経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、白州次郎(再掲)

2012-08-27 02:43:12 | Weblog
   白州次郎

 白州次郎は経済人でもありますが、その範疇に納まりきれない人物です。彼の性格は特異的です、傍若無人、反権威的、そして直情径行でもあります。命令し、罵言暴言も吐き、人を無視して自己の意志を押し付けます。反面極めて思いやりの深い面をも持ち、冷笑的でニヒリスティックでもあります。上に傲慢で下には優しく、自分をももてあましているといった人物です。とても一企業内の組織人として地道にやってゆけるタイプではありません。次郎の活躍は戦後占領下の6年間に集約されるといっていいでしょう。この時代に吉田茂首相の私的側近(というよりパ-トナ-)として八面六臂の活躍をします。次郎は日本政府とGHQ(占領軍最高司令部)の間の重要な仲介役をしました。当時GHQに顔が効くとは大変なことで、彼の名刺は一枚5万円という噂もありました。
 次郎は1902年(明治35年)兵庫県芦屋に生まれました。先祖は三田藩の儒者の家柄です。祖父退蔵は藩政改革に従事し、三田県大判事になり、後には横浜正金銀行の副総裁、さらに総裁になっています。父文平はハ-ヴァ-ド大学卒業、白州商会という綿貿易商を営み、一時は相当な富豪になります。桁外れの豪傑でした。建築が道楽で、次から次へと新しい家屋を建てます。一家はそのためにやはり次から次へと転居しなければならなかったそうです。昭和3年の金融恐慌で白州商会は破産します。文平は阿蘇山の麓で一人農事にいそしんで一生を終えます。
 次郎は神戸一中に入ります。現在の神戸高校です。友人の評価は、傍若無人、です。金満家の父親は次郎に法外な小遣いを与え、外車(当時の日本にあった車のほとんどは外車ですが)ペイジ・グレンブルックを買い与えます。次郎はこれを乗り回していました。傲慢にもなろうというものです。次郎はあちこちで問題を起こします。その度に文平は菓子折りをもって、謝りにゆきます。白州家には菓子折りが積んであったそうです。
 日本においておけないと思ったのか、それとも世界的視野で物事を考える人間に育てたかったのか、文平は中学卒業後の次郎をイギリスに留学させます。クレア-カレッジ、そしてケンブリッジ大学で教育を受けます。次郎は半分冗談に、イギリスという島に流されたといっています。ケンブリッジでは物理学者JJトムソンや経済学者JMケインズの講義に出席し、彼らの謦咳に接しています。英国滞在時代にストラッドフォ-ド伯爵、ロビン・ビングと終生の交わりを結びます。
 1925年(大正14年)ケンブリッジ卒、歴史学者になろうかと考えましたが、1928年(昭和3年)父の会社が破産し、帰国します。破産といってもそれなりの余裕はあったようです。1929年樺山正子と結婚します。正子の祖父は維新の元勲樺山資紀です。この間英字紙ジャパンアドバイザイザ-の記者をしたり、セ-ルフレ-ズ商会の取締役をしています。後者は当時有名な外資系の貿易会社でした。セールフレ-ズ商会では外地部部長の肩書きをもっていました。次郎はほとんど日本にいる事無く、一人で外国を飛び回っていました。部下もいません。彼の折衝能力が外国で活用されたのでしょう。1937年(昭和12年)日本食糧工業の取締役になります。この会社は他と合併して日本水産KKになります。
 吉田茂と昵懇になります。なぜ吉田との関係ができたのでしょうか?一つは閨閥です。次郎の妻の祖父は樺山資紀、薩摩人です。吉田の岳父牧野伸顕の父親は大久保利通です。こういうゆかりもあります。また次郎はしょっちゅうイギリスにいっています。吉田が駐英大使の時、知り合ったのでしょう。ロンドンの日本大使館は次郎の宿所になっていました。吉田は人も知る英米派であり、次郎と考えを同じくします。日独伊防共協定には二人とも反対でした。こういう縁が延長されて近衛文麿とも親しくなります。しかし世は急速に英米との戦争に傾斜してゆきます。1940年(昭和40年)次郎は一切の肩書きを捨てて、小田急線沿いの鶴川村に農地を買って隠棲し、農作業に専念します。この辺の行動は父親文平にそっくりです。次郎は隠棲に際して、日本の敗北と食糧難を予言します。戦争中吉田や近衛あるいは池田成彬達と組んで反戦(戦争終結)活動をしたと伝えられます。
 1945年(昭和20年)終戦。幣原内閣の外務大臣吉田茂の要請で終戦事務局の参与(後に次官)に就任します。この部局は政府とGHQの連絡役です。実際には各省の大臣より強い力をもっていました。ともかく敗戦後、GHQの意向は絶対なのですから、そこと直に連絡できる部局が力を持つのは当然です。最初の大仕事が憲法改正(新憲法作成)です。昭和21年2月13日、総司令部民生局長ホイットニイ-准将は3人の幕僚と共に、外部大臣官邸を訪れます。日本側は、外部大臣吉田茂、憲法担当国務大臣松本蒸治、通訳長谷川元吉そして次郎です。ここでホイットニ-は松本が起草した憲法原案を徹底的に否定して、象徴天皇制と一院制を主張します。新憲法草案起草の過程で、次郎はジ-プウエイレタ-といわれる書簡をマッカ-サ-に送ります。そこには、憲法改正の発議権を衆院が持つことにより、民主主義は保たれる(逆に言えばそれ以上天皇制にふれてほしくない)、日本の大多数は天皇を敬愛し、共産主義には好意をもっていない、大正デモクラシ-などの伝統もあり日本には民主主義の土台がある、ことなどを主張しています。まあこういう過程を経て日本の憲法は改正されましたが、それはマッカ-サ-草案の翻訳に近いものです。この翻訳にも次郎は参加します。草案は結局日米の憲法学者の検討を経ることなく作られました。マッカ-サ-草案も応召された弁護士上がりの米軍将校による作成だろうといわれます。ちなみにGHQの民生局(GS)には多くのニュ-ディ-ラ-がいました。彼らは母国アメリカで成功したとはいえないニュ-ディ-ル政策を日本で実験しようとします。勢い過激になりました。またアメリカでは社会主義政党がないのでこのニュ-ディ-ラ-達がそれを代行します。民生局に対抗したのが諜報治安担当のG2です。日本占領政策はこの二部門の角逐で進みます。またGHQの追放令は中央官庁のみならず地方議会(首長)から町内会、隣組にまで及びました。日本の既存の組織すべてを否定し、日本人の統治能力を破壊するつもりでした。
 1948年(昭和23年)次郎は貿易庁長官に就任します。併行して経済安定本部次官になります。貿易庁という役所は戦後の日本経済を象徴する機関です。当時日本の外為レイトは品目ごとに違っていました。商品の競争力に応じて為替レイトが変わります。こうなると政府の恣意的介入で市場が混乱し、また汚職の源泉になります。貿易庁に関する汚職は厳罰をもってしても止みません。次郎は貿易庁を廃止します。貿易庁を商工省に吸収合併させて通商産業省を作りました。貿易庁を商工省にくっつける事において、次郎は輸出マインドを強調します。軍備を廃止された日本の外交は経済外交しかない、旧商工省のように国内の産業にだけ視野を狭めていてはだめだ、輸出行政の延長上に産業行政がある、と言います。外務官僚も通産省に出向いて通商経済の勉強と体験をしないとまともな外交はできないといいました。逆に通産省の官僚も外務省で外交の訓練を受けるべきだ、と主張します。
 次郎の日本経済への重要な関与のもう一つは、電気産業再編成です。この件に関しては松永安左衛門、木川田一隆、太田垣士郎の列伝で何度も取り上げました。それまで日本発送電が発電を独占し、送電のみを民間が行っていたのを、どうするかという問題です。電気事業再編成委員会が作られます。委員会の主流は日本発送電を残して電気事業を国家独占の形にしようとします。この案に極力反対したのが松永で、彼は複数の電力会社に分割し、かつ発電と送電を一体化させる案を主張します。次郎は松永案に賛成の立場です。松永を委員に推薦したのは次郎でした。委員会は紛糾しもめにもめ、最後はマッカ-サ-の判断で松永案になります。九電力体制になります。そして1951年(昭和26年)次郎は東北電力の会長に就任します。彼は自然が好きで、水力発電を好みました。只見川の電源開発は次郎の斡旋によるところが大きいのです。次郎の事務執務の変革は極めて革命的なものです。机はすべて入り口を向けて並べ、課長は課員の背後で執務します。執務中は禁煙、女子職員のお茶汲みも禁止でした。現在ではこういう職場が普通です。
 1950年(昭和25年)蔵相池田隼人といっしょに特使としてアメリカにゆきます。講和交渉の下準備です。同年9月サンフランシスコ講和会議。全権団の一員に次郎も加わります。吉田全権大使の演説原稿が英語で書かれているのをみて、次郎は外務官僚の対米迎合を怒ります。即座に彼はそれを日本語に治します。同時にそこに、早い時期での沖縄返還、という事項も盛り込みます。
 1959年(昭和34年)東北電力会長を辞任。以後荒川水力発電会長、大沢商会会長になります。特に軽井沢ゴルフクラブ理事長としての采配は有名です。二つエピド-ドを挙げます。ある首相が駐日アメリカ大使とゴルフをしたいので急遽なんとかならないかと要請(懇願?)します。次郎は空きがないので断ります。また雨中のプレ-を禁止しました。馬鹿が雷にうたれて自殺するのは勝手だが、キャディ-まで巻き添えになるのはごめんだと言います。1950年(昭和60年)死去、83歳でした。彼は文人ではありませんが、小林秀雄、今日出海、河上徹太郎とは親しくつきあっていました。次郎の妻、白州正子は優れた作家だそうです。
 白州次郎の活躍は終戦から講和条約締結までの、占領軍政下の時代です。この時代占領軍GHQの威力は絶大でした。特に初期の2年間、GHQは日本の政治経済のあらゆる組織を否定し、日本の統治機構そのものを破壊するつもりでした。結果としてGHQは共産主義者と提携します。この国難の時次郎の経歴と性格は非常に役にたちました。その傍若無人といわれる性格ゆえに、GHQをおそれずずけずけ言います。次郎の経歴は半分英米人でもあります。吉田や近衛に親しいことは腹心密使としては最適です。もちろん、日本語よりも上手と言われた英語力も重要です。新憲法作成、通産省新設、電力事業再編成、講和条約だけ、つまり次郎の活躍で解る部分だけ取り上げても大事業です。彼が関与した仕事はこれらに限られないでしょう。彼の活動の本質的部分は占領下日本という特殊事情の闇の中に埋没しています。現在次郎の名を知る人はほとんどいないでしょう。半世紀以上前の日本の危機の中で、八面六臂の活躍をして歴史の推移の中に消えた人物がいたと思っていただければそれでこの小論の意味はあります。

 参考文献  風の男 白州次郎   新潮社

早川徳次(変更版)

2012-08-20 02:55:48 | Weblog
早川徳次(変更版)

 最近シャ-プに新聞紙面をにぎあわせています。。読売新聞の朝夕刊一面に出た記事を記載します。

 3-29シャ-プ、LED植物栽培の研究開発で大阪府大と提携
 4-3 シャ-プ太陽光発電量産化へ 電気料金並みコスト 変換率アップ
     (それまで14%前後の変換率を20%にアップ)
 4-9 シャ-プ堺工場 液晶生産前倒し稼動 

 世界的大不況といわれる中、技術立国日本の将来を示唆するまことに頼もしいニュ-スです。早川電気、現在のシャ-プ株式会社の創始者が早川徳次です。彼のモット-は「他社が真似するような商品を作れ」でした。
 彼早川徳次の一生は波乱に満ちています。厳しい幼少年期をめげずに過ごし、19歳で独立します。徳次は1893年日清戦争勃発の年に、東京日本橋で生まれます。故あって養子に出されます。養父は出野熊八、深川の大工でした。養母が大変な人で、今なら「abuse--虐待」と言っていいほどの眼にあいます。三度の食事もろくに食べさせてもらえないかのような待遇でした。私立の小学校を中退し、8歳、坂田芳松という飾職人の家に丁稚奉公します。親方にはかわいがられたようです。この間夜学に通い、算盤と文字を習います。
発明の才能は早くから目覚めます。19歳「徳尾錠」で特許をとります。「徳」は自分の名前、「尾錠」はバンドのバックルです。それまでバンドは皮に穴をあけて止めていました。現在の「尾錠」は徳次の発明です。同時に独立します。資本金が50円弱でした。
 20歳、「巻島式水道自在器」の特許を取ります。それまで水道に蛇口をつけるのには時間がかかりました。この自在器は時間を大幅に短縮します。「巻島」は徳次が世話になった人物の姓です。
22歳、有名なシャ-プペンシル(早川式繰出鉛筆)を開発します。以後どの程度改良されたのかは知りませんが、シャープペンシル、略してシャ-ペンには現在でも私はお世話になっています。この種の器具は徳次の発明以前からあったようですが、不便極まりないものでした。この間出野家を離籍し、今に知られる早川徳次になります。早川の一族特に兄弟と再会します。早川と出野では社会的階層差があります。加えて義母に虐待された体験を持つ徳次としては、早川の籍に入る事で自己の帰属感を確立したかったのでしょう。1917年(第一次大戦終了の年)、徳次24歳、早川商会の月売り上げは2万円、従業員は100名を超えます。当時の国家予算はせいぜい20億円くらいと理解しておいてください。
 1923年、徳次30歳、関東大震災に会います。この時妻文子と二人の息子を失います。早川商会の損失額は25万円、工場施設は壊滅です。一時的に廃墟になった東京を捨てて徳次は、関西に移住します。2万円の借財と引き換えに、シャ-プ・ペンシルの特許を日本文房具という大阪の会社に譲ります。後年この時の契約証書の有無をめぐって徳次は不快な裁判沙汰に巻き込まれ、敗訴します。
 多くの人の後援を得て31歳、現在の大阪市阿倍野区西田辺に、早川金属工業研究所を作ります。これが現在のシャ-プ発祥の地です。以前から徳次はラヂオに関心を持ち、鉱石ラヂオなどを作っていました。33歳、ラヂオ受信機であるシャ-プダインを作り、電器産業に進出します。この商品は最初の見本市であまり売れませんでした。そこで徳次は一部の商品に売り切れの赤札を意図的に貼ったといわれます。売り切れま近と思った客は争って買い、すべて売り切れたそうです。ちょっとしたトリックですが、発明家徳次の商才を伺わせます。
 1935年、43歳、株式会社早川電気設立、資本金30万円。堂々たる実業家になった徳次は、横浜モ-タ-バ-ツの社長も兼ね、早川商工青年学校を経営し、日本ライトハウスの創立に寄与します。
 やがて戦争、通信機器の分野の軍需を担当します。陸軍大佐の待遇でした。そして敗戦。他の企業と同じく、生産施設は破壊され、資産は壊滅します。社員をどうして食わせてゆくか、その為に、電気イモ焼き器、電熱器、電気パン焼き器など、売れそうなものならんでも作りました。
1949年ドッジライン。超緊縮経済の中でほとんどの企業は潰れかけます。早川電気も松下電器も例外でなく、倒産廃業の一歩手前まで追い込まれます。当時、早川電気の中で「特攻隊」という言葉が使われました。営業マンは自社製品を抱えて出た以上、売切れるまで帰ってくるな、という命令です。帰りの運賃は自分で稼げ、片道分のガソリンだけあげる、というしだいです。こうして四苦八苦するうちに神風が吹きます。朝鮮戦争です。またこの戦争をきっかけとして、共産主義の驚異を実感した米政府は、反共の楯としての日本の工業力育成のために、米国の特許公開の制限を緩和します。
(特許に関して付言すれば、戦時中わが国が独自に開発した技術は、戦勝国によりすべて特許からはずされました。米国は一時期本気で日本を非工業化するつもりでした。なお
現在の時点で、特許申請件数は日本とアメリカが首位を争っています。両国の特許申請には明らかな差があります。アメリカの特許申請者は半分以上が外人です。米国科学技術の空洞化といっていいのでしょうか?日本は米国に対してもドイツに対しても特許では出超です)
徳次は将来の方向をしっかり見据えていました。彼の関心はテレヴィ受像機製造にありました。1953年、国産第一号白黒テレヴィが製造されます。値段は17万円でした。当時月給10万円といえば、大会社の重役の給料で相当な高給でした。1954年の時点でテレヴィのシェア-は23%のシャ-プをトップに、東芝そして松下が続いていました。
私の父親は新しい物好きでテレヴィを買ってくれました。1955年中学校2年の時です。それはシャ-プ・テレヴィでした。技術はシャ-プという定評を父親から聞いた記憶があります。
 早川電気はさらに電卓や電子レンジにも進出をします。死の10年前、徳次は将来は太陽光発電の時代になると予言します。その予言は現在実現しつつあります。1980年(昭和55年)早川徳次死去。享年80歳。私見ですが、申し分のない大往生であろうと思います。
 早川徳次のような開発企業家の生涯を見ていますと、物作りへの熱中というか、好きで好きでたまらないというロマンティシズムを看取させられます。同時に将来の基軸産業が何になるかをしっかり見定める力を持ちます。この点では豊田佐吉と似ています。そこに、岩崎弥太郎や安田善次郎、大倉喜八郎にはないある種のすがすがしさを見ます。しかしこれは私の理科系的偏見でしょう。金融も製造も生産です。ただ物作りの方が、判然と目に見える分、印象が強烈です。早川と松下は対照的です。早川電気はまず開発、そして販売がモット-でした。当然作っても売れない物も出てきます。業界のあだ名が「ハヤマッタデンキ」。松下は販売の展望をじっくり見て、製造します。あだ名が「マネシタデンキ」です。またソニ-のあだ名は「モルモット」。なんとなら、他の企業に先駆けて、先行し、わが身を市場という実験場に晒すからです。なお以上のお話はすべて「シャ-プを創った男・早川徳次、平野隆彰著、日経BP」に従いました。この本はおもしろい本です。正直企業家の伝記はそうおもしろいものではありませんが、この本はおもしろい。一読を勧めます。
(付)2008年3月現在、シャ-プ株式会社は資本金2000億円強、社員数23000名を数えます。連結で計算すれば数値は倍以上になります。

(付)2012年8月現在シャ-プは液晶テレヴィの行き詰まりで台湾企業との提携、人員整理、堺工場の売却などで苦闘しています。電気器具業界の業績は明暗を分けました。日立や東芝が黒字、シャ-プやソニ-が赤字です。前二社は家電やTVなどに見切りをつけ本来の重工業・重電に方向を定めました。後二社はTVなどにしがみつきました。シャ-プが典型です。ソニ-もシャ-プも個々の技術ではいいものを沢山持っているのですから、異種産業への方針変更が急務でしょう。

李韓国大統領の竹島上陸に思う - 領土問題再考

2012-08-13 02:44:06 | Weblog
   李韓国大統領の竹島訪問に思う - 領土問題再考

 昨日であったか一昨日(8月10日)か、韓国の李大統領が竹島を訪問した。歴代大統領でこんな行為をしたのは李氏が始めてであるという。正直馬鹿なことをしたものだ。この愚行に関して逐次考えてみよう。
 まず第一に、竹島は韓国が実効支配をしている。残念ながら日本は戦争にでも訴えない限りこれを取り戻すことはできない。韓国としては現況のまま放置しておけばいいのだ。それをわざわざ寝た子をおこすようなことをする。韓国にとって百害あって一利もない行為だ。しかし売られた喧嘩は買わずばなるまい。
 李氏がかかる行動に及んだには、彼の政権の支持率の低さ(17%)つまり政権の危機が背景にある。支持率17%とは政権がlame duck(歩けないアヒル)になり政策遂行能力が全くない、という事を意味する。そこで人気回復、一発逆転をねらって李氏は今回の愚行に走ったのであろう。
 李政権がなぜ不人気なのか、答えは簡単である。彼の一族が収賄等の容疑で逮捕されていることなどが、不人気の原因とする人もいるが、権力者一族の腐敗は韓国の常習でしかない。政権の不人気の真の原因は韓国経済の危機にある。韓国経済は表面的には好調にみえたが、実質は外資と一部財閥の結託による、富の偏在にある。サムソンなどの財閥は肥るが、利益の大半は外資に食われ、外国にもって行かれる。国民は低賃金にあえぎ、ウォン安で輸入品は高価格になり、国内はインフレになる。輸出主導経済といえば聞こえはいいが、実際は外資を資本とし、技術と原料を外国から輸入し(技術輸入にはパテントの不法取得も含まれる)、低賃金労働をてこに安い価格で生産して、それを外国に売りさばいているだけなのだ。内需は抑えられ、国内に富みが蓄積されない。韓国は一種の中継貿易をしていることになる。中継貿易で国が栄えるのはシンガポ-ルや香港、それにオランダなど人口規模の小さい、そして交通上の要衝にある国だけなのだ。韓国は中継貿易で食えるくらいの規模の経済をめざしているらしい。このような経済を推進してきたのが、現大統領の李氏だ。竹島訪問という愚行(韓国にとっては不利益以外のなにものももたらさない)をあえてしたのは、韓国の経済状態がよほど深刻な次元に達しているのであろう。ある情報によると韓国人で外国に出る女性の20-25%は売春が目的らしい。韓国では、性労働者の権利を護れとかいうデモもあったそうだ。売春は正当な仕事とされているのだろうか?大学を出ても就職の機会は少なく、失業者はあふれている。就職しても45歳くらいには定年を強制されるらしい。最近定年36歳とかいう例を聞いた。
 野田首相の対応にはあきれる。野田氏は、李氏に限って竹島訪問などありえないと思っていた、と発言している。領土問題の意味が全然解っていない。領土問題の解決は最後には実力(武力行使)しかないのだ。決してありえない、などと決め付けることは政治家の資質ゼロを言っているに等しい。仮にそう考えていたとしても口外してはいけない。自分の腹の中に収めていなければならない。李氏がかかる行動に出るだろうという予兆は半年前からすでにあった。ソウルの日本大使館まえに「慰安婦」とかいう像が設置され、時として大使館に自動車で体当たりする連中もいるという。日本大使館前は無法地帯と化し、反日行為ならなんでも許されるとかいう話だ。野田氏も甘い。そもそも日韓基本条約で、条約締結以前の諸問題は解決済みとされた。(竹島問題は別)また10数年まえの、韓国が破産寸前になった時、時の金大中大統領は、日本に30億ドルの借款を依頼し、見返りに、条約締結前の問題はとりあげないといった。しかしこれらの約束は守られていない。都合により「慰安婦」問題などが蒸し返される。なら領土問題でも同じだろう。野田氏はこれくらいのことすら解らないのか?正直民主党には政権は任せられない。何を考え何をしでかすかわからない、素人集団なのだ。国際司法裁判所に提訴するとかいうが、素人の発想でしかない。すでにこの種の試みはなされて、失敗に終わっている。約束が守られない反日意識のみ強い国の、在日人に選挙権を与えようとしているのが民主党だ。どこの国の政府かといいたい。
 売られた喧嘩は買わねばなるまい。抗議は執拗にする。駐韓国大使は当分置かない。一時帰国より召還の方がよかった。韓国が一方的に設定した禁止水域に日本船(巡視艇や軍艦も含む)を時々進出させる。本来は日本の領土なのだから違法にはならない。時には航空機を竹島上空に飛ばす。デモ船団による示威行為も行う。いわば一種のゲリラ戦を行うわけだ。できる限り銃撃は避けるべきだが、状況によってはやむを得まい。局地戦も覚悟する。この覚悟をもって執拗にゲリラを展開する。対馬の北辺にも陸上部隊を派遣し、艦艇による警戒もより頻繁に行う。示威行為にもなるが、韓国人は本気で、対馬は韓国固有の領土だと信じているらしいからだ。
 もう少し間接的なやり方もある。韓国人で密入国している人間は多い。彼らの一部を強制退去処分にする。(全部は実態から見て無理)韓国人売春婦に関しても同様。
 かって大阪府警の現役刑事が、在日韓国(朝鮮)人の犯罪率は日本人平均の30倍とか発言していた。多分事実なのだろう。政府官憲は韓国にはばかってデ-タの公表は避けているらしい。思い切って在日外国人の犯罪率を公表してはどうか。我々は安全に生活する権利がある。もしある国の在日人の犯罪率が高ければ、我々はそれを知って警戒するべきだ。当然の権利なのだ。
 次に知的所有権の遵守をもっと強固にすべく法改正をなすべきだ。韓国そして中国による知的財産の侵害は夥しい。韓国経済が一見好調に見えるのは、この種の行為に支えられているところも多い。糧道を立つのだ。常に警戒し、抗議し、提訴する。
 また外国人による日本の土地所有には限界を設けるべきだろう。例えば対馬に大挙して韓国人が住み込み土地を買収して、土地の独立を叫び、韓国への合併を言い出せば事態は極めて面倒なことになる。中国の歴史などこの種の行為による現地占拠のオンパレ-ドだ。気質的に似ている韓国人がそうしないとは限らない。
 李氏の竹島訪問に際して、韓国ロシア中国が連盟して日本に当たるとかいう。放置しておけばいい。領土問題は実効支配がすべてである以上、事実は簡単にはうごかない。これら三国の領土的野心に後ろめたさがあるから、こういう挙に出ようとするのだろう。ロシアが竹島問題で韓国を弁護してもロシアに有利なことはなにもない。韓露中、いずれにしても不愉快であまり付き合いたくない国々だ。まあ交際は商売だけ。商売は商売と割り切り、あとは知らぬ顔でいい。商売はこちらにとっても必要だが、相手も同様なのだ。駐中国大使丹羽氏のような発言は経済も外交も解っていない人間のいうことなのだ。
 今回の李氏の愚行はある意味で日本にとってチャンスでもある。この機に乗じて尖閣諸島を明確に実効支配下におけばいい。石原東京都知事がいうごとく、東京都の所有にしてもいい。それなら東京都は尖閣に施設を作り人員を送り込むことだ。あるいは自衛隊数十名を上陸させてもいい。あるいは尖閣に行政区画を作り新しい市町村をそこに作ってもいい。良い漁場にはなるはずだ。観光にもなる。
 チャンスはピンチだ。今回の竹島問題を機に狡猾な中国が一気に尖閣諸島を占領しないともいえない。むしろ充分に警戒すべきだ。野田氏のごとく、そんなことになるとは思わなかったではすまないのだ。領土問題の最終的解決は実力(ガンかマネ-)しかないことを明記しよう。
 そして冷静になろう。領土問題などどこにでもあるありふれたことなのだ。韓国朝鮮と中国の間には旧満州南辺にあり間島の問題が潜在する。露中間では黒竜江の中洲のダマンスキ-島は一応共有状態になっている。しかしいつ何時問題が爆発するかしれない。世界中国境のあるところ問題だらけなのだ。領土問題が話し合いで解決しない事は、主権国家間には常に潜在的に戦争状態がある事を意味する。政治外交の本質はこの辺にあることは国民各自銘記しよう。
(付-慰安婦問題)
 25年前くらいから「従軍慰安婦」なる問題を韓国と日本の一部マスコミが云々している。戦時中日本政府が朝鮮半島で女性を強制的に駆りだし、日本軍兵士の性欲処理の具としたというお話だ。慰安婦はいた。強制駆りだしではない。当時合法とされていた売春婦を軍隊が業者を通じて雇っていただけだ。その中には日本人も中国人も朝鮮人もいた。強制駆りだしでないことは秦郁彦氏他の調査で明らかにされている。韓国には李氏朝鮮の昔から、キ-センという国家お抱えの娼婦がいた。一種の奴隷のような存在だった。この伝統を受けついで、1970年代朴大統領の時代、国家がキ-センを雇い、外国人相手に性を売り、外貨を稼いでいた。こういう文化の伝統にある韓国社会では、外国も当然同じ事をすると思い、日本軍による婦女の駆りだし・売春強制という想像ができあがったのだろう。日本大使館の前に、慰安婦像なるものを設置するまえに、自己の歴史を歪曲することなく、自分達の文化を見つめていただきたい。
(追記)
 今日(8-12)の朝刊に、韓国選手が試合中、竹島はわが領土と、書かれたカ-ドをふりかざしたとあった。恥の上塗りとはこの事であろう。

経済人列伝、小林一三(再掲)

2012-08-06 02:32:09 | Weblog
    小林一三

 小林一三は阪急電鉄と宝塚少女歌劇の創始者として有名です。一三は1973年山梨県の豪商の家に生まれました。生母は一三の幼児期に死去します。父親は養子ですので離縁され実家に帰されます。そういうわけで一三は姉と共に大叔父に育てられる事になります。この大叔父は一三に極めて寛大で、甘やかしたきらいがあります。一三はのびのびと、そしてかなりわがままに育てられました。1892年慶応義塾大学卒業、翌年三井銀行入社。大阪支店に転勤、ここで当時の支店長岩下清周と知り合います。これは一三にとって大きな機縁になりました。しかし銀行勤務時代は、あまりやる気がなく、小説家になる事を夢みて、紙屑籠と言われた調査部でうだつの上がらない生活を送ります。この間結婚しますが、同時に恋人もいたようで、家庭と愛情関係の二重生活を平然と送ります。後者の方がどうなったかは解りません。一三は子煩悩でした。
 1907年、34歳岩下の強い引きで三井銀行を辞め、阪鶴鉄道の経営に従事する事になります。この鉄道は国有化され現在の福知山線になるので、一三の最初の仕事は阪鶴鉄道の会社解体と処理でした。この鉄道に代って、私鉄として箕面有馬電気軌道という会社が設立されます。社長は岩下清周、一三はその下で専務を務めます。箕面有馬電気軌道は現在の箕面-石橋間をちょろっと走る短い鉄道で、しいて言えば大阪から福知山線で乗り換えて、当時の観光名所である箕面や有馬にお客を運ぶくらいがせいぜいの、今から見てよく経営できたものだと思われるような企業でした。関西にはすでに、大阪神戸間を走る阪神電車や大阪奈良を結ぶ近鉄電車がありました。岩下はこれらすべてに関係していて、ゆくゆくは、関西の私鉄を合同させ一つに資本の下に統合しようと考えていました。それで箕面有馬電気軌道に小林一三をひっぱりこんだわけです。岩下は、一三はサラリ-マンとしてはだめだが、経営者創業者としての才能はあると、見込みました。
 現在では阪急電鉄は関西の私鉄の雄ですが、創業当時は最も危ない会社でした。ともかく一三は資金を工面して1910年、梅田宝塚間を開通させます。しかしこの沿線は田園が多く、運ぶもの(乗客)が無い。大阪市内部の野江に線路を拡張しようとして、大阪市議会を通じて大阪市に工作し、結果贈賄容疑で友人の松永安左衛門とともに収監されます。徹底して容疑は否認し、上部の方からの工作の結果でしょう、20日で釈放されます。
阪神電鉄と合併するという話が出ます。極秘事項のはずが簡単にもれてこの話は頓挫します。一三がリ-クしたと疑われました。証拠はありませんが、一三が合併に反対で会った事は事実です。阪急電鉄も創業当時はこのようにいろいろ苦労があったわけです。合併話に懲りた一三は北浜銀行から、会社の株を買い取ります。
 田園以外には何も無い梅田宝塚間にどうして乗客を運ぶか、一三は考えました。イギリス人ハワ-ドの「田園都市論」に彼はヒントを見つけます。そのころ都市庶民の住居と言えばうなぎの寝床のような長屋と相場は決まっていました。当時と言えば明治末期、日本も第二次産業革命に突入し、産業構造が高度化します。ブル-カラ-あるいは職工とは違う、ホワイトカラ-のサラリ-マンが出現しつつありました。一三はここに目をつけます。田園で快適な生活を送ろうと宣伝します。そのために大阪市民に「如何なる土地に住むべきか、如何なる家屋を持つべきか」というパンフレットを配ります。そして特に池田箕面方面に郊外住宅を建設します。緑の環境に恵まれた土地に住んで、そこから成長しつつあった大阪市内に通う生活様式を進めます。電鉄だけではなく、住宅建築も同時並行して進めます。
 もう一つ目玉商品を作ります。宝塚新温泉です。日帰りで行ける簡便な大衆的リゾ-トです。プ-ルも作りました。男女が一緒に泳げるようにしましたが、公序良俗に反するということで警察から、男女を別々に泳がすように指示されます。温泉だけでは物足りません。新しい西洋音楽の中からオペラに眼を付けます。大阪市内の劇場でオペラが上演された時、一三は舞台を見ず、観客席それも天上桟敷と言われる一番安い席の客の反応を見ていたそうです。このオペラをモデルにして1913年、宝塚少女歌劇団が作られ、それが宝塚で上演されます。一三もせっせと脚本を書きました。彼の作品が当たったかどうかは知りません。10年後の1924年、4000人収容できる宝塚大劇場が完成します。この劇団で最初に大当たりした演目は「モンパリ」です。歌舞伎を見るためには当時5円
は要りました。宝塚の観劇料は20銭でした。
 この間、関西の私鉄で最も儲かる路線である大阪神戸間の路線拡充に努めます。灘循環電機軌道というほぼペ-パ-カンパニ-に近い会社がありました。この鉄道あるいは鉄道の敷設権を阪神電鉄と競合しつつ、買い取ります。阪神電鉄の経営は順調でしたから、一三ほど熱心ではなかったようです。こうして大阪神戸間というドル箱路線が開通します。現在私が住んでいる尼崎の園田もこの路線にあります。
 小林一三のもう一つの事業が阪急百貨店経営です。百貨店経営は素人では無理と言われていました。白木屋や大丸のように呉服店経営から出発した店が大部分です。ただ梅田は阪急電鉄という交通機関の終点で、それに国鉄大阪駅も同じ位置にありましたから、集客力には自信を持てました。一三の商法は「引き算商法」と言われます。これこれの費用がかかるから、これこれの値段にする、と言うのではなく、これこれのの値段で売りたいから、これこれの費用にする、という商法です。大衆がほどほどに金を持ち出した時、それに併せて需要を開発するやり方です。ともかくお客のニ-ヅに答えよ、お客が欲しそうなものを揃えよ、が彼のモット-です。今のコンビに商法です。特に食料品と雑貨を店頭に置きました。商法は当たります。始め阪急マ-ケット、現在の阪急百貨店です。ターミナルデパ-トの第一号です。
逸話として有名なのは、ライスカレ-です。食堂を作り特にライスカレ-に力をいれました。水と米と熱の配合でどんな味、どれだけの量ができるか、熱心に実験し、安価に売り出します。当時ライスカレ-は洋食でハイカラそして贅沢な物とされていました。もう一つ逸話があります。やはり食べ物関係の事です。カレ-ライスにも手がでない人もいました。少なくとも毎日は。そこで阪急百貨店の食堂ではソーライスというメニュ-を作りました。客は皿に盛った飯のみを注文します。テ-ブルの上にはソ-ス瓶があります。飯にソ-スをかけて食べます。大当たりしました。ソ-ス自体がハイカラで高級品というイメ-ジがあったのです。ちなみに私も自分でこのソーライスを作って食べましたが、結構美味しい、ただし栄養の方は保障できませんし、むやみと水が欲しくなります。
 東京でも同じ発想の計画がありました。田園都市会社です。この会社が上手く行きません。大阪で成功した一三が招聘されます。この会社の傘下にあった武蔵鉄道の支線である蒲田支線を五島慶太に経営させます。そこから現在の東急の事業が発展しました。五島の話では、自分のやり方はすべて小林一三のやり方をなぞらえた、そうです。
 事業者として成功した一三は三井関係の縁で、電力業にも関係させられます。当時日本には東京電燈、宇治川電気、東邦電力など数社の有力電力会社がありました。合同問題が持ち上がります。加えて時局の変化で(満州事変など)国営論が持ち上がります。一三は一時期東京電燈(東京電力の前身)の社長を務めました。彼は国家統制を嫌う自由主義経営論者でした。銀行主導、株主への配当金の制限、設備投資の増加、生産能力の増加、経営の向上が彼の持論でした。戦後日本の高度成長期の方針とほぼ一致します。一三は人間の利己心を認め、そこから来る夢(コモディティの増大の可能性)が無ければ経済に明日はないと、語ります。
 1940年、一三は第二次近衛内閣の商工大臣になります。この時の次官が岸信介、統制経済の旗頭で商工官僚のボスでした。一三と岸は意見が違い衝突します。結局岸は辞任させられますが、官僚の巻き返しか、一三は機密漏洩事件に巻き込まれ翌年辞職します。一三と岸の論争を聞いていると、どっちがどっちともいえません。私個人は自由経済が好きですが、岸の統制経済論にも一理はあります。なお岸の統制経済論の背景には軍部との提携があったことは事実です。一三は岸の論旨をアカ(左翼)の思想だと弾劾します。事実岸等の革新官僚には当時成功しつつ見えたソ連の計画経済は魅力的に写っていました。一三はこの間、東京宝塚劇場を建設し、また東宝映画や日本軽金属を設立します。戦後は幣原内閣の国務大臣になりますが、やがて公職を追放されます。(5年後解除)1956年新宿・梅田の両コマスタディアムを造ります。1957年、84歳で死去します。
 小林一三は非常な読書家でした。そして調査好きでした。食堂や料亭の料理の原価を聞くなどは朝飯前。ぶっきらぼうで不必要な挨拶よりは仕事に没頭しました。岸信介との初対面も同様で誇り高い岸を怒らせたと言われています。
  
参考文献
    小林一三、夢なき経済に明日はない (WAVE出版)
    20世紀 日本の経済人 (日経ビジネス文庫)
    上方今昔 (山本為三郎著  出版社不詳)