経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

フェミニズム批判

2018-04-26 19:01:36 | Weblog
 フェミニズム批判

 フェミニズムは女権拡張論と訳していいのだろうか。少なくとも女が男と全く同等な権利(のみならず行動習慣の遂行をも)を行使する事態をめざす思想潮流と考えてよさそうだ。ここでフェミニズムを批判的に考察してみよう。
 紫式部やサッフォ-またクリスティ-ヌ・ド・ピザンがある時代ある社会に活躍したからといって彼女達をフェミニストとは言わない。思想としてのフェミニズムが明確になるのは19世紀後半を待たねばならないが、その萌芽先駆者ともいうべき人物は19世紀前半に出現している。メアリ-・ウルストンクラフトとかジョルジュ・サンドという人達だ。したがってフェミニズムの出現は1800年台初頭とみてよい。「子供の発見(フィリップ・アリエス)」が産業革命による社会の激変と併行するように、やはり「女の発見」も歴史の文脈の中で起きている。理由は簡単。工場労働力に女性を必要とするようになったからだ。その例証がビゼ-の歌劇のヒロイン、タバコ製造工場で働くカルメンだ。
 働く女性達が大量に創出された。しかしここで、働く女性達は総体として矛盾した立場に置かれる。産業革命は従来の家内工業を破壊した。それまで家という作業場で生活と労働を統合させてきた主婦の立場は否定される。この結果女性達は本来の立場としては家庭を護らなければならなくなる。良妻賢母が称揚され、女性達は家で家事育児に専念すべきものとされる。つまり女性の役割は生殖(種族保存)に限定され社会的労働から締め出される。だからこの時期以後もず-と社会は女性の労働力を必要としつつも、働く女性達を異端視また蔑視してきた。この状況を受けて19世紀後半にフェミニズムの思想が明確な形をとって主張されてくる。その詳細はここでは触れない。
次の転機は第一次世界大戦だ。当時先進国であった欧州諸国はおしなべて戦争にまきこまれ、総力戦を強いられた。男性は兵士として戦場に駆りだされる。銃後の生産には女性をあてざるをえない。大量の女性が工場やオフイスに進出する。一度獲得した地位を彼女達は固めてゆく。
第三の転機が性の解放の主張だ。この潮流は私の見るかぎりでは二つの思想あるいわ学説の影響を受けている。一つは「全体から切り離されても生存しなけれいけない個の絶対性」を主張する実存主義であり、他の一つは「性衝動が人間の感情や理性の根源を規定する」と主張し、性に関しての公然たる意見開陳を促進した精神分析学だ。第二次大戦後の女性解放運動に大きな影響を与えたボ-ヴォア-ルの「第二の性」はまったくこの二つの思想をこねあわせだ。性の解放を旗印とするフェミニズムは特に1960年台の学生運動と相互に連携し関連しあって展開される。たとえばケイト・ミレットとかファイヤ-ストン達の活動である。彼女達の考えの詳細もここでは触れない。
 フェミニズムの歴史を概括すると、まずフランス革命の成果である政治的社会的権利の、革命の成果からとり残された女性の権利の獲得という形で始まり(ちなみにナポレオン法典は政治的のみならず民法上の権利も女性に与えていない。女性は社会的には男性の後見においてのみ、財産相続などの権利を主張できた。なおフランスでの女性参政権付与は大二次大戦後。)、労働への参加とともに働く者の権利要求になり(せめて労働条件くらいは男性と同等であれという)、そして性差別の根源を廃棄する立場を性の解放というスロ-ガンでもって主張するようになる。
 フェミニズムを、その一つの到達点であるミレットやファイア-スト-ンの考えによって判断する限り、彼らの主張の論拠は二つの鍵概念から成る。「家父長制度」と「抑圧だ」。
家父長制とは父親または夫が一家の長として他の家族成員に独裁的指導力を発揮する制度や習慣を意味する。家父長制の歴史は古いが、フェミニスト達は特に批判の焦点を、産業革命以後産業兵士の供給源と化した近代家族・核家族に向ける。女性は家に閉じ込められ、それまで享受し得た労働や社会との紐帯を断たれ、家の中では男性の性的快楽に受動的に奉仕しつつ、生殖行為のみに自己の役割を見出さざるをえない立場に置かれているというのが彼女達の主張だ。したがって彼女達の意見によれば、性の解放と労働への参加は等しくなる。労働社会に参加しないかぎり女性は性的快楽追求においては劣位に置かれ、また性的快楽の追求において平等でないかぎり、彼女達の労働は男性のそれに比し不十分なものでしかないと主張される。家父長制度という言葉は多くの学者により使用されるが、フェミニスト達の多くはその論拠をエンゲルスの「家族、私有財産および国家の起源」により基礎付ける。「抑圧」は精神分析学の根幹をなすものであるが、彼女達はそれを都合よく借用する。
 フェミニストの議論の重要な焦点の一つは「性的快感獲得に際してのクリトリスと膣の役割」の問題だ。フェミニストは、快感は膣ではなくクリトリスによると主張する。性交における快感獲得において、クリトリスと膣双方の役割を承認するのが現在における公平な意見だ。しかし彼女達の多くはクリトリス快感説に固執する。なぜか?膣の役割はその奥に位置する子宮とともに生殖(妊娠と分娩)に直結するからだ。フェミニストの主張の中に「生殖からの解放」という考えがあることは間違いない。ここで女が簡単に生殖から解放されていいものか、という深刻な疑問が生じる。クリトリスは生殖に関係しない。クリトリスは大小の陰唇や他の外性器諸部分さらには会陰筋および肛門内部の性感帯と連動して快楽を提供する事ができる。それが膣快感を伴う性的快感に比べて如何なるものなのかは判然としない。一部の人の主張によれば膣への挿入による快感よりすばらしいということではある。
 問題は快感の大小ではない。快感が快感としてそのまま放置されるか否かが問題なのだ。フロイトは単に性的快感の意義をそれだけ取り上げ、他の契機と分離して強調したのではない。快感は、男児にあっては父親なる権威と衝突し挫折を経験することによって労働能力を保持育成するための社会的自我ができると言ったのだ。女児においては性器の構造が複雑ゆえに、性的快感を社会的能力に結びつけるのに時間がかかることを強調したのだ。彼は快楽と現実との対立そのものに意味があると言ったのだ。
 もし快楽を現実と無関係に主張すればどうなるか?どこに人間の主体性を求めればいいのか?ヘドイズム(快楽主義)に責任の主体は存在しない。フロイト学説は一見ヘドイズムに見えるが全く別物だ。フェミニスト達が主張するようにクリトリス快感説に頑固に固執する事は快楽の野放しであり責任の放棄だ。生殖という運命の必然にしたがってあるいはそれとぶっつかってこそ責任の主体は確立される。
 もし快楽を快楽として放置すればそれは快楽でさえなくなる。恋愛あるいわ性愛は単なる性器粘膜の摩擦刺激の結果ではない。快楽が他者にそって即快楽であるとすれば、それも快楽ではありえない。自己の快楽が他者の快楽ではないかもしれない、他者にとって苦痛であるかもしれない、という予測をもって始めて他者への思いやりが生じるのだ。そしてこの他者への思いやり、憐憫、同情、共感を背景としてのみ快楽が生じるのだ。あるいわ快楽が増強し深まるのだ。他者とのこの共感にもつずく関係は楽器でいえば共鳴する箱であり、この箱の中で快楽という琴線ははじめて音らしい音をだす。この他者との共感を確保する媒体が運命への服従なのだ。
 フェミニストがクリトリスに快楽の焦点を置こうとするのは男と全く同じ快楽を追求するからであろう。なにゆえ男女の間にある性差を無視しなければならないのか?差異は差別につながるかもしれない。それでよいではないか。人間の世界は対立と差別が適度にあるほうが結果として快適なのだ。なによりも性愛に伴う快感はこの対立懸隔を埋めようとするところに生じる。差異があるから他者への関心が生じる。他者を憶測しそのためにおのれを投影し他者像を形成し訂正する。この想像を基本とする駆け引きゲ-ムが快楽の主要な契機なのだ。これ無くして性愛の快楽はありえない。他者がおのれと同じ者であれば想像と憶念への関心は消滅する。したがって他者そのものも消失する。差異が差別になってもかまわないではないか。支配と支配に抗する力学は快楽の本質的契機なのだから。
 もし男女がその快楽の感受性において全く等しくなったらどうなるか。それは先に述べたとおり快楽の自己否定である。性差を否定して性的快楽は存在しない。かかる事を志向することは結局、一種の禁欲への試みではないのか。ここでフェミニズムはキリスト教的禁欲主義に還流する。フェミニズムは労働と快楽を等置した。この際快楽の本質を見誤ったことは先に述べた通り。それはさておきフェミニズムは労働の疎外からの解放をマルクスから、快楽説をフロイトから借用していることは事実だ。ところで多くのフェミニストのマルクスに対する印象が良好なのに対してフロイトへのそれはすこぶる悪い。ファイア-スト-ンなどはその代表。なぜ?マルクスが疎外からの解放を予言したのに対して、フロイトは快楽の断念を主張したからだ。フェミニストがフロイトからその根幹となる理論的枠組を借りつつ、他方その批判を罵詈雑言に近い形でいうのにはいささかめんくらってしまう。盗人たけでけしいと言うべきか。
 さてマルクスの理論であるが、使用価値と交換価値の関係は明瞭になっているのか。もう一つ。被治者から統治者への権力の委託譲渡に関しての具体的な考えがあるのか。無いはずだ。私が彼の著作を読んだかぎりでは無いとしか思えない。剰余価値論と権力論が確立していなければマルクスの人類への好意に満ちた予言も所詮は神話だ。この30年間その神話の内幕をたっぷり拝見させていただいた。付け加えればフェミニスト達はルソ-の意義を完全に誤解している。確かにルソ-自身の行為には問題が多く、女性の批判の的になるのもやむをえない。いかし彼個人はともかくとして、彼の思想はフェミニズムに裨益するところが多いはずだ。フェミニストが賞揚するミルやコンドルセの思想よりはるかにフェミニストにとって有益であると思う。ミルにせよコンドルセにせよ彼らの思想は所詮はブルジョア的実証主義の枠から出ていない。女は口先だけで誉められれば飛んでしまうものなのか。
 性と労働を等置しそれでもって人間の解放を試みる理論の代表、ある意味ではフェミニズムの終末期形態がジル・ドウル-ズの考え方だ。彼は性が家庭特に近代的家庭に置かれるからこそ抑圧されるとして、始原の状態を想定する。一切の体制制度、固定した人間関係の外で自由に遊戯する性感情を想定して、それを生産的無意識と名づける。性感情は通常は特定の人と人の間でのみ機能するものだが、ジル・ドウル-ズの思想にあっては、性は人間の殻を既に破って超えている。したがって彼が言う生産的無意識は性衝動が物質的に実体化したものだ。もちろんそういうものがあるとしての話しだが。この種の無意識を自由に放置すれば人間は性的に充足されかつ労働から疎外されないと彼は言う。そういうのは勝手だがなによりも彼が想定する生産的無意識は、彼の仮定以上のものではありえないので、神話を聞いているとしか思えない。この種の概念は一部の精神分析家により理論的には想定されている。クラインの部分対象、ビオンのベ-タ要素、またライヒのオルゴン等等。彼らはそういう仮説に立って治療を行い、一定の成果を収めた。かといって先述の物とも観念ともつかない中間的な存在が、立証されたわけではない。私に言わせるとそれは治療者患者間の非言語的コミュニケ-ションの様相を概念化しただけのものなのだ。いずれにせよこのような想定を実体化してしまえば、悪霊物の怪鬼神マナの類を承認したに等しくなる。それが社会的に現実化した時はもっとも根源的な意味での自然への回帰だ。自然と人間の区別が無くなるのだから。
 フェミニズムはそれ自体から新たな所説を産み出していない。自由主義の理論で男性と同等な参政権を要求し、社会主義の思想で労働からの疎外を克服せんとし、精神分析の所説に基づいて性の解放を云々する。言ってみれば理論的寄生虫だ。自前の理論を持たず、他所からの理論に頼るのみだ。ついでに言えば女性の運命を変えたものが二つある。コンド-ムとピルだ。これで女性は妊娠への不安から解放された。ところでこれらは化学工業と薬学の進歩によるものであって、その基部を支えるものは資本主義的生産体制だ。フェミニストの運動とは関係ない。
 フェミニズムには展望がない。するのは批判と要求だけ。男社会を覆して次にどういう社会を創ろうというのか。批判の延長上に希望と幻想を聞かせてもらっても無意味だ。快楽が無限に満たされる社会でも空想しているのか。この事への批判は既にした。かって共産主義は、この世の桎梏を廃棄すれば世界は自動的に善なるものになりうると説いた。マルクスやレ-ニンは、必要に応じて消費し能力に応じて生産できる体制、ありていに言えば遊んで好き勝手言って腹いっぱい喰える世界の到来を予言した。現に見せられたものはその正反対の結果だった。共産主義ほど過酷な弾圧を正義の名において為した体制も史上存在しない。私有財産の撤廃なる予言にしてこの有様だ。財産よりもっともっと人間精神の根源に位置する「性」を快楽のみという無秩序下に置いたら、いったいどんな結果になることやら。と、思わざるをえない。

完全平等という夢想、フェミニズム

2018-04-24 13:53:46 | Weblog
完全平等という夢想、フェミニズム
完全平等の夢想という点ではフェミニズムも同様である。フェミニズムは男女の性差という天賦の資質の差の存在を拒絶する。男女の区別を否定するフェミニズムは情愛と生殖を無関係、完全独立つまりばらばらなものとする。生殖という義務の否定はあらゆる義務の否定につながる。情愛は放任され無規律なものとなる。家族は消滅する。経済活動は無政府化される。信仰は否定され、国家は破壊される。社会の帰属性は弛緩し人間関係は揮発し希薄で極めて不安定なものになる。最大限に人権なるものが追及され主張される。どんな我意をも押し通し得、またどんな我意をも容認しなければならない。フェミニズムは共産主義の極地極北である。
フェミニズムの論理の主軸は、性差はすべて歴史的経緯において「刷り込まれて」できたと主張する点にある。性差には刷り込まれた部分もあるが、刷り込まれ以前の生物学的基盤により決定された部分もある。フェミニストは後者を一切認めない。このような視点に立つと現状の性差はすべて否定されて、刷り込み以前の原点に帰れということになる。これは歴史の抹殺である。議論が成立しない。しかしフェミニストはあえて議論を成り立たせようとする。結果は自己の理論が絶対正しいとして相手の議論を完全に否定することになる。特に母性は刷り込まれた神話として激しく排撃される。母親の子育ては男性優位女性劣位の典型とされる。男女の完全同一というありもしない理想(?)を前提として議論するのだからどんな議論でも可能になり相手の意見は否定される。マルクスは富裕者と富裕になりたいとする意識を抹殺すれば社会は完全平等になり、無限に豊かになると説いた。結果は歴史の示すところである。フェミニズムは新種のマルキシズムである。ちなみに米国でのフェミニズムは甚だしく女性が戦闘機のパイロットや駆逐艦の館長になっている。同性婚の容認、LGBTなど少数者への過度な保護、ペットへの度外れな配慮などもフェミニズムの変形である。エコロジスト(環境保護主義者)もフェミニズムの派生態と言える。環境は保全されなければならない。しかしエコロジストの一部は産業基盤を否定しても自然に帰れと叫ぶ。捕鯨禁止運動や過剰な反原発運動はその範疇に属す。フェミニストに私が言いたい事は、神仏あるいわ自然が創造した子宮卵巣乳房などの女性性器はなんのためにあるのか、という事である。

アサヒ、セクハラ、慰安婦

2018-04-22 18:59:51 | Weblog
  アサヒ、セクハラ、慰安婦
 財務次官福田氏のセクハラ問題が話題になっている。事の当否は今後の事態の進展を見なければ解らない。いずれにせよ被害者というアサヒテレヴィの女性記者は堂々と名乗りを上げて事態解明に協力すべきである。氏名公表は二次被害を招くというアサヒテレビの主張は不公正であるばかりか論理的に矛盾している。この事に関してはすでに先のブログで述べた。参照されたい。繰り返すが氏名公表は女性の人権侵害云々の論旨は当たらない。セクハラ概念が定着した段階ですでに女性の人権は公的に保障されているのであり、事実を隠蔽してまでも人権なるものが微に入り細に入り保障されるいわれはない。
 ここで思い至るのはかってアサヒ新聞により捏造された「慰安婦強制連行」問題である。3年前アサヒはしぶしぶ自らの捏造を認めた。この捏造による報道が我々日本人の名誉を著しく傷つけたことは事実である。アサヒは捏造を認めるに際し往生際悪く、「しかし普遍的人権侵害の事実は残る」とうそぶいた。強制連行はなかった、しかし普遍的人権侵害は残るとは、どういう意味であろうか。慰安婦は戦時売春婦であった。金で雇われて売春に従事していただけだ。なら普遍的人権なるものは古今東西の売春婦にすべて適用されなければならない。アサヒは売春撲滅(事実上不可能だが)のキャンペ-ンを張りそのために行動しなければならないことになる。そういう話は一向に聞かない。売春という事実はある。多分不幸ことなのだろう。ここから朝日は一挙に飛躍して、売春イコ-ル強制連行とした。論理の不公正は明らかである。
 ここでセクハラと慰安婦の問題は重なる。今回のセクハラ問題で被害者なる女性記者を徹底的にかばい、事態を隠蔽するのは女性の人権なるものを不必要なほど強調することであり、売春婦である慰安婦を普遍的人権の名でかばうのと同根である。アサヒが今回のセクハラ問題で被害者なる女性をかばうのは、慰安婦問題での自己の重大な過誤を隠蔽しもみ消す試みではあるまいか。否、もっと論を進めれば今回の事件を契機として、再び慰安婦問題を蒸し返すための一ステップにする意図に基づくものではないのか。アサヒは英字新聞では相変わらず慰安婦の強制連行を述べているのだ。
 報道では福島瑞穂・連坊・辻本清美の三氏が黒衣で国会に登場し、喪を演出しデモをしたと言う。今回のセクハラ問題が果たして喪に当たるのか。馬鹿々々しい茶番であり演出だ。モリカケ問題の報道に際してもテレヴィは大騒ぎして演出した。事態を知っているのかどうか解らない・識見の有無も定かでないタレントを総動員して騒ぎ立てた。これも茶番である。テレヴィも新聞も自分の足元を見たらどうか。誰も新聞を買わないようになっているし、テレヴィ番組の稚拙さ凡庸さは周知の事実でありテレヴィ離れも著しい。政策提案能力のない野党に明日はない。ともに明日の無いもの同士のバカ騒ぎが演じられている。政治も国民もこのような愚劣な集団に巻き込まれともに滅びるわけにはいかない。
 麻生財務大臣は辞任する必要はない。このような事態での辞任は、野党と左翼マスコミのファッショ的な演出に屈することであり、民主主義議会政治の否定である。政府与党の各紙はそこのところをしっかり心得られて頑張っていただきたい。明日は我が身の事なのだから。
 ともかく今回のセクハラ問題の報道にアサヒが絡み先導していることは興味深い。なお付け加えればアサヒは、尖閣諸島はシナの領土だと主張している。
(付)アサヒのデジタル新聞にアメリカの国務長官が、日本ではセクハラが横行しているなどと述べた記事が載っていた。よく言うよと思う。アメリカではフェミニストの横行が著しく、世論は彼らに牛耳られている。慰安婦の強制連行を否定する大学教授はフェミニストの攻撃の的となり、辞職させられている。こういう現実では国務長官もあのように言わざるを得ないのだろう。余計な事を言うものだが。 

麻生氏の対応は正しい

2018-04-20 18:30:57 | Weblog
     麻生氏の対応は正しい
 福田財務次官のセクハラ問題なるものが論議を呼んでいる。事態の真偽はともかくとして、事態を憂いた麻生財務大臣は、セクハラ被害者の実態調査のために女性記者の協力を求めた。具体的には被害者は名乗り出てほしいということである。これ以外に実態調査の方法はない。麻生氏のこの提案に対して非難が起こっている。被害者が名乗り出る事は被害者の人権を無視するものだという。朝日テレヴィは被害者である女性記者が特定されると二次被害が生じると言う。
 この論理はおかしい。二次被害とは何なのか。結論から言えば、セクハラという概念が定着したことにより、女性は男性に対して対等あるいわそれ以上の立場に立ったことになる。セクハラという行為を認める事で、女性は反撃し主張する権利を得た。従ってセクハラを受けたという事実があらわになってもそれを恥じる必要は一切無くなった。論理として言えばそうである。被害を受けたのなら、実名で堂々と争えばいいのである。
 しかし多くの女性記者やマスコミはトラウマに触れる問題であるとしてあくまで匿名で対処するのが正しいと言う。この態度を認めると被害者なる者の立場はすべて隠蔽され保護されて、加害者のみが一方的に攻撃非難にさらされることになる。これは極めて不公正な事態である。暗黒裁判であり魔女裁判である。繰り返すがセクハラという概念が定着した段階においては被害者(本当は被害者とされるものと言うべきであるが簡明をきすためにこう記す)は自己を防御し加害者(なる者)を攻撃する権利を認められたのである。なら堂々と名を名乗り自己の主張を展開すればいい。同時にその主張に対する反論非難をも受ける責任も生じる。であるのに女性であることを理由に被害者の事態は一切闇に収められ加害者のみが攻撃される。繰り返すが不公正であり法の前での平等に違反する。
 セクハラ問題はフェミニズムと深く関係する。フェミニズムは女性を弱者と規定し、男女の絶対的平等というより同等を説く。一切の性差は否定されるべきものとされる。絶対平等とは性差のみならず一切の素質・能力・功績(に基づく格差)を否定するものである。劣位にある者(通常弱者と言われる)は保護され優位にある者(強者と言われる)は非難攻撃の的となる。劣位にある者は優位にある者を非難攻撃し放題であるが、後者は前者に対して一切の批判反論弁明は許されないことになる。このような事態が招来するものはあらゆる意味での社会的生産性の低下であり、また劣位優位は当事者の主観に任されるゆえに非難攻撃の応酬従って無政府状態である。民主主義と経済秩序はすべて破壊される。
 繰り返すが麻生財務大臣が、セクハラ被害者は名乗り出てほしい、と言われるのは正しい。反対に朝日テレヴィのごとく二次被害とか言い張り、被害者という人間の側の情報提供はすべて拒否するというのは間違いである。民主主義を破壊する重大な過誤である。

また出た「不祥事」???

2018-04-18 18:41:34 | Weblog
  また出た「不祥事」?????
 モリカケ問題が根拠なき印象操作による風評被害であることは前回のブログで述べた。ここでこの点を整理要約しておく。モリカケ問題は朝日新聞に領導される左翼マスコミとその手先別同部隊である野党(維新は除く)による人民裁判・ファシズムである。根拠なき風評を煽り立て、デモを挙行し、議会の運営を停止するなどはファシズムでしかありえない。この行動の結果野党支持は伸びたであろうか。むしろ減少している。結果として政府与党は委縮し野党は幼稚化し、政治は脆弱なものになっている。
 このようなやり口は100年前のロシア革命を思い出させる。当時ボルシェビキ(ロシア共産党)は議会で多数派ではなかった。民衆一般においても多数派ではなかった。ボルシェビキは最大の多数派SR(ナロ-ドニキの後裔)と一時共闘し、合法的政府を打倒し政権を握ると一変し詐欺と暴力でSRを倒し独裁的権力を獲得した。その過程にあって一部の労働者を組織し彼らをもって世論を扇動せしめ政府を動揺させどさくさに紛れて権力を奪った。
 今回の左翼マスコミのやり口はロシア革命におけるボルシェビキのそれと同じである。韓国でも同様の事態に立ち至っている。北朝鮮の共産主義者を背景にしてデモを繰り返し世論を扇動して選挙に勝って韓国現政権は生まれた。韓国の政治はこのような事態のくり返しである。
 韓国のようになってもいいのか?モリカケ問題を基盤とする左翼マスコミの扇動が成功すれば同じやり口は繰り返され政治行為は壊滅してしまう。
 さて今回提起された新たな「不祥事」とは福田財務次官のセクハラとかいう問題である。実際どのような事があったのかはまだ分からない。報道によると福田氏はある女性記者をバ-に呼び寄せたということである。取材するならもっと他の場所がある。福田氏の不見識は批判されるべきである。ただこのセクハラ事件なるものは福田氏個人の問題であって、政権そのものとは関わりがない。福田氏の直属上司である麻生財務大臣にしてもセクハラまでは及びつかなかったであろう。
 私に言わせれば、行く方も行く方である。酒が入るところでは状況雰囲気は変わる。それを知っていて女性記者は赴いたのである。そして会話を録音しセクハラだと騒ぎ立てる。意図してそうしたとしか思われない。言ってみればハニ-トラップ・美人局の類の行為を連想させる。酒を飲めば女の尻くらい触るのは当たり前である。嫌ならそんなところに行くな。
 私が疑問とするのはこの女性記者が匿名であることである。加害者(?)の名が公表されているのなら被害者(?)の名も明らかにされるべきではないのか。不公平である。まして被害者(?)は記者ジャ-ナリストであり、人前に顔をさらすのには慣れているはずである。名も公表せず加害者(?)を一方的に責めるのは不公平というものである。告訴に持ち込むのなら納得できるが、週刊誌に録音記録を提供している。意図してなされたセクハラなる事態としか思えない。
 麻生財務大臣は、他の女性記者からも同様のセクハラ(?)行為があったか否か尋ねようとした。とたんに女性の人権にかかわると言う反論が為される。セクハラがあったらあったで名を公表しても別に人格を毀損する事にはならない。セクハラという事件が疑われた。ならその事件が事実か否かの確認はされるべきである。アンケ-トかなんかで調査するしかない。このさい氏名公表はありうる。それがだめだと言うのなら、裁判は一方的に成り被告は罪人であることから決して免れないことになる。これは一種の魔女裁判であり、ファシズムの一形態端緒でもある。男女平等なら氏名の公表も平等でなければおかしい。福田氏の名は公表された。この時点で彼の名誉は毀損された。なら名誉を棄損した可能性のある女性記者の名も公表されるべきである。裁判に持ち込み堂々と論戦するべきである。そうもせず正式の告訴もせず地下ル-トで資料と情報を週刊誌に流している。卑怯である。繰り返すがある意図を感じさせる。
 私はそもそもセクハラなる概念に疑問を抱いている。男性が何かする。この行為を受け取る女性が、それを不快だと思えば、セクハラが成立する。つまり女性の受け取り方・機嫌しだいと言う事である。これでは男と女は隔離されない限りセクハラはなくならない。男女の性的心理生理は異なる。男性がセクハラをされたと思う事はまずない。男性は美人を選び、女性は金持ちを選ぶ。これは古今の通習である。なんなら結婚相談所へ行って聴いてみればいい。男はおのれを知る者のために死に、女はおのれを娯ぶ(よろこぶ)者のために形作る、のである。私は妻が美人だったから結婚した。ブスなら結婚しない。私はそう思うが現在では男女平等と言われこのイデオロギ-は先鋭化して男女の性差は否定されている。何もかも男女平等、といいながら重労働は男性に任されている。不公平である。私はもし私の妻あるいわ恋人が襲われたら命を懸けて守るべきと考えている。男女性差なしなら、このように考える男は居るだろうか。安倍総理は、女性が輝く社会とか言われた。私は別に女性に輝いてほしいとは思わない。台所でおとなしくしていてくれればそれで十分である。輝ける女性の茶番が安倍昭恵氏である。
 セクハラなる概念は女性を一方的に被害者とする。女性は常に被害者と言う特権を確保する。だから今回の福田氏の事件は政府に不利に作用する。単なる一個人の「不祥事」だがその影響は無視できない。
 公明党・創価学会の方々にお尋ねする。今回のセクハラ事件なるものは30年前のある事件を想起させないだろうか。かって池田名誉会長(当時は会長?)が公明党のある女性議員と特殊な関係にあったと週刊誌などに書かれていた。池田氏のステテコに口紅のあとがあったとか書かれていた。私はそのようなことは信じなかったが週刊誌は騒いでいた。今回の事件と重なる。
 一部の人は解散だとか騒いでいる。誰が安倍総理の後継者になるのか。野党にはあらゆる意味で政権担当の力量はない。自民党内で政権交代しかありえないが、率直に言って安倍氏に代わる人材はいない。巷間取沙汰される石破氏には憲法改正への意欲が本当にあるとは思えない。それに石破氏は均衡財政論者である。ここで下手に均衡財政を志向されると景気はまたデフレになる。
 五年間にわたるアベノミクスの結果景気は回復した。麻生氏の言は少し大げさではあるが事実そうである。株価は最低時の三倍になった。輸出は増大している。介護やコンビニでは人が集まらなくて悲鳴を上げている。公務員や公立学校では優秀な人材が民間企業に行くので下流大学からでも採用しないといけなくなっている。大学卒業予定者の就職内定率は過去最高である。賃金も上がった。これらの現象はアベノミクスのおかげである。ここで指導者が変わると景気は悪化しかねない。民衆は恩知らずである。都合のいい時には沈黙し、都合悪くなれば言い立てる。六年前の民主党政権時代を思い起こそう。財務官僚の言いなりになって経済は無策、潰れかけ寸前の企業も多かった。シナの漁船が海上巡視艇に体当たりをしても情報は秘匿してシナになんの抗議もしなかった。
 一部では解散だと言い始めている。扇動し混乱させるのがマスコミの常套手段である。乗せられないようにしよう。

いつまでモリカケ問題なのか

2018-04-14 17:35:51 | Weblog
いつまでモリカケ問題なのか
 4月9日から13日の報道でまた加計問題に関する文書が発見された。愛媛県の職員が「総理の御意向」と書かれた文書を保管していたという。ついで日本TVの記者が同様の内容の文書を農水省内に見つけたと言う。
 それにしてもタイミングよく問題になると言う文書が現れるものだ。昨年2月に森友学園問題が騒がれてから、まず籠池氏の証言なるもの、ついで前川喜平氏による怪文書の騒ぎ、それで一段落したと思うと本年に入って公文書改竄の問題、更に防衛省内における事件不報告、そして今回の愛媛県農水省での文書だ。相手がほっと安心したところを狙って時宜的に打撃が加えられる。そしてそれらの問題はすべて安倍総理の意図に結びつけられる。タイミングが良すぎる。そこには計画された人為性と執拗な悪意を感じさせる。
 これらの問題には共通点がある。証言にせよ、文書にせよ、それらはあくまで風評の類であって、安倍総理の意図であると立証されるものは一切ない。また内二件は財務省と防衛省の官僚の意図と怠慢でしかない。今回の「総理の御意向」なる文書にしても愛媛県の職員が一方的に書き記したものであり、これはその職員の感想にすぎない。総理秘書官がこの職員にあったとか云々されるが、会ったかもしれないし、そうでないかもしれない。秘書官は多忙である。いちいち自分が言ったことの詳細を覚えているわけもない。まして相手がどういう印象を持ったかに関してまで責任を取れるものでもない。秘書官のなにげない言葉を愛媛県の職員が一方的に「総理の-」云々と取っているかもしれない。愛媛県の文書は備忘録であるが、それならその内容は備忘録を書いた人間の主観に左右される。偽造可能でもある。その可能性はないのか。
 左翼マスコミはこのような風評的論拠をもって安倍退陣と騒いでいる。その尻馬に載って野党(維新は省く)は安倍総理に悪罵を投げつけているが、この際野党は左翼マスコミの手先小道具走り使いでしかない。あくまで主役は朝日新聞を主とする左翼マスコミである。もし事件になるのなら、安倍総理が加計氏に利益をはっきり供与しその見返りに現金を受け取ったことが立証された場合である。そのような事は一切ない。ただ疑わしい風評を流し、それも小出しに出しつつ、攻撃を加え相手の失脚を狙っている、繰り返すがそこには執拗な悪意を感じる。
 私が断固安倍総理を支援するのは、総理の意図が憲法改正・刷り込まれた戦後レジ-ムの総決算にあるからである。「美しい国、日本」という発想にも共感する。同時にそのことが左翼マスコミの安倍攻撃の背景になっている。ともかく憲法は改正してもらわなければならない。このままでは防衛力に支障をきたす。野党は、安倍総理のもとでの憲法改正はダメ、とかわけの解らないことを言う。安倍総理だから改正ができるのであって、野党の言う事は憲法改正は一切ダメと言うに等しい。モリカケ問題は突き詰めれば憲法改正断固阻止ということになる。
 さて憲法改正が阻止されて一番喜ぶのは誰であろうか。共産シナである。彼らは日本の国防が充実するのを恐れている。左翼マスコミの背後にシナの影を察知する事は容易である。朝日とシナとの50年にわたる蜜月を考えると朝日及び他のマスコミにシナの影響力が及んでいることは充分考えられる。洗脳されるとか金銭の支援を受けるとかの形で。沖縄の反基地闘争や反原発訴訟に多くのプロ市民が参加しているが、彼らの生活費はどこから出ているのだろうか。それでなくてもシナの政治は極めて不透明であり、情報統制は厳しく、また政府に支援されたハッカ-の活動は周知のことである。北京五輪の聖火ランナ-が長野を通過した時シナ人数千名が走路に人垣を作り一般日本人のみならず日本の警察も近寄せなかったことは記憶に新しい。シナは孔子学院という疑似学術機関を世界中に設置し共産指嗾の普及に努めている。
 中央地方の官庁の職員は自治労はじめ労組に加入している。官公労組が極左なのは周知の事実だ。彼らも今回の問題で暗躍しているのではないのか。疑わしい。シナや日本の左翼マスコミが暗躍して政府転覆を企てるのなら政府も対応を考えなければならないが、残念なことに日本には政府直属の諜報防諜機関がない。こんな国は日本くらいだろう。作ろうとすれば左翼マスコミや野党が反対する。
一年以上にわたるモリカケ問題の報道を見ていていささか疲れた。その時はっと気が付いた。疲れさす事これが左翼の狙いだなということだ。保守の方々就中自民党の方々疲れずにじっくり対処して左翼の陰謀と断固戦ってください。次はどんな文書が出てくるのか楽しみでもある。
 考えてみると安倍総理も余計な事を言ったものだ。事件に関与しておれば辞職すると。これで退路は塞がった。総理としては自己の潔癖を知らしめるためだったのだろうが、相手は義理も人情もない左翼だ。またこんな無益な論戦を続けておれば政府は疲れる、本来幼稚で政策能力のない野党はいよいよ幼稚になる。政治が幼弱になり無秩序になることを私は恐れる。

シナの経済発展の数値

2018-04-06 17:11:20 | Weblog
  シナの経済発展の数値
 数日前産経新聞にシナのGDPに関する報道があった。それによるとシナのGDPはアメリカの6割、日本の倍以上とのことである。保守主義の産経の報道だけに気になる数値である。この数値は真実なのか。私の知見の及ぶところで思考してみた。
 疑問の第一はシナ国内での過剰投資である。人の住まない建築物(鬼城)が非常に多い。高速鉄道は空気を乗せて走っている。この種の実需なき建築土木への投資もGDPに数えるのか。シナは鉄鋼などの工業産物を採算を度外視して輸出している。アメリカとの貿易摩擦はシナの安売りのせいである。これも過剰投資である。一帯一路などの政策は過剰な生産物のはけ口としか思えない。
 国営企業はどうなっているのか。国営企業はシナの企業の半数近くを占め、そして極めて不効率、赤字である。シナはこの国営企業を温存せざるをえない。一つは一党独裁下の政策遂行のためである。またこの国営企業を民営化すれば膨大な失業者が出て暴動が起き治安が乱れるのを恐れるが故にである。国営企業はいわば生活保護団体闇市場化しているのであるが、こういう場合利益賃金などの数値は操作されやすい。この事もGDP押し上げの因子となっているのではないのか。
 シナでの汚職は日本人の予想をはるかに超えている。汚職で訴追された人間の数は5万人を超え、高級官僚でも100人近い。汚職の金額はGDPの何割かになる規模である。そしてこの汚職により得られた金は安全のため非合法的手段で国外特にアメリカに持ち出されている。汚職により得られた金は表面上は必要経費として計算される。この事実も仮構GDPの数値に大きく寄与している。
 シナの環境汚染はひどい。汚染対策をせざるを得ない。一方汚染は容赦なく続く。汚染は負の価値であり、汚染対策はそれをゼロに戻す措置である。しかし汚染対策事業はGDPに編入される。これも仮構GDPの一部を形成している。市民はPM2・5対策用のマスクをかぶっている。黄河下流の水は流れているのか。
 もともとシナは共産主義であり、土地は人民共有あるいわ国有であった。この土地はどうして私有化されたのか。答えは簡単である。一党独裁下にあって党幹部の力は想像を絶するほど強い。権力に任せて彼らが強奪した。そして農民大衆はまさしく無所有のプロレタリアになり低賃金労働者となった。土地はタダ賃金は安いつまり経費は極安となれば作られた製品の付加価値は計算上非常に高くなる。GDP押し上げの一要因である。
 企業の価値値段は株の価格でしか計れない。株式が資本調達のための人気取り人寄せパンダである以上株式で計算される企業の価格は実態価値より高くなりやすい。シナのような透明性に著しく欠ける国では株式の操作は極めて容易である。GDP押し上げの要因はここにもある。
 以上がシナのGDPが仮構されていると推論する直接的根拠である。次にシナ経済の闇虚構を示唆する間接的事実を列挙してみたい。
 何故習近平は権力を集中し独裁を目指すのか。経済が発展すれば民衆は豊かになり国内は平穏になり民衆は満足し海外進出のための軍備の必要性は低下する。しかし現実は逆である。むしろ経済発展が思うように行かず、民衆の不満をそらすために海外との軍事的対立を煽っているのではないのか。当然そこには国内治安への不安の問題も含まれる。シナの軍事要員の半分は治安対策に割かれていると聴く。
 何故チベット・ウイグルでは騒乱が絶えないのか。シナがこれらの地域にしかるべき投資をし生活を豊かにしておれば争乱の規模頻度は激減するはずだ。それができないのはシナ自身が貧乏であるからではないのか。チベット・ウイグル地域で行われていることは資源略奪ではないのか。日本はある時期朝鮮台湾を植民地(?)にした。同時にこれらの地域に徹底的に投資して民度を豊かにした。目立つほどの争乱は起こっていない。
 シナはなに故北朝鮮に投資しないのか。シナ経済が言われるほどの発展をしていれば1000万か2000万の人口しか持たない小国へ投資して平穏を保てさせる事ができるはずだ。そうなら現在東アジアを脅かしている核ミサイルの問題はないはずだ。
 シナでは農村と都市の戸籍という二重性は解消しているのか。そうだとは聴かない。戸籍の二重性は、都市住民の生産性・学術技術水準従って企業の競争力を挙げる手段だ。その分農民は貧困下に置かれている。各地方間の移動移住は制限されている。農民には旅行する権利さえない。いわば国民は二種に分断されている。これは国内治安上重大な危機要因である。シナ経済が順調に発展しておればこんな事態はないはずだ。地方間には事実上の関税障壁があると聞く。
 シナは鄧小平以来40年社会主義的市場経済成るものを実施してきたが、言われるほどの数値に値するブランド企業が育っていない。シナの車が日本で使われたとは一向にきかない。これはシナの技術と輸出力の限界ではないのか。シナより後進的なインドやヴェトナムの追い上げを食らうのは必至だ。知り合いに特許訴訟専門の弁護士がいる。シナと日本の特許件数がほぼ等しくなったので、そのことに関して聴いてみた。彼の答えは単純だった。シナの技術レベルは低く日米欧との特許訴訟の相手にはならないということだった。また彼はシナの企業は約束された弁護費用を平気で踏み倒す、訴訟するより特許をパクった方がいいと考えている、とも言った。彼によればシナ(および韓国)の知的財産権無視は確信犯的だとも言った。シナには山塞文化という言葉がある。山塞とは盗賊山賊の根拠地のことだ。水滸伝の梁山泊を想像すればいい。山塞文化とは盗賊が横行し盗賊によりとりしきられる文化を意味する。要は偽物は作り放題ということである。工業製品のみならず演劇音楽そしてタレントなどもすぐ模倣され宣伝される。どちらが優秀かは解らないくらいだ。そしてこの山塞文化への賛否は相半ばするというから驚く。賛成派は模倣は創造に連なるという。我々の常識を超えている。ある漢人(シナ人ではない)が、日本でドラえもんが発売されたら三日以内にその海賊版が出ると言って自慢していた。私は、それは著作権侵害ではないのかと、言ったらキョトンとしていた。シナでは大学の就職率や企業の皆勤率の大幅な水増しは日常茶飯でどこでもやっていることだ。
 シナの社会保障は非常に貧弱である。年金は低額で農村地域では月額千円くらいだとも言われる。老後の生活保障など望むべくもない。だから赤ん坊の略奪と売却が行われる。ちなみにシナでは人身売買は合法だ。医療などはどうなっているのかさっぱり解らない。何分とも闇の部分が多い国だから。社会保障の貧弱さは内需の貧弱さの結果でありまたその原因でもある。
 シナでは少なくとも10年以上前から大学卒業生の就職難がある。中国語会話の題材になるくらいだか就職は厳しいのだろう。失業率が高いということだ。言われるほどのGDPならこんな事はあり得ない。
満州はどうなったのか。第二次世界大戦終戦後の時期において満州の工業力は全シナの95%だった。毛沢東が蒋介石に勝利したのは満州を掌握したからだった。現在満州はシナでも貧困地区に落ちぶれている。本来成長すべきところが成長していない。GDPの増加と実体経済との間に乖離があるのではなかろうか。
シナ経済の内外資産の差はどうなっているのか。シナが海外に持つ資産と外国がシナ国内に持つ資産の差額はいくらなのか。その差はマイナスである。
 人材・人的資本は本当に育っているのか。シナ共産党は国共内戦、大躍進、反右派闘争、文化大革命で既存の文化を破壊し人的資本を抹殺してきた。この傾向はシナの有史以来著名である。易姓革命による王朝の興亡。これがシナの歴史である。わずか40年で徹底的に破壊された伝統文化あるいわ文化の伝統は回復されるのか。何もない膨大なバラバラの人間のみある状況においてシナは外資と低賃金で経済を再生しようとした。外資で人的資本は育たない。人的資本はまず国内の農業そして工業の着実な歩みの中で形成される。これが文化の伝統であり、内需の基盤である。外資だけで人材を育成しても、結集した集団としての人的資本は育たない。育成された人材は外国に逃げるか、国内でバラバラに小さな企業を作るかである。結集した人的資本のみが創造的であり得る。人的資本が内需の基盤である。シナ経済では内需が著しく貧弱だ。経済発展は止まる。内需の蓄積のないところに経済の安定した発展はない。
 シナの経済は党指導部の上意下達により極めて素早く実行されるという。これはかってナチスドイツやソ連で試みられ称賛されてきたことである。速やかな指示命令の下達実行は反面、指導部の朝令暮改、命令系統の混乱、命令される側の意欲停滞、創造性の喪失を産む。命令が有効に伝達されるためには、豊かな人的資本の蓄積そして安定した官僚層の存在が必要になる。そうでなければ上部下部共に恣意が横行し、汚職は蔓延し、格差は広がり、治安は悪化する。
 シナは政治的意見を抑圧し、経済活動のみ解き放った。ある意味で壮大な実験であるがこのような形で真に発展しえた国はない。あるのは無秩序、無政府、財貨の奪い合いであり、契約の無視と倫理の欠如である。
 最後に言いたいことは、共産制度下に倫理はありうるのかということである。経済行為とは契約であり、契約を護ることが倫理である。かかる視点からシナ経済を監視してゆこう。