marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(351回目)哲学者 シモーヌ・ヴェーユ 余韻 

2017-05-22 22:19:07 | 思想・哲学
 フランソワーズ・モレシャンという方が、NHKラジオでの再放送で語っていたこと。フランスでは、自分の意見をしっかりいいますがこの日本では、遠慮しているのかなかなか人々ははっきり自分の意見を言いません。なぜでしょうかと・・・。それは、フランスというお国柄、理性優先の啓蒙主義が力を増して宗教教育から人間の自立を奪いとったという歴史もひとつの要因があったからですとなります。(※ここだけの話、宗教から離脱し理性的な啓蒙主義が起こされてきた背景には、どこにも彼らの事は記載ないけれど、それは今でもだが・・・歴史の中で人類に普遍性を持つような動向が起こり始めている場合、僕は背後に天地創造の神を信じている選ばれし人々(ヘブル人→イスラエル人→ユダヤ人)の民族の、マックス・ヴェヴァーに言わせれば「エートス」、神学者大木英夫に言わせれば「イデー・フォルス」のようなものが働いていた人々の活動があったのだろうなと感じるようになった。なぜなら唐突に一人の人が論文書いても、大衆に盛り上げるエネルギ-というものが事前に無ければ歴史に残るような大きな動きにはならないだろうと思うからです。・・・だから背後で彼らの下準備がされていたと・・・旧約を読んでいくと今もそのようなことが行われているようだなと思われてくるのです。)さて、
◆たわいのない会話では、話をするが一つ大上段に構えて政治の話などは日常の会話には、自分の意見ということが出てこない。それはこの国の人々がどうのこうのと言うより、まずはそのように教育を受けて来なかったからでしょうと。ひとこと周囲と異なる言葉が発せられると、例えそれが正しいと思われることでも、その内容についての是非が問われない。「和をもって尊しとなす」が善いこととされてきて、ひとりで判断し責任を持つということが起こると、それはできないという無責任な事になっているのがほとんどであると思われる。「和をもって尊しとなす」であれば、法律はいらなくなる。それは、結局、人間が理解し、決め、行動をすること・・・つまり、どこまで行っても「人間学」(自己認識)の話に向かっていくからなのです。
◆とすれば、世界的なグローバル化が起こり、他の文化、伝統(しきたり)などが異なる人との交流はどうなるのかということで、この地上に生きている人としての共通な願いは最低限、守られるべしとして、人間が生きる権利としての「人権」というものが生まれてくることになります。このような普遍性をもちつつ、同時に「自分とは何か(自己分析)」が普段に行われていかないといけないものと思われます。詰まるところ、プロテスタントでは「罪」の問題を抜きにして、キリストを考えることはありえない。それは、神との関係が的外れになっている状態をいうが、決して道徳的な良心の問題に関わることが優先する事ではない。多くの人はこれでつまずく。むしろ「欠陥」といった方が適切か。
◆今、ヨーロッパで問題となっている移民の問題。ヨーロッパでの大戦以降の民族に対する考えの行き過ぎと僕は思う。「人権」問題と「人道」を混乱させているのではないだろうか。もし、それがキリスト教から来ているとすれば、大きな隙が出てきていると言わざるを得ないと思う。イスラムの人たちは、黙っていても出生率でまさっているから、今にヨーロッパはイスラム国の人々に蹂躙されるだろう。(是非は抜きにして・・・)
◆数年前、ISという言葉も周知始められたころだったか、フランスの若い女性二人が、IS集団にむかったと飛行場の登場ゲートを通り過ぎた映像がニュースで流れていたことがあった。ISの宣伝が盛んに流れていた時期だった。結局、乱暴されて殺されたそうだよ・・・。ヴェーユはフランス国を思い、イギリスの病院で食事を拒否して亡くなったそうだ。
もう一度、問いたい。あなたの隣人とは誰なのか。「よきサマリア人」と題がつけられている聖書にあるイエスの例え話ではあるが、それは、地上に人を創造された神がいつの時代も、すべてのしがらみから解放されて我々を招いている(神の)話なのである。なまじ「よき」などとついていると僕ら人間常識からの良心的判断が先行して、その言葉を理解するととんでもない常識に流されてしまうと言うことを理解しないといけないと思う。・・・ Ω