おやじのつぶやき

不動産会社を経営する今年53歳のおやじが日本国を憂い仕事・趣味・健康などをテーマに日々つぶやきます・・・・

菅の菅による菅のための政治

2011-07-14 | 憂国

何でこんなやつが総理大臣になってしまったのだろう。全ては先の総選挙で民主党を支持した国民の責任だ・・・
小沢さんは二大政党制実現のためにもう一仕事といっているようだが、二大政党制とは愛国心のある政党が政策を競うものであって、最初から一方が反日政党では話にならぬ。

 産経新聞 20110714 政論

 東日本大震災をきっかけに、被災者への連帯を示すため米国から日本へ帰化を決意した日本文学研究者のドナルド・キーン氏の代表作の一つが伝記「明治天皇」だ。その明治天皇は、政府の基本方針「五箇条の御誓文」で神前にこう誓った。

 「官武一途庶民に至るまでおのおのその志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめんことを要す」

 国民それぞれが意思を遂げられるようにし、やる気を失うことのないようにするという政治の要諦が説かれている。一方、菅直人首相はこれと正反対を行く。

 野党どころか自ら任命した閣僚や民主党執行部からも早期退陣を求められ、官僚も首相の下では働けないと面従腹背だ。首相が居座っていては復旧・復興は進まないというのは党派を超えた共通認識ですらある。

 内閣支持率は15~16%と地を這(は)うようで、国民も菅政権に倦み疲れている。首相は「私の顔が見たくないなら法案を通せ」と恫喝(どうかつ)したが、首相の顔など勘弁という人で巷(ちまた)はあふれている。

 「首相は普通の人の能力以下の人」(島田晴雄・千葉商科大学長)

 「菅さんははたして人間と言えるのだろうか。僕の考えている人間の範(はん)疇(ちゅう)には入らない」(ジャーナリストの田原総一朗氏)

 識者からも連日のように批判、糾弾が浴びせられている。それでも首相は平気の平左。最近は市民運動家時代の原点に回帰し、「すべての国民が参加できる参加型民主主義」を目指すと意気揚々だ。

 だが、政治への国民の参加を阻んでいるのは首相自身ではないか。

 国民がその意思を投票行動で示した昨年の参院選でも今年の統一地方選でも、首相は連戦連敗の責任は取らない。世論調査という形で明らかになる国民の批判にも耳目をふさぎ、正面から受け止めようとしない。当然、周囲の忠告・諫言(かんげん)にも従わない。

 13日の記者会見では内閣記者会の幹事社が「都合の良いときだけ会見する現状を改善してほしい」と求めたが、首相は回答しなかった。

 法的根拠のない中部電力浜岡原子力発電所の停止要請にしても、唐突に「安全宣言」を翻しての全国の原発へのストレステスト(耐性検査)導入にしても、首相は持論である「議会制民主主義とは期限を区切った独裁」を実践している。歴史上の独裁者と異なる点は、首相にはカリスマと能力がないことぐらいだろう。

 「私としては、果たすべき責任はきちんと果たさなければならないとの思いでこの間全力を挙げてきた」

 首相は12日の衆院東日本大震災復興特別委員会で、震災発生後の対応をこう自己弁護した。だが、それはあくまで首相の個人的思いにすぎない。

 首相はこの間、自らがその地位にあることを「天命」「使命」「運命」「本望」…などと自己陶酔的に語ってきた。また、「完全燃焼する」「決然と生きる」など自分を鼓舞する言葉は述べるが、本来主人公である国民や被災者のことは二の次にしかみえない。

 現状はまるで「菅の菅による菅のための政治」であり、国民と政治の距離はあまりに遠い。どこが参加型民主主義なのか。

 「この人民ありてこの政治あるなり」

 かつて福沢諭吉はこう指摘し、秦野章元法相は「この程度の国民ならこの程度の政治」と言い放った。

 普通であればその通りかもしれないが、被災者が見せた秩序正しさや民度の高さを思うと、菅政権の無軌道ぶりと全く符合しない。やはり首相は、その地位に値しないのに就いてしまった「想定外」の「位を窃(ぬす)める者」(論語)だと考えるしかない。(阿比留瑠比)


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