marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(341回目)あなたの隣人とは誰か(国家と人権)覚え書きⅠ

2017-05-08 20:57:54 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
これは僕の覚え書きのまとめです。
 表題はルカによる福音書第10章36節イエスが律法学者に例え話の後に尋ねた言葉です。基本は、人間社会の形成にあたって(大層、大上段にに構えた物言いであるが)この言葉にあるように思われたからです。

◆神学者カール・バルトの国家と教会に対する考え
 第一、国家とは「人間の外面的な生活を規制するために人間によってつくられた秩序」である。この秩序は、その本質上、権力によって維持される。しかしまた国家は、国民が自由に国家に対して責任を負うことによって、維持されなければならない。そこで正しい国家とは、「その中で秩序・自由・共同性・権力・責任の概念が、均衡を保ち、その要素のなかの何れかか絶対化されて他の要素を支配しないような国家」である。しかし実際には、個人の自由が強調されて無政府的傾向を生じるか、権力が不当に強調されて圧政的傾向を生じる。この要素相互の関係の動く事が「世界史の意味であり、また無意味である。」よりよき国家とより悪しき国家について語ることはできるが、絶対によい国家もないが、絶対に悪い国家もない。
 第二、ロマ書は神に由来しない国家権力はないといい、ヨハネ黙示録は海の底から現れた七頭の怪獣が大衆を支配するという。「現実の国家は、その両端の間にある。地上には神の国もないが、悪魔の国もない。「地上では善も悪もすべて限界をもっているということが、キリストの支配の証拠である。ロマ書の13章と黙示録の13章は、注意深く、真剣に読んで、はっきりさせるべきものだ。すなわちわれわれがその両者の間に生きているということ、われわれに相応しくない態度で状況を悲劇的に考えるのではなく、われわれは冷静であるべきだということである。」
 第三、絶対に悪魔的な国家というものはないから、たとえ国家がそのような兆候を示し始めたとしても、キリスト者としては、直ちに肯定か否定か、賛成か殉教か、という形で捉えるより、「しばらく待って、事態を個別的に見ていく自由」を保留すべきである。ロマ書13章から始めるべきで、いきなり黙示録13章から始めるべきではない。明日の事態は今日われわれの考えているのとは違うかもしれない。明日のことを思い患うことなかれ。明日を思い患わないときに。われわれは落ち着いた心で明日を迎えることができる。「必要がおこれば、抵抗をしなければならないことはいうまでもない。しかし、なぜ神経質になり勇気を失う必要があろう。そのような気分からは、現在この国家の中でも、正義を行うことはできないであろう。
                           ・・・続く