marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

☕ 山のめぐみ、山菜を採りに行く

2021-05-11 18:06:43 | 日記

 ぽかぽか陽気、田舎の山に行きました。

   ワラビは山菜の王様か 小一時間で沢山とれました。

         帰りに道の駅によったら片手一握りくらいの量で150から300円もしてましたね。

         重曹であく抜きして、おいしく食べている最中です。おかかをとカツオ出汁をかけて。      

  これは山ウドです。茹でて酢味噌でいただきました。

  左はタラの芽です。右はサシボという山菜。これは至る所に群生。

           タラの芽は天ぷらなどがおいしいのですが、すべて光熱費は掛けずできる限り

                                素材の味を求める方針から、茹でてポン酢とゴマ味噌だれでいただきました。

                                庭を眺めながら、少々もいただいて、春の恵みに感謝しました。・・・


世界のベストセラーを読む(860回) (その2)”しがらみ”と戦う神学者の紹介:②田川健三

2021-05-11 08:04:15 | 思想・哲学

続きます。***「・・・人間はそれぞれの仕方で限界のある存在である。だから、人間を『聖』の水準に持ち上げてはいけない。人間を『聖』の中に閉じ込めてはならない。これを『聖書』に仕立てたのは、自分たちの組織に絶対的な権威を付与したいと思い続けてきた古代末期以降のキリスト教会のやった作業である。彼らは自分たち自身を絶対的な権威に仕立て上げたかったので、それで『聖なる書』を必要とした、というにすぎない。それだけのことなら『聖書』は教会の壁の中にとじこめておけばいいだけのことであるが、そうはいかない。これは人類古代の貴重な文化遺産なのである。・・・それはすべての人々に余計な粉飾なしに、ありのままの姿で公開されないといけない。・・・その後、人が書いている限り、多くの相互矛盾もあるし・・・いくら古代だからといって、ここまで質の低い文書を書くなよ、といいたくなるような代物も、あるいは、月並みを通り越していささか水準の低すぎる説教も、あるいは、こりゃひどすぎるよ、とはっきり言わねばならないものも、等などいろいろある。・・・」***◆ここで相互矛盾の例として弟子ペテロの物言いに対して、イエスの応答がマルコとマタイとでは正反対じゃないかと書いている。その箇所の田川の書き方も次の通り、まま抜粋する。****「相互矛盾の例をひとつだけお目にかける。マルコ8:27ー30並行。同じ事柄についてのイエスの反応をマルコとマタイが正反対に記している。ペテロがよせばいいのにイエスにむかって、自慢げに「あなたこそキリスト(メシア)です」と言ってしまった。・・・そのペテロに対してイエスが腹を立て、「そんなつまらぬ議論をするんじゃないよ、と叱りつけた」、とマルコ福音書の著者は記している。・・・このイエスは明らかに、自分が「メシア」と呼ばれることに嫌悪感を示している。(※僕はそうは読めないけれど、語学が達者ではないので、その意味するところはそういう意図を含んでいる言葉使いなのか?) ところが、マタイはマルコの記事を写しつつ、結論だけは正反対にひっくり返した。マタイのイエスはそのペテロを、「あなたは幸いである。このことをあなたに啓示したのは血肉ではなく、天にいます我が父(神)である」と褒めちぎった、と(16:13-20)。ここまで正反対に他人の文章の結論を作り替えるのだから、たいした度胸である。・・・」***(「新約聖書」 本文の訳 携帯版 作品社<p4> ”はじめに” から)◆面白いでしょ! 田川健三。