高橋是清
近代日本、特に戦前において特筆されるべき財政家といえば、松方正義と高橋是清です。二人の処方は対照的です。前者はデフレ・引き締め財政、後者はインフレ・積極財政が特徴です。
高橋是清は1859年(安政元年)に幕府御用絵師川村庄右衛門の非嫡出子として生まれました。名は和喜次、実父には認知されています。仙台藩足軽高橋家に里子として預けられ、養祖母喜代子にかわいがられ、高橋家の養子になります。私生児、里子、養子と形式的には異常な幼少期でしたが、祖母の愛情にくるまれて幸せな時代を送ります。しかし内心はどうだったのでしょうか、彼の人生の軌跡を見ていますと、39歳日銀に拾われるまでは仕事を転々としています。才能に任せて食い散らしている感もあります。この傾向は彼の財政のあり方に影響していると思ってもいいでしょう。
横浜で外人に英語を習い、14歳仙台藩留学生として渡米します。目的は英語習得です。オ-クランドのヴァンリ-ドという人物の家に寄留します。この人物に騙され、是清は3年間拘束される奴隷(年季奉公人?)に売られます。先輩の援助で解放されます。米国で幕府瓦解を知ります。仙台藩は賊軍ですので、公然とは帰国できません。密かに東京に帰り、米国で知り合った森有礼の紹介で大学南校(後の東大)の教官3等手伝になります。今で言えば、講師か助手でしょうか?
高橋という人の特徴は、頼まれれば嫌とはいえない事、従って騙されやすい事です。南校時代、300円ほど融通してくれと頼まれ、躊躇なく引き受けます。騙されました。こうして彼はかなりひどい放蕩生活にはまり込みます。この間米人フルベッキ博士から聖書の講義を受けています。放蕩と敬虔、高橋と言う人は複雑な性格の人です。
34歳、森有礼のひきで東京英語学校(後の第一高等学校)の教師になります。先輩の非行を糾弾して辞職します。浪人時代は英語の翻訳で食べていたようです。その間銀相場に手を出し失敗します。友人達の世話で文部省、農商務省と渡り歩き、やがて初代の特許局長に任命されます。仕事は良くできました。しばらくして先輩にペル-の銀鉱採掘を勧められわざわざアンデス山中に入ります。鉱山は廃坑でした。一杯食わされたわけです。山師(ペテン師)の風評が立ちます。
39歳日銀総裁川田小一郎の世話で日銀の建築主任になります。年俸1200円。やがて西部(福岡)支店長になり、46歳日銀副総裁になります。松方正義の推薦です。日銀人事でごたごたがあり、7人の幹部職員が辞めた後釜でもあります。是清の人生の方向が定まりました。
ここまでの高橋是清の人生を見て、ある事に気づかされます。確かに彼は仕事はできたのでしょう。しかしかなりの大失敗をしながら(財政家としては致命的でさえある銀鉱山や銀相場)、そう苦労する事なく立ち直っています。必要な職は与えられています。すべて友人や先輩の斡旋です。最初が森有礼です。森は薩摩出身で賊軍の仙台藩士と面識はありません。高橋と森は米国で知り合いました。当時の留学生は超エリ-トです。そして雲煙万里の彼方の外国暮らし。明治初年度の日本には外国に通じた専門家は多くはいません。同志同朋意識はすぐ育ちます。この人間関係はどんどん増殖されます。加えて恬淡、無欲、無邪気な高橋は(津島寿一評)誰からもかわいがられたのでしょう。
1904年日露戦争が始まります。是清51歳の男盛りです。外債公募のためにロンドンに行きます。なかなか国債がさばけません。国債500万ポンドを年6分利で、関税収入が担保と言うきつい条件で売りさばきます。この時美談があります。ニュ-ヨ-クにヤコブ・シフというユダヤ人がいました。彼が外債を500万ポンドほど買ってくれました。当時猛烈に残酷だった、ロシア政府によるユダヤ人迫害故です。ヤコブ・シフは同朋の敵ロシアと戦う、日本を応援してくれたのです。日露戦争の戦費は総計で17億円超、うち外債は8億円超です。ロンドンで公債がさばけなければ日本海海戦はありえなかったでしょう。この功績で高橋は貴族院議員になりやがて子爵に叙せられます。
58歳日銀総裁、60歳山本権兵衛内閣蔵相、65歳原内閣蔵相、になります。そして原敬暗殺の後を受けて、首相兼蔵相になります。もっともこの頃の高橋の事跡はそうぱっとするようなものでもありません。首相としては失敗の方でしょう。
この間日本の経済は大きく変動します。日露戦争後は不況が続きます。神風が吹きます。第一次世界大戦です。日本の製品は質を問われることなく、いくらでも売れました。大戦前には11億円の債務国が大戦後には27億の債権国になっていました。やがて反動恐慌がきます。大戦中雨の竹の子のようにできた企業はどんどんつぶれます。そして1925年東京大震災。首都圏の資本のあらかたは廃墟になります。大戦後の日本経済は、第二次産業革命(重化学工業)達成のための資本をどう捻出するかという問題と、それに伴う国債発行による赤字財政をどう立て直すのかという二つの問題が中心でした。日本の経済は大戦期を除いて日露戦争から満州事変のころまでズ-と赤字でした。大戦で稼いだ外貨を食いつぶしているようなものでした。産業が勃興する時には避けられない苦難の時期です。この間の経済の動揺を象徴するような事件が二つあります。震災手形法案と金解禁です。
関東大震災により多くの企業が発行した手形の決済は不可能になりました。このままでは企業は倒産します。この事態を防ぐために震災で異常な被害を蒙った企業の手形は、最終的に日銀が割り引く事になりました。つまり日銀により当分の間この種の手形は信用を供与されたわけです。震災手形の総額は約4億3000万円です。この手形に関してはいろいろ悪い噂も流れました。当然の事ですが、そう大した被害でもないのに、震災手形を申請する輩も出てきます。高橋亀吉氏などは財政赤字と不況の第一の原因はこの手形にあると言っています。
こういう事情を背景として1927年若槻内閣の時、震災二法案が提出されます。法案の趣旨は、震災手形を所有する者への救済措置です。ここで議会がもめます。救済の目的は特定の企業、具体的には台湾銀行と鈴木商店の救済にあるのではないかと、反対論が噴出します。台銀は、大戦後の経営に苦しむ鈴木商店に融資し、不良債務を抱え込んでいました。震災手形二法案の実質的救済対象は台湾銀行(と鈴木商店)でした。こういう事態が明らかになるにつれて銀行への信用が揺らぎ、取り付け騒ぎが頻発します。若槻内閣は倒れます。
代って田中義一内閣ができます。高橋は蔵相就任を懇願されます。高橋是清がこの時打った策は、モラトリアム(銀行の支払猶予)、銀行の休業(数日間)、そして日銀特別融通損失補償法案です。この法案は、困った銀行には日銀が、総計5億円までの資金内で、融資する事を意味します。同時に緊急の事態に備えて、200円札が印刷され準備されました。印刷が間に合わなかったので裏は真っ白、通称裏白と言われる紙幣です。こうしてパニックは収まりました。
このやり方は高橋財政の特徴を如実に示しています。まずすばやい行動です。彼は危機介入(crisis intervention)に強いのです。次に積極財政、つまり通貨流通量の大胆な拡大です。ともかくパニックは収まり、高橋はその顛末を見届けて辞職します。42日間の蔵相就任でした。人気はグンと上がります。時に彼74歳です。
ところで日本は第一次大戦中、ロシアと中国に戦費を貸し付けていました。その総額はほぼ4億円になります。震災手形とほぼ同額です。今更言いませんが、貸し金を返してもらっていたら、事情は違ったかも知れません。ちなみに英仏の両国は日本からの借金をきれいに返済しています。
金解禁そのものに関しては既に井上順一郎の項で述べました。結果だけ言いますと、物価は下がり、デフレになり、企業は倒産して、散々でした。浜口内閣は倒れ、犬養内閣ができます。またまた高橋は蔵相就任を懇請され、引き受けます。高橋が取った措置は、まず金輸出再禁止(金本位制廃止)です。これで円はドルに対して50%以上減価します。インフレにはなりますが、輸出は伸びます。ついで低金利です。企業への融資を容易にするためです。そして目玉政策が、国債の日銀引き受けです。国が国債を発行する。それを日銀が引き受ける。資金は紙幣増刷です。日銀の保証発行限度額は1・2億円から一挙に10億円に拡大されます。この金が政府の施策や事業を通じて民間に流れます。極めて短期間なら貨幣量増大にもかかわらずインフレは起きないという読みでした。インフレになる前に国債を消化して民間の通貨を減らそうというわけです。もちろん目論見どおりには行きません。物価は上がります。国債の価値は下がります。どうしてもさらに通貨を増やすためには云々の悪循環に陥ります。インフレは亢進します。そして時局救済事業という諸種の政府の事業があります。それは福祉政策であり公共事業でもありました。しかし最大の事業はやはり戦争でした。
高橋の政策はあたります。列強中最も早く不況を抜け出したのは、日本でした。高橋は日本に対する列強の嫉妬を感じ、それを後進に言い残しています。国債の日銀引き受けはインフレを亢進させます。高橋はそれに対して引き締め政策を考えていましたが、軍事費を要求する軍部の圧力が強く、押し問答しているうちに、1936年2月26日、青年将校の率いる反乱軍に殺害されます。享年83歳、高橋是清は波乱に富んだ人生を終えます。
高橋財政はインフレを必然とします。いくら巧妙な図を描いてもインフレは避けられません。そして当時の日本にはこの種のインフレは必要でした。もっとも恩恵を蒙ったのが重化学工業です。以後鮎川義介を筆頭にして新興財閥が興隆します。旧財閥もこの流れに乗ります。重化学工業の最大のお得意先は軍隊です。戦車に火砲に軍艦などは鉄の塊です。軍備も需要です。それは民間に還元されないと言われますが、そうでもありません。利潤の回収が遅いのとリスクが高いだけです。第二次大戦で完敗し廃墟になった日本が立ち直り、世界の奇跡と言われる高度成長を為しえた背後には、戦前における重化学工業の成長育成があります。
高橋財政のような積極的経済政策は決して一国内では完結できません。仮に豊富な資源が国内にあってもです。積極的財政とは、新しい産業、それもleading industoryを育てる政策です。国内だけでそれをやろうとすれば、産業界から一部の資本を回収しなければなりません。貨幣不足になり、デフレになります。苦労して新しい産業を作っても、できた製品の価格は低くなり、資本を回収できません。どうしても海外の市場が必要です。こうして日本は満州に進出します。この時ネックになったのが、資本と技術でした。結果から言えばハリマンの要望を入れて、満州をアメリカと共同で開発すればよかったのです。そうすれば外資を導入できるし、技術援助もあります。なによりも米国と対立しなくていい。これが日米中三国にとって一番いい方策であったのでしょう。
よく高橋是清とケインズの考え方の相同性が言われます。大きく言えば同質の政策です。高橋財政とドイツのシャハト財政をケインズは注意深く見ていたはずです。高橋とケインズの差を少し違う点から、比較して見ましょう。まず二人ともばくちが好きなようです。この点ではケインズの方が上です。ケインズは優れたギャンブラ-ですが、高橋には下手なばくち打ちの印象があります。しかし高橋は蔵相を4度、首相を1度務め、実際の国政に関与できました。ケインズは英国政府からある意味で重用されましたが、肝心の彼の経済政策を実施する機会は与えられませんでした。ケインズの人生の方が悲劇的であったとも言えます。
(「高橋是清---中央公論」及び「日本証券史」「昭和経済史」参照 後二者は日経文庫)
近代日本、特に戦前において特筆されるべき財政家といえば、松方正義と高橋是清です。二人の処方は対照的です。前者はデフレ・引き締め財政、後者はインフレ・積極財政が特徴です。
高橋是清は1859年(安政元年)に幕府御用絵師川村庄右衛門の非嫡出子として生まれました。名は和喜次、実父には認知されています。仙台藩足軽高橋家に里子として預けられ、養祖母喜代子にかわいがられ、高橋家の養子になります。私生児、里子、養子と形式的には異常な幼少期でしたが、祖母の愛情にくるまれて幸せな時代を送ります。しかし内心はどうだったのでしょうか、彼の人生の軌跡を見ていますと、39歳日銀に拾われるまでは仕事を転々としています。才能に任せて食い散らしている感もあります。この傾向は彼の財政のあり方に影響していると思ってもいいでしょう。
横浜で外人に英語を習い、14歳仙台藩留学生として渡米します。目的は英語習得です。オ-クランドのヴァンリ-ドという人物の家に寄留します。この人物に騙され、是清は3年間拘束される奴隷(年季奉公人?)に売られます。先輩の援助で解放されます。米国で幕府瓦解を知ります。仙台藩は賊軍ですので、公然とは帰国できません。密かに東京に帰り、米国で知り合った森有礼の紹介で大学南校(後の東大)の教官3等手伝になります。今で言えば、講師か助手でしょうか?
高橋という人の特徴は、頼まれれば嫌とはいえない事、従って騙されやすい事です。南校時代、300円ほど融通してくれと頼まれ、躊躇なく引き受けます。騙されました。こうして彼はかなりひどい放蕩生活にはまり込みます。この間米人フルベッキ博士から聖書の講義を受けています。放蕩と敬虔、高橋と言う人は複雑な性格の人です。
34歳、森有礼のひきで東京英語学校(後の第一高等学校)の教師になります。先輩の非行を糾弾して辞職します。浪人時代は英語の翻訳で食べていたようです。その間銀相場に手を出し失敗します。友人達の世話で文部省、農商務省と渡り歩き、やがて初代の特許局長に任命されます。仕事は良くできました。しばらくして先輩にペル-の銀鉱採掘を勧められわざわざアンデス山中に入ります。鉱山は廃坑でした。一杯食わされたわけです。山師(ペテン師)の風評が立ちます。
39歳日銀総裁川田小一郎の世話で日銀の建築主任になります。年俸1200円。やがて西部(福岡)支店長になり、46歳日銀副総裁になります。松方正義の推薦です。日銀人事でごたごたがあり、7人の幹部職員が辞めた後釜でもあります。是清の人生の方向が定まりました。
ここまでの高橋是清の人生を見て、ある事に気づかされます。確かに彼は仕事はできたのでしょう。しかしかなりの大失敗をしながら(財政家としては致命的でさえある銀鉱山や銀相場)、そう苦労する事なく立ち直っています。必要な職は与えられています。すべて友人や先輩の斡旋です。最初が森有礼です。森は薩摩出身で賊軍の仙台藩士と面識はありません。高橋と森は米国で知り合いました。当時の留学生は超エリ-トです。そして雲煙万里の彼方の外国暮らし。明治初年度の日本には外国に通じた専門家は多くはいません。同志同朋意識はすぐ育ちます。この人間関係はどんどん増殖されます。加えて恬淡、無欲、無邪気な高橋は(津島寿一評)誰からもかわいがられたのでしょう。
1904年日露戦争が始まります。是清51歳の男盛りです。外債公募のためにロンドンに行きます。なかなか国債がさばけません。国債500万ポンドを年6分利で、関税収入が担保と言うきつい条件で売りさばきます。この時美談があります。ニュ-ヨ-クにヤコブ・シフというユダヤ人がいました。彼が外債を500万ポンドほど買ってくれました。当時猛烈に残酷だった、ロシア政府によるユダヤ人迫害故です。ヤコブ・シフは同朋の敵ロシアと戦う、日本を応援してくれたのです。日露戦争の戦費は総計で17億円超、うち外債は8億円超です。ロンドンで公債がさばけなければ日本海海戦はありえなかったでしょう。この功績で高橋は貴族院議員になりやがて子爵に叙せられます。
58歳日銀総裁、60歳山本権兵衛内閣蔵相、65歳原内閣蔵相、になります。そして原敬暗殺の後を受けて、首相兼蔵相になります。もっともこの頃の高橋の事跡はそうぱっとするようなものでもありません。首相としては失敗の方でしょう。
この間日本の経済は大きく変動します。日露戦争後は不況が続きます。神風が吹きます。第一次世界大戦です。日本の製品は質を問われることなく、いくらでも売れました。大戦前には11億円の債務国が大戦後には27億の債権国になっていました。やがて反動恐慌がきます。大戦中雨の竹の子のようにできた企業はどんどんつぶれます。そして1925年東京大震災。首都圏の資本のあらかたは廃墟になります。大戦後の日本経済は、第二次産業革命(重化学工業)達成のための資本をどう捻出するかという問題と、それに伴う国債発行による赤字財政をどう立て直すのかという二つの問題が中心でした。日本の経済は大戦期を除いて日露戦争から満州事変のころまでズ-と赤字でした。大戦で稼いだ外貨を食いつぶしているようなものでした。産業が勃興する時には避けられない苦難の時期です。この間の経済の動揺を象徴するような事件が二つあります。震災手形法案と金解禁です。
関東大震災により多くの企業が発行した手形の決済は不可能になりました。このままでは企業は倒産します。この事態を防ぐために震災で異常な被害を蒙った企業の手形は、最終的に日銀が割り引く事になりました。つまり日銀により当分の間この種の手形は信用を供与されたわけです。震災手形の総額は約4億3000万円です。この手形に関してはいろいろ悪い噂も流れました。当然の事ですが、そう大した被害でもないのに、震災手形を申請する輩も出てきます。高橋亀吉氏などは財政赤字と不況の第一の原因はこの手形にあると言っています。
こういう事情を背景として1927年若槻内閣の時、震災二法案が提出されます。法案の趣旨は、震災手形を所有する者への救済措置です。ここで議会がもめます。救済の目的は特定の企業、具体的には台湾銀行と鈴木商店の救済にあるのではないかと、反対論が噴出します。台銀は、大戦後の経営に苦しむ鈴木商店に融資し、不良債務を抱え込んでいました。震災手形二法案の実質的救済対象は台湾銀行(と鈴木商店)でした。こういう事態が明らかになるにつれて銀行への信用が揺らぎ、取り付け騒ぎが頻発します。若槻内閣は倒れます。
代って田中義一内閣ができます。高橋は蔵相就任を懇願されます。高橋是清がこの時打った策は、モラトリアム(銀行の支払猶予)、銀行の休業(数日間)、そして日銀特別融通損失補償法案です。この法案は、困った銀行には日銀が、総計5億円までの資金内で、融資する事を意味します。同時に緊急の事態に備えて、200円札が印刷され準備されました。印刷が間に合わなかったので裏は真っ白、通称裏白と言われる紙幣です。こうしてパニックは収まりました。
このやり方は高橋財政の特徴を如実に示しています。まずすばやい行動です。彼は危機介入(crisis intervention)に強いのです。次に積極財政、つまり通貨流通量の大胆な拡大です。ともかくパニックは収まり、高橋はその顛末を見届けて辞職します。42日間の蔵相就任でした。人気はグンと上がります。時に彼74歳です。
ところで日本は第一次大戦中、ロシアと中国に戦費を貸し付けていました。その総額はほぼ4億円になります。震災手形とほぼ同額です。今更言いませんが、貸し金を返してもらっていたら、事情は違ったかも知れません。ちなみに英仏の両国は日本からの借金をきれいに返済しています。
金解禁そのものに関しては既に井上順一郎の項で述べました。結果だけ言いますと、物価は下がり、デフレになり、企業は倒産して、散々でした。浜口内閣は倒れ、犬養内閣ができます。またまた高橋は蔵相就任を懇請され、引き受けます。高橋が取った措置は、まず金輸出再禁止(金本位制廃止)です。これで円はドルに対して50%以上減価します。インフレにはなりますが、輸出は伸びます。ついで低金利です。企業への融資を容易にするためです。そして目玉政策が、国債の日銀引き受けです。国が国債を発行する。それを日銀が引き受ける。資金は紙幣増刷です。日銀の保証発行限度額は1・2億円から一挙に10億円に拡大されます。この金が政府の施策や事業を通じて民間に流れます。極めて短期間なら貨幣量増大にもかかわらずインフレは起きないという読みでした。インフレになる前に国債を消化して民間の通貨を減らそうというわけです。もちろん目論見どおりには行きません。物価は上がります。国債の価値は下がります。どうしてもさらに通貨を増やすためには云々の悪循環に陥ります。インフレは亢進します。そして時局救済事業という諸種の政府の事業があります。それは福祉政策であり公共事業でもありました。しかし最大の事業はやはり戦争でした。
高橋の政策はあたります。列強中最も早く不況を抜け出したのは、日本でした。高橋は日本に対する列強の嫉妬を感じ、それを後進に言い残しています。国債の日銀引き受けはインフレを亢進させます。高橋はそれに対して引き締め政策を考えていましたが、軍事費を要求する軍部の圧力が強く、押し問答しているうちに、1936年2月26日、青年将校の率いる反乱軍に殺害されます。享年83歳、高橋是清は波乱に富んだ人生を終えます。
高橋財政はインフレを必然とします。いくら巧妙な図を描いてもインフレは避けられません。そして当時の日本にはこの種のインフレは必要でした。もっとも恩恵を蒙ったのが重化学工業です。以後鮎川義介を筆頭にして新興財閥が興隆します。旧財閥もこの流れに乗ります。重化学工業の最大のお得意先は軍隊です。戦車に火砲に軍艦などは鉄の塊です。軍備も需要です。それは民間に還元されないと言われますが、そうでもありません。利潤の回収が遅いのとリスクが高いだけです。第二次大戦で完敗し廃墟になった日本が立ち直り、世界の奇跡と言われる高度成長を為しえた背後には、戦前における重化学工業の成長育成があります。
高橋財政のような積極的経済政策は決して一国内では完結できません。仮に豊富な資源が国内にあってもです。積極的財政とは、新しい産業、それもleading industoryを育てる政策です。国内だけでそれをやろうとすれば、産業界から一部の資本を回収しなければなりません。貨幣不足になり、デフレになります。苦労して新しい産業を作っても、できた製品の価格は低くなり、資本を回収できません。どうしても海外の市場が必要です。こうして日本は満州に進出します。この時ネックになったのが、資本と技術でした。結果から言えばハリマンの要望を入れて、満州をアメリカと共同で開発すればよかったのです。そうすれば外資を導入できるし、技術援助もあります。なによりも米国と対立しなくていい。これが日米中三国にとって一番いい方策であったのでしょう。
よく高橋是清とケインズの考え方の相同性が言われます。大きく言えば同質の政策です。高橋財政とドイツのシャハト財政をケインズは注意深く見ていたはずです。高橋とケインズの差を少し違う点から、比較して見ましょう。まず二人ともばくちが好きなようです。この点ではケインズの方が上です。ケインズは優れたギャンブラ-ですが、高橋には下手なばくち打ちの印象があります。しかし高橋は蔵相を4度、首相を1度務め、実際の国政に関与できました。ケインズは英国政府からある意味で重用されましたが、肝心の彼の経済政策を実施する機会は与えられませんでした。ケインズの人生の方が悲劇的であったとも言えます。
(「高橋是清---中央公論」及び「日本証券史」「昭和経済史」参照 後二者は日経文庫)