経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

経済人列伝-財界世話人、郷誠之助

2010-04-27 03:23:11 | Weblog
郷誠之助

 男爵郷誠之助は今日では知る人も少ないと思いますが、明治後半から大正そして昭和戦前期にかけて、財界世話人として経済界の表裏に活躍した人物です。財界の巨頭と言ってもいいし、黒幕とも言えましょう。財界世話人と言いますとなにやら後ろくらい印象をうけますし、またその種の行為が無かったとは思えませんが、財界世話業という稼業は、日清戦争以後の日本資本主義の勃興・発展期にあって、乱立迷走する企業群を金融資本を介して統合し、彼らに一定の秩序を守らせる事を目的とします。実際の事跡としては、経営困難に陥った企業の合理化と減資、救済そして、合併です。誠之助が関連した主な企業はその殆んどが、重化学工業に属するものです。彼が活躍した期間はまさしく重化学工業の発展期に当たっていました。
 郷誠之助は1865年(慶応元年)に父親純造の郷里である美濃国(岐阜県)稲葉郡黒野村で生まれ、すぐ東京の番町に住みます。誠之助を語る前に、父親純造の事跡を語る必要があるでしょう。誠之助はすでに華族となった男爵郷純造の政治的経済的遺産を継承して、財界という舞台に立ちます。純造は美濃黒野村の富農でした。この村で4家ある長百姓(おさびゃくしょう)の1つが郷家です。長百姓の多くは戦国時代の名主(みょうしゅ)つまり地侍の出であり、兵農分離と共に郷村に土着し、村の指導者(名主・庄屋)として村を支配しました。
 純造はよほどやり手であり野心家であったようで、一介の豪農である事には満足せず、武家奉公を志します。幕臣の用人になります。仕える主人を適宜変え、大阪町奉行の家老になります。家老と言っても旗本のそれですから、給付は知れていますし、代々の家柄である必要はありません。しかし二人の大阪町奉行に仕えた事は純造にとって意味があったでしょう。当時政局は京都を中心に廻っていました。幕府の要人の殆んどが京大阪に出張り、朝廷や薩長などの西南雄藩と交渉していました。江戸の残るものはぼんくらが多かったといわれています。純造は江戸に行き、幕臣の株を買って、新たに設立された幕府陸軍撒兵(歩兵)になります。すぐ維新戦争が勃発します。鳥羽伏見の戦に敗れた徳川慶喜の助命嘆願の使いの従者になり、ここで一命をかけた活躍をしたと彼の自記にはあります。その功で大番役をかねて陸軍の士官(指図役)になります。200俵10人扶持と言いますから、立派な旗本です。官軍が江戸に進駐して来た時、純造は兵の動揺を押さえ、民間に隠していた(恐らく反乱防止のためでしょう)新式銃4000挺を官軍に引き渡しています。
 明治元年新政府に出仕し、会計組頭になります。係長クラスというところでしょうか。累進して大蔵少丞、さらに大丞になります。この間戸籍関係の役務もこなし、民部省の役人もしています。明治19年大蔵次官、21年退官。後男爵になり貴族院議員に任命されます。明治43年、純造86歳、死去。
 純造に関しては二つの重要な逸話があります。彼は幕臣渋沢栄一を新政府に推挙します。渋沢は井上馨と組み、以後両者は明治財界の表裏の巨頭になります。渋沢と純造の出自と経歴は似ています。誠之助はこういう非常に貴重な人脈も父親から遺贈されたことになります。
 純造は松方財政に極めて積極的に協力しています。彼の自記や誠之助の自伝によれば、純造が松方財政、特に流通貨幣量削減の提案者になります。明治12年国債局長である純造は大蔵卿松方正義に、貨幣・債権の膨張とその削減(2000万円)のを上申しています。ここで二つの事が考えられます。純造は極めて優れた経済官僚であり、明治20年までの政府財政の事実上の主導者でもあったのではないかという事です。事実日清戦争までの明治政府における技術官僚としての旧幕臣の比重は決して小さいものではなく、彼らなくして政府の運営は不可能であったでしょう。後年誠之助が行う財界世話業の中身は、案外この(父親の起案になる)松方財政と似ています。
 誠之助は銀のスプ-ンをくわえて生まれてきた事になります。慶応元年彼が生まれた時父親純造はすでに44歳、養子として義兄がすでにいました。ですから誠之助は事実上の長男、戸籍では次男になります。
 誠之助は幼少期、番町のガキ大将でした。当時できたばかりの小学校に行きます。そして東京英語学校に進学しますが、遊びが激しくなります。仙台中学校(仙台英語学校改め)に転学しますが、くるわ通いに夢中になります。要するに遊びまくったわけです。しかし成績は悪くはありませんでした。卒業して帰京、英語を学びます。15歳英語教育で定評のある京都の同志社英語学校に学びます。この間無銭旅行をしたり、薬の行商をして、一時期父親から勘当されます。19歳東京に帰り東京帝国大学法科に入学します。誠之助は法学よりむしろ哲学を勉強します。当時の日本には英仏の哲学特に、スペンサ-やルソ-のそれしか紹介されておらす、誠之助は哲学の本場であるドイツで学びたかったようです。
そしてこの時彼の人生を決定しかねない大事件がもちあがります。誠之助は大蔵省銀行局長の岩崎小二郎の姪である中村のぶ子と相思相愛の関係になります。駆け落ちそして結婚まで決意しますが、岩崎は二人の関係に反対し、のぶ子を郷里の佐賀県に帰してしまいます。そしてのぶ子から誠之助にあてた最後の手紙の後、予言どおり服毒自殺を敢行します。以後誠之助は終生正式の結婚をせず人生を送ります。彼の写真を見ると実に良い顔をしており美男子です。特に東京電灯会長時代の写真は威風堂々とした歌舞伎役者も顔負けする容貌であり風采です。
 翌年の明治17年誠之助20歳時、ドイツ留学をします。約8年滞在します。伊藤博文の駐独大使青木周蔵にあてた紹介状付きですから豪華な留学です。ドイツではハイデルベルグを主としハッレやライプチッヒに学びます。心理学のブント、経済学のロッシャ-やクニ-スという現在でも名の残る学者の講義を聴きます。
 27歳、ドイツで博士号を取得して帰国します。陸奥宗光を慕って農商務省の嘱託になりますが、陸奥辞任に伴い、官職をすてて財界に転進します。28歳日本運輸社長に就任、32年日本鉛管製造株式会社、33年入山採炭株式会社、35年王子製紙株式会社を担当します。いずれの場合も社長かそれに準じる役職に就きます。仕事は潰れかかった会社の立て直しです。合併させたり、新技術を導入したり、人事の仲裁をしたりしますが、詳細は解りません。他に日本メリヤス、日本醤油醸造、日本火災保険株式会社などに関係しています。ここで疑問が湧きます。若干28歳で、なんの経験もない若造に中小とは言え、会社再建をおいそれと任せるものでしょうか?一応理由と背景を考えて見ましょう。まず当時父親純造はまだ存命でした。この七光の影響は?また父親の人脈も重要です。特に潰れかかって、こじれた企業の再建には。洋行帰りというブランドの価値もある?などが考えられます。当時洋行帰りはそれだけで優秀とされました。また企業再建という仕事は、誠之助のような極道っぽい経歴のある人間には向いていたのかもしれません。こうして潰れかかった会社を再建しつつ、誠之助は段々頭角を現わしてゆきます。
 明治43年47歳時、東京証券取引所理事長に就任します。周囲の人はこの就任を彼のために喜ばなかったそうです。証券取引所における株の売買は、一種の賭博であり虚業とみなされる傾向がありました。誠之助はこのような偏見を廃して、断固引き受けます。明治7年東京と大阪に一箇所づつ証券取引所が設けられます。取引所の始めの役割は金録公債(武士の扶持を金券に変えて与える債権)を始めとする公債の売買でした。公債はその良否によりその実価格が違ってきます。だから何かの仲介機関がないと公債は売れません。この機能から証券取引所は出発します。これは私の憶測ですが、取引所が最初に扱ったのは、公債だけとは限りません。明治7年と言えば、いろんな種類の紙幣が民間に溢れていました。これらの紙幣にはすべて正負のプレミアがつきます。これも売買の対象になるはずです。
 松方財政が一段落すると、日本は企業の勃興期を迎えます。そして日清戦争の勝利で、外資も導入され、拍車がかかります。株式会社が雨後のたけのこのように出現します。証券株も増加します。株式の売買が成立しないと、資本はできないのですから、取引所は絶対必要でした。しかし多くの人、財界人すら、株の売買には偏見と言うより嫌悪感を持っていました。誠之助は取引所理事長就任を喜んで引き受けます。彼が株式売買の意義を知り抜いていたからです。ドイツ留学の体験も重要でした。彼が留学した頃(1884-92年)のドイツは産業興隆期でした。その少し前から経済は過熱気味であり、泡沫会社が乱立され、成長と混乱そしてそれへの対処にドイツ政府は追われ、経験を積んでいた頃です。誠之助はここから多くの事を学んだはずです。
 証券取引所の役目は、少なくとも最初は政府と仲買人(証券会社に発展)との仲介でした。政府はお高くとまり、実態を知りません。仲買人の道徳は決して高いとはいえません。不正事件がよく起きます。不正事件の温床は小口落しという手口です。仲買人は投資者から金を預かり、売買を仲介します。本来なら客の意見を聞いて判断すべきですが、それをしていてはチャンスを逸するので、仲買人は自分の判断で株を売買する事が多くなります。勢い客(投資者)の金を動かして、売買差額を着服する事も生じます。政府や世間が嫌ったのは、この小口落しという手法でした。政府はこれを禁止しようとします。誠之助は小口落しの手法を守ります。株式や貨幣の信用より、その流動性を重視したわけです。貨幣や株式の動きが止められれば、経済は死滅します。彼にはここのところがよく解っていました。
 同時に仲買人の権利も掣肘します。彼らが会員制度を主張して、取引所を彼らの自治に任せようとする動きを封じます。株の売買では時々ガラ(大暴落)が来ます。どうしてもという時、誠之助は日銀に頼み、株式売買の重要性を説いて、融資を取りもちます。彼の在任14年間の間に取引所の資本は2・5倍になりました。
 60歳、東京証券取引所理事長辞任。これ以後財界世話業と言われる仕事が始まります。財界世話人の第一号は渋沢栄一でしょう。そして次が彼郷誠之助、他に和田豊治や井上順之助がいます。経済官庁や民間で活躍し多方面に人脈を持つ人達が世話人でした。ここで井上馨は省きます。彼は世話人という以上に明治期財界の黒幕でした。財界世話人の役割は、既に述べたように、金融資本を介して、特に重化学工業の企業群を整理し統合する事でした。誠之助が関わった仕事の主なものを見てゆきましょう。まず日本郵船と東洋汽船の合併があります。サンフランシスコ航路を主とする東洋汽船は、アメリカの新しい船舶に負け続けます。誠之助は渋沢や井上と協同して、結局東洋汽船の株式を1/10に減資し、縮小した経営を軌道に乗せてから、これを郵船に合併させます。帝国製麻と日本製麻の合併も同様の手法でした。経営状態の悪い日本製麻を前社に合併させます。
 第十五銀行と川崎造船の再建には誠之助も苦労します。第十五銀行は松方幸次郎(正義の子)を始めとする松方一族が経営に関与し、さらにその創立資金は華族の出資によります。当時としては特別扱いにしなければならない事情があったようです。川崎造船にも松方一族が絡みます。さらに川崎造船は昭和恐慌の台風の眼である台湾銀行とも深い関係にありました。誠之助の提案の骨旨は減資です。減資により株式未払い金という債務は斬り捨てられます。残った株式を資本に新株を発行し、優先株として債権者に与えるなどの手法も用いられています。基本はそういうところです。
 他に北洋漁業に関与した事もあります。当時でも北洋漁業は日ソの懸案事項でした。日本のある企業が漁業権をソ連から破格の値段で購入します。日本国内の漁業の秩序を乱すとして介入し、撤回させます。
 誠之助が対象とした主な企業は重化学工業です。日本は重化学工業を育成しなければなりませんでした。巨大な資本が必要です。しかしこの間の日本経済は不況の連続でした。資本は容易には集まりません。なるべく効果的に資本を用いる必要があります。ここに財界世話人といわれる人達の出番があります。日経連や経済同友会のような経営者の団体はまだありません。世話人は顔とコネを生かして、企業群に関与し調停します。その手法は減資と合併による、業界全体としての規模縮小と、大企業の育成による競争力の強化でした。カルテルと同様のやり方です。ここでも誠之助のドイツ留学体験は生きているのでしょう。
 誠之助が関与した仕事の中で最大のものは日本製鉄の設立です。大正期の極めて短い間に20を超える製鉄会社ができました。群小乱立です。憂慮した財界の一部は東洋製鉄という会社を大正5年に作り、群小の会社を統合しようといます。結局この業界における鶏群の一鶴である八幡製鉄に合併吸収されて日本製鉄ができました。
 もう一つ彼が関与した事業には5大電力会社の合併があります。最大の東京電燈は経営危機でした。彼は社長に就任し、例のやり方で会社の経営を一部改善しておいて、他の4社東邦電力、大同電力、日本電力、宇治川電気と合併させます。
 郷誠之助は大正6年に結成された日本工業倶楽部(クラブ)の専務理事になっています。彼が関与してきた事業、つまり日本の重化学工業育成という観点からみれば、当然でしょう。昭和6年には東京商工会議所会頭に就任します。ここで彼は大企業中心の経営を進めるべく舵をとります。
 68歳日本経済連盟会会長に就任。この間貴族院議員、男爵を襲封。昭和17年78歳死去。

  参考文献  男爵郷誠之助君伝  大空社、郷男爵記念会編 大阪市立図書館蔵

経済人列伝、五島慶太

2010-04-23 03:13:59 | Weblog
      五島慶太

 五島慶太は東急コンツエルンを作り上げ、私鉄王と言われた人物です。経営の着眼も優れていましたが、私鉄の経営拡大は主として、株の買占めと会社の乗っ取りですから、彼には強盗慶太という仇名が付けられています。慶太は明治15年、長野県小県郡青木村で生まれました。本姓は小林、生家はそこそこに富裕な農家です。高等小学校を卒業します。成績が良いので周囲の勧めで松本中学校に入ります。卒業し、数年代用教員をします。田舎に埋もれる気はなく、一念発起して上京し、一橋大学を受けます。不合格、慶太はショックをうけます。なにくそと苦手な英語を猛勉強し、東京高等師範学校英文科に合格します。ここで校長嘉納治五郎の薫陶を受けます。三重県四日市の商業学校に赴任し、英語を教えますが、田舎に埋もれるのがいやでいやでたまりません。学生ストライキを扇動し、辞表を出して上京します。第一高等学校の卒業試験を受け合格し、さらに東京帝大法学部に入ります。この時25歳、慶太の歩んだ軌跡はかなり複雑です。
 家庭教師をしていた富井家から、新たな家庭教師の仕事先として加藤高明家を紹介されます。加藤は後に総理大臣になる人で、慶太は加藤の知遇を得ます。大学を卒業し、農商務省に入ります。30歳、久米万千代と結婚、この時花嫁の父親の懇望で絶家となっていた、沼田藩士五島家を継ぎます。小林から五島に改姓します。農商務省では彼の、履歴がジクザグしているためでしょうか、うだつが上がりそうにも見えません。辞職。加藤高明の世話で鉄道院に入ります。総務課長になりますが、なかなか高等文官になれそうにもありません。彼は高文の行政科の試験をパスしているのですが。
 鬱々としている時武蔵電気鉄道の経営を依頼されます。この鉄道は郷誠之助が経営していましたが、ペーパ-カンパニ-に近い存在でした。この会社の建て直し(というより実質的には会社創造)を任されます。武蔵電気鉄道の経営はうまく行きません。慶太はすでに渋沢栄一により設立されていた電気鉄道を目黒蒲田電鉄と改称し、この会社の経営に全力を注ぎます。渋沢は電鉄と同時に田園都市株式会社も創立していました。郊外での生活を先取りしていた感じです。慶太はここに目を付けます。この方針にはすでに先例がありました。小林一三の阪急電鉄です。小林は、大阪近郊の箕面・池田に田園都市を作り、そこと大阪梅田を結んで、電鉄を経営すると同時に、電鉄の集客能力を利用して、終点梅田に作った百貨店を経営していました。タ-ミナルデパ-トの第一号です。慶太はこの方針で臨みます。小林一三から直接指導を受けます。
 こうして目黒蒲田電鉄は、東京市内と近郊を結ぶ交通機関として発足します。開業とほぼ同時に関東大震災が起こります。鉄道のレ-ルはぐにゃぐにゃに曲がります。慶太はみずからもっこを担いで陣頭指揮をして復旧作業に邁進します。震災は目蒲鉄道にとって大吉と出ました。震災で多くの人達は郊外へ逃げました。将来も郊外の方が、安全で健康的だと実感されるようになります。目蒲鉄道の運営は軌道にのります。この勢いで武蔵電鉄の経営にも慶太は積極的に乗り出します。社名を東京横浜電鉄と改めます。鉄道に集客するため、慶太が考え出した方策が大学誘致です。東京工業大学、慶応大学、青山師範学校、東京府(?)立高校、東京府立高等学校、昭和女子薬学専門学校などなどです。当然他の私鉄と競争になります。贈賄容疑で逮捕され半年入獄します。小林一三も正力松太郎も一度は臭い飯を食っています。慶太も同様です。無実とかのことです。この間、目蒲電鉄と東京横浜電鉄は合併し、東横電鉄になります。こうして慶太の事業の基礎ができました。
 目蒲鉄道と東京横浜電鉄が上手く機能するためには、池上電鉄が邪魔になります。逆に池上電鉄を自社のものにしたら、東横鉄度の機能は飛躍的に上昇する、と慶太は考えました。こうして「強盗慶太」と呼ばれる由縁になった、会社乗っ取りが始まります。池上電鉄の次には玉川電鉄が標的になります。慶太のやり口は、経営不振の会社の株を買い占めて、経営権を奪取し---です。意図しての事でもあり、結果としてもですが、慶太の乗っ取った会社はそのほとんどが立ち直りました。戦時体制も追い風になり、とうとう東横、小田急、京浜、京成、京王の4大電鉄会社が統合され、慶太はこの大東急コンツエルンの総帥になりました。昭和19年東条内閣の運輸通信大臣に就任します。この間、南方にも商戦を伸ばし、軍の輸送を海陸に渡って引き受けます。
 そして終戦。正力松太郎の項で述べましたように、戦後は凄まじい労働攻勢に晒されます。五島退陣そして経営民主化が叫ばれ労組が暴れまわります。加えて昭和22年、慶太は公職追放の憂き目に会います。この間、大東急コンツエルンは解体され、東横、小田急、京成、京王の4電鉄と東横百店が分離されます。
 戦後慶太がした事業の一つが東映(映画会社)の復活でしょう。それまで経営不振で潰れかけていた東映に、大川博を送り込んで復活させます。昭和20年代後半から30年代にかけて、東映は片岡智恵蔵、市川右太衛門、中村錦之助、大川橋蔵などを要して、時代劇で一世を風靡します。
 もう一つ白木屋の乗っ取りがあります。横井英樹が持ち込んできた話に、慶太が乗り、白木屋の株を買占め、経営権を奪い、役員を一掃して、会社を再建しました。慶太はかって三越をも乗っ取ろうとした事があります。三越といえば、百貨店中の名門であり、三井財閥の象徴でもあります。三井と三菱に反対され、加えて三越社長の事故死もあり、慶太は散々な不興の中で、三越乗っ取りをあきらめます。最後の乗っ取りの標的が東洋精糖です。やはり慶太は横井と組みました。その最中に慶太は死去します。昭和34年、享年77歳でした。慶太の長男昇はすぐ乗っ取り行為を中止し、以後は「強盗企業」と悪名を立てられるような商法をやめて、会社経営の方針を転向させます。堅実な経営に専心して、五島昇はやがて日本商工会議所・東京商工会議所の会頭になります。
 五島慶太は口癖のように、「ぼろ企業を乗っ取って、その会社を再建する」と言っていました。その言の半分以上は真実でしょう。乗っ取りと言えば聞こえはよくありませんが、要は株式所有において、多数派工作を行い、経営権を握る、という事です。握ったあとの行動でその人の行為が評価されます。会社を再建して繁栄に導く方向もあれば、会社を切り売りして売り逃げるという方向もあります。株式の多数派工作自身は合法です。会社が潰れるまで待つより、適当な時点で不良企業は、経営権を他に譲渡する方が賢明でしょう。内部改革と言いますが、いうだけでなかなか思うような成果は出ません。株買占めそして乗っ取りは、無能経営者の排除、経営における新陳代謝の更新の手段でもあります。五島慶太がした事はこういう事でした。経営者としての一つの生き方です。

経済人列伝、堤康次郎のがむしゃら人生

2010-04-19 03:28:19 | Weblog
             堤康次郎

 堤康次郎から受ける印象は、がむしゃら人生、という一言に集約されます。彼は常在戦場をモット-とし、負けず嫌いで頑張屋、そして常に楽観的でした。逆に言えばかなりな程度一方的に振舞いました。この傾向は彼の家族構成に如実に示されています。
 康次郎は明治22年(1889年)滋賀県愛知郡八木荘村に生まれました。家業は麻仲買商件農業です。父親は夭折し、母親はすぐ実家に帰り再婚させられます。康次郎は祖父清左衛門に養育されました。清左衛門は老骨に鞭打って頑張ります。小学校の成績は良かったようですが、経済的事情で中学進学を断念し、農業に従事します。この間過燐酸石灰を肥料にして増産に成功したり、農事の効率を上げるために耕地整理を提案しています。ただ漫然と旧来の農法に従っていたわけではありません。栴檀は双葉より芳し、です。海軍予備学校に1年通い、卒業後郡庁に雇用されています。海軍予備学校在学時の写真はまことに可愛らしく、紅顔の美少年の趣があります。
 19歳祖父死去。康次郎は思い切って、家財を整理し、妻や妹に分配した後、東京に出て、早稲田の予科に入学します。それまでに学歴の需要さを実感していたからです。この辺の決断は素早く大胆です。それまでの郷里の人生に見切りをつけ、新しい天地に運命をかけます。早稲田入学は明治42年、20歳の時のことです。
 しかし康次郎は段々授業に出なくなります。教科書に書いてある事を長い時間をかけて聞くのが、馬鹿らしくなったからです。私も同じ経験をしたので、康次郎の気持ちはよく解ります。有名な経済学者のシュンペ-タ-にも同様の逸話があります。一方在学時代から投機に手を出しています。後藤毛織という会社がありました。康次郎はこの会社の株主総会で会社擁護の演説をします。会社に注目されて、株式買い集めを依頼され、成功報酬として数千円を手にします。これを資金として日本橋の郵便局の株を買い、局長に収まります。当時郵便局長といえば、田舎では名士、都会でもそこそこに暮らして行ける地位でした。並の人ならこの辺で実直にと、考えますが、康次郎にとってはここが出発点になります。誠に栴檀は双葉より芳し、です。
 大学本科で永井柳太郎に師事します。永井はオックスフォ-ド帰りで、イギリスの経験論やフェビアン社会主義などを学んだ、理想家肌の新進学者でした。康次郎も永井もやがて政界に進出します。康次郎の考え方にはかなり革新的な傾向がありますが、これは永井柳太郎の影響でしょう。永井とともにロシア語の勉強をします。すぐ後に「日露財政比較論」という本を康次郎は出版しています。この事は彼が単なるがむしゃら男ではなかった事を示しています。一冊の本を書くことにより、体系的思考が可能になります。堤康次郎という男の意外な一面です。少なくとも私にとっては。この間康次郎は桂太郎の新党結成運動(立憲同志会)に参加し、桂から後藤新平を紹介され、その知遇を得ています。これは康次郎の政治的資産になります。彼の初志は政治家になることでした。
 大正3年(1914年)第二次大隈内閣成立。これを機に大隈・永井を中心として公民同盟という運動が起こされます。一般民衆の国際感覚と政治意識を涵養しようとする運動です。康次郎はこの運動の責任者を志願し、機関紙「新日本」の社長になります。だから当時の彼はジャ-ナリストでした。一方、ゴム、海運、倉庫、人工真珠製造、鉱山開発、そして土地投資などいろんな分野の事業に手を出しています。あまり統一性のない・がむしゃらな事業展開です。「新日本」経営を始めとして、これらの事業が必ずしも成功したとは言えません。
 大正3年、軽井沢開発に乗り出します。特にまだ手を付けられていなかった、千が滝の開発を進めます。更に南軽井沢、後年には奥軽井沢開発に進出します。「千が滝文化別荘」と名乗って、100坪の敷地に14建坪の洋式別荘を作り、2000円で売り出しました。大きくまっすぐな道路を通し、道路水道電灯電話を完備し、日用品廉売マ-ケット、クラブ、温泉浴場、音楽場、野球グラウンド、テニスコ-ト、トラック、フィ-ルド、スイミングプ-ル、ビリヤ-ドそして児童遊戯場などを整備します。この頃から康次郎の事業経営の方向が定まってきます。
 大正8年康次郎は箱根土地開発会社(昭和19年国土開発興業と改称)を設立します。まだ開発されていな強羅地区に主力を注ぎ、駿豆鉄道を作り、箱根遊船を経営し、後には十国峠を越えた自動車専用道路を造ります。軽井沢はあくまで別荘中心ですが、箱根開発は観光資源の開発が目的です。この間大震災後の東京の土地価格の低下を利用して東京市内の土地開発にも乗り出します。併行して高田農商銀行を買収し、機関銀行とします。
 康次郎の事業を決定付けた試みは「田園都市構想」です。目白や小平、大泉などに既に進出していましたが、特に大正12年(1923年)に東京都北多摩郡谷保村に土地を購入して、そこに東京商科大学(現一橋大学)を招致して、大規模な学園都市の設立を試みます。最初「国立大学町」と命名されました。これが国立(くにたち)の名の起こりのようです。もちろん単に大学を作るだけでなく、郊外住宅地にします。康次郎は実際自ら小学校を同地に作っています。最初通学するのは、彼の会社の社員の子弟だけでしたが。堤康次郎の事業は、箱根・軽井沢・そしてこの田園都市開発と後に見る西武鉄道がその根幹になります。
 田園都市構想は時代の流れの中にあります。大正時代になると、日本の産業も発展し、企業の労働者でもない(少なくともそういう受動的意識を持たない)、そして資本家でもない、しかるべき学校を出て、企業に雇われ、その能力を提供して、企業の経営になんらかの形で参加する新中間層が出現してきます。彼らを、経営担当者まで含めて、サラリ-マン(専門用語ではドイツ語のAngestellteが適当)と言います。彼らは比較的裕福でした。彼らの生活意識にあった生活の場所として郊外の田野が開発されました。併行して鉄道網も発達します。田園都市構想はこのような資本主義の発展を背景としています。この構想は別に康次郎だけの発想ではありません。小林一三も五島慶太も同様な事をして成功しています。
 康次郎の経営する多くの会社が順調だったわけではありません。昭和に入り不況が深刻になると、開発した土地が売れず、箱根土地開発会社の資金繰りが行き詰まります。機関銀行である高田農商銀行も同様です。この時は日本銀行や日本興業銀行の融資で切り抜けます。金融機関が康次郎の企業家としての能力を高く評価してとのことですが、どうもそれだけでは、という気もいたします。
 昭和12年(1937年)康次郎は武蔵野鉄道の経営に乗り出します。同鉄道は池袋-飯能間を走行していましたが、経営不振状態でした。康次郎は株式の多数を押さえた上で、根津嘉一郎の東武系の発言を抑えて、新しい案を提出します。債権の75%を切り捨て、残り25%を基礎として新株増資をします。ほっておけば会社は潰れるのですから、この方が債権者としては有利でしょう。この資本削減を実行してから武蔵野鉄道の経営は好転します。この間多摩湖鉄道を買収しています。また昭和15年前後から、東武系の旧西武鉄道と武蔵野電鉄両社の競合摩擦が多くなり、交通事業調整委員会(会長永井柳太郎)が中に入って、結局この旧西武鉄道は、東武系を離れて康次郎の武蔵野電鉄の傘下に入ります。やがて武蔵野電鉄は西武鉄道と改称して今日にいたります。
 昭和15年(1940年)京浜デパ-トの一部であった菊屋を買収し、武蔵野デパ-トと改称し、タ-ミナルデパ-トの経営に乗り出します。このデパ-トは戦時中西武食糧会社となり、さらに西武デパ-トと改称されて今日に至っています。郷里の滋賀県のために近江鉄道の設立に尽力します。
 戦争中は極力国家の方針に協力します。食糧増産会社を作り、肥料としての糞尿を東京市内から郊外へ運ぶ任務もこなします。流木の陸上げも行いました。
 康次郎の政治活動の方はどうでしょうか。大正13年(1924年)滋賀県から立候補し衆議院議員に当選します。この時は激戦でした。相手候補が彦根藩の家老の子孫だったので、「家老の子か、土民の子か」という標語を掲げて戦いました。当選後永井柳太郎の引きで憲政会に入党します。昭和7年(1932年)44歳時、斉藤実内閣の拓務次官になります。上司の拓務大臣は永井柳太郎でした。拓務省とは、満州・樺太・朝鮮・台湾などの植民地の開発経営を主務とする役所です。康次郎には適任でしょう。
 堤康次郎の政策傾向は、軍縮と緊縮(均衡)財政でした。浜口内閣の金解禁政策に賛成し、軍部を批判し、言論の自由を主張しています。金輸出再禁止を予想したドル買いを非難して、非常時利得税法案を提出しています。高端是清の拡張経済政策を批判します。戦時体制における電力の国家管理に反対し、翼賛体制を非難します。昭和17年(1942年)翼賛選挙に出て当選。始めは出ないつもりでしたが、滋賀県知事の要請で変説します。この変節は高いものにつきました。戦後康次郎は公職追放にあい、政治活動から5年間遠ざけられます。康次郎としてはこの処置には不満だったでしょう。
 昭和26年追放解除、改進党から立候補し衆議院議員に当選。時は第三次吉田内閣、自由党も吉田派と鳩山派に分かれ、それに改進党(もう一つの保守政党)と左右の社会党がからみ、政界は混沌としつつありました。康次郎は衆議院議長になります。吉田首相の馬鹿野郎発言や造船疑獄をめぐっての吉田首相喚問問題で、国会は大揺れに揺れ、乱闘国会になります。康次郎も暴行を受け衛視に救出せれます。彼は柔道6段でしたが、議長として腕力はふるえません。私が記憶している彼の姿は新聞写真に載ったこの乱闘国会の時の姿です。ですから私は康次郎に関しては、なんとなく腕力派、かなりな程度のバ-バリアンという印象を持っていました。彼がロシア語を勉強し学術書に近い本を出していると、知った時は驚きでした。この後彼は保守合同に尽力し、岸信介に協力し、強固な反共派として振舞います。昭和39年、76歳、急死、死因は心筋梗塞でした。
 堤康次郎の生涯で特異に目立つのは、彼の婚姻関係です。21歳、西沢こととの間に長女淑子を生み、同年彼女との婚姻届を出しています。28歳、川崎ふみとの婚姻届、彼女との間に長男清が誕生しています。39歳、青山操との間に次男清二が誕生、操は康次郎の主婦の役割を引き受けると同時に、秘書でもありました。康次郎は更に石塚恒子との間に、次男義明、三男康弘を設けています。そして恒子母子を操母子と一緒に住まわせています。妻妾同居です。昭和28年康次郎が衆議院議長になる時、夫人操の戸籍上の地位が作家平林たい子氏等により指摘され問題化します。康次郎は狼狽して妻のふみと離婚し、操と正式に結婚します。この辺の事もがむしゃら堤のやり方でしょうか。こういう事情ですから、親子間の関係もややこしくなります。長男清は父親康次郎とことごとに対立するようになり、やがて家を出て堤姓を捨てます。次男清二が西武デパ-トを継ぎ、三男義明が国土開発と西武鉄道の後継者にあります。この相続もどこか偏頗なものを感じさせます。康次郎は晩年には非常に厳格な父親であった由です。
 堤康次郎の経営を見て驚かされるのは、その大胆さとがむしゃらさ、そして決断力です。やりたくなったら、やらねば収まりません。まだ少年期といってもいい頃、過燐酸石灰が肥料としていいとなると、すぐ実行しました。祖父の死を契機として財産を処分し、郷里を飛び出し、上京します。大学に入るとすぐ投資に投機、そして郵便局を経営します。政治と経営の両股をにらんで邁進します。結果として彼の本業は土地開発になりましたが、この間諸種の製造業にも手を出します。製造業はことごとく失敗しました。土地開発も、軽井沢、箱根、小平、大泉、国立、そして東京市内とあちらこちらに、ほぼ同時に着手します。五島慶太や小林一三はもっと一つの事に細心に集中しています。康次郎のやり方は四方八方、全方向同時展開です。だからいつも資金繰りがしんどい。しかし彼がやっている事業はすべて有意義であり大規模なので潰せない、となります。新規の事業で赤字を埋めてゆくのでしょうか?経営の詳しい内情は解りませんが、自転車操業という印象も受けます。政治にしても五島や正力松太郎のように、本業で功成り名遂げてから、というのではありません。若くしてジャ-ナリストまがいの事業もし、政治の世界に憧れます。総じて彼の行動は、雑然として、まとまりがないが、ヴァイタリティ-に溢れ、しかしその行動の基礎には一貫したものを感じさせます。康次郎の経営はなにがなし、彼の婚姻関係を思い出させます。康次郎は多くの事業を試みましたが、大きく成長したのは、国土開発興業、西武電鉄、西武デパ-トです。これらはすべて土地開発から出発しています。
 ヴァイタリティ-と言えば彼の柔道が典型です。康次郎は早稲田大学在学中に柔道部に入りました。もう一つ弁論部にも所属しています。38歳柔道初段、42歳2段、45歳3段、48歳4段、53歳5段、57歳6段を獲得しています。柔道では実際の実力は5段までと言いますから、康次郎は柔道の技の最高峰まで達したことになります。しかも30年かけてです。もっともこの私の観測は、彼の授段が名誉的ないとしての話ですが。ともかくその努力には驚かされます。勘は鋭く、知力にたけ、決断に富み、積極的楽観的で大胆である事は違いありません。しかしそういう言葉では表せない、ハチャメチャなスケ-ルの大きさを感じさせます。
 なおここで私は野球ファンとして西武球団の幹部に申し上げます。苦言です。もう四半世紀も前のことになります。当時の西武グル-プの総帥、義明氏は、西武球団の監督である広岡氏や森氏を呼ぶのに呼び捨てにしていました。非常に不快でした。広岡氏や森氏は確かに西武グル-プの一社員かもしれませんが、彼らは同時に野球界全体のスタ-であります。西武という一企業を出たら堤義明などという名を知っている人はほとんどありません。全国的知名度では両氏の方がはるかに上です。せめて、広岡監督とか広岡さんとか、敬称をつけるのが、礼儀ではないでしょうか。両氏に対してのみならず野球ファンに対しての礼儀でもあります。こういう非礼をあえてするのは、父親の婚姻関係の複雑さに起因するのでしょうか。まさか今でも球団監督を西武グル-プの幹部は呼び捨てにしているのではないでしょうね?

 参考文献  堤康次郎  リブロポ-ト

経済人列伝、甲州の豪強・根津嘉一郎

2010-04-14 03:24:57 | Weblog
     根津嘉一郎

 根津嘉一郎は1860年現在の山梨県山梨市(旧平等村)に生まれます。幼名は栄次郎、喧嘩好きのガキ大将として有名でした。父親の名は嘉市郎、家業は油商で雑穀の仲買もしており裕福な商人でした。父親は勤勉に働きかなりの家産を二人の子供に残します。栄次郎は次男ですが、兄が病弱なため、常に長男代理として遇されていました。小学校を出て、家業に従いますが、自己の才能を自負する栄次郎は不満です。この間、支払い拒否常習の顧客から掛け金を強引に取ったという武勇伝もあります。郡書記になり、仕事はこなしますが、ついに21歳時、東京に出奔します。陸軍士官学校入学が念願でしたが、年齢超過のため、入学資格なしということになります。やむなく馬杉雲外の塾に入り、主として漢学を中心に3年間東京で過ごします。その間父親は栄次郎に仕送りしました。
 郷里に帰り、家業に従います。商売は上手く、父親の残した家産を増やします。25歳結婚。この結婚には逸話があるようです。嘉一郎は当時はやりの自由民権運動に関心を持っていました。運動中、警官の不当な弾圧にあいます。抗議をする中出会った、知事の書記官の義妹を見初め、婚姻を申し入れ、見合いの結果、結婚にいたります。30歳病弱な兄に代り家督を継ぎ、嘉一郎と名乗ります。「一」が「市」でないところに、何か微妙なものを感じます。嘉一郎が相続した家産は、田畑評価額で8万円、現金8千円でした。相当な家産と見ていいでしょう。
家業に専念する傍ら、郡会議員そして県会議員になります。このような経歴を見てきますと、嘉一郎の初志は軍人か政治家にあったようです。自由民権運動への関与は続いており、集会への警官による過剰な妨害行為を見ていて、抗議します。警察や県庁からは相手にされませんが、新聞報道で名を挙げます。県会議員としての活動そして、この種の派手な行為は、嘉一郎の政治的資産になり、彼が将来実業界に進出する、元手になったと言えます。攻撃的で、売られた喧嘩は受けて断つ、というのが彼の信条であり、性癖でした。ですから彼が関与した会社では必ず喧嘩しています。また彼の腕力を期待しなければならない会社を再建する事が、嘉一郎の終生の仕事であったと言えます。県と郡の議員に加えて村長の仕事も引き受けます。村長時代、洪水で決壊しかかった堤防を補強するために、条例を犯して神社の神木を切ったという逸話もあります。この話は、石田三成が米俵で洪水を防いだという話に似ています。頭の回転が速く、決断力に富む、という性格です。
 県会議員在任中、郷里出身の実業家若尾逸平と知り合います。若尾から株式売買の妙味とともに、実業は経済の動向特に将来性を知ることが大事、これからは「のりもの」と「あかり」が有望であると、と教えられます。同じく郷里の先輩雨宮敬次郎の知遇も得ています。
 若尾の教えを実践したのか、嘉一郎は日本郵船を始め海運株を買いまくります。一時は順風満帆でしたが、やがてガラが来て株価は暴落し、大借金を抱えます。借金をかかえたまま、隠忍自重を強いられます。株では大損をしましたが、嘉一郎の派手な行為は、実業界で次第に有名になります。徴兵保険株式会社の設立発起人に推されます。維新以来の経済界の黒幕井上馨が主催する、有楽会という有力経済人のクラブにも推薦されます。
 39歳、東京電灯(東京電力の前身)の取締役に推されます。この会社は創立が明治16年と古いのですが、経営不振でした。嘉一郎の役目はもちろん会社再建です。まず冗費を徹底的に省きます。メモ用紙は新聞広告の裏を使う、無駄な電灯はつけない、などなどです。当たり前のことですが。この態度は私生活でも同様でした。コ-トの襟が少しほつれていても、気にかけず着ていました。次に石炭購入に関して、従来のやり方を改めます。仕入係と業者との癒着を断ち切り、購入費を抑え、燃費を節約します。そのために暴力事件も起きました。まず経営の合理化、支出の削減、銀行への返金、そして銀行の信用獲得に勤めます。経営は受身の対策だけでは不十分です。銀行信用が回復したら新しい社債を発行し増資します。弱小企業である品川電灯を買収合併します。このような経営態度を見ていますと、嘉一郎の生活観が変化したのを感じさせられます。彼は40歳を転機に禁酒禁煙を実行し、極力健康に気をつけるようになります。若い頃の彼の生活は、むしろ放漫でした。喧嘩好き、青雲の大志、出奔、自由民権運動、大酒、茶屋遊びなどなどが例証です。
 45歳衆議院議員に当選します。以後3期務めます。ほぼ同時に東武鉄道の社長に就任します。東武鉄道はその10年前に出来ました。東京北千住から埼玉県久喜間までの40kmが走行区間でしたが、併行する利根川水運との競争に勝てず、経営は不振でした。嘉一郎のやり方は基本的には東京電灯でのそれと同じです。綱紀粛正、冗費節約、信用の回復、事業の拡大です。彼は鉄道路線を利根川を越えて北へ延伸する、提案をします。周囲は大反対でした。利根川架橋という大工事に40万円が必要でした。嘉一郎は反対を押し切って、路線を延ばします。そのためには増資が必要です。こうして東武鉄道は危機を克服しました。後に路線は日光まで延びます。この時も日光東照宮初め、日光の観光業者は反対でした。しかし旅客は倍増し、結果として反対の声は消え去ります。鬼怒川温泉もこうして有名になります。
 当時の東京には3つの市街鉄道がありました。東京市街鉄道、東京馬車鉄道、東京電気鉄道です。嘉一郎は東京市街鉄道の取締役をしていました。これら三社の合併気分が盛り上がります。合併反対派と賛成派が対立する中、嘉一郎は賛成派になり、将来を見込んで自社の株を買い占めます。やがて合併して東京鉄道株式会社ができます。後の市電・都電の母体です。新会社の成績は好調で路線は延長につぐ延長です。こうして嘉一郎は資産を増やします。
 福沢桃介から名古屋の山三ビ-ル買収を勧められます。買い取って加富登(かぶと)ビ-ルとします。ビ-ルを巡っては日本ビ-ルの馬越恭平と対立します。やがてキリンを除くビ-ル会社は大日本ビ-ルに統合されますが、嘉一郎は馬越と長きに渡って緊張関係を続けるはめになります。ビ-ル会社の離合集散はややこしいので、山本為三郎の列伝を参照して下さい。ビール会社経営では嘉一郎は成功したとは言えないでしょう。
 明治39年渋沢栄一を団長する渡米実業団に属して米国を旅行します。日露戦争以後米国の対日感情は悪化しており、不愉快な経験も多かったようです。
 高野登山鉄道という会社がありました。大阪府の堺市から河内長野市を結ぶ鉄道です。路線が路線のためか、赤字の連続でした。嘉一郎はこれを買い取り、経営を刷新します。東武鉄道の時と同じ手法です。河内長野から高野山の直下まで一気に路線を延長します。これで大阪方面から、高野山に日帰りで参詣できるようになりました。要は鉄道の路線上に人を集めるものがあるか否かの問題です。高野登山鉄道は黒字に転換します。この会社は南海電鉄からの申し出でで後に南海に合併されます。現在の南海電鉄高野線です。
 他に、1922年武蔵高等学校(現在の武蔵大学)設立、1923年富国徴兵保険株式会社設立、1926年、国民新聞相談役、貴族院議員、1927年南朝鮮鉄道設立、東京地下鉄道会社取締役、などの事歴があります。国民新聞は徳富蘇峰が主宰していました。徳富の学術活動援助のために、嘉一郎は一肌脱いだつもりでしたが、両者はやがて袂を分かちます。
 1940年の時点で嘉一郎が関係する会社の主なものは、
  
東武鉄道(東武自動車、東武運輸、日光登山を含む)、秩父鉄道、東京地下鉄
  大社宮島鉄道、富士身延鉄道、富士山麓鉄道、東京湾汽船、南海電鉄、南朝鮮興業
  富国徴兵保険、太平生命、昭和火災、関東ガス、武州ガラス、日本殖産興業
  日本観光、東京興産、日本土地証券、

等、単に株式を所有しているだけの会社は数えきれない、という事でした。
 1940年死去。前年の南米旅行が答えました。享年81歳。嘉一郎没後長男藤太郎は嘉一郎を名乗り、翌年27歳の若さで東武鉄道の第4代社長に就任します。嘉一郎は子供に東武鉄道だけ譲りました。嘉一郎の会社の判定基準は、

  経営者の資質、信用度
  事業の性質が時代の要請に合致しているか否か
日進月歩の技術を持っているか否か
です。当たり前と言えば当たり前です。要は実行の問題でしょう。
 根津嘉一郎の会社再建の方式は

  綱紀粛正、冗費節約、信用回復、増資、営業拡大

に集約されます。経営者として当然あるべき理想であり、今更口に出すほどのことでもありません。しかしそれを断固やりぬくところが彼の彼たる由縁です。この彼たる由縁の一つが、嘉一郎の攻撃的性格です。売られた喧嘩は必ず買います。だから押しがきき、効果がでます。単に効果が出るのみならず、その派手な言行はある種のブランドとなり、彼はカリスマ化されます。こうして嘉一郎は多くの経営不振の会社を自己の傘下に入れて、再建し、株を買って、資産を積み重ねます。嘉一郎が活躍し始める明治30年前後は、日本資本主義の勃興期でした。泡沫会社が乱立します。そういう中彼のような腕力(気転と押しと決断)の強い人物が現れて、弱小資本を押しつぶし、併合し、再建しつつ、自己の会社の資産を肥らせて行きます。この点では、堤康次郎も五島慶太も同様です。嘉一郎は、無能な怠け者には厳しく、有能で熱心なものは引き立てました。資本主義下にあっては、100の小資本より、1つの大資本の方が、効率よく雇用を増やす事ができます。嘉一郎は経営不振の会社に眼をつけたので、ぼろ買いちろう、と仇名を付けられました。これは彼の最大の趣味である古美術収集にかこつけて、皮肉った表現です。彼の知己である福沢桃介によれば嘉一郎は、東京で一番美術品に金を使った男、とのことです。
 嘉一郎の生国山梨県、甲斐国からは多くの経済人が輩出しています。彼の他、若尾逸平雨宮敬次郎、小池国三、小林一三、小林中(あたる)などです。彼らの近代経済への貢献は大きく、また団結も固く、世間では彼らを甲州財閥と称しました。もっとも小林一三はやや違った立場にあります。甲州は戦国大名武田信玄の治めた国で、この国の人は信玄を敬愛しました。江戸時代になり甲州は天領(幕府直轄領)になります。大名領地に比べて統治は緩く、尚武の気風は強ち土地柄でした。だから甲州は任侠の徒(侠客、つまり極道・やくざ)の産地でした。代表が黒駒勝蔵です。清水次郎長のライヴァルであり、維新の戦争で幕府に尽くし、ために官軍に処刑されました。嘉一郎のやり方の中には、明らかにこの任侠道の影響があります。彼はまずどすの効いた声と態度で相手を一撃します。すべてはそこから始まります。この一撃が成功すれば、後は経済の図式に従って事を進めます。
 根津嘉一郎に大きな影響を与えた若尾逸平について、私のわかる範囲で述べてみましょう。逸平は1820年甲州原七郷在家塚村に生まれます。生家はかなりの資産家でしたが、彼が生まれた頃は没落していました。天秤棒に桃を積んで西隣の信州松本に売りに行きます。さらに東に向かって江戸に売りに行きます。時間を惜しんで、徹夜で甲州街道を進んだそうです。やがて開国。ビジネスチャンスです。横浜に生糸を運びぼろもうけします。こうして資産の基礎を固めました。この資産で第十国立銀行を乗っ取ります。さらに東京馬車鉄道を傘下に収め、更に東京の電車事業に進出します。こうして「のりもの」を押さえました。その資産で東京電燈(現在の東京電力)を支配下におきます。「あかり」も抑えます。やり方は、この種の経営者の常套手段である、ぼろ会社(経営不振の会社、ただし将来伸びる見込みのある、この辺が乗っ取りのコツ)の株を買い、その経営を徹底して合理化する、ことです。しかしこの若尾財閥も昭和の金融恐慌で没落します。逸話があります。若尾財閥華やかなりし頃、米騒動に際して若尾邸焼討ち事件が起こります。暴徒による襲撃です。この時消火作業に当たった消防士は誰一人として、放水しなかったそうです。彼らは暴徒を恐れたのか、あるいは暴徒に共感したのか、どちらかでしょう。めぐる因果は小車の、でしょうか?

参考文献 東武王国-小説・根津嘉一郎
      寡黙の巨星(日経新聞出版社)

銀行の役割

2010-04-09 03:20:02 | Weblog
     銀行の役割

 銀行の役割は二つあります。通貨の信用を維持する事と通貨量を変化させるという、二つの役割です。通貨の量が一定不変なら、結果として通貨の信用は維持できません。したがって通貨量は経済動向の変化に即して、変化しなければなりません。経済は発展するものと期待すれば、通貨は増量されねばなりません。ここで通貨の信用と通貨の増量とは時として、対立することになります。この問題を英米日の三国において、銀行の役割という点から、検討してみましょう。
 1694年、イングランド銀行(英蘭銀行)が中央銀行になります。厳密に言えば中央銀行になるきっかけをつかみました。名誉革命でウィリアム3世がイギリス王位に上ります。内乱の直後で反乱を討伐しなければならず、それに連動して外国との戦争も避けられません。しかしうかつには増税できません。17世紀を通じての革命騒ぎは増税がきっかけでした。どこからお金を引き出すか?ここが思案のしどころです。
 国王はイギリスで一番大きい銀行に眼をつけます。そしてこの銀行と組みました。国王は国債を発行する。その国債をこの銀行つまりイングランド銀行が保障する。同時に国王は銀行に同額の銀行券の発行を許可する。という取り決めです。理屈から言えば、国王が直接紙幣を発券してもいいのですが、ことお金に関して国王の信用はあまり高くありません。イングランド銀行の協力で国王はお金を手に入れました。反乱は収まり、戦争(スペイン王位継承戦争)には勝ちます。ウィリアム3世の政治は成功したわけです。こうなるとイギリスの経済は繁栄します。税収は増加します。国債は償還できます。もっともこの国債はコンソル公債といい、利子だけ払えばいいのです。ただし無期限です。ともかく国王は利子を払うに充分な収入を手に入れました。
 銀行の役割の一つが発券機能です。銀行券を発行します。発行に関しては特に資格はありません。ともかく銀行券を発行する。それを近隣の人達が借りて使用する。使用して事業が成功すれば、この銀行券の信用は確保できます。逆に多くの人の事業が失敗すれば、銀行券の信用はなくなります。事業と共に、銀行は潰れます。一定地域での事業の繁栄と、銀行の存続とは、相互補完的関係にあり、銀行券は信用の媒体でしかありません。ですから事業が成功するためには、なるべく広範囲にたくさんの銀行ができて、銀行券をばらまく必要があります。見込みを誤るか、発券しすぎると、銀行も事業も潰れます。
 イングランド銀行もこういうあまり信用のおけない、しかし必要な銀行の一つでした。ただ国王政府のすぐ近く(ロンドン)にあり、でかくて比較的信用できそうだったので、ウィリアム3世の眼にとまったのです。以後国王陛下の国債発行に協力したこの銀行は幾多の変遷を経て、その銀行券は政府発行の紙幣と同様のものになり、イングランド銀行は中央銀行になります。つまりイングランド銀行券は正貨になりました。こうなるとこの銀行の性格が変化します。あるいはさせられます。国が繁栄するためにはなるべく多くの銀行ができて、多くの銀行券が発行されるのが望ましいが、あまり多すぎると信用不安を起こすかインフレになります。貨幣価値があまり下がるのもよくありません。年中行事のように取り付け騒ぎが起こるのも好ましくないと判断した政府は、イングランド銀行に、想定される無政府状態に対して、対策を命じます。まず徐々に他の銀行の発券機能を制限して、この種の機能をイングランド銀行一行に絞ります。それまでの諸種の通貨はこの銀行の発行するもののみになりました。そうなるとイングランド銀行は唯一の発券銀行として、他の銀行への貨幣供給を制限支配できます。そのやり方には色々ありますが、ここでは詳述を割愛します。こうしてイングランド銀行は銀行のための銀行となり、その役目はどちらかと言えば、貨幣量の安定による信用維持になりました。自由な発券時代の銀行の役割とは正反対の役割を果たすように慣らされます。こういう変化は徐々に起こったのであって、イングランド銀行が真に中央銀行になるのは、イギリスが金本位制を確立するピ-ル首相の頃、つまり19世紀の前半になります。
 イギリスに約100年遅れてアメリカが続きます。アメリカ独立戦争を賄ったものは何でしょうか?決して税金ではありません。紙幣増発です。紙幣を発行する。貨幣価値は下落する。しかし政府はその前に紙幣を使っていますから、民衆に紙幣が行き渡る時点での価値との差額をもうけます。こうして極めて巧妙な手口で政府は徴税し戦費に使いました。ちなみにこと革命・戦争となるとどこの国の政府も同様です。フランス革命政府も明治維新の担当者も同じ事をしました。
 さらにアメリカという大地は豊で、何をしても事業として成功する確率は高く、加えて住民の殆んどが移民ですから事業欲と敢為の精神に富みます。ないのは信用の媒体としてのお金だけです。だから発券銀行は乱立します。これでは金融は無政府状態になるので18世紀末に合衆国銀行(第一)が設立されました。一応中央銀行です。イングランド銀行をまねて、貨幣量を統制しました。存続期間は20年です。期限切れになった時、同様の銀行を存続させるか否かで議論が沸騰します。一度存続に決まり、第二合衆国銀行ができかけましたが、第七代大統領アンドリュウ・ジャクソンにより存続撤廃になりました。ジャクソンは西部と南部が地盤です。産業が発達した北部は貨幣の安定を希望します。発展がこれからの西部や南部は、あまり信用できなくても良い、ともかく貨幣が欲しい、事業を営む貨幣が欲しい、が真情でした。
こうしてアメリカは中央銀行なきままになります。かといって経済の発展が止まったのではありません。60万人の死者を出した南北戦争(ちなみに第二次大戦での米軍死者数は30万人強です)の後、アメリカ経済は空前の発展期に入ります。この時も形を変えた通貨戦争が起こりました。金本位制か金銀複本位制かの闘争です。複本位制派は比較的貧乏な人が多く、彼らは自分達の事業発展のために、銀貨も含めて貨幣量増加を希望したわけです。徐々に金満派が勝ち、20世紀初頭、28代大統領ウィルソンにより、連邦準備制度(FRB)ができました。つまり制度の成立に正式に大統領が署名しました。連邦準備制度はニュ-ヨ-クを始め8つの連邦準備銀行からなります。首都ワシントンに上部機関としての準備委員会があります。ともかくアメリカの中央銀行は極めて地方分権的で、他の国と違い、一箇所にあるというものではありません。しかしこのFRBは肝心の大恐慌に際してほとんど機能せず、ニュ-ディ-ル政策等に刺激されて第二次大戦後あたりからぼちぼち機能し始めたと言われます。
 フランス中央銀行は合衆国銀行に遅れること10年、18世紀初頭にナポレオンにより創設されています。ドイツではプロイセン中央銀行が1830年代にでき、プロイセンがフランスを下して、ドイツ統一を成し遂げた後の1875年、ドイツ中央銀行(通称ブンデスバンク)に改組されました。
 日本も似たりよったりです。維新の戦争で国中に、太政官札、藩札、偽札の類が溢れました。外国の抗議に対してなんとかしなくてはなりません。伊藤博文がアメリカの発券銀行を見て帰り、同様の機構を日本にも作ろうと言い出します。これが国立銀行の起こりです。国立だから中央銀行であるわけでもなく、また国家の責任と資本でできたのではありません。国家は、特定の条件を満たす銀行に銀行券の発行資格を与えただけです。事情はイングランド銀行成立時のお話と同様です。こうして各種の銀行券も出回ります。結果として混乱に拍車がかかった感じです。しかしこのどさくさにまぎれて明治政府が諸種の事業をした事も事実です。
西南戦争が起こり、インフレは激しくなりました。インフレは輸入増加、金あるいは銀の海外流出を招きます。この事態に対して松方正義は徹底したデフレ政策を行います。不用と判断された紙幣は焼却されます。結果として明治13年から3年間の間に貨幣流通総額は75%に減りました。国立銀行の存続は20年と制限されます。銀本位制を採用して、日本銀行を作り、ここに発券機能を集中させます。日銀、つまり日本の中央銀行です。日清戦争に勝って得た賠償金を資本として明治31年、日本は金本位制になります。
 銀行の役割は5つくらいあります。まず両替機能があります。昔は色々の貨幣が出回り、あまり信用できません。そこで貨幣を専門家のところへ持って行き、その価値(つまり金銀の実質含有量)を判定してもらいます。両替商は手数料をもらいます。そうなるとこの種の商人には貨幣が集まります。次が貯蓄機能です。自分のところに置いておくよりは、両替商とか金細工師とかの所に置いておく方が安全です。あるいはそこに預けておくだけで商人の信用が確保される事もあります。そして次に貸付機能が来ます。人の金を預かって保管料をもらうのもいいが、必ずしも保管した総額が一気に引き出される事はない、と気付くと、貨幣を預かる側は、この金を資本に困っている人に貸し出し利子をとります。こうなると保管料をもらうより、預けている人にも利子を支払った方が合理的です。もう一つが手形交換機能です。手形が発達します。遠方に大量の金銀を移送するのは面倒で危険でした。そこで手形に変えます。手形は一対一で決済するより、どこかに交換センタ-を設けて、そこで集中的に決済し、出来る限り貸借を帳消しにして、残った部分のみを現金で決済する方が、効率的です。この手形交換機能も銀行が引き受けます。そして信用できる手形には銀行の証明といってよい新たな手形を振り出します。これが紙幣の原点の一つです。こうなると銀行は手形交換とは別個に、同種の証明書を発行します。銀行券です。これが先に述べた発券機能です。
 このように銀行には多種の機能がありますが、現代ではその役割は、貨幣の信用の維持と貨幣の量の調整にあります。そしてこの二つの機能は時として対立します。信用の維持は主として中央銀行が、貨幣の貸し出しは他の民間銀行がその役割として担っています。しかし原点に帰れば、銀行の役割は貨幣の発券つまり貨幣量の増加です。私がこんな事を言うのは、現今の不況と言われる状況において、中央銀行である日銀は狭い意味でのその役割に汲々とせず、もっと大きな視野で貨幣政策を考えて欲しいからです。私は、不況と言われる、と持って回った言い方をしました。それは日本の不況は極めて人為的、つまり政策の不適切あるいわ欠如からくるもので、日本経済の基盤は、少なくとも他の国と比べると、しっかりしていると思うからです。

(付)最近吉野俊彦氏の「歴代日本銀行総裁論」という本を読みました。吉野氏は典型的な日銀官僚の経歴を持つ人です。そして彼は特に井上順一郎と一万田尚人を評価していました。この両人は均衡財政を主導した人達です。逆に高橋是清についてはずいぶん批判的な論調でした。日銀官僚とはこのように、常に安定の方向でのみ、貨幣政策を考える性癖があるのだなあ、と実感させられました。

経済人列伝、大河内正敏、科学から産業へ

2010-04-04 03:27:48 | Weblog
     大河内正敏

大河内正敏はすこぶる毛色の変った経済人です。彼は殿様です。そして本業は学者です。学者でありながら、理化学研究所(理研)の責任者になり、研究所機能と製造業機能を結びつける事に成功し、日本の重化学工業の発展に、従って軍需工業の発展に、尽くしました。
正敏は1878年(明治11年)旧大多喜藩主の長男として千葉県に生まれました。学習院、第一高等学校そして東京帝国大学工科大学を卒業し、すぐ専任講師に任じられ造兵学講座を担当しています。造兵学とは、銃砲を始めとする諸種の軍事機械を対象とする工学です。この間20歳時、旧吉田藩主の養子となり結婚します。襲封して子爵、ドイツに留学、工学博士、東京帝国大学教授に就任し、37歳貴族院議員に当選しています。ここまでならなんら変哲のない秀才学者の人生です。1921年、43歳時、理化学研究所第三代所長になります。ここから正敏の歴史に残る活躍が始まります。なお正敏は造兵学担当と同時に、工学科学生の基礎教養として物理学学習を義務付けています。私もこの事を知って驚きました。二つの学問は双子の兄弟だと思っていましたから。
日露戦争の後、日本は第二次産業革命期に突入します。それはなるべくしてなる産業発展の摂理でもありますが、日露戦争という歴史上初めての大規模消耗戦を経験し、軍事の背後にある工業力の意味を日本の政府や産業界はいやおうなく、認識指せしめられた結果でもあります。さらに第一次大戦中は欧米先進国から高度技術製品輸入が止まります。重化学工業の発展にはなによりも、その基礎となる、研究が欠かせません。当時つまり第一次大戦前の日本にある公的研究機関は、東京・京都・東北帝国大学の理工大学と後は、東京工業試験所、逓信省電気試験所、鉄道大臣官房試験所くらいであり、これらも厳密な意味で研究所の名に値するのか、怪しいものでした。民間研究所に至ってはもっと低い水準にあったと想像されます。
1913年、タカジャスタ-ゼの発見とアドレナリンの結晶化で有名な高峰譲吉がドイツから帰国します。高峰は渋沢栄一と相談して、日本になんらかの理化学研究機関を作るべく運動します。相当の紆余曲折があって、1915年、理化学研究所設立趣意書、が作成されます。発起人の一人に大河内正敏の名が出ています。この研究所の意図は、民間から寄付を集めて、研究資金にしようという事です。1917年に始めて理化学研究所ができました。幹部は以下の通りです。
 総裁  伏見宮貞愛親王
 副総裁 菊池大ろく、渋沢栄一
 顧問  山川健次郎
 理事  大橋新太郎、和田豊治、団琢磨、高松豊吉、高嶺譲吉、中宮武営、桜井錠二、   
     荘清次郎、田所栄治、上山満之進
 監事  岩崎小弥太、原六郎、安田善次郎、古河虎之助、三井八郎右衛門
学会と財界の錚々たる所を集めました。しかし時代は大戦後の不況下にあり、寄付金は思うように集まりません。始めの予定は500万円でしたが、300万円しか集まりませんでした。
 1921年、第三代所長として大河内正敏が就任します。火中の栗を拾う、と世間では言われました。かねてより、正敏は貴族院議員として国防の基礎である重化学工業、さらにその基礎としての理化学(物理学と化学)の研究、しかも基礎的研究の意義を説いていました。それまで戦争は戦闘であり、優秀な兵士と優秀な武器を装備して、短期間に結果が出るものという、認識でした。第一次大戦を経験してもそうでした。特に日本はこの大戦に参加していませんので、総力戦の意味を知る者はほとんどない有様でした。大河内は造兵学者の立場から出発して、学者という狭い範囲の認識を超えて、総力戦、その為の資本装備と研究開発の緊要さを知り、力説しました。だから理研設立の発起人の一人になり、所長就任を引き受けました。彼が工学の基礎として物理学を唱導したのと同じです。学者としては基礎研究を重視し、学術政策家としては総力戦の持つ経済的な意味を知悉していた、稀な人材です。
 正敏は理研の維持発展のために行動します。彼が所長になってから、理研の活動が実践化されたといえます。正敏は部長制度を廃止して主任研究員制に変えます。研究単位を細分し、その責任者として主任研究員を任じ、研究者の自主性が発現されやすいようにします。
 寄付金だけでは足りません。国家補助金を増やします。多分彼の貴族院議員として人脈を生かしたのでしょう。そして切り札は、自力による発明の工業化、です。彼は理化学興業(工業ではありません)を設立します。この組織は理研で開発された特許を工業化する組織です。理研がいくら特許を開発しても、当時の日本の工業力と技術水準、特に経営者の意識水準の為に、肝心の特許が買われません。正敏は、それなら理研の自力で特許を実用化してやろう、と思ったわけです。そのために試験工場という制度・組織を作りました。文字通り、実験=製造・企業化のプロセスを遂行しようという試みです。
 実例を挙げます。マグネシウムの生産が必要になっていました。マグネシウムはアルミニウムより比重が小さく、航空機を作る上に重要です。二つの金属の合金がジュラルミンです。日本にはマグネシウムを出す鉱山はありません。海水の中にはあります。海水は無限量です。そこで海水からマグネシウムを取り出す技術の開発が試行されました。当時の日本のマグネシウムの需要は10トンでした。正敏は航空機の発展を考慮して20トンの生産を目指します。1932年、信濃電気と提携し同社の子会社内に、理研マグネシウムという会社を設立します。また併行してマグネシウム生産を試みていた満鉄中央研究所と提携し、満鉄を中心に理研、住友金属、三菱重工業、古河電気工業、沖の山炭鉱が共同出資して日満マグネシウムを設立します。既述の利権マグネシウムは同社に吸収されます。
 海軍航空本部長山本五十六に依頼されてピストンリングの改良を試みます。慎重なテストを経て、開発された技術は新潟県の農村に作られた理研の工場で生産されます。農村の女子労働力を生かしました。
 正敏は、理研は本来研究機関であり、民間が特許の使用をする力が無いから、企業化に踏み切ったのですから、理研傘下の企業は本来ヴェンチュア-であり、小規模はやむを得ないと考えていました。理研傘下の企業が増えます。多種の参加形態がありました。試験工場を皮切りにして、そこから理研の子会社として独立するもの、特殊なあり方としての農村企業、買収したもの、そして自発的に理研に加盟した会社などがあります。これらの会社の資金融通のために、富国工業という持株会社を作ります。他に宣伝広告や販売のための会社も設立します。こうしてできた企業群を理研コンツエルンと言います。
 正敏の経営には際立った特徴があります。まず科学主義です。この事に関しては、単刀直入に、科学は経営に優る、あるいは、科学は資本に優る、と明言しています。だから正敏は単純な経営者ではありません。この事情を背景にして、一業一品主義を理想とします。また連鎖型経営を目指します。一つの研究は多くの可能性を産みます。そこから出てくる連鎖に従って、各段階で企業化できるものは企業化しようと、という考えです。また、資本は科学が解らない、とも言いました。研究開発には小規模企業の方が有利だというわけです。また熟練した専門工より、非熟練工を使用します。ただしその為には、熟練しなくとも扱える機械の開発が必要です。労働賃金の安さもあって、農村企業として試みられました。なんとなくアメリカのフォ-ドの考えと、中国の郷鎮企業の発想を混ぜ合わせた考えのような気がします。
 戦時体制下において臨時資金調整法が作られると正敏の企図は挫折します。この法律は一定量以上の資本金を有する企業にのみ重要産業への従事を任せる・優遇する事がその内容でした。正敏の批判する資本重点主義であります。正敏は科学主義に基づく技術の発展と、生産の促進は、必ずしも資本の量にはよらないと考えていました。彼は、政府は産業を知らない、だから大資本を優遇するのだと、言います。理研はかかる体制下、次第に資金融通に困り、再編を余儀なくされてゆきます。なおこの法律で締め出された中小企業が理研の加盟会社として生き残ろうとします。こうして理研産業団は膨張しました。
 ここで1925年時における特許の案件のごく一部を例示してみましょう。全部で80件あります。5件に限定します。
  インド-ル製造法
  清酒代用飲料製造法
  青化法による遊離窒素の固定法
  油脂より脂肪性ヴィタミンAを抽出する方法
  アルミニウム電気絶縁被膜の製法
あくまで例として挙げました。専門的な研究であり、同時に実用を目指している事が察知されます。
 1943年における仁科研究室のメンバ-は以下の通りです。
  原子核及び中間子の理論担当グル-プ
   主任研究員 仁科芳雄
   研究員   朝永振一郎 湯川英樹 
   副研究員・助手・嘱託 武谷三男・坂田昌一以下19名
専門外の私が知っている名前のみ挙げました。言われるまでもなく、湯川・朝永はノ-ベル賞受賞の第一及び第二号です。武谷と坂田も量子力学の権威になりました。このような研究グル-プが数十はあったようです。朝永振一郎は、理研の研究室ほど、自由な研究環境は無かったと、言っています。
 1945年敗戦。同年正敏は戦犯容疑者として巣鴨拘置所に収監されます。翌年出所、理研所長辞任、公職追放。そして1952年東大付属病院で死去しています。享年73歳。
なお理研の研究成果のかなりの部分は占領軍に押収されたようです。また日本の研究の進展を恐れた占領軍により、かなりの部分の研究領域が抹殺されたとも言われています。もっともこのような事は歴史の闇の中の事です。正敏が軍需工業に関連した事は事実ですが、彼の視野は重化学工業全般に及び、軍備はこの広い領域を包んだ政策を行わなければ、意味が無いと主張しました。この伝で行けば、戦前重化学工業に携わった者はすべて戦犯か公職追放の容疑者になります。事実占領軍は日本の重化学工業を壊滅させる意向でした。私が思いますに、アメリカのマンハッタン計画(原爆製造)に従事した研究者は戦犯にはならないのでしょうか?私は日本であれアメリカであれ、「戦犯」という概念は無意味なものだと、思っています。一国が戦争を決意した時、それに協力するのは自然の勢いです。戦争はとは所詮対立する国家間の利害調整の過程です。優劣勝敗の差はあれ、どちらにも「正義」はありません。同様に「悪」もありません。学徒動員に取られ終戦を迎えた知人が言っていました。東京裁判、あれは、勝てば官軍、ですなと。私も、少なくとも現在の心境としては、同感です。

 参考文献  新興コンツエルン理研の研究-大河内正敏と理研産業団  時潮社
       大河内正敏-評伝、日本の経済思想  日本経済新聞社