岸信介
岸信介といえば、戦後の首相の中で最も右翼的と称される人物です。その由縁は、戦前官僚として国家による経済統制を主導した事、開戦の詔書に商工大臣として署名した事、そして極めつけが戦後A級戦犯として巣鴨に3年間入獄した事、などなどです。しかし彼信介(のぶすけ)は経済人としても興味ある人物です。戦後の内閣総理大臣経験者で、経済人として興味あるのは、岸信介、石橋湛山、池田隼人です。石橋はすでに取り上げました。池田に関しては、彼の政策は下村治の理論に体言されています。もう一人無視できない人物は多分田中角栄でしょう。田中に関しては後に取り上げると思います。
岸信介は1896年(明治29年)現在の山口市に生まれました。父親佐藤秀助は県庁勤務、やがて酒造業に転じます。信介の曽祖父佐藤信寛(多分寛作改め)は幕末の長州藩にあって藩財政を主導した、村田清風の下で経済官僚として頭角を現し、後に島根県令を勤めた人物で、佐藤家では尊敬し誇るべき先祖でした。信介の母茂世は佐藤家の家付き娘、父親は養子です。信介の姉妹は7人、兄弟は彼も入れて3人、佐藤家は子福者でした。信介は非常な秀才で、小中学校はすべて首席で通します。叔父の佐藤松介(岡山医専教授)に一時引き取られ、難関岡山中学に入学します。しかし叔父の急逝で山口に帰り、山口中学に入ります。この間親戚の従妹である岸良子と婚約し、岸家の養子になります。信介は非常な腕白でしたが、体はあまり強くありません。ために軍人志望を諦めて、高校進学を目指します。彼の兄弟はすべて揃いも揃って秀才でした。兄の市郎は海軍兵学校に行き、海軍中将まで進みますが、比較的若くして死去しています。信介の秀才ぶりは有名でしたが、市郎はそれ以上だったと言われています。弟の栄作は熊本五高から東京帝大の法科に進み、鉄道省に入り、戦後吉田茂に認められ、政治家になります。59代首相として、栄作は日本で最も長期にわたり政権を運営します。
信介は一高から東京帝大の独法科に進みます。ここで上杉慎吉の国家主義に強く影響されます。成績がいいので、大学に残り学者として自分の後継者になってほしいと、上杉に言われますが、断って農商務省に入ります。当時秀才官僚といえば、内務省か大蔵省と相場は決まっていましたが、信介はなぜかこの秀才コ-スをたどりません。
31歳欧米出張を命じられます。アメリカの産業規模に驚くと同時に、反感も感じます。むしろドイツのカルテル主導による統制型(あるいは管理型)経済に魅せられて帰国します。37歳工務部工政課長になり、さらに文書課長、工務部長とエリ-トコースを歩みます。文書課長という役は、大臣に提出するあらゆる文書をチェックする役目です。信介はここで才能を発揮します。文案を一目見て、その矛盾を看破したと言われます。
41歳、時の大臣とあわず、満州に転職になります。満州重工業株式会社総務部次長になり、以後3年間満州に滞在して、満州国の経済体制の基礎を作りました。帰国の途上の記者会見で、結果はどうであろうと自分は思うように満州国運営の青写真を描けた、と豪語したのは有名です。
1939年44歳商工次官になります。大臣が京阪神急行社長の小林一三ですが、経済運営で意見が合わず、大喧嘩になり、信介は辞職します。1941年東条内閣の商工大臣
になり、開戦の詔書に国務大臣として署名します。翌年山口県から衆議院議員に立候補し当選します。大臣になった時より嬉しかったそうです。1944年サイパン陥落。この時信介は敗戦を予想し、戦争継続に反対し、東条内閣打倒運動を策します。1945年50歳敗戦、信介はA級戦犯として、巣鴨に収容されます。1948年53歳、釈放されます。
1952年57歳、公職追放解除、すぐ政治活動を始めます。追放解除後3年半で政権を取ります。政権は取ろうと思って取れるものでもありませんが、その速さには驚かされます。再建連盟を結成します。占領下において歪められた日本の政治経済の構造を変える試みです。主要な目的の一つが、憲法改正です。58歳自由党に入党。ちょうどその頃、自由党の吉田政権は末期にさしかかっていました。同年衆議院議員選挙で当選、すぐ党の憲法問題調査会会長に就任。59歳新党結成準備会を作り自由党を除名されます。自由党鳩山派と改進党の合同に際し、作業の代行委員になります。やがて誕生した日本民主党(総裁は鳩山一郎)の幹事長になります。石橋湛山、三木武吉、河野一郎などと吉田内閣打倒を策し、吉田茂を退陣に追い込みます。自由党と民主党が合併して自由民主党ができます。信介の念願は保守合同でした。彼は自由民主党の幹事長になります。鳩山一郎の引退後、石橋湛山と党首の位置を争いますが、僅差で負けます。石橋内閣の外務大臣に就任。1ヵ月後石橋が病気で倒れ、信介が首相代行になります。石橋の正式引退後、信介が自民党総裁に選出され、同時に内閣総理大臣になります。彼の念願は日米安全保障条約の改定と憲法改正でした。政権獲得後3年半政権を維持し、1960年安保改定に伴う、抗議行動の中で辞任します。後任は池田隼人でした。
以上が岸信介の生涯のあらましです。以下統制官僚、満州国経営、岸内閣の経済政策、そして岸信介という男の行動パタ-ンの4項目について考察してみましょう。
昭和の恐慌とそれに続く不況を機に現れた、新しいタイプの官僚の一群を統制官僚と言います。統制とは経済の統制です。不況克服のために、経済を自由な市場の動きに任せるのではなく、国家が介入して経済を管理するのが、統制経済の特徴です。主要な手段は、カルテル形成の支援と産業(特に成長を期待できる)の保護育成です。当時特に保護されるべき産業がありました。それが重化学工業です。鉄鋼、機械、自動車、電気、アンモニアとソ-ダ、人造絹糸、石油産業などです。これら重化学工業は新興産業として、旧財閥の支配の外にありました。新しい企業群とは理研、日産、日窒など、科学技術を重視し、株式発行という直接金融に拠り(従って銀行に頼ること少なく)、重化学工業の育成に専念する企業群です。彼らを新興コンツエルンと言います。(結局財閥なのですが)統制官僚も軍部も、日本の経済の将来には危機感を抱いていました。ここで軍部、新興企業群そして統制官僚は手を結びます。彼らのあせりは相当なものであったようで、彼らの一部は、同様に国家による経済管理を志向するものとして、ナチスドイツのみならずソ連の経済にも深い関心を寄せていました。信介なども一時はかなり左傾化したと言われています。
経済再建のための試みは容易に軍備拡張に連なります。こうして統制経済はかなり自動的に戦時経済体制に移行します。この方向での主要な立法は、1931年にできた重要産業統制法です。先に述べたような、重化学工業を中心とし、軍備に資する産業が特別に保護育成されます。この法律は1936年延長され、カルテル形成が促進されました。次に1937年にできた統制三法があります。臨時資金調達法、輸出入品など随時措置法、そして軍需産業動員法です。第一の法では、企業の資金繰り、例えば増資や新規会社の設立などに伴う資金の移動は、すべて国家の管理下に置かれます。第二の法では、輸出入に伴う製品の動きが規制されます。第三の法は、文字通りすべての資材を軍需に向けるべく経済を規制します。そして最後の仕上げが、1938年の国家総動員法です。こうして日本の経済は開戦3年前の時点で完全に戦時経済に移行しました。
満州国は1931年の満州事変の翌年、日本の強いてこいれでできました。傀儡国家ないし植民地でもあります。満州は広大な沃野と地下資源に恵まれています。日本はここに資金を投下して、農産物の増産と重化学工業の育成を試みました。農業政策では成果は上がらなかったようですが、重化学工業は成功します。後者は1933年から1944・45年にかけて総生産額が3倍になっています。満州の支配は関東軍と満州鉄道が握っていました。しかし彼らだけでは産業の育成はできません。そこで満州重工業株式会社が設立され、日産の鮎川義介が、呼ばれて経営を任されました。ただ鮎川は満州開発のためにはアメリカの資本がどうしても必要だと認識し、ために狭量な軍部と入れず撤退します。満州国経営は前記の統制経済の実施の一環です。1937年、満州国を対象とした、産業5ヵ年計画ができています。これが満州開発の法的前提になりました。
統制経済と満州経営のどれに岸信介が手を染めたかの詳しい事は解りません。これらの政策は国家全体で行ったもので、一官僚がどこまで云々はわかるはずもありません。ただ1936年の重要産業統制法の改正と延長、統制三法、そして満州の産業5ヵ年計画が彼の強いイニシアティヴでできた事は確かです。日米開戦は1941年ですから、戦時経済の根幹を岸信介が作ったとは言えるでしょう。
戦後の岸内閣の経済政策に関しては簡単にのみ留めます。高度経済成長は1960年の池田内閣からとのように言われますが、3年前の岸内閣の頃から、すでに6-8%の成長率を維持していました。それが1960年以後10%以上に飛躍します。そもそも日本の戦後経済はドッジ来日までは竹馬経済でのその日暮らしでした。傾斜生産と復興信用金庫の手形でインフレ覚悟の政策でした。それがドッジラインを引かれて四苦八苦します。そして朝鮮特需。これで日本経済は息を吹き返します。特需に頼ってばかりではいられないので、鳩山内閣の時、経済自立5ヵ年計画が策定されます。これが岸内閣でさらに新長期経済計画になり、池田内閣で所得倍増計画になりました。
岸信介の行動には特徴があります。まず簡単には(というより決して)人に頭を下げません。更に常に団体を指揮して反乱する傾向があります。彼がまだ平の事務官であったころ、不況による財政圧迫で政府は官吏の給与を引き下げようとしました。この時商工省の職員を率いて賃金カット反対に立ち上がったのが、彼でした。他の省では反対運動は早くから終焉したのに、商工省では信介が職員一同の辞表を取りまとめて、大臣に啖呵を切ります。こういう時の彼の凄みはなかなかのものです。
そういう彼ですから、信介は商工省のボスになります。それを嫌った新大臣が満州行きを命じた時、信介は「私個人は嫌です 命令だとおっしゃるなら、私は役人ですから、従わずにはいられません 嫌ですが行きます」と言います。人を食ったしかも叛骨露な言い方です。
商工次官の時、大臣の小林一三と大喧嘩します。この喧嘩は統制経済の指導者と自由経済の雄との意見の相違からきたものです。始め小林が、信介の政策を左翼(アカ)だと決め付けます。怒った信介が、何がアカだと、反論したのがきっかけです。小林の言い分も解ります。統制経済はアカにもシロにもなるのです。信介は小林から辞職を迫られ、徹底抗戦の後に辞職します。
東条降しにも信介は一役かいます。内閣内部の特に経済外交関係の閣僚をくどき、海軍の幹部と連絡し、木戸や牧野という重臣蓮とも意を通じます。こうして東条ににらまれ、憲兵に監視されます。憲兵大佐が彼を難詰した時、黙れ兵隊、と言ったのは有名です。野に下っては防長尊攘同志会を作って演説して歩きます。
戦後自由党に復帰しますが、その目的は保守合同にありました。そのために邪魔になる党首の吉田を排除しようとします。なんのことはない、反逆するためにその団体に加入したようなものです。再建連盟を作り、入党しては憲法問題調査会という反乱の隠れ蓑を作り、除名され、新党を結成し、保守合同を成し遂げ、自分がその党首に収まります。この間の離合集散は実に面白く、岸政権以来8個師団3連体という派閥ができました。派閥は少なくとも戦後に関する限り、彼の政権誕生と共に生まれました。
こういう信介の動きを読んでいると、ある種の爽快感を催されます。決してこそこそせず、常に堂々・しゃあしゃあと、しかも必ず新しい団体を結成して戦いに望みます。行動は直線的ですが、考えが変わると大胆に代り、変説(節)を気にする事もなく、過去をくよくよしません。しかも裏技も決して不得手ではない。
統制官僚はまた革新官僚とも言われました。信介はその典型です。ともかく新しい経済体制を志向します。信介は私有財産を否定するような、言い方もしています。信介は条件が整えば、あるいは時代が時代なら革新政党的な活動をしたかも知れません。彼の知人には社会党の人もいました。彼自身困った時、右派社会党から選挙に出馬する事を希望し断られています。反面信介に関しては多くの汚職贈賄の噂が絶えません。
1987年(昭和62年)90歳で死去。彼の外孫安部晋三は後に首相になっています。
(付)満州国に関して
満州国は1931年の満州事変後にできました。日本の植民地あるいは傀儡国家です。少なくともこの傾向を強く帯びています。しかし満州国建国の意義と展望まで否定していいのかとなると疑問です。日本が満州に侵入したという理屈は成り立ちません。そもそも満州は満州民族(清王朝を建てた女真民族)の故地であり彼らのものです。満州(現在の東北地区)が漢民族のものだったというのは、おかしな話です。女真族は征服王朝であるために、自らの郷里であり故地である、満州に漢人を入れることは禁止していました。それが清王朝末期の動乱の中で長城以南の漢人が満州に侵入したのです。日露戦争の当時満州の人口は100万と言われています。事実上人のいない土地なので、そこにロシアと日本が南北から進出します。満州は日露の資本で開発されました。その基盤の上に漢人が侵入(?)し、増殖しました。こと頭数で言えば、漢民族にかなう民族はありません。満州国成立当時人口は2000万人、1945年の時点で1億人です。日本人は100万人以下。この増加はすべて漢民族の増殖によるものです。
満州はドイツとフランスを合わせた以上の面積を持ちます。農業そして工業資源は豊富です。満州経営の目的は、当時日本に育ちつつあった重化学工業を満州の地で大規模に育て、一大産業国家を作ることにありました。高橋是清や池田成彬の経済政策は非難されますが、資本と技術を満州にぶちこんでゆく、というやり方には一理も二理もあります。要は貨幣を増量して資本となし、それで満州の経営を行う、そこから収益が上がれば増えた貨幣は実質的な価値を持つ、となります。純経済的観点から言えば成功するはずです。ただしここに隘路があります。当時の日本の資本は充分とは言えません。円はハードカレンシ-にはなっていません。さらに産業技術も欧米に比べて一段格下でした。アメリカと比べると横綱と関脇くらいの違いはありました。満州という獲物を持ち上げるのに、日本という国はまだ力が足らなかったのです。結論から言えば、早々にアメリカと同盟し、満州経営にアメリカの資本と技術を引っ張り込めばよかったのです。日産の鮎川はそう主張しましたが、軍部が反対します。日本人の血で購った土地を他国に利用されてたまるか、と。軍事のみにしか視野が開かれない、軍人の狭量さです。結果として日本人はその10倍以上の血を流すことになります。
参考文献
岸信介伝 東洋書館
昭和の怪物、岸信介の真実 ワック株式会社
岸信介政権と高度成長 東洋経済新報社
満州国経営史研究 名古屋大学出版会
満州国の遺産 光文社
岸信介といえば、戦後の首相の中で最も右翼的と称される人物です。その由縁は、戦前官僚として国家による経済統制を主導した事、開戦の詔書に商工大臣として署名した事、そして極めつけが戦後A級戦犯として巣鴨に3年間入獄した事、などなどです。しかし彼信介(のぶすけ)は経済人としても興味ある人物です。戦後の内閣総理大臣経験者で、経済人として興味あるのは、岸信介、石橋湛山、池田隼人です。石橋はすでに取り上げました。池田に関しては、彼の政策は下村治の理論に体言されています。もう一人無視できない人物は多分田中角栄でしょう。田中に関しては後に取り上げると思います。
岸信介は1896年(明治29年)現在の山口市に生まれました。父親佐藤秀助は県庁勤務、やがて酒造業に転じます。信介の曽祖父佐藤信寛(多分寛作改め)は幕末の長州藩にあって藩財政を主導した、村田清風の下で経済官僚として頭角を現し、後に島根県令を勤めた人物で、佐藤家では尊敬し誇るべき先祖でした。信介の母茂世は佐藤家の家付き娘、父親は養子です。信介の姉妹は7人、兄弟は彼も入れて3人、佐藤家は子福者でした。信介は非常な秀才で、小中学校はすべて首席で通します。叔父の佐藤松介(岡山医専教授)に一時引き取られ、難関岡山中学に入学します。しかし叔父の急逝で山口に帰り、山口中学に入ります。この間親戚の従妹である岸良子と婚約し、岸家の養子になります。信介は非常な腕白でしたが、体はあまり強くありません。ために軍人志望を諦めて、高校進学を目指します。彼の兄弟はすべて揃いも揃って秀才でした。兄の市郎は海軍兵学校に行き、海軍中将まで進みますが、比較的若くして死去しています。信介の秀才ぶりは有名でしたが、市郎はそれ以上だったと言われています。弟の栄作は熊本五高から東京帝大の法科に進み、鉄道省に入り、戦後吉田茂に認められ、政治家になります。59代首相として、栄作は日本で最も長期にわたり政権を運営します。
信介は一高から東京帝大の独法科に進みます。ここで上杉慎吉の国家主義に強く影響されます。成績がいいので、大学に残り学者として自分の後継者になってほしいと、上杉に言われますが、断って農商務省に入ります。当時秀才官僚といえば、内務省か大蔵省と相場は決まっていましたが、信介はなぜかこの秀才コ-スをたどりません。
31歳欧米出張を命じられます。アメリカの産業規模に驚くと同時に、反感も感じます。むしろドイツのカルテル主導による統制型(あるいは管理型)経済に魅せられて帰国します。37歳工務部工政課長になり、さらに文書課長、工務部長とエリ-トコースを歩みます。文書課長という役は、大臣に提出するあらゆる文書をチェックする役目です。信介はここで才能を発揮します。文案を一目見て、その矛盾を看破したと言われます。
41歳、時の大臣とあわず、満州に転職になります。満州重工業株式会社総務部次長になり、以後3年間満州に滞在して、満州国の経済体制の基礎を作りました。帰国の途上の記者会見で、結果はどうであろうと自分は思うように満州国運営の青写真を描けた、と豪語したのは有名です。
1939年44歳商工次官になります。大臣が京阪神急行社長の小林一三ですが、経済運営で意見が合わず、大喧嘩になり、信介は辞職します。1941年東条内閣の商工大臣
になり、開戦の詔書に国務大臣として署名します。翌年山口県から衆議院議員に立候補し当選します。大臣になった時より嬉しかったそうです。1944年サイパン陥落。この時信介は敗戦を予想し、戦争継続に反対し、東条内閣打倒運動を策します。1945年50歳敗戦、信介はA級戦犯として、巣鴨に収容されます。1948年53歳、釈放されます。
1952年57歳、公職追放解除、すぐ政治活動を始めます。追放解除後3年半で政権を取ります。政権は取ろうと思って取れるものでもありませんが、その速さには驚かされます。再建連盟を結成します。占領下において歪められた日本の政治経済の構造を変える試みです。主要な目的の一つが、憲法改正です。58歳自由党に入党。ちょうどその頃、自由党の吉田政権は末期にさしかかっていました。同年衆議院議員選挙で当選、すぐ党の憲法問題調査会会長に就任。59歳新党結成準備会を作り自由党を除名されます。自由党鳩山派と改進党の合同に際し、作業の代行委員になります。やがて誕生した日本民主党(総裁は鳩山一郎)の幹事長になります。石橋湛山、三木武吉、河野一郎などと吉田内閣打倒を策し、吉田茂を退陣に追い込みます。自由党と民主党が合併して自由民主党ができます。信介の念願は保守合同でした。彼は自由民主党の幹事長になります。鳩山一郎の引退後、石橋湛山と党首の位置を争いますが、僅差で負けます。石橋内閣の外務大臣に就任。1ヵ月後石橋が病気で倒れ、信介が首相代行になります。石橋の正式引退後、信介が自民党総裁に選出され、同時に内閣総理大臣になります。彼の念願は日米安全保障条約の改定と憲法改正でした。政権獲得後3年半政権を維持し、1960年安保改定に伴う、抗議行動の中で辞任します。後任は池田隼人でした。
以上が岸信介の生涯のあらましです。以下統制官僚、満州国経営、岸内閣の経済政策、そして岸信介という男の行動パタ-ンの4項目について考察してみましょう。
昭和の恐慌とそれに続く不況を機に現れた、新しいタイプの官僚の一群を統制官僚と言います。統制とは経済の統制です。不況克服のために、経済を自由な市場の動きに任せるのではなく、国家が介入して経済を管理するのが、統制経済の特徴です。主要な手段は、カルテル形成の支援と産業(特に成長を期待できる)の保護育成です。当時特に保護されるべき産業がありました。それが重化学工業です。鉄鋼、機械、自動車、電気、アンモニアとソ-ダ、人造絹糸、石油産業などです。これら重化学工業は新興産業として、旧財閥の支配の外にありました。新しい企業群とは理研、日産、日窒など、科学技術を重視し、株式発行という直接金融に拠り(従って銀行に頼ること少なく)、重化学工業の育成に専念する企業群です。彼らを新興コンツエルンと言います。(結局財閥なのですが)統制官僚も軍部も、日本の経済の将来には危機感を抱いていました。ここで軍部、新興企業群そして統制官僚は手を結びます。彼らのあせりは相当なものであったようで、彼らの一部は、同様に国家による経済管理を志向するものとして、ナチスドイツのみならずソ連の経済にも深い関心を寄せていました。信介なども一時はかなり左傾化したと言われています。
経済再建のための試みは容易に軍備拡張に連なります。こうして統制経済はかなり自動的に戦時経済体制に移行します。この方向での主要な立法は、1931年にできた重要産業統制法です。先に述べたような、重化学工業を中心とし、軍備に資する産業が特別に保護育成されます。この法律は1936年延長され、カルテル形成が促進されました。次に1937年にできた統制三法があります。臨時資金調達法、輸出入品など随時措置法、そして軍需産業動員法です。第一の法では、企業の資金繰り、例えば増資や新規会社の設立などに伴う資金の移動は、すべて国家の管理下に置かれます。第二の法では、輸出入に伴う製品の動きが規制されます。第三の法は、文字通りすべての資材を軍需に向けるべく経済を規制します。そして最後の仕上げが、1938年の国家総動員法です。こうして日本の経済は開戦3年前の時点で完全に戦時経済に移行しました。
満州国は1931年の満州事変の翌年、日本の強いてこいれでできました。傀儡国家ないし植民地でもあります。満州は広大な沃野と地下資源に恵まれています。日本はここに資金を投下して、農産物の増産と重化学工業の育成を試みました。農業政策では成果は上がらなかったようですが、重化学工業は成功します。後者は1933年から1944・45年にかけて総生産額が3倍になっています。満州の支配は関東軍と満州鉄道が握っていました。しかし彼らだけでは産業の育成はできません。そこで満州重工業株式会社が設立され、日産の鮎川義介が、呼ばれて経営を任されました。ただ鮎川は満州開発のためにはアメリカの資本がどうしても必要だと認識し、ために狭量な軍部と入れず撤退します。満州国経営は前記の統制経済の実施の一環です。1937年、満州国を対象とした、産業5ヵ年計画ができています。これが満州開発の法的前提になりました。
統制経済と満州経営のどれに岸信介が手を染めたかの詳しい事は解りません。これらの政策は国家全体で行ったもので、一官僚がどこまで云々はわかるはずもありません。ただ1936年の重要産業統制法の改正と延長、統制三法、そして満州の産業5ヵ年計画が彼の強いイニシアティヴでできた事は確かです。日米開戦は1941年ですから、戦時経済の根幹を岸信介が作ったとは言えるでしょう。
戦後の岸内閣の経済政策に関しては簡単にのみ留めます。高度経済成長は1960年の池田内閣からとのように言われますが、3年前の岸内閣の頃から、すでに6-8%の成長率を維持していました。それが1960年以後10%以上に飛躍します。そもそも日本の戦後経済はドッジ来日までは竹馬経済でのその日暮らしでした。傾斜生産と復興信用金庫の手形でインフレ覚悟の政策でした。それがドッジラインを引かれて四苦八苦します。そして朝鮮特需。これで日本経済は息を吹き返します。特需に頼ってばかりではいられないので、鳩山内閣の時、経済自立5ヵ年計画が策定されます。これが岸内閣でさらに新長期経済計画になり、池田内閣で所得倍増計画になりました。
岸信介の行動には特徴があります。まず簡単には(というより決して)人に頭を下げません。更に常に団体を指揮して反乱する傾向があります。彼がまだ平の事務官であったころ、不況による財政圧迫で政府は官吏の給与を引き下げようとしました。この時商工省の職員を率いて賃金カット反対に立ち上がったのが、彼でした。他の省では反対運動は早くから終焉したのに、商工省では信介が職員一同の辞表を取りまとめて、大臣に啖呵を切ります。こういう時の彼の凄みはなかなかのものです。
そういう彼ですから、信介は商工省のボスになります。それを嫌った新大臣が満州行きを命じた時、信介は「私個人は嫌です 命令だとおっしゃるなら、私は役人ですから、従わずにはいられません 嫌ですが行きます」と言います。人を食ったしかも叛骨露な言い方です。
商工次官の時、大臣の小林一三と大喧嘩します。この喧嘩は統制経済の指導者と自由経済の雄との意見の相違からきたものです。始め小林が、信介の政策を左翼(アカ)だと決め付けます。怒った信介が、何がアカだと、反論したのがきっかけです。小林の言い分も解ります。統制経済はアカにもシロにもなるのです。信介は小林から辞職を迫られ、徹底抗戦の後に辞職します。
東条降しにも信介は一役かいます。内閣内部の特に経済外交関係の閣僚をくどき、海軍の幹部と連絡し、木戸や牧野という重臣蓮とも意を通じます。こうして東条ににらまれ、憲兵に監視されます。憲兵大佐が彼を難詰した時、黙れ兵隊、と言ったのは有名です。野に下っては防長尊攘同志会を作って演説して歩きます。
戦後自由党に復帰しますが、その目的は保守合同にありました。そのために邪魔になる党首の吉田を排除しようとします。なんのことはない、反逆するためにその団体に加入したようなものです。再建連盟を作り、入党しては憲法問題調査会という反乱の隠れ蓑を作り、除名され、新党を結成し、保守合同を成し遂げ、自分がその党首に収まります。この間の離合集散は実に面白く、岸政権以来8個師団3連体という派閥ができました。派閥は少なくとも戦後に関する限り、彼の政権誕生と共に生まれました。
こういう信介の動きを読んでいると、ある種の爽快感を催されます。決してこそこそせず、常に堂々・しゃあしゃあと、しかも必ず新しい団体を結成して戦いに望みます。行動は直線的ですが、考えが変わると大胆に代り、変説(節)を気にする事もなく、過去をくよくよしません。しかも裏技も決して不得手ではない。
統制官僚はまた革新官僚とも言われました。信介はその典型です。ともかく新しい経済体制を志向します。信介は私有財産を否定するような、言い方もしています。信介は条件が整えば、あるいは時代が時代なら革新政党的な活動をしたかも知れません。彼の知人には社会党の人もいました。彼自身困った時、右派社会党から選挙に出馬する事を希望し断られています。反面信介に関しては多くの汚職贈賄の噂が絶えません。
1987年(昭和62年)90歳で死去。彼の外孫安部晋三は後に首相になっています。
(付)満州国に関して
満州国は1931年の満州事変後にできました。日本の植民地あるいは傀儡国家です。少なくともこの傾向を強く帯びています。しかし満州国建国の意義と展望まで否定していいのかとなると疑問です。日本が満州に侵入したという理屈は成り立ちません。そもそも満州は満州民族(清王朝を建てた女真民族)の故地であり彼らのものです。満州(現在の東北地区)が漢民族のものだったというのは、おかしな話です。女真族は征服王朝であるために、自らの郷里であり故地である、満州に漢人を入れることは禁止していました。それが清王朝末期の動乱の中で長城以南の漢人が満州に侵入したのです。日露戦争の当時満州の人口は100万と言われています。事実上人のいない土地なので、そこにロシアと日本が南北から進出します。満州は日露の資本で開発されました。その基盤の上に漢人が侵入(?)し、増殖しました。こと頭数で言えば、漢民族にかなう民族はありません。満州国成立当時人口は2000万人、1945年の時点で1億人です。日本人は100万人以下。この増加はすべて漢民族の増殖によるものです。
満州はドイツとフランスを合わせた以上の面積を持ちます。農業そして工業資源は豊富です。満州経営の目的は、当時日本に育ちつつあった重化学工業を満州の地で大規模に育て、一大産業国家を作ることにありました。高橋是清や池田成彬の経済政策は非難されますが、資本と技術を満州にぶちこんでゆく、というやり方には一理も二理もあります。要は貨幣を増量して資本となし、それで満州の経営を行う、そこから収益が上がれば増えた貨幣は実質的な価値を持つ、となります。純経済的観点から言えば成功するはずです。ただしここに隘路があります。当時の日本の資本は充分とは言えません。円はハードカレンシ-にはなっていません。さらに産業技術も欧米に比べて一段格下でした。アメリカと比べると横綱と関脇くらいの違いはありました。満州という獲物を持ち上げるのに、日本という国はまだ力が足らなかったのです。結論から言えば、早々にアメリカと同盟し、満州経営にアメリカの資本と技術を引っ張り込めばよかったのです。日産の鮎川はそう主張しましたが、軍部が反対します。日本人の血で購った土地を他国に利用されてたまるか、と。軍事のみにしか視野が開かれない、軍人の狭量さです。結果として日本人はその10倍以上の血を流すことになります。
参考文献
岸信介伝 東洋書館
昭和の怪物、岸信介の真実 ワック株式会社
岸信介政権と高度成長 東洋経済新報社
満州国経営史研究 名古屋大学出版会
満州国の遺産 光文社