経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本人のための政治思想史(13) 連歌と茶会

2014-07-30 17:33:25 | Weblog
(13) 連歌と茶会
連歌と茶会(飲茶・茶道)は典型的な日本の文化です。両者に共通する特徴は、集団で行う遊び、文学芸能であることです。連歌も茶会も淵源は平安時代にまで遡れます。連歌が始めて登場するのは白川法皇の命で編纂された金葉集です。茶は成尋(の弟子達)や栄西など、僧侶によって宋国から日本に将来されました。連歌も茶会も盛大になったのは室町そして戦国時代です。鎌倉時代から室町時代にかけて日本の農村社会は大きく変わります。郷村が出現します。荘園領主の支配とは無関係に、耕作農民は独自の地縁集団を作ります。郷村の農民も都市の商工業者も座を作って団結しました。この団結を一揆といいます。連歌と茶会は座と一揆という極めて大衆的な動向から生まれた文化であり芸術です。
 連歌は大衆の生活文化です。鎌倉時代既に庶民が春の花見時木の下で一杯やりながらわいわいがやがやと和歌を作りあって連歌が催されていました。大衆的な連歌を文学にまで仕上げた人物が二条良基です。彼は準勅撰といえる連歌集「筑波集」を作成し連歌の規則を定めます。連歌は和歌の5-7-5-7-7の語のつながりを上の句の5-7-5と下の句の7-7に分断します。まず上の句を歌い、それに他者が下の句を付けます。さらに第三者がその下の句に新たな上の句を付けます。こうして句あるいわ歌が連ってゆきます。だから連歌といいます。会衆は三人以上です。二条良基は連歌に関しては極めて大衆的な人で、連歌作成には身分は関係しない、と断言しました。連歌自体が花の下でのがやがや連歌から始まっているのですから当然です。二条良基は五摂家の当主、一流の歌人、有職故実の家元、同時に北朝の有力な廷臣である最高の貴族です。連歌はさらに一条兼良や心敬をへて宗祇に引き継がれます。一条兼良は最後の勅撰集「新続古今集」の編纂者です。良基、兼良そして三条西実隆の三人は上層公卿の出身であり、室町戦国時代を通じての貴族文化の保持者であり、そしてこれらの文化を江戸時代の庶民文化に仲介する役割を果たした人達です。単なる仲介ではありません。彼ら公卿達は江戸時代に貴族文化を家職として受けつぎます。同時にこの家職としての古典文化は江戸時代の庶民文化の背景基軸として重要な役割を果たします。朝廷公卿は武家政治全盛の時代にあっても文化の護持者として生き残り、現在の天皇制の基礎を造ります。
 宗祇は1421から1502年にかけて生きました。80年の人生のうちその前半は室町将軍の権勢の盛期、後半は応仁の乱以後の戦国時代の開幕期です。和歌を一条兼良や東常縁に学び古今伝授を受け、連歌界の英才として頭角を表します。彼は西行や芭蕉と同様に終生旅に生き旅に暮らしました。戦国大名の教養指南者であり、また情報提供者でもあったようです。宗祇も二条良基にならい、連歌作成における季節と気分の変化を重視します。連想の自由を保障するためです。彼が二人の弟子とともに詠んだ「水無瀬三吟何人百韻」のうちから最初の部分を掲載してみます。
   雪ながら山もと霞む夕(ゆうべ)かな        宗祇
      行く水遠く梅にほう春            弟子A
   河原にひと叢(むら)柳春みえて          弟子B
      舟棹す(さす)音も著き(しるき)明方    宗祇
   月やなお霧わたりたる夜に残るらむ         弟子A
微妙なニュアンスの差ですが五句の季節は、晩冬か早春-春-晩春か初夏-夏-秋と変化してゆきます。発句は後鳥羽院の
   見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思いけむ
からとられています。新古今集冒頭の歌です。後鳥羽院の歌は、清少納言の枕草子冒頭の「春はあけぼの、秋は夕暮れ」への反論です。連歌は掛け合いです。そこには相手の立場への配慮はむろんのこと、駆け引き、からかい、滑稽、さらには遊びの趣向も含まれます。宗祇の発句は後鳥羽院の清少納言への掛け合いを背景として詠まれています。連歌では発句、最初の第一句が重視されます。発句だけが独立し俳諧俳句というジャンルができました。江戸時代は俳句全盛の時代です。宗祇は「新撰筑波集」という作品を残しています。なお俳諧の諧は諧謔つまりしゃれの諧です。
 茶はインドのアッサムから中国の雲南を中心とし四川と湖南の一部を含む照葉樹林帯、東亜半月弧といわれる一帯を原産地としています。シナの河北には後漢の時代に持ち込まれました。日本には留学僧が平安時代以後持ち帰りました。有名なのが栄西です。この頃から茶は寺院特に禅宗の寺院で愛飲されました。禅苑清規と茶令という規則が設けられます。なぜ禅院で愛飲されたのか。答えは簡単、眠気覚ましです。コ-ヒ-の初期愛飲者がイスラム神秘主義者達であったことと軌を一にします。禅僧もイスラム神秘主義者も眠けには勝てなかったのです。
 茶は鎌倉時代には寺院外でも多くの人に賞味されます。室町時代になるとさらに飲み方が大規模になり、闘茶の会が開かれます。茶の銘柄を懸物つきで当てる大会です。南北朝期に活躍したバサラ大名佐々木道誉が有名です。この頃にはすでに武士豪商のみならず一般の庶民も飲茶を楽しんでいました。
 画期は東山文化、八代将軍義政が主宰する銀閣寺を中心として展開された文化の時代です。義政が日本の文化に尽くした貢献には大なるものがあります。建築、作庭、書画、茶道、陶磁器の収集鑑定、能狂言などなどへの影響は甚大です。政治はおっぽりだして遊び人ですが、美的感性は鋭敏でした。特に茶道への影響は計り知れません。義政は陶磁器それも唐物の収集にふけりました。彼が鑑定収集した陶磁器は東山殿御物として権威を持っていました。彼が建てた銀閣寺の東求堂は書院造りの第一号です。書院造と言えば畳の間、書院、床の間があります。日本建築の元型です。書院、畳の間の出現で日本式茶会が中国式茶会から独立しました。東求堂同仁斎はまだ単なる書院でしかありませんが、ここから茶室が始まります。
 それまでの茶会はかなりらんちきな宴会でした。舶来の物品を掛け物とする博打でもあり、最後は酒席になりどんちゃん騒ぎで終わります。村田珠光という人物が出現します。彼は奈良で生まれ興福寺下の称名寺に入ります。仕事をさぼって追いだされます。珠光は京都大徳寺に入り一休宗純のもとで参禅します。ここで彼は、茶湯の中にも仏道があると悟り、従来の茶席を著しく精神化します。茶禅一味です。唐物礼賛を控えます。床には唐絵に代り墨蹟をかけます。茶席は四畳半の小座敷で行います。そしてここが肝心なところですが、飲茶を通じて亭主と客人の精神的交流をはかるべく務めます。草庵風、山里風、わびさびの世界が開かれます。珠光の事跡はやがて堺の商人武野紹鴎に引き継がれます。紹鴎の弟子が千利休です。利休から和製の陶磁器も名物として尊重されるようになりました。利休も堺の大商人です。茶会茶道発展は堺の商人により了導されました。利休は秀吉の政治的顧問になりました。それが仇となって彼は非命に倒れます。現在の茶道は利休の子孫が後継する裏表両千家の流派、さらに多数の流派があります。
 茶会の精神は数寄心です。茶を飲んで憩うのが、贅沢をして遊ぶのが、「好き」なのです。現在ではこの数寄心も多分に精神化されていますが、本来数寄とは好き、遊び好き、女好きという意味です。茶会の盛行とともに、舶来の中国製製品、特に陶磁器書画大好き舶来品大好きに変わります。陶磁器には莫大な金が使われます。渡来していた欧米人には日本人が茶器に金で数万両も出すのが不思議でならなかったようです。
珠光、紹鴎、利休と代を重ねて茶会は精神化されます。紹鴎は数寄心を定義して「数寄者というは隠遁の心第一に侘びて、仏法の意味をも得知り、和歌の情を感じ候へかし」と言います。しかし私は数寄という言葉に本来の原意である好き、遊び好き女好きというニュアンスをどうしても感じてしまいます。数寄の発展形態である侘びさびにも、隠された贅沢と若干の嫌味そして滑稽さを感じます。本来ともに飲む茶、共同飲茶、茶会とは明るくて楽しいものです。侘びさびにはどこかひねておどけて滑稽なところがあります。飲茶の風習、茶道の盛行により日本料理が発展しました。懐石料理です。これは宮廷や幕府で行われる正式の料理の簡易版です。一汁三菜、酒と菓子、実質的で食べやすい料理です。
 茶の心とは何でしょうか?数寄・好き心を別の角度から見れば、当座性(座興)、雑談の連鎖そして振舞いになります。茶会を催すに際して重要なことは会話です。茶と料理などを楽しみつつ、自由な会話をします。つまり雑談、肝要なことはこの雑談がとぎれない事です。そのために一定の形式を定めます。茶礼および茶器の鑑賞です。雑談は自由な連想です。連想の自由、気分の自由を楽しみます。そして振舞い。振舞いとは相手の心境を慮って配慮し行動すること、奉仕の提供です。茶会のかなり煩瑣な礼式はこの奉仕を継続的に保証するための装置です。雑談の連鎖、奉仕の応酬となりますと、当然そこには当座性即興性という特質が入ってきます。これらの特質は最後に集団での遊びにつながります。人為的に行動の形式規範を定め、それを演じることにより即興的に振舞い会話して楽しむ、つまり遊びままごと、好き遊ぶのが大好き、です。ままごと遊びは滑稽の精神を含みます。別の言葉で言えば一座建立、人為的に作られたお芝居です。一会一期、即興を楽しむことつまり数寄です。
 数寄についてもう一言。数寄は茶会や連歌に共通の精神ですが、この心は徒然草の吉田兼好、方丈記の鴨長明、そして平安時代の大原三寂、さらに枕草子につながります。数寄の原点には明らかに清少納言の枕草子があります。枕草子の主題は、おかし、です。この言葉は、興趣がある、滑稽だという両義を含みます。連歌そして茶会の原点には「おかし」の精神がありその意味の半分は「滑稽である」です。日本の文化は根底にこの滑稽さを抱えています。古事記の岩戸開きの情景を思い出してください。アメノウズメの裸踊りで神々が哄笑し夜が明ける、明るくおかしなそして滑稽な情景でしょう。
 茶会は連歌とつながります。連歌も、集団での掛け合い、言葉の連想、即興性と相互の気持ちへの配慮しそして遊び好きを特徴とします。連歌と茶会は、詩作と飲茶という外面的行為をはずせばその精神は同じです。こういうある種の滑稽味を帯びた、集団での遊びを芸術文学にまで高めたところに日本文化の奥深さと豊かさがあります。この事は現在日本が主導しているアニメ制作にも通じます。茶道は現在でも厳然とした文化であり儀礼です。連歌の後裔俳句は今も盛んです。誰でも俳句は作れますから日本人は一億総詩人です。連歌と茶道は大衆性、衆議性、そして諧謔性を大量に含む庶民の美意識です。大衆の美意識をここまで育てあげた文化は他国の歴史にはないでしょう。
 茶会と連歌は身分に関係なく楽しめる大衆の生活文化です。その精神は数寄、おかし、滑稽さを基本とします。重要なことはこの二つの文化における共同性と即興性、自由な会話の連想、かけあいと遊び、相手の立場への共感、平等性です。評定衆、座、と並び日本人の衆議性、集団帰属性そして仲のよさを表す文化です。

日本人のための政治思想史(12) 一揆、宮座、悪党

2014-07-25 13:34:53 | Weblog
(12)一揆、宮座、悪党
 鎌倉幕府成立以後農村に新たな武装勢力が台頭します。農村が力をつけ有力農民は武装し武士層に上昇します。律令制では公地公民が原則でした。政府が土地を公有しそれを支配下の人民に公平に分配し課税する、少なくとも建前としてはそうでした。やがて有力者が開墾した土地は名田として私有が許されます。名田が中央の貴族に寄進され荘園制が展開します。鎌倉幕府が成立する前後は荘園制が展開しきった頃でした。荘園の下級領主として土地支配の実務を担当するのが地頭です。地頭は上級領主に年貢を納めなくなります。
 荘園の内部も変化します。荘園とは所有し管理する領主の財産ですから、その領域は必ずしも農民の生活に即したものではありません。極端な喩えで言いますと、ほどほどの盆地が南北の直線で分割され、二人の領主に支配されているとします。こういう分割は農民の生活にとって不便です。水利一つをとっても不合理です。次第に農民は領主の決めた境界を無視して、生活に便利な地域を形成してゆきます。上記の例でいえば、分割された両地域は一つにまとまる方が土地の使用には便利です。農民の生活に即した形で作られた地域を郷村と言います。郷村が成立する背景には農村の生産力の向上があります。武士は本来農場の開拓者ですから農地経営には熱心です。草木灰が肥料として使用されるようになります。鉄器も普及しました。農具が完全に鉄製になるのは鎌倉時代です。鎌倉から室町時代にかけて日本刀がたくさんシナに輸出され、シナで農具に作りかえられます。日本の方がシナより鉄の生産は質量とも優れていました。
 農村の生産力が向上すると農民は力をつけて自立します。彼らは団結して領主に対抗します。郷村の出現自身が農村の生産力向上を促進します。労働が組織化され合理化されるのですから。農民が団結する場、機構が「座」です。座とは座ること、座る場所を意味します。農村の構成員が一同に会し座って合議します。合議は多くの場合村の鎮守の森の宮で行なわれましたので、座は宮座といわれました。同じ水を飲んで盃を酌み交わし、団結を誓います。一味同心です。座、郷村の内部にも身分差はあります。耕作地の大小によって自然と身分差が生じました。農民の間に人格的隷属関係もありました。しかし郷村の構成員は大体平等を旨として団結しました。座は別に農村だけにあったものではありません。商人や職人は業種別に座を作りました。既にお気づきとは思いますが、宮座は幕府の評定衆に対応します。
 宮座は郷村の規律を定めます。組織を運営するための村法が作られます。土地の耕作権の尊重(勝手に領主に取り上げられないように)、共同労働に際しての規則(田植時の労働と水の配分、山野など入会地の利用)、犯罪者への村独自の対処、そして領主に納める年貢の額と交渉の仕方などが定められます。宮座には女だけの座、女座もありました。
 郷村や宮座が形成されると農民の力は強くなります。領主に対して年貢などのことで不満があると抗議します。抗議が実力で行なわれると一揆です。鎌倉時代の末期から室町時代にかけて農民の一揆が頻発します。土一揆といいます。土一揆の参加者は結構陽気でした。気に食わないことがあれば一揆を起こしてやれといったようなものです。一揆の標的は必ずしも領主に向けられるとは限りません。商業で蓄財し金融で稼いでいた酒屋土倉にも向けられました。室町幕府に農民が借金の取り消しを求めて一揆をすることもありました。一揆は必ずしも農民に限られたものではありません。武士や貴族も一揆を作りました。一揆とは、心を一にする、団結することなのです。一揆は、特定の目的をもって団結するのですから、血縁制を解消し地縁制を促進するのに、部族制の解体に貢献します。土一揆は相当程度武装していました。農村は武力の淵源地であったのです。
 この中から新しい武力が出現してきます。彼らは新興勢力ですから鎌倉幕府の統治には従いません。領主支配の土地を侵略し奪い支配の実権を握ります。幕府直参の御家人の支配地に対しても同様の行為に及びます。新興の武力は何でもします。農民であり武士であり商人金貸しであり職人でありまた僧侶でもあります。彼らは通階層的な存在でした。こういう新しい、鎌倉幕府の支配を無視して暴れまくる武装集団を幕府は憎しみをこめて悪党と言いました。しかし幕府の御家人自身も悪党化します。鎌倉幕府を倒したのは後醍醐天皇と足利尊氏ですが、彼らはこの悪党勢力を巧に組織し使いました。楠正成、名和長年、赤松円心、高師直などは典型的な悪党武士です。
 農村の生産力が向上し農村が豊かになると有力で富裕な農民が出現します。彼らは領主に一定の年貢を納めて自己の耕作する土地を管理します。実力に任せて年貢を納めなくなります。他の農民を支配しようとします。こういう階層も名主と呼ばれます。一町か二町(2ヘクタ-ル)程度の土地を所有すれば簡単な武装はできます。彼ら中小名主はより実力のある有力者と契約を結ぶか、臣従するか、取って代わるようになります。豊臣氏も徳川氏もこうした名主の出自です。時により傭兵になります。足軽です。応仁の乱では足軽が活躍します。鉄砲の伝来とともに足軽は戦国大名の重要な戦力になります。農村からどんどん新しい武力が出現し、農村を中心として緩慢な下克上が繰り返されます。農民と武士の境は曖昧なのです。日本の農民の耕作権は非常に安定しています。農民と武士は本来同質の勢力です。支配する側が過酷に支配する側を収奪する事はありません。何分とも農村には武士層と同じような武力、一揆を盛んに起こす実力が備わっているのですから。だから日本では全国的規模の農民反乱はおきません。同様に全国的規模での飢饉も起きません。飢饉は起こりますが地域的規模のもので餓死者も多くはありません。武士層の出現と郷村の発展により日本の社会は安定します。日本の社会は鎌倉時代から江戸時代にかけての動乱の時期に発展し人口も増え人々の生活は豊かになりました。
 郷村の発展、新興武力の出現と併行して支配の構図も変ります。足軽以上の新しい武力を掌握したのが武田氏北条氏などの戦国大名です。戦国大名同志が覇を競い併合し潰しあった結果が織田豊臣、織豊政権の成立です。最後は徳川氏が天下を取ります。これらの政権は兵農分離を行います。武力の淵源を放置すれば危険だからです。農民は武器所有を許されなくなります。しかし農村は江戸時代に入っても発展し続けます。農民は商品作物を栽培し豊かになります。農村の中でも支配的地位にあった大百姓から分離独立した自営農が増加します。この農村発展の転回期が元禄時代です。
 足軽について付記します。欧米との対照がおもしろいのです。足軽は本来傭兵です。欧米では傭兵は戦争がなくなれば解雇されました。欧米での傭兵の害は甚だしいものでした。日本では江戸時代に入って以後も本来傭兵であった足軽は、大名将軍に継続的に雇用されました。欧米で傭兵と言えば社会の落ちこぼれです。日本の足軽は新興の農村の比較的豊かな層から供給されています。こういう点でも日本の社会は安定しているのです。
 農村の発展に併行して町も栄えます。町の商人職人も活躍します。彼らは座に結集しました。扱う品目職種ごとに座を作ります。塩座、綿座、胡麻座、魚座、酒売買座などです。彼らは団結して営業し団体内での裁判権も持っていました。金融組織も発達します。酒屋土倉のたぐいです。酒を造って資本を貯え金を貸します。担保の質を簡単には燃えない倉に納めておくので土倉と言います。酒屋土倉の背後には寺院が控えています。当時の寺院は最大の金融資本でした。京の土倉の半分以上は叡山の資本で経営されていました。専門の運輸業者である馬借車借が出現します。こういう現象はすべて農村の繫栄の結果です。
農村の名主にあたる都市民が町衆です。町衆の力により再興され今日でも盛んな祭礼が祇園祭です。本阿弥光悦、茶屋捨次郎、河村瑞賢などが代表的存在です。彼ら町衆そして農村の名主達が次に述べる、茶道と連歌、の担い手です。交易にも触れておきます。日本はシナから陶器や絹織物や宋銭を輸入し、鉄と金銀や細工物を輸出していました。宋銭、シナの銭貨は日本の最大の輸入品でした。日本の銭需要があまりに大きいのでシナ本国は貨幣不足に陥り、シナ政府は銭の輸出を度々禁止しました。朝鮮やヴェトナムも日本の銭需要をみて銭を、これは宋明銭と称しているのですから贋金なのですが、作り日本に輸出しました。日本国内での商工業の活動はそれほど激しかったのです。現在の神戸市に兵庫北関という関所がありました。そこを通る商品にかけられる税金は同時代の欧州ハンザ同盟の中心都市リュベックのそれの10倍でした。
 郷村の発展、新しい武力、一揆、武士と農民間で起こる緩慢な下刻上、そしてさかんな経済活動などなど、鎌倉時代から戦国時代は激しく揺れ動く活発な時代でした。
農民は郷村を作り座で評議し一揆に結集しました。彼らは大体平等でした。座での評議は評定衆の民衆版であり、民意反映の方法です。こうして農民間の関係は血縁から地縁に移り、旧来の部族氏族は解体されます。武士農民層を通じて常に緩慢なる下克上が起こり、農村は武力の淵源地になります。武士も農民も皆悪党になりました。ここから活発な経済活動が起こり戦乱期というには裏腹に日本は豊かで安定した社会を持っていました。

日本人の為の政治思想史(11) 評定衆と貞永式目 

2014-07-19 19:09:45 | Weblog
(11)評定衆と貞永式目
1221年の承久の変後しばらくして幕府の主宰者である北条義時は死去します。義時死後一族の内紛を乗り切った泰時は幕府の意思決定機関として評定衆という機構を作ります。それまでは創業の主頼朝、政子そして義時というカリスマ達の指導で幕府は運営されていました。泰時は承久の変後の政権運営を安定させるために評定衆を作りました。政権の運営を主導するのは北条一族です。北条氏の事実上の権力掌握を認めさせた上で、泰時は評定衆という合議機関を作ります。評定衆は最初13名で構成されます。北条一族と千葉三浦など他氏の有力名主、そして大江三善氏などの事務官僚が機構の成員です。泰時はこの機関の指導者として執権になり、次席を連署として北条一族を当てます。同時に京都の摂関家から空席になっていた将軍に就く人物を迎えます。承久の変は三代将軍源実朝が暗殺され空席になっていた将軍職に皇族をと望んだ北条氏の意向を拒否し、幕府の危機に乗じて後鳥羽上皇が起こした戦乱です。摂関家の一族が将軍になります。ここでも権威と権力の分離が見られます。
 評定衆は幕府の最高意志決定機関でした。評定の最も重要な議題は領地争いの仲裁です。幕府は御家人とご恩と奉公の関係で結ばれています。御家人間には当然領地争いが起こります。上級領主である貴族寺院と下級領主である地頭御家人との間の紛争も起こります。御家人以外の武士勢力と御家人の紛争も絶えません。貴族同志の領地争いも幕府に持ち込まれます。御家人を中心とする領地争いの裁判仲裁が評定衆の最大の仕事でした。裁判の実務は一格下の引付衆が行ないます。時としてこの引付も評定に参加します。引付は4から5局、1局3人ですから、引付を加えれば約30人近い構成員による会議になります。評定衆という機構は以後武家政治の基本となります。領主大名の政治、以後の二つの幕府の政治運営もこの評定衆を範例として行われます。評定衆の基本的態度はまず御家人の所領安堵、次に武士の上に立つ荘園領主層の権益の擁護です。特に幕府は御家人層に属さない新興の雑多な武力、いわゆる悪党を警戒しました。しかし鎌倉幕府はこの悪党層を政治に取り込めず滅亡します。
 評定衆設置の10年後泰時は幕府運営上の憲法ともいえる成文法、貞永式目を作成します。それまで日本には法律として貴族が制定した律令とその細則や変化した内容である格式がありました。時代は変り政治の主導権を武士が握ると、武士による武士のための武士の法律が必要になります。慣例でやってきた政治運営を成文化します。新たな法律貞永式目が出現します。成立時の貞永式目は全部で51か条からなります。51という数字は聖徳太子の17条の憲法の3倍です。この数字から解るように泰時は日本法制の生みの親聖徳太子を範例にとりました。
 貞永式目の第一条は、深く神仏を敬え、です。泰時は聖徳太子が仏教の精神で衆議和合してゆこう呼びかけた立場を継承します。幕府は朝廷にならって鎌倉周辺に多くの寺院を作りそれを幕府の守護神とすると同時に御家人の啓蒙に務めます。この法律が重要事項として強調したことは、ご恩所領安堵には忠誠軍役提供で報いよ、ということです。貞永式目はこの時代の最重要な問題である土地所有とそれに基づくご恩と奉公の関係を明快に宣言します。貞永式目は評定衆設置と併行して定められました。
 面白い比較をしてみます。貞永式目と評定衆は何と併行するのでしょうか?イギリスのマグナカルタと議会制です。貞永式目制定の20年前にマグナカルタができました。当時のイギリス王ジョンの失政に貴族達が抗議し、王と貴族の間に結ばれた協定がマグナカルタです。マグナカルタの内容は王による人民の、実際には貴族達の、土地所有の侵害を防ぐことです。具体的には王が課税する時には貴族の同意を必要とすることが確認されました。マグナカルタの成立を主導した大貴族は40名弱です。大貴族のこの連合体がやがてイギリスの議会に発展します。マグナカルタ成立には領主といわれる階層の多くが参加しますが、主導したのは大貴族です。やがて中小貴族は議会の中で別個のグル-プを作るようになり、こうして大貴族中心の上院と中小貴族が主体となる下院ができます。あえて日英の比較を続けますと、日本にとっての下院は地方領主大名における衆議性でしょう。地方領主はその運営方法を幕府のそれから学びました。地方の領主の家政運営において行なわれていた方法を、公的で全国的規模のものとして幕府が採用したとも言えます。
 貞永式目とマグナカルタ、評定衆と議会、この二つの事象はそれぞれ酷似しています。目的内容、構成員の数、さらに成立年代もほぼ同じです。マグナカルタと議会は民主制の発端です。私が言いたいことはそれとほぼ同等のものが同じ時期の日本にもあったということです。鎌倉幕府の政治を民主主義の発端とは言いませんし、またその必要もありませんが、私が言いたいことは似たようなものはあったし、それを基礎として以後日本独自の民意形成の制度が作られていくということです。なお評定衆と議会の成立事情にも似た点があります。評定衆はカリスマである頼朝の死後二代目の頼家が父親同様に独裁的に政治を運営しようとした時御家人が結集して反対したことが発端です。イギリスではジョン王の数代前ノルマン人によりイギリスは征服されています。そういう独裁政権への臣下の反抗の事跡が評定衆貞永式目であり、議会マグナカルタです。
 日本とイギリスの違いを考えて見ましょう。鎌倉幕府が作られたといってもあくまで日本という同じ民族の内部においてです。ですから鎌倉幕府によって作られた封建制度は以後温存され、武士と農民、商人と職人も含みます、が比較的仲良く共存したまま江戸時代を経て維新まで続きます。この間武士は官僚化します。反対にイギリスはノルマンに征服されました。ノルマン人はそれまでのイギリス人とは異なる民族です。征服者はフランス語を話し、被征服者は英語を話します。征服王朝の支配ですから、貴族農民間の対立は非常に大きく農民は農奴と言われました。階層格差は非常に大きい。イギリスではこの格差を抱えたまま社会は地主制に移行します。反対に日本では地主制はあまり展開されていません。イギリスの地主の連合体そしてその意見表出の場が議会であり民主制というものです。民主制とは所詮その程度のものでしかありません。民主制はその原点に厳しい対立を抱えています。もう少し民主制というものを批判的に考えてみましょう。民主制の発端は古代ギリシャ特にアテネの政治制度にあります。アテネの民主制は完全に展開されました。しかしアテネの民主制は奴隷制とそれに密接に関係する戦時体制を基礎としています。古代のギリシャは常時戦争状態にあり、戦争の結果征服された側の民衆は奴隷にされました。イギリスの地主制そしてギリシャの奴隷制を考えた時私の頭の中に浮かぶ構図は、民主制とは勝った側の支配と抑圧の合理化の機構ではないのかということです。民主制とは潜在的に奴隷制を基礎としているのではないのかという疑問です。
 貞永式目と評定衆を起点として、イギリスのマグナカルタと議会との類似点を指摘し、同時に両者の差異を検討して西欧の民主制を極めて批判的に考察しました。私が言いたいことはあまり欧米の制度を過大評価するなということです。1200年代前半を出発点として日本はイギリスと異なる道をたどります。日本では武士が農民から常に再生産されて武士は官僚化し、農民の耕作権は確立してゆきます。農民と武士の間の格差は大きくなく全体として中産階級を構成し続けていったのです。武家政治は民主性なるものより優れていたのではないでしょうか。
 評定衆には前史があります。衆議はなにも評定衆のみで行なわれたのではありません。古代の律令制では大納言以上の約4-5名の大氏族の長による合議により政治的意志が決定されました。摂関政治の確立と併行して合議する人数は増え、陣の定という合議が行なわれています。この合議を主導し、結果を天皇に取り次ぐのが摂関です。摂関政治の出現により衆議はより盛んになりました。評定衆はそういう日本の政治の衆議性の伝統の延長上に出現します。評定衆の意義は下からの意見をくみ上げる衆議性を明示化した点にあります。鎌倉幕府は武士達の協賛と合意でできました。頼朝が奥州藤原氏を征討する時朝廷からの許可がなかなか下りず、業をにやした武士達の発言で征討が開始されました。軍中令辞を知らず、ただ将軍の命あるのみ、との発言です
評定衆と貞永式目の設置制定は衆議性、日本的民意集約方法の確立を意味します。非常に柔らかい民意集約方法です。

日本人のための政治思想史(10) いざ鎌倉

2014-07-13 01:32:33 | Weblog
(10)いざ鎌倉
1192年鎌倉幕府が成立します。保元平治の乱以後、武士は武力が政治を決することに気づき、自分達の実力にめざめ、政治の実権を握ります。平氏政権といえるほどのものができます。平氏は諸国の武士を家人に組織し、棟梁の平清盛が太政大臣、天皇に代って政治を執行できる特殊な地位、に就き政界の頂点に立って、政治に大きな力を発揮します。平氏政権は院政と衝突し清盛は後白河法皇を幽閉し、福原遷都を強行します。この行為は平氏の横暴として後世に評判の悪いものでしたが、後年の、政治の拠点としての鎌倉及び承久の変の上皇配流と対応します。平氏政権は鎌倉幕府の先駆的な位置にあります。しかし平氏は院の近臣という性格を捨てきれず源氏との争闘に敗れて亡びます。
 平氏を滅ぼした源頼朝は鎌倉に本拠を置き、全国の武士をより強力に組織します。武士達の所領を保証し、全国に地頭を置いて荘園領主(貴族)から管理費を取り地頭である武士の収入にします。地頭たちは領主に年貢を納めなくなり、地頭武士達が実質的な領主になります。鎌倉では、政所侍所問注所など朝廷の機関とは全く別個な独自の統治機構が整備されます。頼朝死後は北条氏が執権として実権を握り武士を統制します。北条氏を討伐しようとした後鳥羽上皇の試み、承久の変、は上皇の敗北に終り、天皇は廃位され三人の上皇は配流され、朝廷の権力の及ぶ範囲は天皇や院の私的な領域に限られます。誰を天皇にするかに際して幕府の意向は無視できなくなります。
 幕府は武士と契約を結びます。武士は幕府、将軍や執権、に武力を提供します。その見返りに幕府は武士達の領地所有を承認し保護します。それまでの武士の領地の所有権は弱く、いつ国や荘園領主に取り上げられるか解らないという頼りないものでした。領地の所有を承認することを安堵といいます。領地の安堵と武力提供による奉仕が交換されるものとして契約、ご恩と奉公の関係が成立します。土地を媒介とした双務的関係に基づく制度を封建制度と言います。世界史上で封建制度が成立した地域は西欧と日本だけです。主君と臣下は一対一で双務的な契約を結びます。契約を媒介するものは土地という経済財です。交換の媒体が経済財ですから、交換の当事者は財貨とは明白に異なる人格となります。武力と土地の交換という契約は人格的な契約です。西欧ではこの封建契約を土台として民主主義が出現しました。日本も同様です。ただ日本は島国で異民族との交渉があまりない為にその輪郭が見えにくいのです。日本では西欧の民主主義に相当するものが早くからあった、むしろ実体においてはより優れていたものがあった、と理解して下さい。
封建制度のもう一つの長所は、部族制を解体です。部族制とは擬似的な血縁関係を基礎とする制度です。封建契約では主君と臣下は一対一の関係になりますから、血縁関係がそこに入る余地はありません。部族制の克服ということは重要です。部族制は明白な契約をもたない自生的な制度ですから、その権力は曖昧で脆弱だから時として暴力的なものにもなります。私は現在でも欧米と日本を除いた他の地域は基本的には部族を基礎とした社会ではないかと思っています。
 武士の始まりは10世紀前半の平将門です。武士は本来農地の開発領主でした。8世紀中頃から律令制の公地公民制は徐々に崩壊変容します。農地は私有化されます。私有化された農地には所有者の名前がつくのでこういう私有田の所有者を名主(みょうしゅ)と言います。彼らは私有する名田にかかる税金を避けようとします。名主は自分の土地を中央の上級貴族に寄進します。貴族の顔と権力で土地の私有は保証されます。名主自身は管理者になり、実質的に土地を支配し、課税を回避します。彼らは自衛のために武装します。国の役人の干渉を排し、同じ名主仲間による横領を防ぐためです。武装した名主は都に上って貴族に兵力を提供します。軍事技術と武具生産が集積している都で軍事技術が磨かれ育ちました。有力な名主達は都で軍事貴族になります。この技術がまた地方に伝播します。この本で名主という言葉が出た時は「みょうしゅ」と読んでください。「名主」は武士の始りであり、武士が農民と基本的に同質の存在である事を表す重要な言葉です。
 最初の軍事貴族は清和天皇の流れをくむ河内源氏です。源氏は摂関家と結び、東北地方の兵乱を鎮圧してその基盤を整えました。源氏の次に桓武天皇の子孫である伊勢平氏が台頭します。平氏は西国の海賊を平定し功をあげます。平氏は院に近づき院の近臣になります。院政には武力を都に集結させておく切実な理由がありました。都の周囲には大寺院が並んでおり、彼らは僧兵という武力を持っています。寺社は荘園に関する訴訟がうまくゆかないと僧兵を動員して強訴します。僧兵対策にも武士の存在は必要でした。
武力を持てば武力を使いたくなります。院政内部の権力闘争の処理に、都にいる双方合わせて1000人程度の武士を動員して行なわれた戦闘が保元の乱です。平治の乱も似たようなものです。朝廷と院の駆け引きに源平の武力が使われました。戦闘の結果、武士は自分達が問題解決の鍵を握っていることに気づきます。平氏さらに源氏そして北条氏が武士を組織して実権を握ります。鎌倉幕府ができます。
武士はもともと農地開発領主です。彼らは土地を都の高官貴族に寄進して保護を仰ぎました。開発領主は中央貴族と組んで違法行為をしたのですが、保護はあくまで私的なもので不安定でした。貴族の都合次第で取り消しという事態もありえますし、国家は常にこの非合法な土地を国に取り戻そうと狙っていました。この状況の中で武士達の土地私有を保証する機構として幕府ができます。千葉常胤という武士がいます。彼は頼朝が挙兵すると真先に3000騎の軍勢をもって参加しました。彼は上総の国の大名主でしたが、彼の土地は荘園領主にはしっかりと保証されず、国の機関からは責められて青息吐息でした。頼朝の挙兵は常胤にとって渡りに舟です。頼朝は国や荘園領主から武士の領地を、武士を結集する事により出現した強力な軍事力により保護したのです。
 鎌倉幕府は武士全員を組織できたのではありません。幕府が掌握した武士は東国を中心とした一部の武士達です。彼らは幕府と契約を結び御家人と呼ばれました。本来武士と農民の区別はつきません。農民が、武装できる経済力をもって武装すればそれが武士です。経済が発展し農民が富裕になると下から武装した農民つまり武士がどんどん出てきます。ですから鎌倉幕府ができて以後も階層は常に流動的です。緩慢なる下克上を農民層や武士層は繰り返します。鎌倉幕府は新たに出現する武士層をつかみきれず滅びます。次の幕府が足利氏の室町幕府ですが、この幕府は下克上の動きに翻弄されて弱体化し、社会は戦乱の時代に突入します。戦国時代の到来です。普通は戦乱の世では生産力は落ちるのですが、日本では逆で鎌倉幕府から徳川幕府までの400年間に人口はほぼ倍増しています。
 武士達の武技とはどんなものだったのでしょうか。武士発生時点の10世紀の武技は騎射でした。武士は馬に乗ります。兜をかぶり鎧を着ます。鎧は膠を煮詰めさらに干して固くしてできるサネに糸を通してつないでできる極めて精巧なものです。武士は武器として弓矢と太刀を持ちますが主要な武器は弓矢です。古典的戦闘は次のように行なわれます。二騎の武者は互いに馬を御して駆け違い、後から矢を射てサネの間を射通そうとします。正面から矢を射たら鎧で防がれるからこういう形の戦闘になります。あくまで一騎打ちの戦闘です。古典的戦闘では馬を射ることは禁止事項でした。戦闘方式はしだいに変化し切りあいや組討も入り、馬を射るなという禁止も無視されるようになりますが、初期の時代の武士の戦闘はそういうものでした。武士は自分の活躍が目立つようにとサネを通す糸の色を派手にしました。駆け違いの騎射戦闘、個人戦そしてきらびやかで精巧な鎧と派手な衣装などなど古典時代の騎馬戦闘はまさに芸術的でさえありました。武士がこの騎射に習熟するためには長い修行年月を必要とします。日本の武士は騎射の技術者となります。戦闘の結果そのものも大事ですが戦闘技術の披露も目的になります。あるいは戦闘の結果と併行して戦闘に際して発揮される精神、名誉とか雄雄しさとか美しさが尊重されます。後世武士の戦闘方法が変わってもこの態度は変わりません。こういう精神性をもってご恩と奉公の関係を維持するための倫理が成長してきます。これが武士道です。
 武士道という精神の起源をどこに求めるかと言えば、私は古代の軍事氏族の長である大伴家持の「海行かば」に求めます。海行かばみずくかばね、山行かばくさむすかばね、大王のへにこそ死なめ、かえりみはせじ、これは家持が作った長歌の一部です。家持はこの歌を通じて、天皇への忠誠と君臣一体、を歌い上げました。私は君臣一体と言いましたが、歌の背後には同性愛的感情があります。家持は同性愛の美を素朴に歌った歌人でした。
 元来戦闘は集団で行なわれます。個人戦の集積ではありません。味方は団結し生死を共にし戦士共同体が作られます。共同体を支える感情は味方同志の友情一体感転じて同性愛的感情です。武士の社会には同性愛が多いのです。武士達が権力に接近する院政期ごろから同性愛が記録に残るようになります。江戸時代初期にはこの同性愛感情が爆発して幕府は治安に苦慮しました。10世紀に出現した武士は武士団を作ります。各名主がその実力に応じて縦に横に連携し団体を作ります。縦に連携した場合は主従関係、横に連携すれば朋輩の関係になります。主従と朋輩という緊密な関係をもって武士達は戦闘に行ないました。団結精神の背後には同性愛感情があります。戦士は共同体を作る、この共同体を支える精神は同性愛感情です。武士道を構成する要因の一つが同性愛感情です。
 この要因の上にご恩と奉公の関係が重なります。この関係は鎌倉幕府において始めて現れたというものではありません。幕府出現以前、武士が公卿貴族に保護を仰いでいたころも同様です。ただ鎌倉幕府はこの関係を軍事力占有により強固で当然の関係にしました。ですからご恩と奉公の関係は明示的でありまた実利的です。明示的とは関係が公開されることです。周囲から認知された関係になります。実利的とは契約は土地という経済財により媒介されていることです。実利的であり、明示的でありまた双務的である契約は安定した契約です。契約の当事者の人格は尊重されます。この実利が保証されないと武士は平然と主君から離れます。裏切ることもあり主君を強引に引退させることもありました。
武士道の特質の一つはこの実利性と人格の尊重、つまり主体性の尊重にあります。合理性の尊重と言い換えても構いません。実利を媒介とする本来平等な人格が連合したものが武士団あるいわば幕府ですから、武士達は物事を決めるのに常に衆議しました。衆議性が武士あるいは武士道の特質の一つになります。君君タレバ臣臣タリ、はありえますが、君君タラズモ臣臣タリはありえません。それが武士道、武士のならいです。
 日本の武士は騎射を戦法としこの技術を尊重します。ただぶっつかって切り殺す打ち殺す射殺すのではありません。重い鎧兜をつけ、馬を乗りまわし、巧妙な射術を用いて一対一で、自らの名を名乗って敵に敬意を表し同時に自己を顕示しつつ、一定の作法に基づいて戦闘します。ですから日本の武士は自らが技術者であることを強く意識していました。更に武士の技術は芸術的でもあります。形式を尊重するのですから茶道に似ています。武士の技術は殺人技術ですから、武士達にはその技術を芸術に昇華させる強い動機がありました。技術性と美意識が武士道のもう一つの特質です。平安時代から鎌倉時代にかけて使用された大鎧は世界史上で一番美しい武具と言われています。日本刀の切れ味と日本人が刀に寄せる神秘的感情は独得なものです。
 武士と天皇公卿との関係を考えて見ましょう。前者は後者を否定して出現台頭したと言われます。そうでもありますが、かといって武士が天皇公卿を打倒したのではありません。武士は天皇公卿の実権のほとんどを奪いましたが、その権威は承認しています。天皇は天皇であり関白は関白です。幕府というものは摂関政治の延長でもあるのです。摂関政治が確立した権力と権威の分離による権力の安定、という特質を深化させ発展させたところに武家政治が出現しました。名主層の台頭により、政治的発言者が増えたので、律令制や摂関政治では間に合わなくなって幕府という機構が作られました。むしろ武士の方が天皇公卿の存在を必要としました。武家政権が安定し独裁化暴力化しないためには天皇の存在は必要だったのです。端的な例が足利義満です。彼は本気で皇位簒奪を企てた史上唯一の武家ですが、この企てに最も反対したのは公卿ではなく義満の部下である大名達だったのです。頂上に天皇という存在がある方が将軍による統治はより柔らかくなります。将軍といえども天皇の下に位置する、神ではない世俗的な存在なのですから。摂関政治により導入された安定した権力機構という特性は武家政治も継承しています。武士と天皇は決して対立するものではありません。武士層の台頭による幕府の出現は権力と権威の分離をより明確にしました。こうして天皇と武家は相互補完的関係になります。武家政治が出現したから万世一系の天皇制は保証されたのであり、天皇の存在があったから武家政治は維新までの700年間続きました。維新の時武士は自らの特権を自ら放棄して政治制度を作り変えました。世界史上稀有の例です。武士と天皇公卿の関係が柔軟なものだったからそれができたのです。日本には人民の大量虐殺はありません。同様に日本では全国的規模の農民反乱はありません。大規模な飢餓もありません。酷刑もありません。治める者と治められる者の関係が柔軟で安定しているからです。
農民反乱も虐殺もないということは、武士と農民の連帯意識あるいは同族意識が強かっからです。だから日本の農民の耕作権はしっかりと保証されています。イギリスで起こった囲い込み運動などは日本では決して起こりません。領主も将軍もそういう考えすら思いつきません。繰り返しますが武士と農民の境界は曖昧でした。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇に味方して功績を挙げた、赤松、楠、名和という武家は一方で水運や鉱山の経営もしていました。中江藤樹の父親は農民でしたが伯父は武家で、藤樹は伯父の養子になりました。幕末期の坂本竜馬は武家であって同時に商人の家に生まれます。吉田松陰の家は農作を副業としていました。こういう例はたくさんあります。
 鎌倉幕府成立という事態を述べるに際し武士道にも言及しました。ここで武士の生き方の特徴を要約してみましょう。武士は基本的には対等な個人として衆議を重んじます。衆議とは「和」の精神に基づきます。次に彼らは武芸を重んじその技能習得に励みます。従って武士は技芸を重んじます。技術の尊重は武士をモデルにして以後敷衍してゆきました。匠の国日本の原点です。更に武士はこの技芸に精神性を求めます。武芸は同時に武道、つまりその実際的効果を離れても追求するに値する精神的価値になります。これは美の精神です。武士と武士道の出現で日本精神の輪郭ができ上がります。日本精神は、和と技と美、の精神です。
ご恩と奉公という封建契約は、経済財を媒介とした双務的契約です。ですからこの契約の当事者つまり武士達の人格は尊重されます。武士と農民のあり方は連続的です。緩慢なる下克上により農民は常に武士層に上昇してゆきます。だから武士は相互に平等です。こうして部族制は解体されます。武士は戦闘技術者であり、技術としての戦闘法に美を見出します。生死をともにする関係の故に武士達の間には強い同性愛感情が出現し、この感情が団結と衆議の基盤になります。契約遵守、技能者意識、そして衆議性を包括したところに武士道という倫理が出現します。幕府の存在により権威と権力の分離が確立します。同時に天皇制と武家政治は相互補完的関係を作ります。

日本人の為の政治思想史(9) 愚管抄

2014-07-08 02:50:00 | Weblog
(9)愚管抄
 「愚管抄」は慈円という僧侶により書かれました。慈円は藤原道長の嫡系の子孫で延暦寺座主大僧正という僧侶としては最高の地位まで上りつめた典型的な貴族僧侶です。彼は歌人としても有名です。慈円は保元の乱の少し前に生まれ、承久の変の結末を見て死去しています。この間保元平治の乱があり、平氏が台頭し、その平氏も壇ノ浦に亡び、鎌倉幕府が出現します。幕府の源氏将軍家も三代で絶え臣下である北条氏が実権を握り、これに反発した後鳥羽上皇が倒幕を企てて敗れ、天皇は廃位され三人の上皇が流されます。これらの事件はどれをとっても前代未聞のものでした。時代の基本的潮流は武士の台頭です。朝廷そして院は平氏や源氏という武家勢力と悪戦苦闘しました。平安時代400年を比較的のんびりと過ごしてきた公卿貴族にとってはこの時代は悪夢のようなものでまさに世の終わりに見えました。そういう状況にあって貴族の頂点にいる慈円は、いやそうじゃないんだ、時代は変化するものなのだ、その変化は治める者と治められる者の交互作用によって起こるのだ、として新しい武家政権を擁護し、武家政権の出現はちゃんとした道理に基づくものだと主張し、その統治を正統化しました。自分が属する階級が衰退してゆく事実を目前に見つつ、新たな時代を肯定し、生きる意味を慈円は承認しました。変化する時代そして権力を承認し肯定することは、その時代には生きる意味を肯定することでもあります。慈円は神武天皇から順徳天皇までの84代、彼の計算では約1600年にわたる日本の歴史を語ります。歴史を振り返りつつ彼は彼が生きる現在を肯定します。愚管抄はカタカナで書かれています。文字を読めない、厳密に言えば漢文を読めない、下々の民衆にも読めるように書かれています。この本は民衆教化の本でもあります。
 慈円が新しい時代を承認するための論理は顕冥の道理です。顕は表に見えるもの、冥は裏に潜みうごめくものを意味します。より具体的には顕とは表から見える政治制度であり、冥とはその下あるいわ背後にあって顕を動かす何物かです。慈円は顕である制度を時代順に三つ設定します。律令制と摂関政治と武家政治です。この顕に対し同じく時代順に三つの冥を対置します。仏教と後見(うしろみ、摂関政治)と武士民衆です。彼は日本の政治制度は、仏教、後見、民衆を視野に入れることにより、それらの力と対立協同しつつ自らを変化させていったと説きます。仏教、後見そして民衆はある意味で政治制度と対立します。政治と仏教は聖俗の関係にあります。政治と後見は公私の関係にあります。政治と民衆は上下の関係にあります。政治は対立する三つの要因を自らの中に取り入れて自らを変化させると、慈円は考えました。
仏教は政治に対して、統治される者が正統とみなして自ら従う統治する権力の正統性カリスマ性、を与えました。後見制は政治制度の中に婚姻制度を取り込み、権力行使を柔らかなものにし、安定させました。後見制は婚姻という個人的関係で政治を動かすことです。政治の中に婚姻という要素を組み込むことにより、政治は個人(統治される者)とより柔らかくそして直接に対峙できます。統治する者は統治される者に対して私の夫であり妻でもあります。統治される者は統治する者に対して私の夫であり妻でもあります。政治に婚姻つまり性愛を対置させ導入する事により、政治は民衆をより寛容に包みこむことができます。慈円は政治制度における後見制の確立を画期的現象と捉えました。それは自らが属する階級の歴史的意義の肯定でもあります。後見制摂関政治は首位と次位の間の婚姻同盟です。後見制は私的な要因を含む柔らかい機構です。後見制は、パパママボク、を単位とする統治機構です。ここで家産というものが出現します。こうして統治は世俗的なものに変容してゆきます。その結果が、ご恩と奉公、という統治様式です。
政治と性の対置が後見制を出現させます。その延長上に統治の世俗化、ご恩と奉公、土地私有と軍役奉仕の交換の関係が成り立ちます。この関係における両者、つまり統治するものとされる者は基本的に対等です。統治される者つまり民衆がより柔らかく政治よって抱きかかえられます。民衆とは武士階層のことです。武士とは本来土地の開拓者であり農場の経営者です。自衛のために武器を携帯するので武士とよばれました。武士は農民であり、武士は農民層から出現しました。武士と農民の関係は密接でまた曖昧です。少なくとも慈円のような上級貴族からみれば武士は農民、民衆一般でした。こうして慈円は新しい武家政権を承認しました。後見制つまり政治への性愛の導入という事跡があったから、家産を媒介とする権力様式である武家政権は肯定されます。この武家政権から正式の衆議機関が生まれます。衆議とはみんなで論議して決めることですから、西欧の言葉を使えば民主制です。日本という国は西欧の歴史とは別個に民主制を形成します。
 慈円は院政を嫌いました。院政は摂関政治と武家政権の間に介在しますが摂関政治ほど柔らかくなく、独裁的で無責任でした。父親である上皇と子である天皇はいつも衝突します。慈円は院政を嫌い、後鳥羽上皇が引き起こした承久の変に対して極めて批判的でした。
 慈円の政治思想における功績は武家政権の承認にあります。武家政権の承認とは時代の変化の肯定です。それは歴史の中で生きる意味の肯定です。難しい言葉で言えば歴史の弁証です。ヘ-ゲルに先立つこと600年前に慈円は弁証法という論理を創造しました。同時に彼は民衆の政治参加を政治思想の中に導入しました。
 慈円は政治を動かす道理として、仏教、後見、民衆という三つの要因を設定しました。特に後見制の意義を強調し、その延長上に統治の世俗性を認め、武家つまり民衆の政治参加を容認しました。この考え方は広い意味において民主性です。そして慈円は政治の変化の論理を、政治現象は論理に従って動くということを明確に解き明かしました。

日本人のための政治思想史(8) 源氏物語  

2014-07-03 02:38:37 | Weblog
(8)源氏物語
 源氏物語は11世紀初頭に紫式部により書かれました。当時の世界に冠絶する大作品です。主題は光源氏という最高の地位にある貴族が経験する種々の恋愛です。ですから恋愛小説と言ってもいいし、遊蕩記といってもかまいません。話の概略から説明します。
 ある帝の御代に非常に寵愛された女性がいました。この女性、桐壺更衣は低い身分の出身でしたので後宮の他の女性達から妬まれ苛められます。更衣は一人の男児を産んだ後死去します。この子が光源氏です。光源氏の資質才能が素晴らしい。容貌美麗で女にもてます。単なる美貌を超えて、人の魂を虜にする魅力あるいは魔力をも持っています。学問、芸術、音楽などすべての分野において秀逸で群を抜きます。武芸にも優れています。帝はこの秀麗な貴公子に、母親の身分を考えて源の姓を与え臣下の立場に置き、同時に左大臣の娘と結婚させます。
 帝は桐壺の更衣が忘れられず、よく似た内親王を皇后として迎えます。この女性が藤壺中宮です。源氏は幼少期父帝と藤壺に可愛がられて育ちます。成長するに及び源氏は藤壺を愛し始めます。やがて源氏は人の眼を盗み藤壺と密通します。藤壺は源氏の子を産みます。藤壺への愛と併行して源氏は、藤壺によく似た藤壺の姪に当たる少女を自邸に引き取ります。この女性が紫の上です。やがて二人は結ばれます。源氏の女漁りは留まるところを知らず,遊蕩は激しくなり、禁忌に触れる行為も繰り返します。父帝の死後、庇護者を失った源氏は政治的に危険な立場に置かれ、須磨に流されます。
 源氏流刑後政界は思わしくなく、源氏は住吉明神の加護により、都に帰り復権します。政治は源氏と藤壺が二人の間にできた不義の子を新たな帝として擁立して押し進められます。源氏の地位は上昇しやがて太政天皇という帝とほぼ等しい地位にまで昇り詰めます。源氏の漁色は止みません。遊蕩は続きます。
 源氏が40歳になった時、異母兄である前帝の娘女三宮を正妻として娶ることになります。源氏の政治的地位をより強固なものにするためであり、また帝血をひく尊貴な存在への憧れゆえでもあります。女三宮を恋い慕う柏木という男性が彼女と密通し、女三宮は柏木の子を源氏の子として産みます。彼が後の薫大将です。女三宮は出家します。源氏は、おのれがした事はおのれにはね返ってくる、因果応報だと思いつつ、憂愁のうちに死去します。以上が源氏物語の本編です。
 本編の約20年後を時期として続編宇治十帖が始まります。薫大将は自分が不義の子であることを知らされます。薫は匂宮という友人と、落剥した皇族の娘三人を奪い合う形になります。最後の娘浮舟が薫と匂の間にはさまれ悩んだ末、宇治川に投身自殺を試みます。浮舟は横川の僧都という名僧に救われ出家を希望します。源氏物語は訪ねてきた薫との面会を浮舟が拒否するところで終わります。宇治十帖は源氏の葬送を意味します。源氏の葬送は本編の幻巻と雲隠巻で描出されていますが作者はそれをもう一度繰り返します。薫と匂は源氏の分身です。浮舟も同様です。浮舟が横川の僧都に救済されることは源氏が救済されることを意味します。
 源氏物語を恋愛遍歴の記録と読んでも構いませんし、因果応報の教えと読んでも構いません。しかしそれだけではこの物語に含まれる巨大な主題を見逃してしまいます。ではその主題とは何でしょうか。主題の第一は、性と政治、です。性愛あるいは恋愛は政治行為と密接不可分の関係にあるということを源氏物語は語っています。源氏物語において明瞭に描かれる内容の核心は近親相姦です。藤壺はあらゆる意味で源氏の母親です。桐壺更衣に似ておりそれ故に中宮になります。そして藤壺は父帝の正妻です。繰り返しますが藤壺は源氏の母親の立場にいます。その母親と、父親の眼を盗んで密通し、子供を産ませます。それ故に彼の立場は不利になり、懲罰として須磨に流されます。懲罰後夢で父帝の赦免を得て政界に復帰し栄華を極めます。源氏物語は源氏のこの不義遊蕩を非難していません。むしろ彼の魅力能力の証左として讃えています。恋愛の能力と政治の能力は等しいと言っています。その端的な例証が、源氏と藤壺の共同統治です。この共同統治を土台として源氏は栄進します。
近親相姦という禁忌を犯した故に、また犯すほどの能力があるが故に源氏は帝王とほぼ等しい地位に昇りました。源氏がおのれの栄華を顕示するために造った邸宅は六条院と呼ばれます。「院」とは帝王の住居にのみに用いられる称号です。源氏物語の第一の主題は、近親相姦が権力の源泉だ、ということです。ここで性愛と政治に関して考えて見ましょう。両者は酷似した関係様式です。性愛も政治も突き詰めれば物の体系を媒介とはしません。両者は純粋に人と人の関係です。政治行為は究極には、相互の人格が相互に操作し操作される関係です。政治とは操作し支配する意志の行使交換なのです。恋愛も同様です。愛するとは愛する相手をおのれの意志欲望に従わせることです。この作業を当事者が相互に行ないます。自己を愛するから相手を愛するのです。恋愛は政治と同じく、他者操作他者支配の相互交換です。この事実は我々の日常を見ていても容易に観察されます。一度性的関係を結べば、それに好きという感情が伴う限り、当事者は相互に操作しあいます。この支配と操作の相互応酬から免れられるのは両者の関係が断絶した時だけです。近年世間を騒がせているスト-カ-行為も、この恋愛に内在する操作性つまり支配する意志の行使という契機が露骨に表れた現象です。源氏物語はその機微を、近親相姦の能力すなわち政治行為の能力、と提示し描出しています。性愛と政治、両者の同質性が源氏物語の第一の主題です。ここまでこの主題を書ききった作品は世界中他にありません。全く大胆で明瞭な描出です。
 源氏物語の第二の主題は王権と摂関政治の弁証です。源氏が近親相姦で造った政権は柏木の行為により報復され崩壊します。源氏には柏木を処罰する権限はありません。ただ因果応報を感じて憂愁のうちに消えてゆくだけです。源氏の政権が崩壊することにより王権は源氏の存在を超えたものとして至上のものとして認知されます。源氏が真に統治権を持っていれば柏木を処刑すればすむことですが、源氏にその能力はありません。源氏がそれまで行なってきた行為は簒奪ともいえるものです。源氏政権の崩壊は簒奪の否定です。こうして王権はより超越的な存在、単なる権力の行使を超えた存在とされます。のみならず源氏が近親相姦で権力の頂点を極め、同じ近親相姦で報復されることは、近親相姦とは帝王のみに許されるのだという意味をも暗示しています。
 王権と同時に摂関政治も弁証されます。源氏の政治行為は帝王の父母による後見(うしろみ)です。これは摂関政治に他なりません。しかし源氏は藤原氏ではなく、帝血を継ぐ故に簒奪を試み敗れます。この事は帝血を継がない一族の後見ならいいという事を意味します。摂関政治の肯定です。摂関政治とは二つの家柄が婚姻同盟を結び、継時的に婚姻を繰り返してゆくのですから、これは一種の近親相姦行為です。摂関政治とは政治力の根源である近親相姦を首位と次位の二つの家柄に閉じ込める装置ともいえます。ただし近親相姦が暴発しないように楔は打たれています。帝王の女児つまり内親王は未婚を強いられました。内親王が臣下つまり藤原氏と結婚すれば、首位と次位の差はなくなり秩序は保てなくなります。摂関政治は血つまり血統の移動を一方向に限定して混乱を防ぎました。ではなぜ近親相姦は権力の源泉なのでしょうか。近親相姦においては血統とそれに伴う財産をある家柄にそれらを封じ込め、完全に守れます。なによりも近親相姦においては他者操作がより容易になります。自己の分身であり最も気心の知れた相手と交渉するのですから。同時に近親相姦は政治的無秩序を招来します。同格の者同志の争いが起こります。事実継体天皇以後摂関政治の確立までは、天皇家の内部での婚姻で皇位は継承されてゆきました。しかしその間幾多の流血を伴う争いが起こりました。摂関政治が確立されて政争に流血は伴わなくなります。権力の独占形態である近親相姦を肯定しつつ同時にそれに歯止めをかける制度が摂関政治です。次位の家柄を固定し、次位から首位へと血の移行を一方向的に制限する事により、権力の源泉である近親相姦を肯定しつつ同時にそれを制限することにより権力を安定させました。これが摂関政治です。源氏物語は光源氏の生涯を描くことによって摂関政治を意義を明らかにします。
 源氏物語は文学史においても頂点であり転換点です。源氏物語は古今集以後の和歌の伝統を引いています。物語の中に700首以上の和歌が出てきます。この和歌は物語の主要な場面でその場面を集約する形で使われています。更に引歌を含めると物語における和歌の比重は倍増します。引歌とはすでに歌われている和歌の一部を文章の中に取り入れてその和歌の内容を黙示的に物語に反映させる手法です。源氏物語は和歌が宮廷儀礼にとって必須の手段となった時点で書かれています。古今集の仮名序に記されているように和歌の編纂は王権の弁証ですから、思想的にも源氏物語は古今集の影響下にあるといえます。
源氏物語は光源氏の一代記として歴史書という性格も持ちます。日本書紀以来計六つの国史が編纂されました。政治の内邸化儀礼化とともに国史編纂は終了します。代って貴族の日記が出現します。儀礼を忘れないように貴族は日記を漢文で書きました。この延長上に私日記、つまり個人の生活や感情を描写する日記が出現します。紀貫之による土佐日記が第一号です。やがて私日記は女性の感情表現の手段となります。蜻蛉日記や和泉式部日記、十六夜日記などです。紫式部もみずから日記を書きました。源氏物語は歴史書という性格と同時に日記に伴う内面描写感情表出の手法をも取り入れています。
源氏物語に到るもう一つの系譜は物語です。日本で最初の物語は竹取物語です。ついで伊勢物語が現れます。そして宇津保物語と落窪物語が作られます。こういう物語の系譜の中にあって、主人公と筋書と文体をより洗練したところに源氏物語が現れます。源氏物語は奈良から平安時代にかけてのすべての文学ジャンル、和歌、歴史書、日記、物語の流れを集約し総括した作品として出現しました。源氏物語以後物語は多数出現しますが、源氏物語を超えることはできず、大同小異のものばかりが出て、衰えてゆきます。代って和漢混交文が現れ今昔物語のような逸話集そして平家物語のような軍記物が出現します。源氏物語は日本の文学の転機です。それまでの文学の、従って情操のすべてを集約してこの物語は作られています。源氏物語により日本人の情操は確立されました。
 源氏物語の出現が提示するもう一つの問題は、この時代における女性の活躍ぶりです。源氏物語を頂点として10世紀から11世紀にかけて女性作者による作品が続出します。伊勢、右大将道綱の母、和泉式部、清少納言、紫式部、赤染衛門、菅原孝標の娘、などなどの面々です。これら一群の女性作者による文学作品を称して平安女流文学と言います。これほど女性が文学で活躍した事例は世界史上ありません。
この時代女性は文学で活躍しただけではなく、政治においても大いに活躍しています。先に挙げた女性達は女房と言われ、女房層というれっきとした階層が出現しました。彼らは摂関政治により頂点を極一部の階層に独占され、地方官専業に追いやられた下級貴族受領層に属する家柄の女性です。彼らは父や夫が摂関家やそれに準じる家に家司として奉公するのと併行して、上級貴族の女性、彼女達はすべて入内候補です、に奉公しました。彼らを女房と言います。女房達の仕事はいろいろありますが、その一つに主人である后妃、候補者も含む、の教養を高めることと、もう一つ主人の相談役をすることでした。紫式部は彰子中宮の家庭教師でしたが、参謀のようなつまり政治向きの仕事もしています。なにしろ摂関政治の時代です。母后の役割は重大でした。母后には外戚である父親と、主権者であり夫または子供である帝、の間を調整する役目がありました。道長が権力の座につけたのも姉である円融天皇妃であり一条天皇の母親である詮子のお蔭でした。詮子の強力な後押しがあって道長は摂関、厳密には内覧する権利、の地位につけたのです。政治の表における男の争いは裏面での女の争いと併行していました。これほどの影響力を行使する后妃の参謀役でもありうる女房の力は絶大です。
後年になると女房層に加えて天皇の乳母が発言権を持ち出します。紫式部の娘大弐三位は後冷泉天皇の乳母として政治に隠然たる影響力を持っていました。もう少し例を挙げます。保元の乱を引き起こした張本人は鳥羽天皇の女御である美福門院でありますし、平清盛がどちらにつくかで重要な助言を与えたのは彼の義母であり女房乳母層にあった池禅尼です。総じて奈良平安時代における後宮で女性の果たす役割は非常に大きいものでした。ある研究者は平安時代の後宮ほど力をもった後宮は世界史上ないと断言しています。同時にこの人は、それほど実力があり権力闘争が激しかった後宮という場で全く流血事件が起こっていないのも日本の特徴だといっております。女房乳母という存在は男が表では取れない情報の探知役であり、女の情報は男の政界での活動にとって死活のものでした。いつの時代でも情報は力なのです。
 それではなぜ女がこの時代、だけではありませんが、に文学そして政治の世界で活躍できたのでしょうか。答えは、日本では女が丁寧に優しく扱われていることです。尊重されていると言っても構いません。ここで神話の世界を思い出して下さい。主神アマテラスの存在、アメノウズメの裸踊りで世界が開けたこと、コノハナヤサクヤヒメとトヨタマヒメによる婚姻秩序の確立などなど、日本神話では重要なところにはすべて女性が絡み女性が決定しています。まことに日本は女ならでは世の明けぬ国なのです。推古天皇の御代には、聖徳太子の時代でもありますが、天皇の意志は内侍という女官を通じてのみ取り次がれました。日本は部族制度が展開されて強固な家父長制ができ上がる前に、換言すれば母権性社会の名残が濃く残っている時代に仏教という融通無碍な宗教を取り入れました。仏教により柔らかく構成されまた解体された結果が摂関政治です。だから日本では他国に比し女性の地位発言力は強いのです。もう一つ日本の後宮の特徴があります。日本には宦官などいません。のみならず日本の後宮への男子の出入りは結構容易なのです。これもある意味では女性が尊重されていたことの証しです。宦官に監視される他国の後宮の女性はまるで家畜です。
 源氏物語は、支配への衝動は近親相姦願望に基づくものと喝破し、性愛と政治の密接な関係を暴きだしました。同時に露骨な近親相姦による政治を否定し、その緩和された形態である摂関政治を弁証します。天皇は摂関を超えた超越的存在つまり神としての権威を付与されます。源氏物語は日本語日本文学日本的情操の確立に寄与し、女の国日本を具体的に例証しました。