経済人列伝 石黒忠篤(一部付加)
石黒忠篤は1984年(明治17年)東京に生れました。忠篤の先祖は戦国時代の上杉氏の家臣まで遡れますが、謙信の死と同時に浪人し越後の国で帰農して、代々豪農として栄えます。忠篤の5代前、信濃川から分水して農地を開墾しようとする試み失敗し、貧乏になります。祖父の代から幕府代官の手代(地方採用の事務員)になります。父親は勤皇の志に燃えて活動します。また佐久間象山の影響を受けて、医師を志望し、江戸医学校(東大医学部の前身)に入り、学問を修めます。明治初期に医療制度創設に尽力して初代軍医総監になり男爵、更に子爵に叙せられます。
忠篤は華族の子弟としてのんびり育てられました。東京師範学校付属の幼稚園、小中学校とエスカレ-タ-方式で進学し、東京第一高等学校を受験します。当然合格すると思っていたのに不合格、新設された鹿児島第七高等学校に入学します。東京大学法学部に入り、25歳時卒業します。学生時代トルストイと二宮尊徳の影響を受け、自然を相手に労働する素朴な農民生活に共感し、なんとか農民の生活に資する職はないかと模索し、農商務省に入り農政一筋に生きます。
大正4年32歳、1年間欧州に留学します。大正8年農政課長になります。この頃全国には澎湃として小作争議が勃発していました。政府も対策に本腰を入れます。主務者は農政課長である忠篤です。彼は真剣にまた情熱をもってこの問題に取り組みました。農政課の中に、小作分室を作り、このグル-プで小作問題を検討します。やがて分室は小作課新設に発展し、忠篤は自らこの新しいポストに就きます。忠篤は徹底して実証を重んじました。無類の調査好きです。小作慣行調査を全国において実施し、小作の実態をつかもうとします。こうして小作調停法案、小作法、自作農創設維持規則ができます。彼は「自分は百姓になれなかったので、百姓の世話をすることで、今日に至っている」と常に言っていました。41歳農務局長になります。前後して農商務省から農林部門が分かれ、彼が所属する官庁は農林省になります。大正15年忠篤は、自作農創設事業に取り組みます。全国の小作農に、日歩四分三厘、1年据え置き、24年後元利償還という条件で融資し、小作地の買い取りを援助します。うち一分三厘は国庫が負担します。私の計算では、年利が1%前後になり非常な低利です。さらに年賦償還金が小作料を超える土地には、法を施行しないという条件も付けます。こういう法案を熱心に施行したので忠篤は「アカ、左翼」とみなされたこともあります。
この間肥料問題に取り組みます。明治末年頃から日本の肥料消費量は飛躍的に増加します。それだけ農業が発展しつつあったということです。忠篤は肥料価格の安定を計り、特に硫安の増産を進めます。昭和5年の時点で硫安の輸入総量を国産総量が上まわりました。蚕糸業にも関心を示します。自ら蚕糸局長になり、品種改良(蚕と桑)、蚕糸技術の改良、蚕糸の価格安定と需給調整、生糸と絹織物の海外宣伝に努めます。当時明治末年から戦後にいたるまで、蚕糸つまり生糸と絹は綿糸・綿布と並んで日本の輸出の花形でした。
米価調整にも取り組みます。大正10年までの10年間米価は著しい騰落を繰り返し、極めて不安定でした。11年米穀法が施行されやがて米穀統制法、米穀配給統制法、そして昭和17年の食糧管理法に発展してゆきます。忠篤は綿密な調査を行い、統計を駆使しあるいは新しい統計を導入して、生産費調査、農家経済調査、農業経営調査などを行います。彼は基本的には主食である米穀の販売は国家により調整(統制)されるべきだ、という考えの持ち主でした。農家簿記の普及にも尽力します。
昭和の始めには恐慌が相継ぎました。農村は荒れます。農家の娘の身売りが問題になった時代です。農林省に経済厚生部が設けられます。全国の農村を対象として、毎年1000町村に総額500万円の厚生資金が低利で融資されます。時の大蔵大臣は高橋是清であったのでこの案は日の目を見ます。農村負債整理組合法が創られ、農村厚生協会が創られ、国庫助成で農民の修練道場が創設されます。更に新設された農村自治講習所はやがて加藤完治の指導のもとに日本国民高等学校に発展します。これらの事業のすべてに忠篤は深く関与しています。厚生協会、自治講習所、国民学校などの目的は、農民の農民としての自覚を促し、農業(経営)技術を習得せしめ、併せて農民の団結を促進することにあります。これらの作業の延長上に農民の満州移民があります。忠篤は移民に熱心で何度も満州に渡っています。
昭和16年(1941年)第二次近衛内閣の農林大臣に就任します。食糧増産を促進し、茨城県内原に20000人の農民を集め、農業増産推進隊を作ります。芋類特にサツマイモの増産を計り、全国の荒蕪地や空き地にサツマイモを栽培させます。単位面積あたりのカロリ-生産量はサツマイモが一番だそうです。
昭和20年鈴木内閣の農林大臣になります。農村労働力の減少を歎き、国内の食糧の絶対的不足を痛感し終戦のやむなきを説きます。6月忠篤は天皇陛下に拝謁し、食糧の絶対的不足という状況を前提として、「これだけでも戦争をやめる理由は十分にあり、これ以上戦争を続ける理由はなく、国民の生命を損ずる問題は、敵の銃火をまつまでもなく、食糧の不足から生ずる状態が、国内に生ずるのは明白です。これ以上国民を傷めないためにも、戦争をやめるべき時にきていると存じます」と奏上しています。
敗戦、昭和21年忠篤は追放になります。26年追放解除。ほとんど同時に改進党総裁就任の話がきます。総裁に就任していたら、石黒内閣が誕生していたかもしれないと言われています。特に夫人の反対もあり、この話は断ります。昭和27年参議院議員の静岡県補欠選挙に緑風会から立候補し当選します。緑風会は、貴族院から転じた第二院である参議院の中の会派で、党議拘束なく個々人の判断で行動する議員の集団でした。良識派の牙城と言われました。忠篤はこの緑風会の方針に頑固なまで、やや空想的なまでに、固執し、緑風会の存在を擁護し続けます。彼の努力に反比例して、一時は参院で最大会派だった緑風会は衰勢に向かいます。資金力と動員力に富む団体を背景とする候補がのし上がってきます。参院補選に関してはおもしろい逸話があります。自由党は選挙で緑風会と対立する立場にありましたが、時の総裁吉田茂はあえて静岡県では忠篤を応援しました。
追放中、忠篤がなんにもしなかったのではありません。かなり野放図にずうずうしく活動しています。戦後復員してきた人口に対する失業計画として、北海道に開拓農民を移住させる方策を検討し発案します。全国の農民に呼びかけて、信州諏訪で全国農民連合会を結成し、食糧増産と農村の経営改善に尽力します。追放解除後の昭和29年、この会の会長に就任しています。昭和24年新穀感謝祭の復活を唱導します。この感謝祭は新嘗祭の全国版であり一般化ですので、神道に警戒的であったGHQの強い反対に会います。忠篤がこの運動を中止したと言う形跡はありません。鷹司信輔明治神宮宮司と協力して、新穀感謝祭の復活を推し進めます。
昭和35年(1960年)心筋梗塞で急死します。享年77歳でした。忠篤の人生を省みますと、華族の子弟らしい、おおらかさ、お坊ちゃん気質が明白に観取できます。大声で談論風発し、隣室で聞いていると喧嘩と誤解されることもよくありました。事実よく怒り怒鳴りました。部下には、怒るのは私の趣味だと、言ったという噂もあります。彼は二宮尊徳に心酔していました。ですから基本的にはリベラリストです。同時に農本主義者でもあります。その分農政の国家統制を容認しました。彼は、尊徳は倫理道徳の代名詞のように扱われているので、尊徳の偉大さは理解されていないと、言いました。事実その通りです。この列伝でも尊徳を取り上げました。尊徳の「二宮翁夜話」は一読再読三読するに値する傑作です。
参考文献 石黒忠篤 時事通信社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行
石黒忠篤は1984年(明治17年)東京に生れました。忠篤の先祖は戦国時代の上杉氏の家臣まで遡れますが、謙信の死と同時に浪人し越後の国で帰農して、代々豪農として栄えます。忠篤の5代前、信濃川から分水して農地を開墾しようとする試み失敗し、貧乏になります。祖父の代から幕府代官の手代(地方採用の事務員)になります。父親は勤皇の志に燃えて活動します。また佐久間象山の影響を受けて、医師を志望し、江戸医学校(東大医学部の前身)に入り、学問を修めます。明治初期に医療制度創設に尽力して初代軍医総監になり男爵、更に子爵に叙せられます。
忠篤は華族の子弟としてのんびり育てられました。東京師範学校付属の幼稚園、小中学校とエスカレ-タ-方式で進学し、東京第一高等学校を受験します。当然合格すると思っていたのに不合格、新設された鹿児島第七高等学校に入学します。東京大学法学部に入り、25歳時卒業します。学生時代トルストイと二宮尊徳の影響を受け、自然を相手に労働する素朴な農民生活に共感し、なんとか農民の生活に資する職はないかと模索し、農商務省に入り農政一筋に生きます。
大正4年32歳、1年間欧州に留学します。大正8年農政課長になります。この頃全国には澎湃として小作争議が勃発していました。政府も対策に本腰を入れます。主務者は農政課長である忠篤です。彼は真剣にまた情熱をもってこの問題に取り組みました。農政課の中に、小作分室を作り、このグル-プで小作問題を検討します。やがて分室は小作課新設に発展し、忠篤は自らこの新しいポストに就きます。忠篤は徹底して実証を重んじました。無類の調査好きです。小作慣行調査を全国において実施し、小作の実態をつかもうとします。こうして小作調停法案、小作法、自作農創設維持規則ができます。彼は「自分は百姓になれなかったので、百姓の世話をすることで、今日に至っている」と常に言っていました。41歳農務局長になります。前後して農商務省から農林部門が分かれ、彼が所属する官庁は農林省になります。大正15年忠篤は、自作農創設事業に取り組みます。全国の小作農に、日歩四分三厘、1年据え置き、24年後元利償還という条件で融資し、小作地の買い取りを援助します。うち一分三厘は国庫が負担します。私の計算では、年利が1%前後になり非常な低利です。さらに年賦償還金が小作料を超える土地には、法を施行しないという条件も付けます。こういう法案を熱心に施行したので忠篤は「アカ、左翼」とみなされたこともあります。
この間肥料問題に取り組みます。明治末年頃から日本の肥料消費量は飛躍的に増加します。それだけ農業が発展しつつあったということです。忠篤は肥料価格の安定を計り、特に硫安の増産を進めます。昭和5年の時点で硫安の輸入総量を国産総量が上まわりました。蚕糸業にも関心を示します。自ら蚕糸局長になり、品種改良(蚕と桑)、蚕糸技術の改良、蚕糸の価格安定と需給調整、生糸と絹織物の海外宣伝に努めます。当時明治末年から戦後にいたるまで、蚕糸つまり生糸と絹は綿糸・綿布と並んで日本の輸出の花形でした。
米価調整にも取り組みます。大正10年までの10年間米価は著しい騰落を繰り返し、極めて不安定でした。11年米穀法が施行されやがて米穀統制法、米穀配給統制法、そして昭和17年の食糧管理法に発展してゆきます。忠篤は綿密な調査を行い、統計を駆使しあるいは新しい統計を導入して、生産費調査、農家経済調査、農業経営調査などを行います。彼は基本的には主食である米穀の販売は国家により調整(統制)されるべきだ、という考えの持ち主でした。農家簿記の普及にも尽力します。
昭和の始めには恐慌が相継ぎました。農村は荒れます。農家の娘の身売りが問題になった時代です。農林省に経済厚生部が設けられます。全国の農村を対象として、毎年1000町村に総額500万円の厚生資金が低利で融資されます。時の大蔵大臣は高橋是清であったのでこの案は日の目を見ます。農村負債整理組合法が創られ、農村厚生協会が創られ、国庫助成で農民の修練道場が創設されます。更に新設された農村自治講習所はやがて加藤完治の指導のもとに日本国民高等学校に発展します。これらの事業のすべてに忠篤は深く関与しています。厚生協会、自治講習所、国民学校などの目的は、農民の農民としての自覚を促し、農業(経営)技術を習得せしめ、併せて農民の団結を促進することにあります。これらの作業の延長上に農民の満州移民があります。忠篤は移民に熱心で何度も満州に渡っています。
昭和16年(1941年)第二次近衛内閣の農林大臣に就任します。食糧増産を促進し、茨城県内原に20000人の農民を集め、農業増産推進隊を作ります。芋類特にサツマイモの増産を計り、全国の荒蕪地や空き地にサツマイモを栽培させます。単位面積あたりのカロリ-生産量はサツマイモが一番だそうです。
昭和20年鈴木内閣の農林大臣になります。農村労働力の減少を歎き、国内の食糧の絶対的不足を痛感し終戦のやむなきを説きます。6月忠篤は天皇陛下に拝謁し、食糧の絶対的不足という状況を前提として、「これだけでも戦争をやめる理由は十分にあり、これ以上戦争を続ける理由はなく、国民の生命を損ずる問題は、敵の銃火をまつまでもなく、食糧の不足から生ずる状態が、国内に生ずるのは明白です。これ以上国民を傷めないためにも、戦争をやめるべき時にきていると存じます」と奏上しています。
敗戦、昭和21年忠篤は追放になります。26年追放解除。ほとんど同時に改進党総裁就任の話がきます。総裁に就任していたら、石黒内閣が誕生していたかもしれないと言われています。特に夫人の反対もあり、この話は断ります。昭和27年参議院議員の静岡県補欠選挙に緑風会から立候補し当選します。緑風会は、貴族院から転じた第二院である参議院の中の会派で、党議拘束なく個々人の判断で行動する議員の集団でした。良識派の牙城と言われました。忠篤はこの緑風会の方針に頑固なまで、やや空想的なまでに、固執し、緑風会の存在を擁護し続けます。彼の努力に反比例して、一時は参院で最大会派だった緑風会は衰勢に向かいます。資金力と動員力に富む団体を背景とする候補がのし上がってきます。参院補選に関してはおもしろい逸話があります。自由党は選挙で緑風会と対立する立場にありましたが、時の総裁吉田茂はあえて静岡県では忠篤を応援しました。
追放中、忠篤がなんにもしなかったのではありません。かなり野放図にずうずうしく活動しています。戦後復員してきた人口に対する失業計画として、北海道に開拓農民を移住させる方策を検討し発案します。全国の農民に呼びかけて、信州諏訪で全国農民連合会を結成し、食糧増産と農村の経営改善に尽力します。追放解除後の昭和29年、この会の会長に就任しています。昭和24年新穀感謝祭の復活を唱導します。この感謝祭は新嘗祭の全国版であり一般化ですので、神道に警戒的であったGHQの強い反対に会います。忠篤がこの運動を中止したと言う形跡はありません。鷹司信輔明治神宮宮司と協力して、新穀感謝祭の復活を推し進めます。
昭和35年(1960年)心筋梗塞で急死します。享年77歳でした。忠篤の人生を省みますと、華族の子弟らしい、おおらかさ、お坊ちゃん気質が明白に観取できます。大声で談論風発し、隣室で聞いていると喧嘩と誤解されることもよくありました。事実よく怒り怒鳴りました。部下には、怒るのは私の趣味だと、言ったという噂もあります。彼は二宮尊徳に心酔していました。ですから基本的にはリベラリストです。同時に農本主義者でもあります。その分農政の国家統制を容認しました。彼は、尊徳は倫理道徳の代名詞のように扱われているので、尊徳の偉大さは理解されていないと、言いました。事実その通りです。この列伝でも尊徳を取り上げました。尊徳の「二宮翁夜話」は一読再読三読するに値する傑作です。
参考文献 石黒忠篤 時事通信社
「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行