経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝、高橋是清(再掲)

2011-03-31 02:38:25 | Weblog
    高橋是清

 近代日本、特に戦前において特筆されるべき財政家といえば、松方正義と高橋是清です。二人の処方は対照的です。前者はデフレ・引き締め財政、後者はインフレ・積極財政が特徴です。
 高橋是清は1859年(安政元年)に幕府御用絵師川村庄右衛門の非嫡出子として生まれました。名は和喜次、実父には認知されています。仙台藩足軽高橋家に里子として預けられ、養祖母喜代子にかわいがられ、高橋家の養子になります。私生児、里子、養子と形式的には異常な幼少期でしたが、祖母の愛情にくるまれて幸せな時代を送ります。しかし内心はどうだったのでしょうか、彼の人生の軌跡を見ていますと、39歳日銀に拾われるまでは仕事を転々としています。才能に任せて食い散らしている感もあります。この傾向は彼の財政のあり方に影響していると思ってもいいでしょう。
 横浜で外人に英語を習い、14歳仙台藩留学生として渡米します。目的は英語習得です。オ-クランドのヴァンリ-ドという人物の家に寄留します。この人物に騙され、是清は3年間拘束される奴隷(年季奉公人?)に売られます。先輩の援助で解放されます。米国で幕府瓦解を知ります。仙台藩は賊軍ですので、公然とは帰国できません。密かに東京に帰り、米国で知り合った森有礼の紹介で大学南校(後の東大)の教官3等手伝になります。今で言えば、講師か助手でしょうか?
 高橋という人の特徴は、頼まれれば嫌とはいえない事、従って騙されやすい事です。南校時代、300円ほど融通してくれと頼まれ、躊躇なく引き受けます。騙されました。こうして彼はかなりひどい放蕩生活にはまり込みます。この間米人フルベッキ博士から聖書の講義を受けています。放蕩と敬虔、高橋と言う人は複雑な性格の人です。
 34歳、森有礼のひきで東京英語学校(後の第一高等学校)の教師になります。先輩の非行を糾弾して辞職します。浪人時代は英語の翻訳で食べていたようです。その間銀相場に手を出し失敗します。友人達の世話で文部省、農商務省と渡り歩き、やがて初代の特許局長に任命されます。仕事は良くできました。しばらくして先輩にペル-の銀鉱採掘を勧められわざわざアンデス山中に入ります。鉱山は廃坑でした。一杯食わされたわけです。山師(ペテン師)の風評が立ちます。
 39歳日銀総裁川田小一郎の世話で日銀の建築主任になります。年俸1200円。やがて西部(福岡)支店長になり、46歳日銀副総裁になります。松方正義の推薦です。日銀人事でごたごたがあり、7人の幹部職員が辞めた後釜でもあります。是清の人生の方向が定まりました。
 ここまでの高橋是清の人生を見て、ある事に気づかされます。確かに彼は仕事はできたのでしょう。しかしかなりの大失敗をしながら(財政家としては致命的でさえある銀鉱山や銀相場)、そう苦労する事なく立ち直っています。必要な職は与えられています。すべて友人や先輩の斡旋です。最初が森有礼です。森は薩摩出身で賊軍の仙台藩士と面識はありません。高橋と森は米国で知り合いました。当時の留学生は超エリ-トです。そして雲煙万里の彼方の外国暮らし。明治初年度の日本には外国に通じた専門家は多くはいません。同志同朋意識はすぐ育ちます。この人間関係はどんどん増殖されます。加えて恬淡、無欲、無邪気な高橋は(津島寿一評)誰からもかわいがられたのでしょう。
 1904年日露戦争が始まります。是清51歳の男盛りです。外債公募のためにロンドンに行きます。なかなか国債がさばけません。国債500万ポンドを年6分利で、関税収入が担保と言うきつい条件で売りさばきます。この時美談があります。ニュ-ヨ-クにヤコブ・シフというユダヤ人がいました。彼が外債を500万ポンドほど買ってくれました。当時猛烈に残酷だった、ロシア政府によるユダヤ人迫害故です。ヤコブ・シフは同朋の敵ロシアと戦う、日本を応援してくれたのです。日露戦争の戦費は総計で17億円超、うち外債は8億円超です。ロンドンで公債がさばけなければ日本海海戦はありえなかったでしょう。この功績で高橋は貴族院議員になりやがて子爵に叙せられます。
58歳日銀総裁、60歳山本権兵衛内閣蔵相、65歳原内閣蔵相、になります。そして原敬暗殺の後を受けて、首相兼蔵相になります。もっともこの頃の高橋の事跡はそうぱっとするようなものでもありません。首相としては失敗の方でしょう。
この間日本の経済は大きく変動します。日露戦争後は不況が続きます。神風が吹きます。第一次世界大戦です。日本の製品は質を問われることなく、いくらでも売れました。大戦前には11億円の債務国が大戦後には27億の債権国になっていました。やがて反動恐慌がきます。大戦中雨の竹の子のようにできた企業はどんどんつぶれます。そして1925年東京大震災。首都圏の資本のあらかたは廃墟になります。大戦後の日本経済は、第二次産業革命(重化学工業)達成のための資本をどう捻出するかという問題と、それに伴う国債発行による赤字財政をどう立て直すのかという二つの問題が中心でした。日本の経済は大戦期を除いて日露戦争から満州事変のころまでズ-と赤字でした。大戦で稼いだ外貨を食いつぶしているようなものでした。産業が勃興する時には避けられない苦難の時期です。この間の経済の動揺を象徴するような事件が二つあります。震災手形法案と金解禁です。
 関東大震災により多くの企業が発行した手形の決済は不可能になりました。このままでは企業は倒産します。この事態を防ぐために震災で異常な被害を蒙った企業の手形は、最終的に日銀が割り引く事になりました。つまり日銀により当分の間この種の手形は信用を供与されたわけです。震災手形の総額は約4億3000万円です。この手形に関してはいろいろ悪い噂も流れました。当然の事ですが、そう大した被害でもないのに、震災手形を申請する輩も出てきます。高橋亀吉氏などは財政赤字と不況の第一の原因はこの手形にあると言っています。
 こういう事情を背景として1927年若槻内閣の時、震災二法案が提出されます。法案の趣旨は、震災手形を所有する者への救済措置です。ここで議会がもめます。救済の目的は特定の企業、具体的には台湾銀行と鈴木商店の救済にあるのではないかと、反対論が噴出します。台銀は、大戦後の経営に苦しむ鈴木商店に融資し、不良債務を抱え込んでいました。震災手形二法案の実質的救済対象は台湾銀行(と鈴木商店)でした。こういう事態が明らかになるにつれて銀行への信用が揺らぎ、取り付け騒ぎが頻発します。若槻内閣は倒れます。
 代って田中義一内閣ができます。高橋は蔵相就任を懇願されます。高橋是清がこの時打った策は、モラトリアム(銀行の支払猶予)、銀行の休業(数日間)、そして日銀特別融通損失補償法案です。この法案は、困った銀行には日銀が、総計5億円までの資金内で、融資する事を意味します。同時に緊急の事態に備えて、200円札が印刷され準備されました。印刷が間に合わなかったので裏は真っ白、通称裏白と言われる紙幣です。こうしてパニックは収まりました。  
このやり方は高橋財政の特徴を如実に示しています。まずすばやい行動です。彼は危機介入(crisis intervention)に強いのです。次に積極財政、つまり通貨流通量の大胆な拡大です。ともかくパニックは収まり、高橋はその顛末を見届けて辞職します。42日間の蔵相就任でした。人気はグンと上がります。時に彼74歳です。
ところで日本は第一次大戦中、ロシアと中国に戦費を貸し付けていました。その総額はほぼ4億円になります。震災手形とほぼ同額です。今更言いませんが、貸し金を返してもらっていたら、事情は違ったかも知れません。ちなみに英仏の両国は日本からの借金をきれいに返済しています。
 金解禁そのものに関しては既に井上順一郎の項で述べました。結果だけ言いますと、物価は下がり、デフレになり、企業は倒産して、散々でした。浜口内閣は倒れ、犬養内閣ができます。またまた高橋は蔵相就任を懇請され、引き受けます。高橋が取った措置は、まず金輸出再禁止(金本位制廃止)です。これで円はドルに対して50%以上減価します。インフレにはなりますが、輸出は伸びます。ついで低金利です。企業への融資を容易にするためです。そして目玉政策が、国債の日銀引き受けです。国が国債を発行する。それを日銀が引き受ける。資金は紙幣増刷です。日銀の保証発行限度額は1・2億円から一挙に10億円に拡大されます。この金が政府の施策や事業を通じて民間に流れます。極めて短期間なら貨幣量増大にもかかわらずインフレは起きないという読みでした。インフレになる前に国債を消化して民間の通貨を減らそうというわけです。もちろん目論見どおりには行きません。物価は上がります。国債の価値は下がります。どうしてもさらに通貨を増やすためには云々の悪循環に陥ります。インフレは亢進します。そして時局救済事業という諸種の政府の事業があります。それは福祉政策であり公共事業でもありました。しかし最大の事業はやはり戦争でした。
 高橋の政策はあたります。列強中最も早く不況を抜け出したのは、日本でした。高橋は日本に対する列強の嫉妬を感じ、それを後進に言い残しています。国債の日銀引き受けはインフレを亢進させます。高橋はそれに対して引き締め政策を考えていましたが、軍事費を要求する軍部の圧力が強く、押し問答しているうちに、1936年2月26日、青年将校の率いる反乱軍に殺害されます。享年83歳、高橋是清は波乱に富んだ人生を終えます。
 高橋財政はインフレを必然とします。いくら巧妙な図を描いてもインフレは避けられません。そして当時の日本にはこの種のインフレは必要でした。もっとも恩恵を蒙ったのが重化学工業です。以後鮎川義介を筆頭にして新興財閥が興隆します。旧財閥もこの流れに乗ります。重化学工業の最大のお得意先は軍隊です。戦車に火砲に軍艦などは鉄の塊です。軍備も需要です。それは民間に還元されないと言われますが、そうでもありません。利潤の回収が遅いのとリスクが高いだけです。第二次大戦で完敗し廃墟になった日本が立ち直り、世界の奇跡と言われる高度成長を為しえた背後には、戦前における重化学工業の成長育成があります。
 高橋財政のような積極的経済政策は決して一国内では完結できません。仮に豊富な資源が国内にあってもです。積極的財政とは、新しい産業、それもleading industoryを育てる政策です。国内だけでそれをやろうとすれば、産業界から一部の資本を回収しなければなりません。貨幣不足になり、デフレになります。苦労して新しい産業を作っても、できた製品の価格は低くなり、資本を回収できません。どうしても海外の市場が必要です。こうして日本は満州に進出します。この時ネックになったのが、資本と技術でした。結果から言えばハリマンの要望を入れて、満州をアメリカと共同で開発すればよかったのです。そうすれば外資を導入できるし、技術援助もあります。なによりも米国と対立しなくていい。これが日米中三国にとって一番いい方策であったのでしょう。
 よく高橋是清とケインズの考え方の相同性が言われます。大きく言えば同質の政策です。高橋財政とドイツのシャハト財政をケインズは注意深く見ていたはずです。高橋とケインズの差を少し違う点から、比較して見ましょう。まず二人ともばくちが好きなようです。この点ではケインズの方が上です。ケインズは優れたギャンブラ-ですが、高橋には下手なばくち打ちの印象があります。しかし高橋は蔵相を4度、首相を1度務め、実際の国政に関与できました。ケインズは英国政府からある意味で重用されましたが、肝心の彼の経済政策を実施する機会は与えられませんでした。ケインズの人生の方が悲劇的であったとも言えます。

 (「高橋是清---中央公論」及び「日本証券史」「昭和経済史」参照 後二者は日経文庫)

経済人列伝、横河民助

2011-03-27 02:53:28 | Weblog
         横河民助

 横河民助は1864年(元治元年)播磨国二見村(現明石市)に医師の四男として生まれます。父親は当時としては珍しい洋方医でした。中学卒業後、上京し三田英語学校や工部大学校予備、これらの学校は大学に入り外国人教授の講義を受けるための受験予備校ですが、を経て、明治16年19歳時、工部大学校(東大工学部の前身)に入学します。定員50名、希望者1000名、競争率20倍でした。病気で1年休学し、明治23年24歳の時卒業しています。卒業制作は「tokyo city building」、壮大な記念碑的建築ではなく、日常の実務に即した建築物でした。西洋風の外観に日本の伝統的町屋の形式が取り入れられています。
 民助に影響を与えた建築家は、辰野金吾の場合と同じく、英人ジョサイア・コンドルでした。コンドルは日本人に西洋一辺倒にならずに、日本の伝統を重視する事を強調して指導します。卒業して民間で建築事務所を開業します。象牙の塔にとどまることなく、広く社会のために---、が民助のモット-でした。最も現実は厳しく、彼の思惑通りには進まず、細々と食いつなぐ生活が続きます。1891年(明治24年)濃尾大地震が起こります。マグヌチュ-ド8.4、死者7273名、全壊家屋数14万戸以上という大惨事です。民助は地震の1ヵ月後緊急に「地震」と題した本を出版します。この本で、地震国日本は、地震の少ない欧州の建築技法を簡単に受け入れてはいけない、と警告します。
民助の希望が充たされる時がきます。明治28年31歳時、民助は三井組に入ります。当時三井は中上川彦次郎の指導下に、近代的な産業資本に脱皮しようとしている矢先でした。同時入社の、後に三井合名会社の理事長になった池田成彬の月給が30円、民助のそれは100円でした。月給の差は期待の差です。彼は技術課長として三井営業総本店の建築の責任者になります。従来から主張してきた耐震性の建造物を造る機会に恵まれます。民助はそれを鉄骨製の建築で果そうと思いました。鋼材の買付けと鉄骨建築の実際を視察するために4ヶ月米国に渡ります。
三井総本店は今までにない工法をもって造られました。従来の鉄骨建築は、レンガの間に鉄鋼を埋め込む方式でした。民助は、まず全体の構造にあわせた鉄骨の枠組みを造り、その周囲をレンガで包む方式を採用しました。鉄骨レンガ造り、現代ではカ-テンウオ-ル工法です。三井総本店は明治1902年(明治35年)に竣工します。地下一階地上三階、延べ総面積2800坪(約9000平米)でした。
三井総本店を完成させたその翌年の明治36年、民助は再び独立をはかり、横河工務所を開設します。民間の建築設計だけで食う、それがほんまの建築技師だ、は彼の終生の信条でした。明治44年帝国劇場を竣工させます。建坪645坪、地下を含めて五階建、座席総数は1700席でした。多くの人に利用してもらうために、全館を椅子化し、貴賓席や特等席以下、一等から四等の席まで作りました。三越呉服店本店も設計します。地下一階、地上六階で、スエズ以東最大の建築物と呼ばれました。時代はそろそろ大正に入ります。サラリ-マン階層が社会に進出し、市民は生活を楽しみ始めた頃です。今日は帝劇、明日は三越、というキャッチフレ-ズが人気を呼びました。民助の設計になる主な建築物は他に、東京株式取引所、日本工業倶楽部、東洋綿花ビル、千代田生命ビルなどがあります。
 一介の建築技師で終えるのは惜しい、と鐘紡の武藤山治をして言わしめたほどの起業能力を民助はもっていました。建築用鉄材がほとんど輸入品なので、せめて加工くらいはと思い立ち、大阪支店開設と同時に、鉄骨家屋の製作組立を目的として工務所付属の工場を作ります、しばらくして工務所から独立し。横河橋梁製作所という独立した企業になります。
電気計器事業にも進出します。電気測定法の施行を前に、積算電力計を製作します。この会社は後に、横河電機製作所になりあます。東亜鉄工所も設立しました。この会社は次第に暖房設備に重点を移します。1937年(昭和12年)には満州に進出し、満州橋梁KKを作っています。
建築業の近代化にも民助は尽力します。明治44年民助は、原林之助(清水建設)、大倉粂馬(大倉土木)らとともに、東京都の建築請負業者に呼びかけて、建築業者有志協会を設立します。民助は全会一致で理事長に選出されます。当時、現在でもややその嫌いはありますが、建設業という仕事は社会からあまり高い評価は受けていません。土建屋、土方のイメ-ジがついて回ります。業界自身の責任でもあり、近代的経営に脱皮すべく、この協会は作られ、民助が指導者になります。技術面での啓蒙、人材の育成に努めます。手軽に活用できる資材情報を盛った「建築土木資料集攬」や「積算基礎資料」などを刊行します。
 建築家としての民助が一番関心を持ったのが、地震国日本の耐震設計でした。従来耐震性といえば、材料を大きく強くすればいいだけの設計でした。民助は日本の神社仏閣や城郭の構造を研究し、ショックを吸収して柔らげる、木組みの消震構造に着目し、そういう方向での工法開発を預言しています。これは後に彼の後輩達により発展させられ、柔構造方式として完成します。現在の超高層ビルはこういう設計でできています。ですから60階や70階に暮らす人は、ビルがゆっくり揺れるのが解るそうです。この技術は日本の誇る建築技術の一つです。
民助は人の和を計り、問題を無理せず纏め上げてゆくタイプでした。彼は大学卒業以後、一回も設計図を描いたことはない、という神話の持ち主でした。ほとんどすべての仕事において彼は大略の方針を示し、後の具体的設計は他の人に任せ、濫りに口を挟まない、のが彼の方針でした。仕事をしている人の間を静かに通り抜けてゆく、何事も言われなかったらOK、ちょっと首を横に傾けたら問題あり、「いいね」と言われたら最上、でした。この性格は歳を経るに従い、顕著となり、民助は春風駘蕩とした寛厚の長者になります。若いものには、仕事でもうけようと思うな、技術を磨け、と言いました。誠実であれ、良いものを作れ、が彼のモット-でした。日本の国家が早く近代国家にならなければならないという、強い使命感をもった人でした。
 趣味は多彩でした。その中で特記すべきは、古陶磁の蒐集です。50歳前後からはじまります。三井の益田孝の影響によるといわれます。次第に熱を上げ、目利きとなり、一流の古陶磁を蒐集します。そしてそのすべてを帝室博物館(現国立東京博物館)に寄贈します。新しく集めたものも順々に寄贈しました。博物館内に横河コレクションができます。このコレクションの品目の増加が楽しみでした。古陶磁の他、書画、金石、盆栽、囲碁、能楽、音曲などあげればきりのないほどの趣味をたしなんだ人でした。筝曲にも凝りました。三尺(約1m)足らずの携帯用筝を製作します。その普及を計るべく倭楽研究所を創設しています。
1945年(昭和20年)7月死去、享年81歳。

参考文献 是の如く信ず 横川民助を語るつどい、横河建築設計事務所、横川電機KK他

東北大地震を日本経済復活へのばねにせよ!(追加版)

2011-03-20 18:43:55 | Weblog
  東北大地震を日本経済復活のばねにせよ!(追加版)

 2011年3月11日午後、青森・岩手・宮城・福島県の太平洋岸で巨大な地震が起き、当地域は地震と津波で壊滅的な影響を受けた。政府はどう対処するのか。人命救助、食糧医療の確保、交通の復活などあたりまえのことであり、これらのことは政府と名のつくものなら、常套的手法を持っている。私は今回の不幸を、日本経済復活の礎石にするべきだと思う。
 徹底した復興対策を講じるべきだ。倒壊した家屋はすべて再建する。市庁舎、学校、駅などの公共機関、防波堤や河岸、港湾、橋梁なども再建する。海水にしみこんだ田畑の整備、ふさがった河川の浚渫と泥土除去などなど、必要な作業はいくらでもある。その個々のことをここで述べてもしかたがないだろう。肝心な事は、復興を徹底的にし、その出来上がりは充分に贅沢にすることだ。質、数、量すべてにおいて贅沢にしよう。すべての新建造物は高度な耐震設計にする。防波堤なども同様。津波銀座地震銀座といってもいいこの地方において、以後決して大被害が起こらないように充分資本と技術をつぎ込む。被害地を耐震設計のモデルにしよう。以後の日本の建築のモデルにしよう。そのために充分な金をつぎ込むのだ。
 単に被害地の復興だけが目的なのではない。東北地方全体の経済的発展の基礎を固める一環として、今回の事件を考えるべきだ。新しい市や町を創造するつもりで再建する。道路など広くしてつけかえてもいいのだ。耐震設計のモデルを作って、建築物を大量生産できるほうにとりはからう。
 被害地の多くは日本全体の中で比較的貧しい土地が多い。これらの町をリッチにしよう。のみならず東北地方全体の発展を計る政策の一環として、この度の災害に取り組もう。被害地を再建し、さらに開発から取り残されている様相を示しがちな東北地方の産業を賦活し、この地方を豊かにしよう。
 大地震による被害は多大な復興資金を必要とする。逆に考えれば、膨大な需要が発生したという事でもある。被害地の復興に、さらにその向こうに東北地方全体の発展を、さらに日本の経済回復をにらみつつ、雄大で長期的な復興計画を立てよう。
 さて金はどうするのか?現在の財政状況では充分なことは行えない。均衡財政を維持すれば、被害地の復興を放棄するしかないだろう。これは国家にとっても被害地にとってもともに衰弱する道でしかない。ともに発展する方途を追求すべきだ。被害地は貧しかった上にさらに貧しくなっている。被害地のみに復興の責任を持たせることはできない。極論すれば、政府が全部負担する覚悟で臨むべきなのだ。国債を発行せよ。赤字国債にする必要はない。日銀引き受けで政府が自由に使える資金を大量に作れ。それで日本の優秀な技術を被害地の救済と復興にかければいい。被害は逆に見れば需要なのだ。被害地の全地域を政府が再建する覚悟でやるべきだ。
 被害地に発生した膨大な需要を満たそう。それは日本経済の復活に通じる。被害地の再建、これは意味のありすぎる事業であり、意味があり役に立つ作業は、有効需要なのだ。では日本にこの需要を満たす資本はないのか、と問えば、あると答えよう。資本とは即人材と技術だ。それは現在の日本には充分すぎるほどある。需要と資本技術を媒介するもの、つまり貨幣が足らないだけなのだ。印刷すれば済むことだ。資本と技術がある、需要もある、ないのは金だけ。なら印刷すればいい。繰り返すが、資本と技術のあるところでは、紙切れ一枚が金になる。信用があるからだ。
 被害地の復興に大胆な投資をしよう。そして東北地方全体に投資し、それを日本経済復活の起爆剤にしよう。需要と投資がマッチすれば、経済は自動的に良い方に回転する。
 早速一つ提案がある。現在被害地の整理と救出に自衛隊が派遣されている。これは大賛成だ。さらにヴォランティアも募集されるとか?反対はしないが、効果があるのか?むしろ全国の土木建設業者に依頼して、傘下の社員作業員を集団で派遣したらどうだろう。彼らの方がはるかに訓練されている。会社ごとでもいいし、複数の会社を単位にしてもいい。もちろんこれはヴォランティアではない。きっちり給料を払う。現在建設業界は仕事がなくて困っている。雇用を喉から手の出るほど欲しがっている。彼らを使わない、あるいは協力してもらわない手はない。私はそう思う。

(追加)
1 日銀は40兆円の金を市中にばらまいた。それはそれでいい。しかしそこまで貨幣量を増加させるのなら、なぜその種の金を使って政府は復興事業を推進できないのか?金は作れる。政府はそれを思うままに使えるのだ。問題は首相が一国の責任者として、明確な復興計画を打ち出せていないことだ。大災害に臨んで、経済をどういう方向にもって行くのかの宣言がなされていない。それができないのなら首相を辞めよ。明確な方針の宣言は為政者の義務だ。
2 義援金も結構だ。私も幾ばくかの献金をするつもりだ。しかし義援金の額はしれている。義援金はあくまで心情的なあるいは象徴的な援助にすぎない。一つ提案がある。現在各自治体がいろいろな援助をしている。これらのことにはすべて金がかかる。自治体の予算にも限度がある。自治体に手形を振り出させたらどうだろう。例えば都道府県一律に100億円の手形払いを認める。自治体はそれで費用を賄えばいい。そしてこの手形の決済は日銀にしてもらう。自治体の窮屈な予算では限度がある。援助物資が手形払いで買われれば、支払いは寛大になり、業者は潤い、民間に金が流れる。私は一律と言った。沖縄県や鹿児島県などは援助するに、不適当な地にある。そういう府県は大阪府や愛知県に手形支払いの権利を譲渡すればいいのだ。
3 被災地の人を受け入れる場所に関して一言。空いているマンションの部屋を自治体が安く借りて、そこに入ってもらうこともできる。どのくらい安くするかは状況次第だ。ただこういう事をするためにも金は要る。1を参照のこと。
4 原発に関するTV会見を見ていて不思議なことを感じた。東京電力の人達が出てきて、なにか言うが、彼らは会社のどういう立場を代表しているのだろうか?肝心な社長の姿は見えない。東電も震災には責任がある。まず最高責任者である社長が出てきて説明するべきだ。たとえ専門家であっても責任ある地位にいないと責任あることは言えない。専門の技術者達は自分の責任範囲の事しか言えないし言おうとしない。加えて下の者は常に上の者の意見を考慮し、縛られる。社長でなければ会社を代表し、国家全体を視野においた発言はできな。トヨタが米国で事件を起こした時、社長は米国に飛んで行った。東電の社長は自ら進んで説明すべきだ。政府もそのように東電にきつく要請すべきだ。首相の指示や命令がきけないのなら、しかるべき法的措置をとればいい。
5 心のケア-について。こちらは専門なので具体的に進言する。被災地であるから専門的なことができるわけではない。一番肝心なことは集団の対話だ。専門家やそれに近い人あるいは素人でもいい、10人内外の人数で、指導者を決めて、集団で対話しあうのがいい。1対1より、集団がいい。そうする事で集団への帰属意識を涵養できる。一番怖いことは、自分が独りだと思い込むことだ。対話の内容はさほど高度あるいは専門的な内容である必要はない。まず当面の関心事、次に身近なこと、昔語り、昔話、おとぎ話などなどでいい。リーダ-を中心に自由に話し合うことが大切だ。なお全国の人にお願いする。被災地に適宜手紙を送ろう。宛名は被災地の市町村名でいい。これらの手紙を被災者が入っているところにもってゆき読んでもらうのだ。
6 春の高校野球が開催と決まった。いいことだ。大災害だからといって中止する必要はない。お祭りはお祭り、開催すれば被災地にも全国にも、明るい話題が提供される。

東北大地震を日本経済復活のばねにせよ!

2011-03-14 22:44:15 | Weblog
   東北大地震を日本経済復活のばねにせよ!

 2011年3月11日午後、青森・岩手・宮城・福島県の太平洋岸で巨大な地震が起き、当地域は地震と津波で壊滅的な影響を受けた。政府はどう対処するのか。人命救助、食糧医療の確保、交通の復活などあたりまえのことであり、これらのことは政府と名のつくものなら、常套的手法を持っている。私は今回の不幸を、日本経済復活の礎石にするべきだと思う。
 徹底した復興対策を講じるべきだ。倒壊した家屋はすべて再建する。市庁舎、学校、駅などの公共機関、防波堤や河岸、港湾、橋梁なども再建する。海水にしみこんだ田畑の整備、ふさがった河川の浚渫と泥土除去などなど、必要な作業はいくらでもある。その個々のことをここで述べてもしかたがないだろう。肝心な事は、復興を徹底的にし、その出来上がりは充分に贅沢にすることだ。質、数、量すべてにおいて贅沢にしよう。すべての新建造物は高度な耐震設計にする。防波堤なども同様。津波銀座地震銀座といってもいいこの地方において、以後決して大被害が起こらないように充分資本と技術をつぎ込む。被害地を耐震設計のモデルにしよう。以後の日本の建築のモデルにしよう。そのために充分な金をつぎ込むのだ。
 単に被害地の復興だけが目的なのではない。東北地方全体の経済的発展の基礎を固める一環として、今回の事件を考えるべきだ。新しい市や町は創造するつもりで再建する。道路など広くしてつけかえてもいいのだ。耐震設計のモデルを作って、建築物を大量生産できるほうにとりはからう。
 被害地の多くは日本全体の中で比較的貧しい土地が多い。これらの町をリッチにしよう。のみならず東北地方全体の発展を計る政策の一環として、この度の災害に取り組もう。被害地を再建し、さらに開発から取り残されている様相を示しがちな東北地方の産業を賦活し、この地方を豊かにしよう。
 大地震による被害は多大な復興資金を必要とする。逆に考えれば、膨大な需要が発生したという事でもある。被害地の復興に、さらにその向こうに東北地方全体の発展を、さらに日本の経済回復をにらみつつ、雄大で長期的な復興計画を立てよう。
 さて金はどうするのか?現在の財政状況では充分なことは行えない。均衡財政を維持すれば、被害地の復興を放棄するしかないだろう。これは国家にとっても被害地にとってもともに衰弱する道でしかない。ともに発展する方途を追求すべきだ。被害地は貧しかった上にさらに貧しくなっている。被害地のみに復興の責任を持たせることはできない。極論すれば、政府が全部負担する覚悟で臨むべきなのだ。国債を発行せよ。赤字国債にする必要はない。日銀引き受けで政府が自由に使える資金を大量に作れ。それで日本の優秀な技術を被害地の救済と復興にかければいい。被害は逆に見れば需要なのだ。被害地の全地域を政府が再建する覚悟でやるべきだ。
 被害地に発生した膨大な需要を満たそう。それは日本経済の復活に通じる。被害地の再建、これは意味のありすぎる事業であり、意味があり役に立つ作業は、有効需要なのだ。では日本にこの需要を満たす資本はないのか、と問えば、あると答えよう。資本とは即人材と技術だ。それは現在の日本には充分すぎるほどある。需要と資本技術を媒介するもの、つまり貨幣が足らないだけなのだ。印刷すれば済むことだ。資本と技術がある、需要もある、ないのは金だけ。なら印刷すればいい。繰り返すが、資本と技術のあるところでは、紙切れ一枚が金になる。信用があるからだ。
 被害地の復興に大胆な投資をしよう。そして東北地方全体に投資し、それを日本経済復活の起爆剤にしよう。需要と投資がマッチすれば、経済は自動的に良い方に回転する。
 早速一つ提案がある。現在被害地の整理と救出に自衛隊が派遣されている。これは大賛成だ。さらにヴォランティアも募集されるとか?反対はしないが、効果があるのか。むしろ全国の土木建設業者に依頼して、傘下の社員作業員を集団で派遣したらどうだろう。彼らの方がはるかに訓練されている。会社ごとでもいいし、複数の会社を単位にしてもいい。もちろんこれはヴォランティアではない。きっちり給料を払う。現在建設業界は仕事がなくて困っている。雇用を喉から手の出るほど欲しがっている。彼らを使わない、あるいは協力してもらわない手はない。私はそう思う。

経済人列伝、三島海雲

2011-03-14 03:06:35 | Weblog
     三島海雲

 「初恋の味」カルピス食品の創業者です。正直なぜこのような人物が、生き馬の目を抜く、といわれる競争社会である実業の世界で生き残り、だけでなく世界のカルピスをそだてたのか、解りません。経済人としてはそれほど変った人です。常に国民の利福を唱え、企業の存在理由を国民の福祉増進に起きました。金は必要な時には、手に入る、人を信じて進め、が海雲のモット-です。超俗的経営者といえましょう。ただ少なくとも広告宣伝にかけては、非凡な鋭さがあるようです。
 海雲は1878年(明治11年)現在の大阪府箕面市に真宗の僧侶の子として生まれました。檀家が少ないので、家計は苦しく、母は隣町の伊丹で風呂屋を営みました。当時風呂屋経営はあまり名誉ある仕事とは思われず、社会的には下目に見られました。母親の口癖は「偉い人になれ」でした。もっとも海雲はどういう偉い人になるのか解らず、自分の記憶の中から、法然を選び出し、彼をモデルに生きようと思います。生来のどもりで幼児期にはほとんどしゃべれなかったそうです。母はどもりの治療に一心不乱になります。成績はよかったが、健康はすぐれない虚弱児でした。小学一年落第します。仲間のボスに言われてカンニングの手伝いをしたのがばれました。海雲が教える側です。母親は教育には熱心で、家計の苦しい中、教育費を捻出してくれました。風呂屋の経営が順調にいきだしたのでしょう。
 海雲は母親に私淑していたようで、その分父親には批判的でした。母親が風呂屋経営に苦労する中、父親いいかげんな態度で読経しているのを見て、激亢し仏像を焼いてしまいます。そういう激しい一面も充分に持ち合わせていました。小学校は5年で中退します。私淑し、尊敬し、可愛がってもらい、父親代わりのように思っていた、校長安田貞吉が女性関係の醜聞で退職させられたことに対する反応が退学です。安田に裏切られたという気持ちもありますし、安田を退職に追い込んだ勢力への反発もあったのでしょう。退学後漢学塾である弘深館で学びます。師匠である大田北山も海雲が尊敬する人物の一人です。本願寺の経営する文学寮に入学します。ここで学監杉村楚人冠にであいます。杉村は後に朝日新聞の記者となりジャ-ナリストとして有名に成った人です。海雲との交友は杉村が死去するまで50年にわたり続きます。文学寮は当時の中学校かそれより少し高い程度の学校でした。卒業後山口県の、これも本願寺が経営する開導中学校で勤務します。英語の教師です。
しばらくして文学寮が東京に移り、大学になったので、入学します。3年生に編入されました。大学では前田慧雲に私淑します。ともかく海雲という人の事跡には、私淑尊敬する人物が多いのです。運がいいのか、海雲が求めるのか、それともだれかに引っ付いていたいのか、ともかく彼の周囲にはそういう種類の人物が多いのです。そしてこれらの人物たちは海雲に、なんらかの援助をしてくれます。智慧やチャンスは言うにおよばず、時としては金銭の提供もしてくれました。海雲の人生の特徴は、こういう人物に恵まれたことです。交友の広さと闊達さ、そして信頼関係が彼の最大の財産であったかも知れません。
25歳時、中国行きの話しがでます。北京付近の学校で教師を求めていると情報が入り、紹介されてゆきます。めざした学校ではありませんが、東文学舎の教職につきます。この時土倉五郎と親友になります。知り合ってまだ半年にもならないのに、土倉は海雲に、土倉の姉から約束の10000円をもらってくるよう依頼します。日華洋行という会社を作ります。そこでいろいろなことをしました。日露戦争の時には、軍馬を求めて蒙古に行きます。陸軍の小銃を蒙古で売りさばきます。この点では死の商人です。この取引は結構儲かりました。蒙古牛を神戸まで苦労して運びます。予期しない事情がどんどん出てきて、結果は1000円の損害でした。予備の調査も不十分だったようには思いますが。大隈重信に勧められて、蒙古でめん羊を飼育する話もでます。海雲は熱心に計画を進めますが、義和団の乱以後、外国勢力に猜疑的いなっている清朝政府の消極姿勢にさえぎられて、計画は頓挫します。38歳日本に帰ります。27歳で結婚し妻子がいるのですが、彼らをほっぽりだして10年以上大陸でなにかしていたことになります。こういう点も超俗的といえるでしょう。日本に帰ったとき、海雲は無一文でした。中国での仕事は、こと経済的にはすべて失敗したことになります。ただ一つ、蒙古人が好む発酵乳の知識、それが以後の海雲の人生を大きく変える鍵になります。
海雲は美味しかった蒙古の発酵したミルクの味を商売にしようと思います。彼の人徳ゆえか多くの人が数百円づつ出資してくれて2500円が集まりました。すっぱいクリ-ムを醍醐味として売り出します。「実業の日本」で宣伝したら、注文が相継ぎます。生産が追いつきません。最初から大量生産のシステムがなかったのです。この商品は没になります。大正6年資本金25万円で、ラクト-KKという会社が設立されます。生きた乳酸菌の入ったキャラメルを発売します。夏にはべとべとになり返品が相継ぎます。牛乳を発酵させたものから脂肪分を抜き去った脱脂乳に砂糖とカルシウムを加えて寝かせると(自然発酵させると)非常に美味な飲み物ができることに気づきます。これがカルピスです。当時のカルピスと現在のそれは違っているかもしれませんが、カルピスの味を知らない人はいないでしょう。私も中学校のころでしたかなあ、氷水で薄めたカルピスを飲んで絶句し、何杯も何杯もおかわりした記憶があります。この商品の売れ行きは順調でした。
カルピス(calpis)の語源について一言。「カル」は「カルシウム」から、「ピス」はサンスクリット語の「サルピス」からきています。後者の説明には仏教の知識がいささかいります。中国隋唐の仏教徒は、諸種のお経をありがたい順に並べました。それを牛乳が発酵して経過する順に例えます。サルピスは熟した発酵乳という意味で、美味の点ではほぼ完成域に達したものです。最高の段階を「醍醐」といいますが、サルピスもほぼ醍醐にちかかろう、というわけで「ピス」を頂戴しました。従って「カルピス」とはカルシウムをたっぷり含んだ醍醐すなはち最高の飲物という意味になります。当時日本人のカルシウム不足が問題として大きく取り上げられていました。そこに海雲の仏教上の関心が加わったわけです。この「カルピス」という国籍不明の名称を案出したように、海雲の広告家としてのセンスには非凡なものがあります。実際「カルピス」という呼称には明るさ、新鮮さ、楽しさ、さわやかさ、そして甘ったるさがあり、独得の雰囲気をかもし出します。
商品の名前は以上の通りです。そして有名な「初恋の味」というキャッチフレ-ズが案出されます。確かに初恋の味なんですよねえ、カルピスは。明るさ、新鮮さ、楽しさ、さわやかさ、甘ったるさ、もう一つ加えましょう、やるせなさ、そういう諸々の感覚を刺激し包含するものをこの商品はもっています。健康に良い、も宣伝材料になります。カルシウムに乳酸菌ですから健康にはいいのです。特に海雲のように胃腸の弱いものには最適な飲料です。商品のマ-クは、黒人がストロウで飲んでいる図柄です。これも当たりました。私の瞼にも焼き付いています。最後が包装紙です。これにも工夫がこらされました。戦前は、青地に白の水玉模様、戦後は逆になって、白地に青い水玉模様です。カルピスは東京の国分商店を通じて販売されました。国分平次郎の義侠心に助けられます。カルピスは味、健康食品、名前、マ-ク、キャチフレ-ズ、などの効果が相乗作用して大いに売れました。
海雲は広告に非凡な才能を持っていました。商品もさることながら、会社企業そのものを宣伝します。伝書鳩の競争、囲碁大会、宮城道雄の独演会などを催します。全盛期のムッソリ-ニから日本の青少年へのメッセ-ジを贈ってもらいます。こういう事業はカルピスの後援ですが、商品とは無関係です。しかし海雲は国民福利のためとして遂行します。彼は商品より会社を売り込みたかったのですから国民福利でいいでしょう。結果としては後援企業の名も売り込めます。
宣伝の圧巻はカルピスのポスタ-の募集です。当時第一次大戦後ドイツは猛烈なインフレに襲われます。特に画家が生活に困っていると聞いた海雲は、彼らの救済策の一環としてポスタ-募集をしました。1500枚の応募があります。選定を公開にします。優秀なポスタ-は東京と大阪の商店に頼んではってもらいます。心斎橋はこのポスタ-で溢れかえりました。選定で第三位になったのが、黒人がストロウでカルピスを吸っている図柄です。楽しくて軽やかで可愛い図柄でした。後年人種差別に通ずるとかで廃止になりました。ドイツ人画家、オット-・デュンケルの作品です。
1923年(大正12年)関東大震災、この時海雲は在庫をすべてはたいて、自動車でカルピス(もちろん水割りの)を配ってまわります。大人気でした。地震は9月1日に起こっています。暑さで飲み水も満足にない中のカルピスは乾天の慈雨でした。巧まずして宣伝になります。カルピスは歌の文句にも取り入れられました。戦後ヒットした「銀座カンカン娘」の歌詞の中に「カルピス飲んでカンカン娘、赤いブラウス、サンタル履いて、誰を待つやら銀座の街角」というのがあります。
他にりんご酒を試みたり、ドイツからビ-トシュガ-(砂糖大根)のかすを輸入して、それを原料に味の素と提携して味の素以上の調味料を作ろうなど試みますが、失敗します。結局海雲はカルピス一筋でゆくことになります。鈴木商店の味の素とカルピスはなかなか複雑な因縁があるようです。
企業としてのカルピスの歩んだ道は甘いよりむしろ酸っぱいものでした。戦時体制になるとカルピスなどは典型的な平和産業ですから、カルピス生産など相手にされません。物価は統制され、原料等資材の割り当てを減らされます。やむなく軍の需要にこたえる形の軍納でしのぎます。
そして戦後になります。すぐ立ち上がらなければならなかったのですが、海雲は爆風で呼吸器をやられ、長い療養生活を送ります。その間実弟が副社長として経営の采配をとります。彼は、ビタミン入りのカルピスなど、手を広げ、経費がかさみ赤字になります。昭和25年整理会社になりました。第一、三井、協和、山梨中央の四行が再建のための融資をします。海雲は代表権のない会長になります。カルピス一本に徹し、経費削減で立ち直り、昭和31年海雲は社長に帰り咲きます。以後の経営は順調でした。毎年25%以上の売上高の増加を示します。昭和33年930万本の売上が、39年には3500万本になります。この時期は高度成長期でしたから、大手の会社はのきなみ成長したことは事実です。
海雲の人生の特徴は健康に対して細心の注意をはらったことです。若い頃は衛生家と仇名されました。社長を退いたのは、1970年(昭和昭和45年)、92歳の時です。1974年(昭和49年)死去、96歳でした。松永安左衛門と並ぶ長命です。
海雲の超俗ぶりを示す逸話があります。昭和12年、海雲は増資を企てます。増資は味の素が引き受けます。海雲は会社が大きくなったと単純に喜んでいたら、鈴木三郎助(三代目)が社長として乗り込んできます。この時初めて海雲は経営権を奪われたことをしります。事情を知った知人達が中に入り、カルピスは三島が作った会社だから、と言って経営権を取り返します。人望もあったということです。2007年カルピスKKは味の素の傘下に入り、完全な子会社になりました。味の素とは色々な因縁があるわけです。

参考文献  初恋五十年 ダイアモンド社
      20世紀日本の経済人 日経新聞社

経済人列伝、鈴木三郎助

2011-03-10 03:05:46 | Weblog
   鈴木三郎助

 鈴木三郎助という名称の人物は初代から四代まで計4名います。ここで取り上げる人物は、味の素株式会社の事実上の創立者である三代目三郎助です。また味の素KKは創立の事情からして昭和電工とのからみが深く、系列がややこしくなります。鈴木家の祖先は相模国(神奈川県)葉山の中農でした。初代三郎助は勤勉な人物でかなりの財を積みます。二代目は当初投機にこり、財産を失います。二代目の母親と妻が、村田春齢という人物から、海藻からヨウドを取り出し、それを輸入されたチリ硝石と反応させて、火薬の原料になる硝石を作る方法を教わります。二人の女性はわらにもすがる思いで、この方法を試み、やがて二代目も加わって、少しづつ産を為してゆきます。ヨウド製造に取り組みだしてからは、二代目三郎助の経営者としての手腕は遺憾なく発揮されます。こういう父親の子として三代目三郎助は1890年(明治23年)に神奈川県葉山に生まれました。幼名は三郎です。後に三代目を襲名して三郎助となります。なお「三郎助」という名は、ペリ-来航時に浦賀奉行の与力として、黒船に乗り込み、ペリ-の来航の意図を糾し、後に函館の五稜郭で戦死した、中島三郎助の名にちなんだとも言われています。
 三郎は小学校から京華商業学校に通います。父親はスパルタ教育を三郎にほどこします。教育方針は、一番嫌な仕事、一番つらい仕事は、全部息子にさせる、でした。商業学校在学中も家業はちゃんとさせられます。この点では野村證券の創始者野村徳七と同じです。父親の経営するヨウド製造会社は外国製品と競争するために、大倉喜八郎の指導の下で、他の同業者と合同し、日本化学工業KKに統合されます。父親二代三郎助は専務におさまります。
 1908年(明治41年)ごろ東大の池田菊苗が鰹節からうま味の素を取り出す研究を始めました。鰹節を微温湯に浸し、その煮出し汁を低圧で濃縮すれば、結晶が得られ、それがグルタミン酸である事、そしてそれがうま味の素であることを突き止めました。鰹節では原料として高価すぎるので、小麦からグルタミン酸を取り出すことによって工業化の可能性をつかみます。この特許は池田と二代目三郎助の共同特許になりました。こうして合資会社鈴木製薬所が創立され、グルタミン酸つまり味の素が製造され始めます。三郎は宣伝と販売を、伯父の忠治が製造を担当します。売れるはずの味の素がなかなか売れません。なにしろ味の素は、全くの新製品です。化学工業という新手法を用いて工場でできる新製品です。塩や砂糖あるいは味噌醤油のように、その製造過程がだれにでもわかる、その意味で自然な製品ではありません。味の素はなにやら魔法の産物あつかいされかねませんでした。使い方は普及せず、新製品についてまわる誤解や反発は絶えません。蛇を原料にしているというたちの悪い風評には泣かされます。本列伝の主人公三郎、三代目鈴木三郎助の人生は、この売れない味の素をいかにして売ってゆくかという、宣伝と販売戦略の創造の歴史であるといってもいいでしょう。
 三郎はどんな宣伝方法をとったのでしょうか?新聞広告や折込広告は序の口です。チンドンヤも使います。というよりチンドンヤの行列の先頭に立ち、宣伝文句を朗誦し、旗をもって歩くのは三郎の役目です。同級生に会うのが恥ずかしくて、路上を逃げ出したこともあります。地上スタンプという方法も考案しました。大きなゴム靴に穴をあけ、中に白い粉を入れておき、地面に「味の素」と書いてゆきます。道路を汚すとお上からお叱りを受け、この方法はやめました。当時日本に三台しかないといわれた自動車の中古を買い、横断幕をつけて宣伝します。全国行脚の途中名古屋でエンコして、立ちどまります。名古屋には自動車修理の技術を持つものがいず、警察から叱られます。鉄道馬車の中吊り広告もします。現在ではありふれたこの宣伝の手法は三郎をもって第一号とします。吊看板の方式も開発します。諸々の形の容器などに「味の素」と字をいれて諸々の店に吊り下げてもらいます。
 「者」方式と名づけた宣伝を考えます。医者に味の素が健康にいいといってもらいます。座敷で芸者に味の素を使って作った料理の美味しさを宣伝してもらいます。役者にも一役買ってもらいます。演劇の中でアドリブに味の素という語句を挿入してもらいます。公演の一日、最前列の席を買占め、味の素デ-と名づけて宣伝をかねて公演を守り立てます。こういう趣向は前もって張り紙や折込で宣伝しておいて、当日盛り上がるように工夫します。特に曾我廼家五郎一座は三郎のこの企てに、協力的でした。「今日のご飯美味しいな」「味の素を使っているからな」などの台詞は簡単に盛り込めます。医者、芸者、役者それに学者などなど「者」のつく職業は専門的で、その言には一定の影響力があります。三郎はそこに目をつけました。
 三好野という料理店がありました。そこの雑煮は美味で有名でした。三郎は三好野の板前に味の素を使ってくれるよう依頼します。雑煮はさらに美味になりました。三好野の盛名に便乗して宣伝します。都々逸の文句に味の素の語句を盛り込みます。新聞広告では「美味、重宝、経済」という長所をくりかえしくりかえし力説します。大きな広告ではなく、ほどほどの規模の広告をくりかえし載せます。鰹節40グラムが味の素3グラムに相当するとして、いかに味の素が経済的かと説きます。一流商品とタイアップして、それらの商品が売れるとおまけに味の素をつけます。
 「四季の料理」という本を作り、女学校の卒業生に贈呈します。料理の作り方を解説した本です。彼女達はいずれ母親になり料理を作ります。その指針になる本ですが、若い母親には非常な人気で、昭和13年までに数百万部発行されています。もちろん解説された料理の随所に、味の素の語句が並びます。「新家庭日記」という日記帳も出しました。日付、日記と同時に日々の献立も載せます。主婦にとって毎日の食膳のメニュ-をなににするかは、結構面倒な問題です。(うつ病になると献立が浮かばなくなります)主婦には非常に喜ばれました。
 博覧会を利用します。博覧会に出品されたものを使って、料理屋を作りそれを展示し、味の素(博覧会に出品された)を使った料理を振舞います。料理講習会も盛んに催します。アドバル-ンも利用します。垂幕で宣伝するのですが、昼のみならず、夜は豆電球を用いてあかあかと広告文を出しました。
 精進料理浸透作戦なるものがあります。名刹名寺では精進料理が出ます。通常この種の料理は美味しいものです。(例、宇治の黄檗山万福寺の普茶料理)のみならず信者さんにとってお寺に参詣する事は信仰と言う浄化行為ですので、後で出る料理はことさら美味に感じられます。まかないに味の素使用を頼みます。料理はさらに美味になりました。こうしてお寺、僧侶、信者の口を通じて味の素の効能を広めます。富山の薬売りが各地の客に贈呈するお礼に味の素をもっていってくれるよう依頼します。
 家庭訪問による味の素の消費動向の調査もしました。女学校卒で容姿に自信のある女性を公募し、彼らを各家庭に派遣して、調査します。これも宣伝になります。調査員公募の広告だけで一大宣伝になります。クロスワ-ドパズルも利用しました。
 看板での宣伝はあたりまえです。吊り下げられたお椀型、短冊スタイルの柱賭け看板、絵入りの柱賭け看板、五色看板、横書き看板、矢入りの吊るし看板などいろいろあります。圧巻は看板部隊です。あちこちに看板を貼り付けていたら、市町の当局から、町の美観を損なうといわれました。そこで町名を記した木版を貼り付けてまわりました。これは当局からも歓迎されました。もちろん町名の横に小さく味の素と入れます。全国津々浦々にわたりサイドカ-でこの町名入りの看板をつけてまわりました。大野立看板も全国の国鉄私鉄沿線に作りました。
 ともかく三郎はアイデアの人です。広告以外にもいろいろな機知を働かせます。小麦粉からグルタミン酸を取ると大量の澱粉が残ります。これをどう処理するのか。廃物利用を考えます。当時三郎は大阪支店長でした。味の素の販売額は大阪7割東京3割でした。鐘紡の社長武藤山治と交渉します。綿紡績には糊が要ります。この糊を取る過程でグルタミン酸ができます。お互いにとっての廃物は、立場を変えれば必要な原料です。味の素と鐘紡は澱粉とグルタミン酸を交換します。
 取り込み詐欺などで掛け金を踏み倒されないように、相手の商店の信頼度を測る簡単な指標を作成します。社屋が自前のもの、支払いが日々ちゃんと為されていること、トイレがきれいである事、などが指標になりました。
 乱売防止もしなければなりません。乱売は値崩れを起こし、またまじめに定価で売っている店に迷惑をかけます。通常乱売防止の対策は特約店制度ですが、特約店が乱売しないとも限りません。そこで抽選制度が発案されます。かなり手の込んだ仕組です。特約店に卸す荷にナンバ-を付けておき、同時にこのナンバ-を載せた葉書を同封します。小売店が荷を開いたらその葉書に住所と店名を書いて、返信してもらいます。これでどこの特約店が販売区域外に品を流しているかがわかります。協力してもらうために、一定の金額を返します。ただすぐ直接に返したら、値引きになり値崩れの原因になります。そこで特約店の扱い高に応じて、一定の金額の抽選券を与えます。そして年度末に抽選大会を開きます。大会そのものも宣伝媒体になります。
 割戻制度も積立金という形で行います。割戻の金額を5年定期にして積み立て、贈呈金証書という形で特約店に与えます。5年後現金が手元に届くという方法です。玉手箱という仕組もあります。金額も利率も明示しない積立金を作り、それを成績のいい店に与えます。
 経営を引き締めるために、予算制度を作ります。広告費はいくら、交際費はなんぼと決めたら、絶対にその枠をはずさないようにします。無駄の削減も徹底します。例えば、味の素の包装紙の紙の値段を調べます。さらに印刷費、インク代、断裁費など上流へ上流へ遡って費用を調べ、無駄あるいは不当と思われる部分は手直しします。天引貯金といって、経営が黒字であろうと赤字であろうと一定額を積み立てます。予算制度と天引き貯金は当然、店の経費削減の手段ですから、三郎は社員から一時憎まれました。
 1917年(大正6年)、会社は株式会社鈴木商店になります。三郎は取締役、翌々年大阪支店長になります。これよりさき二代目三郎助は、味の素を鈴木商店の主力製品とする方針を堅持しつつも、第一次世界大戦の影響で世界的に不足する火薬の原料としての塩素酸カリの製造にも進出します。会社は元々がヨウド製造から出発しています。ヨウド製造の過程は塩素酸カリの製造とドッキングしています。塩素酸カリの製造過程には電気分解が必要です。そこで大量の電気を作るために、信州の長野電灯と組んで、地元に大規模な発電所を作り、東信電気株式会社を設立しました。そういうわけで鈴木商店は味の素といういたって平和的な製品と、軍需品そのものの火薬の原料製造という二足のわらじをはくことになります。東信電気は後に昭和肥料をへて昭和電工になります。
 第一次大戦は未曾有の好況をもたらし、また戦後には大反動不況を引き起こします。鈴木商店も例外ではありません。倒産の危機に立ち至ります。経営とは難しいもので社長の三郎助は、あらかじめ反動不況を見越して対策を立てていました。そのために株の信用売りで在庫の暴落に保険をかけようとして、逆に暴騰にあい、大損害を蒙ります。どうしても100万円は欲しい。この時三郎は鐘紡の武藤に頼み同額を融通してもらいます。これに懲りて三郎は先に述べた、予算制度や天引貯金を実施して緊縮経営をとろうとしました。かいあって1926年(大正15年)年産12万貫、年間売上総額1000万円の目標を達成します。鈴木商店という名の企業はもうひとつ神戸で金子直吉が立ち上げた鈴木商店があります。二つの商店には直接の関係はありません。
 1931年(昭和6年)二代目三郎助が死去し、三郎が三郎助を襲名します。三代目です。鈴木商店の社長は伯父の忠治、三郎助は専務におさまります。昭和7年社名を、味の素本舗株式会社鈴木商店に変更します。暖簾をまもるためです。余談になりますが、味の素という製品はその普及過程でよほど不思議がられたのでしょう、奇妙な用いられ方をされています。栄養剤、睡眠剤、糖尿病治療薬などとしても用いられました。生魚に注入すると味が引き立ちます。釣りに際して魚を集める装置にも使われました。太公望連中の秘伝であったようです。水虫や寝小便にも効くといわれました。蛇原料説がなかなか払拭できなかったのもうなづけます。関東大震災で鈴木商店は緊急食糧提供に協力して在庫の小麦を寄付しました。大量の小麦をみて、蛇原料説はかなり鎮火したそうです。
 時代は次第に軍事一辺倒になります。味の素本舗は原料供給を削減され、徴兵で労働力も奪われます。こういう中昭和14年50歳時、三郎助は社長になります。軍需産業化を強いられ、15年には社名を鈴木食料品工業KKと変更され、ブタノ-ル、アセトン、アルミナなどの製品を作らされます。
 終戦、1945年(昭和20年)に社名を味の素株式会社に変更します。昭和電工が財閥指定になります。味の素KKに累が及ぶのを恐れ、三郎助は社長を辞任します。3ヶ月後彼自身が追放処分にあいます。戦時中昭和電工の会長になり、ただ1度役員会を開いたのを問われました。追放中は会社に入る事は許されません。失業者です。仕事を失った三郎助は岡に上がった河童同然でした。昭和25年、伯父忠治とともに味の素の相談役になります。追放を解かれ会社に復帰しました。27年同社会長に就任します。以後三郎助には経営上めだった事跡はありません。味の素の社外重役に高崎達之助、石坂泰三、小林中を招き、経営の安全を計ったことと、葉山マリ-ナを建造したことくらいです。1973年(昭和48年)死去、享年84歳でした。「葉山好日」などの著書があります。

  参考文献  販売戦略の先駆者、鈴木三郎助の生涯  中央公論

経済人列伝、坪内寿夫

2011-03-05 02:58:42 | Weblog
    坪内寿夫

坪内寿夫は1914年(大正3年)愛媛県松前町に生まれています。父親は百松といい船大工でした。その実直さを同町で映画館を経営していた坪内家に見込まれ、婿養子になります。寿夫は弓削商船学校を卒業した後、南満州鉄道に入ります。独立して河川航行の汽船の船長をしているうちに、終戦となりシベリアに連行され、そこで捕虜生活を強いられます。戦後シベリアに連行された日本軍将兵及び民間人総数は約60万人、過酷な環境の中で重労働を強いられます。1割の6万人が当地で死去しています。ソ連軍による日本人捕虜のシベリア抑留は、ポツダム宣言違反です。昭和23年寿夫は帰国します。シベリア抑留に関しては、彼は多くを語りません。よく生きて帰られた、とだけ言っています。帰国した寿夫に両親は240万円の金を渡し、好きなように事業をしなさい、と言ったと伝えられます。この240万円はどうみても現在の貨幣価値で換算すると10億円を超えます。寿夫は銀のスプ-ンをくわえて生まれたことになります。寿夫はみるみるうちに映画館経営を拡張し、数年後には四国全土で100を超える映画館を経営しました。現在と異なり昭和20年代、映画産業はリ-ディングインダストリ-の一つでした。戦争中抑えられていた消費と快楽への欲求は映画を見るという事の中で発散されます。映画の「青い山脈」と歌謡曲の「りんごの歌」は戦後の生活解放のシンボルでした。こうして寿夫は金満家になります。
 1952年(昭和27年)久松愛媛県知事が寿夫に倒産寸前の、波止浜船渠の経営を要請します。寿夫は乗り気ではありませんでした。映画館経営と造船は全く異質の業種です。寿夫が私淑する小林一三は勧めます。またある知人は、乞食になるつもりかとまで、言い切ります。この要請には、寿夫が有する資産を利用するという以外の、意図はありません。寿夫は侠気をだして引き受けます。この時彼は38歳でした。社名も来島船渠と変え、資本金5000万円で出発します。
 経営は独得でした。まず瀬戸内を走る内海航路に眼をつけます。その中で小規模家族経営を行う一杯船長、つまり単身あるいは夫婦のコンビで、1隻のみ船を持って、貨物を運搬している海運業者を焦点において、船を造ります。彼らの船の多くは木造機帆船でした。彼らのために、小型で簡便な鉄鋼船を安く造ります。総トン数は499トン、価格は4900万円です。500トン以上の船は免許がうるさいので、このトン数にしました。溶接方式、ブロック建造など当時最新の技術も取り入れます。支払いは10%自己資金、40%銀行融資、50%は月賦にして、支払いを容易にします。船の月賦は国内初の試みでした。鉄鋼船と木造船では機関関係の免許が違います。船長の女房を、会社から派遣した家庭教師により教育し、機関助手の免許を取らせます。さらに各一杯船主のもとに社員が出向いて注文をとります。これらの試みはあたり、小型鉄鋼船は飛ぶように売れました。速力、馬力、船腹、搭載量、工期に優れ、海のトラックと言われ好評でした。こうして寿夫は中堅造船会社の経営で成功し。四国の大将という仇名を頂戴しました。
 海運業は内航船から近海船の時代に移ります。韓国や東南アジア諸国との交易が盛んになります。食うや食わずの時代から、高度成長の時代に突入しつつありました。船舶も大型化しなければなりません。昭和33年に川崎重工業と技術提携します。年7000万円を4年に渡って支払い、15000万トンの船の建造技術を獲得します。昭和38年にはドックが手狭なので、近隣の大西町に新しく大西工場を建設します。この間高知重工業や愛媛海運を吸収合併しています。この当時愛媛の造船量は45万トンに達し、東京、大阪、兵庫についで日本国内では第四位でした。
 造船と並んで寿夫は昭和34年から奥道後の開発に取り組みます。松山の近辺に有名な道後温泉があります。ある人から奥道後の温泉採掘権を移譲されます。熱心に採掘を試みているうちに大量の湯が出てきました。寿夫はこの地を一大レジャ-ランドにしようと取り組みます。百万坪の土地に、遊歩道、ロ-プウエイ、展望台、野外音楽堂、ダンスホ-ル、劇場、映画館、温泉プ-ル、ジャングル温泉、テ-マパ-ク、動物園、子ども館、そして野鳥観察館などなどを建設します。もちろん豪華なホテルも作ります。圧巻は京都の金閣寺を模したお堂の建造です。麓から見上げる金色の建造物です。また山という山に、四季おりおりの花木を植樹しました。スタ-や有名人を招き、公演や講演を盛んに催します。昭和39年開園しました。道後温泉のさらに山奥に、新たな温泉郷を開発したので、バス路線などをめぐり道後温泉と対立し、以後寿夫は愛媛県の政財界と微妙な関係になります。やりだしたらとことんやる、が寿夫のやり方です。現在愛媛県の地図には道後温泉とならんで奥道後温泉が載っていますが、奥道後の開発は寿夫をもって嚆矢とします。
 海運や造船にいつまでも良い風は吹きません。オイルショックでは照国海運の倒産もあってかなりの損害を蒙りました。その間神戸のオリエンタルホテルの経営再建も引き受けています。寿夫は再建王と異名をとりました。生涯で100以上の会社の更正再建を引き受けています。頼まれれば嫌とは言えず、まず会社の従業員が路頭に迷わないようにすること、を第一の使命と心得ていました。
 1978年(昭和53年)、白州次郎や永野重雄などに頼まれて、佐世保重工業の再建を引き受けます。この会社は戦前の佐世保海軍工廠の後身で、造船業では名門でした。おりからの海運不況を受けて赤字がまし、2000名近くの大量解雇が必要になっていました。退職者に支払うべき83億円の資金がまず問題になります。関係者は政府を動かし、協調融資、元金支払い猶予、利子免除などの特典を会社に与えます。この前提で寿夫は佐世保重工の社長に就任します。銀行の融資には寿夫の個人保証が求められました。関係者は寿夫の経営手腕と同時に彼の持つ莫大な資産の利用も意図していました。問題は労組です。
寿夫は労組に合理化三項目を提案します、週休二日制の廃止、定期昇給・ベ-スアップ・一時金の三ヵ年停止、賃金カットの三項目です。これに労組のよる会社人事への介入禁止が付け加わります。退職金が支払われた直後から、労組の態度は変わり、猛烈な反合理化闘争が始まります。労組側には名門意識があり、戦後ぽっと出の来島ドックを四国の田舎者扱いします。寿夫や来島側としては救済される方が救済する方より、優遇された賃金体系は納得できません。労使の争議は長期化し、5度のストライキが打たれました。寿夫の家に血のついたわら人形が置かれ、抗議や嫌がらせの郵便物が殺到します。佐世保重工の軍事的性格、安全保障の問題、そして米国との外交関係なども勘案され、寿夫は合理化三項目を撤回し争議は終焉します。この頃から本家の来島ドックの経営にも黄信号が点滅するようになります。どの程度佐世保重工の経営合理化が進んだのか明瞭ではありませんが、私個人の意見を言えば、倒産寸前の企業では減資と賃金カットは当然です。日航のようなことになれば賃金は半額になります。無いものは無いが経済の過酷な哲理です。
 昭和56年横路北海道知事の懇請で、寿夫は函館ドックの再建も引き受けます。この件に関しては社内の反対は強く、強引にそれまでの形を踏襲して拡大路線一本槍で進む寿夫のやり方には幹部社員の多くが批判的になります。昭和59年寿夫は高血圧と糖尿病で倒れます。彼70歳の時です。幸い闘病の成果があがり活動可能になりますが、以後は病身を抱えて経営に尽力するはめになります。
 1986年(昭和61年)来島ドックを始めとする来島グル-プは経営危機を迎えます。人件費高騰により韓国を始めとする後進国に競争で不利な立場に、日本の造船は立たされました。それにプラザ合意による円高が重なります。人件費と円高で日本の造船業は国際競争で遅れをとるようになります。構造的な造船不況です。来島グル-プも例外ではありません。このグル-プは多くの企業を立ち直らせてきましたが、その大部分は本職の造船です。日本債権信用銀行以下の銀行団が協調融資を行います。ドック削減などの合理化が行われます。寿夫は代表取締役を降り、実権のない社長になります。代表権は日債銀からきた副社長がなります。そしてここでク-デタが起こります。寿夫の知らないうちに、来島グル-プの幹部は相談し、古参幹部の一人を副社長にしてしまいます。寿夫は人事権を始めとする経営権喪失を実感します。事実上寿夫は会社から放逐されました。飼い犬に手を噛まれたようなものです。しかし噛んだ側にも理屈はあります。
グル-プは経営の優良な部分は新来島ドックに集約させ、負債と不良資産は来島興産という新会社を作ってそこで整理させるよう計らいます。そしてこの負債全部に寿夫は個人補償をしていました。こうして寿夫の全財産は失われます。もっとも来島興産による債権処理は当初の予想よりはるかに順調にゆきました。バブルで土地の価格は急騰しました。株式も同様です。1998年(平成10年)寿夫は死去します。原因は脳梗塞でした。享年は84歳です。
 寿夫は生涯で100以上の会社を再建し再建王と言われました。原点は波止浜船渠(来島ドックの前身)の再建にあります。この時点で寿夫は相当な資産家でした。時代を見通して行う大胆な投資、高度な技術の導入、奇抜なアイデアによる需要の開発、そして合理化があります。こうして稼いだ資産を次の会社に投資します。再建すべきボロ会社の株を買います。むしろ買わねばならなかったでしょう。会社が再建されれば、株価は上がります。寿夫の含み資産は急膨張します。大胆な投資も技術の高度化も需要開発の奇策も大いに結構です。ただこの方策が成功する条件があります。それはその業界(寿夫の場合は造船業)の成長性です。昭和20代からの四半世紀は造船業の成長期でした。戦後すぐの物資不足時代には、物資を国内で早く運ぶ内航船が栄えます。日本の経済が復興してきて国際貿易が拡大すると近海船が、高度成長期に入ると大型タンカ-が主役になります。寿夫はこの推移を見つめ、将来を見通して経営を拡大します。しかし人は二つの時代には生きられません。人件費高騰と円高による構造的不況を、彼には見通せませんでした。この時期つまり昭和50年代になっても彼は従来の強気拡大路線を突っ走ります。佐世保重工や函館ドックの再建救済には幹部の多くは反対の態度をとります。こうして来島グル-プ自体が倒産の危機に襲われます。寿夫はワンマンでした。だから次第に増える反対派は結束し、寿夫が病気療養で前面にでられないのを利用して、銀行と連絡し、寿夫を経営から追います。それもやむを得ないことです。この点では鈴木商店の金子直吉も、大映映画の永田雅一も、ダイエ-の中内功も同じです。彼らとの違いは、寿夫の個人資産が豊富であり、それを巧に利用して経営を拡大させたことでしょう。
 寿夫は長く愛媛県に留まるべきではなかったと思います。郷土愛が強すぎました。経営が拡大する中で、さっさと関西か東京に地盤を移せばよかったのです。田舎の人は根性が小さい。嫉妬深く足をひっぱります。寿夫を担ぎ出した郷土の名士はほとんどが、寿夫の窮境に無関心であったようです。ざまあ見ろ、という気持ちさえ持たれたかも知れません。また寿夫がより大を為そうとすれば、造船のみでなく、もう一つか二つの基軸商品を持っていれば話はちがってきたでしょう。その点ではファスナ-からサッシへ、さらに工作機械へと進んだYKKの吉田忠雄や、カメラから複写機さらに卓上計算機へと進んだキャノンの御手洗毅がいい参考例になります。
 寿夫は一時期日本でも有数の人気者でした。寿夫を主人公とする本は15点、総計150万部に昇り、ベストセラ-だったこともあります。レジャ-ランドを経営しているので交友範囲も豊富でした。特に作家の今東光と柴田練三郎には私淑していました。こういう超人気者であった点も郷土の嫉妬を買った由縁かもしれません。明治の元勲である伊藤博文と山県有朋が故郷の山口県に帰りたくなかったという逸話も参考になります。ただ確実に言えることは、寿夫が義侠心に富み、他者のためを優先し、私財を投じて事業を起こし拡大したことです。その点で彼はなにより陽気な無私の人でした。

  参考文献  夢は大衆にあり、小説坪内寿夫  中央公論社

経済人列伝、辰野金吾

2011-03-01 02:52:26 | Weblog
    辰野金吾

 辰野金吾はわが国建築学の草分けであり、日銀本店や東京駅を設計した、明治建築界の巨頭、法王と言われた実力者です。金吾は1854年(嘉永7年)、黒船来航の直後、肥前唐津藩(佐賀県唐津市)の下級武士の子として生まれました。生家は姫松、次男ですので辰野家(伯父に家)に養子にゆきます。姫松家の家禄は年三両、家職は賄い、でした。厳密に言えば、正式の戦士とはいえない低い階層でした。辰野家も同様です。唐津藩は維新政府とは敵対関係にありました。唐津藩小笠原家は譜代大名であり、藩主の養子である小笠原長行は世子ながら幕府の老中を務めます。第二次長州征伐では小倉口の総指揮官として参戦し、高杉晋作に手ひどく打ち破られています。長行は幕府崩壊後も抗戦し、函館までゆき、五稜郭陥落後は地下にもぐり、明治5年に自首して赦免されています。明治政府としては最も嫌いな関係に唐津藩はありました。金吾はそういう藩の下級武士の家に生まれています。唐津にもできた洋学校で、高橋是清から英語の手ほどきを1年間受けます。高橋を頼って、先輩の曾禰達蔵とともに上京します。高橋のつてで耐恒学舎の英語教師を務め(かなりいんちきっぽい教師ですが)、傍らに英人事務所のボ-イをして糊口をしのぎます。
工部省が工学寮を作り、生徒を募集しているとの情報知り、応募します。高橋の情報網によります。授業料は無料、小遣いまで出ます。ただし卒業後7年間は教職か公務員として働く義務があります。曾禰と金吾は合格します。金吾は30人中の最下位でした。工学寮は後に工部大学校、さらに東京大学工学部になります。金吾は最下位入学なので、常に勉強します。勉強しなければ、基礎学力も英語力も弱いのでついてゆけません。工学寮の学科は、土木学、機械学、電信学、造家(建築)学、化学、鉱山学、冶金学の七学科です。曾禰も金吾も土木科や機械科を望みましたが、競争がはげしくて、やむなく造家学つまり今日の建築学を専攻することになります。金吾は勉強し続けます。最下位入学という負目を背負い、学力不足である事を知っている、金吾は猛勉強をします。彼は努力主義の人でした。
最初の教師には恵まれませんでしたが、代ったジョサイア・コンドルから、金吾は大きな影響を受けます。コンドルは、建築学を勉強するものには技術の知識だけでなく、芸術の素養が必要と説きます。コンドル自身、当時の欧州で流行していたジャポニスムの影響を受けて、日本の美術や建築に興味を持ち、狩野派の河鍋暁斎に絵を学び、暁英という名までもらっています。コンドルは任期が切れた後も、日本に留まり、建築設計事務所を経営します。コンドルが課した建築学の学習内容は、設計製図、意匠、構造力学、設備、衛生、材料、施工、積算、建築史でした。
努力の甲斐あって、金吾は建築(造家)学科5人中のトップで卒業し、特権として3年間の英国留学に出かけます。同行者には化学科の高峰譲吉がいます。英国についた金吾はロンドン大学のR・スミス教授を訪ねます。スミスはジョサイアの恩師でありまた従兄でした。ロンドン大学での授業はなかなか解らなかったようです。問題は英語力でしょう。日本でも教授陣はすべて英語で講義しますが、そこは手加減してわかり易くゆっくりと話してくれます。英国本土ではそうはゆきません。ただこの大学で出された試験の問題は金吾に大きな印象を与えます。次のような問題です。「建築において国民的な様式を形成するにあずかる影響力のいくつかを指摘せよ」です。金吾は大学で勉強するかたわら、W・バ-ジェスの建築設計事務所で働きます。むしろこちらの方が勉強になったようです。バ-ジェスは、建築はその国の歴史を反映するその国固有の文化だと、金吾に教えます。ここで金吾は自分の使命を自覚します。日本という国が近代国家を確立する歴史事象を表現し顕示する建築物を造る事がおのれの使命であると、自覚します。金吾の留学中にバ-ジェスは死去します。バ-ジェスはよほどこの日本の青年が気に入ったのか、50ポンドを彼に遺贈しています。1882年(明治15年)ロンドン大学卒業、帰路フランスで1年遊学し、明治16年帰国します。
工部省営繕課に勤務します。渋沢栄一の依頼で、銀行集会所の設計をしています。この時渋沢が金吾に示した、将来の東京都市建造計画をしり、建築の歴史的意義をさらに深く自覚します。明治17年コンドルの任期が切れると同時に、工部大学校教授に就任しています。日本人で始めての建築学の教授です。しばらくして大倉喜八郎にそそのかされたのか、急に大学教授を辞めて、大倉土木用達組に就職します。そこも2週間で辞め、町の一角で事務所を構えます。周囲の尽力で明治19年大学に復職(?)します。この辺の経緯には解らないところがあります。大学で建築設計の仕事が閑だったのかもしれません。いずれにせよ金吾の性格は、興奮しやすく、感情の起伏が激しく、即行動で、人の好き嫌いが激しいのです。だから彼の人生にはかなり飛躍した行動があります。この間友人の曾禰達蔵とともに、造家学会(建築学会)を立ち上げます。
鹿鳴館時代の演出で有名な井上馨が、東京市を諸外国の首都に負けない立派なものにするために、臨時建築局を創設し、自ら総裁におさまります。井上は鹿鳴館外交が不人気で外相をさります。臨時建築局の総裁は山尾庸三になり、山尾は金吾を工事部長に任命します。建築の実際を取り仕切る役職です。しかし部長の配下の中堅技術者達の、彼らは旧幕府の作事方出身が多いのですが、諸々の抵抗にあい、怒って3ヶ月でここを辞職します。
渋沢栄一と山尾庸三の支援で、日本銀行本店の設計を委任されます。日銀は松方デフレ政策が一段落した、明治22年に設立されています。同年金吾は設立計画書を提出します。それ以前に欧州をまわり、H・ベイヤ-ル設計になるベルギ-中央銀行を見て、これをモデルとします。23年起工、29年完成、日本が金本位制になる2年前でした。時に金吾は36歳です。日銀本店はまるでお城のようだと、言われました。日清戦争を前にして、明治国家確立のための国防意識を反映しているともいえましょう。この国防意識は欧州の小国ベルギ-の建築家ベイヤ-ルが金吾に説いたところのものです。私の意見を付加すれば、日銀の創設は通過流通量の管理にあります。日銀は通貨の万人ですから、そういう役割も建築に反映されたのでしょうか?いずれにせよ、銀行は堅いイメ-ジの方がいいでしょう。
日銀本店建設中に若干の逸話があります。建築所事務主任という肩書きで高橋是清が配属されてきました。建築所の責任者は金吾ですから、かっての先生は今では下僚です。高橋の前半生は、はちゃめちゃです。アメリカに渡り軽率な署名をしたために、奴隷生活を3年送ります。帰国して大学南校(東大の前身)の教師をしている時に、芸者と駆け落ち、借金取りの目をくらませるために変名し、唐津までゆきます。さらにペル-鉱山の話で騙され、無一文になった上に山師の汚名を浴びます。西郷従道や松方正義のひきで、川田総裁は高橋を日銀の臨時職員に採用し、前記のように金吾の下で働くようになりました。高橋は有能ですから、金吾が知らない世界の案件をてきぱきと片付けてくれます。大いに役に立ちました。最も日清戦争が勃発したら、すぐ正職員になり日銀西部支店長になり、活躍します。以後の高橋の行動は水を得た魚で、日露戦争時、ロンドンで日本の国債引き受けに活躍し、日銀総裁から、蔵相さらに首相となります。彼の最後はご存知の通りです。私はこの85歳の老政治家を惨殺した青年将校なるものの心情が解りません。昭和天皇が激怒されたと、伝えられますが、全く同感です。
金吾は感激屋です。バンザイが大好きでした。日新日露の戦争は彼を興奮させます。日本海海戦で日本海軍がロシアのバルチック艦隊を撃滅した時は興奮して、家人も困ったそうです。
1902年(明治35年)に東京帝大教授を辞任します。建築学会の一方の雄である、妻木頼黄と不仲で、口論に際し激情に駆られる形で辞職します。むしろこれを機に、民間の設計事務所一本で、食ってゆこう、それが建築家の本来のあり方だ、その道を実践しようと決意したようです。当時の日本には、金吾の師匠コンドル、同窓の曾禰、教え子である横河民助、そして新たに辰野事務所の四つしかなかったようです。金吾は大阪と東京に事務所を構えます。金吾の設計の8割は以後、つまり設計事務一本になってからの作品です。どういうわけか大阪の方の発注が圧倒的に多かったようです。
1908年(明治41年)に起工された中央駅の設計を依頼されます。当時の東海道本線は新橋どまりで、東京市内の中枢には引かれていませんでした。皇居の側を汽車が通過するのは畏れ多いとか、いろいろな事情があったようです。線路を現在の丸の内に引き込み、より便利にしなければなりません。そして都市の顔である中央駅は立派なものでなければなりません。計画はドイツ人F・バルツア-に委任されすでに設計図はできていました。ロシアと昵懇なドイツを政府は嫌い、計画はドイツ人技師の手から取り上げられ、日本人の設計に任されることになりました。金吾は、平面図はバルツア-の原案を取り、立面図に彼自身の創意工夫をこらしました。アムステルダム中央駅をモデルにします。バルツア-から金吾への推移は、駅の設計は土木技師がするのか、建築家が行うかの問題、そして建築は単なる技術か、それとも芸術の側面をももつのか、という問題を抱えます。建設の途中鉄道院総裁が後藤新平になり、予算が42万円から、287万円、ざっと7倍になります。これで二階建ての駅舎建築が可能になりました。後藤は、中央駅は日露戦争に勝ち、近代化の道を歩む日本という国家の威信を表現できる堂々たるものにせよと、発破をかけます。
建築物をレンガ製にするか、新たに開発されたコンクリ-ト製にするかで、金吾は高弟である松井清足と対立し、松井は辰野事務所をやめます。この事件は究極的には、建築は技術か芸術かという問題に帰着します。工事は6年半係り、1914年(大正3年)に完成します。東京駅と命名されます。あたかも第一次世界大戦勃発の年です。日本はドイツ領である山東半島を攻め、ドイツ軍を降します。勝って当たり前の戦闘なのですが、ドイツに勝った、清・ロシアについでドイツに勝ったとして、神尾光臣中将の凱旋記念と、東京駅完成の式典が併せて行われました。なお松井は金吾の死後、再び辰野事務所に帰り、事務所の経営を立て直しています。
新たにできた東京駅の風評は、こと建築学会からに限れば、不評でした。特に若手建築家からの評判は悪かった。金吾は建築学会のボス・法王といわれる存在でしたが、彼を堂々と批判する論文も載ります。古い、不便だなどです。古いは、コンクリ-トを使わず赤レンガで建物を作ったからです。金吾はこのような批判にも関わらず、自らは自らが設計してできた東京駅舎に深い満足を覚えます。赤レンガは金吾達の世代が欧米の文明にキャッチアップしようとした時の、西洋文明の象徴であり、だから金吾達の憧れである以上に、彼らが近代化という坂を上る日本人の精神の表現でした。赤レンガはこの世代、つまり食うか食われるか、優勝劣敗の厳しい時代を生きる世代の精神の、従って近代化という日本人にとって避けられない課題を果そうとする精神の表現であり象徴でした。金吾にとって赤レンガの建造物は歴史であり文化でした。
金吾は国会議事堂の設計にも意欲を示します。もっともそうではないという意見もあります。彼は設計競争(competion)を提案します。しかし第一次選考の一ヵ月後にはこの世にいません。肺炎が悪化して、1919年(大正8年)に死亡しています。死の床で金吾は思い切りバンザイを叫んで、眠るように死去しました。享年は65歳でした。金吾の行動には奇矯なところもあります。相撲が大好きで、家のふすまをばりばりに破って放置しておくのみならず、息子二人を出羽海部屋に預けたとかいう話もあります。ちなみに長男の隆は東大法学部を出ますが、文学部に再入学し、フランス文学の研究に打ち込み、日本で始めてのフランス文学講座(東大)を開設します。彼が仏文に転向するに際して親子間で対立があり、金吾は長男のこの決定に長く反対します。次男の保は東大法学部を出て、弁護士になっています。日本体育協会理事も務めました。二人とも幸か不幸か、父親の希望に背いて(?)関取にはなりませんでした。
 
参考文献  東京駅の建築家、辰野金吾  講談社