marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(855回) 真理はあなたがたを自由にする・・・か

2021-05-07 09:44:32 | 思想・哲学

◆「真理はあなたがたを自由にする」これは、イエスが語ったコトバである。つぎのような言葉をご存じの方が居られるかもしれない。「私は道なり、真理なり、命なり」これも彼が語った有名なコトバである。小難しいことを考えれば、この文言にも様々なことが思いとして湧き上がってくるだろう。「道」と言うことばは、キリスト教でなくても「タオ」などと他の東洋の宗教にも出てくるが「真理」などは言葉では一般化でき科学的に何度も誰にでも検証に堪えうる事柄に真理と名付けられていたものではないかと。あるいは、これまた「自由」などは、それ以上に難しい定義であるように思われる。◆先、憲法記念日にアップした僕の好きな第97条基本的人権「・・・人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である。・・・」とある。生身の動物の種として生存するこの地上の人類の自由とは、ある基礎がなければ実はいかようにも解釈できよう内容でもある。(だからキリストの十字架は立つ、と僕は考えるのだが。)民主主義の国と言われるアメリカも多くの南から難民が自由を求めて国境を越えて押しかけて来る。シリアやミャンマーなどからもニュースで時折、流れるとおり世界に、過去幾多の試練に堪えと日本国憲法にあるけれど、未だもって試練を経ている国々があるということだ。◆月に人が行き、「はやぶさ」が五年以上も掛けて遠い星から帰還したという時代、瞬時に地球の裏側の声が聴けるという、そんなに科学が進歩したというのにだ。◆「しがらみ」をスピノザは「情念」と書いているが、その生き物としての意識するしないに関わらず思考にまとわりつく情念をそぎ落として、真に自由にはなるためには・・・とスピノザは考えたのだ。だから、彼の著作エチカなどを読むと、何のことやらで、数学の定理のようなことが書かれている訳である。その思いを推し量れば、それもこれは僕の情念というものになるか、心に熱いものがこみ上げてくるのだ。何事も言葉の始まりは希望をもつ、しかし、それは定着し一般化された言葉は違った意味を持ってきてしまう。デカルトの「我思う、故に我あり。」という言葉を、スピノザは、「私は思惟つつ存在する」とプロセスの中に真理を見ようとしたのです。それは、デカルトという(過去の偉人たる)人の結果系の発見ではなく、いつの時代も人と言うものが存在する限り(あなたにも)、その人の主体的思考がなされているその時に、誰でもは情念から自由になっているはずである、と考えたわけです。  考えればそれはそうだと思われませんか。対象は何にでもいい。自分の言葉で主体的に考えているとき、光が見え、あなは真の自由という解放を体験していることがわかるでしょう。


世界のベストセラーを読む(854回) 今生の隙をあたえない思考への厳密さ:スピノザ

2021-05-07 06:26:18 | 思想・哲学

◆ブログの立ち上げ主旨・・・そもそも、”すべてのしがらみから解放される” ことなどできるのだろうか、という課題を突き詰めていくと、スピノザにぶつかるのです。(ブログ2016年11月末アップ)。過去の思想家で、宗教批判をした思想家は、よく読み込めば、信仰などといって自己満足する群れにたいしての批判なのです。それは、戦い続けない限り、自己満足に落ちいって、生ぬるくなるでけであると、ましてそのような大衆の状況が政治がらみに固定化されてくると非常に危ないものに陥る危険があるということ、その人の思考、その集団の共同体をなしていく思考の危険な兆候を除外する戦い。◆仏教にはなくて(といっても日本の歴史の中では、俺のところが一番と争いも結構あったのだが)、欧米キリスト教に多いのは、それは神の言葉というものが人に委ねられてきたからであるということができる。プロテスタントは万人祭司を唱えたのだから。カトリックは、だから今でも教会を通さないと駄目だというのであろう。しかし、これは集団で神の救いが来るのではなく、ひとりひとりがまず、その位置に立たないといないとイエスは語っているのである。それは、頭で理解、知識で理解ということも重要だろうけれど、それ以上に今生にある自分の肉体で経験して、内言語で会得するというような経路を経ないと難しいようだ。あのM・ルターは神学には試練が必要だ,と言った理由でもあろう。◆欧米の哲学、そして思想、近代以降の心理学などは、必ずと言っていいほど、神が人を自分の似姿に創造した、人はその人をよく知れば神に近づけるであろうとの深層心理上の基盤を持っての追求であったといえるだろう。生ぬるさの除外の追求、キィエルケ・ゴール、ニーチェ、政治的には共産主義を唱えたマルクスが語った「宗教はアヘンである。」という言葉さえ、さらに「キリスト教の本質」を書いたホイエル・バッハでさえ、よく読めば、観念的に人と言う生きものが神の言葉を手中にしたと満足することのリスクをかなり強烈に内面打ち出すことによって、まさに言葉以上の歴史を動かすコトバに到達し、人間の地上の様々な相克の混乱の内にもそこを目指さなくてはいけないのだ、という神の摂理のなかにあると僕などは捉えてしまうのである。