IR(公営カジノ)を支持する
IR(integrated resort)は必ずしもカジノそのものを意味するわけではないが、現在日本で論議されている内容のそのほとんどがカジノ(賭博場)なので、IR即カジノとして論議を進める。
私が公営カジノを支持する最大の理由は経済状況において流動性選好を小さくすることにある。易しく言えば預金貯蓄を減らして資本を市場に放出することに公営カジノは役に立つと思うからである。現在日本の経済は貯蓄過剰、投資(従って消費)寡少の状態にある。銀行利子はほぼ0%になっているが消費も投資も伸びない。企業は投資を控え、家計は消費を控えている。アベノミクスの成果にもかかわらず不況感がいまひとつぬぐえないのはそのせいである。強引に貯蓄を吐き出させてみよう。その手段が博奕賭博の認可ないし奨励である。
賭博には必ず仲介料いわゆるショバダイがある。仮に私が賭博で10万円負けた(あるいわ勝った)としよう。その10%程度はショバダイになる。公営なら主宰機関すなわち国家あるいわ地方公共団体の手にその金額が入る。ここで実際の経営機構つまり賭博業者の収益は無視する。国家・地方自治体はその手数料による収益を使えばいい。賭博の規模が大きければ大きいほど国家地方自治体の消費は増える。国家地方自治体はこうして得た金を使えばいい。
賭博は勝ち負けゼロである。なら現金が人から人へ移転するだけで肝心の流動性は小さくならないではないかとも反論されよう。私はそうは思わない。悪銭身につかずという言葉がある通り、賭博で得た金の消費性向は非常に大きい。賭博で勝てば必ず気が大きくなる。こせこせ貯めるために博奕はしない。勝てば飲んで食って豪華な買い物をする。明らかに消費性向は増える。
賭博が盛大になると世間全体の気分も盛り上がる。賭博は一種の祝祭である。経済が繁栄するためにはお祭り気分にならなければならない。賭博の盛行は同種の行為である投資投機を促進する。賭博ギャンブルは人間の本能である。享楽を求める人間の本能である。この本能を刺激する事は経済を活性化させる。また賭博は人間の攻撃性暴力の代償行為でもある。賭博を一定程度容認することによって人間が人間に対して直接行う攻撃性は減退する。真面目に縮こまって、貯金通帳に眼を通してばかりしておれば気分は消極的そして抑うつ的に成る。ともかく人間の本能を解放し金を使わせる事が好況感つまり好況を呼ぶ最大の手段である。
IRを実施すれば当然の事だがそのためのインフラが要る。宿泊施設、交通機関、飲食産業などなどだ。投資は増える。雇用も増える。
世間で騒がれている賭博依存症のことだが、そう心配することはない。アルコ-ル依存症と同じで依存症になる人はなるし、ならない人はならない。人工の一定程度が依存症になるだけだ。多くの人は節度をわきまえている。IRが在ろうと無かろうと、社会には厳然として賭博組織はある。知る人ぞ知るである。むしろ非公然化されて地下に潜った賭博組織の方が危険だ。賭博行為を非犯罪化して公然とさせる方がむしろ治安維持にはいいのではないのか。
どこにカジノを作るかという問題がある。私はカジノはラスベガスのように過疎の地に作るのが良いと思う。地方振興の一環としても捉えられる。沖縄、大分、高知、松江、秋田、福島、釧路などの地が挙げられる。ただし地方だとインフラ費用と収益のバランスが崩れて採算が合わない可能性があるからこの点は注意しよう。その点を除けばカジノはどこに作ろうと客は来る。賭博とはギャンブルとはそういう魔力を秘めたものである。
カジノの主催管理は、公営とするとして、完全に自治体に任せてはいけない。利益はなるべく自治体に廻すとしても、最終的権限は国が握るべきである。地方議員の質はそう高くはない。そして、京都府立医大の例に見られるように地方自治体の職員は容易に地方のボス、時としてやくざの影響を受けることが多い。仕事が仕事、金が金だけにどうなるか解ったものではない。
カジノでは喫煙は自由とする。気に入らない奴は来なければいい。私は従来から禁煙には反対である。喫煙も享楽のうち楽しめばいい。どこかのフェミニストが言い出したのだろうが喫煙はダメ、加えて何かといえばセクハラパワハラ云々では人生は楽しめない。現在若者特に男性が結婚に消極的なのはそのせいかもしれない。酔ってちょっと女の尻を触ったくらいで豚箱にぶちこまれてたまるか。私は売春も非犯罪化すべきだと考えている。この事に関しての論は長くなるので、ここでは結論のみ述べておく。
日本人は世界でも珍しい純粋農業民族である。牧畜遊牧の経験はない。農業と比べて牧畜遊牧には賭博性が強い。換言すれば我々日本人は投機を避ける傾向にある。そろそろ脱皮してはどうだろうか。
IR(integrated resort)は必ずしもカジノそのものを意味するわけではないが、現在日本で論議されている内容のそのほとんどがカジノ(賭博場)なので、IR即カジノとして論議を進める。
私が公営カジノを支持する最大の理由は経済状況において流動性選好を小さくすることにある。易しく言えば預金貯蓄を減らして資本を市場に放出することに公営カジノは役に立つと思うからである。現在日本の経済は貯蓄過剰、投資(従って消費)寡少の状態にある。銀行利子はほぼ0%になっているが消費も投資も伸びない。企業は投資を控え、家計は消費を控えている。アベノミクスの成果にもかかわらず不況感がいまひとつぬぐえないのはそのせいである。強引に貯蓄を吐き出させてみよう。その手段が博奕賭博の認可ないし奨励である。
賭博には必ず仲介料いわゆるショバダイがある。仮に私が賭博で10万円負けた(あるいわ勝った)としよう。その10%程度はショバダイになる。公営なら主宰機関すなわち国家あるいわ地方公共団体の手にその金額が入る。ここで実際の経営機構つまり賭博業者の収益は無視する。国家・地方自治体はその手数料による収益を使えばいい。賭博の規模が大きければ大きいほど国家地方自治体の消費は増える。国家地方自治体はこうして得た金を使えばいい。
賭博は勝ち負けゼロである。なら現金が人から人へ移転するだけで肝心の流動性は小さくならないではないかとも反論されよう。私はそうは思わない。悪銭身につかずという言葉がある通り、賭博で得た金の消費性向は非常に大きい。賭博で勝てば必ず気が大きくなる。こせこせ貯めるために博奕はしない。勝てば飲んで食って豪華な買い物をする。明らかに消費性向は増える。
賭博が盛大になると世間全体の気分も盛り上がる。賭博は一種の祝祭である。経済が繁栄するためにはお祭り気分にならなければならない。賭博の盛行は同種の行為である投資投機を促進する。賭博ギャンブルは人間の本能である。享楽を求める人間の本能である。この本能を刺激する事は経済を活性化させる。また賭博は人間の攻撃性暴力の代償行為でもある。賭博を一定程度容認することによって人間が人間に対して直接行う攻撃性は減退する。真面目に縮こまって、貯金通帳に眼を通してばかりしておれば気分は消極的そして抑うつ的に成る。ともかく人間の本能を解放し金を使わせる事が好況感つまり好況を呼ぶ最大の手段である。
IRを実施すれば当然の事だがそのためのインフラが要る。宿泊施設、交通機関、飲食産業などなどだ。投資は増える。雇用も増える。
世間で騒がれている賭博依存症のことだが、そう心配することはない。アルコ-ル依存症と同じで依存症になる人はなるし、ならない人はならない。人工の一定程度が依存症になるだけだ。多くの人は節度をわきまえている。IRが在ろうと無かろうと、社会には厳然として賭博組織はある。知る人ぞ知るである。むしろ非公然化されて地下に潜った賭博組織の方が危険だ。賭博行為を非犯罪化して公然とさせる方がむしろ治安維持にはいいのではないのか。
どこにカジノを作るかという問題がある。私はカジノはラスベガスのように過疎の地に作るのが良いと思う。地方振興の一環としても捉えられる。沖縄、大分、高知、松江、秋田、福島、釧路などの地が挙げられる。ただし地方だとインフラ費用と収益のバランスが崩れて採算が合わない可能性があるからこの点は注意しよう。その点を除けばカジノはどこに作ろうと客は来る。賭博とはギャンブルとはそういう魔力を秘めたものである。
カジノの主催管理は、公営とするとして、完全に自治体に任せてはいけない。利益はなるべく自治体に廻すとしても、最終的権限は国が握るべきである。地方議員の質はそう高くはない。そして、京都府立医大の例に見られるように地方自治体の職員は容易に地方のボス、時としてやくざの影響を受けることが多い。仕事が仕事、金が金だけにどうなるか解ったものではない。
カジノでは喫煙は自由とする。気に入らない奴は来なければいい。私は従来から禁煙には反対である。喫煙も享楽のうち楽しめばいい。どこかのフェミニストが言い出したのだろうが喫煙はダメ、加えて何かといえばセクハラパワハラ云々では人生は楽しめない。現在若者特に男性が結婚に消極的なのはそのせいかもしれない。酔ってちょっと女の尻を触ったくらいで豚箱にぶちこまれてたまるか。私は売春も非犯罪化すべきだと考えている。この事に関しての論は長くなるので、ここでは結論のみ述べておく。
日本人は世界でも珍しい純粋農業民族である。牧畜遊牧の経験はない。農業と比べて牧畜遊牧には賭博性が強い。換言すれば我々日本人は投機を避ける傾向にある。そろそろ脱皮してはどうだろうか。