フェミニズム批判
フェミニズムは女権拡張論と訳していいのだろうか。少なくとも女が男と全く同等な権利(のみならず行動習慣の遂行をも)を行使する事態をめざす思想潮流と考えてよさそうだ。ここでフェミニズムを批判的に考察してみよう。
紫式部やサッフォ-またクリスティ-ヌ・ド・ピザンがある時代ある社会に活躍したからといって彼女達をフェミニストとは言わない。思想としてのフェミニズムが明確になるのは19世紀後半を待たねばならないが、その萌芽先駆者ともいうべき人物は19世紀前半に出現している。メアリ-・ウルストンクラフトとかジョルジュ・サンドという人達だ。したがってフェミニズムの出現は1800年台初頭とみてよい。「子供の発見(フィリップ・アリエス)」が産業革命による社会の激変と併行するように、やはり「女の発見」も歴史の文脈の中で起きている。理由は簡単。工場労働力に女性を必要とするようになったからだ。その例証がビゼ-の歌劇のヒロイン、タバコ製造工場で働くカルメンだ。
働く女性達が大量に創出された。しかしここで、働く女性達は総体として矛盾した立場に置かれる。産業革命は従来の家内工業を破壊した。それまで家という作業場で生活と労働を統合させてきた主婦の立場は否定される。この結果女性達は本来の立場としては家庭を護らなければならなくなる。良妻賢母が称揚され、女性達は家で家事育児に専念すべきものとされる。つまり女性の役割は生殖(種族保存)に限定され社会的労働から締め出される。だからこの時期以後もず-と社会は女性の労働力を必要としつつも、働く女性達を異端視また蔑視してきた。この状況を受けて19世紀後半にフェミニズムの思想が明確な形をとって主張されてくる。その詳細はここでは触れない。
次の転機は第一次世界大戦だ。当時先進国であった欧州諸国はおしなべて戦争にまきこまれ、総力戦を強いられた。男性は兵士として戦場に駆りだされる。銃後の生産には女性をあてざるをえない。大量の女性が工場やオフイスに進出する。一度獲得した地位を彼女達は固めてゆく。
第三の転機が性の解放の主張だ。この潮流は私の見るかぎりでは二つの思想あるいわ学説の影響を受けている。一つは「全体から切り離されても生存しなけれいけない個の絶対性」を主張する実存主義であり、他の一つは「性衝動が人間の感情や理性の根源を規定する」と主張し、性に関しての公然たる意見開陳を促進した精神分析学だ。第二次大戦後の女性解放運動に大きな影響を与えたボ-ヴォア-ルの「第二の性」はまったくこの二つの思想をこねあわせだ。性の解放を旗印とするフェミニズムは特に1960年台の学生運動と相互に連携し関連しあって展開される。たとえばケイト・ミレットとかファイヤ-ストン達の活動である。彼女達の考えの詳細もここでは触れない。
フェミニズムの歴史を概括すると、まずフランス革命の成果である政治的社会的権利の、革命の成果からとり残された女性の権利の獲得という形で始まり(ちなみにナポレオン法典は政治的のみならず民法上の権利も女性に与えていない。女性は社会的には男性の後見においてのみ、財産相続などの権利を主張できた。なおフランスでの女性参政権付与は大二次大戦後。)、労働への参加とともに働く者の権利要求になり(せめて労働条件くらいは男性と同等であれという)、そして性差別の根源を廃棄する立場を性の解放というスロ-ガンでもって主張するようになる。
フェミニズムを、その一つの到達点であるミレットやファイア-スト-ンの考えによって判断する限り、彼らの主張の論拠は二つの鍵概念から成る。「家父長制度」と「抑圧だ」。
家父長制とは父親または夫が一家の長として他の家族成員に独裁的指導力を発揮する制度や習慣を意味する。家父長制の歴史は古いが、フェミニスト達は特に批判の焦点を、産業革命以後産業兵士の供給源と化した近代家族・核家族に向ける。女性は家に閉じ込められ、それまで享受し得た労働や社会との紐帯を断たれ、家の中では男性の性的快楽に受動的に奉仕しつつ、生殖行為のみに自己の役割を見出さざるをえない立場に置かれているというのが彼女達の主張だ。したがって彼女達の意見によれば、性の解放と労働への参加は等しくなる。労働社会に参加しないかぎり女性は性的快楽追求においては劣位に置かれ、また性的快楽の追求において平等でないかぎり、彼女達の労働は男性のそれに比し不十分なものでしかないと主張される。家父長制度という言葉は多くの学者により使用されるが、フェミニスト達の多くはその論拠をエンゲルスの「家族、私有財産および国家の起源」により基礎付ける。「抑圧」は精神分析学の根幹をなすものであるが、彼女達はそれを都合よく借用する。
フェミニストの議論の重要な焦点の一つは「性的快感獲得に際してのクリトリスと膣の役割」の問題だ。フェミニストは、快感は膣ではなくクリトリスによると主張する。性交における快感獲得において、クリトリスと膣双方の役割を承認するのが現在における公平な意見だ。しかし彼女達の多くはクリトリス快感説に固執する。なぜか?膣の役割はその奥に位置する子宮とともに生殖(妊娠と分娩)に直結するからだ。フェミニストの主張の中に「生殖からの解放」という考えがあることは間違いない。ここで女が簡単に生殖から解放されていいものか、という深刻な疑問が生じる。クリトリスは生殖に関係しない。クリトリスは大小の陰唇や他の外性器諸部分さらには会陰筋および肛門内部の性感帯と連動して快楽を提供する事ができる。それが膣快感を伴う性的快感に比べて如何なるものなのかは判然としない。一部の人の主張によれば膣への挿入による快感よりすばらしいということではある。
問題は快感の大小ではない。快感が快感としてそのまま放置されるか否かが問題なのだ。フロイトは単に性的快感の意義をそれだけ取り上げ、他の契機と分離して強調したのではない。快感は、男児にあっては父親なる権威と衝突し挫折を経験することによって労働能力を保持育成するための社会的自我ができると言ったのだ。女児においては性器の構造が複雑ゆえに、性的快感を社会的能力に結びつけるのに時間がかかることを強調したのだ。彼は快楽と現実との対立そのものに意味があると言ったのだ。
もし快楽を現実と無関係に主張すればどうなるか?どこに人間の主体性を求めればいいのか?ヘドイズム(快楽主義)に責任の主体は存在しない。フロイト学説は一見ヘドイズムに見えるが全く別物だ。フェミニスト達が主張するようにクリトリス快感説に頑固に固執する事は快楽の野放しであり責任の放棄だ。生殖という運命の必然にしたがってあるいはそれとぶっつかってこそ責任の主体は確立される。
もし快楽を快楽として放置すればそれは快楽でさえなくなる。恋愛あるいわ性愛は単なる性器粘膜の摩擦刺激の結果ではない。快楽が他者にそって即快楽であるとすれば、それも快楽ではありえない。自己の快楽が他者の快楽ではないかもしれない、他者にとって苦痛であるかもしれない、という予測をもって始めて他者への思いやりが生じるのだ。そしてこの他者への思いやり、憐憫、同情、共感を背景としてのみ快楽が生じるのだ。あるいわ快楽が増強し深まるのだ。他者とのこの共感にもつずく関係は楽器でいえば共鳴する箱であり、この箱の中で快楽という琴線ははじめて音らしい音をだす。この他者との共感を確保する媒体が運命への服従なのだ。
フェミニストがクリトリスに快楽の焦点を置こうとするのは男と全く同じ快楽を追求するからであろう。なにゆえ男女の間にある性差を無視しなければならないのか?差異は差別につながるかもしれない。それでよいではないか。人間の世界は対立と差別が適度にあるほうが結果として快適なのだ。なによりも性愛に伴う快感はこの対立懸隔を埋めようとするところに生じる。差異があるから他者への関心が生じる。他者を憶測しそのためにおのれを投影し他者像を形成し訂正する。この想像を基本とする駆け引きゲ-ムが快楽の主要な契機なのだ。これ無くして性愛の快楽はありえない。他者がおのれと同じ者であれば想像と憶念への関心は消滅する。したがって他者そのものも消失する。差異が差別になってもかまわないではないか。支配と支配に抗する力学は快楽の本質的契機なのだから。
もし男女がその快楽の感受性において全く等しくなったらどうなるか。それは先に述べたとおり快楽の自己否定である。性差を否定して性的快楽は存在しない。かかる事を志向することは結局、一種の禁欲への試みではないのか。ここでフェミニズムはキリスト教的禁欲主義に還流する。フェミニズムは労働と快楽を等置した。この際快楽の本質を見誤ったことは先に述べた通り。それはさておきフェミニズムは労働の疎外からの解放をマルクスから、快楽説をフロイトから借用していることは事実だ。ところで多くのフェミニストのマルクスに対する印象が良好なのに対してフロイトへのそれはすこぶる悪い。ファイア-スト-ンなどはその代表。なぜ?マルクスが疎外からの解放を予言したのに対して、フロイトは快楽の断念を主張したからだ。フェミニストがフロイトからその根幹となる理論的枠組を借りつつ、他方その批判を罵詈雑言に近い形でいうのにはいささかめんくらってしまう。盗人たけでけしいと言うべきか。
さてマルクスの理論であるが、使用価値と交換価値の関係は明瞭になっているのか。もう一つ。被治者から統治者への権力の委託譲渡に関しての具体的な考えがあるのか。無いはずだ。私が彼の著作を読んだかぎりでは無いとしか思えない。剰余価値論と権力論が確立していなければマルクスの人類への好意に満ちた予言も所詮は神話だ。この30年間その神話の内幕をたっぷり拝見させていただいた。付け加えればフェミニスト達はルソ-の意義を完全に誤解している。確かにルソ-自身の行為には問題が多く、女性の批判の的になるのもやむをえない。いかし彼個人はともかくとして、彼の思想はフェミニズムに裨益するところが多いはずだ。フェミニストが賞揚するミルやコンドルセの思想よりはるかにフェミニストにとって有益であると思う。ミルにせよコンドルセにせよ彼らの思想は所詮はブルジョア的実証主義の枠から出ていない。女は口先だけで誉められれば飛んでしまうものなのか。
性と労働を等置しそれでもって人間の解放を試みる理論の代表、ある意味ではフェミニズムの終末期形態がジル・ドウル-ズの考え方だ。彼は性が家庭特に近代的家庭に置かれるからこそ抑圧されるとして、始原の状態を想定する。一切の体制制度、固定した人間関係の外で自由に遊戯する性感情を想定して、それを生産的無意識と名づける。性感情は通常は特定の人と人の間でのみ機能するものだが、ジル・ドウル-ズの思想にあっては、性は人間の殻を既に破って超えている。したがって彼が言う生産的無意識は性衝動が物質的に実体化したものだ。もちろんそういうものがあるとしての話しだが。この種の無意識を自由に放置すれば人間は性的に充足されかつ労働から疎外されないと彼は言う。そういうのは勝手だがなによりも彼が想定する生産的無意識は、彼の仮定以上のものではありえないので、神話を聞いているとしか思えない。この種の概念は一部の精神分析家により理論的には想定されている。クラインの部分対象、ビオンのベ-タ要素、またライヒのオルゴン等等。彼らはそういう仮説に立って治療を行い、一定の成果を収めた。かといって先述の物とも観念ともつかない中間的な存在が、立証されたわけではない。私に言わせるとそれは治療者患者間の非言語的コミュニケ-ションの様相を概念化しただけのものなのだ。いずれにせよこのような想定を実体化してしまえば、悪霊物の怪鬼神マナの類を承認したに等しくなる。それが社会的に現実化した時はもっとも根源的な意味での自然への回帰だ。自然と人間の区別が無くなるのだから。
フェミニズムはそれ自体から新たな所説を産み出していない。自由主義の理論で男性と同等な参政権を要求し、社会主義の思想で労働からの疎外を克服せんとし、精神分析の所説に基づいて性の解放を云々する。言ってみれば理論的寄生虫だ。自前の理論を持たず、他所からの理論に頼るのみだ。ついでに言えば女性の運命を変えたものが二つある。コンド-ムとピルだ。これで女性は妊娠への不安から解放された。ところでこれらは化学工業と薬学の進歩によるものであって、その基部を支えるものは資本主義的生産体制だ。フェミニストの運動とは関係ない。
フェミニズムには展望がない。するのは批判と要求だけ。男社会を覆して次にどういう社会を創ろうというのか。批判の延長上に希望と幻想を聞かせてもらっても無意味だ。快楽が無限に満たされる社会でも空想しているのか。この事への批判は既にした。かって共産主義は、この世の桎梏を廃棄すれば世界は自動的に善なるものになりうると説いた。マルクスやレ-ニンは、必要に応じて消費し能力に応じて生産できる体制、ありていに言えば遊んで好き勝手言って腹いっぱい喰える世界の到来を予言した。現に見せられたものはその正反対の結果だった。共産主義ほど過酷な弾圧を正義の名において為した体制も史上存在しない。私有財産の撤廃なる予言にしてこの有様だ。財産よりもっともっと人間精神の根源に位置する「性」を快楽のみという無秩序下に置いたら、いったいどんな結果になることやら。と、思わざるをえない。
フェミニズムは女権拡張論と訳していいのだろうか。少なくとも女が男と全く同等な権利(のみならず行動習慣の遂行をも)を行使する事態をめざす思想潮流と考えてよさそうだ。ここでフェミニズムを批判的に考察してみよう。
紫式部やサッフォ-またクリスティ-ヌ・ド・ピザンがある時代ある社会に活躍したからといって彼女達をフェミニストとは言わない。思想としてのフェミニズムが明確になるのは19世紀後半を待たねばならないが、その萌芽先駆者ともいうべき人物は19世紀前半に出現している。メアリ-・ウルストンクラフトとかジョルジュ・サンドという人達だ。したがってフェミニズムの出現は1800年台初頭とみてよい。「子供の発見(フィリップ・アリエス)」が産業革命による社会の激変と併行するように、やはり「女の発見」も歴史の文脈の中で起きている。理由は簡単。工場労働力に女性を必要とするようになったからだ。その例証がビゼ-の歌劇のヒロイン、タバコ製造工場で働くカルメンだ。
働く女性達が大量に創出された。しかしここで、働く女性達は総体として矛盾した立場に置かれる。産業革命は従来の家内工業を破壊した。それまで家という作業場で生活と労働を統合させてきた主婦の立場は否定される。この結果女性達は本来の立場としては家庭を護らなければならなくなる。良妻賢母が称揚され、女性達は家で家事育児に専念すべきものとされる。つまり女性の役割は生殖(種族保存)に限定され社会的労働から締め出される。だからこの時期以後もず-と社会は女性の労働力を必要としつつも、働く女性達を異端視また蔑視してきた。この状況を受けて19世紀後半にフェミニズムの思想が明確な形をとって主張されてくる。その詳細はここでは触れない。
次の転機は第一次世界大戦だ。当時先進国であった欧州諸国はおしなべて戦争にまきこまれ、総力戦を強いられた。男性は兵士として戦場に駆りだされる。銃後の生産には女性をあてざるをえない。大量の女性が工場やオフイスに進出する。一度獲得した地位を彼女達は固めてゆく。
第三の転機が性の解放の主張だ。この潮流は私の見るかぎりでは二つの思想あるいわ学説の影響を受けている。一つは「全体から切り離されても生存しなけれいけない個の絶対性」を主張する実存主義であり、他の一つは「性衝動が人間の感情や理性の根源を規定する」と主張し、性に関しての公然たる意見開陳を促進した精神分析学だ。第二次大戦後の女性解放運動に大きな影響を与えたボ-ヴォア-ルの「第二の性」はまったくこの二つの思想をこねあわせだ。性の解放を旗印とするフェミニズムは特に1960年台の学生運動と相互に連携し関連しあって展開される。たとえばケイト・ミレットとかファイヤ-ストン達の活動である。彼女達の考えの詳細もここでは触れない。
フェミニズムの歴史を概括すると、まずフランス革命の成果である政治的社会的権利の、革命の成果からとり残された女性の権利の獲得という形で始まり(ちなみにナポレオン法典は政治的のみならず民法上の権利も女性に与えていない。女性は社会的には男性の後見においてのみ、財産相続などの権利を主張できた。なおフランスでの女性参政権付与は大二次大戦後。)、労働への参加とともに働く者の権利要求になり(せめて労働条件くらいは男性と同等であれという)、そして性差別の根源を廃棄する立場を性の解放というスロ-ガンでもって主張するようになる。
フェミニズムを、その一つの到達点であるミレットやファイア-スト-ンの考えによって判断する限り、彼らの主張の論拠は二つの鍵概念から成る。「家父長制度」と「抑圧だ」。
家父長制とは父親または夫が一家の長として他の家族成員に独裁的指導力を発揮する制度や習慣を意味する。家父長制の歴史は古いが、フェミニスト達は特に批判の焦点を、産業革命以後産業兵士の供給源と化した近代家族・核家族に向ける。女性は家に閉じ込められ、それまで享受し得た労働や社会との紐帯を断たれ、家の中では男性の性的快楽に受動的に奉仕しつつ、生殖行為のみに自己の役割を見出さざるをえない立場に置かれているというのが彼女達の主張だ。したがって彼女達の意見によれば、性の解放と労働への参加は等しくなる。労働社会に参加しないかぎり女性は性的快楽追求においては劣位に置かれ、また性的快楽の追求において平等でないかぎり、彼女達の労働は男性のそれに比し不十分なものでしかないと主張される。家父長制度という言葉は多くの学者により使用されるが、フェミニスト達の多くはその論拠をエンゲルスの「家族、私有財産および国家の起源」により基礎付ける。「抑圧」は精神分析学の根幹をなすものであるが、彼女達はそれを都合よく借用する。
フェミニストの議論の重要な焦点の一つは「性的快感獲得に際してのクリトリスと膣の役割」の問題だ。フェミニストは、快感は膣ではなくクリトリスによると主張する。性交における快感獲得において、クリトリスと膣双方の役割を承認するのが現在における公平な意見だ。しかし彼女達の多くはクリトリス快感説に固執する。なぜか?膣の役割はその奥に位置する子宮とともに生殖(妊娠と分娩)に直結するからだ。フェミニストの主張の中に「生殖からの解放」という考えがあることは間違いない。ここで女が簡単に生殖から解放されていいものか、という深刻な疑問が生じる。クリトリスは生殖に関係しない。クリトリスは大小の陰唇や他の外性器諸部分さらには会陰筋および肛門内部の性感帯と連動して快楽を提供する事ができる。それが膣快感を伴う性的快感に比べて如何なるものなのかは判然としない。一部の人の主張によれば膣への挿入による快感よりすばらしいということではある。
問題は快感の大小ではない。快感が快感としてそのまま放置されるか否かが問題なのだ。フロイトは単に性的快感の意義をそれだけ取り上げ、他の契機と分離して強調したのではない。快感は、男児にあっては父親なる権威と衝突し挫折を経験することによって労働能力を保持育成するための社会的自我ができると言ったのだ。女児においては性器の構造が複雑ゆえに、性的快感を社会的能力に結びつけるのに時間がかかることを強調したのだ。彼は快楽と現実との対立そのものに意味があると言ったのだ。
もし快楽を現実と無関係に主張すればどうなるか?どこに人間の主体性を求めればいいのか?ヘドイズム(快楽主義)に責任の主体は存在しない。フロイト学説は一見ヘドイズムに見えるが全く別物だ。フェミニスト達が主張するようにクリトリス快感説に頑固に固執する事は快楽の野放しであり責任の放棄だ。生殖という運命の必然にしたがってあるいはそれとぶっつかってこそ責任の主体は確立される。
もし快楽を快楽として放置すればそれは快楽でさえなくなる。恋愛あるいわ性愛は単なる性器粘膜の摩擦刺激の結果ではない。快楽が他者にそって即快楽であるとすれば、それも快楽ではありえない。自己の快楽が他者の快楽ではないかもしれない、他者にとって苦痛であるかもしれない、という予測をもって始めて他者への思いやりが生じるのだ。そしてこの他者への思いやり、憐憫、同情、共感を背景としてのみ快楽が生じるのだ。あるいわ快楽が増強し深まるのだ。他者とのこの共感にもつずく関係は楽器でいえば共鳴する箱であり、この箱の中で快楽という琴線ははじめて音らしい音をだす。この他者との共感を確保する媒体が運命への服従なのだ。
フェミニストがクリトリスに快楽の焦点を置こうとするのは男と全く同じ快楽を追求するからであろう。なにゆえ男女の間にある性差を無視しなければならないのか?差異は差別につながるかもしれない。それでよいではないか。人間の世界は対立と差別が適度にあるほうが結果として快適なのだ。なによりも性愛に伴う快感はこの対立懸隔を埋めようとするところに生じる。差異があるから他者への関心が生じる。他者を憶測しそのためにおのれを投影し他者像を形成し訂正する。この想像を基本とする駆け引きゲ-ムが快楽の主要な契機なのだ。これ無くして性愛の快楽はありえない。他者がおのれと同じ者であれば想像と憶念への関心は消滅する。したがって他者そのものも消失する。差異が差別になってもかまわないではないか。支配と支配に抗する力学は快楽の本質的契機なのだから。
もし男女がその快楽の感受性において全く等しくなったらどうなるか。それは先に述べたとおり快楽の自己否定である。性差を否定して性的快楽は存在しない。かかる事を志向することは結局、一種の禁欲への試みではないのか。ここでフェミニズムはキリスト教的禁欲主義に還流する。フェミニズムは労働と快楽を等置した。この際快楽の本質を見誤ったことは先に述べた通り。それはさておきフェミニズムは労働の疎外からの解放をマルクスから、快楽説をフロイトから借用していることは事実だ。ところで多くのフェミニストのマルクスに対する印象が良好なのに対してフロイトへのそれはすこぶる悪い。ファイア-スト-ンなどはその代表。なぜ?マルクスが疎外からの解放を予言したのに対して、フロイトは快楽の断念を主張したからだ。フェミニストがフロイトからその根幹となる理論的枠組を借りつつ、他方その批判を罵詈雑言に近い形でいうのにはいささかめんくらってしまう。盗人たけでけしいと言うべきか。
さてマルクスの理論であるが、使用価値と交換価値の関係は明瞭になっているのか。もう一つ。被治者から統治者への権力の委託譲渡に関しての具体的な考えがあるのか。無いはずだ。私が彼の著作を読んだかぎりでは無いとしか思えない。剰余価値論と権力論が確立していなければマルクスの人類への好意に満ちた予言も所詮は神話だ。この30年間その神話の内幕をたっぷり拝見させていただいた。付け加えればフェミニスト達はルソ-の意義を完全に誤解している。確かにルソ-自身の行為には問題が多く、女性の批判の的になるのもやむをえない。いかし彼個人はともかくとして、彼の思想はフェミニズムに裨益するところが多いはずだ。フェミニストが賞揚するミルやコンドルセの思想よりはるかにフェミニストにとって有益であると思う。ミルにせよコンドルセにせよ彼らの思想は所詮はブルジョア的実証主義の枠から出ていない。女は口先だけで誉められれば飛んでしまうものなのか。
性と労働を等置しそれでもって人間の解放を試みる理論の代表、ある意味ではフェミニズムの終末期形態がジル・ドウル-ズの考え方だ。彼は性が家庭特に近代的家庭に置かれるからこそ抑圧されるとして、始原の状態を想定する。一切の体制制度、固定した人間関係の外で自由に遊戯する性感情を想定して、それを生産的無意識と名づける。性感情は通常は特定の人と人の間でのみ機能するものだが、ジル・ドウル-ズの思想にあっては、性は人間の殻を既に破って超えている。したがって彼が言う生産的無意識は性衝動が物質的に実体化したものだ。もちろんそういうものがあるとしての話しだが。この種の無意識を自由に放置すれば人間は性的に充足されかつ労働から疎外されないと彼は言う。そういうのは勝手だがなによりも彼が想定する生産的無意識は、彼の仮定以上のものではありえないので、神話を聞いているとしか思えない。この種の概念は一部の精神分析家により理論的には想定されている。クラインの部分対象、ビオンのベ-タ要素、またライヒのオルゴン等等。彼らはそういう仮説に立って治療を行い、一定の成果を収めた。かといって先述の物とも観念ともつかない中間的な存在が、立証されたわけではない。私に言わせるとそれは治療者患者間の非言語的コミュニケ-ションの様相を概念化しただけのものなのだ。いずれにせよこのような想定を実体化してしまえば、悪霊物の怪鬼神マナの類を承認したに等しくなる。それが社会的に現実化した時はもっとも根源的な意味での自然への回帰だ。自然と人間の区別が無くなるのだから。
フェミニズムはそれ自体から新たな所説を産み出していない。自由主義の理論で男性と同等な参政権を要求し、社会主義の思想で労働からの疎外を克服せんとし、精神分析の所説に基づいて性の解放を云々する。言ってみれば理論的寄生虫だ。自前の理論を持たず、他所からの理論に頼るのみだ。ついでに言えば女性の運命を変えたものが二つある。コンド-ムとピルだ。これで女性は妊娠への不安から解放された。ところでこれらは化学工業と薬学の進歩によるものであって、その基部を支えるものは資本主義的生産体制だ。フェミニストの運動とは関係ない。
フェミニズムには展望がない。するのは批判と要求だけ。男社会を覆して次にどういう社会を創ろうというのか。批判の延長上に希望と幻想を聞かせてもらっても無意味だ。快楽が無限に満たされる社会でも空想しているのか。この事への批判は既にした。かって共産主義は、この世の桎梏を廃棄すれば世界は自動的に善なるものになりうると説いた。マルクスやレ-ニンは、必要に応じて消費し能力に応じて生産できる体制、ありていに言えば遊んで好き勝手言って腹いっぱい喰える世界の到来を予言した。現に見せられたものはその正反対の結果だった。共産主義ほど過酷な弾圧を正義の名において為した体制も史上存在しない。私有財産の撤廃なる予言にしてこの有様だ。財産よりもっともっと人間精神の根源に位置する「性」を快楽のみという無秩序下に置いたら、いったいどんな結果になることやら。と、思わざるをえない。