権力が国民の言論を抑え込もうとする動き。。。
それはロシアだけでなく、日本もだ。
3/10(木)
3月8日、政府は「侮辱罪」の厳罰化を盛り込んだ刑法改正案を閣議決定した。今回の改正案で、他人を侮辱すれば、1年以下の懲役・禁錮または30万円以下の罰金となる。これにより、SNSなどでの誹謗中傷が抑えられると期待されている。
「2020年、女子プロレスラーの木村花さんが、SNSでの誹謗中傷を苦に自ら命を絶ちました。この事件がきっかけで、厳罰化の議論が始まりました。
警視庁は木村さんへの誹謗中傷をおこなったとして30代の男性を『侮辱罪』の容疑で書類送検しましたが、男性はたった9000円の科料で放免となったことから、より厳しい刑罰を求める声が上がったのです」(政治ジャーナリスト)
2年前のあの事件の直後から、こうするつもりなんだろうとは思っていました。
2020年5月26日
予告してましたから。
侮辱罪とは、「公然と人を侮辱すること」を禁じた法律で、ウェブやSNSなど、誰もが読めるような場所で他人を蔑視したりバカにしたりすることも含まれる。過去には、ライブ配信に出演する被害者に対し「ブタ」と発言したり、ネット掲示板に実名とあわせ「アホ丸出し」と書き込みしたことで摘発されている。
ニュースサイトのコメント欄には、《誹謗中傷と捉えられないように相手の気持ちを考えた言葉の選び方って大事だと思う》といった賛成意見と同時に、「政治家の批判ができなくなる」といった意見が相次いだ。
《(侮辱罪が)権力者の隠れ蓑に使われ、悪政に対する批判を封じ込める効果の方が大きいように思える》 《時の権力者の気分を害したかどうかによって逮捕されることにもなりかねないから、適用基準と範囲は絶対に明確化して欲しい》
すでにネット上の言論を監視して、工作員を使って、ネット上に書き込ませ、世論操作している。
そして、あいつらにとって都合の悪い情報、サイト、ブログ等が、グーグル検索では出てこなくされている。(このブログもだなw)
すでにこういう言論操作と弾圧をしてるってことは、
最終的には、批判する者の口封じがしたいわけだ。
自分もいつかブログを書けなくなるかもなと覚悟はしているんだ。
SNSでは、侮辱罪の厳罰化に納得している人も多いが、今回の改正案について「大問題だ」と強く否定するのは、ネット上の誹謗中傷に詳しい吉峯耕平弁護士だ。
「侮辱罪の『侮辱』とは、簡単にいうとひどい悪口のことです。悪口は、褒められたものではないですが、基本的に違法ではなく、刑法は介入しません。ただ、あまりにひどい悪口は無視できないので、侮辱罪が適用されます。
今回の法改正は、『拘留・科料』という非常に軽い犯罪だった侮辱罪が、本格的な犯罪になるということです。何が侮辱にあたるのか、その基準は曖昧にならざるを得ないので、非常に大きな問題をはらんでいます」
侮辱にあたるのかどうか、その基準を明確にするのは不可能。
なのに本格的な犯罪にしてしまう。。。
これは、あぶないだろう?
吉峯氏は、侮辱罪の厳罰化について2つの問題があるという。
「もともと侮辱罪の法定刑はきわめて軽い『拘留・科料』で、立ち小便や物乞い行為(軽犯罪法)と同じでした。これは、いわば、『準犯罪』といった位置づけでした。 ところが、改正案で1年以下の懲役刑と罰金刑が追加されました。同程度の法定刑として、痴漢や遺失物横領があります。暴行は懲役2年までだから、それよりは軽い。いわば、正式に犯罪の仲間入りをしたことになります。
そうすると、単なる悪口と侮辱をどう区別するかの基準が、今まで以上に大きな問題になります。はっきり言って、明確な基準を作ることはできません。
基本的には、よっぽどひどいものが侮辱として立件されますが、明確に何がOKと示すことは難しいし、恣意的な摘発もとても心配です。すると、悪口を言うと犯罪になるかもしれないとみんなが考えてしまう。これを『萎縮効果』といいます。 侮辱が本格的な犯罪になると、萎縮効果が強く働きます。本来は適法で、刑法が介入するべきではない言論まで萎縮してしまう。我々にとって重要な、『表現の自由』が大きく損なわれてしまうのです」
みんなの懸念どおりのことを、専門家もおっしゃっている。
恣意的に摘発される可能性がある。
権力者のご機嫌しだいで、犯罪者にされてしまうのか?
ご機嫌しだい・・・、どっかで見たような・・・
緊急事態にさえすれば、人権はなくなる。
法的にもワクチンを強制することができてしまう。
拒否すれば犯罪者。
緊急事態を理由に、例えば拒否する者を逮捕できるように内閣が勝手に法令つくることもできそうだ。(後述する)
私はこれを一番恐れている。
改憲しちゃうと、権力者のご機嫌しだいでいろいろできるようにされちゃいそうなんですけど。
「自民の改憲案では、法律がなくても政令をいきなり作ることができる
この改憲案に出てくる政令は、緊急事態の際に、国会が法律を定めるのを待っていられないときに、内閣が一存で政令を定めることができるのですから、要するに政令が法律の代わりになる」
さらに、
例えば、戦争しているときは「公の秩序を害する」とされて、表現の自由は奪われるだろう。
こんな改憲をして、
例えば第3次世界大戦になったら、
権力に都合の悪いこと言えば、犯罪者とできるように、
じょじょにすすめている感じがするんですけど。。。
最近も、
2022年3月10日
防衛省は外国勢力が虚偽情報をインターネットに流し、世論の誘導や混乱を狙う作戦への監視を強化する
こんな報道が出ていた。
今は、まるで戦前じゃないかと書いた。
今回の侮辱罪の厳罰化は、こういうのの前段階なんでしょうか?
そしてもうひとつは、手続きの問題だという。いったいどういうことか。
「刑法など基本六法の改正は、法制審議会で時間をかけて審議されます。今回、『民事訴訟法のIT化』という別案件も閣議決定されました。これは、法制審議会を1年半ほど、23回も継続して開いて、慎重に議論して、ようやく案ができました。また、法制審議会の前に検討会と研究会を2回開催しています。基本法を変えるというのはそれくらい大変なことで、慎重な手続が必要です。
ところが、侮辱罪の法制審議会は、去年の9月と10月の2回しかやっていません。憲法の『表現の自由』を制限する非常に重要な問題ですから、単発の論点とはいえ、こんな簡単に刑法を変えてしまうのは恐ろしいことです。マスコミも含め、誰も何も言わないのが不思議です」
侮辱罪の厳罰化、カンタンに決めちゃったって。
だれもそこに異を唱えない。
そしてこれをマスコミも言わない。
それはどっかからの命令だからだろう?
日本の政治は誰の命令で動いているんでしょうか?
ふぅー。しもべばっかりや。わかりやすいなぁ。あ、こういうのも侮辱罪?
吉峯氏は、「悪口は基本的に罰しないことが重要」だと言う。 「たとえば『安倍は独裁者だ!』みたいなことを言う人はいっぱいいます。牢屋に入れられることを心配しないで、悪口を自由に言えることは、我々の社会の重要な価値です。
そうよ。
売国している連中について、誰もそれを指摘しなかったら、国がほろびちゃう。
殺されかけてるのに、誰もそれを言わなかったら、犠牲者が増えるばかり。
今回の立法のきっかけは、多数の悪口が集まってプロレスラー木村花さんが自殺した事件です。多数の悪口のなかには極めて悪質なものもありましたが、悪口を犯罪として摘発するよりも、世論を煽った番組づくりや、出演者を守らない局の姿勢を改めるべき問題です。安易に悪口を規制したら、この国から『表現の自由』が失われてしまいます」
誹謗中傷が問題なのは言うまでもないが、「悪口」を法律で規制するのは簡単ではない。政府は、改正案の今国会での成立を目指しているが、その行方を注視しておく必要がありそうだ。
成立をめざしている・・・。
まだ成立してないと思うんだけど、すでにこんな記事が↓
3/16(水)
東京・池袋で2019年4月に起きた車の暴走事故で妻子を亡くした松永拓也さん(35)がインターネット上の投稿で誹謗(ひぼう)中傷を受けたとして、警視庁が捜査を始めたことが15日、捜査関係者への取材でわかった。
遺族としての活動について「金や反響目当て」などと書かれており、同庁はこうした記述が侮辱容疑などにあたる可能性があるとして、サイトの管理者に協力を求めるなどし、投稿者を特定する方針だ。 松永さんによると、投稿があったのは今月11日午前11時過ぎ。松永さんのツイッター投稿に対し「金や反響目当てで、闘ってるようにしか見えませんでした」という返信があった。匿名アカウントからの投稿で、亡くなった妻子の実名を挙げて「そんな父親、喜ぶとでも??」とも記されていた。
松永さんが「警察へ相談に行く」と応じると、投稿はまもなく削除され、その後、同一人物とみられるアカウントから「松永様御一家 本当に申し訳ないです」という投稿があった。アカウントには「誹謗中傷に関わっているものです」との記載があり、両手を合わせた絵文字付きで「松永様本当にごめんなさい。許してください。お願いします」とも書かれていた。
ちょっとくわしい法律の説明↓
より引用。赤、こちらで追記。
侮辱罪とは、刑法231条に定められた犯罪です。人を侮辱するようなコメントを公然と書き込むことは、この犯罪に該当する可能性があります。
「公然」とは、不特定又は多数の者が認識できる状態をいいます。(実際に広く認識されたことまでは要しません。)また、特定かつ少数に対する発言でも、その場にいた人から伝わって外部に話が広がってしまう可能性があれば、「公然と」の要件を満たします。
(中略)
例えば、「Aさんには前科がある」という書き込みがされた場合は、「前科がある」という事実が摘示されており、この事実が真実でも虚偽でもAさんの社会的評価を害するものになりますので、名誉毀損罪に該当します。
対して、「Aさんはバカだ」という書き込みの場合には、「バカ」は事実の摘示とはならないので、侮辱罪を検討することになります。
これ、訴えようと思えば、なんでも訴えられちゃう感じだね。
上記記事の「お金目当て」というのは事実かどうかわかんないことだから、訴えるならば名誉毀損ではなく侮辱罪を検討することになるわけだ。
警察が投稿者を特定するんだ。
それを相手に言うと、ゆるしてくださいとなった。。。
今はまだ、よほどひどいものに対してやっているのかもしれないけれど、
国家権力が暴走始めたら、みんな危ないだろう。
冗談も言えない世の中になるんでしょうか?
これが国会で成立して、第三次世界大戦になったら・・・。
そして改憲もしちゃったら、何も言えないね。
そして、
例えば身近な少数の人にちょっと言ったことでも広まる可能性があるなら、「公然と」の要件を満たすから訴えられちゃうかもしれないって・・・
こわいね。
昔の密告みたいになっちゃう可能性を思う。。。
歴史的には恐怖政治や軍事独裁、共産主義による政権下においては、政治批判や日常生活の不満を密告者によって集め、批判や不満を言う者を思想的に弾圧し、また国民同士が監視しあうことによって団結して国家への反駁を防ぐことが行なわれてきた。これら制度としての密告は、すでに密告が当然となった社会の中で行なわれるために「密か」という前提条件はあまり成立しないが、密告者が誰かという秘密は守られる。
密告する対象としては友人や隣人があげられるが、家族も対象となる場合があり実際日本や中国、北朝鮮、東ドイツではこの告発をもとに逮捕されたケースも無数に存在する。 通常、密告を行えば、密告者には報奨が支払われる。このため、密告者の中には自身の安泰と報奨目当てに、意図的もしくは不確かな記憶に基づくでたらめな告発を行う者もおり、不合理な冤罪を生むケースもある。密告がなされないままなんらかの原因で支配層に対する反乱、反抗、およびそれに類する行為が発覚した場合は、密告をしなかったことが処罰の対象になる場合がある。
いままさに社会主義にしようとしていて、さらに世界大戦みたいにしようとしてませんかね?
こういう世の中になっていってる中で、どうやって安全に自分の主張を続けるか?
これを考えていたの。
今はまだ、憲法改正していない。
だから一応人権が保障されているし、権力者の暴走も、これでもなんとか食い止めている。
表現の自由も保障されている。
でもこういう流れのなかにいることを思うと、なるべく安全に主張していきたいものだ。
安全とは、自分で自分を守ることができるか?ということだと思うんだ。
それは、戦う意識になりやすい私たちが、戦いから降りて表現することを覚えることだと思っている。
戦っちゃうと、どこまでも相手に絡んでいくし、恨みも買うだろう。
アンチなどの他人を気にしない意識でいられるのか?
それとも、どこまでも反応して他人と争いを繰り広げるか?
後者の意識の人が多いと、こういった言論弾圧法改正を正当化する雰囲気をつくるだろうと思うの。
そしてなによりこれからの時代、自分自身がきつくなってしまうと思うの。
自分の心の中で他人を気にしている割合が多く、戦っている人は、相手にどんどんくっついていくんだ。
嫌いなら離れればいいのに、感情を解消するためにどんどん絡んでいく。
これをやってる限り、悔しい感情が残るから、争いをいつまでも終わりにできない。
また相手を変えて、関係ない相手にうっぷんばらししていたりする。
家でも家族とやっているはずだ。
戦いから降りるということを覚えないと、こうなっていく。
こういう人、多いと思うんだ。
その状態の人に期待してもしょうがないのね。
だから
私は人に期待しないんだ。
相手の良心に期待しない。
嫌な気持ちになったときは、
①自分から相手に働きかけるか、措置を講ずるか
②何も言わず離れるか。
これしかない。
例えば、
〈例1〉
ネット上で悪口や批判を書かれたとする。
テーマはなにか?
誰が決めて誰が責任をとることなのか?
自分に影響があるのか?ないのか?
この場合のテーマは:
悪口を書くかどうか
それを決めて責任をとるのは:
相手。相手が言うと決めて、その結果は相手が負う。
それに対して自分は?自分に影響があるのか?:
ケースバイケースだけど、例えば、
①不快な気持ちになる、傷つく
・・・気持ちだけの問題であれば、私なら放置するな。
「傷つきました」と相手に言ってもいいけどね。
よけいに絡まれたりする可能性もあるわけだ。
ネットは顔が見えないだけに、こういうのがやりたい放題だ。
だから、気持ちが通じそうな相手かどうか?
無理そうなら、よくわからないならやめといたほうが無難だろう。
相手に言うにしても、戦いから降りて、相手の批判ではなく、自分の気持ちだけをストレートに言うスキルが必要だ。
「私はこう感じたよ」って。主語を「私は」にして。
「おまえ!」ってやっちゃうと争いになるからな。
あまり関係が深くない相手なら、何も言わないで離れた方が無難だろうな。
悪意や目的があって誹謗中傷する人も、もちろんいる。
あいつらが工作員を放っているわけだし。
でも、人によっては感情がおさまらなくて、よけい相手に絡んでいってしまうのね。するとこれからは警察のお世話になる可能性が出てきちゃったわけだ。
②プライバシーをさらされたり、仕事に支障が出てきたり、家族に悪影響が出たり、具体的な問題がある場合。
・・・こうなった場合、私なら、まずは相手に自分の気持ちを言ってみる。「困るんだ」って。
(これも上記の通り、戦いから降りて、なるべく私の気持ちを主体に言うのがコツだ)
それでやめてくれたら、とりあえずはよしとする。
気持ちを言ってみて通じたならば、そんなに悪いヤツでもなかったのかもなと少し好意的に思えるかもしれない。
そして相手の反応を見ながら、
「じゃあ削除していただけますか?」と平和的に解決する可能性が見えてくるかもしれない。
「私は困ってるんだ」って。なるべく主語を「私は」にして、相手に働きかけてみることで。
もちろん通じない相手もいっぱいいるわけで、
言ってみて通じない相手であれば、もっと他の方策や法的な措置を考えるかな。
でも、いきなりSNSサイト管理者や警察に行っちゃう前に、できることがあるわけだ。
それをやることで、あいつらが恐怖社会にしようとしているなか、少し社会の雰囲気を和らげることがでいるかもしれないわけだ。
なにより、自分で主体的に平和的に解決できた、と満足する。
そして自己肯定感、自信がついてくる!
私は人に期待しないんだ。
相手の良心に期待しない。
って書いたんだけど、
つまりは相手任せにしないで、自分から責任を見極めてどうするか決めるってことだ。
そうすることで、相手と本当の意味で気持ちが通じる可能性もあるということだ。
責任めちゃくちゃな状態で、もめて、相手に「こうしろ!」って感情的に言ってもダメなんだわ。
そういう状態で批判したり相手の良心に期待しても。
そして、だめなら警察ってなっちゃうと、もうあいつらの思うツボ。
自由にものが言えない社会へまっしぐらだ。
安全に主張するってことは、
相手任せにしないで、自分から平和的に働きかけられるか?ってことかなと思う。
現行の憲法があるうちは。
もう少し例をあげてみようか。
〈例2〉
最近、ウクライナの件で、YouTube動画などでどちらかの政府に偏ったお話をする人も多い。
コメント欄がけっこう炎上していたり、
あるいは逆に、こわいくらいに似たような応援コメントで統制されていたりする。
例えば自分がこういう動画を見て不快な気持ちになったとする。
この場合のテーマは:
動画の内容だな
それを決めて責任をとるのは:
相手。投稿した結果の責任をとるのも相手。
自分に影響があるのか?それに対して自分は?:
不快に感じる。世の中に悪影響があって困ったもんだと思う。
この場合、相手の責任で相手の自由で、自分に具体的な影響がない。
気持ちの問題だけということになる。
この場合、強引に相手をやめさせようと一生懸命になりすぎると、もめてトラブルになるだろう。
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でも、コメントをオープンにしているならば、視聴者は、「こう感じた」と感想を言う自由がある。
そのコメントの書き方ももちろん自由なわけだけど、
自分の安全を重視するならば、
戦いから降りて、相手の批判ではなく、自分の気持ちだけをストレートに言うのが安全だろうな。
「おまえは○○の犬か!」とかって書いちゃうと炎上するわけだけど、
「私には、○○からの視点に偏っているように感じました」
とか。
でも、当然それに対してまたコメントがついて炎上する可能性はある。
これはコメントを投稿した者の責任だ。
そういうところにコメントすると選択したのは自分。
テーマ:コメントを書くかどうか
決めて結果まで責任をとるのは:自分
だから私なら、そこに参加する意義を感じなければ、何もコメントしないだろうな。
内容は動画投稿者の自由だし。
今は人々の認識の差がすごいし、
最初からそういった分断を目的にしている工作員もいるわけだから、
そういう動画コメント欄でがんばって、相手に「わかってわかって」、と主張するより、
自分のブログなりSNSで、気持ちや考えを書こうと考えるだろうな。
だから、YouTubeで動画を配信されてコメントをオープンにされるなら、
自分に発信する自由があると同時に、
視聴者も自由にコメントする自由があるから、
そこをOKできないなら、
コメントをオフにするか、動画の配信をやめるか、内容を考えるか、したほうがいいだろう。
トラブルを回避したいならばね。
(トラブル歓迎で、それを狙っている方もいるからなw)
「自分は自由にものをいうけれど、視聴者にはアンチコメントを書くな」と言ってる人もいるけれど、
これは責任の見極めができていないので、うまくいかないだろうなと思う。
こういうのが、相手の良心に期待しているというやつだ。
良心に期待するといっても、結局は支配なわけだ。「俺の期待どおりにしろ」と。
(そうすることが目的ならばアレだけど。。)
私なら、視聴者に求めるよりも、コメント欄を閉鎖するな。
だから
私は人に期待しないんだ。
相手の良心に期待しない。
支配になると、トラブルになるし、疲れるし、最終的には崩壊するし、
自分にも他人にも社会にとってもいいことないんでね。
人に期待しないというと、冷めたような、あきらめの境地のような感じがするかもしれないけれど、
じっさいは、逆だ。
戦いから降りて、責任を見極めて、
自分から主体的に措置を講ずる、相手に働きかける、
あるいは離れる。
ってすると、
・自分から相手に働きかけることによって、相手に気持ちが通じることもある。(無理な人もいる)
・離れるにしても、相手の自由を認めている。
ただ他人に迎合するのとは違う対等な心通う関係性が築ける可能性が出てくる。
相手も支配や依存でない、対等な関わりができる人であれば。(まだ少ないか?)
プロパガンダを撒き散らしてけしからんと感じる人に対して、言葉でいいきかせてもムダなんだ。
その結果まで経験させてあげることのほうが相手にとっては必要であったりする。
また自分が間違っている可能性だってあるわけだ。
わざとあいつらが情報を混乱させているわけだから。
そんな場合も、
「私は~ように感じました」
などと、あくまで自分の考えだけどと書いていれば、わりと安全なわけだ。
あとで新事実が発覚しても、「あのときはそう感じたけど、こうでしたね」と言いやすい。
でも「おまえは××!」とあまり攻撃的にやると、あとで苦しくなるだろう。
だから戦わないことは、自分を守ることなんだ。
みんな戦いから降りるというと、なんとなく負けた感じがすると思うんだ。
でも本当は、降りた方が勝つんだ。
〈例3〉
よくツイッターで見かける、だれかから「あいつは工作員だ」と書き込みされたというやつ。
それに対して、スクリーンショットをとって晒す人。
フォロワーに向かって恫喝する人。
こんなふうに言われましたとつぶやく人。
いろいろだ。
それに対して、味方してくれる人が加勢したり、はげましたりのリプをしているのをよく見かける。
テーマ:いわゆる悪口
悪口を言うと決めて結果まで責任をとるのは:相手
それに対して私は:
これは〈例1〉といっしょだな。
気持ちだけの問題か、具体的な問題が生じているか。
気持ちだけの問題だけだとすると、
わたしだったら、自分が工作員だと言われても、とくになにもしないだろうなと思った。
これも、他人が自分を攻撃しないこと、あわよくば自分を理解してくれることを期待している意識が根底にあるわけだ。
で、だれかに悪口言われたむかつく気持ちを、味方の人が励ましてくれて、回復させている。
「他人に心が左右されているあたし」ってのが、自分だったらイヤなのね。
工作員やら見ず知らずの人によって。
これだけでも、今の時代けっこう危険だと思う。
他人に心が左右されて、それによって行動しているというのは。
だから私自身は、どうぞ工作員認定でもなんでもしたらええ、という感覚でいる。
具体的な問題が出てきたら考えるけど。
自分を守りたいならば、最初から相手に期待しないほうが安全だ。
そして、最終的には結局、自分の感情をどうするか?だ。
そのアンチコメントに、その方の状態があらわれているのね。
人の言う言葉はその人の自己紹介だから、正体も内面も丸見えなわけだ。
(自分の使う言葉もまたそうなわけで平等だ)
世の中に対する見方、人との関わり方、どの程度幸せか、どういう人生を生きているのか、自分自身を伸ばせる状態にあるのか、マイナスに生きているのか・・・などなど。
たとえ短いツイートであったとしても、無数の情報がそこにある。
すると、自分のこれまでの観察では、攻撃的な人に、幸せそうな人っていないのね。
そうだよね。
自分が主体的に幸せに生きている人は、他人を攻撃することに精を出しているヒマはないし、そんなとこ見てないわけだ。
つまり、自分があんまりない人なわけだ。
この状態だと自分を感じて生きていないわけだから、相手の発信の意図や心も感じられないわけだ。
こっちの意図が理解できない人も大勢いるわけだ。
それじゃあ、相手にしたり、やり返す意味もないなとなってくる。
ただ、そういう状態なんだねと置いといてあげるのが、相手のためにも最善と思う。
また、プロパガンダや政治的な意図で誘導しようという発信からも、いろんな情報が読み取れる。
使われている人間のあわれがにじみでていたりもする。
だって、最終的に、あいつらのお望みどおりの結論に世論を誘導しなければならないということは、その人は自由ではないわけだ。
そして真相は時が経つにつれて明らかになってしまうから、ウソだったことも誘導してたことも、正体も、だんだんバレちゃうわけだ。
そして、自由に感じるままにモノが言えるって幸せだなって。
ここまで来ると、相手はどうでもよくなっているの。
感情的に楽になっているの。
で、自分の価値を高めるためにと発想すると、
いちいちこういうのにやり返すということは、自分の価値を下げると思うの。
他人を気にして、攻撃や挑発にのる自分というのは。
安全面以外のデメリットとして。
そうではなく、ネットなども、戦いから離れて、自分の気持ちや考えが、ご理解いただける方に伝わればいいなぁと、自分のそんな実感を感じながらやっていると、
自分のそんな意識が広がっていくって感じ。
分かりあえる方と共鳴していくって感じ。
それがうれしいって気持ちだ。
これは感情のプラスの満足。幸せ。喜び。
この意識が広がっていく。伝わっていく。
これが一番強くて叶いやすいんだ。そして広がりやすいんだ。
どうしても攻撃されればそっちの方が刺激が強く感じるから、意識が囚われてしまうけれど、好意的な人もいっぱいいるわけだ。
そこを見た方がお得だ。
へんなやつは放置して、いい人だけを見てていいくらいだ。
するとますます支持してくれている方たちのお役に立てたり、支持者が増えたりする。
結果、自分の価値は上がり、
悪口言った人の価値は、相対的に下がっていくわけだ。
だから、戦いから降りた方が勝つの。