郷誠之助
男爵郷誠之助は今日では知る人も少ないと思いますが、明治後半から大正そして昭和戦前期にかけて、財界世話人として経済界の表裏に活躍した人物です。財界の巨頭と言ってもいいし、黒幕とも言えましょう。財界世話人と言いますとなにやら後ろくらい印象をうけますし、またその種の行為が無かったとは思えませんが、財界世話業という稼業は、日清戦争以後の日本資本主義の勃興・発展期にあって、乱立迷走する企業群を金融資本を介して統合し、彼らに一定の秩序を守らせる事を目的とします。実際の事跡としては、経営困難に陥った企業の合理化と減資、救済そして、合併です。誠之助が関連した主な企業はその殆んどが、重化学工業に属するものです。彼が活躍した期間はまさしく重化学工業の発展期に当たっていました。
郷誠之助は1865年(慶応元年)に父親純造の郷里である美濃国(岐阜県)稲葉郡黒野村で生まれ、すぐ東京の番町に住みます。誠之助を語る前に、父親純造の事跡を語る必要があるでしょう。誠之助はすでに華族となった男爵郷純造の政治的経済的遺産を継承して、財界という舞台に立ちます。純造は美濃黒野村の富農でした。この村で4家ある長百姓(おさびゃくしょう)の1つが郷家です。長百姓の多くは戦国時代の名主(みょうしゅ)つまり地侍の出であり、兵農分離と共に郷村に土着し、村の指導者(名主・庄屋)として村を支配しました。
純造はよほどやり手であり野心家であったようで、一介の豪農である事には満足せず、武家奉公を志します。幕臣の用人になります。仕える主人を適宜変え、大阪町奉行の家老になります。家老と言っても旗本のそれですから、給付は知れていますし、代々の家柄である必要はありません。しかし二人の大阪町奉行に仕えた事は純造にとって意味があったでしょう。当時政局は京都を中心に廻っていました。幕府の要人の殆んどが京大阪に出張り、朝廷や薩長などの西南雄藩と交渉していました。江戸の残るものはぼんくらが多かったといわれています。純造は江戸に行き、幕臣の株を買って、新たに設立された幕府陸軍撒兵(歩兵)になります。すぐ維新戦争が勃発します。鳥羽伏見の戦に敗れた徳川慶喜の助命嘆願の使いの従者になり、ここで一命をかけた活躍をしたと彼の自記にはあります。その功で大番役をかねて陸軍の士官(指図役)になります。200俵10人扶持と言いますから、立派な旗本です。官軍が江戸に進駐して来た時、純造は兵の動揺を押さえ、民間に隠していた(恐らく反乱防止のためでしょう)新式銃4000挺を官軍に引き渡しています。
明治元年新政府に出仕し、会計組頭になります。係長クラスというところでしょうか。累進して大蔵少丞、さらに大丞になります。この間戸籍関係の役務もこなし、民部省の役人もしています。明治19年大蔵次官、21年退官。後男爵になり貴族院議員に任命されます。明治43年、純造86歳、死去。
純造に関しては二つの重要な逸話があります。彼は幕臣渋沢栄一を新政府に推挙します。渋沢は井上馨と組み、以後両者は明治財界の表裏の巨頭になります。渋沢と純造の出自と経歴は似ています。誠之助はこういう非常に貴重な人脈も父親から遺贈されたことになります。
純造は松方財政に極めて積極的に協力しています。彼の自記や誠之助の自伝によれば、純造が松方財政、特に流通貨幣量削減の提案者になります。明治12年国債局長である純造は大蔵卿松方正義に、貨幣・債権の膨張とその削減(2000万円)のを上申しています。ここで二つの事が考えられます。純造は極めて優れた経済官僚であり、明治20年までの政府財政の事実上の主導者でもあったのではないかという事です。事実日清戦争までの明治政府における技術官僚としての旧幕臣の比重は決して小さいものではなく、彼らなくして政府の運営は不可能であったでしょう。後年誠之助が行う財界世話業の中身は、案外この(父親の起案になる)松方財政と似ています。
誠之助は銀のスプ-ンをくわえて生まれてきた事になります。慶応元年彼が生まれた時父親純造はすでに44歳、養子として義兄がすでにいました。ですから誠之助は事実上の長男、戸籍では次男になります。
誠之助は幼少期、番町のガキ大将でした。当時できたばかりの小学校に行きます。そして東京英語学校に進学しますが、遊びが激しくなります。仙台中学校(仙台英語学校改め)に転学しますが、くるわ通いに夢中になります。要するに遊びまくったわけです。しかし成績は悪くはありませんでした。卒業して帰京、英語を学びます。15歳英語教育で定評のある京都の同志社英語学校に学びます。この間無銭旅行をしたり、薬の行商をして、一時期父親から勘当されます。19歳東京に帰り東京帝国大学法科に入学します。誠之助は法学よりむしろ哲学を勉強します。当時の日本には英仏の哲学特に、スペンサ-やルソ-のそれしか紹介されておらす、誠之助は哲学の本場であるドイツで学びたかったようです。
そしてこの時彼の人生を決定しかねない大事件がもちあがります。誠之助は大蔵省銀行局長の岩崎小二郎の姪である中村のぶ子と相思相愛の関係になります。駆け落ちそして結婚まで決意しますが、岩崎は二人の関係に反対し、のぶ子を郷里の佐賀県に帰してしまいます。そしてのぶ子から誠之助にあてた最後の手紙の後、予言どおり服毒自殺を敢行します。以後誠之助は終生正式の結婚をせず人生を送ります。彼の写真を見ると実に良い顔をしており美男子です。特に東京電灯会長時代の写真は威風堂々とした歌舞伎役者も顔負けする容貌であり風采です。
翌年の明治17年誠之助20歳時、ドイツ留学をします。約8年滞在します。伊藤博文の駐独大使青木周蔵にあてた紹介状付きですから豪華な留学です。ドイツではハイデルベルグを主としハッレやライプチッヒに学びます。心理学のブント、経済学のロッシャ-やクニ-スという現在でも名の残る学者の講義を聴きます。
27歳、ドイツで博士号を取得して帰国します。陸奥宗光を慕って農商務省の嘱託になりますが、陸奥辞任に伴い、官職をすてて財界に転進します。28歳日本運輸社長に就任、32年日本鉛管製造株式会社、33年入山採炭株式会社、35年王子製紙株式会社を担当します。いずれの場合も社長かそれに準じる役職に就きます。仕事は潰れかかった会社の立て直しです。合併させたり、新技術を導入したり、人事の仲裁をしたりしますが、詳細は解りません。他に日本メリヤス、日本醤油醸造、日本火災保険株式会社などに関係しています。ここで疑問が湧きます。若干28歳で、なんの経験もない若造に中小とは言え、会社再建をおいそれと任せるものでしょうか?一応理由と背景を考えて見ましょう。まず当時父親純造はまだ存命でした。この七光の影響は?また父親の人脈も重要です。特に潰れかかって、こじれた企業の再建には。洋行帰りというブランドの価値もある?などが考えられます。当時洋行帰りはそれだけで優秀とされました。また企業再建という仕事は、誠之助のような極道っぽい経歴のある人間には向いていたのかもしれません。こうして潰れかかった会社を再建しつつ、誠之助は段々頭角を現わしてゆきます。
明治43年47歳時、東京証券取引所理事長に就任します。周囲の人はこの就任を彼のために喜ばなかったそうです。証券取引所における株の売買は、一種の賭博であり虚業とみなされる傾向がありました。誠之助はこのような偏見を廃して、断固引き受けます。明治7年東京と大阪に一箇所づつ証券取引所が設けられます。取引所の始めの役割は金録公債(武士の扶持を金券に変えて与える債権)を始めとする公債の売買でした。公債はその良否によりその実価格が違ってきます。だから何かの仲介機関がないと公債は売れません。この機能から証券取引所は出発します。これは私の憶測ですが、取引所が最初に扱ったのは、公債だけとは限りません。明治7年と言えば、いろんな種類の紙幣が民間に溢れていました。これらの紙幣にはすべて正負のプレミアがつきます。これも売買の対象になるはずです。
松方財政が一段落すると、日本は企業の勃興期を迎えます。そして日清戦争の勝利で、外資も導入され、拍車がかかります。株式会社が雨後のたけのこのように出現します。証券株も増加します。株式の売買が成立しないと、資本はできないのですから、取引所は絶対必要でした。しかし多くの人、財界人すら、株の売買には偏見と言うより嫌悪感を持っていました。誠之助は取引所理事長就任を喜んで引き受けます。彼が株式売買の意義を知り抜いていたからです。ドイツ留学の体験も重要でした。彼が留学した頃(1884-92年)のドイツは産業興隆期でした。その少し前から経済は過熱気味であり、泡沫会社が乱立され、成長と混乱そしてそれへの対処にドイツ政府は追われ、経験を積んでいた頃です。誠之助はここから多くの事を学んだはずです。
証券取引所の役目は、少なくとも最初は政府と仲買人(証券会社に発展)との仲介でした。政府はお高くとまり、実態を知りません。仲買人の道徳は決して高いとはいえません。不正事件がよく起きます。不正事件の温床は小口落しという手口です。仲買人は投資者から金を預かり、売買を仲介します。本来なら客の意見を聞いて判断すべきですが、それをしていてはチャンスを逸するので、仲買人は自分の判断で株を売買する事が多くなります。勢い客(投資者)の金を動かして、売買差額を着服する事も生じます。政府や世間が嫌ったのは、この小口落しという手法でした。政府はこれを禁止しようとします。誠之助は小口落しの手法を守ります。株式や貨幣の信用より、その流動性を重視したわけです。貨幣や株式の動きが止められれば、経済は死滅します。彼にはここのところがよく解っていました。
同時に仲買人の権利も掣肘します。彼らが会員制度を主張して、取引所を彼らの自治に任せようとする動きを封じます。株の売買では時々ガラ(大暴落)が来ます。どうしてもという時、誠之助は日銀に頼み、株式売買の重要性を説いて、融資を取りもちます。彼の在任14年間の間に取引所の資本は2・5倍になりました。
60歳、東京証券取引所理事長辞任。これ以後財界世話業と言われる仕事が始まります。財界世話人の第一号は渋沢栄一でしょう。そして次が彼郷誠之助、他に和田豊治や井上順之助がいます。経済官庁や民間で活躍し多方面に人脈を持つ人達が世話人でした。ここで井上馨は省きます。彼は世話人という以上に明治期財界の黒幕でした。財界世話人の役割は、既に述べたように、金融資本を介して、特に重化学工業の企業群を整理し統合する事でした。誠之助が関わった仕事の主なものを見てゆきましょう。まず日本郵船と東洋汽船の合併があります。サンフランシスコ航路を主とする東洋汽船は、アメリカの新しい船舶に負け続けます。誠之助は渋沢や井上と協同して、結局東洋汽船の株式を1/10に減資し、縮小した経営を軌道に乗せてから、これを郵船に合併させます。帝国製麻と日本製麻の合併も同様の手法でした。経営状態の悪い日本製麻を前社に合併させます。
第十五銀行と川崎造船の再建には誠之助も苦労します。第十五銀行は松方幸次郎(正義の子)を始めとする松方一族が経営に関与し、さらにその創立資金は華族の出資によります。当時としては特別扱いにしなければならない事情があったようです。川崎造船にも松方一族が絡みます。さらに川崎造船は昭和恐慌の台風の眼である台湾銀行とも深い関係にありました。誠之助の提案の骨旨は減資です。減資により株式未払い金という債務は斬り捨てられます。残った株式を資本に新株を発行し、優先株として債権者に与えるなどの手法も用いられています。基本はそういうところです。
他に北洋漁業に関与した事もあります。当時でも北洋漁業は日ソの懸案事項でした。日本のある企業が漁業権をソ連から破格の値段で購入します。日本国内の漁業の秩序を乱すとして介入し、撤回させます。
誠之助が対象とした主な企業は重化学工業です。日本は重化学工業を育成しなければなりませんでした。巨大な資本が必要です。しかしこの間の日本経済は不況の連続でした。資本は容易には集まりません。なるべく効果的に資本を用いる必要があります。ここに財界世話人といわれる人達の出番があります。日経連や経済同友会のような経営者の団体はまだありません。世話人は顔とコネを生かして、企業群に関与し調停します。その手法は減資と合併による、業界全体としての規模縮小と、大企業の育成による競争力の強化でした。カルテルと同様のやり方です。ここでも誠之助のドイツ留学体験は生きているのでしょう。
誠之助が関与した仕事の中で最大のものは日本製鉄の設立です。大正期の極めて短い間に20を超える製鉄会社ができました。群小乱立です。憂慮した財界の一部は東洋製鉄という会社を大正5年に作り、群小の会社を統合しようといます。結局この業界における鶏群の一鶴である八幡製鉄に合併吸収されて日本製鉄ができました。
もう一つ彼が関与した事業には5大電力会社の合併があります。最大の東京電燈は経営危機でした。彼は社長に就任し、例のやり方で会社の経営を一部改善しておいて、他の4社東邦電力、大同電力、日本電力、宇治川電気と合併させます。
郷誠之助は大正6年に結成された日本工業倶楽部(クラブ)の専務理事になっています。彼が関与してきた事業、つまり日本の重化学工業育成という観点からみれば、当然でしょう。昭和6年には東京商工会議所会頭に就任します。ここで彼は大企業中心の経営を進めるべく舵をとります。
68歳日本経済連盟会会長に就任。この間貴族院議員、男爵を襲封。昭和17年78歳死去。
参考文献 男爵郷誠之助君伝 大空社、郷男爵記念会編 大阪市立図書館蔵
男爵郷誠之助は今日では知る人も少ないと思いますが、明治後半から大正そして昭和戦前期にかけて、財界世話人として経済界の表裏に活躍した人物です。財界の巨頭と言ってもいいし、黒幕とも言えましょう。財界世話人と言いますとなにやら後ろくらい印象をうけますし、またその種の行為が無かったとは思えませんが、財界世話業という稼業は、日清戦争以後の日本資本主義の勃興・発展期にあって、乱立迷走する企業群を金融資本を介して統合し、彼らに一定の秩序を守らせる事を目的とします。実際の事跡としては、経営困難に陥った企業の合理化と減資、救済そして、合併です。誠之助が関連した主な企業はその殆んどが、重化学工業に属するものです。彼が活躍した期間はまさしく重化学工業の発展期に当たっていました。
郷誠之助は1865年(慶応元年)に父親純造の郷里である美濃国(岐阜県)稲葉郡黒野村で生まれ、すぐ東京の番町に住みます。誠之助を語る前に、父親純造の事跡を語る必要があるでしょう。誠之助はすでに華族となった男爵郷純造の政治的経済的遺産を継承して、財界という舞台に立ちます。純造は美濃黒野村の富農でした。この村で4家ある長百姓(おさびゃくしょう)の1つが郷家です。長百姓の多くは戦国時代の名主(みょうしゅ)つまり地侍の出であり、兵農分離と共に郷村に土着し、村の指導者(名主・庄屋)として村を支配しました。
純造はよほどやり手であり野心家であったようで、一介の豪農である事には満足せず、武家奉公を志します。幕臣の用人になります。仕える主人を適宜変え、大阪町奉行の家老になります。家老と言っても旗本のそれですから、給付は知れていますし、代々の家柄である必要はありません。しかし二人の大阪町奉行に仕えた事は純造にとって意味があったでしょう。当時政局は京都を中心に廻っていました。幕府の要人の殆んどが京大阪に出張り、朝廷や薩長などの西南雄藩と交渉していました。江戸の残るものはぼんくらが多かったといわれています。純造は江戸に行き、幕臣の株を買って、新たに設立された幕府陸軍撒兵(歩兵)になります。すぐ維新戦争が勃発します。鳥羽伏見の戦に敗れた徳川慶喜の助命嘆願の使いの従者になり、ここで一命をかけた活躍をしたと彼の自記にはあります。その功で大番役をかねて陸軍の士官(指図役)になります。200俵10人扶持と言いますから、立派な旗本です。官軍が江戸に進駐して来た時、純造は兵の動揺を押さえ、民間に隠していた(恐らく反乱防止のためでしょう)新式銃4000挺を官軍に引き渡しています。
明治元年新政府に出仕し、会計組頭になります。係長クラスというところでしょうか。累進して大蔵少丞、さらに大丞になります。この間戸籍関係の役務もこなし、民部省の役人もしています。明治19年大蔵次官、21年退官。後男爵になり貴族院議員に任命されます。明治43年、純造86歳、死去。
純造に関しては二つの重要な逸話があります。彼は幕臣渋沢栄一を新政府に推挙します。渋沢は井上馨と組み、以後両者は明治財界の表裏の巨頭になります。渋沢と純造の出自と経歴は似ています。誠之助はこういう非常に貴重な人脈も父親から遺贈されたことになります。
純造は松方財政に極めて積極的に協力しています。彼の自記や誠之助の自伝によれば、純造が松方財政、特に流通貨幣量削減の提案者になります。明治12年国債局長である純造は大蔵卿松方正義に、貨幣・債権の膨張とその削減(2000万円)のを上申しています。ここで二つの事が考えられます。純造は極めて優れた経済官僚であり、明治20年までの政府財政の事実上の主導者でもあったのではないかという事です。事実日清戦争までの明治政府における技術官僚としての旧幕臣の比重は決して小さいものではなく、彼らなくして政府の運営は不可能であったでしょう。後年誠之助が行う財界世話業の中身は、案外この(父親の起案になる)松方財政と似ています。
誠之助は銀のスプ-ンをくわえて生まれてきた事になります。慶応元年彼が生まれた時父親純造はすでに44歳、養子として義兄がすでにいました。ですから誠之助は事実上の長男、戸籍では次男になります。
誠之助は幼少期、番町のガキ大将でした。当時できたばかりの小学校に行きます。そして東京英語学校に進学しますが、遊びが激しくなります。仙台中学校(仙台英語学校改め)に転学しますが、くるわ通いに夢中になります。要するに遊びまくったわけです。しかし成績は悪くはありませんでした。卒業して帰京、英語を学びます。15歳英語教育で定評のある京都の同志社英語学校に学びます。この間無銭旅行をしたり、薬の行商をして、一時期父親から勘当されます。19歳東京に帰り東京帝国大学法科に入学します。誠之助は法学よりむしろ哲学を勉強します。当時の日本には英仏の哲学特に、スペンサ-やルソ-のそれしか紹介されておらす、誠之助は哲学の本場であるドイツで学びたかったようです。
そしてこの時彼の人生を決定しかねない大事件がもちあがります。誠之助は大蔵省銀行局長の岩崎小二郎の姪である中村のぶ子と相思相愛の関係になります。駆け落ちそして結婚まで決意しますが、岩崎は二人の関係に反対し、のぶ子を郷里の佐賀県に帰してしまいます。そしてのぶ子から誠之助にあてた最後の手紙の後、予言どおり服毒自殺を敢行します。以後誠之助は終生正式の結婚をせず人生を送ります。彼の写真を見ると実に良い顔をしており美男子です。特に東京電灯会長時代の写真は威風堂々とした歌舞伎役者も顔負けする容貌であり風采です。
翌年の明治17年誠之助20歳時、ドイツ留学をします。約8年滞在します。伊藤博文の駐独大使青木周蔵にあてた紹介状付きですから豪華な留学です。ドイツではハイデルベルグを主としハッレやライプチッヒに学びます。心理学のブント、経済学のロッシャ-やクニ-スという現在でも名の残る学者の講義を聴きます。
27歳、ドイツで博士号を取得して帰国します。陸奥宗光を慕って農商務省の嘱託になりますが、陸奥辞任に伴い、官職をすてて財界に転進します。28歳日本運輸社長に就任、32年日本鉛管製造株式会社、33年入山採炭株式会社、35年王子製紙株式会社を担当します。いずれの場合も社長かそれに準じる役職に就きます。仕事は潰れかかった会社の立て直しです。合併させたり、新技術を導入したり、人事の仲裁をしたりしますが、詳細は解りません。他に日本メリヤス、日本醤油醸造、日本火災保険株式会社などに関係しています。ここで疑問が湧きます。若干28歳で、なんの経験もない若造に中小とは言え、会社再建をおいそれと任せるものでしょうか?一応理由と背景を考えて見ましょう。まず当時父親純造はまだ存命でした。この七光の影響は?また父親の人脈も重要です。特に潰れかかって、こじれた企業の再建には。洋行帰りというブランドの価値もある?などが考えられます。当時洋行帰りはそれだけで優秀とされました。また企業再建という仕事は、誠之助のような極道っぽい経歴のある人間には向いていたのかもしれません。こうして潰れかかった会社を再建しつつ、誠之助は段々頭角を現わしてゆきます。
明治43年47歳時、東京証券取引所理事長に就任します。周囲の人はこの就任を彼のために喜ばなかったそうです。証券取引所における株の売買は、一種の賭博であり虚業とみなされる傾向がありました。誠之助はこのような偏見を廃して、断固引き受けます。明治7年東京と大阪に一箇所づつ証券取引所が設けられます。取引所の始めの役割は金録公債(武士の扶持を金券に変えて与える債権)を始めとする公債の売買でした。公債はその良否によりその実価格が違ってきます。だから何かの仲介機関がないと公債は売れません。この機能から証券取引所は出発します。これは私の憶測ですが、取引所が最初に扱ったのは、公債だけとは限りません。明治7年と言えば、いろんな種類の紙幣が民間に溢れていました。これらの紙幣にはすべて正負のプレミアがつきます。これも売買の対象になるはずです。
松方財政が一段落すると、日本は企業の勃興期を迎えます。そして日清戦争の勝利で、外資も導入され、拍車がかかります。株式会社が雨後のたけのこのように出現します。証券株も増加します。株式の売買が成立しないと、資本はできないのですから、取引所は絶対必要でした。しかし多くの人、財界人すら、株の売買には偏見と言うより嫌悪感を持っていました。誠之助は取引所理事長就任を喜んで引き受けます。彼が株式売買の意義を知り抜いていたからです。ドイツ留学の体験も重要でした。彼が留学した頃(1884-92年)のドイツは産業興隆期でした。その少し前から経済は過熱気味であり、泡沫会社が乱立され、成長と混乱そしてそれへの対処にドイツ政府は追われ、経験を積んでいた頃です。誠之助はここから多くの事を学んだはずです。
証券取引所の役目は、少なくとも最初は政府と仲買人(証券会社に発展)との仲介でした。政府はお高くとまり、実態を知りません。仲買人の道徳は決して高いとはいえません。不正事件がよく起きます。不正事件の温床は小口落しという手口です。仲買人は投資者から金を預かり、売買を仲介します。本来なら客の意見を聞いて判断すべきですが、それをしていてはチャンスを逸するので、仲買人は自分の判断で株を売買する事が多くなります。勢い客(投資者)の金を動かして、売買差額を着服する事も生じます。政府や世間が嫌ったのは、この小口落しという手法でした。政府はこれを禁止しようとします。誠之助は小口落しの手法を守ります。株式や貨幣の信用より、その流動性を重視したわけです。貨幣や株式の動きが止められれば、経済は死滅します。彼にはここのところがよく解っていました。
同時に仲買人の権利も掣肘します。彼らが会員制度を主張して、取引所を彼らの自治に任せようとする動きを封じます。株の売買では時々ガラ(大暴落)が来ます。どうしてもという時、誠之助は日銀に頼み、株式売買の重要性を説いて、融資を取りもちます。彼の在任14年間の間に取引所の資本は2・5倍になりました。
60歳、東京証券取引所理事長辞任。これ以後財界世話業と言われる仕事が始まります。財界世話人の第一号は渋沢栄一でしょう。そして次が彼郷誠之助、他に和田豊治や井上順之助がいます。経済官庁や民間で活躍し多方面に人脈を持つ人達が世話人でした。ここで井上馨は省きます。彼は世話人という以上に明治期財界の黒幕でした。財界世話人の役割は、既に述べたように、金融資本を介して、特に重化学工業の企業群を整理し統合する事でした。誠之助が関わった仕事の主なものを見てゆきましょう。まず日本郵船と東洋汽船の合併があります。サンフランシスコ航路を主とする東洋汽船は、アメリカの新しい船舶に負け続けます。誠之助は渋沢や井上と協同して、結局東洋汽船の株式を1/10に減資し、縮小した経営を軌道に乗せてから、これを郵船に合併させます。帝国製麻と日本製麻の合併も同様の手法でした。経営状態の悪い日本製麻を前社に合併させます。
第十五銀行と川崎造船の再建には誠之助も苦労します。第十五銀行は松方幸次郎(正義の子)を始めとする松方一族が経営に関与し、さらにその創立資金は華族の出資によります。当時としては特別扱いにしなければならない事情があったようです。川崎造船にも松方一族が絡みます。さらに川崎造船は昭和恐慌の台風の眼である台湾銀行とも深い関係にありました。誠之助の提案の骨旨は減資です。減資により株式未払い金という債務は斬り捨てられます。残った株式を資本に新株を発行し、優先株として債権者に与えるなどの手法も用いられています。基本はそういうところです。
他に北洋漁業に関与した事もあります。当時でも北洋漁業は日ソの懸案事項でした。日本のある企業が漁業権をソ連から破格の値段で購入します。日本国内の漁業の秩序を乱すとして介入し、撤回させます。
誠之助が対象とした主な企業は重化学工業です。日本は重化学工業を育成しなければなりませんでした。巨大な資本が必要です。しかしこの間の日本経済は不況の連続でした。資本は容易には集まりません。なるべく効果的に資本を用いる必要があります。ここに財界世話人といわれる人達の出番があります。日経連や経済同友会のような経営者の団体はまだありません。世話人は顔とコネを生かして、企業群に関与し調停します。その手法は減資と合併による、業界全体としての規模縮小と、大企業の育成による競争力の強化でした。カルテルと同様のやり方です。ここでも誠之助のドイツ留学体験は生きているのでしょう。
誠之助が関与した仕事の中で最大のものは日本製鉄の設立です。大正期の極めて短い間に20を超える製鉄会社ができました。群小乱立です。憂慮した財界の一部は東洋製鉄という会社を大正5年に作り、群小の会社を統合しようといます。結局この業界における鶏群の一鶴である八幡製鉄に合併吸収されて日本製鉄ができました。
もう一つ彼が関与した事業には5大電力会社の合併があります。最大の東京電燈は経営危機でした。彼は社長に就任し、例のやり方で会社の経営を一部改善しておいて、他の4社東邦電力、大同電力、日本電力、宇治川電気と合併させます。
郷誠之助は大正6年に結成された日本工業倶楽部(クラブ)の専務理事になっています。彼が関与してきた事業、つまり日本の重化学工業育成という観点からみれば、当然でしょう。昭和6年には東京商工会議所会頭に就任します。ここで彼は大企業中心の経営を進めるべく舵をとります。
68歳日本経済連盟会会長に就任。この間貴族院議員、男爵を襲封。昭和17年78歳死去。
参考文献 男爵郷誠之助君伝 大空社、郷男爵記念会編 大阪市立図書館蔵