marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(343回目)あなたの隣人とは誰か(国家と人権)覚え書きⅢ

2017-05-11 20:39:41 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 表題に「国家と人権」などというとんでもなく難しそうな題を書いてしまったので、今までに考えていた気になる事柄を書き留めておきたくなりました。K・バルトも国家権力があらゆる「人間の人権」を抑圧するようになれば戦わねばならないのと述べていました。
◆ところでキリスト教と「人権」は切り離せませんが、これは調べるまでもなくそれらの歴史を覗くだけで察することができるかと思います。その歴史を調べると、ドイツ、イギリスのそれと異なりフランスは毛色が少し事なるようです。一応理系だったので受験科目に世界史はなかったのだが面白く自分でそれなりの学びをしていたが、ドイツは無論、イギリス、アメリカもキリスト教の影響下が基本にあって切った張ったの歴史の中であった出来事がそれなりに僕らの読む参考書から推測できるのですが、ことフランスになるといきなり啓蒙主義、フランス革命、ルソーの社会契約論とかが出てきて、これが同じヨーロッパであるのにキリスト教の影響がどのようにあったのかが僕にはそのつながりが今ひとつ掴めなかったのです。
◆一昨日、フランスの大統領で若いマクロン氏が勝利、女性候補のルペン氏は民族自決を叫んでいたが破れました。マスコミでは「ペストも嫌だがコレラも嫌だ」との風刺が流れいずれが勝っても嫌であるとの意味らしいが、これなどは、誰が何に対してそう叫んでいるかは歴史をひもとくと推測できそうです。
◆それで何故かと考えていると「人権」なのですがこれは日本の持っているその意味と異なり、ヨーロッパでは政教分離の中での大闘争の中で勝ち取ってきたという苦難の歴史でもあったからなのです。
「カトリック教会の長女」と言われたフランスでは革命の理念を実質化するために1875年体制の議会中心の共和制が安定させるために選挙での共和制支持権力が革命の原因でもある王党派(カトリック教会でした)との対決の末、勝ち取ったものだったのです。王党派がカトリックだと言うのは、歴史をしっかり知らんでもとにかくそれまで宗教が強いヨーロッパだから分かるかと思う。啓蒙思想で目覚めてきて、なにが何でも臍の緒を捕まれているような宗教(教育へも及んでいた)からは、そのしがらみを断ち切りたいと願った上ですべてのひとりひとりは、全く人間としての権利を持っているという考えとして勝ち取ったものだったのですね。これは僕らもそうだろうなと納得できそうです。この辺が僕はしっかり教えられた記憶がないがカトリックが反面教師の役だったのだねぇ。それだから、フランスは、その後哲学者も多く排出しているし、宗教としてのつながりが、ドイツやイギリス、その後のアメリカなどに対しても見えにくかったのです。積極的によい意味でのキリスト教の役回りを果たしていない内容は歴史から消えていくか・・・。
◆つまり「人権」のありよう、そのなりたちは内容は同じでも日本のそれとは大いに異なることを心して考えて行かねばならにことを思います。政教分離も宗教がすべてを占めていたヨーロッパと日本のように政治が宗教より強く、檀家制度を作ったり、国家神道を造ったりして国民に強要してきたこの国とのその成り立ちは異なることをよくわきまえておかなければならないものと思います。(キリストを宣教するためにも)
◆そうとすれば・・・一息つくように聖書に戻ります。ここまでくだくだ書きましたので宇宙大の大風呂敷を広げます。
 地上の人の種のうごめく成り立ち、宗教がらみの組織なども、つまりはそれらもすべてをすっかりまっさらにして神の目線で旧約の天地創造から、一介のヘブル民族を選民とし、そのしきたり、その歴史を通して何を神は我々に教えようとされてきたのかを、何度も何度も深く多様な意味合いで学んで行けば(無論、その目線で今を見つめる事からであるが)天に帰還するまで実に多くのことを教えられていることがわかってくるのではないでしょうか。ここに飛躍を書きますと、だだひたすらひとりひとりを天の永遠の御国に僕らを招きいれんがための歴史(無論、個人史においても)を歩んでいるということが察せられてくるのです。・・・Ω 

世界のベストセラーを読む(342回目)あなたの隣人とは誰か(国家と人権)覚え書きⅡ

2017-05-11 00:08:08 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 340回の脱線を除き、338回からの続きです。小難しい内容ですのが、キリスト者の国家、組織などに対する考えについてどのような態度決定をとるかについての神学者バルトの態度決定です。
◆神学者カール・バルトは、国家と教会についての態度決定は、第二次世界大戦のナチスに対する抵抗と戦後のハンガリー(1956年)のそれに対しての態度決定はなぜ異なるのかとこれも神学者エミール・ブルンナー(この方は晩年、日本に来られICUで教えられている)論争を挑まれています。(二人の神学論争は前にも書きましたが有名な話、論争内容は他にもありますが・・・)それは、先の回の「国家と教会」に対するバルトの考えが、ナチスとハンガリーの社会についてなぜ同じ抵抗ではないのかという、先の回に述べた内容への質問だったのです。
 ※とかく、キリスト者は全体を歴史認識をし始めると(神学的にと言わなくとも聖書を学ぶ人は、歴史について関心を寄せざるを得なくなりますから)その歴史の中から過去に学ぶということで、国家に対しても見張り番のような意識を持たざるを得なくなります。
◆それに対するバルトの考えは、僕なりにまとめると次のようになるかと思います。
 キリスト者は、国家は自分の住む基盤でもあるがそれに対し、教会がキリストの身体なる教会であるイメージであるならば、聖書を特に新約聖書を基に第一に学ぶべきであって、つまり万事を配慮しておられる神に訊けであるので自分の考えを総括的にイデオロギー議論に転化しない方がよい。大戦中当時は、多くの大衆がヒトラーのそれに同意し抵抗などの基盤を喪失していたのだ(これは「ドイツ人の謎」として論じた)。あらゆる人権に対する廃絶を行っていたことには第一に抵抗しなければならない(先の回参照)。最終自らを神の権威に置き換えようとすることになるからである。それに対し、1956年のハンガリーの一般大衆は国の体制がどうであろうとしっかり信仰を維持し健全な生活をしていた。社会主義体制どうのこうのというイデオロギー云々より、一般大衆にとっては実際生活でどうであるかが一番重要なことなのである。第一にメデアも大いに体制批判をしていたのである。こういう日常の(僕にとっては常に普段の、使徒たちにとっては日常の生活の基盤であるガリラヤ、つまり僕らにとっては日常の生活)が重要なのであると。キリスト者は抵抗する時は断固命を賭けても抵抗するのだ。あえて白か、黒かの波風を無闇にたてる必要はないと。
◆さて、国の体制云々から、表題のイエスの言葉に戻ります。
 表題は、正しくはルカ福音書第10章36節では口語訳で「この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣人になったと思うか。」です。この言葉の前に律法学者への例え話があります。「永遠の命を得るにはどうしたらよいか」とイエスに律法学者は問う。どのように律法には書いてあるかとイエスが尋ねる。それは専門家であるから、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」と律法学者は答え、イエスはそのように行いなさいと返答する。ところがさらに律法学者は「では私の隣人とは誰か」とイエスに尋ねるのです。この物語だけでも多くのことを教えられますね。
◆僕らは、先を見据えたと思っている(自分だけかもしれないがという疑問は持たず)一つの大枠をつくり言葉に置き換え、それが架空の事であっても、目的意識を持つ。しかし、他の魂が関与している大衆(つまり、神の似姿に神が創造された人間)が関与しているのであれば、イデオロギーを振り回す前に、まずは(キリスト者は信仰によってと返答するだろうが)普段の生活に波風立てずに、基盤を持って(これは体制に甘んじて安穏と生きることではない)前向きに生活ができることを誰でもができる事を願い生活するべきであろうということです。イエスは「あなたの隣人は誰か」ではなく「あなたの隣人になったのは誰か」と律法学者に問うたのです。それは、いつもイエスが僕らに奨励している行為(考え)の言葉でもあるのである。・・・ 続く