えた指示では、8年間の山篭りが課せられています。空海は四国の山中で20年修行しました。ここまでやれば霊力はつくと言うものです。こうして行学ともにそろったカリスマが誕生します。

 道鏡と孝謙上皇の出会いは、上皇が保良宮に行幸された761年頃のようです。道鏡は看病禅師として近侍します。当時僧侶は医師の役目も兼ねていました。社会で唯一の知識人ですから、信仰以外の事も相談に預かります。医学の知識もあります。そしてなによりも、加持祈祷は呪術であり、近代風に言えば一種の精神療法でした。上皇はすでに40歳代半ばを過ぎ、何かと身体不調を訴えます。道鏡の看病はよく効いたのでしょう、道鏡に対する上皇の寵愛は深まります。それを苦々しくまた自分の政権にとって危険な兆候とみた藤原仲麻呂が淳仁天皇を介して苦言を呈します。上皇は激怒します。760年光明皇太后が死去して、上皇は母親の重荷から解放され、ほっとされた時です。上皇は怒って、政治の枢要な部分は自分が決定する、淳仁天皇の仕事は小事だけでいいと、宣言されます。この宣言は後ろ盾を失った仲麻呂への反撃でもあります。単なる感情の爆発だけとは思えません。

 763年道鏡は少僧都に任命されます。仲麻呂対上皇・道鏡の対立は亢進します。自分の権力が危なくなった仲麻呂は多くの官職を独占しますが、孤立します。それまで仲麻呂に疎外されてきた他の藤原氏も同調しません。764年、焦った仲麻呂は反乱を企てます。上皇の信頼篤い吉備真備の軍略で、上皇側は淳仁天皇の宮を急襲し、駅鈴と天皇御璽を押さえ、天皇の身柄も拘束します。淳仁天皇を奪われた仲麻呂は皇族の塩焼王を天皇として即位させ、近江国に逃げます。琵琶湖北端で仲麻呂と上皇の軍が戦い、仲麻呂は首を取られます。淳仁天皇は淡路に幽閉され、やがて崩御されます。

 上皇は復位して親政を開始します。称徳天皇です。道鏡は太政大臣禅師になり、やがて法王になります。すでに臣下ではなく、天皇の傍らで一段下がった横に位置し、群臣の訴えを聴く準天皇です。764年からの6年間は道鏡政権の時代です。仲麻呂の紫微中台に習ってか、法王宮職を作り、律令制度外から政治を指導します。自分の出身地である弓削に宮殿を建てて、西宮と呼ばせます。道鏡はもっぱら仲麻呂と反対の政治体制をとりました。造寺造塔、崇仏政策です。献物叙位は増え、雑徭半減は取り消しになりました。

 769年5月宇佐八幡宮の神官が、次の天皇は道鏡、と神託があったと上奏します。天皇は半信半疑で、神託の真否の確認を和気清麻呂に命じられます。清麻呂は宇佐に行き、神託は無かったと報告します。怒った道鏡により清麻呂は、汚麻呂と改名されて配流されます。

 770年7月称徳天皇は崩御されます。機を伺っていた藤原氏の公卿達は協議して、天智天皇の孫、志貴皇子の子、白壁王を天皇に立てます。光仁天皇です。王の正妃である井上(いのへ)内親王が聖武天皇の皇女であり、称徳天皇の異母妹にあたるからでした。貴族たちとしては極力天武系の皇族の即位を避けたかったのです。天武系の皇族はこの100年間争いあって天皇候補を自ら減らし、加えて怨念渦巻く関係にありました。貴族達はこの泥沼から早く逃げたかったのです。また先代の天皇と極めて遠い関係にある白壁王に即位してもらう事によって、貴族達は天皇に恩を売り、自分たちの権力を強化したかったのだとも言えます。ともかく平城京と天武系皇族の忌避は貴族達の共通の願いであり、この事は平安遷都という事業に、そして桓武天皇の即位に連なってゆきます。

 道鏡は失脚し下野国薬師寺別当に左遷されます。配流です。彼は2年後に死去します。
 
 称徳天皇と道鏡の間に男女の関係があったか否かという問題はよく聞きます。歴史家はこの問題を避けます。彼らにとっては卑小なテーマなのかも知れません。だから一部の詮索好きの好む話題になります。事態は紫のカ-テン、深閨の奥の出来事ですから、明確な事は解りません。しかし推測はつきます。私は肉体関係も含めて、両者は男女の関係にあったと思います。道鏡が天皇に接近した時、天皇は40歳半ばでした。当然更年期障害という不定愁訴に悩まされます。そして彼女を取り巻く状況は複雑でした。

 群臣は天皇の事をほっておいて後継者にのみ関心を注ぎます。後継候補は縁の遠いものばかりで、どんぐりの背比べです。後継の定まらない政権は不安定です。陰謀はしょっちゅうでした。母親光明皇太后の意向は強く、従兄弟の仲麻呂が母親の庇護下に勢力を伸ばします。母親には逆らえません。天皇は藤原氏あるいわ仲麻呂による簒奪を考慮せざるを得ない立場でした。なら一体自分は何なんだ、という問いが心中に起こっても仕方ありません。母は母系親族とぐるになって天皇家を断絶させようとしているのか、とも問えます。自分には子がいない、のみならず結婚できない、後継者を作り出せない、という自覚は帝王としての存在感を著しく弱めます。

 こういう状況で道鏡という人物が現れました。彼は天皇の悩みの中に入ってゆきます。心身の疲れを取ります。心を慰めます。権力の深奥には親子関係と性的関係が伏在します。誰と結ばれて誰を後継にするか、が権力の課題です。このような問題を提起された道鏡と天皇の関係は容易に恋愛関係に転化します。仲麻呂が恐れたのは多分この事でしょう。帝王と恋愛関係にあるライヴァルは強力です。そもそも権力とは法と血の結合です。自分に血縁を作る力が無いのなら、法縁でもってそれに変えようと天皇が思っても不思議ではないでしょう。もう少しこの問題を突き詰めてみましょう。

 国家とは共同体です。それは利害計算の単純な集合ではありません。国家は有機体です。血が通い生きた存在です。この有機体がどのようにして形成されるのでしょうか?ここに宗教、厳密には創唱宗教の意義があります。高度な宗教は、政治的共同体の首長を介して共同体に導入されます。首長は宗教を受け入れる事により、一君万民そして万民平等という統治の基礎である、正統性を獲得します。共同体成員の血は共通のものとされ、共同体を代表する首長の血統は聖化されます。これが有機体としての国家です。聖化された血統を保持し継承する事により君主が誕生します。君主の血統の神聖さは伝統と慣習により強化されます。逆に言えば宗教は君主・首長を介して共同体に定着しなければ、生きながらえる事はできません。王法(俗)と仏法(聖)は相互に補完しあうのです。

 欽明天皇の御代に正式に仏教が伝来されました。以後の天皇及びそれを取り巻く豪族達により仏教は育成されます。造寺造塔、経典輸入、僧侶育成、留学生の派遣などなど。氏寺が建ち、官寺が作られ、天皇の葬送に仏教儀式が取り入れられるなどの事業が続きます。こうして仏教は日本に定着します。仏教育成に一番熱心だった氏族が天皇家と蘇我氏及びその後継である藤原氏でした。天皇家と藤原氏は共同して律令国家を作り、国家形成のイデオロギ-を仏教から取り入れて成長しました。こうして神聖な血統を有する天皇家が誕生します。単純に言って欽明天皇から聖武天皇に至る17人の天皇により、仏教と国家が形成されたと言えます。法縁と血縁は交じり合って機能します。

 称徳天皇が50歳に到達された時、後継者を自ら作り出す可能性が完全に断たれた時、国家成立と仏教育成の原点に返って、法の側から君主権を維持しようと思われても不思議ではありません。道鏡という法を代表する(少なくとも天皇の側から見た場合)男の体液を自らの胎内に受け入れ、受け入れる事によって、道鏡の体を聖化すると考えられても、理屈はあいます。私はそう考えます。

   参考文献
    光明皇后、藤原仲麻呂、道鏡 --- 吉川弘文館、人物叢書
    日本通史 第4巻 --- 岩波書店

天皇ご紹介、孝謙(称徳)天皇と淳仁天皇(1)

2009-07-16 00:11:16 | Weblog

   天皇ご紹介、孝謙(称徳)天皇と淳仁天皇

 この項は古代政治史における諸々の要因が極めて稠密に集約され、またその解明が納得ゆく形でなされていない時代を扱います。従って論述は長くなります。数回に分散して述べます。まず三代の天皇の在位期間を示します。
  
孝謙天皇  749-758年
  淳仁天皇  758-764年
  称徳天皇  764-770年

孝謙天皇は女帝です。実質的に統治する女帝としては日本史上最後の方です。これまでの女帝は多くの場合男子天皇の配偶者であるか、あるいは幼い兄弟の中継であるかでした。推古、皇極(斉明)、持統、元明天皇は前者であり、元正天皇は後者です。孝謙天皇は皇族の配偶者でもなく、他に兄弟がおられるわけでもありません。こうして天皇は生涯独身を強いられる形になります。後継者は誰になるのか、が問題です。後継者が全くの真空状態であるために、天皇の後継争いの陰謀がいろいろ行われます。あるいはそういう雰囲気が濃厚に漂います。後継争いならまだしも、皇位を簒奪しようという試みも出てきます。事実この時代ぼんやりしていると、万世一系どころではなくなったかもしれません。簒奪志望者は二人、藤原仲麻呂(恵美押勝)と道鏡です。

 孝謙天皇は一度退位し、位を淳仁天皇に譲られます。後者は前者の曽祖父草壁皇子の兄弟である舎人親王の子供にあたられます。二人の天皇は何代離れているのでしょうか?女帝だから譲位という面もあったのでしょうが、実際はその時の実力者藤原仲麻呂と彼の支持者である光明皇太后(聖武天皇の正妃)の意向でしょう。光明皇太后が死去すると仲麻呂の力は衰えます。孝謙上皇と仲麻呂の間に実権の掌握をめぐって争いが起こります。このころ病気がちの上皇に近づいたのが道鏡法師です。仲麻呂は反乱を起こして敗れ、斬られます。淳仁天皇は廃位され淡路に幽閉されます。上皇は復位(重ソ)し称徳天皇として統治されます。

 孝謙天皇のイミナは阿部(あへ)、聖武天皇と光明皇后の間に生まれた内親王です。同母弟はありましたが、乳児のまま夭折します。異母弟も成人に達してまもなく死去します。歴史家の意見では脚気衝心という事ですが、この皇子の死は光明皇后とその背後に位置する藤原一族には歓迎すべき事態であったでしょう。738年、阿部内親王は聖武天皇の皇太子として立てられます。日本の歴史、より広く世界の歴史の中で女性が皇太子として立てられたという事は聞きません。少なくとも紀元後においては。孝謙天皇は718年に生まれておられますから、立坊された時は20歳でした。男子の後継者ならもっと早いはずです。実権は母親の光明皇太后と彼女の甥にあたる藤原仲麻呂が握っていました。

 孝謙天皇即位に際して父親の聖武天皇は、皇太子として天武天皇の孫、新田部親王の子、道祖(ふなと)王を指名されます。道祖王は倫理的にいかがわしい行為があったとかで廃され、群臣協議の結果仲麻呂の意向どおり、舎人親王の子、大炊(おおい)王が立坊されます。大炊王は仲麻呂の私邸に住んでいました。仲麻呂の傀儡と見てさしつかえありません。即位した大炊王、つまり淳仁天皇は、上皇と道鏡の親密さに苦言を呈します。怒った上皇は天皇から実権を取り上げてしまいます。この頃から、仲麻呂と上皇の関係は険悪になってゆきます。前後して橘奈良麻呂事件が起こります。反仲麻呂派のク-デタです。多くの王族が処罰され、皇位継承の資格を失います。仲麻呂の失脚で淳仁天皇は廃され、舎人親王の子孫も継承者の資格を失います。

 皇位継承にともなう摩擦や軋轢は天武天皇の時代に遡ります。天武天皇は兄天智天皇の子である大友皇子(明治政府により弘文天皇と贈名)を討って、即位しました。日本古代史における最大の戦乱である、壬申の乱です。言ってみればこれは力による簒奪、あるいは革命です。ですから天武天皇は自分の直系子孫のみが、皇位を継承するべく企てられました。天武天皇の死後、暫くの間は皇后ウ野讃良(うののさらら)皇女が、持統天皇として統治されます。彼女と天武天皇の間にできた草壁皇子は早世し、孫の軽皇子は未だ幼く、持統天皇は継続して統治されます。軽皇子は成人し、文武天皇として即位されます。文武天皇も早世されます。彼の子、首(おびと)皇子は幼く、文武天皇の皇后であった阿閉(あへ)皇女(天智天皇の皇女)が元明天皇として中継になります。さらに文武天皇の同母姉である氷高(ひたか)皇女が、元正天皇として即位されます。文武天皇の子、首皇子が成人した時、元正天皇は譲位して、聖武天皇の即位となります。この5代、4世代、70年間にわたる継承の中で、天武天皇の皇子である大津皇子、高市皇子の家系は皇位継承資格を事実上失います。こうして764年称徳天皇が復位された時には、天武系の皇族はほとんど絶え果てた状態でした。

(藤原仲麻呂)

 藤原仲麻呂についてやや詳しく解説します。彼は鎌足の曾孫、不比等の孫になります。不比等の長男武智麻呂が南家を起こします。彼の次男が仲麻呂です。非常な勉強家で秀才でした。天才の匂いすらあります。漢学の素養が極めて深く、漢学のマニアのような人物でした。当時、律令制の形成期、官吏として出世するためには漢学の教養は必須でした。表記する手段が漢語しかないのですから、漢字を知らなければ広大な国家は統治できません。仲麻呂は叔母の光明皇后にかわいがられ、引き立てられます。706年に生まれ、父親の威光を背景に29歳で従五位下、あとは民部卿、参議、左京大夫と駆け登り、聖武天皇が孝謙天皇に譲位された時には、40歳の大納言でした。孝謙天皇の即位と同時に、紫微中台(しびちゅうだい)という律令制外の機関が設けられます。これは天皇の母親の光明皇太后が主催する官庁で、事実上正式の律令政府の機関より力がありました。仲麻呂は紫微内相(中台の長官)となって政府の実権を握ります。孝謙天皇は母親と従兄弟のロボットみたいな存在でした。そうとしかいえません。もっともこの女性はそれほど軟弱な方ではありませんが。仲麻呂はやがて傀儡である大炊王を、淳仁天皇として立てます。大炊王は失礼ながら仲麻呂の居候か養子のような存在でした。ここまで来ると仲麻呂の意図が見えてきます。皇位簒奪です。極力、他の天武系の皇族を排除します。この点では孝謙上皇も光明皇太后も同意見でしょう。

 藤原仲麻呂といえば陰謀策略の専門家のような印象がありますが、政治家としての業績もしっかりしたものです。少なくともそこには政治家としての一本の筋が通っています。彼がした主な政策は、献物叙位の廃止と雑徭(ぞうよう)の半減です。前者は売官です。政府に銭や米や絹を献じて、見返りに官位をもらう事です。仲麻呂はこの弊風をやめました。雑徭とは、国司の権限で農民を一定日数、労働に奉仕させる制度です。通常は年間60日と言われます。律令体制下の租税と言えば、租庸調となりますが、実際には農民にとって雑徭の方がはるかに負担の大きいものでした。仲麻呂はこれを半減します。現在で言えば税金が2/3くらいに減ることを意味します。売官を廃止して、政府機構を整え、民力を休養させて、民力を増加させる、という方向ですから善政です。また租税担当年齢を1歳引き上げています。これも減税です。当然政府収入は減りますので、新通貨を発行しました。仲麻呂の政策は前代の聖武朝の崇仏政策とそれによる民力消費に明確に反対する政治でした。

 仲麻呂の施策の一つに、律令官職の改名があります。左右大臣は太フ・太保と、太政大臣は太師となります。唐風にしました。二官八省もすべてこの伝で改名されます。そして仲麻呂は右大臣(太保)から太政大臣つまり太師になりました。760年、彼55歳の時です。半年後に光明皇太后が死去します。彼の後ろ盾は失われます。

 前朝に対決する政策の遂行、官職の唐風改名、そして淳仁天皇の傀儡化あるいわ身内化、は仲麻呂に簒奪の意思があったことを示唆します。かなりの証拠があります。仲麻呂は、祖父不比等の名に、イミナを避ける、ように指示します。イミナとは天皇の個人名です。もしある臣下の名や姓かイミナに触れると、臣下は自分の姓名を変えなければなりません。この制度は天皇に対して適用される制度です。次に彼は近江国に自分の勢力を扶植し、そこに保良宮を造り、北京と名前をつけました。大炊王には仲麻呂の死んだ長男の妻を娶わせます。また自分の子供達には親王にのみ与えられる品位(ほんい)を与えています。
民富民力重視の政策つまり大衆優遇政策、そして独裁政治、ヒットラ-の第三帝国もそうでした。

        (続)

日経を読む、「検証グロ-バル危機、大収縮」

2009-07-13 00:58:33 | Weblog
   
 日経を読む(7-5)

2009年7月5日の日本経済新聞の4面に
 
検証グロ-バル危機、大収縮、日本異例の株価対策、3月危機に「見せ金50兆円」


という見出しがありました。昨年9月のリ-マンショックを受けて政府は何らかの形で、株取得機構を考えていました。つまり株安への対策として、政府か日銀が株を買い上げる方策です。日銀が買い上げれば、拡大された形の買いオペになります。政府が買い上げるなら、財政出動をして現金をばらまくか、そうでなければ政府保証債を発行することになります。後者は政府紙幣です。4月、ワシントンでのG7で与謝野財務・金融相は、状況によっては日本政府は50兆円規模の政府による株取得機構を発動できる、と発言しました。

 株価対策は、企業の株安による資産目減りへの防衛策ですが、それ以上に市場での貨幣流通量減少を阻止する手段でもあります。現金か政府保証債か、どちらでもいいのですが、私は政府保証債の方がいいと思います。そういうものができるのなら日銀保証債でもかまいません。株式・債権は貨幣です。流通している限り、貨幣としての機能は充分です。株式債権が不良化しそうなら一時的便法で、それに変わる保証証券を発行し、信用を授与して市場心理の安定を待てばいいのです。見せ金、つまりリップサ-ヴィスでもかまいません。信用が取り戻せたら、保証債を従来の株式と交換すればそれで済みます。

 6月12日日経平均は10000円台を回復しました。ただ今回の金融危機は外(米)国発です。問題の要点は米国の株式そしてそれを表示するドルを安定させる事です。何度もG8とかG7が開かれていますが、表面に出る限りでは実質的な対策は見えてきません。私はもっと強力に連携は推し進められるべきだと思っています。つまりドルとドルにより表示される米国の不良債権の管理を米国だけに任せるのではなく、何らかの形でそれを国際的共同管理に移す必要があります。日本はこの課題を遂行するに一番適したポジションにあると言えます。
 
 現在は世界史の転換点かもしれません。富の基盤は実業つまり農業や製造業にあります。製造業の覇権はあきらかに日本を中心とする東アジアに推移してきています。欧米の産業基盤が惰弱であり、金融に出口を求めてmoney gameに狂奔するうちに今回の危機になったのです。とすれば経済覇権の推移に従って、ドル(これは米国だけの力でその地位が保たれてきたのではありません むしろ米国のドル信用に対する寄与は小さいでしょう)を管理する任務は日本のものになります。また東アジアが伸びたといっても、知的財産、信用供与、年金等の社会的インフラ、経済倫理などではまだまだ不十分な立場にあります。こういう諸々の事項を充実させねばなりません。先進国でありまたアジアの一員である日本は格好の立場にあります。モデルであり指導者であり仲介者であるべきが日本です。

 私は理想主義者でも博愛主義者でもありません。しかし経済的合理性に即して考えると、先進国は後進国を援助する事によってしか生き延びられない、と考えています。日本は一人当たりGDPが3万ドル以上、そして世界一の長寿国です。医療制度も欧米に比し遜色はありません。これ以上日本が裕福になり、日本人が健康になる必要があるでしょうか?産業の発展には必ず限界があります。一定の段階に達した時、資本を後進国に輸出し、彼らの産業を成長させつつ、ともに繁栄を享受する事が求められます。もし指導性を失いたくなければ、金融力で優位に立つだけでなく、技術力で勝ることです。発展しなければいけない候補者はたくさんいます。欧米中心の経済体制をアジア中心に推移させつつ、先進国であまった資本をゆっくりと規則的に後進国に流してゆく、換言すれば貨幣を実物産業から遊離させる事なく、それを貧しい国の実物に換えて行く、それが経済を安定させる一番の方途であり、その作業を負うべき唯一の存在が日本です。これが日本の運命ならあるいは課題なら、日本はそれを積極的に果たさなければなりません。天の与えるところを取らねば、天により罰せられます。チャンスを失えばピンチを招くという事です。

(付-1)7-5の日経の記事によれば、IMFが試算した今回の危機による損失額は
     米国 2兆7000億ドル
     欧州 1兆2000億ドル
     日本   1500億ドル
という事です。損害額だけでなく、なぜ損害が少なくて済んだのか、を考えましょう。

(付―2)私が仮に100万円かけて高価な洋服(別に大麻でもかまいませんよ、これはあくまで喩えです 私が言いたいのは実物を離れてPleasureやCommodityを追い求めるとしまいには麻薬あたりに落ち着くの落ちだという事です)、を買うとしましょう。それと同額の金をアフリカのどこかに食費として供与するとします。私が100万円により享受するCommodity(便益)よりはるかに多くのCommodityを彼らは教授するでしょう。これが実物経済の魅力です。金を生かしましょう。

(付―3)つい先日新聞で「アメリカ解体の陰謀---犠牲になるのは日本」というようなおどろおどろしい表題の本の宣伝を見ました。陰謀だとは思いませんが、事態は深刻です。。

経済人列伝、松方正義

2009-07-10 01:00:40 | Weblog
           松方正義

 松方正義といえば、松方財政、明治15年に大蔵卿に就任しそれまでの悪性インフレを退治し、日銀を創設し。以後の日本経済の骨格を作った人として有名です。彼の財政に対してはいろいろな批判もあります。しかし公平に見て、もし松方財政がなければ、日本は半植民地になっていたでしょう。問「もし国家が外国から借金して返せなければどうなりますか?」、答「ただ砲艦あるのみ」。これが当時の外交のあり方でした。

 松方は天保6年(1835年)薩摩の下級藩士として生まれました。西郷や大久保とは1世代後輩になります。郷士ですから、鹿児島城下に住む正規の藩士からは差別されます。しかしその割には昇進コ-スを歩んでいます。大番座書役、近習から郡奉行そして御船添役になり、長崎へ出張します。ここで維新を迎えます。松方が出世できたのは、当時薩摩藩の財政改革に辣腕を振るっていた調所広郷(本職は茶坊主)の眼にとまったからです。財政改革をするのに名門だの家柄だの言っておれません。実力のある人物を適所に配置するのは当たり前です。名君島津斉彬の人物眼は確かです。そして保守的で根性の座った松方は島津久光からも寵愛され近習に取り立てられます。

 明治になり松方は日田県(大分県の西部)の知事になります。この時黒田藩が発行していた贋札事件を手がけます。明治4年大蔵権大丞、さらに租税権頭(そぜいごんのかみ---税金徴収の責任者)になり、明治政府の運命をかけた地租改正をてがけます。この間松方は欧州に遊学し、フランス中央銀行総裁レオン・セ-の知遇を得ています。この時経済学の基礎を習得します。そして明治8年大蔵大輔(現在なら財務省次官)になります。やがて西南戦争が始まります。改革のためのインフラ投資に加え戦費が重なり、政府は政府紙幣を増刷します。インフレになります。インフレは外国品需要の増加(良いものはだれでも欲しがります)を促進し、貿易は入超になります。正貨は流出し、財政は信用を失います。政府も国民もいいかげんな不換紙幣だけ持っているのですから、このままでは外国とまともな交易はできなくなります。明治9年から14年(松方の大蔵卿就任)までに民間に出回っている紙幣は総額で5000万円増加しています。

 ここで当時の貨幣のあり方について説明しなければならなくなりました。大雑把に言って、三種類の貨幣が流通していました。政府紙幣と国立銀行券そしてメキシコ銀(ドル)です。前二者は不換紙幣です。ですから当然信用があるのはメキシコ銀(ドル)です。国立銀行というのはまぎらわしい名前です。明治の初年に伊藤博文が米国の制度を参考にして作りました。この銀行には発券の資格が与えられます。銀行が自分の紙幣を発行するのです。当然それは金か銀に兌換されなければいけないのですが、経営はいい加減なものでした。必要なら政府紙幣にせよ、国立銀行券にせよ、どんどん発券します。ですから正貨(といえばメキシコドルしかありません)に対するこれら紙幣の比価はどんどん下がります。なおドルといえば現在ではアメリカのドルを意味しますが、本来ドルとは近世初期にドイツで発掘された銀鉱ヨアヒムスタ-ル産の銀貨から来た名前です。この銀貨が良質で大量発行されたので、以後そういう銀貨はタ-ラ-銀貨と呼ばれ、それがなまってドルになりました。周知のようにメキシコは銀の大量産出地でありましたから、世界の銀貨はメキシコ銀でできたものが多く、以後大量かつ安定した銀貨はメキシコ銀(ドル)といわれるよういになりました。

松方は暗殺された大久保の後を受けて内務卿になります。以前から松方は政府部内の財政通でした。明治15年大隈重信に代り大蔵卿に就任します。大蔵大臣です。それまでの財政は大隈の独壇場でした。大隈は積極的財政を主導しました。政府紙幣をばらまいてインフレになっても、やがて好景気になり、その分租税が入ってくるから大丈夫、というのが大隈の考え方です。もっともそれまでに政府や国家が破産しなければですが。大隈の考え方はケインズ的です。対して松方は後に述べるようにマネタリスト的態度を取った、といえましょう。
(付 政治家で経済の解る人は恐ろしく少ないようです 当時の政府は10名内外の参議による合議制でしたが、うち経済に関して意見を言えるのは、大隈と松方だけでした 現在でも事情は変わらないと思います)
 
問題の発端は政府財政信用のために大隈が5000万円の外資導入を提案した事です。松方はこの提案に猛反対します。こうして財政担当大臣は交代しますが、この交代は政変です。大隈は突然参内を止められます。つまり大隈は一方的に政府から追放されたわけです。大隈が国会開設に積極的であり、それを急いだ事に対する反対もありました。さらに背景には汚職事件があります。明治6年の政変、いわゆる征韓論事件も汚職がらみです。汚職はたいてい長州閥で起こります。井上馨やその他の連中です。いずれにせよ、財政問題等における意見の対立が、汚職(これを隠蔽しようとする勢力)と結びついて、大隈は追放され、松方が財政担当になります。(明治14年の政変)

 松方の方針は、不換紙幣の整理、正貨準備の増加、中央銀行の設立です。まず政府経費節約し、増税します。新税を創設します。醤油税、菓子税、売薬印紙税、米商会所・株式取引所仲買人税などです。酒税や煙草税の税率は上がります。政府歳入を極力増やそうとします。

 次が不換紙幣の整理です。国債を発行し、民間に出回っている紙幣を吸収します。明治16年までに政府紙幣を、2480円償却(廃棄)し、2646万円を政府準備金に繰り入れます。後者はいつでも償却できますが、他に使い道があります。


 国立銀行は創立後20年まで営業が許可され、以後は普通の銀行(発券銀行でない)になるよう命令されます。明治18年までに424万円の国立銀行券が償却されます。こうして貨幣流通量は明治13年の1億6000万円から18年の1億2000万円に減ります。なお明治14年から18年までの国債発行高は総額4000万円です。だいたい釣り合いますね。今の言葉でいえば松方は売りオペをしたことになります。

 荷為替、貿易等に際しての為替、の取り扱いを外国人にも許可します。貿易促進特に輸出促進のためです。平行して公債を外国人が持つ事への制限を大幅に緩和します。国債を買ってほしいからです。松方は外資には警戒的でしたが、一部外資に頼ります。これらの政策は当然、外国人居留地における治外法権の問題と絡みます。それまで政府は居留地での治外法権を認める代わりに、外国人が日本の経済活動に参加する事を厳しく制限してきました。財政政策の転換は、外交政策の変化を呼び起こします。18年に松方は伊藤内閣の大蔵大臣になりますが、外務大臣は井上馨でした。松方財政と鹿鳴館外交は平行します。

 政府準備金は政府信用のもとに、これを貿易への資金供与として運用します。その利子は国庫に繰り入れられます。

 これら一連の政策の推移を見て、松方は明治16年日本銀行を中央銀行として設立します。発券銀行は日銀一行に統一されます。不換紙幣整理の目途がついたところで18年銀本位制に移行します。というよりそれまでの日本の幣制は曖昧でわけの解らないものだったのです。当時英国はもちろん、米独仏等は続々金本位制をとっていましたから、銀本位を採用した日本は経済的二流国の立場を自らとったわけです。先進国に対する従属的立場ですが、当時の状況は日本にとって有利でした。金高銀安の相場が進展します。その分日本は輸出しやすくなります。しかしこのままでは所詮は二流の従属経済なのですが、やがて日清戦争が起こります。この間会計法が制定されます。要は官庁も、きちんと帳簿をつけましょう、という事です。それまで各官庁は予算を与えられると、それを適当な銀行に預けて、運用させていました。
 明治初年に相継いで創設された官営企業(工場や鉱山)は民間に払い下げされます。官営では能率が悪いのと、これらの官営企業はほとんど輸入防アツ(輸入品に代えて国産品を作り、輸入を減らす事)のためでした。松方は逆に輸出促進を方針とします。この時払い下げられた官営企業には高島鉱山(後藤象二郎、後に三菱)、院内鉱山(古河市兵衛)、兵庫造船所(川崎正蔵)、長崎造船所(三菱)、深川セメント製造所(浅野総一郎)、富岡製糸所(三井)などがあります。三井・三菱・古河・川崎・浅野は後の財閥になります。

 私は松方財政のいい面だけを述べてきましたが、松方財政はデフレ政策であり、当然不況を招きます。倒産する者も多く、特にそれまでインフレで潤っていた農民の困窮はなはだしく、自殺者が急増しました。そして財政が一段落した後に松方は海軍公債を発行し明治政府念願の強兵路線をとります。

 明治24年松方内閣成立、松方は首相兼蔵相に就任します。明治27年日清戦争勃発。この戦争の費用はすべて内国債で賄います。戦争に勝って、清国から賠償金2億両獲得します。三国干渉による遼東半島返還でさらに3000万両。しめて併せて2億3000万両は英貨にして350万ポンド、円換算で3億5600万円です。これを政府はイングランド銀行に預け、対外支払準備にするとともに、正貨準備として明治30年(1997年)、金本位制を宣言します。32年外債の公募を容認し、外資導入に踏み切ります。

 この間松方は首相・蔵相を歴任し、後に内大臣になり、公爵そして従一位を与えられます。大正13年(1924年)死去、享年89歳です。松方に関しては二つの逸話を私は聞いています。松方一族が経営する企業や銀行が危なくなり、その救済でややこしい事件があった事。松方正義の孫娘が、駐日米大使ライシャワ-氏(昭和30年代大使在職)の夫人だった事です。
 (参考文献 松方正--日経新書、日本産業史1--日経文庫、日本通史17巻—岩波書店)


経済人列伝、武藤山治

2009-07-08 00:46:38 | Weblog
    武藤山治

 武藤山治は慶応3(1867)年、木曽川西岸の岐阜県海津郡平田町蛇池に、当地の庄屋佐久間国三郎の長男として生まれます。武藤は後年山治(さんじ)が米国留学から帰ってすぐ改めた姓です。父親は尾張藩から非常用の御用金1142両を負荷されるほどの豪農でした。後岐阜県会議員そして県会議長を務めています。

 14歳上京し慶応義塾に入学、福沢諭吉の薫陶を受けます。19歳卒業、米国留学。向こうでは見習い工、庭師、皿洗いとして働く傍ら、カリフォルニア州サンノゼにある、パシフィック・ユニヴァ-シティ-のスク-ルボ-イになり勉強します。

 20歳帰国、改姓。新聞広告取扱、雑誌編集、英字紙Japan gazette勤務、イリス商会勤務(クルップの日本代理店)を経て、27歳中上彦次郎の手引きで三井銀行に入社します。中上彦次郎は、それまで金融と商社に傾き、製造業に弱い「三井」の改革を企てました。こういう中上に認められた武藤は33歳、鐘淵紡績兵庫分工場の支配人に抜擢されます。

 武藤はここで手腕を発揮します。新聞広告を出し(それまで繊維会社は自社の製品を直接消費者に宣伝する事ななかったようです)、国内産の4万錘1300馬力の蒸気機関を設置します。これほどの大規模な生産装置は当時すべて外国製でした。そのころやっと芽を出してきた、トヨタ式織機を採用します。国産機械工業育成のためです。民間会社で外資を導入したのも、武藤の経営する鐘紡でした。工場の労働者には温情主義で臨みます。他の紡績会社に比べて職工の待遇がいいので、鐘紡と他会社の間で対立が起こります。鐘紡共済組合を作ります。これは後の健康保険制度に連なってゆきます。

 不況期には「紡績大合同論」を唱え、九州の会社はじめ、朝日紡績、絹糸紡績を吸収合併し、大正期初頭には資本金1713万円を抱える大企業に成長させます。合同とはトラストです。不況期に多くの紡績会社は合同し、鐘紡は4大紡績会社のひとつになります。この間武藤は社長の座に就いています。機関銀行は三井から三菱に代ったようです。

 武藤にとっていい事ばかりがあったのではありません。不況に際して鐘紡は井上馨の指示で、金融資本に売却され一時武藤は退社を余儀なくされます。中上彦次郎が死去した後の三井は、再び金融と商社中心の経営に戻り、製造業には興味がなくなったのでしょう。しかし金貸しによる経営は上手く行かず、武藤は再び鐘紡に復帰し社長に帰り咲きます。

 武藤山治の労働対策は家族主義です。だから労働者の待遇は比較的良かったのです。これは鐘紡という会社の社是のようなものですが、後年平成の不況に際しては命取りになります。武藤は日本の労働者が、低賃金と長時間労働下にある事は認めていました。資源の無い国が産業立国へと発展するためには、どうしても企業の蓄積が必要です。その分どうしても賃金にしわよせがきます。武藤はこの事を、産業資本家として是認しつつ、その限界内でできるかぎりの労働者保護対策を講じました。武藤のやり方に当時社会主義者になりつあった、河上肇が論争を挑みます。両者のいう事は解りますが、まあ観点と立場の差というところでしょう。河上が理想としたR・オ-ウェンのやりかたでは会社は潰れます。しかし不況期、特に金解禁後の不況には武藤の温情主義も通じません。鐘紡にも労働争議が持ち上がります。山治は53歳の時、社長の座にいたまま米国で開かれた第一回国際労働会議に集出席します。

 1922年56歳、実業同志会を結成し、翌年大阪南区から衆議院に立候補し当選します。同志会から11名当選しました。彼の攻撃目標は、政商とそれと結んだ政党の腐敗でした。だから当時の二大政党である、政友会や憲政党からは立たず、新しい政党を作ったわけです。日銀総裁井上準之助が特に嫌いだったようです。確かに井上には財界世話役のようなところもあり、その点では政商と結託したように見えたかもしれません。

 武藤が議員としてまず弾劾したのは、震災手形二法案です。この法案は震災手形に名を借りた、台湾銀行と鈴木商店の救済策です。結果はもめて金融恐慌になりました。武藤は井上準之助の金解禁も時期が悪いとして猛反対しました。解禁の前年の9月ニュ-ヨ-クで恐慌が勃発しているから、なぜあえて解禁したのかという疑問は私でも持ちます。武藤が尽力して通した法案に軍人救護法があります。これは戦争の犠牲者になった傷病兵やその家族の保護援助を目指した法案です。武藤が政府案に反対し、政党の腐敗を攻撃し、弱者保護を訴えるので陸軍は彼を社会主義者ではないかと疑いました。、あた武藤は5-15事件の青年将校に対してやや同情的な発言もしています。彼らと武藤には、共通の問題意識があった事は確かです。
64歳鐘紡社長を退きます。言論戦の限界を感じたのか、66歳議員も辞職します。67歳周囲から勧められて、時事新報者の社長に就任します。これが武藤山治の命取りになります。

 当時番町会という一部の財界人が作るサ-クルがありました。主たるメンバ-は永野護、長崎英造、小林中、正力松太郎、河合良成などです。彼らは戦後の財界の黒幕のような存在になります。齋藤内閣の文相鳩山一郎はじめ多くの閣僚もこの会に関係が深いと言われていました。番町会と鈴木商店や台湾銀行、それに日銀大蔵省の官僚も加わってややこしい事件が持ち上がります。「帝人事件」です。番町会が政府関係者に働きかけ、帝人(帝国人絹)の株を120円で買います。すぐ後に帝人は増資し株は150円に上がります。現在で言えばインサイダ-取引です。武藤山治の経営する時事新報社は昭和9年1月、この事件の内幕を暴露し弾劾すると宣言します。そして同年3月9日兇漢に狙撃されます。この時秘書の青木茂が身をもって山治をかばい、死去します。山治は頚部の他3箇所に傷をおい、病院に運ばれてしばらくして死去します。享年68歳です。彼にはまだまだ活躍する力量は残っていました。

 帝人事件では多数の大蔵官僚が起訴され、前大臣2名が連座します。複雑怪奇な事件です。2年半265回の公判の後に、全員無罪になります。主任検事黒田越朗の殉職もありました。また武藤殺害事件では鎌倉警察署が番町会の関係者を喚問しています。

 帝人事件は人絹製造会社に関する汚職(?)です。ところで人絹は当時、昭和10年前後には、新しい成長産業でした。化学工業の筆頭業種です。昭和期に入り鮎川義介を始めとする理科系経営者が重化学工業を推し進めます。彼らは新興産業の常でどうしても政府に接近しました。鮎川は典型的な政商です。対して武藤はすでに成熟産業に達していた繊維産業の代表です。この辺の状況と感覚の差もこの事件の見所でしょう。重化学工業は新興産業ゆえに政府の保護を必要とします。つまり税金を食います。繊維産業は外貨の稼ぎ頭でした。新旧産業の対立も絡んでいたのでしょう。

 武藤は理想主義者です。早くからキリスト教に入信しています。「社会の木鐸」になるべく政界に入り、政治に伴いがちな政官財の癒着を攻撃し、凶弾に倒れました。

 武藤山治は長男に糸糸治と名づけました。紡績一筋に生きた自分の生涯の後継を子供に期待しました。彼の後はこの子が継ぎます。戦後に入り鐘紡は多角経営に走ります。だから不採算部門をかなり抱えていた事になります。平成不況で、労働者優遇の伝統のため必要なリストラができず、経営スキャンダルが相継ぎ2004年、本部はクラシエホ-ルディングという投資会社の傘下に入ります。化粧品部門は花王に売却されます。紡績部門は消滅します。現在鐘紡の名で存在する会社は、私の知る限り鐘淵化学のみです。

 参考文献 武藤山治—吉川弘文館

経済人列伝、山辺丈夫

2009-07-06 00:28:34 | Weblog
     
    山辺丈夫

  幕末の薩摩に島津斉彬という名君がいました。早くから蘭学を通じて西欧の文明に興味を持ち、持つだけでなく、日本の最南端に西欧文明を実現しようとしました。事実この殿様はかなりな程度の工業施設を薩摩に作ります。斉彬が始めて西欧の綿糸綿布を見た時、その優秀さに驚き、必ずこの品は日本を苦しめるであろう、と予言します。江戸時代、日本では大阪や三河を中心に綿製品はたくさん作られていました。しかし開国と同時に、西欧の優れた製品が輸入され、日本の紡績業(そのほとんどが家内工業ですが)は圧倒されます。先に紹介した臥雲辰致、そしてここで取り上げる山辺丈夫は、このような紡績業の危機にそれぞれのやり方で対処します。前者は地場産業の伝統の中から新しい紡績機を考案し、後者は綿紡績の先進地であるイギリスから直接技術を導入します。

 山辺丈夫は嘉永4年(1851年)に、石見国家禄110石の津和野藩士、清水格亮の次男として生まれ、山辺善三の養子になります。15歳、藩校である養老館に入り儒学を学びます。維新の時は17歳、官軍に編入されて戊辰戦争に従軍します。たいした戦闘はなかったようです。東京へ出て、郷里の先輩である西周の薫陶を受け、英語を習得します。また当時慶応義塾と並び称せられた、中村敬宇の経営する同人社に学びます。

 津和野藩はたかだか4万石少々の小藩ですが、ここからは幕末維新期に二人の人材が出ています。二人とも日本の近代化にかかせない役目を果たしました。西周と森鴎外です。西は欧州に遊学し諸々の学問を学んで帰り、日本に西欧の近代的な学問を紹介します。「哲学」は彼が「philosophy」を翻訳した言葉です。鴎外は医科大学(東大医学部の前身)に学び、ドイツに留学し、近代医学を勉強して後に軍医中将になります。もっとも彼の場合は文学者として近代文学を創始した事の方で有名です。

 津和野の藩主は亀井氏です。亀井氏が入国する前は、これも有名な坂崎出羽守の領地でした。大阪夏の陣で坂崎は豊臣秀頼に嫁いでいた千姫(徳川家康の孫娘)を落城の中から救いますが、家康に約束をほごにされて怒り狂い、やがて取り潰されます。坂崎氏の後に入ってきたのが亀井氏です。初代の亀井シゲノリ(?)にはおもしろい逸話があります。毛利氏から秀吉についた彼は、恩賞に何が欲しいと聞かれ、琉球が欲しいと言います。秀吉はすぐ「亀井琉球守」と扇子に書いて渡します。このように津和野は本州西端の僻地ではありますが、個性的な人物を輩出しています。現在でも津和野は観光地として有名です。

 山辺丈夫は1877年旧藩主亀井シゲ明のお供でロンドンに留学します。そこで彼は経済学を学んでいました。前後して渋沢栄一を中心に計画が持ち上がります。当時の日本には大規模な紡績工場はありません。というよりそれを運営する技術がなかったのです。渋沢達は、なんとかして日本にも西欧並みの工場を作ろうとします。そのためには西欧の工場に精通した日本人が必要です。そこで山辺丈夫に白羽の矢が立ちます。

 その旨ロンドンの山辺に連絡が行きます。山辺はすぐ行動に移ります。専門を経済学から機械工学に変更します。大学は、university college からkings collegeに変ります。単に大学で機械の事を学んでいただけでは、役に立たないと思い(そのとおりです)、紡績業の中心地マンチェスタ-に行きます。そこでいろんな工場に掛け合います。要は、紡績工として働かせてくれ、紡績の実際を学びたい、謝礼はするから、という事です。しかし工場主達はみな断ります。まさか彼らが、半世紀後日本の紡績業が英国を抜くと想像したとは思いませんが、まあたいていの人は断るでしょう。一人、W・グリクスという人が応諾してくれ、彼の経営するロ-ズヒル工場で山辺は働く事になります。その時のグリクスから手紙の一部が次の文章です。山辺の日記から抜粋しました。

 He says,”I have received another recommendation from my friend.The money is not matter of problem .You can come to my mill.

 1879年9月1日から働き始め、翌年5月27日にロンドンを去ります。謝礼は150ポンドです。

 1880年紡績協会が渋沢の音頭で作られ、山辺は月給45円で雇われます。技師長格です。1882年(明治15年)大阪三軒屋にプラット社製のミュ-ル紡績機が15代、15000錘備え付けられます。これが日本で始めての大規模紡績工場、大阪合同紡績です。イギリスからニ-ルドという技師がついてきていました。ここで山辺に関する有名な逸話があります。イギリス人技師は、こんな大規模な工場を日本人だけで運営できるはずがない、と言います。山辺は、断固日本人だけでできると、明言したそうです。工場は昼夜二交代制を取りました。そのため照明をランプでとったらしょちゅう発火するので、当時アメリカで発明された、白熱電灯をエディソン電機会社から輸入しました。白熱電灯は珍しく、それを見に来る人達で一時、工場はごったがえしたそうです。
 (工場の動力をを水力するか蒸気にするかで山辺を初めとする指導者達は迷いました。結局蒸気機関にました)

 山辺は大阪合同紡績の運転開始と同時に齋藤恒三、菊池恭三ら3名を預けられます。彼らもイギリスの工場で実地修練をしてきた人達です。彼らが洋式大工場の技師に育ってゆきます。そして彼らの次には工科大学(東京帝大工学部の前身)出身の人達が工場技師として活躍し始めます。

 大阪合同紡績は三重紡績と合併し東洋紡績になります。山辺丈夫は後に常務取締役を経て、東洋紡績の社長に就任します。しかし経営の手腕そのものはもう一つのようでした。 
  
   参考文献 講座・技術の社会史 日本評論社