マサミのいろいろ

知らない世界への挑戦

史跡めぐり

2010年12月13日 | 
土曜日に開かなくなったネット 原因はネットのスイッチを「ルカがOff」にしていた


 昨日は無尽の仲間7人で 史跡めぐり 山越え等ハードな歩行含め18キロ近く歩く 

途中の建穂寺(タキョウジ)の写真 入り口の左右に329年経った仁王像があります





  ネットの建穂寺の引用です(写真等詳しく載っています)

真言宗で、白鳳年間(654~669)道昭法師によって開基された古寺である、養老年間(717~723)行基中興という。⇒道昭(どうしょう)法師
629~700日本に初めて法相宗をつたえ、日本法相宗の開祖となった飛鳥時代の僧。河内の生まれで、俗姓は船連(ふねのむらじ)という。653年遺唐使にしたがい唐に渡り、玄奘に師事して法相教学を学び、660年頃帰国した後、元興寺に住し法相宗を広めた。行基は彼の弟子である。

しかし、最近建穂寺の研究者によって、建穂寺は弘法太子(空海)を開祖と仰ぎ、平安時代(794~1180)に創建された学問の寺であった事が分かった。建穂寺は「神仏混淆」の寺として、複雑な側面を持っていた。寺と神社が共存する境内には「延喜式神名帳」に登録された「建穂神社」があって、馬鳴(めみょう)大菩薩が祀られていた。
同じ境内にある「建穂寺」は真言密教の寺として、真言宗の大日如来をお祀りしていた。が何時の頃からか変質していった模様である。建穂寺が最も栄えたのは平安後期と鎌倉時代であったろう。建穂寺には多くの神仏が共存していました。明治初年(1868)の神仏分離令につづく廃仏毀釈により建穂神社が残り、寺は廃寺となってしまったが数百年の長い歳月眠っていた歴史的に貴重な五十余体の仏像や文化財は現在建穂町内会によって「観音堂」に大切に祀られ守られている。また現在の建穂寺の左右に並んでいる仁王像は延亨四年(1747)の火災で焼けてしまっため、後の寛政三年(1791)に駿河の商人が寄付したものといわれている。

観音堂の入り口左右に並ぶ仁王(阿形・吽形)も見事な作である。



   今日の花 畑の通路で咲く
















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