経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

アメリカはどこまで中国に対して優しいのか

2021-01-03 21:04:35 | Weblog
アメリカはどこまで中国に対して優しいのか

 最近戦後経済史の本を読み返している。そこで感じる事は過去40年間、日本の経済力の矛先がにぶるまで、アメリカは日本を警戒し敵視してきたことだ。1960年代半ばの日米繊維交渉から始まり2000代において小泉政権の改革とやらで日本の経済機構がアメリカの軍門に降るまでの40年間はまさしく日米戦争だった。この長さはまさしく日露戦争から大東亜戦争終了までの長さに相当する。アメリカは日本がロシアに勝って以降反日に終始する。ただしここではそれに触れない。
 戦後の四十年戦争の経過を簡単にたどってみよう。1965年(ジョンソン大統領の時代)アメリカの経済は衰退に向かう、ケインズ的政策を取り入れたとかいう新経済政策は失敗し、ヴェトナム戦争には難渋し(敗北し)、福祉費と戦費はかさみ、したがってドルは散布されるが、生産性は上昇せず、アメリカ経済はいわゆるスタグフレ-ションに陥る。そこから脱出しようとしてレ-ガン大統領はレーガノミックスという政策を講じる。これが今から振り返ってみてさっぱりわけが解らない。私の頭が悪いのではなく、レ-ガノミックス自体が当事者にも解らない矛盾した代物だからだ。マネタリスト、サプライサイドエコノミ-、減税政策などをこき交ぜている。レ-ガン政権が目指したのは強いアメリカ(従って強いドル、変動相場制以前の)だった。気持ちは解る。ただレ-ガンは昔日のアメリカを懐かしみ、過去が再び復活すると夢見たのだろう。強いドルつまりドル高はアメリカの輸出を妨げる。当然最大の輸出国日本にむりやりアメリカ産品をかわそうとする。そして急にドル安政策を取り出す。その象徴が1987年のプラザ合意だ。ここで1ドルは260円くらいになった。日本の輸出は止まないからさらに円高の圧力をかけ続ける。プラザでの合意でG5(日米英仏独)となっているが英仏独はつけたしだ。対米黒字の半分以上は日本の輸出による。対欧黒字も多分そのくらいだろう。それほど日本の輸出圧力はすごかった。
 40年間の日米経済戦争を通じて円はかってのドル360円から最低70円まで下がった(現在は105円)。自国通貨が5倍に値上がりしてもなお出超である。そこでアメリカは次にス-パ-第一(五かもしれない)条なるものを強引に押し付ける。このス-パ-云々はアメリカの国内法であって、外国に適用されるべきものではない。ス-パ-某の意図は、アメリカが欲するように、アメリカが満足するまで、アメリカ製品を日本は買え、という趣旨を持つ。のみならず包括的日米協定と言って、日本国内の非国際的な経済慣行を是正させようとする。つまり自国の慣行を一方的に国際的だから正義として、日本の習慣を弾劾する。滑稽な例だがアメリカの車は左(右?)ハンドルだ。日本車は右(左?)だ。これでは日本人でアメ車を買う人はいない。ハンドルを付け替えればいいのだがその努力はせず、この状態も日本の慣行のせいにする。つまり包括的云々は日本の制度をアメリカと同様にしろということだ。加えてBIS規制なるものが強制される。BIS規制はすでにあった。ただ用いられることはなかった。それが突然日本の銀行経営に適用される。その内容は銀行はその資産の10%以上を預金(つまり現金)で持たねばならないということだ。多くの日本人や銀行にとっては白昼の悪夢だった。バブルのせいで日本の土地や株が上がり、銀行はそれらを担保に融資していた。大急ぎで貸し金を返してもらわないといけない。貸しはがしという現象が頻発し多くの企業が潰された。資産の値上がりは円高是正のために日銀が行ったものだ。ここで日銀を責める事はできない。
 1990年代後半日本はAMF(アジア経済協力基金)を立ち上げようとした。当時(現在でもだが)アメリカは製造業から金融業に脱皮中だった。日本は台頭著しいアセアン諸国への資金援助をしようとした。アメリカは猛烈に反対した。AMF構想は潰れ、そのほぼ直後アジア経済危機が音連れた。アメリカの金融ビジネスのせいだ。アメリカは新古典派経済学に習い、徹底したレッセフェ-ルで弱肉強食の金融ビジネスを育てた。これでアセアンの発展は一頓挫した。代わって中国が台頭してくる。それまではアセアンの方が進んでいた。明らかに米中密約がある。
 極め付けが規制改革だ。橋本そして小泉内閣でこの改革は徹底的に行われた。その要領は企業戦争に勝てない企業はすべて潰す、政府は関与しない(最後の貸し手の役を務めない)ということだ。財政均衡の名のもとに消費税は引き上げられ、長銀や山一など時価数十兆円はする日本企業が1/100以下の値段でアメリカの企業に売り払われた。
 1990年当時の国民一人当たりのGDPにおいて日本はアメリカを抜いていた。GDP総額においても日本はアメリカの2/3くらいだった。結果として日本の資本の相当部分はアメリカに盗まれた。前大戦で日本海軍が所有した空母は30隻に及ぶらしい。私は高々7-8隻とばかり思っていた。新しい資料が公開されて新しい事実が白日のもとに曝されたのか?いずれにせよ前大戦では日本はそれなりの戦備はしていたことになる。終戦後7年の占領期間、日本人は事実を知り得なかった。徹底した情報統制下にあった。
 私が言いたいことは大東亜戦争と日米経済戦争において、日本はほぼ対等な実力を持っていたらしい、そして日本人はその事そしてその事実をアメリカが非常に恐れている事を、知らない事だ。
 日本のことばかり話して中国の事を忘れていた。中国の台頭にアメリカはなんと優しいことか。私が言いたいのはただそれだけだ。

(注)戦後日本が素早く立ち直れたのはあれだけ強大な軍備(戦艦・空母一隻造るのに重戦車1000台の鉄が要る)をする力、つまり技術と人材があったからだ。日米経済戦争に負けたからといってしょげる必要はない。製造業における高度な技術と人材は現在でも健在だ。日本の製造業では誰でもどこでも作れる素材など相手にしていない。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行



   日本史入門(12)一揆、宮座、悪党

2021-01-03 14:37:50 | Weblog
   日本史入門(12)一揆、宮座、悪党

1 鎌倉幕府成立後農村に新たな武装勢力が台頭、農村が力をつけ有力農民は武士層に上昇。律令制では公地公民が原則。政府が土地公有、人民に分配課税、建前としてはそうだった。有力者の開墾田は名田として私有が許され、中央の貴族に寄進され荘園制が展開。荘園支配の実務を担当する地頭は上級領主に年貢を怠納、事実上の領主に。
2 荘園内部も変化。荘園は領主財産、領域は必ずしも農民の生活に即さない。盆地が南北の直線で分割され、二人の領主に支配されるとする。この分割は農民の生活にとって不便不合理。農民は境界を無視、生活に便利な地域を形成、郷村。農村の生産力向上が郷村成立の背景。武士は本来農場開拓者、農地経営には熱心。草木灰が肥料として使用され鉄器も普及、農具が完全に鉄製になるのは鎌倉時代。
3 農村の生産力向上、農民は団結して領主に対抗。郷村の出現は労働を組織化し合理化。農民が団結する場機構が「座」。座とは座ること、座る場所。農民が一同に会し座って合議、鎮守の森の宮で会合、宮座。同じ水を飲み団結を誓う、一味同心。郷村内部にも格差はあるが郷村の構成員は大体平等。商人職人は業種別に座を作る。宮座は幕府の評定衆に対応。郷村運営のための村法。土地の耕作権の尊重、共同労働に際しての規則、犯罪者への村独自の対処、年貢の額と交渉の仕方などを規定。女だけの座、女房座もあった。
4 郷村宮座が出現、農民の力は強くなる。領主に対し年貢などで不満があると抗議、抗議が実力で行なわれると一揆。鎌倉時代末から室町時代にかけて土一揆が頻発。土一揆の参加者は結構陽気。一揆の標的は領主、金融業者(商業で蓄財し金融で稼ぐ酒屋土倉)。幕府に借金の帳消しを求めて一揆をすることも。一揆とは、心を一にする、団結すること。目的をもって団結する一揆は、血縁制を解消し地縁制を促進、部族制を解体。土一揆は相当程度武装、農村は武力の淵源培養地。
5 新しい武力の出現。彼らは新興勢力、鎌倉幕府の統治に反抗。領主支配の土地を侵略し奪い支配の実権を握る。幕府直参の御家人の領地も侵食。新興の武力は何でもする、農民武士商人金貸職人僧侶と階層横断的。幕府の支配を無視し暴れる新興武装集団を幕府は悪党と呼ぶ。幕府の御家人自身も悪党化。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇と足利尊氏は悪党勢力を巧に組織し使う。楠正成、名和長年、赤松円心、高師直。悪党が海外へ雄飛、倭寇、悪党は経済人。
6 生産力が向上し農村が豊かになると有力農民が出現。領主に年貢を納めて土地を管理し、実力に任せて年貢を納めなくなる。農民支配を狙う新興名主(みょうしゅ)。一町か二町(2ヘクタ-ル)程度の土地を所有すれば簡単な武装は可能。彼ら中小名主は実力のある者に臣従するか、取って代わる。豊臣氏も徳川氏も名主の出自。時に傭兵にも、足軽。応仁の乱では足軽が活躍、鉄砲伝来とともに足軽は戦国大名の重要な戦力に。農村から新しい武力が出現、繰り返される下克上。農民と武士の境界は流動的。日本の農民の耕作権は安定していた。農民と武士は本来同質の勢力、支配者は過酷に収奪しない。農村には同じような武力、一揆を起こす実力が備わっているのだから。日本では全国的規模の農民反乱はない。全国的規模での飢饉もない。武士の出現と郷村の発展により日本の社会は安定した。鎌倉時代から江戸時代にかけて人口は倍増、動乱期に倍増。
7 郷村の発展、新興武力の出現と併行して支配の構図も変る。新興武力を掌握したのが武田氏北条氏などの戦国大名。戦国大名同志の潰しあいの末できたのが織豊政権、徳川幕府。政権は兵農分離を敢行、武力の淵源の放置は危険、農民の武器所有は不許可。農村は江戸時代に入っても発展、商品作物の栽培で豊かに。農村の中でも有力百姓から分離独立した自営農が増加。農村発展の転換期が元禄時代。
 足軽について。欧米との対比。欧米では傭兵は戦争がなくなると即解雇。傭兵の害は甚だしかった。日本では江戸時代に入って以後も本来傭兵である足軽は、継続的に雇用された。欧米で傭兵は社会の落ちこぼれ、日本の足軽は新興農民の出稼ぎ。
8 農村の繫栄に併行して町も発展。商人職人も業種別に座に結集。塩座綿座胡麻座魚座酒座など。彼らは団体内での裁判権も持っていた。金融組織も発達、酒屋土倉の類。酒を造って売り資本を貯え金を貸す、担保を燃えにくい倉に納めておくので土倉。酒屋土倉の背後には寺院、寺院は最大の金融資本。専門の運輸業者である馬借車借が出現。
農村の名主にあたる都市民が町衆。町衆により再興された祭礼が祇園祭。本阿弥光悦、茶屋捨次郎、河村瑞賢。町衆や名主が茶道と連歌の担い手。外国貿易。日本は中国から陶器絹織物宋銭を輸入、金銀銅鉄細工物を輸出。宋銭が日本の最大の輸入品。日本の貨幣需要は大きく中国本土は貨幣不足に陥る、中国政府は銭の輸出を度々禁止。日本国内での商工業の活動は旺盛。神戸市にあった兵庫北関を通る商品にかけられる税金は同時代の欧州ハンザ同盟の中心都市リュベックの10倍。
 郷村の発展、新しい武力、一揆、武士と農民間で起こる下刻上、盛んな経済活動、鎌倉室町戦国時代は激しく揺れ動く活発な時代。
民衆土着の芸能田楽猿楽を洗練してできたものが能狂言、観阿弥世阿弥父子により創出。
9 農民は郷村を作り座で評議し一揆に結集。彼らは大体平等。座での評議は評定衆の民衆版、民意表出の方法。農民間の関係は血縁から地縁に、旧来の部族氏族は解体。武士農民層を通じて常に起こる下克上。農村は武力の培養地、武士も農民も皆悪党。活発な経済活動、戦乱期とは裏腹に豊かな社会。
[君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行