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marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(345回目)少々難しく「人格と人権」覚え書きⅡ

2017-05-15 20:44:01 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 初めに・・・僕らが世界史で学ぶフランスの人権宣言というものにも、日本国憲法に書かれている内容にも同じようにあるけれど、この国の憲法は、イギリス、アメリカ経由の人権理念から来ているので、その理念の源泉はフランスのそれとは異なるものであったことを知ることが、今、進めている議論です。
◆先の回に書きましたその差が13年ばかりでも類似があるが、そ相違もあり、その相違を聞き分けるために二人の論争について・・まずは、エドマンド・バーグの『フランス革命の省察』から、その一節にまとめられているといわれる文章を記載。
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◆「若干の人々において、われわれはたしかに偉大な自由を見る。大部分ではないとしても、多くの人々においては、抑圧的な、下劣な、奴隷状態を見る。だが、知恵がなく、そして説くがない自由とは、一体何であろうか。それは、あらゆる可能な害悪の中で、最大のものである。」
 *バークはフランス革命の根本問題をその革命が掲げる「自由」の中に潜む「罪」と見抜いた。さらに続ける。
「それは、あらゆる可能な害悪の中で、最大のものである。なぜならば、それはおろかさ、悪徳、狂喜であり、教導も抑止ももたないものだからである。有徳な自由が何であるかを知る人は、無能な頭脳がおおげさな言葉を口にすることによってそれを汚すのを、見るに耐えない。偉大な、誇らかな自由の諸感情を、われわれは決して軽蔑するものではない。それらは、心をあたため、われわれの精神を、大きく寛大にし、争いの時は、われわれの勇気を振るい立たせる。・・・・われわれはまた、人気をとるための小さな技術や工夫を、頭から非難するものではない。それは、多くの重要な目的の達成を促進し、人民の統一を維持し、精神をその行使の中で元気づけ、そして道徳的自由の厳しい要望のうえに、ときおりのはれやかさをまき散らす。・・・自由な政府を形成すること、すなわち、自由と抑制という、これらの対立的な要素を調合して、一つの矛盾のない作品にすることは、多くの志向と深い反省と、賢明な虚応力で総合的な精神とを必要とする。」・・・「しかし、以上述べたことがフランスの国民議会の指導者たちには見いだせない」・・・とバーグは言うのでした。・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(344回目)少々難しく「人格と人権」覚え書きⅠ

2017-05-14 20:00:34 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 東京神学大学学長を経験された神学者 大木英夫氏(ご健在です)の書かれた「人格と人権」-キリスト教弁証学としての人間学-(上・下)は、教文館から出版されている。氏の著作はいずれも全く抹香臭くない(と僕は思っています)、むしろ僕らが生き、動き、生活して(仕事を含め)いるこの世界に神はいかに拘わりたもうかと、常に欧米の歴史から広い視野をもってその本を著されている。僕も学生時代から影響を受けた。神学者K・バルトと論争したこれも神学者エミール・ブルンナー(一時、彼らはいずれも神学的には名高い方で象と鯨の争いと言われたそうだ)が日本に来られ、ICUで教えられておられたときに大木先生は教えを受けられ、その後、アメリカの神学大学でに留学されてR・H・ニーバーの最後の教え子となった方だそうである。したがって、ピューリタン研究と言えば、大木英夫先生ということになる。
◆突然、この本を書き出したのは、前の回に書いたカトリックの長女と言われたフランスが、歴史上、革命期においてもそうであるがキリスト教の影響がどうであったのかが同じヨーロッパ大陸内の大国でありながらはっきりと世界史上で出てこないからであると述べました。
その答えらしきことが書いてあったからです。
◆アメリカ革命(1776年)とフランス革命(1789年)
 その間わずか13年である。しかし、この時間的差は、地理的差、そしてその背後にある歴史的状況の違いとともに、決して無視できない。というのはアメリカ革命とフランス革命とは決して同じ「革命」にはめ込むことのできない「違い」がるからである。その違いを指摘しているのが、エドマンド・バークでありバークとペインの論争であった。・・・続く

世界のベストセラーを読む(343回目)あなたの隣人とは誰か(国家と人権)覚え書きⅢ

2017-05-11 20:39:41 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 表題に「国家と人権」などというとんでもなく難しそうな題を書いてしまったので、今までに考えていた気になる事柄を書き留めておきたくなりました。K・バルトも国家権力があらゆる「人間の人権」を抑圧するようになれば戦わねばならないのと述べていました。
◆ところでキリスト教と「人権」は切り離せませんが、これは調べるまでもなくそれらの歴史を覗くだけで察することができるかと思います。その歴史を調べると、ドイツ、イギリスのそれと異なりフランスは毛色が少し事なるようです。一応理系だったので受験科目に世界史はなかったのだが面白く自分でそれなりの学びをしていたが、ドイツは無論、イギリス、アメリカもキリスト教の影響下が基本にあって切った張ったの歴史の中であった出来事がそれなりに僕らの読む参考書から推測できるのですが、ことフランスになるといきなり啓蒙主義、フランス革命、ルソーの社会契約論とかが出てきて、これが同じヨーロッパであるのにキリスト教の影響がどのようにあったのかが僕にはそのつながりが今ひとつ掴めなかったのです。
◆一昨日、フランスの大統領で若いマクロン氏が勝利、女性候補のルペン氏は民族自決を叫んでいたが破れました。マスコミでは「ペストも嫌だがコレラも嫌だ」との風刺が流れいずれが勝っても嫌であるとの意味らしいが、これなどは、誰が何に対してそう叫んでいるかは歴史をひもとくと推測できそうです。
◆それで何故かと考えていると「人権」なのですがこれは日本の持っているその意味と異なり、ヨーロッパでは政教分離の中での大闘争の中で勝ち取ってきたという苦難の歴史でもあったからなのです。
「カトリック教会の長女」と言われたフランスでは革命の理念を実質化するために1875年体制の議会中心の共和制が安定させるために選挙での共和制支持権力が革命の原因でもある王党派(カトリック教会でした)との対決の末、勝ち取ったものだったのです。王党派がカトリックだと言うのは、歴史をしっかり知らんでもとにかくそれまで宗教が強いヨーロッパだから分かるかと思う。啓蒙思想で目覚めてきて、なにが何でも臍の緒を捕まれているような宗教(教育へも及んでいた)からは、そのしがらみを断ち切りたいと願った上ですべてのひとりひとりは、全く人間としての権利を持っているという考えとして勝ち取ったものだったのですね。これは僕らもそうだろうなと納得できそうです。この辺が僕はしっかり教えられた記憶がないがカトリックが反面教師の役だったのだねぇ。それだから、フランスは、その後哲学者も多く排出しているし、宗教としてのつながりが、ドイツやイギリス、その後のアメリカなどに対しても見えにくかったのです。積極的によい意味でのキリスト教の役回りを果たしていない内容は歴史から消えていくか・・・。
◆つまり「人権」のありよう、そのなりたちは内容は同じでも日本のそれとは大いに異なることを心して考えて行かねばならにことを思います。政教分離も宗教がすべてを占めていたヨーロッパと日本のように政治が宗教より強く、檀家制度を作ったり、国家神道を造ったりして国民に強要してきたこの国とのその成り立ちは異なることをよくわきまえておかなければならないものと思います。(キリストを宣教するためにも)
◆そうとすれば・・・一息つくように聖書に戻ります。ここまでくだくだ書きましたので宇宙大の大風呂敷を広げます。
 地上の人の種のうごめく成り立ち、宗教がらみの組織なども、つまりはそれらもすべてをすっかりまっさらにして神の目線で旧約の天地創造から、一介のヘブル民族を選民とし、そのしきたり、その歴史を通して何を神は我々に教えようとされてきたのかを、何度も何度も深く多様な意味合いで学んで行けば(無論、その目線で今を見つめる事からであるが)天に帰還するまで実に多くのことを教えられていることがわかってくるのではないでしょうか。ここに飛躍を書きますと、だだひたすらひとりひとりを天の永遠の御国に僕らを招きいれんがための歴史(無論、個人史においても)を歩んでいるということが察せられてくるのです。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(342回目)あなたの隣人とは誰か(国家と人権)覚え書きⅡ

2017-05-11 00:08:08 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 340回の脱線を除き、338回からの続きです。小難しい内容ですのが、キリスト者の国家、組織などに対する考えについてどのような態度決定をとるかについての神学者バルトの態度決定です。
◆神学者カール・バルトは、国家と教会についての態度決定は、第二次世界大戦のナチスに対する抵抗と戦後のハンガリー(1956年)のそれに対しての態度決定はなぜ異なるのかとこれも神学者エミール・ブルンナー(この方は晩年、日本に来られICUで教えられている)論争を挑まれています。(二人の神学論争は前にも書きましたが有名な話、論争内容は他にもありますが・・・)それは、先の回の「国家と教会」に対するバルトの考えが、ナチスとハンガリーの社会についてなぜ同じ抵抗ではないのかという、先の回に述べた内容への質問だったのです。
 ※とかく、キリスト者は全体を歴史認識をし始めると(神学的にと言わなくとも聖書を学ぶ人は、歴史について関心を寄せざるを得なくなりますから)その歴史の中から過去に学ぶということで、国家に対しても見張り番のような意識を持たざるを得なくなります。
◆それに対するバルトの考えは、僕なりにまとめると次のようになるかと思います。
 キリスト者は、国家は自分の住む基盤でもあるがそれに対し、教会がキリストの身体なる教会であるイメージであるならば、聖書を特に新約聖書を基に第一に学ぶべきであって、つまり万事を配慮しておられる神に訊けであるので自分の考えを総括的にイデオロギー議論に転化しない方がよい。大戦中当時は、多くの大衆がヒトラーのそれに同意し抵抗などの基盤を喪失していたのだ(これは「ドイツ人の謎」として論じた)。あらゆる人権に対する廃絶を行っていたことには第一に抵抗しなければならない(先の回参照)。最終自らを神の権威に置き換えようとすることになるからである。それに対し、1956年のハンガリーの一般大衆は国の体制がどうであろうとしっかり信仰を維持し健全な生活をしていた。社会主義体制どうのこうのというイデオロギー云々より、一般大衆にとっては実際生活でどうであるかが一番重要なことなのである。第一にメデアも大いに体制批判をしていたのである。こういう日常の(僕にとっては常に普段の、使徒たちにとっては日常の生活の基盤であるガリラヤ、つまり僕らにとっては日常の生活)が重要なのであると。キリスト者は抵抗する時は断固命を賭けても抵抗するのだ。あえて白か、黒かの波風を無闇にたてる必要はないと。
◆さて、国の体制云々から、表題のイエスの言葉に戻ります。
 表題は、正しくはルカ福音書第10章36節では口語訳で「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか。」です。この言葉の前に律法学者への例え話があります。「永遠の命を得るにはどうしたらよいか」とイエスに律法学者は問う。どのように律法には書いてあるかとイエスが尋ねる。それは専門家であるから、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と律法学者は答え、イエスはそのように行いなさいと返答する。ところがさらに律法学者は「では私の隣人とは誰か」とイエスに尋ねるのです。この物語だけでも多くのことを教えられますね。
◆僕らは、先を見据えたと思っている(自分だけかもしれないがという疑問は持たず)一つの大枠をつくり言葉に置き換え、それが架空の事であっても、目的意識を持つ。しかし、他の魂が関与している大衆(つまり、神の似姿に神が創造された人間)が関与しているのであれば、イデオロギーを振り回す前に、まずは(キリスト者は信仰によってと返答するだろうが)普段の生活に波風立てずに、基盤を持って(これは体制に甘んじて安穏と生きることではない)前向きに生活ができることを誰でもができる事を願い生活するべきであろうということです。イエスは「あなたの隣人は誰か」ではなく「あなたの隣人になったのは誰か」と律法学者に問うたのです。それは、いつもイエスが僕らに奨励している行為(考え)の言葉でもあるのである。・・・ 続く 

世界のベストセラーを読む(341回目)あなたの隣人とは誰か(国家と人権)覚え書きⅠ

2017-05-08 20:57:54 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
これは僕の覚え書きのまとめです。
 表題はルカによる福音書第10章36節イエスが律法学者に例え話の後に尋ねた言葉です。基本は、人間社会の形成にあたって(大層、大上段にに構えた物言いであるが)この言葉にあるように思われたからです。

◆神学者カール・バルトの国家と教会に対する考え
 第一、国家とは「人間の外面的な生活を規制するために人間によってつくられた秩序」である。この秩序は、その本質上、権力によって維持される。しかしまた国家は、国民が自由に国家に対して責任を負うことによって、維持されなければならない。そこで正しい国家とは、「その中で秩序・自由・共同性・権力・責任の概念が、均衡を保ち、その要素のなかの何れかか絶対化されて他の要素を支配しないような国家」である。しかし実際には、個人の自由が強調されて無政府的傾向を生じるか、権力が不当に強調されて圧政的傾向を生じる。この要素相互の関係の動く事が「世界史の意味であり、また無意味である。」よりよき国家とより悪しき国家について語ることはできるが、絶対によい国家もないが、絶対に悪い国家もない。
 第二、ロマ書は神に由来しない国家権力はないといい、ヨハネ黙示録は海の底から現れた七頭の怪獣が大衆を支配するという。「現実の国家は、その両端の間にある。地上には神の国もないが、悪魔の国もない。「地上では善も悪もすべて限界をもっているということが、キリストの支配の証拠である。ロマ書の13章と黙示録の13章は、注意深く、真剣に読んで、はっきりさせるべきものだ。すなわちわれわれがその両者の間に生きているということ、われわれに相応しくない態度で状況を悲劇的に考えるのではなく、われわれは冷静であるべきだということである。」
 第三、絶対に悪魔的な国家というものはないから、たとえ国家がそのような兆候を示し始めたとしても、キリスト者としては、直ちに肯定か否定か、賛成か殉教か、という形で捉えるより、「しばらく待って、事態を個別的に見ていく自由」を保留すべきである。ロマ書13章から始めるべきで、いきなり黙示録13章から始めるべきではない。明日の事態は今日われわれの考えているのとは違うかもしれない。明日のことを思い患うことなかれ。明日を思い患わないときに。われわれは落ち着いた心で明日を迎えることができる。「必要がおこれば、抵抗をしなければならないことはいうまでもない。しかし、なぜ神経質になり勇気を失う必要があろう。そのような気分からは、現在この国家の中でも、正義を行うことはできないであろう。
                           ・・・続く