marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(586回) 僕らの日常と死者との繋がり、お盆に考える

2019-08-14 19:56:26 | 日記

 日本のお盆の時、死者が帰って来るという季節。

 世界で最初の原子爆弾がこの国に落とされた記憶がよみがえる日

 日航機が御巣鷹山に落ちた月

 そして、あの敗戦を覚える月 

 亡くなった多くの方々を覚える月

◆昨日13日、田舎のお墓とお寺に行ってきました。お墓は7月にもお掃除もしてきた。寺子屋という言葉があったとおり昔は、お寺は今の市役所のような働きもしたもの。お寺さんによって違うだろうが僕の生まれた田舎のお寺は、今は若い住職さんが跡を継いで、この夏にも朝の模擬お勤め参加や学習塾のようなことを少し、それから冬には餅つきなどをして子どもたちが来て家族で楽しむ。

◆しかし、以前のブログにも書いたけれど、山の麓にあるこの小さなお寺は、その頂上にネットでも検索できるが、結構歴史のある古い神社があってこの山の麓一体には、大きな石碑などがところどころにあって断然、神道が強かったのだ。それらの跡に、この国の昔の歴史を垣間見る。神仏習合や廃仏毀釈などという、今の若い方には何なんだというような、合流したり排斥したりの跡が見られるというその痕跡も見られるのだ。写真を添付しますクリック拡大。 手前は、廃仏毀釈時に首を切り落とされた六地蔵。奥に見えるのが最近立て替えられた六地蔵である。 

◆この日本にあること。仏教が根強く、そして多くの方がお墓参りにいくこと。先祖を思い、帰省により家族との繋がりに思いをはせること。何とは無く風習として、生き物としての心情として先祖の霊を敬い、命の大切さを思う季節。日本の多くのキリスト者は、これらの行いを「伝統、風習としてそこまで」と考える人が多いのではないだろうか。潔癖な人は断固拒絶するだろうけれど。

◆新約聖書使徒言行録。信仰熱心なギリシアにおいても使徒パウロが道ばたに(それはあたかも日本と同じように)拝んでいるさまざまな石碑が建てられているのを見て、本当の神様を教えましょうと声だかに話し出したのは、神様とは「人(が)作ったものではなく、天地を創造し人(を)つくった方である」ことであったのです。・・・