経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

   経済人列伝   石黒忠篤(一部付加) 

2020-01-31 16:39:19 | Weblog
経済人列伝  石黒忠篤(一部付加)

 石黒忠篤は1984年(明治17年)東京に生れました。忠篤の先祖は戦国時代の上杉氏の家臣まで遡れますが、謙信の死と同時に浪人し越後の国で帰農して、代々豪農として栄えます。忠篤の5代前、信濃川から分水して農地を開墾しようとする試み失敗し、貧乏になります。祖父の代から幕府代官の手代(地方採用の事務員)になります。父親は勤皇の志に燃えて活動します。また佐久間象山の影響を受けて、医師を志望し、江戸医学校(東大医学部の前身)に入り、学問を修めます。明治初期に医療制度創設に尽力して初代軍医総監になり男爵、更に子爵に叙せられます。
 忠篤は華族の子弟としてのんびり育てられました。東京師範学校付属の幼稚園、小中学校とエスカレ-タ-方式で進学し、東京第一高等学校を受験します。当然合格すると思っていたのに不合格、新設された鹿児島第七高等学校に入学します。東京大学法学部に入り、25歳時卒業します。学生時代トルストイと二宮尊徳の影響を受け、自然を相手に労働する素朴な農民生活に共感し、なんとか農民の生活に資する職はないかと模索し、農商務省に入り農政一筋に生きます。
 大正4年32歳、1年間欧州に留学します。大正8年農政課長になります。この頃全国には澎湃として小作争議が勃発していました。政府も対策に本腰を入れます。主務者は農政課長である忠篤です。彼は真剣にまた情熱をもってこの問題に取り組みました。農政課の中に、小作分室を作り、このグル-プで小作問題を検討します。やがて分室は小作課新設に発展し、忠篤は自らこの新しいポストに就きます。忠篤は徹底して実証を重んじました。無類の調査好きです。小作慣行調査を全国において実施し、小作の実態をつかもうとします。こうして小作調停法案、小作法、自作農創設維持規則ができます。彼は「自分は百姓になれなかったので、百姓の世話をすることで、今日に至っている」と常に言っていました。41歳農務局長になります。前後して農商務省から農林部門が分かれ、彼が所属する官庁は農林省になります。大正15年忠篤は、自作農創設事業に取り組みます。全国の小作農に、日歩四分三厘、1年据え置き、24年後元利償還という条件で融資し、小作地の買い取りを援助します。うち一分三厘は国庫が負担します。私の計算では、年利が1%前後になり非常な低利です。さらに年賦償還金が小作料を超える土地には、法を施行しないという条件も付けます。こういう法案を熱心に施行したので忠篤は「アカ、左翼」とみなされたこともあります。
 この間肥料問題に取り組みます。明治末年頃から日本の肥料消費量は飛躍的に増加します。それだけ農業が発展しつつあったということです。忠篤は肥料価格の安定を計り、特に硫安の増産を進めます。昭和5年の時点で硫安の輸入総量を国産総量が上まわりました。蚕糸業にも関心を示します。自ら蚕糸局長になり、品種改良(蚕と桑)、蚕糸技術の改良、蚕糸の価格安定と需給調整、生糸と絹織物の海外宣伝に努めます。当時明治末年から戦後にいたるまで、蚕糸つまり生糸と絹は綿糸・綿布と並んで日本の輸出の花形でした。
 米価調整にも取り組みます。大正10年までの10年間米価は著しい騰落を繰り返し、極めて不安定でした。11年米穀法が施行されやがて米穀統制法、米穀配給統制法、そして昭和17年の食糧管理法に発展してゆきます。忠篤は綿密な調査を行い、統計を駆使しあるいは新しい統計を導入して、生産費調査、農家経済調査、農業経営調査などを行います。彼は基本的には主食である米穀の販売は国家により調整(統制)されるべきだ、という考えの持ち主でした。農家簿記の普及にも尽力します。
 昭和の始めには恐慌が相継ぎました。農村は荒れます。農家の娘の身売りが問題になった時代です。農林省に経済厚生部が設けられます。全国の農村を対象として、毎年1000町村に総額500万円の厚生資金が低利で融資されます。時の大蔵大臣は高橋是清であったのでこの案は日の目を見ます。農村負債整理組合法が創られ、農村厚生協会が創られ、国庫助成で農民の修練道場が創設されます。更に新設された農村自治講習所はやがて加藤完治の指導のもとに日本国民高等学校に発展します。これらの事業のすべてに忠篤は深く関与しています。厚生協会、自治講習所、国民学校などの目的は、農民の農民としての自覚を促し、農業(経営)技術を習得せしめ、併せて農民の団結を促進することにあります。これらの作業の延長上に農民の満州移民があります。忠篤は移民に熱心で何度も満州に渡っています。
 昭和16年(1941年)第二次近衛内閣の農林大臣に就任します。食糧増産を促進し、茨城県内原に20000人の農民を集め、農業増産推進隊を作ります。芋類特にサツマイモの増産を計り、全国の荒蕪地や空き地にサツマイモを栽培させます。単位面積あたりのカロリ-生産量はサツマイモが一番だそうです。
 昭和20年鈴木内閣の農林大臣になります。農村労働力の減少を歎き、国内の食糧の絶対的不足を痛感し終戦のやむなきを説きます。6月忠篤は天皇陛下に拝謁し、食糧の絶対的不足という状況を前提として、「これだけでも戦争をやめる理由は十分にあり、これ以上戦争を続ける理由はなく、国民の生命を損ずる問題は、敵の銃火をまつまでもなく、食糧の不足から生ずる状態が、国内に生ずるのは明白です。これ以上国民を傷めないためにも、戦争をやめるべき時にきていると存じます」と奏上しています。
 敗戦、昭和21年忠篤は追放になります。26年追放解除。ほとんど同時に改進党総裁就任の話がきます。総裁に就任していたら、石黒内閣が誕生していたかもしれないと言われています。特に夫人の反対もあり、この話は断ります。昭和27年参議院議員の静岡県補欠選挙に緑風会から立候補し当選します。緑風会は、貴族院から転じた第二院である参議院の中の会派で、党議拘束なく個々人の判断で行動する議員の集団でした。良識派の牙城と言われました。忠篤はこの緑風会の方針に頑固なまで、やや空想的なまでに、固執し、緑風会の存在を擁護し続けます。彼の努力に反比例して、一時は参院で最大会派だった緑風会は衰勢に向かいます。資金力と動員力に富む団体を背景とする候補がのし上がってきます。参院補選に関してはおもしろい逸話があります。自由党は選挙で緑風会と対立する立場にありましたが、時の総裁吉田茂はあえて静岡県では忠篤を応援しました。
 追放中、忠篤がなんにもしなかったのではありません。かなり野放図にずうずうしく活動しています。戦後復員してきた人口に対する失業計画として、北海道に開拓農民を移住させる方策を検討し発案します。全国の農民に呼びかけて、信州諏訪で全国農民連合会を結成し、食糧増産と農村の経営改善に尽力します。追放解除後の昭和29年、この会の会長に就任しています。昭和24年新穀感謝祭の復活を唱導します。この感謝祭は新嘗祭の全国版であり一般化ですので、神道に警戒的であったGHQの強い反対に会います。忠篤がこの運動を中止したと言う形跡はありません。鷹司信輔明治神宮宮司と協力して、新穀感謝祭の復活を推し進めます。
 昭和35年(1960年)心筋梗塞で急死します。享年77歳でした。忠篤の人生を省みますと、華族の子弟らしい、おおらかさ、お坊ちゃん気質が明白に観取できます。大声で談論風発し、隣室で聞いていると喧嘩と誤解されることもよくありました。事実よく怒り怒鳴りました。部下には、怒るのは私の趣味だと、言ったという噂もあります。彼は二宮尊徳に心酔していました。ですから基本的にはリベラリストです。同時に農本主義者でもあります。その分農政の国家統制を容認しました。彼は、尊徳は倫理道徳の代名詞のように扱われているので、尊徳の偉大さは理解されていないと、言いました。事実その通りです。この列伝でも尊徳を取り上げました。尊徳の「二宮翁夜話」は一読再読三読するに値する傑作です。

  参考文献 石黒忠篤 時事通信社

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

源氏物語、なぜこのような大作が生まれたのか「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-01-31 13:57:10 | Weblog
       源氏物語、なぜこのような大作が生まれたのか)
 という問題意識ですが、この大門題を語る前に源氏物語の概略を述べておきましょう。あらかたは本文に書いてありますがもう一度要約しておきます。源氏物語は次のように文節されます。

① 帝の桐壺更衣に対する非常な寵愛。光源氏の誕生。心身頭脳すべてにおいて超優秀な光の君。桐壺更衣の死。光の臣籍降下。
② 藤壺中宮の入内。光にとっては義理の母親。桐壺更衣の形代としての藤壺。光は藤壺に可愛がられて育つ。光の藤壺への愛情。母性への憧憬から異性間の愛情へ。
③ 藤壺との密通、同時並行で藤壺の姪若紫の強奪。闇(影)の藤壺である六条御息所との情交。朧月の内侍との密通の発覚。
④ 須磨配流。嵐の試練。明石入道と明石前の登場。
⑤ 赦免、復活、昇進。
⑥ 不義の子冷泉天皇を建てて藤壺と光の共同執政。準太政天皇に。六条院での栄華
 (以上藤裏葉の巻まで)
⑦ 兄朱雀帝の娘女三宮との結婚。女三宮と義理の甥柏木の密通。不義の子薫大将の誕生。因果応報。光の死。
  (以上若菜上下から雲隠巻まで)
⑧ 薫の宇治訪問。八宮の娘大君との出会い、大君の死、大君の異母妹浮舟との出会い。
⑨ 薫と匂の間で迷い苦悩する浮舟。浮舟の失踪入水。
⑩ 横川の僧都による浮舟の救済。浮舟の出家。
    (以上橋姫巻から夢の浮橋まで、通称宇治十帖)

 以上の物語の極めて簡単な概略を更に要約すると、喪失-侵犯-懲罰-赦免-復権-栄華-転落-主題の繰り返しと許し、の系列に収約されます。
 光は母性と地位を剥奪され喪失し、その回復を求めて義母藤壺と密通します。結果が須磨配流という懲罰です。そこから一転して復権が始まります。藤壺との共同執政、準太政天皇、内親王との婚姻(内親王との婚姻は即位可能を意味します)。そして運命は暗転し源氏は、したことはされる、という因果応報の原理のもとにやがて消えてゆきます。宇治十帖はそれまでの正編の主題の繰り返しであり、源氏の葬送であり、源氏の延長代理である浮舟の入水・出家すなわち救済をもって物語は終わります。
 物語全編において重要な巻は若紫巻と須磨・明石巻です。前者で近親相姦という侵犯が行われ、後者では源氏は赦免され権力意志に目覚めます。王朝のスキャンダリスト業平から覇者道長に転身します。明石の巻で出現する明石入道は許す父権の象徴です。こうして栄華を極めますが、源氏が皇位そのものを狙った時凋落が始まります。この放蕩者から権力者への転換は、そしてそこに介在する明石入道の存在は、法華経の展開そのものです。宇治十帖の浮舟の出家で初めて「人」が出現します。あるいは「自我」が設定されます。これが源氏物語の要約です。詳しく書くときりがありません。それ以上は「源氏物語の精神分析学」を参照されるか、源氏物語そのものをお読みください。源氏物語なら谷崎訳を勧めます。
 宇治十帖について追加します。浮舟は横川の僧都によって救済されましたが、この僧都にはまごうかたなき歴史上のモデルがあります。往生要集の著者、比叡山の横川に隠棲し、本来の僧侶の生き方とは違う人生を送り(このような僧侶を日本で聖人といいます、せいじんではありません、しょうにんと詠みます)平安浄土教の主導者となった源信です。ここで作中の横川の僧都と源信は重なります。紫式部の信仰は多分浄土信仰(当時の風潮からして)だったと思いますから、源信は式部に重なります。ということは物語の最後で式部が浮舟を抱きとり、浮舟と自己を同一視して物語は完了します。式部自身、身の程をわきまえねばならない下級貴族受領層の娘であり、摂関家の家司(家来のようなものです)であったのですから。式部の歌を一首挙げてみましょう。
 「水鳥を水の上とやよそに見む、我も浮きたる世をすごしつつ」
自己疎外の感情が読み取れます。式部は浮舟を抱きとる事によって、自己も浮舟も救います。こうして式部も浮舟も「人」となります。
 作中で光は明石入道により救い取られて変身します。作品の末尾で浮舟は式部に抱き取られて「人」となります。二つの過程は法華経の構造そのものです。法華経に関しては後に解説しますが、法華経の基本構図は弟子たちが仏陀と闘争角逐し仏陀に抱き取られる形で菩薩になり菩薩道(人間として是なる社会的活動をする事)を実践することにあります。こう考えると式部は法華経が内包する論理をほぼ理解していたと考えられます。先にのべた源信にしても浄土教の喧伝者でありつつ熱心な法華経の研究者でもあったのです。源氏物語は明らかに法華経と構図を一にします。法華経は雄大な思想でありまた文学です。法華経の構図を背景としてのみ源氏物語という雄大な作品は生まれました。次に文学史の観点から源氏物語成立の機序を考えてみましょう。
 源氏物語は「物語」です。物語には二つの系譜があります。「歌物語」と「作り物語」です。歌物語は、和歌と和歌の間に簡単な文をさし込みます。それは和歌が作られた時の状況でもいいし、また作者個人の感懐でもかまいません。日記という形を取ることもあります。作り物語は意図的に自己以外の主人公を作り、彼あるいわ彼女の活躍を叙述する形を取ります。主人公は簡単には造れませんので最初は異界つまり人間世界以外のところから採ってきます。日本の作り物語の最初は「竹取物語」です。主人公は天界から一時追放されたかぐや姫です。第二の作り物語は「宇津保物語」です。ここでは主人公俊蔭はかなり人間化されていますが、まだ天界つまり神様の世界のしっぽを付けています。「落窪物語」に至って主人公は継子として迫害される落窪ですから、人間社会の存在になります。
 源氏物語は歌物語と作り物語双方の合流点に位置します。前章で述べましたが、源氏物語には詠まれた歌と引歌双方あわせて1000首以上の歌が動員されています。だから源氏物語は歌物語でもあります。同時に神と見まがうばかりの貴人「光源氏」が主人公ですから作り物語でもあります。しかし光源氏はその才質が超越的であるだけにまだまだ異界の衣を脱ぎ捨てることはできません。ここでもう一回転機が訪れます。それは「我れ」という概念の導入です。作者紫式部は極めて我意識の強い人でした。しかし「我れ」という主題は彼女の発見ではありません。「我れ」意識を初めて文学の形で述べたのは「蜻蛉日記」の作者右大将の母であり、「和泉式部日記」の作者和泉式部です。前者は、夫独占願望が強く嫉妬深い女性であり、夫藤原兼家(摂関政治の確立者)への嫉妬でもって「我れ」を主張しました。後者は敦道親王との4年に渡る恋を主題とする恋日記の中で恋する女を(それは不貞不倫でもありますが)肯定し主張しました。これも「我れ」です。紫式場はこの二人の先輩が発見した「我れ」を歌物語と作り物語の接点に置きます。もちろん「我れ」は神様の世界の中では存在しえません。
「我れ」は単純な点ではありません。人間は生まれ、保護され、教育(懲罰)され、反抗し、分離し、新しい性対象を見つけ、社会的役割を獲得し、やがて死にます。この過程は保護、喪失、反抗、懲罰、分離。自立と要約されます。この過程をたどるに当たって一番の難関は古い対象である親から新しい対象である性対象への移行です。ここで新旧の対象は必ず相違し必ず相即します。この矛盾した過程を「近親相姦的願望あるいは複合体」と言います。紫式部がそこまで考えたかどうかは解りませんが、彼女が「我れ」という概念をもって主人公「光」の人生を、喪失、侵犯、反抗、懲罰、復権、栄華、そして転落という風に分節したことは事実です。主人公の内面が分節されると、それを取り巻く外部世界も自動的に分節されます。人間は社会的動物ですから必ず成長します。八歳の児童は三歳の幼児ではありません。二十歳の青年と五十歳の成人の考え方は違います。人間は異質なものへ異質なものへと変貌してゆきます。つまり一本の人生は滑らかなものではなく、諸処に節目を持ちます。換言すれば人生は分節化されているのです。紫式部はこの本来人間が持ちうる変貌への洞察をそのまま主人公「光」に適用しました。
 和歌(より一般的に言えば文学)は自己の心情を述べるか、外の風景を描くかどちらかの方法を採ります。この二つの手法は本来併存します。だから和歌は同時に散文をも含み得ます。だから歌集と歌日記と歌物語の境界は曖昧です。和歌は心情告白の重要な手段です。それをかなりな程度自覚化したものが、歌日記であり、歌物語です。和歌は「我れ」を内包します。蜻蛉日記や和泉式部日記の作者はそれを明確なものにしました。作り物語の主人公である英雄は人間化します。こうして源氏物語は構想され出現しました。
 源氏物語ほど雄大な構想をもった文学作品は世界中見回しても他にありません。シェイクスピアは比較的短い作品の寄せ集めでしかありません。フランス文学にはボードレ-ル等の現代詩以外の知識は私にはありません。源氏物語とよく似た構想を持っているのはゲ-テの「ファウスト」です。これも一部二部の二部構造になっています。熟読しましたが二部の部分の終結、つまりファウストの救済には失敗しています。ただ文章は源氏物語の原文よりは優れています。少なくともファウストの独文は源氏の原文よりは解りやすく楽しみやすいものです。かく考えると、源氏物語もゲ-テもシェイクススピアも日本語・ドイツ語・英語などの民族言語発生時点で作られていることに気づかされます。
(源氏物語の主題)
 主題は摂関政治の弁証です。源氏が太政天皇から正式の天皇になってしまえば、近親相姦による皇位簒奪は成功することになります。事実はそうなりません。簒奪は阻止されます。源氏の死後栄える者は賜姓源氏に徹する源氏の子供夕霧と源氏の政敵(かって親友でもありました)である頭中将の子孫です。後者は藤原氏を表しています。断定的に言えばただそれだけです。本文の結論をもう一度述べます。以下の通りです。
「源氏物語は、支配への衝動は近親相姦願望に基づくとし、性愛と政治の密接な関係を暴きました。同時に近親相姦による政治を否定し、その緩和された形態である摂関政治を弁証しました。天皇は摂関を超えた超越的存在、神としての権威を獲得し、かくして権威と権力の分化という日本的政治形態が確立しました」


銀行の簡単な作り方、初等経済学入門

2020-01-30 12:51:13 | Weblog
銀行の簡単な作り方、初等経済学入門
銀行を簡単に作る方法を考えましょう。私が新しいバンカ-。私は預金者(預蓄者)に保証書を出します。書類と交換に何らかの財物、金銀正貨有価証券でも穀物煙草織物等の物財でもいい、を渡すと約束。私の信用だけでは不安なら近隣の資産家に保証してもらいます。私は顧客に保証書を貸すこともできます。
このやり方は大銀行が君臨する大都市ではやりにくいが、辺境のフロンティアでは結構通用します。産業勃興期の社会でも同様。そういう場所では経済が単純だから保証はなにも金銀正貨でする必要はありません。土地で一番人気のある商品、穀物・煙草・砂糖・塩時にはビ-バ-の毛皮、で間にあいます。要は、一定の範囲で保証書が交換され換財されればいいのです。この紙切れの交換価値を住民が信用し認めれば、物財の循環は円滑になり生産は増加し、富は増えます。富が増えればこの地域通貨は中央の正貨に対して一定の価値を獲得します。私は預託された物財を大都市に転売することもできます。こうして私の銀行が発行した保証書、銀行券と言います、は中央の正貨とドッキングします。後は万事めでたしめでたしです。
私がバンカ-として成功する為には条件が二つあります。その土地で生産行為が可能でなければなりません。耕作可能な広い土地がある、森林から大量の木材が切り出せる、有望な鉱山や漁場がある、新しい工場をどんどん作れるなど。しかし資金(あるいは生産行為に必要な物財)が少ない。そこで私と保証人の信用でこの資金物財をかき集め、それを循環させます。
第二の条件は私の信用です。信用さえあれば貨幣あるいはその代用物は通用します。これを信用創造と言います。だから信用創造の別名はペテンです。読者はこの事を銘記してください。
アメリカの地方銀行はたいていこの手でできました。ただこの種の銀行は基盤が薄弱でいつ潰れるか解りません。信用がなくなると取り付け騒ぎでパニック。預金はぱ-で保証書銀行券は紙屑同然。私は夜逃げします。それで万事終わり。リスキ-なこんな銀行が開拓期のアメリカでは必要とされました。資金がなく未開拓のままであるより、一将功成って万骨枯れる方がましです。成功した企業を中心にその地が開発され雇用が増えればいいのです。
だからアメリカにはなかなか中央銀行ができませんでした。中央銀行を作って地方の泡沫銀行を統制すれば金融は安定します。反面地方は資金不足になります。だから中央銀行設立大反対。米国には厳密な意味での中央銀行はありません。連邦準備理事会(FRB)という日独英仏に比べればはるかに地方分権的な中央銀行らしき組織があります。FRBの影響下にない州立銀行も沢山あります。アメリカに例をとりましたが同じ事は明治大正期の日本、19世紀後半のドイツも同じ。時期の相違はあれオランダや英仏も同様です。産業が勃興し資本主義経済が離陸する時はどこも似たようなものです。泡沫銀行の族生。こうして資金を集め運と能力に恵まれた者が勝ち残ります。この混沌とした物騒な過程を経ることなくして経済の繁栄はないのです。

(付)
銀行の機能にはいろいろあります。主たるものは手形割引、貯蓄、発券です。初めの頃の銀行はこの機能すべてを備えていました。しかしそれでは通貨量が不安定なので、いわゆる中央銀行一本に発券資格が絞られました。普通銀行は貯蓄のためと単純に理解されがちですが、重要なのは手形割引です。手形とは負債です。この負債を転々と転がしているうちに、どこかで負債が通貨になりました。この負債として手形を銀行自らが発行したものが銀行券通常紙幣といわれているものです。通貨は債務証書と覚えましょう。この認識は重大です。信用さえあれば通貨はいくらでも発行できるのです。この通貨量の調整は中央銀行の役割ですが、それを超えた発券も可能です。また私の憶測ですが、手形割引の機能に銀行が参入することにより、銀行は君主や国家の恣意的暴力から自らを守ることができるようになりました。手形は交換と流通の血液です。もしこの機能を止めたら国家も君主も持ちません。通貨を債務証書と理解すれば、難しげな政策や提案もすぐ理解できます。
もっと極言すれば、通貨とは信用です。欲望達成の可能性への信用です。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社発刊

古今集以下八代集-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-01-30 12:19:02 | Weblog
古今以下八代集-「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋
 勅撰和歌集とは天皇あるいわ上皇(法皇)の命令で編纂された歌集です。従って収録された和歌は公的に名歌と認定されたと言えます。歌人は勅撰集に自分の歌が収録される事を熱望していました。あの有名な、俗世を捨てて旅に暮らした西行法師でさえ新古今和歌集に自分の歌が採られる事を熱望し運動していたという文書が40年前発見されました。勅撰集は905年成立の古今和歌集から1439年の後花園天皇の新続古今集まで総計21集が編纂されております。そのうち最初の八つの集は和歌及びその主宰者である王朝貴族の全盛期に作られ、内容が優れているので八代集と言われております。古今集、後撰集、拾遺集、後拾遺集、金葉集、詞歌集、千載集、新古今和歌集の八つです。ここではこの八代集を中心に勅撰集の内容や成立事情を説明して行きましょう。まず各和歌集の成立年代、勅命者、編纂者、そして代表的和歌数個を例示します。次の項では代表的な歌人を取り上げ品評してみます。歌人中心ですからその作者の和歌が勅撰集にすべて採り上げられているとは限りません。また歌の内容評価は好き好です、私の好みも当然反映されます。
(古今和歌集)
 905年、醍醐天皇、紀貫之・紀友則・壬生忠岑・凡河内みつね
  「花散らす風のやどりは誰か知る、我に教えよ行きてうらみむ」 素性法師
  「むすぶ手の雫ににごる山の井の、飽かでも人は別れぬるかな」 紀貫之
  「み吉野の山辺に咲ける桜花、雪かとのみぞあやまたれける」 紀友則
 この歌集の最大のそして画期的な特徴は和歌に仮名表記を用いている事です。仮名書き文学の初めは竹取物語ついで伊勢物語がありますが、古今和歌集の成立はそれらに遅れること二・三十年でしょう。また古今和歌集と伊勢物語の成立は表裏の関係にあります。古今和歌集最大の歌人が在原業平であること、伊勢物語の主人公は業平であり彼の歌物語(あるいは歌日記)でもある事が傍証です。
 なぜ仮名が発明されたのかは解りません。一説によれば僧侶が経典を暗記する時の記号として仮名が作られたとも言われております。漢字の一部を取れば片仮名、漢字を崩して使うと平仮名になると言われます。ただ仮名という表音文字を発明したことで日本語は大いに発展し大いに利益を受けました。まず仮名を間に挟む事により、漢字の無秩序な羅列が分断され、漢字の意味が固定されます。意味が固定されると表音のための音素(フォネ-ム)が節約されます。話しやすくなります。日本人の集団帰属性の良さは、かかる共有されやすい言語を創造した事にもよります。また仮名による漢字羅列の分断により、主語(名詞)と述語(動詞)の区別が豁然とした事、だから時制(テンス)が確立した事です。助詞を使えば前置詞の役目も果たせます。従って複文重文の使用は可能になります。反対に漢文(中国語)には主語と述語の区別もなく時制もありません。簡単かつ極端に言えば、中国語とは表意文字としての漢字のかなり無秩序な羅列混住です。表音性がないので漢字の発音は自由です。無秩序な表音性を表すために新たな漢字は作らます。表音性と表意性は相互に影響しつつ増大します。日本語の音素は100くらいですが、中国語の音素は1600に昇ります。こういう無秩序な言語を使用していると統一された言語体系が確立しません。無限に方言が増えそれは異なる言語になってゆきます。日本人が英仏独語をなんとか使えるようなるには二・三年で十分ですが、中国語を学ぶには10年は要るでしょう。仮名表記はこのような漢字の鉄の鎖から日本人を解放してくれました
 仮名は始め女性の交信用に使用されていたようです。従って仮名は女文字とも言われます。男子も使っていたとは思いますけどねえ。古今集の仮名序(真名序も同じですけど)に「和歌は万葉のころは栄えたが、退廃し色事の手段、女文字の使用ゆえに軽蔑された時期がある」と書いてあります。桓武天皇や嵯峨天皇は万葉集の持つ奈良臭と反逆性を嫌い、漢文学を推奨しました。従ってこの時代は和風文化衰退期と言われております。その後100年藤原氏の政権が確立するに伴い和歌が力を盛り返してきたと言えましょう。その点で905年とは意味ある年ではあります。菅原道真が追放され、藤原氏と醍醐天皇の地位は安泰となったのですから。
 古今和歌集には前後に仮名序と真名(漢字)序があります。内容は似たようなものです。仮名序の一部を書きだします。
「力をも入れずして天地を動かし、見に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかもやはらげ、猛き(武士)もののふの心をもなぐさむるは、歌なり」
「春の朝に花の散るを見、秋の夕暮れに木の葉の落つるをきき、あるは、年ごとの鏡の影に見ゆる雪と波とを嘆き、草の露、水の泡を見て、我が身を驚き、あるは、昨日は栄えおごりて、時を失い、世にわび、親しありしもうとくなり----」
 仮名序の中で六歌仙の歌風が紹介されます。かなり手厳しいと言えます。古今集は六歌仙と編者の時代の和歌が中心ですから、手厳しいとは言え、先行する六歌仙は和歌興隆の功労者でもあります。以下簡単に紹介します
 僧正遍照は、歌のさま得たれども誠すくなし。絵にかける女を見ていたづらに心を動かすがごとし。
  例示、「浅緑いとよりかけて、白露を珠にもぬける春の柳か」
 在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくて匂えるがごとし。
  例示、「春の着る霞の衣、ぬきをうすみ、山かぜにこそ乱るべらなれ」
 文屋康秀は、言葉たくみにて、そのさま身におはず。商人のよき衣をきたらんがごとし。
  例示「吹くからに秋の草木のしをるれば、むべ山風をあらしといふらむ」
 宇治山の僧喜撰は、言葉かすかにして、初め終りたしかならず。秋の月を見るに、暁の雲にあえるがごとし。
  例示「我が庵は宮この辰巳、しかぞすむ、世をうじ山と人はいうなり」
 小野小町は、あはれなるようにて強からず、よき女の悩めるところあるに似たり。
  例示「思ひつつぬればや人の見えつらん、夢と知りせば消えざらましを」
大伴黒主は、そのさまいやし。薪負える山人の、花のかげに休めるがごとし。
例示「春さめのふるは涙か、さくら花ちるをおしまぬ人しなければ」 
 この評で、「ごとし」という言葉が使われています。例えば「誠すくなし」と「絵にかける女」の対照です。前者が評される事物、後者が評する譬えです。後者を「見立てる」事によって前者の意味が判然かつ生気にあふれたものになります。この事物を他の事物で譬え評する事を「見立て」と言います。「見立て」は詩歌では本能的に行う技法ですが、古今集でこの技法が明示されました。「見立て」の技法により、言語は限りなく連なる・連続する事ができます。後世の連歌の起源です。連歌の出現は早く、古事記にも見られますが、明示されたのは御拾遺集、明確な部門として確立したのは金葉集からです。平安中期から歌合せが盛んになりますが、これも和歌の応酬と言う意味では掛け合い・連なりです。連歌とは極めて民衆的な詩歌です。この事実は銘記しておいてください。繰り返しますが「見立て」は詩歌の根本です。「見立て」より一般的には比喩により言語が主客相和相即しつつ連なります。従って詩歌は原語の真髄です。
 古今集により作歌技術が明示され確立しました。枕詞、縁語、掛け言葉などです。枕詞は意味ある言葉の上に付け言葉を導出する言葉です。リズムを整えると申しましょうかあるいわ古代の呪符の名残と申しましょうか、そういう物です。例えば「たらちねの母」、「草枕山」「星月夜鎌倉」「あおによし奈良」などです。この技法は近代短歌でも使用されています。縁語・掛け言葉は言葉の意味と音を掛け合わせ繋げる技法です。音と意味の双方の類似を用います。代表的な和歌を挙げます。
 「われをきみ難波の浦にありしかば浮き和布(め)を三津の海人となりにき」
ここで「難波」は「何は」を、「浦」は「憂ら」、「浮和布(うきめ)」は「憂き目」、「三津(寺の名))」は「見つ」、「海人」は「尼」を意味します。考えながら鑑賞してください。
 こういう技法の延長上に本歌取りの技法が発展します。本歌取りとは先のあるいわ過去歌われた歌の意味を背景にして自分の歌を重ねあわせるやり方です。本歌取りは新古今和歌集で多用され確立されたと言われますが、源氏物語の中の和歌には本歌取りが盛んに用いられています。
 また古今和歌集で歌のジャンルが確立しました。四季、恋、祝い、旅、賀歌、離別、物名、哀傷などです。長歌や旋頭歌もありますが万葉集に比べると減少しています。
 古今集以後の和歌作成の過程の中で歌詞(うたことば)が発達します。和歌専用の言葉で、それ以外の言葉の使用は慎まれるようになります。儀礼としての政治の発展過程で生活や感情の表現が形式化類型化されます。従って詠む・使う言葉も類型化されます。それが歌詞です。一番大切な言葉は季節を表す言葉です。以下のように類型化されます。
 春 ― 霞、若菜、梅、鶯、桜、山吹、藤
 夏 - 葵、橘、時鳥、雨、撫子、蛍
 秋 - 風、野分、霧、朝顔、夕顔、萩、女郎花、松虫、鈴虫、雁、露、霜
 冬 - 紅葉、時雨、雪
 これらの言葉が季節の推移を微妙に表します。逆にこれら以外の言葉の使用は避けられます。また人間の感情は著しくパタ-ン化され、極端に言えば恋・別れ・旅・祝いの四つに整序されます。言葉が持つ意味も単純化されます。春は桜、秋は月で表示されるようになります。桜は華やかで美しいもの、月は明るくて清澄なものとされます。女郎花は女、撫子は女児、鈴虫ははかなくてかぼそい生物、松虫は「松=待つ」から恋する者、雁は別れという具合に類型化されてしまいます。
 歌詞の一種に「歌枕」というジャンルがあります。歌枕とは地名です。その地名に特定の風景・感情が封じ込められ類型化されたものが歌枕です。たとえば吉野といえば桜、三室の山といえば紅葉、白山は雪の名所というふうにレッテルを張られます。須磨は流謫と別れ、明石は「明るい」ところ、宇治は「憂し=うっとうしい」ところとなります。
 このように類型化(形式化、象徴化)された歌詞は平安末期で約2000と言われます。この範囲で和歌が作られる事が求められます。古今和歌集から始まった和歌作成の技法は発展し平安中期10世紀末「古今六帖」という本が作られました。和歌を詠むためのノウハウを書いた本です。生活が儀礼化し感情のやり取りが摩擦なく行われるために和歌が発展しました。ということはある程度の和歌作成能力がないと人間関係(特に貴族間の)交際に支障をきたすことになります。だから古今六帖のような本が必要になったのです。
以下私が好む歌を古今集の中から抜粋してみます。
「年の内に春は帰にけり、ひととせをこぞとやいはん、ことしとやいはん」在原元方
  この歌は古今集暴冒頭の春の歌です。
「袖ひじてむすびし水のこほれるを、春立つけふの風やとくらん」紀貫之
「春の夜のやみはあやなし梅の花、色こそみえね香やはかくるる」紀友則
「人はいさ心も知らずふるさとは、花ぞ昔の香ににおいける」紀貫之
「春ごとに流るる河を花とみて、折られぬ水に袖やぬれなん」伊勢
  この歌は非常に意味深長な歌です。部立は春の歌ですがむしろ恋歌いや淫歌
   とも言えます。
「世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし」在原業平
「見わたせば、柳桜をこきまぜて、宮こぞ春の錦なりける」素性法師
 これには元歌があります。唐詩選だと思いますが「万里鶯鳴いて 緑紅にはず 南朝四百八十寺 多少の楼台煙雨の中」です。作者は忘れました。
「久方のひかりのどけき春の日に、しずこころなく花の散るらむ」紀友則
「花の色はうつりにけりないたずらに、我が身世にふるながめせしまに」小野小町
  「ふる」「ながめ」は縁語です。
「さつきまつ花たちばなの香をかげば、昔の人の袖の香ぞする」詠み人知らず
   業平の作めいていますが
「石上(いそのかみ)ふるき都のほととぎす、こえばかりこそむかしありけれ」素性法師
「秋きぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」藤原敏行
「昨日こそ早苗とりしか、いつのまに、稲場そよぎて秋風のふく」詠み人知らず
「うきことを思ひつらねて、かりがねのなきこそわたれ、秋の夜な夜な」みつね
「名にめでて折れるばかりぞ、女郎花、我おちにきと人に語るな」僧正遍照
  坊さんの詠む歌ではありませんな。
「心あてに折らばや折らん初霜の、置きまどわせる白菊の花」みつね
「山里は冬ぞ寂しさまさりける、人めも草も枯れぬと思えば」源朝臣
「別れをば山の桜にまかせてん、とめむとめじは花のまにまに」幽仙法師
「むばたまのわが黒髪やかはるらん、鏡の上にふれる白雪」紀貫之
「恋せずと御手洗川にせしみそぎ、神は受けずとなりにけらしも」詠み人知らず
「思いつつぬればや人の見えつらん、夢と知りなば覚めざらましお」小野小町
「露ならぬ心を花におきそめて、風吹くごとに物おもひぞつく」紀貫之
「さむしろに衣かたしき、今宵もや我をまつらむ、宇治の橋姫」詠み人知らず
「深草の野辺の桜し心あらば、今年ばかりは墨染に咲け」かむつけのむねお
「わが心慰めかねつ更科や、おばすて山に照る月をみて」詠み人知らず
「世の中はなにか常なる飛鳥川、きのうの淵ぞきょうは瀬となる」詠み人知らず
「わびぬれば身を浮き草の根を絶えて、誘う水あらばいなんとぞ思う」小野小町
「紅にそめし心もたのまれず、人をあくにはうつるてふなり」詠み人知らず
 

経済人列伝  石橋湛山(一部付加)

2020-01-29 15:49:06 | Weblog
 経済人列伝   石橋湛山(一部付加)

 石橋湛山の名を知っておられる人は60歳以上の人だけでしょう。彼は昭和31年(1956)に首相になりました。わずか2ヶ月後に辞任します。病気が原因ですが、その潔さは当時の評判でした。私が彼に関して知っていた事はそのくらいでした。最近、なぜ戦後日本から大量の餓死者を出さなかったのかと、考え、また石橋湛山が当時の蔵相である事を知った時、この人物の財政政策に興味が出てきました。
 終戦直後、日本の経済は崩壊します。あるいはそう見えました。この時の財政政策の基本は復興金融金庫(通称フッキン)と傾斜生産方式です。この政策のおかげで戦後猛烈なインフレになります。ところでもしインフレにならなかった(あるいは、しなかったら)どうなっていたでしょうか?私は日本の経済は崩壊し、予想通り1000万人の餓死者がでたのではないかと、思います。インフレになる(する)、と、企業は物を作ります。ともかく作れば売れる、儲かる、となると、物はどんどん作られるでしょう。企業は生き残るために、そこいらじゅうをさがして資源をかき集めて、生産します。眠っていた生産力を復活させます。前大戦でどのくらい日本の工業力が破壊されたかは、人により評価は違います。だからかなりの生産力が遊休状態にあったのかも知れません。復活金融公庫から債権を出させそれを日銀引き受けにして通貨量を増大させて、生産を賦活する方法をとった財政家が石橋湛山です。
 石橋湛山(幼名省三)は明治17年(1884年)、東京に生まれます。父親は後に日蓮宗身延山久遠寺81代法主になった杉田湛誓です。湛山は当時の仏家の習慣に従い、母方の石橋姓を名乗ります。やがて同じ日蓮宗の住職望月日謙の元に預けられ、修業させられます。
 早稲田大学に入学、文学部で哲学を専攻します。彼は大学でクラ-ク博士(札幌農大)の教えやプラグマティズムに興味を持ちます。島田抱月の主宰する早稲田文学にも投稿しています。こういう影響で彼はリベラリストでした。リベラリズムの定義は難しいのですが、ここでは省きます。彼の方向は政治と文学の統合にあったと、言いますから、遠大な抱負を抱いたものです。この間兵営に入隊します。社会主義者と間違われていたらしく、上官からたいそう丁寧な取り扱いを受けたというエピソ-ドがあります。
 1911年27歳、東洋経済新報社に入社、言論人としてのスタ-トを切ります。新報社は「東洋時論」という雑誌を発行しており、湛山はその編集に従事します。当時でだいたい3000-5000部売れていたようです。以後1945年の終戦まで、彼はこの会社に勤めています。1925年、41歳主幹・代表取締役、つまり最高責任者になります。鎌倉町会議員になり、経済倶楽部を作り経済学的思考の普及に努めます。東洋経済新報社は現在も、多くの経済学書を出しており、この分野の出版では一方の雄です。新報社からは、後に高橋亀吉、小浜利得など在野のエコノミストが出ています。私もこの出版社の本は100冊以上読みました。経済に関心を示す者にとって、ここの本は避けられません。そういう会社です。
 前後して湛山は経済学を独学し始めます。セリグマンやミルの本から入ったそうです。以下湛山の言論人としての主張を列記してみましょう。彼の意見は明白で書いたものが残っているので整理し理解しやすいのです。
移民不要論、植民地不要論。当時日本は貧乏国だから移民政策がとられていました。湛山はこれに反対します。論旨は生産力を育て、貿易を活発にすれば、財貨は増え、国は豊かになる、です。貿易して相互に豊になれば植民地は要らないと彼は言います。
ソ連の革命への肯定。リベラリストとしては当然かも知れません。多くの知識人、特に自由主義者はこの革命にロマンを抱き、またソ連の国家管理経済は不況に悩む国からはある種の憧れをもって見られていました。
ドイツ戦後処理への反対論。周知のように第一次大戦後の連合国によるドイツへの賠償請求は過酷でした。湛山は反対します。この点ケインズも同様でした。
護憲運動。
普選運動。財産による差別のない普通選挙実施を要求します。湛山はこの運動の急先鋒でした。普選運動が始まった当時、日本の人口の3%が投票権を持っていました。
軍備撤廃論。
日英同盟の破棄提唱と日米協調。
新平価解禁論。井上蔵相が旧平価(1弗2円)で金解禁をしたのに対して、実際のレイトである、100円=約40ドル、のレイトで解禁しようという事です。日本とイギリスは旧平価でフランス・イタリアは新平価で金を解禁しています。結果は既に述べたとおりです。
満州国建国反対。植民地不要論から出てくる当然の結論です。かれは広大な中国に先進国の資産と企業力(技術と考えてもいいでしょう)を導入して、中国を開発し、共に豊になろう、と主張します。この主張は現在実現されつつあると言えましょう。
大東亜共栄圏批判。ともかく封鎖的経済圏はいけないと言います。
日独伊三国同盟反対。湛山の基本的志向は日米協調です。当時の軍部はソ連を目して、同盟を結んだのこうなったのでしょうが、つまらない同盟を結んだものです。
小日本主義。大日本主義に対してこういいます。日本は領土を広げる必要はない、満州などに綿々とせず、古来からの国土の中で、産業を振興して貿易を増大させれば、結局それの方が、得だ、という事です。現在そうなっています。
大戦中湛山は軍部や東条首相から目をつけられていました。会社を田舎に疎開させ細々と経営するうちに終戦を迎えます。敗戦に際して、湛山は「前途洋洋」と言いました。この予言も当たっています。
 昭和21年(1946)衆議院選挙に立候補し落選します。総選挙直後第一次吉田内閣ができます。5月、吉田茂に乞われて、蔵相に就任します。言論人から蔵相になったのも嚆矢ですが、湛山はその時議席をもっていませんでした。蔵相としての湛山の方針は、戦後補償打ち切り、復活金融金庫による債権発行、傾斜生産方式、終戦処理費でした。戦後補償打ち切りとは、戦争に協力した企業が爆撃等で蒙った被害を政府が補償する事です。これを打ち切る事はGHQの意向でもありました。企業や財閥への援助を湛山は打ち切ります。これは彼の、積極経済と経済的自由主義に基づくものです。経済活動はなるべく自由にさせておいた方がいい、政府の援助は有害という発想です。終戦処理は、米軍による勝手な日本の予算消費をやめさせる事です。占領軍の威光を着て、末端の米軍将校までが勝手な建築などに予算を使っていました。日本の国費を用いて、駐留米軍の世話までする必要はないとして、湛山はこの方面の予算を大幅に削ります。これで彼は米軍・GHQににらまれました。当時この終戦処理費は全予算の36%に及びました。米軍としては賠償金のつもりだったのでしょう。極端な一例を挙げます。駐留軍用の野菜を栽培するプ-ル建設が行われていました。日本の野菜は糞尿を肥料とするので汚くて食べられない、とかの理由です。当時の日本人1人の一日分配給米の量は300g弱、一食は軽く茶碗にもって一杯でした。
 傾斜生産方式は、予算(外貨の場合はドル)を重点産業に特に篤く配分する事です。重点産業は石炭と鉄でした。石炭を増産し、列車を動かし、また石炭で鉄を作り、鉄で石炭採掘用の機械を作る、という按配です。最も基礎的な産業に徹底的に投資する、という作戦です。復活金融金庫を通じて債権(復金債)を発券し、それを日銀引き受けにする、言ってみれば新規の貨幣増刷です。
 湛山は、財閥にも米軍にも予算の浪費をやめてもらい、少ない予算と資源を徹底的に基礎産業に投資する。そして復金債でもって企業活動がやりやすいように、経済をインフレ気味にもって行きました。どう放っておいてもインフレは必至です。そうならインフレの波にのって増産すれば良い、とまで考えたのかも知れません。ただこの方向で経済を運営すれば、産業の活動力は最大限引き出せます。そしてインフレは資産移転を伴います。得をするのは、企業と労働者です。産業の基幹部分を優遇しようと考えたのかも知れません。
 GHQの方針はインフレを抑える事に重点が置かれていました。ここでGHQと湛山の方針は対立します。湛山と吉田茂の仲もおかしくなり始めていました。昭和22年(1947)5月湛山はGHQにより公職追放の処分を受け、大臣と議員の職を同時に失います。湛山は戦前の言動に自信をもっていたので、寝耳に水でした。以後の湛山の政治活動で興味を引くのは、吉田政権後できた鳩山政権の後継のイスを巡り、石橋石井の2・3位連合を組み、岸信介に逆転勝利して、首相に就任した事です。しかしこの政権は彼を襲った病魔のために、2ヶ月で終わりになります。
 経済あるいは財政の運営は、拡大か引き締めかのどちらかです。要は状況判断しだいで、どちらが正しい・間違っているというような問題ではありません。戦後1000万人餓死説が出た頃、インフレの波に乗って経済を拡大し、生産力の基礎を造った湛山の財政があったからこそ、我々は生き残り、また以後の経済政策も可能であったのではないのかと、考えています。湛山の思考がすべて首尾一貫しているとは言えませんが、日米独三国の経済提携、ヤルタ・カイロ・ポツダム宣言破棄、ドッジライン廃止、などなど常識に捉われない大胆な発想が興味を引きます。湛山の経済政策は、経済重視、生産第一主義、交易による相互繁栄、従って軍備不要、そしてなによりも楽天主義に特徴があります。1973年(昭和48年)死去 享年88歳

  参考文献
   石橋湛山    中央公論
   昭和経済史   日経文庫

「君民令和、美しい国日本の歴史」 7月1日発売


業平と道真「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

2020-01-29 13:10:26 | Weblog

業平と道真「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

 在原業平と菅原道真はどういう関係にあったのでしょうか。直接の関係はあいません。しかし藤原氏北家による摂関政治を一時中断させた点では二人に存在は無視できません。在原業平は平城天皇の皇子阿保親王の子供で臣籍に下り在原氏を名乗りました。兄の行平も和歌で有名ですが、業平は天性の歌人です。彼の歌は彼の伝記風の文章とともに伊勢物語に収録されています。その中の一節に、男が女と駆け落ちします。女を連れて逃げます。女の兄弟たちが追いかけてきます。男はある小屋に女を隠します。追手が去って小屋を開けると女は鬼に食いつくされていました。と物語が続き、転じて本当は女の兄たちが女を奪い返したのだとなります。ここで女は藤原基経の妹高子のようです。高子は若い時分業平と強烈な恋愛をしました。これは事実です。しかし政治的理由で二人の恋は実りません。業平は基経と反対の陣営に属していたからです。業平は失意の中、東国に旅しその途中で伊勢斎宮のヤス子と不倫事件をおこします。伊勢斎宮は未婚が条件でしたから、この恋愛はタブ-への挑戦です。後になって男が女の住んでいた旧邸に行き昔を偲んで歌った和歌が有名な「月やあらぬ春やむかしの春ならぬ、わが身一つはもとの身にして」で伊勢物語中の名歌です。
やがて高子は兄基経の意向で清和天皇の正妃になります。高子の方が年上であり業平のような男を知り尽くしているので高子には天皇は物足りなかったかも知りません。宮廷でも高子は奔放だったようで、ある僧侶と不倫の関係を持ったとか芳しからぬ噂も流されていました。清和天皇が死去し、政権は摂政基経と皇太后高子と幼帝陽成天皇の三人により動かされます。事実上高子と基経の共同執政になります。ところがこの兄妹の関係がぎくしゃくしてきます。基経は不満を上奏し出仕を止めます。そういう時陽成天皇が宮中で側近を殺害するという事件が起こります。陽成天皇は廃位されます。もっともこの事件が真実なのか否かには疑問があります。六国史の最終の書である三代実録(?)の記載にはこの点の記載は極めて簡単で、事実は隠されています。在原業平は陽成朝で蔵人頭に帰り咲いています。陽成天皇の側近であり皇太后高子の参謀になります。高子と業平の密通も噂されました。普通なら陽成天皇、高子、基経の関係は上手く行くはずです。典型的な外戚関係なのですから。そこに業平が加わります。陽成王朝は混迷します。陽成天皇は廃され高子も後廃后されます。しかし基経の野望は阻止されます。事情の詳細は一切解りません。ただ業平の影が跳梁している事は否定できません。
在原業平は六歌仙の一人です。そして古今和歌集の中の作者の常連です。古今和歌集の編者は紀氏の貫之と友則他です。この和歌集には、惟タカ皇子の歌合せにて、という場面設定が頻繁に出てきます。惟タカ皇子は紀名虎の娘静子が産んだ皇子で、父親の文徳天皇はこの皇子を愛し皇位に就ける希望を持っていましたが、良房の娘明子の産んだ惟仁親王の存在を無視できず清和天皇として即位させます。紀氏の一族や業平は惟タカ皇子のグル-プに属し、皇子の屋敷で歌を作り、痛飲しまた郊外を遊猟していました。いわば負け組で反体制の側に業平も属していたのです。業平の活動期と伊勢物語の成立時は重なります。そしてその後しばらくして古今和歌集が出来上がります。伊勢物語と古今和歌集はいわば表裏の関係にあるようです。万葉集では大伴氏が、古今和歌集では紀氏が編纂の中核になります。和歌集はまことに敗者のアンソロジ-です。こういう立場に業平はいました。想像ですがこの業平が陽成王朝に相当な影響力を持っていたとも考えられます。和歌一般には歌は呪文が原点なのです。
菅原道真は845年生まれ、代々学者の家系です。文章生を振り出しに、886年讃岐守、891年蔵人頭、893年参議、式部大輔、899年右大臣になります。学者で大臣になったのは吉備真備と彼だけです。漢学者としては多分日本史上最高の学者でしょう。著作には「菅家文草」などがあり、六国史の一つ「三代実録」を編纂しています。また「新選万葉集」をも作り万葉から古今への過渡期の文学に影響を与えております。宇多天皇は891年藤原基経の死後、親政を開始します。宇多天皇即位の事情もあって天皇は藤原氏を牽制します。基経の子時平がまだ若く、彼を左大臣に任命する一方道真を右大臣にします。道真は讃岐守としての地方行政の実績を買われて登用されました。地方行政の立て直しとは形骸化しつつある律令制の班田給付の再建です。この点は基経も同様です。天皇と基経の政策方針が全く異なっていたとは思えません。当時地方行政の名吏と言われた藤原康則を登用したのは基経です。宇多・醍醐・村上朝の律令制再建への努力が後年評価されていますが、現在から見るとそうたいした事をしているようにも思えません。とまれ律令制再建は同時に摂関政治の否定もしくは抑制を意味します。大げさに言って皇国史観に立てば、宇多天皇の親政と道真の登用は評価すべきものだったのでしょう。
897年宇多天皇は退位し上皇になって院政を行おうとします。歴史家によっては宇多上皇の時代を院政開始とする人もいます。宇多天皇は退位するとき時平と道真の二人に内覧の資格を許しています。次の醍醐天皇の即位時の年齢は12歳です。901年ク-デタ-が起こります。道真は醍醐天皇廃位を企てたとかで、大宰帥に左遷されます。明らかに天皇の弱点をついた時平の謀略です。時平の念願は父基経で一頓挫した摂関家の復活にあります。また醍醐天皇には即位するのに大きな弱点がありました。それは父宇多天皇の弱点でもあります。勧修寺延喜というお話があります。藤原氏傍系の高藤という人がある日宇治に狩に出かけます。日が暮れて郡司の館で一泊します。この時郡司の娘と情交し一女をもうけます。彼女胤子が当時臣籍にあった源定省と結ばれます。定省が即位して宇多天皇になり、胤子との間にできた子供が後に醍醐天皇になります。この事実は摂関家にとってショックであり、また醍醐天皇の正統性にも問題を提起します。つまり醍醐天皇は母親の血筋(父親の血筋も問題ですが)に大きな弱点を抱えていました。また道真も宇多天皇の後宮に娘を入れ皇子を作っていました。だから時平と醍醐天皇の側にもク-デタ-の理由はあったのです。時平は醍醐天皇の後宮に妹(基経の娘)穏子を入れます。こうすれば醍醐天皇の正統性は補強されまた摂関政治は復活します。醍醐天皇と穏子の間にできた皇子が保明親王です。
問題は903年の道真死後です。事情は事情として道真は白ですから、民間の同情は道真に集まります。道真死去6年後事件の張本人である時平が死に、皇太子保明親王も、そのまた子供で皇太子であった慶頼王もなくなります。道真を誣告した人物も短命でした。時平の家系は少なくとも摂関家の嫡流ではなくなります。930年清涼殿(天皇の私室)に雷が落ち清涼殿は火災にあいます。落雷で臣下の一人が死亡します。醍醐天皇は半狂乱の状態でしきりに庭で道真に詫びて、雷が起こった愛宕の方に拝礼していたと言われます。落雷後3か月して天皇は死去します。その2年後道賢という僧が金峰山で修行中地獄に行き、そこで醍醐天皇が責苦にあっている姿を見たとか言いふらします。道真の怨霊への恐怖は日本中に広がります。加えて10年後将門そして純友の乱が起こり、政府崩壊の危機に遭遇します。道真は生きていて関東に下り将門と共闘したとか噂が乱れ飛びます。怨霊は道真だけのものではありません。平安遷都後百数十年の間に早良親王以下多くの人が失脚し没落しました。道真の怨霊は彼らの怨みをすべて担います。平安京という初めての都市生活に伴う疫病の問題もあります。怨霊恐怖と同時に民間の宗教運動も盛んになります。新宗教運動は反乱の前兆でもあります。朝廷は道真の左遷を取り消し右大臣の職に復帰させます。ある女性に霊が乗り移り、道真を慰めよという託宣が下されます。こうして北野天満宮ができます。梅の花の名所であり、全国の受験生の守護神の神社でもあります。私は宗教運動と言いましたが浄土信仰の祖、市の聖空也が活動し始めるのもこのころからです。
時平について若干弁明しておきます。彼はすこぶる有能な人物でした。勇敢でもあります。道真の怨霊云々が飛び交う中、時平は剣を抜いて、貴君は生前では私の下位にあった、今でもそうだ、貴君の怨霊なんかを恐れるものか、と言ったとも伝えられます。時平の正嫡が絶えて後、穏子から朱雀・村上の両天皇が生まれ、皇統は村上天皇の方に、摂関家は時平の弟忠平の方に移ります。穏子自身も道長の怨霊を恐れていたようで、朱雀天皇は母親に超過保護に育てられています。
業平と道真について語りました。一方は恋の英雄となり、他方は怨霊となります。共に日本の歴史に与えた影響は甚大です。二人は摂関政治完成の間の間奏曲でもあります。


   これで習近平氏は来日できなくなった

2020-01-28 17:57:13 | Weblog
これで習近平氏は来日できなくなった
 新型のヴィ-ルス性肺炎は猛威を振るいつつある。中国で死者は100人を超え、感染者は5000人を超えつつある。武漢は封鎖され、首都北京でも死者が出ている。NO2の李首相が白衣姿で武漢の病院を訪問し激励している。中国のみならず周辺諸国にも感染は広がりつつある。中国政府の発表の10倍が真実と見ていいだろう。米中摩擦、香港のデモ、ウイグル問題などで行き詰まっている現状に更に災禍が加わっている状態だ。泣きっ面に蜂。4-5月がピ-クだそうな。中国の不手際からコロナヴィ-ルスは拡散した。中国の責任は大きい。のみならず他の問題にも波及しかねない。日本に来るどころではなかろう。もともと来てほしくなかった。これですっきりした。ヴィ-ルス付きの来日なぞまっぴらごめんだ。良かったなあ。もっとも肺炎は日本でも発生している。防疫には気をつけよう。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行

経済人列伝  石橋正二郎(一部付加)

2020-01-28 15:44:35 | Weblog
経済人列伝  石橋正二郎(一部付加)
 ブリジストンタイヤの創業者です。正二郎は1889年(明治22年)久留米に生まれています。家系はやや複雑です。久留米藩士龍頭民治の子徳次郎は母方の伯父である緒形安平の経営する仕立物屋「しまや」に奉公にでます。徳次郎(初代)は安平の妻リウの実家、久留米藩石橋家を継ぎます。初代徳次郎に二人の男児があり、兄が重太郎(後徳次郎を襲名)、弟が正二郎です。二人はしまやの経営を任されます。正二郎は生来病弱で内気な子供でした。利発で成績はトップ。兄徳次郎は対照的に、腕白のスポ-ツマンタイプ、勉強は嫌いな方でした。兄弟仲は良く、それぞれ分担してしまやの経営にあたります。
 正二郎は高等小学校卒後、久留米商業学校に入ります。この間、一部生徒により企てられたストライキに、少数グル-プとして参加を断固拒否した逸話があります。自分の意志に忠実で言い出したらきかない性格が現れています。久留米商業時代の同窓に、政治家石井光次郎がいます。正二郎は神戸高商をめざしましたが、父親の反対で断念します。正二郎としては、たかだか田舎の仕立物屋経営に男子二人は要らない、という所存でした。
 こうして正二郎は兄徳次郎とともに、しまやの経営に従事することになります。積極的に経営を引っ張っていったのは正二郎の方です。始めから、一介の仕立物商で留まるつもりはありません。どんどん新企画を実施します。まず製造品を足袋に特化します。店名も「しまや足袋」になります。それまで借金経営を一切拒んできた父親の方針を改め、銀行からの融資を受けることにします。この件では父親と対立しますが、押し切ります。徒弟に給料を払います。当時徒弟は商売を教えてもらう立場ですので、正式の給料支払いは破天荒な企てです。正二郎には、この破天荒な企てが実に多いのです。彼の事業家としての特徴は要所要所で思い切った決断をして躍進することです。その最も端的で代表的な例が、タイヤ製造です。
しまや足袋では行商もしました。足袋製造業者で行商をするのは珍しい試みでした。行商の主な狙いは宣伝です。自動車を購入し、九州中を宣伝して行商します。まだ全国で車が1000台あるかいないかの時代のことです。もちろん久留米では最初の自動車所有者でした。社名も「アサヒ足袋」に変更します。より印象の深い社名にしてブランド化を狙います。足袋のサイズに応じた価格を廃止し、均一価格にします。こうして無駄な作業を省きます。均一価格は当然です。足袋に必要な布地の量は知れています。製作に必要な労働と技術がコストの大半です。大人の足袋も子供の足袋も制作費は変わりません。均一販売は当然の合理的措置ですが、当時の足袋商は旧来の慣習を墨守していました。父親の堅実(従って保守的)経営にくらべて、恐ろしく斬新で積極的経営です。
 1919年(大正7年)久留米に洗町工場を作り、社名を「日本足袋」に変更します。この間東京と大阪に進出します。事業規模は拡大し足袋業界では四天王の一角にランクされるほどになりました。第一次大戦では恒例にもれず大儲けします。仕舞い時を忘れず手堅く対応しますが、戦後の反動不況で四苦八苦します。1000名の従業員を雇用し、100万足の足袋の在庫を抱え込みます。ここで正二郎の一大決心が行われ、苦境からの前進突破が試みられます。地下足袋の製造です。正二郎の経営者人生において一番光るのは、この地下足袋製造への飛躍です。地下足袋はゴム製品です。こうして後年のタイヤ製造、高度な製造業への基礎が築かれます。
 1921年(大正10年)縫いつけ式地下足袋を発売します。足袋にゴムの底を縫いつけたものです。激しい労働に縫いつけが耐えず不人気でした。2年後はりつけ式地下足袋を発売、足袋に粘着財でゴム底をはりつけたものです。これは非常に人気が高く大いに売れます。ここで地下足袋なるものの紹介をしておきましょう。現在ではあまり用いられませんが、昭和30年ごろまでは、農作業や工事現場、炭鉱など激しい肉体労働をする人は地下足袋を着用していました。地下足袋が出現するまではわらじをはいていました。わらじはわら(稲の茎)で編みます。丈夫なものではありませんし、防水もできません。正二郎が地下足袋を発売するまで、似たような物がありましたが、実用的ではありませんでした。正二郎は改良に改良を重ねて、はりつけ式地下足袋を作りました。当時は第二次産業革命の進行中です。あちこちで工場やビルが建ちます。更に軍隊という大口需要があります。鉱山と電気工事に従事する者は地下足袋着用が義務化されました。前者ではワイル氏病の予防のため、後者では感電を防ぐためです。加えて関東大震災です。東京中が工事現場になったようなものですから、地下足袋は加速度的速さで売れました。大正3年工場が火事で焼けます。すぐに鉄筋コンクリ-トの新工場を建てます。ヘンリ-フォ-ドに習って流れ式作業を取り入れます。1932年(昭和7年)には地下足袋の年間生産は1000万足を超えました。この間第一次大戦で捕虜となったドイツ人技師を雇って技術改善に努めます。当時(現在でもそうですが)ドイツは技術先進国でした。地下足袋生産への飛躍は正二郎の時代を見る目の確かさを示しています。社名は「日本ゴム」になります。
 1928年(昭和3年)ゴム靴製造を開始し、福岡に新工場を作ります。1931年にはゴム靴の輸出数量は3400万足を超えます。ゴム靴製造では日本がアメリカやドイツを抜いてトップに立ちます。昭和5年兄徳次郎が相談役に退いて、正二郎が日本ゴムの社長になります。徳次郎は経営を弟に任せ、自身は市会議員、商工会議所会頭、名誉市長を歴任し、久留米という地域の発展に尽力しています。この間代理店網を整備し、専売店を作り、価格統制と区域統制を行っています。販売店が勝手に価格を変更し、よその店の縄張りを荒らしてはいけないということです。この点は松下幸之助のやり方と同じです。石橋正二郎という人には、技術屋としてのセンスと力量があります。地下足袋、タイヤ製造への執着は明らかに理系あるいは技術者の感覚です。しかし同時に製造だけでは会社が成り立たないこと、販売網の整備が企業の死活を分けることを知りぬいていました。
 昭和3-5年にかけて、正二郎はタイヤ生産を考え始めます。タイヤは自動車の地下足袋のようなものですが、かかる圧力が格段に違います。周囲はみな反対します。特にそれまで正二郎を信頼しきっていた兄の徳次郎が猛反対でした。当時日本のタイヤはグッドリッチとダンロップが販売額も品質もだんとつで、日本産製品は足元にも及びませんでした。地下足袋とゴム靴で儲けているのだから、海のものとも山のものともわからない、新規業種に飛躍することはなかろう、というのが周囲の大勢でした。正二郎はタイヤ製造に踏み切ります。アメリカのモ-タリゼ-ションを観察していると、タイヤの将来性は大きいものです。こういう商売人の目も彼にはありますが、同時に新しいメカニズムに挑戦してみたいという、技術屋的根性も無視できません。この点ではトヨタ自動車を創設した豊田喜一郎とそっくりです。正二郎はタイヤ生産にこだわり続けます。
 1933年(昭和6年)社名を「ブリジストン」とする、日本ゴムとは別の会社として、タイヤ生産は発足します。外資系二会社の製品との差は歴然たるものでした。ブリジストンが殴りこみをかけたので、タイヤ業界は乱売そして価格引下げ競争になります。トヨタと同じく、品質の差はサ-ヴィスで補います。責任保証制を取り入れます。故障したタイヤはブリジストンが引き取ります。足元を見られていんちきされることも多かったようです。支払いの時期は貴店のご随意に、という企業としては屈辱的条件も提案します。昭和8年は10万本のタイヤを生産します。が、10年までは収益ゼロでした。地下足袋やゴム靴でえた利潤を吐き出しているようなものです。兄の徳次郎は心配して側近に「うちのタイヤは売れているのかね 正二郎が困ったことに手を出したばかりに---」と例にないぐちをこぼします。昭和11年クロロプレン系合成ゴムを開発します。12年には統制経済の風潮にあわせて本社を東京に移します。1941年(昭和16年)の時点でそれでも、国内のタイヤ生産は、ダンロップが42%、ヨコハマゴムが32%、ブリジストンは28%でした。ヨコハマゴムは古河財閥がグッドリッチと組んで作った外資系の会社です。
 正直この段階国内シェア-が3割近くもよくあったものだと思います。統制経済で民需は抑えられ原料の供給は制限されますが、日本陸軍は装備の機械化をめざし、特に軍用車両の製造には熱心でした。トヨタと同じくブルジストンも民族資本として陸軍から保護され優先されました。ブリジストンが生き残れた原因の一つはこの点にもあります。ブリジストンもトヨタと同じく、戦後の技術革新で世界企業に成長しますが、戦時体制により強力な競争相手から保護されたことは事実です。社名が英語という敵性言語であるのはよくないとして、日本タイヤに改めさせられます。(昭和26年ブリジストンに復旧)ジャワ島占領と同時に、当地にあったグッドイヤ-社の工場管理に駆り出されます。この時正二郎は、戦況が不利になり撤退することになっても、生産設備は温存しておけ、と派遣される部下に言います。戦局の推移を冷徹に見通す眼の確かさに驚かされます。部下はいいつけを守ります。この事は戦後のグッドイヤ-社との技術提携に際して大いに有利に作用しました。終戦の間際に、軍から工場の本州への移転を命令され、時期遅しと抗弁し、遠ざけられます。軽井沢の別荘で不遇をしのいでいるとき、鳩山一郎と知り合います。鳩山の長男威一郎と正二郎の次女安子は後に結婚します。二人の間にできた長男が前首相の鳩山由紀夫です。
 1945年終戦、正二郎56歳の時のことです。正二郎はすぐ会社再建に乗り出します。海外の工場はすべて失いましたが、幸い横浜と久留米の工場は焼かれていませんでした。また軍の命令でスクラップにすべき3000トンの工場設備は担当者の気転で温存され隠されていました。ばれたら厳罰は必至です。勇将の下に弱卒なし、です。天然ゴムからガソリンを作るつもりで、軍命令で東亜燃料KKにあったこの原料ゴムを買い取ります。財閥指定を避けるために、日本ゴムと日本タイヤを分けます。前者は兄徳次郎の系統の者が経営します。打つ手が素早い。昭和21年には他社の例にもれず、労働争議が勃発します。ブリジストンの組合は企業内組合でしたが、共産党の細胞が入り、一部が過激化します。組合は、給与他の労働条件改善と同時に、会社の人事権の掌握を図ります。クロ-ズドショップ制(closed shop)と、役員会議への役員数と同数の労働者代表参加を要求します。前者になると、労働組合員以外の者は採用できないことになります。正二郎は待遇改善には極力努力するが、人事権の委譲は一切だめで押し通します。この件で一部妥協しかけた長男の幹一郎に、今後この件では一切口を出すなと、命令します。幹一郎も人事権を渡そうとしたのではありません。一部の組合幹部と接触しようとしたのです。正二郎は人事権云々という限り、組合との交渉は無用という態度を取り続けました。経営者としては当然の態度です。
 昭和25年渡米します。しばらく前から、正二郎は日本のタイヤ生産技術の遅れを痛感し、グッドイヤ-社との技術提携を模索していました。渡米して作業能率、規模、そして技術のどれをとっても段違いであることを更に知ります。特に日本ではタイヤの中に入れて、タイヤの強度を補強する繊維が木綿であったのに、アメリカではすでに合成繊維レ-ヨンでした。正二郎はこの技術を熱望します。グッドイヤ-社との交渉の要点は次の通りです。グッドイヤ-が受け取る技術料と、同社がブリジストンに支払う委託生産費の額の問題がまずあります。更にグッドイヤ-の製品をどちらの会社が販売するかの問題があります。ブリジストンとしては、当然自社で販売したいし、グッドイヤ-反対のことを考えます。適当な線で交渉はまとまりました。なおこの時グッドイヤ-はブリジストンに25%の出資を提案していますが、正二郎は峻拒しています。
 昭和25年朝鮮戦争が勃発します。戦時景気で儲かりますが、先物買いした原料ゴムの価格暴落で30億円の損金をだします。ゴム関係の企業も右へならえで、この危機は日銀特融で切り抜けます。昭和28年ナイロンコ-ドのタイヤを生産します。ナイロンが入ったタイヤです。昭和32年株式を公開します。38年社長から会長へ、同時に担当常務制を施行して、新社長幹一郎以下の合議制を計ります。48年相談役になります。1976年(昭和51年)肝硬変のため死去、享年87歳でした。正二郎の社会的貢献はいくつかありますが、代表的なものは、石橋コレクション(美術品)と久留米医大設立への膨大な寄付があります。
 現在ブリジストンタイヤの資本金は1263億円、売上額は2兆5970億円、純資産は1兆1207億円、総資産は2兆8084億円、従業員数は13万6684人です。(すべて連結)また世界市場ではブリシズトンとミシュランとグッドイヤ-三社がシェア-の半分を占めています。三社のジェア-はほぼ均衡しています。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行


 参考文献 創業者・石橋正二郎  新潮社

神と仏、神仏習合「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈から抜粋

2020-01-28 13:28:12 | Weblog
神と仏、神仏習合、「君民令和、美しい国日本の歴史」注釈からの抜粋

(神と仏)
 欽明天皇の御代850年前後、仏教は日本に正式に伝来しました。しかしその前に日本にはすでに神様がありました。記紀神話で述べられているような神様です。この神様方と仏様はどのような関係になったのでしょうか。日本古来の信仰は通常、いささか論理化されて神道と言われています。神道を宗教社会学的にはがして考察すると、山岳信仰と英雄崇拝を基軸とする原始呪術に還元されます。この上に仏教が重なりました。仏教は非常に理論的ですが、また柔軟な思考をもとります。ユダヤ・キリスト教やイスラム教のように絶対者を認めません。従って仏教は古来の神々を駆逐し絶滅するような事はありません。仏教と古来の神々は適当にまたいささか狡猾に重なり融けあい連なります。この現象を神仏習合と言います。
だからと言って神と仏がすぐ仲良くなったともいえません。仏教から見れば、民衆の福祉を保証し同時に違反を懲罰するべく原始的呪術を使うとされる神々は(スサノの命と大国主命を想起してください)は煩悩の塊、煩悩の親玉のようなものです。だから仏教伝来後しばらくは、神々は仏により懲らしめられました。神々は煩悩から離脱するために、悶え苦しみ、救済を仏に仰ぐような存在とされました。
しかし翻って見ると仏教にも呪術部門はあります。一般的に言えば呪術を持たない宗教は存在しません。宗教は常に二つの面を持ちます。一つは統治の合理化(普遍化)であり、もう一つは大衆の福祉増進(人心の安定も含まれます)です。後者はすぐ呪術に結びつきます。念のために言えば、北欧やゲルマンの神々を駆逐したキリスト教の皮を一枚剥ぐとこの呪術傾向は容易に看取されます。古来の神々は聖人と形を変えて民間に生き残ります。例えばサンタクロ-スやバレンタイン(恋人にチョコを贈り合う慣例の守護神?)などはその端的な例証です。フランスにあるル-ルドの泉(その水を飲むと万病が治るという)やサンチャゴデコンポステ-ラ(全欧から巡礼がそこに参拝します)なども古来の信仰の名残です。またエルサレムはキリスト教とユダヤ教(またイスラム教も?)の聖地とされますが、ユダ王国の首都であったとかキリスト殉教の地なのでしょうが、ただそれだけで聖地とされるのもうなずけません。偶像崇拝もいいとこです。
仏教はその先駆であるインド古来の信仰(儀式?)バラモン教から派生しました。バラモン教は人が天の神々に福を祈り要求(時には強要も)します。だからバラモン教では人と神は極めて親密な関係にあります。バラモン教は後ヒンズ-教になりますが、仏教もこの影響を受けて天に福を祈る呪術部門を持っています。この部門が密教です。ちなみに密教は仏教の一部門ではありますが、ヒンズ-教の一面でもあります。仏教がその教理を純化しえないで残った沈殿が密教です。私は密教はバラモン教あるいはヒンズ-教のしっぽをつけていると思っています。しかし宗教をとことん合理化すると宗教の力はなくなります。つまり宗教ではなくなってしまうのです。
そういうわけで仏教と日本古来の神々はすぐ仲良くなりました。神々は心身離脱して(つまり悟って)仏になります。これを神仏習合と言います。まず古来の神々を祭る神社の中に(あるいわ傍に)寺が建てられます。これを神宮寺と言います。字を見れば一目瞭然、「神」と「寺」が一語の中に共存しています。神宮寺出現の輩出は当時の日本の社会の変動と深く関連しているのですが、その事については別項で取り上げます。例えば興福寺は大和三笠山(後の春日大社)に勧請されます。比叡山延暦寺の背後には日吉大社が控えます。高野山金剛峰寺は空海がその地の神である丹生(にふ)神から土地を譲られて建立されます。時代が下って本地垂迹説が盛んになると神と仏は融合します。熊野権現の各社はそれぞれ阿弥陀如来・千手観音・薬師如来を、大箱根三所権現は文殊菩薩・弥勒菩薩・観音菩薩を、祇園社は薬師如来、加賀白山は十一面観音、熱田神宮は不動明王を祭ります。
(神宮寺建立)
先に神宮寺について述べました。再記することになりますが神宮寺とは、神が神であるが故の煩悩に苦しみ心身離脱して仏となって祭られた寺です。延暦寺、興福寺、金剛峰寺につては例示しました。ここでは伊勢多度大神の例について話しましょう。多度大神は伊勢美濃尾張にまたがる広い土地で信仰された神様でした。ある時神託が下ります。神の身では苦しいので仏になりたい、仏として祭ってくれと。こうして神社の中に小さなお堂が造られました。これが寺に発展します。こうして神宮寺ができましたが、この動向を推進したのは、土地の豪族及び有力農民でした。やがてこの神宮寺は延暦寺(天台宗)と東寺(真言密教)の取り合いになります。すったもんだの末に、東寺の末寺におさまりました。またこの多度神宮寺建立に一番力を入れ、寺の檀家総代になり別当職を掴んだのが伊勢平氏です。平氏はこの神宮寺とそれに伴う利権(土地支配、収益)を手に入れ他の檀家を麾下に郎党として組み入れ力をつけました。正盛・忠盛・清盛三代の昇進と繁栄の基礎投資は多度神宮寺建立により作られたと言えましょう。
神宮寺建立には社会的背景があります。まあ720年ころからでしょうか、律令制は変容し、土地私有が盛んになります。郡司など新旧豪族や有力農民が力をつけ、私有田を増やします。彼らは負名の主として税金を納めるかたわら中央の権門あるいは院宮王臣家と言われる有力者と縁を結び税金を免除してもらい、見返りに一部の収益を上納します。これが荘園のはしりです。このような農村の階層分化は全体としての生産力を高めます。下の層が必ずしも貧窮化したとも思えませんので、民度は上がり総体として豊かになったようです。民度が上がる、文化水準も上がる、競走は激しくなり、階層分化も増大します。こうなると旧来の原始的な神様では集団のまとまりをつけられなくなります。地方の山野河川渓谷海浜にそれぞれ小規模で蟠踞する神様の呪術では集団は維持できません。租税というものは収めたくないもので、収めさすためにはそれなりの心理的操作が必要です。律令政府は租税を土地の霊である神様へのお礼という体裁を取りました。そのため政府は全国の神社に命じて祈年祭や豊年祈願祭を催すべく発破をかけました。毎年秋行われる新嘗祭などはその端的な例です。しかし成果は上がりません。地方の有力者が協力しないからです。彼らは彼ら自身また配下の農民をも納得させる新たな神を求めていたのです。
この要求に答えたのが新たな異国の蛮神である仏教でした。「記紀神話」を読めば解りますが、そこには憶測めいた事実や社会風潮は述べられていますが、救済の論理従って倫理はありません。仏教にはそれがあります。因果応報、業、輪廻、万民平等、相互相即(つまり人はみな同じような事をしあっており、似たようなものだ、人がする事は自分もしている、その逆も同じ、だから怒るな恨むな憎むな、そうすれば救われる、というようなこと)そしてすべてが縁(万物は流転する、固定されたものはない、王侯将相皆同じ)と説きます。このような考えが幾多の経典(三論、法相、華厳、法華、浄土、禅、密教)できらびやかに多方面から繰り返し繰り返し説かれます。神主は勉強しなくても務まりますが、僧侶は勉強しなければなりません。加えて仏教は舶来のつまり先進国の文化です。仏教に随伴して絵画、建築、土木、数学、織機、冶金、文字、詩歌文芸などの諸技(芸)術ももたらされます。こうして経済的向上と文化水準上昇は相補しあいます。地方の有力者が飛びついたのはこの仏教でした。生産者としての自己の存在を認めてほしかったのです。生産商売はする、そのためには競走かつ優勝劣敗は仕方がない、富は貯まる、後ろめたい、人には恨まれたくない、摩擦はできるだけ避けたい。こういう心理を慰留し、容認し、また統御抑制する装置として仏教は信仰されました。この点ではキリスト教も多分イスラム教も同様です。こうして日本は世界史の一端に組みこまれます。同時に世界への発信も可能になります。
当時地方の郡司クラスの豪族の屋敷には小さいお堂かお寺のような物がありました。豪族の屋敷は大体その土地の神様の居所です。その上にあるいはすぐ傍に寺が建てられました。また仏教のような世界宗教は大規模な労働力の動員を可能にします。部族民族宗教では、土地土地によって異なる神様ですので、統一した感情が維持できません。仏教の採用、神宮寺の建立、神仏習合の意味はここにもあります。


台湾をWHO(世界保健機構)に加盟させよう

2020-01-27 20:08:39 | Weblog
台湾をWHO(世界保健機構)に加盟させよう
目下中国武漢起源の新型ヴィールス性肺炎が起こっている。中国ではすでに数千名が感染し50名以上の死者が出ている。この数はもっともっと増えるだろう。日本、韓国、米国、欧州、台湾、アセアン各国でも感染者が出ている。台湾の総督蔡氏は、台湾をWHOに加盟すべく嘆願している。かって中国起源のサ-ルズが猛威を振るった時、台湾は正確な情報が得られず困惑していた。
台湾をWHOに加盟させよう。これはまず第一に人道上の問題でもある。加えて感染対策の問題でもある。台湾のみがブラックホ-ルのように感染情報から取り残され、台湾で病気が蔓延するとなれば、今度は台湾が新しい病気震源地になってしまう。中国が台湾を承認していないから、各国に圧力をかけてWHO加盟を阻止している。中国は人命をなんとも思わない国だから、多分台湾のWHO加盟には反対するであろう。今度の新型肺炎も中国起源である。その責任からも中国は態度を改めるべきだと、思うが多分中国の姿勢は変わらないだろう。台湾のみならず日本も米国も他の国々も台湾のWHO加盟に圧力をかけよう。安倍総理の奮闘を祈る。台湾が自主独立してすでに75年が経っている。台湾島は台湾の勢力が実効支配している。人口は2500万人、決して小さい国ではない。健康管理情報の提供において無視する方がおかしい。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行