経済(学)あれこれ

経済現象および政策に関する意見・断想・批判。

日本史入門(29)補遺  徳川慶喜

2021-01-25 14:46:26 | Weblog
日本史入門(29)補遺 徳川慶喜

 徳川15代将軍慶喜の32歳までの人生はそのまま幕末動乱混迷の時期と重なります。そしてこの混迷を象徴するように彼慶喜は幕府と朝廷の間を(良く言えば)調停(悪く言えば)右往左往しています。徳川家一門という意識が強いと同時に、水戸藩出身という状況ゆえに尊王の気持ちも強く、この事が彼の進退を複雑で不可解なものにしています。
 慶喜は天保8年(1837年)江戸の水戸藩邸で生まれています。父は御三家の一つ水戸家の当主斉昭、母は有栖川家出身の正室登美宮吉子でした。斉昭は熱心な尊王主義者(水戸家は光圀の時代から尊王です)であり、早くから水戸学に基づいて藩政改革を行っています。母親は内親王に相当します。慶喜はそういう両親を背景として誕生しました。彼が生まれた天保8年大坂で大塩平八郎の乱が起り、幕府の屋台骨にひびが入ります。それを立て直すために行われた天保の改革は2年後失敗し、幕政は停滞し混迷を深めて行きます。慶喜はそういう時期に生れました。幼名は七郎麿、2歳時水戸へ送られて厳しく育てられます。慶喜は正妻の子としては二番目なので水戸家の後嗣予備として大切に育てられ、父斉昭も彼の優秀さを認めており、将来将軍後継にする腹案をもっていました。弘化4年(1847年)10歳、慶喜は一橋家を相続します。慶喜が一橋家を継いだ当時、将軍位は極めて不安定でした。家慶の後嗣は家定ですが、この人は魯鈍とも言われ少なくとも言語障害があり、将軍としてはふさわしくないと父家慶も思っていたようです。
嘉永6年(1853年)ペリ-が浦賀に来航して通商を求めます。将軍家慶は重病で間もなく死去します。13代将軍は家定になります。家定の後嗣をめぐって政界の意見は二分されます。一つは松平慶永(春嶽)を中心とする有志大名、山内豊信(容堂)、島津斉彬、伊達宗城らが推す一橋慶喜、もう一つは井伊直弼を中心とする譜代大名の一群です。本来幕政は譜代大名旗本(つまり徳川家の家臣)が行っていました。御三家・家門大名(親藩)まして外様大名は幕政に口を出せません。しかしペリ-来航のショックで時の老中首座阿部正弘は、事態への対処の意見を全国の大名そして武士一般に求めます。こうして本来幕政の中核であった譜代大名の政治的発言権は低下します。そういう状況で一橋慶喜は将軍後継に推されました。この派の中心は福井藩主家門大名の松平慶永です。彼は時局緊急に鑑み英名の聞こえ高い慶喜を将軍後継に推します。安政5年(1858年)、慶喜22歳の時です。譜代大名は彦根藩主井伊直弼を中心に団結し、将軍後継は血統に依るものだと主張し、紀伊藩主徳川慶福(後将軍になって家茂)を推します。結局10歳の幼童慶福が第14代将軍家茂として就任します。幕閣では通商開国の可否を決められません。決定は京都の朝廷に持ち込まれ、条約勅許という問題が浮上してきます。幕府は幕府自身の手で自らのイニシアテイヴを放棄しました。
家茂が将軍、幕政の中心者は大老井伊直弼です。井伊は幕政を従来の譜代大名中心に直そうと努めます。松平慶永(春嶽)を中心とする有志大名はほとんど隠居させられ、反井伊の象徴でもあった一橋慶喜も安政6年(1859年)23歳の若さで隠居謹慎に処せられます。以後3年間慶喜は政治活動を禁じられます。この間安政5年(1858年)日米修好通商条約が結ばれます。違勅すなわち天皇の勅許を経ない条約締結です。万延元年(1860年)井伊直弼が桜田門外で暗殺されます。ついで翌翌年文久2年(1862年)筆頭老中安藤信正が坂下門外で襲撃され負傷します。文久2年(1862年)慶喜は謹慎を解かれ政治活動を許されます。この年薩摩の島津久光が上京し攘夷を呼号し江戸にもやってきて、幕府の政治に容喙します。老中の上に政治総裁として松平慶永を、将軍後見役として一橋慶喜を推し、任命させます。  
慶喜の地位は不安定なものになります。将軍であるようで、将軍でないような、ややこしい立場に立たされます。この不安定さは将軍になるまで、そしてなってからもずっと続きます。従来幕閣の中心であった老中以下譜代大名・旗本とも、不安定を通り越して険悪な関係になります。慶喜の側近二人が旗本によって暗殺されています。こうしてできた幕政は有志大大名の連合を中核とする公武合体政治でした。この体制の頂点に慶喜は位置づけられます。しかし慶喜がこの立場を完全に容認していたわけではありません。付言すれば徳川将軍15人中、江戸城に住まなかった唯一の将軍として慶喜は記憶されます。
当時文久2年(1862年)京都では攘夷論が真っ盛りでした。長州は攘夷奉承を掲げ、過激派の浪士が暴れまくります。公卿は国事用掛を創設し政治的意見を述べるようになります。その公卿には尊王の浪士たちがいろいろ意見を吹き込みます。土佐勤王党の武市半平太(瑞山)を中心とする天誅のテロが横行しています。本来行政官である京都所司代・京都奉行では手が付けられません。まず京都の治安を回復しなければなりません。こうして慶喜は文久2年(1862年)12月京都に上ります。以後明治元年(1868年)初めまでの約6年間慶喜はその政治活動のほとんどを京大阪で行う事になります。慶喜の任務は二つあります。まず京都の治安の回復です。そのため嫌がる会津藩を無理やり引っ張り出し、藩主松平容保を京都守護職に就けます。新選組はその配下です。次に攘夷奉承です。慶喜の立場は不安定でした。彼の活動の場は京都です。一方江戸にはれっきとした将軍や老中がいます。政治の主導権はこの両者の間で揺れ動きます。次に慶喜は攘夷を遂行するために上洛したのですが、彼の本心は開国にあります。この点では江戸の政府も同様です。この二点の不安定さのゆえに慶喜の行動は矛盾した動きを見せます。彼が非常に賢く先を見る(見すぎなのですが)力があったことも、周囲から彼の活動を不可解なものにしています。
文久3年(1863年)8月18日文久の政変で長州は京都から追い出されます。主役は薩摩藩と会津藩です。こうして京都の治安は回復されます。同年12月慶喜は朝廷から参預に任じられます。松平春嶽、島津久光、山内容堂、伊達宗城などと一緒です。これは雄藩有志大名の連合政権を意味し、徳川家はその一員にすぎません。慶喜はこれを嫌って翌年元治元年(1864年)参預会議をぶっ壊します。代わって慶喜は朝廷から禁裏守護総督に任命されます。慶喜は大名連合(公武合体)か徳川親政か、開国か攘夷か、京大阪か江戸かの三つの線で両端を維持します。この間7月禁門の変が起り長州は敗北します。幕府の力は一時復活したかに見えます。事実復活したのかも知れません。そして長州征討が企てられますが、薩摩の西郷隆盛の斡旋で長州は謹慎し征討は取りやめになります。慶喜は長州征討には熱心でした。
慶応2年(1866年)7月14代将軍家茂が死去し、8月慶喜が徳川宗家を相続します。禁裏守護総督は辞任します。同年12月征夷大将軍に任じられます。宗家相続と将軍就任の間に4か月の時日がある事が微妙です。慶喜はこの間雄藩連合と徳川専制の間をうごめき、状況を有利にしようと思っていたのでしょう。時の孝明天皇は一にも二にも幕府を信頼していました。その天皇は将軍就任とほぼ同時に死去されます。慶喜にとっては痛手です。孝明天皇死去は暗殺によるものではないかとの疑いがあり、この疑いは捨てきれません。私は岩倉具視による暗殺説を取ります。あまりにも討幕派にとってタイミングが良すぎます。多分西郷や大久保も関与ないし黙認していたのでしょう。以心伝心、暗中跳鬼、目的は手段を正当化する、まさしく闇の中の謀略です。
この間同年1月薩長両藩は攻守同盟を結んでいます。6月第二次長州征討開始、しかし戦況は思わしくなく、幕府は長州を降せません。薩摩は非協力であり密かに長州を援助します。12月孝明天皇が没します。これで開国は容易になりますが、薩長と幕府の緩衝地帯は失われます。慶応3年(1867年)に入り松平・山内・島津・伊達の四侯は兵庫開港問題で慶喜に圧力をかけ、有志大名連合政権を設置しようとしますが、慶喜に体よくあしらわれます。そして5月15日兵庫開港の勅許が下ります。慶喜の粘り勝ちです。この辺から薩摩は(そして当然長州も)蔭に隠れていた黒幕実力者である中下級藩士、具体的には西郷隆盛、大久保利通たちが表に出てきます。彼らは諸侯連合による話し合いではらちがあかず、武力行使しかないと覚悟します。10月13日討幕の密勅、御年15歳の明治天皇に勅命など下せませんが。長州征討に失敗したとみた慶喜は、土佐の後藤象二郎などの進言を入れて慶応3年(1867年)10月14日、朝廷に大政を奉還します。将軍位は保留します。雄藩連合公武合体路線に乗り換えます、あるいはそのように見せます。慶喜の腹は奉還された政治を朝廷や雄藩だけでどうできる、どうせ徳川に泣きついてくる、というところです。12月9日薩摩は、いやがる越前尾張土佐安芸藩の尻を叩いて、御所に兵を入れ占拠して王政復古を宣言します。このク-デタ-の圧倒的主力は薩摩兵でした。他の四藩は寡少な兵力を申し訳程度に出し、加えて薩摩藩兵により監視されていました。王政復古では、将軍も関白も廃し、総裁・議定・参与の制度に切り替えます。更に薩摩は慶喜に辞官納地(将軍位を含むあらゆる官位の剥奪と徳川家の所領700万石の返還)を命じて慶喜を追い詰めます。当時の常識ではこの措置は遣りすぎで慣例違反です。ここで松平慶永(春嶽)以下の雄藩(多分島津久光も含めて)は西郷大久保岩倉と一線を画しだします。慶喜討伐か否かで小御所会議が開かれ、対慶喜協力派の土佐藩主山内容堂と岩倉大久保の間で長時間激論が交わされます。事態を決したのは西郷の「短刀一本あればいい」という暗殺の示唆でした。容堂は黙ります。この辺は大名とは甘いものです。12月16日慶喜は大阪城で各国の公使を引見し、自分が主権者であることを明示します。薩摩そして罪を免除され入京を許された長州は戦争必至と思い定めます。この時点では慶喜も薩摩も開戦はできません。開戦の理由がないのです。この前後西郷は江戸市中で、浪士たちをして強盗放火など市中攪乱を始めさせます。挑発に乗った庄内藩兵と幕臣は薩摩邸を焼き討ちし破壊します。西郷はこの事態を宣戦布告と取ります。激昂した幕臣幕兵は続々上洛し事態は緊張します。慶喜は幕臣の激昂を抑えきれません。下手に抑えたら殺されかねません。翌慶応4年(明治元年)正月早々から鳥羽伏見の戦が開始されます。江戸を攪乱した浪士の首領は相良総三と言います。彼は後新政府軍の先鋒として東山道を東征し、途中で年貢半額を触れ回り、偽官軍として処刑されています。実情は解りません。まさしく闇から闇です。
西郷が討幕を決心した重要な動機として、幕府の軍事力充実があります。阿部正弘以来幕府は、軍制改革・政治改革を推し進めてきました。鳥羽伏見戦の時点で海軍力は幕府が圧倒し、陸軍歩兵部隊(後戊辰戦争で大活躍します)も充実されつつありました。慶喜の将軍就任以後この改革は加速されます。慶喜特に側近の勘定奉行小栗忠順はフランスからの借款で軍備を整え、横須賀に造船所を設け、兵庫商社の創立などを計画していました。幕政も老中制度を廃止し内閣制に切り替え、全国は郡県制にしようとしていました。あと一年戦が遅ければ薩長は歯が立たなかったでしょう。西郷大久保それに長州の木戸もこの事態を恐れました。
慶喜が敗れた原因の一つに江戸・京大阪間の連絡の悪さがあります。幕軍の主力は江戸にあります。政治は京大阪で進行しています。慶喜がその気になれば江戸から人数を遅らせ実力でク-デタ-を起こすことも可能だったのです。現に文久3年(1863年)6月老中小笠原長行が兵1000名を連れて上洛しています。この時慶喜と小笠原の連絡は不充分でク-デタ-は未遂に終わりました。結果から見て我々後世の者は幕府必敗論に傾きがちですが、幕府にも勝つチャンスはあったのです。小栗の構想はそのまま明治新政府に受け継がれて行きます。
元治元年年から明治元年までの5年間、幕薩間の激闘の主役は西郷と慶喜です。両者は自己と自己が封じる政権の運命をかけて戦いました。相互に狡知と謀略を駆使しあっております。相互に影響を与え合ったと言えましょう。嘉永安政の頃、西郷は慶喜を将軍にするために奔走しました。元治慶応年間では二人は仇敵になります。更に大きく思えば安政5年の大獄から江戸開城までの10数年間政局は混迷し暗闘が繰り返されてきました。安政の大獄で井伊直弼が登場しまず第一球を投げます、以後選手が相互に代わり投げ合い打ち合いの戦闘になります。最後の5年間は相互の陣のエ-スである慶喜と西郷の死力を尽くしての投げ合いになり、最後に西郷が勝利をおさめたと言えます。その間勤王佐幕、攘夷開国、公武合体討幕とスロ-ガンは入り乱れ、暗闘、謀略、戦闘、同盟、処刑、謀略などなどが相次ぎ明治に至ります。明治以後慶喜は政治社会から完全に引退し沈黙を守り、西郷は時局に受け身に終始します。日本史における最大の一つが終わったと言っていいでしょう。
明治元年(1868年)17日月幕府軍と薩長軍は鳥羽伏見で激突し、少数の兵力だった薩長が勝利をおさめます。慶喜は部下を見捨てて軍艦で江戸に逃げ帰り、謹慎して和平を請います。彰義隊の戦、戊辰戦争を経て新政府軍は明治元年秋までには北海道五稜郭の榎本軍を除く全幕府軍を降します。徳川家は静岡70万石の大名になり、慶喜も静岡で謹慎生活を送ります。明治2年謹慎を免除され静岡に住み続けます。以後の生活は狩猟と写真などの趣味生活がほとんどです。公的な発言は一切していません。朝廷との連絡は勝海舟、そして慶喜の男児は勝家の養子になっています。徳川宗家は田安亀之助が継ぎ、徳川家達と名乗ります。明治31年参内し明治天皇と面会します。慶喜62歳の時です。大正2年(1913年)77歳で死去しています。この間徳川宗家とは別個に公爵家設立を許されています。
かって将軍擁立で提携した西郷と慶喜が10年後に討幕か否かで対立し生死をかけて戦う事なります。歴史の「妙」と言えましょう。

「君民令和、美しい国日本の歴史」文芸社刊行