早期英語教育論への反駁
政府自民党あたりから小学三年時での英語教育導入という提案がなされている。絶対反対である。無知無学な暴論である。逐一反論する。
① まず日本人にとって一番必要な言葉は母国語である日本語である。母国語は6歳までに会話習得の基礎が形成され(仮に6歳まで言語による接触を一切断つと以後言語形成は不可能になる)、以後の6年間(小学校時代)に母国語を論理的に理解し表現する能力が徐々に形成されてゆく。小学校で教える最も重要な案件は読み書き計算の能力育成である。ちなみに読み書きと計算能力は無関係と思われているかたもおられるかもしれないが、これは重大な誤解である。読み書きと計算の能力は根本では通底している。言語とはその根底において論理なのだ。小学校では教育漢字の大部分の理解そして作文と読書、そして少数と分数を含む加減乗除の計算の能力育成が基本である。これだけできれば社会でなんとか通用する。
② ここに英語教育なるものが入ってきたらどうなるだろうか?英語教育の侵入により真っ先に国語のそして多分算数の時間も削られるだろう。日本人の母国語能力は侵害される。国語の能力が低下すれば他の学科、算数、理科、社会科の能力も必然的に低下する。読めない、書けないのだから。しかし話はそれほど単純で表層的なものではない。国語の能力とは詰まるところ、考える能力なのである。そこへ中途半端な英語教育が入ってくると、日本人児童の思考能力自身が低下する。現に中学校で一番困っている学習上の障害は国語ができない子供の増加なのだ。英語教育の侵入で国語能力が侵害されないとしても結局はアブハチ取らず首鼠両端になるだろう。また英語の導入により授業時間数を増やすことにも反対だ。子供は遊ばなければならない。充分な遊ぶ時間を与えるべきだろう。
③ 早期英語教育論者は英語で話す能力を重視している。この見解は極めて表層的であり、英語あるいわ英語圏文化に対する劣等感の反映としか思えない。そもそも外国語教育とは何かと問おう。実用性もさることながら、外国語の習得はその文章文法の学習を通じて、それを母国語と比較し母国語の理解を深め、併せて両語の比較により、より深い論理形成能力を育成することにある。同時に外国の文化理解も促進される。この観点から言えば外国語教育において一番重要なのは、外国語文章を読む読解する能力の育成にある。読むことで一番深く外国語を理解しうる。こうして外国語習得は母国語習得の延長線上に位置づけられる。書く聞く話すでは習得される外国語文章は単純にまた断片的になり、論理的思考は形成されにくい。だから英語教育の基本は学校文法の学習と読解力の育成が基本となる。京大や神大の入試にでる長文が読解できれば18歳までの英語教育は充分なのである。
③ そもそも英語で話す能力の育成とはなんであろうか?英語という外国語でどこまで日本人の感懐思想が表現できるのであろうか?はっきり言って限界がある。ネイティヴスピ-カ-には決してなれない。ネイティヴスピ-カ-になるためには六歳以前できることなら誕生前からその地に住まねばならない。つまり日本人が完全というほどに外国語を習得するためにはその地の住民つまり外国人にならなければいけないということだ。じっさい外国に行って必要とされる外国語の能力はどの程度のものであろうか。自分の専門領域での会話、商社員なら営業上の、研究者なら自己の研究領域での会話に、加えて日常生活での基本的会話、物を買う、挨拶をする、道を尋ねる、くらいのことで十分であり、それ以上の能力は必要とされないしまた不可能である。英語でシェイクスピア、ドイツ語でゲ-テなどについて深遠な会話を一介のサラリ-マンや旅行者がする必要もないし可能でもない。外国語習得の限界を心得て、必要なことのみを求めて学習すればいい。もし外国に行く必要があれば急遽一ヶ月くらい会話学校に通いあとは現地に字実際住んで慣れればいい。もちろん高校卒業程度の英語学習が終わっているという前提での話である。挨拶程度の英語学習に大事な小学期の時間を割く必要はないのだ。
④ 日本人は外国語特に話す能力の習得には不自由にできている。まず我々は戦後の7年間を除いて外国に支配された経験はない。有史以来植民地となった経験をもたない。だから外国のご主人様に外国語で交流する必要はなかった。東南アジア諸国、インドそして中国などに比べ外国語会話の能力育成には恵まれなかった。この事は同時に日本人の幸福でもあり強みにもなった。
現在日本は21世紀のアレクサンドリアと言われている。かってローマが支配する地中海世界でアレクサンドリアが文化の中心になり、その地の図書館には世界中の書物が集められ知の殿堂と言われた。現在日本では世界中の主な書籍は岩波書店以下の出版社の尽力により翻訳されている。あくまで主なものだが。私は岩波出版のアリストテレス、プラトン、へ-ゲルの全集を持っている。明治書院のおかげで四書五経以下の主要な儒書は読めるし、春秋社のおかげで仏教関係の書籍はすべて読むことができる。これほど大量の翻訳がなされている国は日本以外にはないらしい。そして日本の翻訳は極めて精緻で秀れているとはある外大の先生から聞いた。東南アジアはじめ多くの国の人達が日本語を学び日本語を通じて世界の文献を読んでいるという。
日本がこのような翻訳大国になるには理由がある。一つには外国人と接触する機会の少なさもあるが、なによりも日本という国の市場規模の大きさが重要である。1億2500万人という人口は複数多数の出版産業を創出するに充分な規模である。出版産業のみならず他の産業、電機、重機械、自動車産業においても複数の企業が創出され競いあっている。ちなみにニュジ-ランドではニュジ-ランド文学は成立しない。彼らが接するものはすべて英米文学である。人口が少なくてニュジ-ランド人だけの文学を成立させるだけの市場が形成されないのだ。北欧諸国にはアニメファンが多い。しかし彼らの国でアニメは造れない。市場が小さすぎるのだ。だから彼らは日本製あるいわこのごろはフランス製のアニメを楽しんでいる。オ-ストラリアでは念願とする国産自動車産業が育成できなかった。やはり市場の規模の制約がある。この点では市場規模が大きく、識字率には問題が無く、加えて言語が統一されている日本は書籍文化発展には最適の地である。
少し話は変るが、和製漢語というものがある。維新以後日本が中国に輸出してきた漢語だ。現在この和製漢語を用いずには中国ではまっとうな会話ができないらしい。この和製漢語は約2000。アメリカで中学卒業までに習得すべき英語の語彙も約2000語だ。ということは維新以来日本人は欧米の語彙を取り入れ翻訳して、それまでの識字率の高さを生かして一気に新しい日本語を形成したことになる。こういう事は世界史上多分稀なことであろう。こういう成果の上に現在の日本語はあり、それは世界に対して普遍的な意義を持っている。この事を忘れてはいけない。母国語の形成と習得は極めて重要なことなのだ。不必要に外国語特に英語の習得により日本語習得の足元をすくわれるような事をしてはならない。
⑤ 政治家諸氏にお尋ねするが、諸兄は外国の政治家とどの程度の内容の会話をされているのか?肝心要の秘要な部分まで外国語で討議するのか?ではあるまい。肝心で重要秘密の部分の会話には通訳を使うはずだ。かって宮沢総理はすべて英語で討議しえらい失敗をされたと聞いてる。肝心要の部分の会話にはその道の専門家たる通訳を介するべきだ。言葉とはそれほど単純なものではない。
政府自民党あたりから小学三年時での英語教育導入という提案がなされている。絶対反対である。無知無学な暴論である。逐一反論する。
① まず日本人にとって一番必要な言葉は母国語である日本語である。母国語は6歳までに会話習得の基礎が形成され(仮に6歳まで言語による接触を一切断つと以後言語形成は不可能になる)、以後の6年間(小学校時代)に母国語を論理的に理解し表現する能力が徐々に形成されてゆく。小学校で教える最も重要な案件は読み書き計算の能力育成である。ちなみに読み書きと計算能力は無関係と思われているかたもおられるかもしれないが、これは重大な誤解である。読み書きと計算の能力は根本では通底している。言語とはその根底において論理なのだ。小学校では教育漢字の大部分の理解そして作文と読書、そして少数と分数を含む加減乗除の計算の能力育成が基本である。これだけできれば社会でなんとか通用する。
② ここに英語教育なるものが入ってきたらどうなるだろうか?英語教育の侵入により真っ先に国語のそして多分算数の時間も削られるだろう。日本人の母国語能力は侵害される。国語の能力が低下すれば他の学科、算数、理科、社会科の能力も必然的に低下する。読めない、書けないのだから。しかし話はそれほど単純で表層的なものではない。国語の能力とは詰まるところ、考える能力なのである。そこへ中途半端な英語教育が入ってくると、日本人児童の思考能力自身が低下する。現に中学校で一番困っている学習上の障害は国語ができない子供の増加なのだ。英語教育の侵入で国語能力が侵害されないとしても結局はアブハチ取らず首鼠両端になるだろう。また英語の導入により授業時間数を増やすことにも反対だ。子供は遊ばなければならない。充分な遊ぶ時間を与えるべきだろう。
③ 早期英語教育論者は英語で話す能力を重視している。この見解は極めて表層的であり、英語あるいわ英語圏文化に対する劣等感の反映としか思えない。そもそも外国語教育とは何かと問おう。実用性もさることながら、外国語の習得はその文章文法の学習を通じて、それを母国語と比較し母国語の理解を深め、併せて両語の比較により、より深い論理形成能力を育成することにある。同時に外国の文化理解も促進される。この観点から言えば外国語教育において一番重要なのは、外国語文章を読む読解する能力の育成にある。読むことで一番深く外国語を理解しうる。こうして外国語習得は母国語習得の延長線上に位置づけられる。書く聞く話すでは習得される外国語文章は単純にまた断片的になり、論理的思考は形成されにくい。だから英語教育の基本は学校文法の学習と読解力の育成が基本となる。京大や神大の入試にでる長文が読解できれば18歳までの英語教育は充分なのである。
③ そもそも英語で話す能力の育成とはなんであろうか?英語という外国語でどこまで日本人の感懐思想が表現できるのであろうか?はっきり言って限界がある。ネイティヴスピ-カ-には決してなれない。ネイティヴスピ-カ-になるためには六歳以前できることなら誕生前からその地に住まねばならない。つまり日本人が完全というほどに外国語を習得するためにはその地の住民つまり外国人にならなければいけないということだ。じっさい外国に行って必要とされる外国語の能力はどの程度のものであろうか。自分の専門領域での会話、商社員なら営業上の、研究者なら自己の研究領域での会話に、加えて日常生活での基本的会話、物を買う、挨拶をする、道を尋ねる、くらいのことで十分であり、それ以上の能力は必要とされないしまた不可能である。英語でシェイクスピア、ドイツ語でゲ-テなどについて深遠な会話を一介のサラリ-マンや旅行者がする必要もないし可能でもない。外国語習得の限界を心得て、必要なことのみを求めて学習すればいい。もし外国に行く必要があれば急遽一ヶ月くらい会話学校に通いあとは現地に字実際住んで慣れればいい。もちろん高校卒業程度の英語学習が終わっているという前提での話である。挨拶程度の英語学習に大事な小学期の時間を割く必要はないのだ。
④ 日本人は外国語特に話す能力の習得には不自由にできている。まず我々は戦後の7年間を除いて外国に支配された経験はない。有史以来植民地となった経験をもたない。だから外国のご主人様に外国語で交流する必要はなかった。東南アジア諸国、インドそして中国などに比べ外国語会話の能力育成には恵まれなかった。この事は同時に日本人の幸福でもあり強みにもなった。
現在日本は21世紀のアレクサンドリアと言われている。かってローマが支配する地中海世界でアレクサンドリアが文化の中心になり、その地の図書館には世界中の書物が集められ知の殿堂と言われた。現在日本では世界中の主な書籍は岩波書店以下の出版社の尽力により翻訳されている。あくまで主なものだが。私は岩波出版のアリストテレス、プラトン、へ-ゲルの全集を持っている。明治書院のおかげで四書五経以下の主要な儒書は読めるし、春秋社のおかげで仏教関係の書籍はすべて読むことができる。これほど大量の翻訳がなされている国は日本以外にはないらしい。そして日本の翻訳は極めて精緻で秀れているとはある外大の先生から聞いた。東南アジアはじめ多くの国の人達が日本語を学び日本語を通じて世界の文献を読んでいるという。
日本がこのような翻訳大国になるには理由がある。一つには外国人と接触する機会の少なさもあるが、なによりも日本という国の市場規模の大きさが重要である。1億2500万人という人口は複数多数の出版産業を創出するに充分な規模である。出版産業のみならず他の産業、電機、重機械、自動車産業においても複数の企業が創出され競いあっている。ちなみにニュジ-ランドではニュジ-ランド文学は成立しない。彼らが接するものはすべて英米文学である。人口が少なくてニュジ-ランド人だけの文学を成立させるだけの市場が形成されないのだ。北欧諸国にはアニメファンが多い。しかし彼らの国でアニメは造れない。市場が小さすぎるのだ。だから彼らは日本製あるいわこのごろはフランス製のアニメを楽しんでいる。オ-ストラリアでは念願とする国産自動車産業が育成できなかった。やはり市場の規模の制約がある。この点では市場規模が大きく、識字率には問題が無く、加えて言語が統一されている日本は書籍文化発展には最適の地である。
少し話は変るが、和製漢語というものがある。維新以後日本が中国に輸出してきた漢語だ。現在この和製漢語を用いずには中国ではまっとうな会話ができないらしい。この和製漢語は約2000。アメリカで中学卒業までに習得すべき英語の語彙も約2000語だ。ということは維新以来日本人は欧米の語彙を取り入れ翻訳して、それまでの識字率の高さを生かして一気に新しい日本語を形成したことになる。こういう事は世界史上多分稀なことであろう。こういう成果の上に現在の日本語はあり、それは世界に対して普遍的な意義を持っている。この事を忘れてはいけない。母国語の形成と習得は極めて重要なことなのだ。不必要に外国語特に英語の習得により日本語習得の足元をすくわれるような事をしてはならない。
⑤ 政治家諸氏にお尋ねするが、諸兄は外国の政治家とどの程度の内容の会話をされているのか?肝心要の秘要な部分まで外国語で討議するのか?ではあるまい。肝心で重要秘密の部分の会話には通訳を使うはずだ。かって宮沢総理はすべて英語で討議しえらい失敗をされたと聞いてる。肝心要の部分の会話にはその道の専門家たる通訳を介するべきだ。言葉とはそれほど単純なものではない。