経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、石坂泰三

2010-05-31 03:32:08 | Weblog
石坂泰三

 戦後三等重役という言葉が流行しました。戦前の会社重役は、資本家そのものであり、従って一般庶民とはかけ離れた資産の持ち主である事が多かったのですが、戦後の公職追放のため正統派財界人が退場し、彼らの下にあった部長クラスの中堅管理職が重役(役員)になるケ-スが激増します。こうして出現した戦後派の重役、サラリ-マン重役を、皮肉って三等重役と言いました。日本は欧米と違い、資本と経営の分離が行われやすい環境にあり、戦前から経営者資本主義は盛んだったのですが、戦後になりこの傾向は一気に加速されます。この点で戦後という時期は経営方法の革命期であったといえましょう。
 石坂泰三という人は、この種の三等重役の代表かも知れません。彼は自分で企業を起こしていません。その点では豊田佐吉や鮎川義介あるいは堤康次郎とはかなり異なる人生を歩みます。彼自身、自らをサラリ-マンとして強く自覚していました。この自覚のもとに、第一生命を育て上げて社長になり、戦後は請われて東芝社長として大争議をおさめ、昭和31年から4期8年第二代経団連会長として、特に池田内閣の所得倍増論を強力に支持し、高度成長期の経済界をリ-ドしました。泰三は経団連会長時代、財界総理と呼ばれるほどの影響力を持ちます。しかし経団連つまり経営者団体連合会は、その名の示すとおり、企業集団の連合と合議を前提として機能します。ですから泰三の役割も、この集団の総意をどうくみ上げ、遂行させるのかにありました。彼は明治19年の生まれですが、この点では戦後型経営者の典型を示しています。
 石坂泰三は明治19年に埼玉県大里郡奈良村(現熊谷市)に生まれました。家は35ヘクタ-ルの田畑を所有する大地主です。父母はどういうわけか、早くから上京して生活します。子供が多く、教育費がかさみ、そう裕福な生活でもなかったようです。泰三は父母特に母親から漢籍の特訓を受けます。母親は家事の傍ら、四書五経、文選や唐詩選などの訓読を泰三に教えます。この教養は泰三の将来にとって有益なものになりました。彼は始め陸士を目指したようで、陸士コ-スの代表と言われた城北中学を受験しますが、不合格になります。家計に余裕がなかったので、商家への丁稚奉公の話も出ます。泰三は父母に懇請して、もう一年の猶予を乞い、翌年東京府立一中に合格し、更に一高、東大(法学部)というエリ-トコ-スを進みます。一中時代の同級生には谷崎順一郎、東大時代には河合良成や五島慶太がいます。卒業後逓信省に入ります。この間部下の汚職の責任を問われて戒告処分を受けています。汚職は前任課長時代の事ですから、泰三は不満でした。
 逓信省は4年で退職することになります。第一生命の社長矢野恒太が、泰三の恩師岡野敬次郎に、だれか良い人材はいないかと相談します。岡野は逓信省の知人に候補推薦を頼みます。こうして「本人の知らないところで、人身売買が行われて(泰三自身の言葉)」彼は第一生命に転職するはめになりました。本人にはあまり抵抗感はなかったようですが、妻は「私は官吏の嫁に来たのであって、保険屋の嫁に着たのではありません」と愚痴をこぼします。妻の言葉の方が正直で、東大法科卒のお役人が保険会社の一サラリ-マンに転職とは、当時の感覚では御殿からゴミ箱へ放り込まれたようなものでした。実際いざ勤務すると、逓信省時代との待遇の格差にさすがの泰三もびっくりし、後悔もします。きちんとした洋服を着て、涼しい部屋で威張っていた者が、丁稚同様の環境の中で駈けずり廻らなければなりません。後悔はするが、そう深刻に取らないところが、泰三の泰三たる由縁かも知れません。
 第一生命という会社の創設には面白い話があります。創立者である矢野恒太は医師として日本生命に勤務していました。会社に勤務する医師の待遇が悪いので、待遇改善を矢野は要求します。待遇は改善されましたが、矢野は解雇されます。そこで反発し奮起した矢野は、日本生命に劣らぬ会社を作ってやれと思い、第一生命を立ち上げます。そういう会社ですから、泰三が転職した当時、第一生命は業界では三流の上クラス、30数社中13位、社員は70名内外、まあ中小企業と言ってもいいでしょう。
加えて社長の矢野は、会社創立のエピソ-ドからも推察されるように、個性の強いくせのある人でした。泰三は矢野に秘書としてまた役員として仕えます。気苦労が多かっただろうと、周囲の者は想像しています。矢野の方針で社内重役は矢野と泰三だけ、社内重役を増やしても、結局は社長の意向を迎えるような意見しか言わないから無駄だということです。残りの役員はすべて社外重役です。これが財界の錚々たる大物陣、大橋新太郎、服部金太郎、森村市左衛門、松本健次郎、さらに小林一三などの面々です。彼らに泰三は社長の矢野ともども鍛えられます。ここで泰三は財界人の操縦法を会得したのだ、とも言われます。
転職後しばらくして、約束どおり、矢野は泰三の欧米留学を許します。2年間欧米に滞在し、特にニュ-ヨ-クのメトロポリタン保険会社で、みっちり保険の勉強をして帰国します。帰路は第二次大戦のさ中、連合国の船はドイツの潜水艦の標的になります。そのため比較的安全な喜望峰まわりで帰国しますが、暗い海を暗い船で(灯火管制)ひやひやしながらの帰国は、泰三に強い印象を与えたようです。潜水艦の魚雷を一発食らえば、確実にお陀仏ですから。
 35歳取締役、48歳専務取締役、そして昭和13年、52歳で泰三は矢野から社長職を譲られます。この間第一生命は躍進し、業界2位の順位を獲得し、日本生命に迫ります。泰三は矢野の懐刀として、共同経営者として、また社長として活躍します。泰三のこの間の業績は以下のようにまとめられています。
  IBM式会計器の導入による作業能率の増進
   保険は統計確率の世界ですから、この種の計算機は必須の武器です。しかし多くの社員は購入には反対でした。
  新社屋建設
   社長就任と同時に落成、地上8階地下4階、総工費1600万円。戦後マッカサ-がそこに住むことになります。それほど立派なビルでした。
  外交員の待遇改善
   保険会社の主力は外交員です。彼らの待遇を改善し、彼らの中から役員を任命します。
  資金運用
   株式と社債を購入し、それを運用して稼ぎます。泰三は投機の才に恵まれていたようです。兜町の飛将軍山一證券社長大田収も顔色無しではなかったかという、風評もあります。
 昭和21年、60歳、泰三は第一生命を退職します。公職仮追放の立場でしたので、退職金もでません。当時大企業の経営者は皆公職追放に脅えていました。占領軍の当初の意向は、日本を農業国にする事であり、企業の生産設備で優秀なものは、すべて東南アジアに持って行くつもりでした。そして大企業のトップのほとんどは退陣させられました。アメリカの思惑に反して、結果は日本の産業に吉とでます。代った三等社長、三等重役達は先輩以上に優秀でした。
泰三は退職後しばらく浪人します。そして公職仮追放は免除されます。そこへ降って湧いたような東芝社長就任の話が出ます。仲介は三井銀行頭取の佐藤喜一郎、昭和24年石坂泰三は正式に東芝社長に就任します。東芝は日本の電気機械製造の代表的企業ですが、一時期10万名を越す社員を擁した東芝も、戦後は2万8千名にまで社員が激減し、彼らは鍋や釜を作って糊口をしのいでいました。優秀な機械設備は封印され信州の工場で使用禁止になっていました。そして東急、読売、トヨタの項で述べたのと同じく労働争議の嵐が東芝をも襲います。労働組合の外部には共産党員がいて、争議を指導し先導します。共産党は、少なくともこの時点では、日本の企業をすべて潰し日本の資本主義にとどめを刺すつもりでした。
泰三の仕事は、労働争議の終結です。どうしても6000名の解雇が必要になります。まだ社長でない取締役の時、泰三は単身で組合事務所に出かけ、「今度社長になる予定の石坂です」と挨拶します。三分の侠気が彼のモット-です。こうして交渉相手との意思疎通の可能性を築きます。後はどうすれば会社を再建できるかの案を組合に提示します。大多数の組合員にしても、生活は大事です。会社を潰したくはありません。泰三は政府が容認し融資を斡旋するような、再建案を作ります。そのためにはどうしても6000名の解雇が必要であると組合幹部に説きます。誠実に数字を突きつけられれば、どのような条件で会社再建ができるかどうかは、判断できます。できるものはできるし、できないものはできない。ですから後は極力頑張るしかありません。こうして労組の主流派を納得させ、過激派を孤立させて、再建案(6000名解雇を含む)を労組に飲ませます。名門東芝の大争議を終結させ、会社の経営を軌道に乗せた、泰三の名は上がります。この間吉田首相から蔵相就任の打診がありましたが、泰三は断っています。後任の東芝社長に岩下文雄を選びます。もっとも泰三は岩下の経営には不満で、昭和40年に、意中の人である土光敏夫を東芝の社長になるべく尽力します。
昭和31年、70歳、経団連会長に就任。4期8年会長職を務め、財界総理の異名を取ります。泰三の経団連会長として方針は、
  業界の最大公約数の意見集約、個別企業の利害を代表しない
  財界の自主性確立、政府や政党の干渉は排除する、リベラリズム
  豊になろう、日本の産業の潜在力を信頼して、経済の成長と拡大の提唱
  対米協調
  中国との交渉の要、一方ソ連との交渉は急ぐべきでない
だいたい以上のようなものです。
経団連会長時代泰三は、日本商工会議所会頭藤山愛一郎と共同で、鳩山一郎内閣に退陣要求を突きつけています。鳩山内閣の経済政策が曖昧であり、経済を放置して日ソ国交回復に専念し過ぎていた、と両名は判断したようです。
反面池田内閣の所得倍増政策には大賛成で、山一證券が危機に陥った昭和38年にあっても拡大政策を支持しています。
また早くから貿易自由化を唱え、関税撤廃を主張し、財界の多数から批判されます。泰三が会長を退いて数年後から日米経済摩擦が激しくなります。泰三の先見の明と言うべきでしょう。彼がこういう主張をした(できた)背景には、日本の経済力への高い信頼があるからです。潜在的能力が充分あるのだから、貿易は自由化し、円は切り上げ(こう言ったかどうかはしりませんが、論理的にそうなります)をした方が、長い目で見れば日本経済の体力を強くするのだ、という信念です。
昭和39年経団連会長職を副会長の植村甲午郎に譲ります。しばらくして三木武夫通産相の依頼で、大阪万博の会長になります。昭和45年春、大阪万博は開催され、秋を迎えて大盛況のうちに終わります。
石坂泰三はこういう人ですから、交友知人にはこと欠きません。内3名を挙げておきましょう。山下太郎、彼は戦前満州太郎として鳴らし、戦後にはアラビア石油を立ち上げて、アングロサクソン主導のメジャ-に立ち向かいます。この時すでに経団連会長であった、泰三は90億円の個人補償にすぐ判を押しています。この時泰三が言った言葉は「山下のような山師でなければこんな仕事はできない」です。泰三が東芝社長就任を引き受けた時、周囲の声に反して、就任に賛成したのは山下太郎だけだったとも言われています。
小林中(あたる)とはツーカ-の仲で、泰三が表の、小林が裏の財界総理と言われ、吉田内閣や池田内閣の政策に協力します。二人は極めて対照的な育ちを背景に持っています。
土光敏夫を泰三は最も高く評価しました。惚れたと言ってもいいでしょう。土光を東芝の社長に推します。小林と土光についてはすぐ後の列伝で取り上げます。
泰三は経済人であると同時に、優れた文人でした。和歌を詠み、漢籍を愛し、シェ-クスピアやゲ-テを原文で読み、80歳を超えてなおフランス語を勉強しました。昭和37年、76歳から、和漢の原典の筆写を開始します。四書五経や万葉集などを筆写します。
昭和50年心疾患の悪化で聖路加病院に入院し死去。享年89歳。
泰三は多くの放言をしています。その語録もおもしろいものですが、最後に彼が述懐した言葉をあげてみます。彼は言います、高校・大学と多くの事を学んだ、文学や哲学にも親しんだ、今振り返れば、大学の授業で習った実際的な知識はどんどん変わって役に立たなくなったが、教養それ自身は変らず、自分をはぐくんでくれた、と。Das stimmt so.

参考文献  堂々たる人生、石坂泰三の生涯  講談社

経済人列伝、藤田伝三郎

2010-05-28 03:09:03 | Weblog
       藤田伝三郎

 今までこの列伝で描いてきた人物の、少なくとも名前は、私は知っていました。しかし藤田伝三郎に関しては初耳です。大倉喜八郎、小林一三、山辺丈夫、豊田佐吉、古河市兵衛などの伝記では、必ずと言っていいほど、伝三郎の名前は出てきます。偶然大阪市立図書館で彼の伝記を見つけたので、興味をもって読んでみました。そして彼が行った多くの事業を系統だって知る事ができました。極めて多くの事業に伝三郎は何らかの形で関与しています。あまり事業が多いので列挙するに留めます。後は読者の方でその事業の意味を考えて下さい。
 藤田伝三郎は1841年(天保12年)長州(山口県)萩の城下で生まれました。家業は酒造業です。小野妹子を祖先に持つと言われています。高杉晋作の奇兵隊にもなんらかの形で関係があったようで、少なくとも高杉を尊敬していた事は確かです。この事は明治新政権内での長州閥と、従って政権の要人と親しい関係をもたらし、彼の事業遂行には役立ったと思います。木戸孝允の勧めで実業家を目指し、大阪に進出します。最初の商売は陸軍の兵隊さんの軍靴の製造でした。長州出身の陸軍軍人山田顕義の勧めです。ついで明治初年に大阪の高麗橋を鋼鉄製で作ります。1871年に始まる大阪京都間の鉄道建設も請け負います。それまでの部分的請負ではなく、全業種を一括して率いる新しい型の総合的請負です。
 また井上馨達と協同で大阪先取会社を作りました。この会社は長州藩あるいは山口県内の産物特に米を、一定の利益を保証して買い上げ、売買する商売です。米の多くは年貢米ですから、納める先は政府です。新政府は旧幕布と違い、すべて金納であり、租税の額は地価により決められました。ですから最初のうち、農民が個別に販売すれば、米穀商人に買い叩かれてしまいます。先取会社はこの様な事を防止する目的で作られました。言ってみれば政府の徴税機能の一部を代行している事になります。このような事は三井組をはじめとする大商人はみなしていました。
 西南戦争では軍靴のみならずあらゆる軍需物資を陸軍に売り大いに儲けます。大倉喜八郎の仕事と同じです。作戦を遂行するために必要な、土木建築作業の請負も当然しました。伝三郎は38歳、西南戦争で彼は実業家としての地盤を固めました。以下彼の事業を列挙してみます。だいたい継時的になっています。
大阪商法会議所設立の斡旋
 商法会議所とは現在の商工会議所です。政府官界と民間企業を仲介する組織です。
大阪築港計画
大阪合同紡績会社の頭取就任
 この会社は日本で始めての、大規模な西洋式紡績会社で、日本の紡績業発展の先駆となりました。渋沢栄一が斡旋し、山辺丈夫を技師長にして日本人だけの経営にしました。伝三郎はこの計画に積極的に参加し、頭取の役を引き受けます。
阪堺鉄道会社設立
松本重太郎に協力して大阪(難波)堺間の鉄道敷設を行います。現在の南海電車の前身です。
日本郵船の設立に協力
 岩崎弥太郎のところですでに述べましたが、西南戦争で稼いだ岩崎の郵便汽船三菱会社の独占に対して共同運輸会社が作られ、両社は激しい競争を行います。共倒れになるのを避けて両社は合併します。協調合併の斡旋に藤田伝三郎は活躍します。
神戸桟橋会社設立
 港神戸の陸揚げ作業を請け負う会社です。
天神・天満・木津・渡辺・肥後橋の建設
 水害で流された大阪市内の橋の中で特に重要な上記五つの橋の建設を請負い完成します。
琵琶湖疏水の建設
佐世保と呉軍港の建設
有限責任日本土木会社の設立(1887年)
 資本金200万円、内藤田伝三郎90万円、大倉喜八郎80万円の出資。会社設立の目的は近代的な土木建設業を行うためです。当時の請負業社は小規模なものが多く、技術と組織そして責任感において欠けるところが多かったのです。この会社が行った事業は多彩です。利根運河、東京湾月島造成、東海道線天竜川大府間の建設、讃岐鉄道丸亀琴平間の建設 九州鉄道博多遠賀川間他建設、帝国ホテル、歌舞伎座、日本赤十字病院、東京郵便電信局、京都国立美術館、女子学習院、日本銀行、滋賀県庁、そして京都大学・東北大学・東京大学の一部の建設も行っています。
小坂鉱山再開発
 秋田県の小坂鉱山は銀山として有名でしたが、銀はほぼ取り尽くされていました。伝三郎は久原房之助に経営を任せます。努力の末豊富な銅を産出精錬する事に成功します。当時としては古河市兵衛の足尾銅山に継ぐ産出量を誇りました。なお久原房之助はこの事業をを皮切りに、機械・電機・化学・造船などの総合的な会社群、日立グル-プを作り上げます。
児島湾干拓
 岡山県の児島湾の干拓事業を藤田組で行います。機械化された大規模農業の発展を伝三郎は志しました。1902年一部完成します。全部が完成した時の耕地総面積は5000町(ヘクタ-ル)でした。干拓事業は藤田組にとって完全な赤字であり、また戦後の農地改革で藤田家の所有する耕地はすべて没収されます。
大阪毎日新聞の育成
 大阪日報の経営を援助し、大阪毎日新聞と社名を改めます。一時官を辞した原敬を社長にします。やがて経営は本山彦一に委ねられます。本山は経営を安定させ、やがて東京日日新聞を合併して、毎日新聞を作ります。
金本位制主張
 小坂鉱山は銀を産出していたので、金本位制は伝三郎個人にとっては、不利になるはずですが、彼はあえてそれを主張します。当時金本位制に反対する人が多かったのです。伊藤博文もその一人です。
湊川改修会社設立
大阪ガスと大阪市のトラブルの仲介
 大阪ガスのガス管は市内の公道を通るので、道路使用料などで会社と市がもめました。
北浜銀行設立
 頭取に三井銀行大阪支店長の岩下清周をもってきます。岩下も経済人としては極めて有能な人で、彼の影響下に小林一三の阪急電鉄ができました。また岩下は近鉄電車の創設にも深く関わっています。
大阪商業学校の設立に関与
 設立に際し150万円を寄付しています。この学校はやがて国立になり大阪商科大学を経て、現在の大阪市立大学になっています。
藤田美術館
 伝三郎は多趣味な人でした。特に古美術品への関心と造詣が深く、彼の死後藤田美術館が建てられています。
男爵に叙せられ、1912年に死去します。

 藤田伝三郎は独立独歩の人でした。義侠心に富み世話好きで、加えて極めて多趣味な人でした。自己宣伝をほとんどしません。彼を非社交的な人という人もあります。しかし彼はメディアに乗らないだけで個人としては相当以上の人脈をもっていました。彼が経済人になりきれなかったと言われるのは、銀行を持たないのを信念にしていた事にあります。財閥は必ず自前の銀行を持ちます。伝三郎の仕事は多岐になりますが、かなりの部分が世話・斡旋・仲介が多く、また彼が資本を出しても経営は他人に任せる傾向が強いようです。ですから彼の事業は藤田個人のものとしては残る事が少なかった、と言えます。
藤田伝三郎の主たる事業は、土木建設と鉱山経営にあります。明治20年代までの日本の主な企業できる産業は、この二つに金融と運輸です。建設・運輸・金融は産業発展のインフラ投資です。鉱山は銀や銅を産出し、当時の重要な輸出品でした。外貨を稼ぎます。この四つの事業で下固めをした日本の産業は明治20年代に入り、製造業が、まず繊維工業から猛烈な発展を始めます。日清戦争前後に第一次産業革命を成し遂げ、外資を導入します。軽工業で稼ぎ、外資を使用しつつ、日露戦争以後重化学工業が発展します。
 藤田伝三郎は、主として、産業インフラ投資時代に活躍しました。この時代は業種が業種ですので、どうしても政界官界に結びつかざるを得ません。伝三郎も例外ではありません。井上馨と長州閥、そしてそれを通じて政界一般に顔が効いたと思われます。この点では政商です。明治の前半に活躍した経済人で、この意味で政商でなかった人は稀です。そういう点、特に当時の経済界ににらみを効かしていた井上馨と昵懇である点では、渋沢栄一に似ます。渋沢も多くの事業に関係しつつ、彼個人の残した企業としては第一銀行(現在の瑞穂銀行の一部)くらいです。あとは世話、仲介、斡旋、助言、指導などです。伝三郎は渋沢より1歳下ですが、出自は似たようなものです。渋沢の知名度が抜群なのは、渋沢の事業が全国的規模であった事にもよります。しかしなによりも渋沢は旧幕府にも新政権にも出仕し、権力の中枢にいた経験があります。彼が遣欧使節に随行できたのもそのゆえです。ですから伝三郎に比べれば視野は広くなります。ただ伝三郎が高杉に憧れ、また渋沢が尊皇攘夷を唱えて京都に出奔した点の類似などは、興味をそそられます。
 明治12年伝三郎38歳の時、突然警察に逮捕されます。容疑は偽札作りです。当時洋行中であった井上馨の偽札つくりを幇助したという、疑いです。結果は明白な白、無罪でした。偽の通報をした人物は逮捕され、関係した警察陣もそれなりの処分をされています。薩長藩閥間の争いに巻き込まれた可能性があります。伝三郎の事業展開から考えても、彼が偽札つくりをするなどとは考えられません。しかしこの評判は彼の人生についてまわり、彼を誤解させるような像がでっち上げられました。そのせいもあって伝三郎の事跡は、彼の功績の割には、我々一般の人間には伝えられていません。私が彼の名を知ったのはつい1年ほど前のことです。

参考文献  藤田伝三郎の雄渾なる生涯  草思社

経済人列伝、浅野総一郎

2010-05-25 03:24:29 | Weblog
   浅野総一郎

 浅野セメントという会社がありました。業界ビッグ3に入る会社です。平成不況で他社と合同合併して社名は変更されています。私が日本の企業中、浅野の名前で知っているのは浅野セメントのみです。この会社の創立者が浅野総一郎です。浅野の社名はあまり残っていませんが、総一郎のした事業は極めて多伎に渡ります。彼は天性の商売人(というより商売好き)であり、天性の企画者(projector)でした。彼は金融資本には興味がなかったのか、その種の事業には手を出しておりません。そのために恐慌や不況や敗戦というショックの度に彼が創始した事業は他の手に渡ったのではないかと、と思われます。
 浅野総一郎は1848年(嘉永元年)に能登国(富山県)藪田村(現在は氷見市内)に生まれました。生家は村医者です。多分農業を経営しつつ、医業をも営んでいたのでしょう。幼名は泰治郎と言います。姉夫婦が家業を継いだために、近隣の氷見町の町医のところに養子にやられます。養父は厳しい人で、漢方医学の基礎をみっちり仕込まれます。総一郎は無学を自称していますが、8年にわたる養子時代の教育は当時としては相当なものです。医者が嫌で嫌でたまりません。幕末のコロリ流行に際して、当時の医学が全く無力であった事を知り、実家に逃げ帰ります。確かに総一郎のような人間には、地道に臨床に励む医業は向いていません。医業は捨てましたが、偉業は打ち立てます。
 実家に逃げ帰った15歳から総一郎の商売は始まります。栴檀は双葉より芳し、です。まず土地で織られる縮緬を商います。さらに稲こき機のリース業も試みます。土地の産物の商社を作り、また筵販売なども手がけます。成功したり失敗したりの連続です。飢饉に際し越後に米を買いに行きもみだけの空米を掴まされ300両の損をします。この時代彼は新規な試みをしています。親戚知人に出資させ、儲けを配当する、つまり現在の株式会社の手法です。誠に、栴檀は双葉より芳し、です。もっとも総一郎は儲けると、配当を大盤振る舞いするので、結局破産します。
 故郷にいられず夜逃げ同然の形で、東京に出ます。水売りで小金をためます。東京は大阪同様、水質が悪く水が不味いので、こんな商売もできました。竹の皮の販売も手がけます。当時(と言っても昭和20年代までは)味噌や豆腐や肉は竹の皮で包んで販売しました。味噌屋の販売量に応じて竹の皮を調達します。薪(まき・たきぎ)も販売しました。薪の販売には 倉庫が必要でしたが、総一郎は屋根だけの簡易貯薪所を作り、資本の少なさを補います。薪炭商として大を為します。大水に漬かった石炭は使い物にならないと放置されていたのを、上手く売りつけて稼ぎます。(使えないと思うほうが、おかしいですね)横浜ガスという会社が、ガスを取った残りのコ-クスを廃物として放置していました。コ-クスも燃料です。総一郎はこれをセメント会社に持って行き利用させます。また同じく廃物視されていたコ-ルタ-ルから石炭酸を作り、これでも儲けます。石炭酸は消毒薬になります。
 明治17年(1884年)総一郎36歳時、政府から深川セメントを払い下げされます。斡旋したのは渋沢栄一です。会社経営は成功します。上京までの失敗体験で鍛えられていました。薪炭商として有名になった頃、松方財政の方針である官営事業払い下げというチャンスに出会いました。これが総一郎の事業の飛躍の土台になります。
彼の経営の特徴は、一つの事業に留まらず、自然に延長出来る事にはどんどん向かってゆく事、何事にも興味を示し、新規な試みを為す事、当然そこには新技術の積極的採用も含まれます、そして人間関係を大事にし、決断即行とねばりです。だから彼の事業は多伎に渡りました。昭和5年彼が死去した時、直系会社7、傍系会社26、関係会社26、子会社16、総計75の会社に関係していました。ですから彼の事業を概観するのは大変です。時系列によるか、企業種によるか、迷います。後者の方向で考察してみましょう。
 明治24年、総一郎43歳時、ロシアの石油の輸入をイギリスの会社と協同して行います。バラ売りで包装料を節約し、鉄製円筒形の容器を作り石油を運びます。この円筒形の容器は昭和20年代まであり、貨物列車の一部にはほとんどと言っていいほど連結されていました。子供心にもこの風景は印象深く刻み込まれていますが、これが総一郎の発案だったとは今知りました。石油輸入はセメント会社経営の延長上にあります。後に述べますが、セメントは土木事業に必須のものです。彼は港湾を埋め立てて作っていますから、セメント-港湾土木-輸入、という線は自然に繋がります。
 石油の輸入から、さらに石油採掘と精製へと彼の関心は向きます。越後(新潟県)では石油が出ました。すでに群小会社が採掘していましたが、総一郎はそこに乗り込みます。明治31年(彼50歳)、北越石油会社を設立します。石油は出ました。採掘場所である長嶺から柏崎まで鉄管を敷きます。これも全く新しい試みでした。ひょっとすると世界でも最新の試みであったかも知れません。結局石油事業は群小会社の合併に継ぐ合併で、彼の会社もその一部になるのですが、彼の進出が北越地方の会社の動向を左右した事には違いありません。この間総一郎の採掘権内にある青森県で天然のアスファルトがとれました。これにヒントを得て、コ-ルタ-ルからアスファルトを作り、大儲けします。
 明治38年(57歳)原油輸入を思いつきます。当時の石油消費では灯油が一番でした。灯油は外国から輸入します。灯油消費量が1000トン、うち内国産が270トン、外国産が730トン、です。灯油には関税がかかりますが、原油にはほとんどかかりません。総一郎はここに目をつけます。原油を輸入し国内で精製して販売すれば、利益は非常に大きいのです。そのために、保土ヶ谷に精製工場用の土地を購入します。将来の販路を考えて、三菱造船に、重油燃料の機関を持つ13000トンの船を発注します。当時船の燃料は石炭でした。石油の方が安かったのです。また重油燃料の機関は既にありましたが、この機関をすえつけた船はまだ出現していません。結局原油の輸入は失敗します。灯油販売業者の反対と、精製所は危険だという地元の反対、がこの企てにとどめを刺します。
 大正7年(60歳)硫安製造に進出しようとします。ボーキサイトを加熱し、それに硫酸をかけると、硫酸アンモニウム(硫安)ができる事が発見されていました。硫安は人工肥料の代表です。将来の販路も大きい。総一郎はこの分野に進出しようとします。しかし硫安の製造には、多量の電力が必要であり、日本にはまだそれほどの電力供給がないと知り、一応退きます。硫安製造事業には多くの既成企業も関心を示し、競争は激しかったようです。もしこの分野に総一郎が進出しておれば浅野財閥の事業内容は相当に変わり、本格的な重化学工業資本になっていたでしょう。その代わり、日本の電力事業の現状を知った彼は、自ら電力開発に邁進します。
 明治36年(55歳)すでに関東地方の電力開発権を獲得していました。利根川上流の吾妻川や酒匂川上流の山中河内川などです。大正5年(58歳)、故郷の富山県の庄川上流に、水力発電用のダム建設を申請します。背後の山から出る木材運搬を流木に頼っていたので、木材会社から猛反対されます。木材運搬用の道路を造ったり、起重機様の機械での上げ下ろしを試みた後、申請から10年後に工事は着手されます。
 総一郎は多くの築港を手がけています。41歳と言いますから明治21年ごろ、門司近傍13万坪を埋め立て、門司港を大拡張します。門司は北九州から産出する石炭の積出港として期待されました。ちなみに「一坪」は「3・3平米」です。同じ頃彼は横浜築港も手がけています。拡張でしょうね。大正7年(60歳)小樽港を拡張します。小樽は北海道内陸で産する石炭の積出港でしたが、冬の北風が強く、船の安全が保障されません。第一次工事だけで国費217万円が投下されます。水深13m広さ216万坪の範囲で防波堤を作らねばなりません。セメントに火山灰を少し混ぜて、セメントの結合力を強化 するするシルト法などが採用されます。この時工事の技術上の責任者であった広井勇(後、東大教授)との友情は生涯続きます。総一郎は技術者を大事にしました。
 総一郎が行った最大の埋め立て事業は川崎・鶴見間の埋め立てです。彼はこの事業を60歳代になって始めます。作業は20年を要したと言いますから、完成は彼が死去する直前になります。京浜工業地帯は彼によって造られたといえましょう。
 磐城炭鉱は総一郎が36歳の時、手がけました。セメント事業には燃料が要ります。関東に一番近い石炭産出地は常磐地方です。磐城で石炭を掘り出します。それを汽車で港に運びます。始め政府は磐城地方には鉄道を作らない方針でしたが、総一郎が私鉄でも作るというので、その理屈と情熱を受け入れて、鉄道路線を敷きます。
 セメントの原料は石灰です。これは奥多摩地方の山で採掘されます。石灰をセメント工場のある川崎まで運ばなければなりません。青海鉄道を造り、そこから南武線を経て川崎に到達します。このように総一郎は鉄道事業にも進出します。
 セメント及びその原料や燃料を運ぶには船が一番です。総一郎36歳〈明治17年〉、三菱汽船と共同運輸(反三菱連合)の闘争が行われます。総一郎は共同運輸側に立ちます。明治29年(48歳)彼は東洋汽船株式会社を創設します。浅野回漕部の発展したものです。そしてインド航路を押さえようとします。当時すべての航路は欧米の会社に押さえられ、日本の船が利用するチャンスは低く設定されていました。渋沢の忠告に基づき、総一郎はアメリカ航路に進出します。
 総一郎は沖電気の経営にも深く関与しています。もっとも沖電気との関係は妻の縁戚によるものです。浅野の資金は安田善次郎から融資される部分が大でした。総一郎と善次郎は気があいました。安田が貸し付けた浅野系企業は、浅野同族本社、日本鋼管、浅野セメント、沖電気、浅野重工、鋼管鉱業、関東電工、東亜港湾、日本鋳造、長府船渠、奥多摩工業、高炉セメント、両龍炭鉱、日本フ-ム、沖電気証券、となっています。
 戦後の財閥解体で、浅野の名は消えます。浅野セメントは日本セメントになります。平成の不況で秩父小野田セメントと合併し、太平洋セメントになっています。
 浅野総一郎、昭和5年(1930年)死去。享年82歳。
 参考文献 浅野総一郎の度胸人生 毎日ワンズ

経済人列伝、中島知久平

2010-05-22 03:22:28 | Weblog
    中島知久平

 中島知久平といえば、少なくとも戦前においては飛行機王として極めて知名度の高い人物です。知久平は1884年(明治17年)群馬県新田郡尾島町に農家の子として生まれました。14歳、高等小学校を卒業し中学進学を希望ますが、断念します。当時中学校に進学できたのは、村でせいぜい一人あるかなし、というほど稀でした。極一部のエリ-トのみが進学しました。しかし向上心に富む知久平は家業を継いで生涯を過ごすには耐えられません。1902年18歳時、彼は藍玉代金110円を持って、東京へ出奔します。もっとも父親はこの出奔を褒めたそうです。
 知久平は猛勉強します。1日18時間勉強したそうです。陸軍士官学校を志望しますが、身体検査で落とされます。次に海軍兵学校を受けます。不合格。100名定員、1800名受験、知久平は287番でした。当時の普通のコ-スですと、中学校で5年間学び、それから高等学校(旧制)、高等師範学校、医学専門学校、海軍兵学校、陸軍士官学校を受けます。中でも海軍兵学校(通称海兵)は第一高等学校(現在の東大の一部)と並んで難関校でした。中学に行っていない知久平が落ちたのも当然と思われます。海兵に落ち、周囲の勧めもあって、彼は海軍機関学校を受けます。これは海軍の機関科将校を養成する学校で、言ってみればエンジニ-ア養成機関です。機関科将校は軍医や主計将校と同じように技術職ですから、戦闘を専門にする正規の将校からはやや下目に見られ、昇進の限度は中将でした。知久平は第三志望の学校に入る事になります。しかしこの選択が彼の生涯を決定します。なお機関学校入学時の順位は30番、総計38名合格ですから、優秀な成績とはいえません。しかし3年間の学業を終えて卒業した時、知久平は3番でした。
 1907年23歳時、機関学校を卒業します。二等巡洋艦明石、同じく石見(日本海海戦で捕獲した露艦アリョ-ル)、そして戦艦薩摩などに乗り込み航海します。薩摩は日本が始めて造った戦艦です。1910年、一等巡洋艦生駒は日英博覧会を祝して、英国に親善訪問の目的で派遣されます。知久平は生駒の乗務員でした。艦がポ-ツマスに寄航した時、知久平は強引に2週間の自由行動を求めます。当時の航空機技術の本場パリを見るためです。卒業3年後には、飛行機という新しい技術に強烈な関心を持っていたことになります。まるで太平洋戦争の帰結を予想しているがごとき行動です。
 1911年海軍大学校選科に入り1年勉強します。選科ですから自由研究をしてもかまいません。知久平はこの間、ドイツ語と英語の航空機に関する文献を読み漁ります。海軍大学校は陸軍大学校と並んで、士官の再養成のための学校です。ここに入れたこと自体、知久平の関心が海軍において承認されまた期待されていた事を照明します。
 1912年海軍は、アメリカとフランスに、航空機の操縦術及び生産技術習得のために、数人の将校を派遣します。知久平はアメリカに行き、カ-ティス海上飛行機を研究します。ついでに操縦術も学び、免許も獲得し、アメリカ飛行協会会員になります。彼はアメリカのフォ-ドシステムを見て、感嘆します。1913年知久平は横須賀鎮守府航空術研究委員になり、さらに海軍自身による飛行機製造に携わります。この時フランス機モーリス・ファルマンの改造型を飛行機工場長として製作しています。1914年造兵監督官としてフランスに派遣されます。もちろん航空機研究のためです。この年1914年、第一次世界大戦が勃発します。初めて航空機の戦闘が行われました。日本は山東半島の付け根にある青島(チンタオ)のドイツ軍基地を攻めます。この青島攻略戦が日本の航空機戦闘の初体験です。当時爆撃は次のように行われました。10cmくらいの砲弾にひもをつけて運び、目的地に着いたら、ひもを切断します。初期の爆撃はそんなものでした。1915年、知久平は造兵廠検査官になり、中島式複式トラクタ-という改造機を造っています。1917年知久平は海軍を退職します。極官は大尉でした。この時「退職の辞」を書いています。その主旨に従えば、英米に比べて国力の劣る日本は大鑑巨砲に頼るより、軽便な航空機を戦略の軸にすえるべきであり、また航空機生産は(より一般に生産そのものは)国営より民営の方がいい、ということです。
 1917年群馬県太田市の近傍に、知久平は飛行機研究所を作ります。東武鉄道旧博物館跡地に工場を作り、航空機生産を開始します。ところがちょうどその頃東大にも同名の研究所ができ、知久平はやむなく中島飛行機と改名します。創業時の主要人員は以下の通りです。
  奥井定次郎  横須賀田浦造兵部
  中島門吉   一族
  佐久間一郎  横須賀海軍工廠造機部
  佐々木源蔵  盛岡工業学校卒 
  石川輝次   陸軍砲兵工廠
  栗原甚吾   東北帝大機械科卒 横須賀海軍工廠造機部
 会社設立のための出資は関西の実業家である川西清兵衛から出ました。川西も航空機産業には並々ならぬ関心を抱いており、腹心を会社中枢に送り込み、また職人の一部には航空機生産技術を習得するべく指令していました。出資金は知久平が15万円、川西が50万円、他が10万円、総計75万円でした。知久平が技術を提供し、川西が資本を、という構図です。やがて両者は袂を分かちます。原因は経営方法の違いです。知久平は利益より品質です。この方針が経営の合理性を重視する川西とあいません。川西と決別後、知久平は他の出資者をみつけて、経営を続行します。なお川西清兵衛が以後航空機生産を断念したわけではありません。彼は彼で川西航空機製作所を立ち上げ、関西を中心に工場を作り経営を広げます。飛行船二式大艇や局地戦闘機紫電あるいは紫電改が有名です。なお日本における民間飛行機製造は知久平や川西が最初ではありません。1916年に岸一大が試みています。だいたい三者とも同時期です。ライト兄弟が最初の飛行に成功(飛行時間は59秒)したのが、1903年でした。その10年後には日本で航空機メ-カ-が三つも誕生しています。欧米も同様です。1919年にはフランスの、1921年にはイギリスの飛行使節団が来日しています。
 1920年陸軍から100機の大量注文があり、経営は軌道に載ります。以下中島知久平が携わった(設計した)飛行機を列挙します。
中島式五型練習機、陸軍二型滑走機、陸軍甲式三型練習機、陸軍甲式二型練習機 陸軍甲式四型戦闘機、中島N35試作偵察機、中島式ブルドック型戦闘機
 中島九一式戦闘機(以上陸軍機)
 海軍横廠式ロ号甲型水上偵察機、海軍アブロ型練習機、海軍ハンザ式水上偵察機
 中島式ブレゲ-水上偵察機、海軍十五式水上偵察機、海軍三式艦上戦闘機、海軍九0式二号水上偵察機、海軍九0艦上戦闘機、試作六試艦上複座戦闘機、試作六試艦上特殊爆撃機、試作七試艦上戦闘機、試作七試艦上攻撃機、中島式一型複葉機、中島式三型複葉機、中島式四型複葉機、中島式五型複葉機、中島式六型複葉機、中島式七型複葉機、中島式B-6型複葉機(以上海軍機)
以上はすべて知久平が中島飛行機に直接関わった時代の作品です。以後彼は政界へ転身
します。1930年台特にその後半に入り、日本の航空機製作技術は急進します。その
代表例が中島飛行機製作による零式戦闘機通称ゼロ戦です。ただし中島飛行機が作った
のは発動機(エンジン)で、機体は三菱重工業の製作になります。両社の合作と言えま
しょう。航空機生産では三菱と中島が両横綱、他に川崎航空や川西航空がおおどころです。
 1930年恩人の代議士武藤金吉が急逝します。選挙区民は知久兵を候補に担ぎます。彼自身は政界への転身は嫌でした。少なくともその当時は。やむなく政友会から立候補し、当選します。犬養内閣で商工政務次官になります。知久平はこの時「昭和維新の指導原理と政策」という所見を発表しています。主旨は、反資本主義、国家主導による事業推進、反政党、皇室中心主義です。不況のどん底でした。中島は皇室を中心として国民が団結し、新しい産業を起こそう、と主張します。岸信介達革新官僚や永田鉄山・東条英樹達統制派陸軍官僚、さらには北一輝などの思想とあい通じます。
 1937年第一次近衛内閣の鉄道大臣になります。1939年には政友会の分裂騒ぎに際して一方の総裁に担がれます。やがて大政翼賛会が作られます。知久平は翼賛政治には賛成でした。終戦、東久慈宮稔彦王内閣の商工大臣になり敗戦の詔書に副署します。
中島飛行機は1945年4月(敗戦の4ヶ月前)第一軍需工廠に指定されます。会社の総資産は、土地建物、機械装置、特許権、その他の構築物を含めて約5億円と見積もられ、これを国家が賃貸する形になります。社長は知久平で、日常作業は変わりませんが。敗戦と同時に元に戻されます。1945年8月17日中島飛行機は富士産業株式会社に社名が変更されます。知久平はA級戦犯の容疑で取り調べられます。持病の高血圧と糖尿病が悪化していたので巣鴨行きは免れ、自宅で取り調べられます。容疑は晴れます。1949年(昭和24年)脳出血で死去。享年66歳でした。
 知久平の生き方を見ていると、将来の方向を定めて首尾一貫している事に気付かされます。20歳で海軍機関学校に入り、23歳で卒業。任官して、3年後には航空機への関心を鮮やかに実行し、それが海軍に認められて海軍大学選科で1年勉強。それ以後の5年は海軍部内で航空機専門で通し、33歳であっさり退任し、民間企業経営へ、と学校卒業後の10年間を無駄なく過ごしています。代議士になった時も、自らの所信と日本と世界の政治の進路を予想します。受験勉強をする時も、会社を作った時も動揺です。まず展望を持ち、予想し、それに従って行動します。
 飛行機製作事業に果敢に挑んだ時、当然リスクはあったのでしょうが、彼の行動はそれもあまり感じさせません。確かに大事業ではありますが、当時の航空機の需要は殆んどが、軍需です。政府が買ってくれます。またなによりも軍需では価格より品質が要求されます。しっかりした技術があり、政府とのコネがあれば、競争は必ずしも苛烈ではありません。政府自体がその種の過当競争を嫌います。需要の大元は戦争という無限破壊競争ですから、作れば作るほど売れます。中島も三菱も終戦時には従業員がそれぞれ20万名を超えていました。しかし両社とも敗戦でぼつです。日本の重工業は戦後大いに復興しましたが、航空機産業だけは別で、航空機の生産は禁止されました。この影響はまだ残っていて、先進国で自前の戦闘機を持てない国は日本だけです。ドイツも同様でしょうか?

  参考文献  中島知久平     日本経済評論者
        日本産業史(1)  日経新聞社

経済人列伝・本多光太郎

2010-05-19 03:25:09 | Weblog
     本多光太郎

本多光太郎は超強力磁鉄KS鋼の発明で有名ですが、この件は彼の業績の一部であって、彼の日本産業への貢献は、製鉄冶金の技術の確立にあります。江戸時代まではたたら製鉄という原始的な製鋼法がすべてでした。ペリ-来航により刺激を受けて、江川秀龍や大島高任などの有志が新しい西洋方式の製鉄に挑戦します。維新になり政府は釜石製鉄所を作りますが、上手く行きません。大阪造兵工廠、東京海軍兵器局、横須賀造兵工廠などは兵器生産の関係から、上質の鉄を必要としていましたが、結局その需要はクルップなどの外国からの輸入で賄われていました。
 本多光太郎は1870年愛知県矢作町の豪農の家に三男として生まれます。父親は早く死に長兄が家督を継ぎます。光太郎は小学校時代、成績はあまりよくありません。高等学校卒業後3年間農業に従事します。本来なら進学できないところ、次兄の世話で東京にのぼり、神田駿河台の成立学舎に通い、一高に合格し東大理学部物理学科に進みます。これが24歳の時の事です。東大では長岡半太郎の指導を受けます。光太郎の関心事は磁気歪と地球物理学でした。37歳、東北大学設立予定と同時に、東北大学理学部教授に内定され、ドイツに留学します。ドイツでは主としてゲッティンゲン大学で研究しました。この間当地で「元素の磁気係数と温度との関係」という論文を発表しています。この研究テ-マは彼の後年の仕事の方向を決定したといえます。41歳帰国して予定通り東北大学理学部教授に就任します。
 この時から光太郎の本格的活動が始まります。彼は徹底した頑張りやでした。深夜におよぶ研究はざらでした。(本来研究とはそういうものだと思いますが)ために他の研究室から土方仕事と言われ研究員が悔しい思いをした事もあります。もっとも研究の機軸は努力です。そいう活動の成果が実り、1916年、彼46歳の時、KS磁石鋼を発明します。これは世界で一番強力な磁性を持つ鉄鋼でした。合金です。その構成は、
   タングステン 6-8%
   クロム    1-3%
   コバルト   20-30%
   炭素     0.7-1.5%
   鉄      残りすべて
です。この間東北大学に臨時研究所が設けられ、光太郎は所長になります。この研究所は後に、鉄鋼研究所、さらに金属材料研究所になります。当時帝国大学で研究所を持っていたのは東北大学だけ、それもこの研究所だけでした。学会誌も発行します。講演会も行います。特に講演会は好評でした。というのは、当時の製鉄製鋼技術の水準は低く、経験と勘に頼るところが多く、製品の出来具合はまちまちで信頼できないものが多かったのです。
 光太郎は偶然にKS鋼を発明したのではありません。鉄を熱したり冷却したりすると、磁力が急増した急減したりします。また発熱したり吸熱したりもします。さらにまた熱膨張の程度が急変することもあります。磁力、発熱、膨張などの現象は、鉄の内部における分子配列の変化を意味します。それまでの製鉄では、手で触ったり、せいぜい顕微鏡で表面を見て、鉄の内部構造を推定するくらいが関の山でした。鉄の磁性、発熱量、膨張を実験的に観察すすることにより、鉄分子の配列をより詳しく推定し、用途に応じた鉄を作りやすくなります。鉄の焼入れや焼き直しなども、科学的に行えるようになります。つまり光太郎の研究は、一素材を開発するだけでなく、当時の技術と理論の範囲内で体系的に、新たな性能を持つ鉄鋼を製造する事が、より可能になったことを意味します。
 光太郎が帰国し教授になった1911年(明治44年)は日本の産業の展開にとって重要な画期でした。日露戦争が終わった頃から、日本の産業革命は第二期に入り、重化学工業が発展し始めます。重化学工業の基軸は鉄鋼生産です。そして重化学工業の発展を一番熱望したのは軍部でした。ですから本多光太郎は日本の重工業と軍需工業の発展に極めて重要な貢献をした事になります。KS鋼発明前後から、新しい工業技術が開発されて行きます。以下の通りです。
  1914年 猪苗代湖に水力発電所完成 長距離強電送電技術開発
  1916年 黒田式コ-クス製造法の開発
  1921年 梅津常三郎 満州大弧山の貧鉱処理法開発
  1929年 増本量 超不変鋼発明
  1932年 松前・篠原 無装荷ケ-ブル発明 長距離通信が可能に  
1933年 本多光太郎 新KS鋼発明
  1938年 住友金属 ESO合金(超超ジュラルミン)開発 
このようにして日本の重工業と軍事技術は短期間に欧米の水準に迫るところまで行きます。ただし鉄鋼生産力は欧米に比べてなお貧弱でした。1940年の時点で、
  アメリカ 6000万トン
  ドイツ  1700万トン
  イギリス 1200万トン
  日本    700万トン
でした。これで戦争に踏み切ったのですから大したものです(?)
 光太郎の研究所設立には住友財閥が大きく貢献しています。1915年それまで銅一筋でやってきた住友は、新たに住友鋳鋼所を設立し特殊合金製造に進出します。その時住友は光太郎に接近し助言と指導を請うとともに、30万円を研究所に寄付しています。KSとは住友財閥の当主である住友吉左衛門のイニシアルを取ってそう名づけたとのことです。
 またトヨタは自動車製造に踏み切るときに、日本国内で必要な素材が集まるか否かを光太郎に相談しています。光太郎は大丈夫と答えています。
 光太郎の性格は頑張りやで人情家でした。研究室を見て周り、研究者の指導にいそしみ、多くの弟子を育てました。もっとも家では専制君主であり、この傾向は教室運営にも反映され独善的な傾向もありました。
 本多光太郎の冶金学は古典物理学の成果の結集の結果だと言えます。彼がドイツに留学した頃には、すでに量子力学の主要概念は出始めていました。ボ-アの原子模型、プランク定数、ハイゼンベルクの不確定性原理などなどです。磁気一つをとっても、分子内磁気を認めるか否かの問題があります。光太郎は、磁気は分子間の摩擦によるという考えを捨てず、仁科芳雄と激論になりました。私は物理も工学も素人ですが、マックスウエルの電磁方程式を素直に解すると分子の内外を問わず磁気も電気も存在する、という結論は容易に出るとは思いますが。
 61歳東北大学総長になり10年間務めます。戦後公職を追放されます。1949年79歳の時、東京理科大学学長を委嘱され、これを受けます。1954年84歳死去。

 参考文献  本多光太郎 吉川弘文館

経済人列伝、高峰譲吉

2010-05-16 03:53:53 | Weblog
     高峰譲吉
 高峰家は越中(富山県)高岡で代々医業を営む家でした。譲吉の父親元陸は京都で蘭学を学んでいます。その能力が認められて、加賀前田藩に医師としてまた、化学者(舎密学-セイミガクと言いました)として抱えられます。身分は御典医ですから上級武士の待遇を受けます。元陸はさなぎの死骸と切草を混ぜて発酵させ、火薬の原料である硝石を作りました。この手法は子である譲吉にも受けつがれたようです。
 譲吉は1854年(安政元年)金沢の城下で生まれます。14歳選ばれて、長崎に留学、3年間英語をみっちり教えられます。金沢に帰っている間に、幕府は倒れ新政府ができます。譲吉は京都で兵学塾に学び、さらに大阪医学校そして大阪舎密学校に通います。ここで化学の面白さを体験し、医師になることを放棄します。19歳東京に出て、工部省工学寮に入ります。この施設はやがて東京帝国大学工学部になります。譲吉も20歳で入学し、26歳、卒業します。この間西南戦争が起こります。熊本城にこもった官軍と城外との連絡に軽気球を使う案が起こり、譲吉が試作品を作ったという言い伝えもあります。
 1980年(譲吉27歳)イギリスに留学し、グラスゴ-大学とアンデルソニアン大学で工芸化学と電気応用学を学びます。3年後帰国、農務省工務課に務め、和紙、製藍、日本酒醸造などをテ-マに研究します。
 1884年(31歳)ニュ-リンズの博覧会で、ノ-スカロライナ州から出品されていた燐鉱石が肥料として有効な事を知り、帰国後燐酸肥料製造の要を説いて廻ります。譲吉の努力の結果、渋沢栄一、益田孝、浅野総一郎、大倉喜八郎などの財界大御所を中心に東京人造肥料株式会社が作られ、譲吉は実務責任者として、この会社の経営に携わります。一方自家製薬所を造り、清酒醸造などの研究も行います。32歳特許局次長。また燐鉱石の件でアメリカを走り回っている中、ニュ-オリンズでキャロライン・ヒッチを見初め、婚約し、3年後に結婚します。
 1890年(37歳)高峰元麹改良法で特許を取ります。同年アメリカのアメリカン・ウィスキ-・トラスト社長グリ-ン・ハットから依頼され、渡米してウィスキ-醸造の改良に務めます。譲吉は発芽大麦(モルト)で発酵させていた手法から、日本酒醸造に使う麹(こうじ)を使う方法に切り替えて研究します。約束どおりの結果を出しますが、新しい製法に反対する企業家や職人の反対運動に手を焼きます。研究所が火事にあいます。放火の可能性が濃厚です。研究が成果をあげると、譲吉はすぐ高峰醸造株式会社を作っています。特許を護るためです。この会社はやがてシカゴからニュ-ヨ-クに移り高峰研究所になります。東京人造肥料会社の実質的責任者である彼が渡米する事に、譲吉は後ろめたさを抱いていました。渋沢と益田に相談します。両人は譲吉の渡米に賛成します。渋沢や益田にすれば、譲吉は新興日本の宣伝塔のようなものでしょう。ちなみに益田孝は三井財閥の大番頭でした。益田に関しては後に取り上げます。
 1894年(41歳)強力消化酵素タカ・ジャスタ-ゼの製造に成功し特許を取ります。3年後アメリカの製薬会社バ-ク・デ-ビスからタカ・ジャスタ-ゼが発売され、譲吉は世界的名声を博します。同時にバ-ク・デ-ビスの技術顧問に納まります。契約では、バ-ク・デ-ビスの販路から日本は除かれます。譲吉は日本で三共製薬を作り、その初代社長に納まります。三共製薬は現在日本でも五指に入る代表的な製薬会社です。社名は変更されているかも知れません。この間グリセリン復元の研究も行いますが、部下と契約会社の背信にあい不愉快な目にあいます。特許は高峰のものになります。元特許局次長であり米英での滞在経験が豊富なので、こういう点には抜かりありません。
 譲吉は当時発見されていた内分泌器官、特にその代表である副腎から分泌されている物質の抽出に取り組みます。すでにアメリカとドイツでこの試みは実行され、部分的には成果をあげていました。譲吉は日本から東京帝大から上中啓之を助手として招き、共同で研究します。1901年(47歳)、努力が実って譲吉はこの物質の単離に成功し、翌年ジョンス・ホプキンス大学で発表します。物質はアドレナリンと名づけられます。アドレナリンは血圧を上げ、止血効果があり、当時の手術には欠かせなくなります。またこの物質は単に応用範囲が広いというだけでなく、生体内でも機能は極めて多伎ですから、医学生物学の研究にも欠かせません。アドレナリンは同じくバ-ク・デ-ビス社から発売されます。
 1905年〈52歳〉ニュ-ヨ-クで日本人クラブを作り、初代会長になります。この時譲吉の提案で、個人会員制ではなく法人会員制にしました。外交官、企業駐在員、留学生などが、在米日本人の主なところですが、彼らは期間が過ぎたら日本に帰ります。これでは会員が増えないので、こういう提案をしました。日本人クラブの設立は、彼が日ごろから考えていた非公式外交(民間外交)推進の一部です。譲吉は38歳で渡米してから死去するまでの30年間生活の本拠はアメリカです。時々帰国するくらいで、彼の活躍のほとんどはアメリカでした。ですから彼の存在そのものが日米親善です。譲吉も意図してそうふるまいました。特に日露戦争に際して、金子堅太郎とともに、アメリカの世論を親日に導いた功績は特記するべきでしょう。当時彼は相当な富豪になりつつありましたから、各地でパ-ティ-を催します。そこへ羽織袴ででかけスピ-チします。アメリカは移民の国ですが、露系移民に比し日系移民は少なく、ほっておけば世論はロシアを声援したかもしれません。
 1913年一時帰国し、渋沢達と共同して、国民科学研究所設立を提唱します。科学立国の宣言です。目先の利害効用よりも基礎研究の重要性を説きます。提案は3年後理化学研究所の設立で実現します。皇族を総裁に抱き、渋沢が主宰し、学会の大物である山川健次郎や菊池大ロク、そして三井八郎衛門、岩崎小弥太、安田善次郎などの財界主要人が名前を連ねています。譲吉も理事になります。理化学研究所(通称理研)に関しては大河内正敏の項を見てください。
 1921年、68歳、譲吉はニュ-ヨ-クのレノックス・ヒル病院で死去します。死因は腎臓と心臓の疾患でした。譲吉の死去には、偶然訪れた渋沢栄一が立ち会うことになります。渋沢は人造肥料会社設立以来終生の友人です。譲吉の死を悼んだ記事はかなりありますが、その内からニュ-ヨ-ク・タイムスの記事を一部引用しましょう。記事は譲吉の科学研究への貢献と日米親善に尽くした功績を称揚しつつ、死に立ち会った渋沢にも触れ、「---彼のもとに客として滞在していた渋沢子爵は、そのむかし、わが国から初代駐日公使として赴任したタウンゼント・ハリス氏の身辺を護衛した若き武士であった---」と書いています。
 譲吉が残した遺産は半端なものではありません。当時の米貨で3000万弗、現在の日本円になおすと6兆円になります。まことに、知は財なり、です。この時代自分で研究し、産をなす人は数多いました。エディソン(GEの始祖)しかりフォ-ドしかりです。多分ジ-メンス、クルップ、ダイムラ-もそうでしょう。
 譲吉の研究の方向は一貫しています。基本は清酒醸造法の改良です。彼の故郷金沢は北越にあり、酒どころです。そして明治初期における醸造は日本の代表的な製造業でした。この分野での資本蓄積は当時の日本の資本主義の発展のためには無視できないものでした。譲吉はこの分野の研究を開始し、ウィスキ-醸造から、酵素そのものへの研究に進み、タカ・ジャスタ-ゼを発見し製造します。タカ・ジャスタ-ゼがどの程度単離されたか知りませんが、生体内で化学反応を実際に演じる物質を抽出したことは、科学全体の次元で見ても大きなものです。そして彼はすぐ当時の最新研究の焦点であったアドレナリンに向かいます。酵素抽出の手法を応用したはずです。アドレナリンは酵素に比べて単純な構造を持っています。そして生体内部での機能は極めて重要です。だからアドレナリンは生物学と化学を結合する重要な結節点になります。アドレナリンを単離する事は、アドレナリンの結晶構造を突き詰める事です。当時生体内の反応は少しづつ解明されていましたが、体内で機能する特定の物質を単離することは難しいことでした。他の物質が譲吉以前にこのように明確な形で単離された例を、私は知りません。彼の業績は生命科学にとって画期的なものです。ある重要な機能を持つ物質の単離と同定という点では、同時期にキュリ-夫妻により発見されたラジウムと同じ、科学上の価値を持ちます。
 譲吉の手法は、科学と産業技術の結合です。基礎科学をおろそかにせず、同時にその産業化を常に心がける、のが彼の信条でした。こうして譲吉は偉大な功績と同時に莫大な資産も残しました。私は彼の名もタカ・ジャスタ-ゼも小学校時代から知っています。しかしその割には日本では知名度が低いなと、思います。伝記を読んでいて、人生の後半はすべて在米生活です。なるほどな、と思います。

 参考文献
  高峰譲吉  ポプラ社
  20世紀日本の経済人(1) 日経新聞社

内需拡大、成長戦略、福祉工学

2010-05-09 03:31:11 | Weblog
      内需拡大、成長戦略、福祉工学

 内需に関して考えてみました。これからの内需はサ-ヴィス業の発展にあるとも言われています。しかしサ-ヴィス業務とは単なる対人関係内の操作でしょうか?体系的に考えて見ましょう。製造業は単に物(TVや自動車などの単品)を製造するだけではありません。それら物を組み合わせたシステムも作ります。工場そのものなどがプラントとして輸出される事もあります。道路・橋梁・港湾建設なども海外で製造(建設)できます。新幹線、リニヤ-モ-タ-カ-、高速道路、そして他の交通システムもあります。トルコのボスフォラス海峡を跨ぎ、欧州とアジアを結ぶ橋は日本の熊谷組が建設しました。瀬戸・鳴門大橋は日本のすぐれた製造業と建設業の成果です。
この辺は序の口、もう少し未来志向で見てみましょう。太陽発電とLD発光を結びつけた植物工場があります。太陽光発電とそれを蓄積する電池がもう少し発達すれば、植物性の食物は工場で作ることも可能です。こうなれば土地の面積は必ずしも重要ではありません。建設技術如何では10階建て・20階建ての植物工場も出現します。それに海洋における養殖を組み合わせると、魚類も遠洋まで取りに出かける必要はなくなります。
水ビジネスがあります。汚れた水の処理が必要です。この技術において日本は非常に優れています。さらに廃棄物の処理もシステム化されるべきです。実際日本では過去の蓄積があるので、鉄や銅そしてアルミなどを海外から輸入する必要性は少なくなっています。くず鉄などの再利用で間にあうのです。緑化ビジネスもあります。巨大な市場を見込める、うま味のある業種です。
将来交通事情、特に東京、大阪、名古屋を中心とする大都市圏の交通は根本的に変わるでしょう。大量輸送は電車バスなどの公共交通に任せるとすれば、車による移動距離は少なくなります。かといって車そのものが不必要になるとはいえません。現在路上を走行している大きな車ではなく、自転車かバイクを少し大きくし、1-2人乗りで、最大速力40km、短距離走行用の、超小型車で充分になります。充分であるだけではありません。高齢者にとっては絶対必要な物になります。ちょっとそこのス-パ-に買い物に行くためにはこの種の移動機関が必要です。将来の交通システムは大量輸送と短距離走行の組み合わせになります。こういう観点から都市の交通システムを根本的にスクラップ・アンド・ビルト、すればいいのです。
以上は機械や物のみのシステムです。ここで本論の主題である、福祉工学を考えて見ましょう。福祉工学とは人と物の組み合わせです。福祉の主軸である、教育、医療、介護を例に取ります。
端的に言います。現在の教育量を2倍にしましょう。別に3倍でもかまいません。具体的には学校数と教職員数を倍にします。他の設備や要員もそれにつれて倍増します。簡単で大雑把な計算をしてみます。私が住んでいる隣町に豊中という市(大阪府)があります。人口は50万から60万人、市内にある学校は小中学校と高等学校だけで60以上になります。つまり人口1万人に一個の割合で学校があるのです。この計算を日本全体に広げると、12000個の学校があることになります。学校一つを建設するのに、100億円要るそうですから、教育量を倍にすれば、すなわち20人学級にすれば、新しい学校建設だけで120兆円の建設需要が見込めます。また豊中市の教員数を基準として考えれば、教員の増加数は少なくとも30万人以上になります。
学校という箱物、教職員という人間が増えるだけではありません。教育内容を充実させましょう。視聴覚教育を充実させます。理科の設備もけちけちせずに増やしましょう。実験設備、化学薬品なども充分に供給します。社会科の見学用にはバスを多用して大いに出かければ宜しい。音楽や図工の教育も視覚化、立体化、具体化するべきです。音程や和音の教育にはそのための設備が必要です。社会化も同様です。イタリアのシスティナ聖堂の内部やニュ-ヨ-クの市街を教室にいて、見られたらなんと素敵でしょうか。宇宙の構造や人体の発生などを動画で見れば、自然への感動は大きくなります。学問の出発点はなによりもこの種の勘当です。源平の合戦や平安王朝の生活などは、動画にして見せればよろしい。数学の教育だって、十年一日のごとく、黒板に数式を描くのではなく、IT技術やプロジェクタ-を使って、シミュレ-ションを駆使して、もっと面白く解りやすくできます。給食も同じ、中央管理センタ-で作り、それを暖かいまま教室に運ぶシステムも可能なはずです。他校の授業を見聞することも、動かずに可能になります。大阪にいて東京の学校の授業を聞くこともできます。沖縄や北海道のことなど、現地の学校の授業を聞いたほうがよく解るはずです。生徒同士の遠距離間討論も可能です。外国の学校との交流も盛んにできます。会話の実習にもなります。
これらの投資は莫大なものになります。別に教育をこのように充実してはいけないことはありません。要は人と物を同じシステム内に繰り込んでしまう事です。更に付言すれば学校の敷地の問題もあります。地価は上がります。上がった方がよいでしょう。このように教育を充実拡大するためには、制度の一部を変える必要があります。教職課程を簡単にし、教員免許を取りやすくすることが必要です。大学を出たのなら、一定の試験と若干の実習体験で教員資格を与えるのが賢明です。この方が、雇用の流動性が増し、教員の質も向上します。
医療の問題ではどうでしょうか。ここでも医師と看護師の数を倍加します。他の職種の数も同様です。当然病院や医院の数も倍になります。医療は教育以上に機械と物をたくさん必要とします。ペットやMR、CTなど高価な機械はどんどん揃えればよろしい。薬が開発され効くとなれば大いに使いましょう。検査をけちけち制限する必要はありません。患者の苦情受付、助言、管理などはもっとシステム化すれば能率よくできます。患者の搬送も同様です。夜間の巡回などは、一々人間が行うのではなく、ロボットで充分なはずです。得られるべき必要なデ-タを入力しておけば、大体のことはわかります。後の残りの特殊部分が人間の役割です。こうすれば看護師の疲労も軽減され、30歳を過ぎたら看護師免許はたんす入りという事態は避けられます。食事に関しては学校と同じです。病人用にもっと美味しく、暖かくて食べやすい、必要な栄養を含んだ病院食を開発できるはずです。さらに病院医院と患者の家をオンライン化すれば、緊急の事態に備えられます。救急に関しても同様、もっと効率よく運営方法を考えるべきです。
医師や看護師、ケ-スワ-カ-や臨床心理士、薬剤師、検査技師が必要なのは病院だけではありません。保健所の数も増やし、そこに充分な人員と装置を配備すれば、予防医学は進歩します。学校や企業などに必要な医師等の数も増やせばいいのです。介護施設への医療関係人員の配置についても同様です。刑務所の医療は改善する必要があります。またここでも教育に関していったのと同じ事がいえます。むやみと専門家を作らないことです。医療行為が充実するためには、一人の医師の目の届く範囲が一定以上である必要があります。狭い範囲に専門を局限すれば、総合的には医師の診断能力は落ちます。専門家であるかないかは、利用者である患者さんの判断に任せたらいいのです。すでにネットで病院の医療実績は公示されています。良い医者、良い病院と聴けば、患者さんは駆けつけます。むやみと専門化細分化すれば医師の労働力の流動性を妨げ、不能率な医療になります。また医師の職務の一部は看護師等に委譲すべきです。その方が医療行為を効率化できます。医師しか出来ない事を医師は行うべきです。どこに線を引くかは、状況々々によります。
介護はハ-ドな仕事です。老人という半分壊れかかった人間の心身の面倒を見なければなりません。なにより肉体労働であり、40歳を過ぎれば現場の仕事はできないとも言われています。(この点は保育も同じ)加えて利用者(老人とは心理的に扱いにくいものです)やその家族への神経も使います。心身の疲労が相乗して、介護ストレスが生じます。人員を倍増し、機械で出来る部分を増やし、余力は利用者の心と生活のケアに回しましょう。食事介助はともかく、入浴・搬送・排泄援助などは機械化できます。ロボットを使います。備品管理、施設の維持管理もロボットでできます。夜間の監視に関しては病院について言ったのと同様です。ロボットで充分です。在宅利用者との連絡はオンライン化できます。後は現場の人達で考えてください。まだまだ改良の余地はあるはずです。効率の良いシステムに仕立て上げましょう。
福祉工学の目的は、人的資源と機械装置を組み合わせ統合して、一つのユニットにまとめて仕上げる事にあります。この方が効率は上がります。人間自身の労働には余裕ができます。繰り返しますが、人間と機械を組み合わせたユニットの形成、が眼目です。
教育、医療、介護においてこれだけ、人員と設備を増やせば、そのための経費はどうなるのか、という問題が生じます。人員が増えれば雇用も増えます。諸種の機械製造開発は製造業を賦活します。生産が増大すれば、景気はよくなり税収は増加します。(医療や介護の保険も税金みたいなもの)保険財政の赤字云々に悩む必要はなくなります。
財源はどうする?原則的には国債発行で充分です。国債が民間資金需要を圧迫しそうなら、国債を日銀に買わせればいい。いっそのこと始めから国債を日銀に引き受けさせて、流通貨幣量を増加させ、それをもって政府が以上にのべた福祉工学を先導する事が肝要です。金がないから増税し予算を縮小して、健全財政にもっていってから云々ではまだるこしいのみならず、成果は上がりません。何もできません。よくて現状維持、多分デフレが亢進するでしょう。
簡単な経済学的考察をしてみましょう。日本国内が不況にあるとします。失業率は高くなります。遊休労働力を今述べた、教育・医療・介護にまわします。教育等福祉の質は向上します。経済学上の術語を用いれば、コモディティ(commodity、便益)が増大します。つまり価値が創造されるわけです。GDPが増加すると思ってくださってもかまいません。それだけでそれなりの価値があるのですが、ただそれだけではもったいない。なによりもサーヴィスの水準があまり上がりません。
だからそこに機械をぶち込み、機械と人間を組み合わせます。サーヴィスの水準は飛躍的に向上します。機械と組み合わせる事により、福祉業務の内容は高度化します。ただし以上の過程において、貨幣流通量は、雇用増加に比例して増加させるとします。
福祉を仮に、人間の労働だけで行うとすれば、雇用は一定の段階で頭打ちになります。雇用の増大は必然的に輸入の増加を伴います。他の条件が変わらなければ、製造業の内需は増えますが、輸出競争力は変わらず、ですから輸出でもって輸入の増加に対処する事はできません。ではこの種のサ-ヴィス業を輸出できるかと言いますと、人間の集団のみを輸出する事には、文化摩擦などの困難が伴います。
しかし私が述べた福祉工学は、人員と機械の組み合わせです。福祉と同時に製造業をも賦活します。そして福祉工学が要求する機械装置は複雑なものが多く、新しい需要も開発されます。早く走る自動車より、排泄を補助する装置の方が明らかに複雑な機械です。さらに福祉工学は人間と機械の組み合わせですから、この組み合わせ自体が高度なものになり、習得には時間と経験が必要になります。簡単には模倣できません。複雑で高度に統合された福祉工学ユニット、これは輸出できます。日本が輸出大国になる必要はありませんが、一定度の輸出能力は必要です。内需が拡大すればするほど、輸入は増えます。その分輸出で埋め合わせしなければなりません。一定度の出超は、日本が他国に必要とされているという証です。
福祉工学に必要な機械設備は高価なものでしょうか?決してそうはなりません。大量に生産すれば価格は低くなります。
現在、日本の産業は転換点にあります。家電、自動車、IT機器などの販売は国内では限界に達しています。だからこれらの産業は輸出に出口を求めたり、海外への資本投下に活路を見出そうとします。それはそれで構いません。しかし福祉を工学と組み合わせると、全く別種の需要が開発でき、新たな製品が出現します。個々の単品を人間の活動にあわせて組織的に配備したシステムを生産する事が可能になります。これは今までの製造業の製品とは異なる、別種の製品であり、簡単には真似できないものです。工学に福祉が絡む事により(工学が生活の中に進出する事により)新たな需要がどんどん開発されます。
このような観点から福祉工学を大胆に押し進めるべきです。そうする事によって日本の産業構造を世界に先駆けて変革しましょう。なによりも、現在が産業構造の転換点であるという認識を政府がもって、強力に指導する事が重要です。
福祉工学は、工学でもって福祉生活を掘り下げ、コモディティ-を発掘し、需要を喚起する、新たな手法の産業です。生活が科学技術により深化される限り、需要は発生します。

外国人参政権と夫婦別姓

2010-05-05 03:30:41 | Weblog
      外国人参政権と夫婦別姓

 外国人参政権と夫婦別姓という、二つの問題は一見別種の事項のように見えますが、両問題は密接な関係にあります。前者に関してはすでに多くの識者から批判の声が上がっているので、ここでこの問題について詳述する事は避けます。問題の要点は、国家の一員としてのアイデンティティ-が希薄なあるいはほとんどない個人に、国家の運命を託する権利を与えるべきではない、ということです。希薄なアイデンティティ-とは換言すれば国家への忠誠心の欠如です。後者つまり夫婦別姓の問題に関してはすでに論じました。夫婦別姓にすれば、親子関係の絆は弛緩し、近親相姦的関係が現出する、そうなりやすくなる、というのが私の主張です。今回は外国人参政権と夫婦別姓という二つの問題を、個々ばらばらにではなく、あい関連するものとして考察してみましょう。
 夫婦別姓になれば、夫婦の関係(気楽な友人とでもいうべき無責任な関係になります)、従って父母子という関係は希薄になり、親子関係は崩れ、社会の基本である秩序意識が崩壊する、そういう方向に社会は向かう、というのが私の主旨でした。詳しくはこの問題に関する私のブロッグを参照して下さい。親子関係という他に変えられない濃密な関係のもとでのみ、他者への思いやりと、先達の経験と権威を納得して受け入れるという気持、長幼の序の意識が涵養されます。この気持ちが忠誠心の基礎です。親や先達先輩を尊敬する気持ちがなくなれば、その最上位に位置する国家への忠誠心が維持できるはずがありません。
 親子関係の弛緩は私有財産の否定に繋がるとも、私は言いました。私有財産とは、自分のためのみならず、子供や自分の血を分けた子々孫々のために、自己の労働の成果を残そうとするところに生じる意識です。こうして国富民富は蓄積され増大します。私有財産を保障し管理する機構が国家です。同時に私有財産は国家が濫りに個人に干渉しないようにする防波堤でもあります。つまり私有財産は国家と個人の間にあって、両者の関係を安定させる巧妙で重要な媒体です。親子関係が希薄になれば、私有財産への意識も崩れます。このような状況になりますと、どんな政体が出現してもおかしくはありません。
 親子関係の弛緩は国家あるいはより広く共同体への帰属意識の崩壊に繋がります。それだけではありません。親子関係の希薄化は信仰心をも解体します。信仰の信仰たる由縁は、その根底で近親相姦を禁止する事にあります。親子関係の崩壊、近親相姦の出現、そして信仰心の解体、というプロセスは自働的に進行します。信仰心の解体は国家への帰属意識の消滅を意味します。
 夫婦別姓が実現すれば、国家への忠誠心はなくなり、私有財産の維持管理という国家統治の原理は失われ、信仰心は崩壊します。
逆も言えます。国家への忠誠心がなくなれば、親子関係という最大の感情の絆も失われます。国家の統制管理下にあってのみ、共同体への帰属意識つまり共同体への忠誠心は涵養されます。この事は親子関係つまり家というシステムにも適用されます。国家と家とは相互に補完しあう最も重要な共同体です。
国家の統治力が薄れると、私有財産の観念もあやふやになります。私有財産を保障する機構がないのですから。私有財産の観念が薄らぐと、人間関係の最も安定した媒体である利害計算の機制が消滅します。人間相互の関係は複雑に入りこみ、錯綜し、歪み、極めて不安定になります。親子関係に関しても同様です。親が親として子に対処する事はできません。近親相姦が出現します。
国家という共同体への帰属意識の弛緩は、信仰心も解体します。信仰は個々人のみで成立するものではありません。あくまでなんらかの共同体を介してのみ存立します。信仰とは最大公約数的に言って、共同体維持のための集合意識です。そして信仰心を維持させる大元が国家であります。信仰心の崩壊が近親相姦禁忌を弛緩させることは容易に想像できるでしょう。信仰心はほとんど大多数の人が、意識無意識に持っています。信仰心は異界彼岸の問題である以上に俗世此岸の問題でもあります。
 以上、夫婦別姓と外国人参政権の問題の関連を簡潔に考察しました。理解いただければ幸いです。

平沼・与謝野両氏への質問

2010-05-01 03:37:59 | Weblog
    平沼、与謝野両氏への質問

平沼および与謝野両氏の主導で、新党「立ち上がれ日本」が自民党から分離して誕生しました。私としては賛否相半ばする複雑な心境です。反民主党勢力を分断する、平均年齢68歳の老人軍団、という批判はともかくとして、新党の肝心な政策要綱に不安を抱きます。新党主脳である両氏に質問させて頂きます。
与謝野氏に対して。与謝野氏がリ-マンショックに対して冷静で緻密な経済対策を施行された事には、敬意を表する次第です。それはそれとして、与謝野氏は、新党の方針として、消費税増税と均衡財政を主張されておられます。この政策が真に遂行されれば日本は今以上の不況になります。世界経済の雲行きは楽観を許しません。状況次第で不況は深化します。増税と均衡財政といえば、井上準之助という不吉な名前を想起させられます。その二の舞にならないでしょうか?不況とかデフレというものは、多分に国民の心理によるところが大です。現在の弱気な心境の中で緊縮経済を実施すると、不況はますます増すでしょう。自民党が昨年の総選挙で大敗した理由を、考えて見ましょう。それは平成不況への当然の対策であるリコンストラクションが、国民に耐乏生活を強い、不況による倦怠感・厭世観を与えてしまったからです。与謝野氏の政策は常識ですが、常識ゆえに危惧感を抱きます。現在の経済情勢は単純な常識で対応できるものでしょうか?
平沼氏への質問。平沼氏の憲法改正には大賛成です。しかし平沼氏は郵政民営化に反対された。ここのところを財政あるいは景気対策の観点からどのようにお考えなのでしょうか?単に山村に郵便物が届きにくい云々の卑近で情緒的な観点ではなく、経済の観点から考えて下さい。郵政を国営にする事は、投資力を民間から奪い、極めて非効率的な融資を国家が主導する事を意味します。経済の原点は民間の市場にあります。民間の力を国家が奪っては立ち行きません。あくまで民間主導、そして時として国家が介入するのが、経済政策の常道です。亀井金融相のように、ペイオフの上限を大幅に上げ、保険料率を小さくするような、自己矛盾した政策で国民の人気を取りますか?あるいは前原国交相が言うような、郵貯の資金をすべて国家の政策の管理下に置きますか?
 与謝野、平沼両氏の経済政策は対立するのみならず、それぞれの内部に矛盾を抱えています。もう少し大胆で積極的な経済政策を考える能力は無いのですか?でなければ新党を立ち上げた意味は無いでしょう。
 現在民主・自民の両党の支持率は低迷し、25%前後を徘徊しています。民主党政府はすでに空中分解寸前にあり、思考停止状態に陥っています。いろいろの新党ができました。しかし新党設立者は、気楽な理想を宣言しても、日本の経済をどうするかという観点に立った、具体的な成長政策には言及しません。与謝野、平沼両氏、枡添氏、あるいは首長新党の発起人の方々、すべて同じです。新党の設立は一種の人気投票になる可能性もあります。「大阪維新の会」の橋本氏の主張にのみ、成長政策の一端を示唆するものがあるだけです。これでは日本の政治状況は一種のアナ-キ-になってしまいます。という事は、将来どんな政府が出現してもおかしくないということです。大胆な成長政策はあります。それは思い切った流通貨幣量の増大策と経済構造全体を転換させる新産業育成です。この政策提案のみが、現在の政治状況を収束させうる唯一の方途です。要は日本経済の潜在的パワ-を信頼できるか否かです。
関連諸氏のご賢察を請います。