◆ブログの立ち上げ主旨・・・そもそも、”すべてのしがらみから解放される” ことなどできるのだろうか、という課題を突き詰めていくと、スピノザにぶつかるのです。(ブログ2016年11月末アップ)。過去の思想家で、宗教批判をした思想家は、よく読み込めば、信仰などといって自己満足する群れにたいしての批判なのです。それは、戦い続けない限り、自己満足に落ちいって、生ぬるくなるでけであると、ましてそのような大衆の状況が政治がらみに固定化されてくると非常に危ないものに陥る危険があるということ、その人の思考、その集団の共同体をなしていく思考の危険な兆候を除外する戦い。◆仏教にはなくて(といっても日本の歴史の中では、俺のところが一番と争いも結構あったのだが)、欧米キリスト教に多いのは、それは神の言葉というものが人に委ねられてきたからであるということができる。プロテスタントは万人祭司を唱えたのだから。カトリックは、だから今でも教会を通さないと駄目だというのであろう。しかし、これは集団で神の救いが来るのではなく、ひとりひとりがまず、その位置に立たないといないとイエスは語っているのである。それは、頭で理解、知識で理解ということも重要だろうけれど、それ以上に今生にある自分の肉体で経験して、内言語で会得するというような経路を経ないと難しいようだ。あのM・ルターは神学には試練が必要だ,と言った理由でもあろう。◆欧米の哲学、そして思想、近代以降の心理学などは、必ずと言っていいほど、神が人を自分の似姿に創造した、人はその人をよく知れば神に近づけるであろうとの深層心理上の基盤を持っての追求であったといえるだろう。生ぬるさの除外の追求、キィエルケ・ゴール、ニーチェ、政治的には共産主義を唱えたマルクスが語った「宗教はアヘンである。」という言葉さえ、さらに「キリスト教の本質」を書いたホイエル・バッハでさえ、よく読めば、観念的に人と言う生きものが神の言葉を手中にしたと満足することのリスクをかなり強烈に内面打ち出すことによって、まさに言葉以上の歴史を動かすコトバに到達し、人間の地上の様々な相克の混乱の内にもそこを目指さなくてはいけないのだ、という神の摂理のなかにあると僕などは捉えてしまうのである。